「シネマノート」  「雑日記」


2011年05月18日 (11:05 pm) JST

「体調不良で」

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気づいたら、5月も半ばを過ぎたのに、この「雑日記」に何も書いていないのだった。理由は単純、「日記」モードでない生活を送っているからである。試写もまた、どんなに努力しても絶対に全部を見ることができないペースがもどってきた。これで、予測されている首都圏直下地震や東海大地震などが来たら、試写室の椅子のあいだで潰されるなと思いながらも、依然停まらない放射性物質の飛散拡大を気にしながら街から街へ歩きまわっている。そのわりに「シネマノート」が更新されないのだが、5月になって大学も始まり、野暮用が多い。

講義といっても、いま関心を持っていることをあつかうことにしているので、おのずと原発とビン・ラディンの殺害の話になった。原発関係では、『シルクウッド』、小出裕章さんの柳井市での講演映像などを見せたところだが、これからオーストラリアでのイギリスの核実験の隠蔽問題をあつかった『グランド・ゼロ』、若きリュック・ベッソンの実験意欲あふれる第一作『最後の闘い』などを見せるつもり。ふと思ったが、例の『WALL・E』に出てくる地球は、原発事故で汚染されてダメになったらしい――WALL・Eがせっせとかき集めた瓦礫の向こうに原発の煙突がぼんやり見える。

ビン・ラディンの殺害を解説するCG映像があまりに「映画的」なので、1990年代から2000年代までの映画のなかの暗殺シーンをクリップして、比較する講義をやった。『シリアナ』から切り取ったUAV(無人飛行機)による暗殺のシーンが、いまの暗殺技術をよく押さえているので、そのシーンをプレイしようとした瞬間に一人の学生が外に出ようとした。「なぜいいところで出るの?」と(精一杯優しく)尋ねると、「ちょっと体調不良で」と言う答えが返ってきた。クリップは苦労して短く編集した数分のものだから、「体調不良でもこれだけは見ていってよ」と言おうかと思ったが、「体調不良で」というこの日本語って、なかなか抵抗し難いところがあり、そのままやりすごしてしまった。

東電や保安院の記者会見を見ていると、じきに「体調不良で」と責任者が退出しそうな雰囲気がただよってくる。この言葉が一般化し、ワイルドカードになってしまったのはそう昔のことではない。おそらく、福島原発の管理も、「体調不良で」の調子でやってきたのだろう。「体調」が悪いのを無理して「がんばれ」と言うつもりはない。サボるのはけっこう。「労働」なんかやめたほうがいい。が、「体調不良」という言い方には、確実に嘘があると思うのだ。事情はもっと複雑なのに、それを決まり文句で済ませてしまうという安易さ――というよりぞっとするような単純化と対話の無視――があり、そんなやり方を続けていると、やがてとんでもないことになると思うのだ。

そういえば、会社が問題を起したとき、記者会見で関係者一同が平身低頭(ときには土下座)するのも、「体調不調で」という紋切り型の言い訳と同じ精神風土から出ているような気がする。そもそも、あれは、テレビや新聞がその姿を報道するという前提でやっているのだろうが、いまや新聞やテレビは「公器」ではない。記者やテレビ屋は、われわれ一人ひとりを代表しているわけではない。そういう連中にむかって「謝る」というのもおかしい。もし、そういう身ぶりを見せるのなら、もっとパブリックな場所(どこかの広場とか)でやってほしい。やっていること自体、あまりに安易すぎる。こういうことが改められなければ、いまのサエない状況はかぎりなく続くだろう。え?あんたは? そう、学生の「体調不良で」を黙認してしまったのだから、わたしもマスコミと同罪だ。でも、どうする? 「体調不良で」と言われたら。