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2013年07月05日
鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(書肆山田)

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 鈴木志郎康の新詩集を読んだ。彼は、<「活字になった詩」は実は「詩の抜け殻」にしか過ぎず、「生きている詩」は言葉を求めている人の頭の中にある>(『myb』、No.44)と言うが、この<頭の中>とは詩人自身の<頭の中>であると同時に読者の<頭の中>でもある。詩人には<抜け殻>になっても、読者のなかで生きなおされるのだ。
 鈴木志郎康の詩は、1960年代に『凶区』という同人誌で発表したもの以来読んでいるが、わたしにとって活字になった彼の詩は、観念の束としての言葉ではなく、映像と音としての言葉だった。その言葉の一つひとつが映像と音を喚起する。最初に手に入れた単行本『罐製同棲又は陥穽への逃走』(季節社、1967年)の一連の<プアプア>詩集は、猥雑な映像やアルバート・アイラーなどのニュージャズ(のちの〝フリージャズ〟)の音にみちみちていた。今度の詩集のタイトル「ペチャブル」は、
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で始まる「蒟蒻のペチャブルル」という詩から来ているのだが、この詩文からは、コンニャクのイメージと床に落ちたときの音がただよってくる。そして、その映像と音が、さらに抽象的な観念を喚起するのである。
 が、鈴木の詩では、具体的なものと抽象的なものとは振幅しあっていて、一方が他方に還元されることはない。「思いつき、国家的感情というやつ」とう詩は、一見、観念的なことを言っているように見えながら、詩人自身の息づかいや身ぶりや癖(イデオシンクラシー)がただよっている。
泣 み そ 嫌 見 テ 人 泣 み 
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