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2011年08月15日 (11:55 pm) JST
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放射性廃棄物の行方
イギリスのセラフィールド(旧「ウィンドスケール」)MOXプラントが閉鎖になるというニュースを伝えたが、現地のマスメディアが「ツナミのため」つまり日本の原発事故で需要が止まったためと報じているのは、正しくはない。というのは、問題のMOXプラントは、2008年の時点で大きなお荷物であることがわかっていたからである。たとえば『The Independent』の2008年3月9日号は、「
エネルギー相セラフィールドのMOXプラントの完全な失敗を認める」という記事のなかで、この施設が、4億7千3百万ポンドもの経費をかけて建てられたにもかかわらず、予定した年間120トンのMOX燃料の生産に成功せず、何と5年間で5.3トンの成果しか上げられなかったと報じている。
にもかかわらず、最近までその操業停止を決定できなかったのは、「正当な理由」が見つからなかったからである。つまり、福島原発事故は、その格好の理由になったわけで、この施設の停止は、何も日本が間接的に停止させたわけではなく、むしろ利用されたというのが事実なのである。このことは、ドイツの原発を停止させたのは福島だなどという奇妙な「誇り」を勝手に感じている人々が頭を冷やす事例にもなる。
むしろ、セラフィールドにとっては、日本からの放射性廃棄物の処理をもはや受入れる必要がなくなる。逆にいえば、日本は、原発の廃棄物の処理をセラフィールド(写真は、セラフィールドから列車で運ばれる「フラスコ」――廃棄物を「厳重」に格納する容器)に依存することが出来なくなる。おそらく、8年ものあいだ低効率にもかかわらずセラフィールドが日本の放射性廃棄物を引き受けてきた背景には、日本からの多額の「献金」があったはずである。さもなければ、日本はそれをどこにも持って行き所がなかったからである。では、今後、原発からの放射性廃棄物の処理はどうするのだろうか? すでに六ヶ所村などには何千トンもの廃棄物が積み置かれているというではないか。
日本の大企業のなかには震災を「理由」にリストラを正当化したところもあったらしいが、英国の企業や政府はもっとしたたかであり、日本流の感傷主義とは無縁である。その意味では、北ロンドンから発し、リバプールやバーミンガムまで波及した「暴動」も、管理強化(監視カメラのさらなる増強も含む)やある種の「社会活性化」のたくらみかもしれない。
とはいえ、今回の「暴動」には「ノー・フューチャー」を感じる。「ノー・フューチャー」は、70年代パンク(セックス・ピストルズ)のスローガンであったが、本当の「ノー・フューチャー」は、21世紀になって始まった。同じことの繰り返し、ニーチェの「永劫回帰」の現実化。北ロンドンのトッテンハムで略奪された店の一つに「BODY SHOP」があったが、ここで売られている商品は、「貧しさ」とは関係がない。生活にはなくてもよいような品物ばかりであり、もし「暴徒」がこの店を狙ったとしたら、よほど趣味がいい。要するに、「略奪」よりも、ただ壊せばよかったのである。
現地のある友人は、この「暴動」は、「いまの若者がもはや社会を必要としていない」ということを示唆しているという。スマートフォンやゲーム機のなかに社会がある世代ということなのだろう。が、わたしが思うに、むしろ、この「暴動」は、都市というものが生活にとって不可欠の場ではなくなったということを示唆するのではないか? すでにうんと昔、わたしは、電子メディアの浸透とともに、近代型の都市が終焉することを書いたことがある。人々は、砂漠のようなスペースに離ればなれに住むが、電子的なネットワークではつながっている。フィジカルな身体的な関係が希薄になれば、都市は終わる。いや、われわれは、ついつい「終焉」ばかりを問題にするが、新しい世代にとっては、それは、新しい「都市」の誕生かもしれない。
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2011年08月14日 (10:37 pm) JST
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「核」は見えなかった
10日ほど日本を離れていた。北イギリスのカンブリア州で2009年以来毎年開かれる
「F.O.N.」こと「Full of Noise」というフェスティヴァルに行っていた。
これについてはいずれ詳しく書きたいが、福島の原発事故と関係のある出来事に遭遇したことをまず書いておく。送信機ワークショップを終えた翌日の3日、アーティスト・イン・レジデンスの仲間のAGF、PHILIP JECK、Re-Dockらの面々と宿泊先の
ランタンハウスのロビーにいたら、ディレクターのジョン・ホールから、セラフィールドのMOX工場が閉鎖になるということを教えられた。彼がノートパソコンで見せてくれた
記事「ツナミで核ブランが閉鎖 (Nuclear plant shuts due to tsunami)」によると、日本のプルサーマル計画が頓挫したため、「英国で唯一にして、その唯一の顧客が日本の原発だったセラフィールドのMOX工場」が、立ちゆかなくなり、800人の労働者が失業するというのだった。日本のプルサーマルがかつて「英国最大の原子力事故」を起したウィンドスケールの後継セラフィールドに使用済み燃料を送り、MOX燃料にして再輸入しているとは知らなかった。
FONフェスティヴァルは、ユゥルヴェストンのランタンハウスのほかに、バロー・イン・ファーネスの公園内の
オクトパスの事務所、公園の庭園と池、少し離れたBluebird Club、エヴァンジェリスト派の St John教会の広範囲にわたる4箇所で行われたが、このすべてのエリアが、1957年のウィンドスケールの事故の際、「危険区域」に指定された。ちなみにここに掲載する地図は、1957年の「事故発生後2週間を経た」時点で日本の
『原子力委員会月報』の記事「英国ウインドスケール原子炉の事故について」に添付されていたものである。
この文書については、
福島原発事故についてのコメントのなかでも触れたが、この時点でこれだけ詳しい報告をしているのは、世界でこの文書だけだと思う。書いたのは、在英国大使館の「西大使」ということになっている。この事故については、1980年代になって詳細な事実が公開されたが、事故発生当初にこの文書に書かれていることは「機密事項」であった。また、福島の事故についていまだ詳細な事実が公開されない状態のなかで、
内閣府の資料として公開されている『原子力委員会月報』で原発創世期のデータが読めるというのは皮肉である。
1957年の事故当時、事故現場から200マイル(320キロ)圏内の牛乳が回収され、海中に(!)投棄されたというから、汚染のひどさが想像できる。200マイルというと、南はリバプールはもとより、バーミンガム近くまで、北はグラスゴーもすっぽりと含まれてしまう。「英国最大の原子力事故」と言われるゆえんだが、煙突から飛び出した放射性物質はプルトニウムであった。当時のウィンドスケールは、水爆の原料を作っていたのであって、その危険さは半端ではなかった。ジーン・マクソーリの『シャドウの恐怖』(浜谷喜美子訳、ジャプラン出版)によると、その後遺症は1980年代でも消えていないという。その意味で、ウィンドスケールの事故とその後の状況は、日本の汚染指定地域の今後を想定する例になるだろう。
わたしはそう思い、FONフェスティヴァルへの参加とともに、この旅行に期待をかけた。しかし、現地に来てみると、そういう痕跡はまったく見えなかった。むろん、セラフィールドは原発として稼働している。バローから列車で1時間半も行けば、海岸の手前のその姿を望むことができる。しかし、1957年の影はどこにもない。活動家はいないわけではない。しかし、旧汚染地域の町角や通りには全くその影がないのである。それは、あたりまえといえばあたりまえだった。
セラフィールドのMOX工場の閉鎖が話題になったので、現地の「普通」の人に話を向けてみたが、反応は、これによってこの地域の経済が傾くということへの懸念であって、脱原子力への動きを歓迎する気配は全くなかった。フェスティヴァルの関係者のなかにすら、わたしが「原発反対」だと言うと、「なぜです?」と不機嫌な顔をする人もいた。それを見かねたのか、わたしに小声で「ここではこの問題は微妙でねぇ」と忠告してくれる関係者もいた。
南カンブリアの地域は、ある意味でセラフィールドの原発で生活している人が多い。また、このエリアには、原子力潜水艦の核燃料工場や軍事施設・軍需工場もあり、原子力との関係は屈折している。そういえば、わたしのワークショップで一番先に送信機を完成した(エレクトロニックスに強いらしい)人は、あとで聞いたら、
BAE Systemsという軍需工場に務めているとのことだった。バローの駅から少し歩くと、「BAE」の文字を刻んだ窓のない巨大な建物がいくつもある。
そういえば、この地域には、FMもAMもラジオ局が他の都市より極度に少ない。電波が軍事のために規制されているのだろう。実際、2009年のFONフェスティヴァルでクルト・シュヴィッタースの「ウルソナタ」に着想した
「モルソナタ (MORSONATA)」というラジオアート作品を試みたクヌート・アウファーマンらは、彼らが出した電波を傍受されてやばい思いをしたという。とすると、ワークショップに参加したあの人は、様子を見にきたのかもしれない。
わたしが教会の会場でラジオアートのライブをやる日、ネットで北ロンドンの「暴動」のニュースを知った。市民を撃ち殺した警官の暴力に反対するデモがまずあり、それに便乗するかたちで略奪が起こったので、暴動=デモではないのだが、暴動はUKではよく起こる。暴動が起きるときは「自由」がある場合のような気がする。だから、バローでは決して暴動は起こらないだろう。この町で警官を見ることは全くといってなかったが、それは、町自体が軍の(事実上の)「管理下」にあるからである。