「シネマノート」  「雑日記」top


2013年09月17日 3:04am
「アウラという魔術」
pic
 日経産業新聞のコラムを読んでいたら、「アウラの魔術」という文章があり、ワルターベンヤミンに言及していた。ところが、それが、完全な誤読と見当違いの文章なのである。以下に全文を引くが、大新聞がこんないいかげんなことを書いては困る。

 機械式自動巻き時計に見入っている。裏側にのぞき窓があって、歯車が動作している様子が何とも言えない感じを与えてくる。クオーツ時計に比べて・コストパフォーマンスなどはよくないが、独特の味わいがある。
 批評家のヴァルター・ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」と題した論文で「アウラ」という概念を打ち出した。絵画などの芸術品は「いま、ここ」にしかないという価値をまとっている。それは「空間と時間から織りなされた不可思議な織物」であり、魔術などに通じる「礼拝価値」を持っという。
 機械式時計は工業製品であり、オリジナルがひとつだけの芸術品とは違うが、それに感じる独特の魅力はアウラに似たものだと思う。1935年に初稿が書かれたベンヤミンの論文は、写真や映画などの複製技術による製品がそれ以前の芸術品に代わって大衆化時代を切り開いていくという予言だった。複製品を歓迎する論調である。
 ポスト工業化時代と言われる今、予言は当たり、複製品は世に満ちあふれ、デジタル化はそれを加速している。過剰なほどの複製技術時代に生きている我々にとっては、逆に複製品の中にアウラを見いだすことが楽しみになっているのではないだろうか。
 スティーブ・ジョブズがアップル製品に加えたのはアウラであり、それが彼の魔術だった。魔術が消えれば、製品も売れなくなる。

 ベンヤミンは、たしかに『複製技術の時代における芸術作品』のなかで「アウラ」について論じた。が、ここで言われる「アウラ」とは、(ベンヤミンの分析はユニークではあるとしても)普通の意味、つまり〝独特の雰囲気〟といった意味である。「アウラ」は、ベンヤミンの本書の翻訳(初訳は1965年)とともに流布したが、その時点でも英語系の「オーラ」は使われていた。ベンヤミンが言った「アウラ」はこのオーラと変わるわけではない。だから、これが、「オーラ」とでも訳されていれば、こういう不毛な誤解はまぬがれただろう。しかし、上記の文章の書き手は、どうもベンヤミンの本文など読んではいないようである。

 『複製技術の時代における芸術作品』をちゃんと読んだならば、ベンヤミンが、「アウラ/オーラの消滅」について語っていることを全く無視している。彼は、これまでの芸術は作品に「アウラ/オーラ」をまつわりつけていたが、「芸術作品が技術的に複製可能である時代の芸術」(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit)においては、そういう「オーラ/アウラ」が「消滅する」と言ったのだ。

 <複製技術のすすんだ時代のなかでほろびてゆくものは作品のもつアウラである>(高木久雄・高原宏平訳)。

 <「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性は、完全に失われてしまっている>。

 にもからわらず、この論者は、ベンヤミンが「オーラ/アウラ」にくわえたあたりまえの批判を、まるで新たな発見であるかのように誤解している。でなければ、「スティーブ・ジョブズがアップル製品に加えたのはアウラであり、それが彼の魔術だった」などとは言えないだろう。これでは、ジョブズにとってもかわいそうである。

 世の中には、ジョブズのコンピュータ類に依然として「オーラ/アウラ」しか感じないユーザーがいるのだろう。MacやiPhoneをお飾りとして、「礼拝的価値」として珍重するようなユーザである。
ジョブズのために言っておけば、彼は、そういう製品を作ったのではないし、またそのためにアップルの製品が売れたわけではない。そういう言い方は、アップルのユーザーに失礼である。

 アップルの製品は、まさに「オーラ/アウラ」(霊感商品性)を越えたからこそ、売れたのである。「オーラ/アウラ」を越えるということは、新しいユーザビリティを創造したということである。それが、もし、古典的な意味での「美」を「礼拝的価値」としてただよわせるとしても、それは、まだ「オーラ/アウラ」にしがみついている〝古い〟感覚のユーザの勝手な印象にすぎない。

 ベンヤミンがなぜ「アーラ/アウラ」とは異なるものに期待をかけたかがわからなければ、ベンヤミン以後の、つまり今日の文化も社会も理解不可能だろう。