久しぶりにアーツ・バースデイのためにストリーミング・ライブをやった。プラハのMichael CábとLadislav Zelenský に誘惑されて、埃にまみれていた機材をセットアップして、anarchyサイトに格納してあるIcecastサーバーでプラハとリンクし、(それしかできない)送信機パフォーマンスに体をはった。
「たったの10分間だから」と言われたが、ライブは短ければ短いほど失敗が許されない。失敗もパフォーマンスのうちという考えもあるが、彼らがわたしの音にコラボレイトし、チェコラジオとArs Acusticaの通信衛星回線で全ヨーロッパに流れるというのでは、まあ「普通」にやらなければならない。
時間が午前4時からだったので、わたしには、最適だった。コラボレイションの音がどういうものになったかはまだわからないが、わたし自身のほうは、久しぶりということもあって、とても解放された。いずれわたしの音と実演映像をアップしようと思うが、プラハのサイトはここである。
アーツ・バースデイ(Art's Birthday)というのは、FLUXUSのロベール・フィリウが、「1963年1月17日が1,000.000回目のにアートの誕生日だ」と決めるコンセプチュアルなパフォーマンスをやって以来、すこしづつ広がっていったイヴェントで、とりわけ、1990年代になって、カナダのハンク・ブルやウィーンのロバート・エドリアン(もともとカナダ人なのでこう発音する)らが電話回線を使ってネットワークを組むようになり、インターネットの一般化とともに、全世界規模で拡大した。
わたしは、90年代にハンク・ブルと知り合い(媒介したのは山本圭吾氏)、彼がヴァンクーヴァーから突然電話をしてくるところから、この毎年のイヴェントに加わるようになった。最初は、電話の音声やファックスの画像・文字を送りあうといったことをやっていたが、1995年以後は、インターネットのストリーミングを送りあうようになった。とはいえ、当時のストリーミングは、回線が細かったり、サーバーに荷重な負荷がかかって落ちてしまったりして、なかなかスムーズにはいかなかった。が、そのもたもたすることが面白かったし、ネットワークの実験がこの祭りのテーマでもあった。
が、それ以上に重要なのは、たとえたったひとりであれ、1月17日にアートの誕生を祝い、そして同じことをしている世界の他者とつながりあうことがアーツ・バースデイの基本である。むろん、つながるといっても、勝手にリンクするのであって、なんかの「事業」をやるわけではない。なにかをいっしょにやるとすれば、ある種の情念の共有というところだろう。これは、「自閉」が亢進するいまの時代でも、そうむずかしいことではないし、やってみれば、解放感がえられることうけあいである。
(2016/01/17)発作主義 (paroxysm) に生きる者は、特別のきっかけがないともとにはもどれない。昨年の8月15日いらい、ここにもどれなかったのも、きっかけがなかったからだ。
インタラクティヴな要素をあえて絶っているわたしのサイトの場合、オフラインで、「そろそろ発言したほうがいいんじゃない?」と、奇特なアドヴァイスをくれるひともいないわけではなかった。だから、素直にしたがえばいいのだが、そこが発作主義のやっかいさで、こういう場合は、かえって「逃げたい」というベクトルが働いてしまうのである。
しかし、長年刷り込まれた記憶というものがあって、いくら発作に生きていても、ふいに記憶がよみがえって、「帰郷」したいという気になることがある。わたしの場合、それは映画のようだ。今日(現地時間では10日)、第73回ゴールデン・グローブ賞の発表があり、「雑日記」を書きたいという気持ちに襲われた。毎度のことながら、この手のお祭りは、ひょっとしてというわたしの期待は果たされず、「こうなったら終わりだな」という結果になり、かえってなにかを言いたくなる。今回もそうだったわけだ。
このぶんなら、「シネマノート」のどこかにゴールデン・グローブ賞雑記を書き、その勢いで、じきに候補が発表される第88回アカデミー賞についても、昨年同様のページを作れそうである。
「雑日記」にもどるきっかけのもうひとつの要素に年賀状があったことも事実である。わたしは、年賀状を出すのをやめたうえ、いただいても返事を出すのもおこたっているので、「雑日記」と「シネマノート」での沈黙も手伝って、わたしが病院にでも入っているのではないか、あるいはもう死んじまったのではないかと懸念してくれているひともいたようだ。たしかに、時代をいっしょに生きた感じのひとたちが、よく亡くなる。でも、わたしは、「どっこい生きている」(という芝居がありましたな)。
夏以来やったことをふりかえると、結局、ひとことで言えば、DIY (Do It Yourself) にかかわることだった。わたしは、頭を使うことを生業にしているように見えるかもしれないが、もの心ついて、形になることをやったのは、思考や創作や文筆ではなく、物作りだった。要するに木を削ったり、ネジを止めたり、アルミ板に穴を空けたり、電線つないだり、電子部品を組み合わせたりするような、主として電気の工作である。頭で構想するよりも、直感のイメージにしたがって手を動かし、物を形づくることのなかで、ものを知るようになったのだった。
だから、年令とともに、書いたり、しゃべったりするよりも、物作りをしたいという発作がとめどもなくたかまってきた。いままで保留にしていた手のかかる物作りを手当たり放題にしはじめた。基本は弱電つまり電子回路の組立のほうだが、昨年の後半には、勢いづいてひとのうちの電気設備を直したり、水道工事までやってしまった。こういうのは、本当は免許がいるらしいが、微調整のレベルだからまあいいだろう。おかげで、送信機やセンサー回路の組立のほうはやりたいことの半分以下しかできなかった。こちらに関しては、あきらめの発作を呼び込む必要がありそうだ。でも、とめどもなくこちらに専念できる発作のきっかけが舞い込む可能性もないわけではない。
(2016/01/11)