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2010年 02月 27日
●自由ラジオの偶然
今朝方、ヴァンクーヴァーにいる大榎淳(ちなにみ彼はオリンピックのためにいるのではない)からメールが来て、「ラジオホームラン」のオールドメンバーたちが、今日の午後4時から秋葉原にある彼らのスペースで「放送」をやることを知らされた。電波の放送ではなくて、Skypeとライブストリーミングの「Stickam」を使ったインタラクティヴなネット放送である。
ちょうどこの日の3時にサクラ・サンダース(Sakura Sanders)と会うことになっていたので、去年「製作」したHachintoshのDell Mini9を用意し、WiFiがつながる場所で会うことにした。サクラは、アメリカのマイクロラジオ運動の象徴的な存在となった「Prometheus Radio Project」のメンバーだ。わたしはこの局と創設時から関わりがあり、またたくまにアフリカにまでひろがったその活動に敬意をいだいてきた。彼女によると、アメリカのマイクロ・ラジオ運動は依然活発らしい。その余波は、南米にまでおよび、「小さな」ラジオ局を作るワークショップも開かれているという。
時間が「ラジオホームラン」の臨時「放送」と重なったので、4時少しまえ、早速ネットを開いてみた。すぐに「Stickam」の画面があらわれ、渡辺裕幸、前田敏行、福士斉、守谷訓光らの顔が見えた。1990年代の中頃に、ずっと続いてきた「電波」ラジオ局としての「ラジオホームラン」が終わり、しばらくして、「ネット・ラジオホームラン」が立ち上がったが、そのころは、ストリーミングで放送をするというと、サーバーを立ち上げなければならず、けっこう大変だった。まだLinuxはなかったから、SGIのIndyというUNIXマシーンに苦労してソフトをインストールして、ストリーミング放送をやった。いまは、フリーで使える「Ustream」や「Stickam」があるから、そんな苦労の必要はない。文字通り「誰でもが放送できる」時代だ。それは非常にいいことだと思う。
しかし、たぶんわたしが古いのだと思うが、ひとつのメディア活動をするとき、その技術にこだわり、なるべく既存の技術ではなく、自前の技術を使うということが頭から抜けない。
サクラ・サンダースによると、マイクロラジオのいいところは、「フィジカル」(身体的)な点だという。身体は、せいぜいのところ「歩ける距離」(walking distance)で機能してこそ身体である。ところが、それを地球規模に広げようとするとき、「帝国主義」が生まれる。テクノロジーは、「帝国主義」の道具にもなるが、身体を身体たらしめる機能も果たす。ネットは、グローバルな通信の能力を持っているが、それを使って、数人の人間が、非常に「個人的」な話をしたり、瑣末な映像を送りあうという使い方もある。そして、出来ることならば、その装置も自分で作りたい。
ただし、「Ustream」や「Stickam」ように、非常に自由な形での使用が許されている技術は、それを「標準」的にではなく使うことも出来るので、あまり技術を意識して、それに振り回されるよりも、使う方に意を用いた方が現実的だろう。
昨年、わたしのゼミで、ドイツに住むラジオアーティストのクヌート・アウファーマン(Knut Aufermann)とサラ・ワシントン(Sarah Washington)に「講義」と「演奏」をやってもらったのだが、そのときも、若干音にこだわる「演奏」のとき以外は、Skypeだけで済んでしまった。この技術が自前ではないからといって、使わない手はない。わたしは、Skypeをずいぶん昔から使っているが、近年の「進歩」には瞠目する。
「どこでも自由ラジオ」の条件は、ほぼ完璧なまでにそろった。これは、10年まえとは大違いである。1999年に渋谷の街頭でやった実験の記録があるので、見比べてほしい。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/radio/radioparty/nethomeless/
しかし、あれから10年以上たって、超新しいことを発見したか、創造したかというと、わたし自身は、停滞している。「ラジオホームラン」のメンバーたちの平均年齢はいくつだろう?
え? ケータイがあればラジオ放送なんて必要ない? そうかもしれない。しかし、ケータイでは、個々人の「重層的」関係は作れない――できるのかもしれないが、あまりない。それは、もともと個々人を「孤立」したまま(距離をおいて)つなげる、リモート管理には最高に便利な装置として生まれ、浸透しているのだから。
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2010年 02月 25日
●Oscar アカデミー賞の希望的予測
アカデミー賞の発表が近いので、ノミネートされた作品の試写会はいつになく混雑している。賞をどの作品が、誰が取るかはわからないが、結果を見ると、アメリカの「いま」と(若干の)「明日」が読み取れる。
賞の選考には、いろいろな「政治」と「経済」がからんでいて、作品の出来・不出来イコール賞というわけにはいかないのは言うまでもない。しかし、アメリカ映画は、どんな時代にもある一定の水準は維持してきた。こういうところが、アメリカ映画の面白さだ。
以下に、わたしの希望的順位でならべ、コメントを付してみよう。
●作品賞
◆プレシャス<もしこの作品が受賞したら、ハリウッドを見直す。これは凄い作品だ>。
◆ハート・ロッカー<この作品に落ち着く気配が強い。ポスト・イラク戦の社会的気分を見すえた傑作ではある>。
◆マイレージ、マイライフ<時代をとらえているし、いい作品だが、受賞理由としてこれぞという決め手に弱い>。
◆第9地区<面白いと思うが、シニカルな調子のものは(受賞の基準として)受けない傾向がある>。
◆カールじいさんの空飛ぶ家<アニメであるが、これを「作品賞」に入れて、アニメの受賞作品を『コララインとボタンの魔女 3D』あたりにするという手があるが、こちらはアニメでの受賞の公算が大だから、ここではパスすべきだと思う>。
◆A Serious Man [本邦未公開] <イーディッシュ演劇の古典『The Dybbuk』を下敷きにしている(とわたしは思う)作品だが、ちょっと「玄人」向き>。
◆17歳の肖像 <うまく作られているが、「作品賞」としては小品あつかいになりそう>。
◆イングロリアス・バスターズ <ナチスものはもう(受賞の基準として)古いし、(審査員に)ここまでの遊び心はない>。
◆アバター <これはなしだと思う。もしこれが受賞したら、完全に業界ないしは軍主導だ。この作品はいろいろ軍事的アイデアが詰まっているからね>。
◆しあわせの隠れ場所 <もしこれが受賞したら、アカデミーの面汚し。キリスト教右派はもういいでしょう>。
●主演男優賞
<ノミネートされたのは、ある程度、あるいは長年の「功労者」ばかり。基準がそうなっている。すると、長年の功績でブリジスかクルーニーかフリーマンということになるが、オバマ時代ということでフリーマンあたりになりそう。ただし、わたしは、今後の「大スター」の気配のあるジェレミー・レナーに獲らせたい>。
◆ジェレミー・レナー(『ハート・ロッカー』)<今後の「大スター」の目をしている>。
◆ジョージ・クルーニー(『マイレージ、マイライフ』)<1回助演賞を獲っている>。
◆ジェフ・ブリッジス(『Crazy Heart』)[本邦未公開]<5回目のノミネート>
◆モーガン・フリーマン(『インビクタス/負けざる者たち』)<4回目の候補、1回助演賞。すでに十分評価されている>。
◆コリン・ファース(『A Single Man』[本邦未公開])<色々獲っているが、オスカーの候補は初めて>。
●主演女優賞
<上と同じ理由で、実際にはサンドラ・ブロックかメリル・ストリープになるだろう。ブロックの演技は悪くないが、同じパターンだから、レベルからしたらストリープ。新人賞的な面を取り入れて、ガボリー・シディベになったら、これは、驚き。そうなってほしいが>。
◆メリル・ストリープ(『ジュリー&ジュリア』)<功績からも実際の演技からも、文句なし>。
◆ガボリー・シディベ(『プレシャス』)<マイナーではあるが、ハレの演技も出来ることを証明しているから、選んでも損はない。しかし、ハリウッドでは、まだそこまで驚きの選択はしない>。
◆キャリー・マリガン(『17歳の肖像』)<なかなかよかったが、突出度はいまいち>。
◆ヘレン・ミレン(『The Last Station』[本邦未公開])<うまいけれど、いつも顔が「エリザベス女王」だからなぁ>。
◆サンドラ・ブロック(『しあわせの隠れ場所』)<初めての候補というのも不思議なくらいのキャリアの人だが、上に書いた諸理由で、かんべんしてほしい>。日
●助演男優賞
<助演の方は、ビジネス志向よりも審査員の好みや匙加減が効く面があり、意外な選考がありえる。だだっと「功績者」が並ぶなかで、実質的にいい演技をし、一味他とちがうのは、クリストフ・ヴァルツ。希望的にもこれで行きたい>。
◆クリストフ・ヴァルツ(『イングロリアス・バスターズ』)<名実ともに最有力>。
◆ウディ・ハレルソン(『The Messenger』[本邦未公開])<本作についてはトレイラーでしか知らないが、実力のある人だし>。
◆マット・デイモン(『インビクタス/負けざる者たち』)<すでに「男優賞」を獲っているし、このくらいの演技はいつもやっているから、今回は遠慮してほしい>。
◆クリストファー・プラマー(『The Last Station』[本邦未公開])<この人にあげると功労賞になってしまう>。
◆スタンリー・トゥッチ(『ラブリーボーン』)<この程度の演技はほかでもやっているトゥッチだから、今回はありえない>。
●助演女優賞
◆モニーク(『プレシャス』)<今期最高の演技というとこの人。主役ではないから助演ということになるのだろうが、実力で評価されるのなら、断然彼女だ。彼女の演技経歴のなかでも本作のはずば抜けている>。
◆アナ・ケンドリック(『マイレージ、マイライフ』)<これは下手な演技なのだという意見と、いやこの感じを出せるのはなかなかだという意見とがある。わたしは後者。>。
◆ベラ・ファーミガ(『マイレージ、マイライフ』)<この映画では、彼女とアナ・ケンドリックのどちらを取るかで意見が分かれる。が、わたしは、ファーミガーはうまいが、彼女としては最高の演技ではないと思う。「功績」主義なら選ばれるかも>。
◆ペネロペ・クルス(『ナイン』)<「功績」を主導するのでなければ、今回はいいでしょう>。
◆マギー・ギレンホール(『Crazy Heart』[本邦未公開])<未見>。
●監督賞
◆リー・ダニエルズ(『プレシャス』)<作品として本当の評価をしてくれるのなら、ぜひこの人に。『プレシャス』は凄い作品だ>。
◆キャスリン・ビグロー(『ハート・ロッカー』)<元夫のキャメロンと受賞を争う形になったが、どっちかというのなら、こちらにしてもらいたい。キャメロンは、「企業」監督だが、こちらはもっと「個人」として作っている雰囲気がある>。
◆ジェームズ・キャメロン(『アバター』)<業界的にはこれで行きたいところだろうが、もう十分元は取ったんだから、いいんじゃない。しかし、受賞の気配はある>。
◆ジェイソン・ライトマン(『マイレージ、マイライフ』)<いい演出だったが、受賞する突出性がいまいち>。
◆クエンティン・タランティーノ(『イングロリアス・バスターズ』)<タランティーノとしてはこれまでもっといい演出をしているから、今回はパス>。
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2010年 02月 12日
●借金を返すこと
この数日、少し「借金」を返した。
「シネマノート」というサイトを立ち上げてからもう12年以上が経つが、自分が「編集者」兼「執筆者」(さらには実際のウェブマスターやウェブデザイナー)でもあるので、試写が連日続いたり、他事に時間をとられたりすると、タイトルだけ表示して、本文を保留にすることが起きる。
たまたま、読者のかたから督促があったりすると、その勢いをもらって書き上げてしまったりするのだが、さもないと、雑誌や新聞の依頼原稿を書くのにくらべれば、それを落としても、誰も痛まないだろうという意識がどこかにあるのか、延び延びになってしまう。
精神衛生的には、不義理な借金をしているようで、不健全このうえない。ときには、プレッシャーになることがある。書きたいと思いながら、書きかけのノートもあるからだ。もっとも、借金をいくらしても、平然としていられる人もいて、世の中さまざまだと思うが、わたしの場合にはそれができない。
ただし、昨年の11月以前の「シネマノート」では、おそらく「踏み倒し」になるであろうことが予想されるものが何本かある。そういうのをいちいち取り立ててくれる人がいればいいと思う一方、そのままで済めばいいなと思うわたしがいる。
「シネマノート」は、昨年12月から、これまでのスチル画像から、YouTubeの動画をリンクすることにした。文章の左に見える画像のサイズは大差ないが、そこをダブルクリックすると、YouTubeに飛び、動画が見える仕掛けにした。
スチルを動画からキャプチャーしたりすること(それ以前はそうしていた)をせずに、ただリンクを張るだけでよいので、その分仕事が楽になったが、YouTubeの映像はしばしばリンクが切れるので、しょっちゅうチェックしていなければならない。掲載しても、クレームがついて削除になったりすることがあるらしい。しかし、これだけYouTubeを初めとする動画サイトが普及してしまうと、版権がどうのこうのということを言っても意味がないと思う。
しかし、昨年「Wall Street Journal」が有料サイトを作った。かつて「New York Times」がそうしていたが、結局得にはならないことを悟り、フリーにした。「Wall Street Journal」は、その逆を行こうとしている。わたしの予想では、それはビジネスとして成功しないと思う。そもそも、根本的に「金」の意味が変わってきているからである。
そうだとすれば、「借金」とは何だろう?
https://cinemanote.jp/