「シネマノート」  「雑日記」


2011年12月31日 (3:40am) JST

2011年の終わりに

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「シネマノート」も「雑日記」もさぼりがちのこのごろだが、理由は簡単。ネットに飽きてしまったのだ。飽きたらやめられるのが、自主メディアのいいところ。義理で続ける必要はない。が、2011年の終わりに際し、ネットに飽きた理由を考えてみよう。
一番の理由は、SNS (Social Network Service) の普及だろう。FacebookやTwitterを多くの人がやるようになり、ネットは、AIの自動システムに身を売り渡した。リンクをどんどん張ってくれるのがイヤなら、それをそのつど拒否すればいいのだが、肯定するのがデフォルトのシステムでいちいちNOをセットするのはめんどうだ。そんなことをするのなら旧来のWebでいいからだ。

いま、多くの人は、デスクトップ・コンピュータのブラウザを立ち上げてWebを見るよりも、スマートフォンでSNSを覗く。スマートフォンの小さい画面にすりよっているSNSは、当然、長い文章を嫌う。SNSを常用すれば、長い文章を1つ書き、読むよりも、短い文章をたくさん書き、読むことを好むようになる。

時流に乗るということなら、「シネマノート」やこの「雑日記」も、FacebookやTwitterに断章を分載すればいいのだろうが、それはやりたくない。とにかく、自分で構築したのでないデザインの枠のなかで表現するのは避けたいのだ。ほかに面白い方法があるかもしれないので、この正月休みにゆっくり考えてみたいと思う。

2011年は、福島の原発事故によって、日本にとってだけではなく、世界にとって時代を画する年になったと思うが、それによる変化はこれから顕在化する。

一番早く反応したのは、ヒキコモリ系の人たちだった。あくまでわたしの知り合いの範囲内のことだが、そのなかのヒキコモリ系の人たちは、一様に「放射能による体調不良」を訴えた。最近、ダルかったり、咳がひどくなったり、炎症がなかなか治らなかったりするというのだ。

それが医学的に信憑性があるかどうかはどうでもよい。この世界は、「われ感じる、ゆえにわれあり」であって、「客観性」などは意味がない。

ヒキコモリがいま、否定的・消極的にとらえられるにしても、どのみち10年後には、ヒキコモリが「普通」になり、20年後にはヒキコモリの彼や彼女が「支配階級」になる。80年代にはまだ、非難の対象だった「オタク」がいま「支配階級」であるように。

ヒキコモリは、内発的にあるいは突然変異的に生じたわけではない。ヒキコモリを生み出す環境として、まず、<ダメな奴はおとなしく家で引きこもっておれ>という暗黙の命令がある。資本主義システムにとって、1%が支配し、99%が嗜眠的状態にいるというのが理想である。

実際に、このシステムが高度化するにつれて、働きたくても働く機会をあたえられない人間の数は増えた。いま、企業で働いている人の多くは、ある種の「チャリティ」として働き口をえているにすぎない。働かなくてよいのなら、遊ばせてくれればいいのだが、そうはしないところが資本主義の矛盾である。労働が遊びに転化する(ワーカーからホモルーデンスへ)条件はすでに整っているのに、そうしたら資本主義ではなくなるからしないのである。

こういう条件のもとでは、いやいや働くか、さもなければヒキコモってしまうかしかない。ヒキコモリとは、ある種のストライキである。集団のではなく、個人で行なうストライキだ。

ストライキというのは、「連帯」して行なうものだったが、いま、「社会」が個々人の靭帯ではなくなり、ある特定の社会を背景にした「連帯」が不可能・無意味になった。形だけの「連帯」は組める(多くの「デモ」がその例だ)が、そこから特定の「社会」が浮かび上がっては来ない。

ヒキコモリには「社会」はない。何か靭帯のようなものがあるとすれば、リモートなネットワークである。今日のデモがTwitterやFacebookでつながっているというのは、実際にそうである以前に、その「連帯」が、かつてサルトルが言った「融溶集団」ではなく、あいだに「距離」と隙間を内包したリモートネットワーク的なものになったからだ。ドロっと一つになるのではなく、どんなに「熱く」結びあったとしても、その内部にシラッとした要素と空虚さを秘めている。

本格的なヒキコモリはデモには行かないが、リモートではネットワークを組んでいる。それは、自分で思い込めばメンバーになりうるフリーメイソンのようなネットワークかもしれない。だから、このネットワークは、いまの電子的なネットワークでは決して代替できない要素を持っている。

しかしながら、権力システムというものは、時代の趨勢を読み、自分を危機に落としうる要素を取り込むことによって生き延びる。ヒキコモリは、ある意味では資本主義システムの危機要因であった。が、それは、いま、SNSの普及によって回避されつつある。<ヒキコモリよSNSに集合せよ>、これがいまのシステムのスローガンである。

そして、今後20年のあいだに、SNSないしはSNS的なものが、これまでの「社会」(Society)にすりかわり、そういう形で組織されたヒキコモリが、「支配階級」になるというわけだ。

SNSの最初の「S」は、むろん、「Social」の「S」であるが、もし「Social」なもの(Society=社会)が有効性を維持しているのなら、あえて「Social」と言う必要はない。そういえば、「社会主義」は、「社会」の終わりから始まった。それは、資本主義の危機でもあったが、資本主義はそれを取り込んで生き延びてきた。だから、いまの資本主義にとっては、「社会的なもの」は不要なのである。

もし、今後「脱資本主義」的な方向が可能だとすれば、それは、SNSないしはSNSから出てくるものとは異なる連関をどう生み出すかにかかっている。