「シネマノート」  「雑日記」


2011年02月26日

アカデミー賞は小スクリーンの見栄えで決まる?

アカデミー賞の最終予想を書いたが、もう少し時間があれば、調べてみたいことがあった。それは、6千人もいるというヴォーター(投票者)がどういう環境で候補作を見るのかということである。

昨年、たまたま、スクリーンで上映されたアカデミー受賞作品の多くをDVDでも見る機会があり、ふと、劇場の大スクリーンで見栄えのする作品よりも、大きくても27インチ程度のモニタースクリーンで見栄えのする作品のほうが、受賞の確率が高いということに気付いた。

つまり、6千人のヴォーターの多くは、劇場の大スクリーンでよりも、自宅のモニターで見ているらしいのである。実際に、ヴォーターには、試写用のDVDが提供されると聞いている。全員が劇場の大画面、音響効果のよい環境で作品を観ているとはかぎらないのだ。日本でも、試写室ではなく、配給会社から提供されたDVDでレヴューを書いている人はけっこういる。外国映画の場合は、すでにDVDが発売されていることもあり、それを観てレヴューを書くことも可能だ。

いずれにせよ、アカデミー賞の場合には、小スクリーンでの評価が大スクリーンに勝つような気がする。とすると、たとえば今回の作品賞では、『インセプション』、『トイ・ストーリー3』、『トゥルー・グリット』は、すべて落ちることになる。『ブラック・スワン』も、たぶん、大劇場のほうがいい。

DVDとの比較をしていないのだが、『英国王のスピーチ』は、小スクリーンでもいけるのではないか? 『ソーシャル・ネットワーク』は、フィンチャーにしては、こぢんまりした出来で、ミニコンポでも楽しめる音とともに、残念ながら、その点でも有力だ。

『127時間』は、たまたまわたしが見た試写会の劇場の問題か、あるいはプリントのせいかもしれないが、映像の質の割に大スクリーンの映像は見栄えがしなかった。『ザ・ファイター』も、大きいスクリーンでしか見ていないが、あまりスクリーンの大小で評価がかわらないような作りになっていた。これは、映画として傑作だと思うが、それだけでは決まらないところが、アカデミー賞の面白さであり、あやしさでもある。

色々書き散らしたが、すべてはあと1日足らずですべてが決まる。結果が出たら、「総括」を書こうと思う。


2011年02月23日

「楽屋裏にひそむ無言のテクノロジー」

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アーティストやアクティヴィストの話を聞くと、アメリカの現状は「ひどい」という。ウィスコンシン州の知事のスコット・ウォーカーが労働組合の団体交渉権を剥奪するようなことをしようとしているのを見ても、わかるでしょうと言うのだ。たしかに、最新の統計によると、ニューヨーク市警 (NYPD) が2010年度に街頭で「誰何」(すいか)した通行人の数が60万1千55人だという。2009年度には、57万5千3百4人だったというから、3万人以上も増えたことになる。それだけ、警備が厳しくなったということだが、これは、「ひどさ」の一つに尺度にはなる。

しかし、状況がどうであるかは、管理や支配の状態だけでは決まらない。かつてミシェル・ド・セルトーは、『日常生活のポイエティーク』[Art de Faire, 1980](山田登世子訳、国文社)のなかで、たしかにフーコーは、「監視」のシステムが社会の隅々まで広がる動向を剔抉したが、にもかかわらず社会がすっかり「監視」のシステムに還元しつくされなかったのはなぜかと問い、実は、<「監視」の編み目のなかにとらわれつづけながら、そこで発揮する創造性、そこここに散らばり、ブリコラージュにたけたその創造性>、<楽屋裏にひそむ無言のテクノロジー>というものがあることを詳述した。つまり、どんなに全体主義的な状況が生まれても、そこで人々は自分たちのやりかたで現状を逆手に取っているのだというわけだ。

こうした「楽屋裏にひそむ無言のテクノロジー」は、この半世紀のあいだは、主としてテレビを舞台にして発揮された。人々は、「くだらない」テレビを見ながら、それを自分なりに「演出・再編集」して見、「再利用」してきたのであり、ただ「サイレント・マジョリティ」でいたわけではない。その反応は、シニシズムにみちたゴシップ談義に終わってしまうことが多いとしても、それがときおり「大衆」的規模の動きとしてあらわになることもあった。しかし、いま舞台ががインターネットというメディアに移りつつある。そして、そういう場としてのインターネットを軸にして状況を見ると、アメリカではなかなかしたたかのことが日々起こっているのだ。おそらく「チュニジア・インパクト」もこういう観点から考えられなければならないだろう。

pic 最新の情報によると、ウィスコンシン州知事のスコット・ウォーカーが、億万長者でこれまた悪名高きデイヴィッド・コッチのふりをしてかけてきた電話にまんまとひっかかり、「あらぬこと」をしゃべってしまったという。それをやったのは、Buffalo Beast のエディターで「ラディカル・ブロガー」のラン・マーフィーで、その録音とトランスクリプションを http://buffalobeast.com に公開してしまった。数時間後のいま現在、このネットへの接続は不能になっているから、急に大量のアクセスが発生したのだろう。ただし、その録音は YouTube にコピーされており、トランススクリプションも他所でも読める→たとえば AlterNet

インターネットは、テレビや新聞とは違い、「民衆」は黙って受け取るふりをして「無言のテクノロジー」をひそかに行使する必要はない。出し方はぎごちないとしても「対等」に発言・表現ができるようなメディアだ。このへんは、日本の場合、ネットがケータイ/スマートフォンの「蛸壺」にうまくたたみ込まれてしまい、依然として「無言のテクノロジー」を行使さざるをえない状況にある。が、少なくとも世界の動きを問題にするのなら、場としてのネットを軸にしなければ現状を語れない時代になったということだ。



2011年02月22日

チュニジア・インパクト

アカデミー賞の予測に入れ込んだが、いま、もっと真剣に考えなければならないのは、チュニジア・インパクトである。一人の青年の焼身自殺から起こった反乱→「エジプト革命」は、リビアに飛び火し、さらにはシリア、イエーメンに飛びつつある。ジャーナリスティックな予想は、この動きを1980年代末の東ヨーロッパにたとえ、アラブ・イスラム諸国全体の変革にまでドミノ効果を及ぼすとまで言う。おそらく、サウジアラビアが要になるだろう。もし、サウジアラビアにまで波及すれば、それは、ベルリンの壁崩壊以上の変化が起きることはまちがいない。その可能性がないわけではないが、当面、アラブ・イスラム諸国は、目先の改革によって危機を回避しようとするだろう。

しかし、まだあまり論じられてはいないが、チュニジア・インパクトからもっと根底的な影響を受けるのはアメリカではないか? トム・エンゲルハート (Tom Engelhardt) が「ポックス・アメリカーナ」(PaxとPox[梅毒]をかけている)のなかで鋭く指摘しているように、今度の動きのすべては、これまでアメリカが中東に対して取ってきた侵略的政策の最終的なツケである。アメリカの覇権主義は、ここで最終的なチェックメイトに直面した。イラク戦争で消耗し、アフガニスタンで膠着状態に陥っているいまのアメリカは、ほとんど軍事的介入ができない。

さらに、今回の動きで面白いのは、デモなどのスローガンには「失業」などの経済的不満が挙げられているが、今回の反乱の基底に、権威主義の否定や人権尊重への要求がある点だ。また、造反の動きが、組合や党や有力な指導者によって動員されたのではなくて、かなり発作的・自然発生的に起こっているのも面白い。ネットが有力な機能を発揮したのも、そうした動きが、イデオロギーや信仰による「融溶集団」によってではなく、バラバラの個人が距離(内的・外的/心的・身体的)距離を保ちながらネットワーク的、しかもトランスローカルにつながった(仮)「集団」によって推進されているからである。

こうしたトランスローカルな連動作用は、西側では、1999年11月のシアトル以来、周知のものとなったが、その波及は、911で抑止された。アメリカは、以後、こうした連動作用がなかなか起こしにくい体制を構築しようとしてきたが、それが、いま、完全に瓦解しはじめた感がある。その先駆的例として、ウィスコンシン州の州知事スコット・ウォーカーとその一党の「独裁」への反対デモが挙げられている。こちらは、目下、アメリカ国内である種のドミノ効果を起こしつつあるのだ。ここでも、その反対運動の根底に、経済を越える要求があるのが特徴である。

歴史的に反対運動は、生活の危機への反発によってささえられているようなイメージがあるが、事実は、経済的なロジックを越えているのであって、ある意味では、「観念的」なのである。実際、そういう運動をつぶす方の動きも、まさに「対テロリズム」戦争のように、何でそんなに不経済なことをあえてやるのかと思われるほど経済的利害を越えており、経済を度外視して進むのだ。だから、それに抗する動きも、「貧困」や「失業」が主張の前面に出ているときは、決して革命的な過激さを持たない。それならば、体制は改革で対処できるのであり、弾圧はするが、適度に生活条件を「改革」して、籐座をしのぐことができるからである。

トランスローカルな運動は、その観念性の強度が強く(つまりしっかりとした概念性に立脚していること)、非暴力を抜くことができれば、時代を画する本当の意味での革命になりえる。チュニジア・インパクトは、どこまでそういう方向を維持できるだろうか? 



2011年02月17日

試写の一期一会

周防正行の『ダンシング・チャプリン』の試写に行ったが、満席で入れなかった。30分以上まえに行ったのだが、「取材」で席が確保されているという。へ~、こっちも取材なんだけどと出かかったがやめた。わたしの「取材」は必ずしも宣伝効果があるとはかぎらないからだ。

この時期は、アカデミーの影響か、試写がふだんより加熱する。一昨日も『ツーリスト』の試写にあぶれ、溜池から京橋までタクシーを飛ばした。そのときは、予感もあり、すでに見る予定だった『四つのいのち』をオプションにしていたが、今日はオプションを考えていなかった。30分以上まえで入れないということはあまりないからだ。
配給の人は、「明日もありますから」とのことだったが、わたしには「明日」はない。試写を見るためには、野を越え、山を越え、「ヤマカシ」のような身軽さとエネルギーを使って会場に到達するから、2度同じ場所には行かない。

「シネマノート」をデーターベースのように使っている人がいるが、そんな「客観性」や「網羅性」は期待しないほうがいいだろう。「代表的」な作品を取り上げる傾向もあるが、基本的に、わたしが「一期一会」で出会った作品との文字通り「一期一会」的なアプローチでしかない。だから、すれちがいもよくある。たまたま運が悪くて、取り上げそこなった「大」作品は数多くある。昨年も、『キック・アス』のノートを書きそこねた。海外で見ていて、是非書きたいと思い、試写に行ったら、このときは満席のためではなく、わたしが途中で出てしまって、そのままになってしまった。試写がフィルムではなく、画質の悪いDVDの映写だったのだ。DVDを銀幕で見る気はしない。しかも、すでに一度見ている作品を。

しかし、試写は、今後、試写室や劇場での集団試写ではなく、ネット送信のような方向に行くだろう。そのまえに、パラマウントやウォルト・デズニーが始めているネットでの予約制が主流になり、ハガキでの試写状の送付はだんだんなくなっていくのではないか? 今日だって、ネットで予約した者を受付るのならが、わざわざ身体を運んだ人間の貴重な努力を無にしないで済んだのだ。

とはいえ、映画ビジネスというのは、(ハリウッドの人が言っていたが)博打・ギャンブルなのですな。そう合理的にはことは進まないのである。いま、1日の同じ時間に何本も試写をやり、その試写状を郵送するという「不合理」なことをやっている業界はあるだろうか? どこもかしこも合理化ばかりである。「ムダ」を切り詰め、遊びにはビタ一文出さないという傾向がどんどん強くなっている。そんななかで、映画ビジネスは、まだ遊びの要素を保っている。これは、貴重なことではないか。そして、こういう遊びの要素が失われたら、映画も終わるときかもしれない。実際、ネットで予約しなければならない試写というのは、ついつい見忘れる傾向がある。だから、ネットで予約をすすめる会社でも、試写状をやめたわけではない。

試写の一期一会のおかげで予想しない2時間の自由時間が出来たわたしは、銀座を散歩し、WiFiのある店で軽くビールを飲み、コンピュータを開いた。これも一期一会的・発作的に始めたアカデミー賞予想でまだ抜けている音楽部門について書き足そうと思ったのだ。それは、このページに書かれているのだが、いじっているうちに、これは独立させたほうがいいという気持ちになってきた。試写にあぶれたおかげで、最終的に「第83回オスカー・アカデミー賞が決まるまで」が出来た。さて、明日はどんな一期一会があることやら。



2011年02月12日

アカデミー賞の風聞的予想最新情報

作品で示された実力から判断するとこうならざるをえないという「合理的」な予想を書いたばかりだが、英語圏の風評はどうなのだろうか? 
ブロガーや批評家のサイトを流し見すると、助演男優賞→クリスチャン・ベールに関しては誰も異論がない。また、主演男優賞→コリン・ファース、主演女優賞→ナタリー・ポートマンもほぼ全員一致の感じだ。
わたしと大分違うのは、『ソーシャル・ネットワーク』の評価である。わたしはこの作品を評価できないが、大ヒットによる興業収益の大きさ、監督デイヴィッド・フィンチャーのこれまでの実績、ネット社会をあつかったトピック性などからすると、わたしの意固地な態度は、賞の実際的な予想には障害になることは十分わかっている。
助演女優賞に関して、『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドを挙げる人が多い。が、これに関しては、わたしの意固地からではなく、論理的にちがうのではないかと思うのだ。映画初出演に近いこの俳優はたしかにいい仕事をしたし、逸材だと思う。が、アカデミー賞は「新人賞」とは違うわけで、彼女がもらうのなら、この賞の選別方式が変わったとしか思えない。
以下は、風評(赤字)を加えたリストである。
作品賞→『英国王のスピーチ』→『ソーシャル・ネットワーク
主演男優賞→コリン・ファース(『英国王のスピーチ』)
助演男優賞→クリスチャン・ベール(『ザ・ファイター』)
主演女優賞→ナタリー・ポートマン(『ブラック・スワン)』
助演女優賞→メリッサ・レオ(『ザ・ファイター』)→ヘイリー・スタインフェルド(『トゥルー・グリット』)
アニメーション賞→『ヒックとドラゴン』→『トイ・ストーリー3
美術賞→『アリス・イン・ワンダーランド』→『英国王のスピーチ
撮影賞→『トゥルー・グリット』(ロジャー・ディーキンス)
監督賞→デヴィッド・O・ラッセル(『ザ・ファイター』)→デイヴィッド・フィンチャー(『ソーシャル・ネットワーク』)
編集賞→『127 Hours』(Jon Harris)→『英国王のスピーチ
メイクアップ賞→『Barney's Version』→『ウルフマン
視覚効果賞→『インセプション』
脚色賞→『Winter's Bone』
オリジナル脚本賞→『英国王のスピーチ』(デイヴィッド・サイドラー)



2011年02月10日

アカデミー賞の「合理的」予想→最新情報

今月末に第83回アカデミー賞が決まる。お祭りだから、必ずしも実質とはちがう。希望的観測がどうしえも入るが、なるべく「合理的」な予測をしてみよう。実際の選抜には、いろいろな事情や係数が入って来るから、当たるも八卦、当たらぬも八卦だ。思いついたことがあったら、ヴァージョンを重ねていく。当面は以下の通り。ドキュメンタリーや外国映画など、見ていないものに関しては書いていない。
●作品賞→『英国王のスピーチ』
上位で賞を争うのは、『ザ・ファイター』、『ブラック・スワン』、『英国王のスピーチ』であり、『インセプション』、『127 Hours』、『トイ・ストーリー3』、『トゥルー・グリット』、『ソーシャル・ネットワーク』、『Winter's Bone』ははずれるだろう。アカデミー賞は、時代の空気を反映するから、ネットの本質をとらえそこなっているとしても、『ソーシャル・ネットワーク』という線は依然有力だが、そうなったら残念である。『ザ・ファイター』と『ブラック・スワン』のリアリティは、いまという時代と直接拮抗するわけではない。とすると、無難な線で『英国王のスピーチ』になる確立が高い。来年在位60周年をむかえる英国王室への挨拶もある。

●主演男優賞→コリン・ファース(『英国王のスピーチ』)
pic よほどのことがないかぎり、昨年に続いて2度ということはないから、ジェフ・ブリッジズ(『トゥルー・グリット』)ははずす。演技のレベルでなら、ハビエル・バルデム(『ビューティフル』)もジェームズ・フランコ(『127 Hours』)も悪くはないが、コリン・ファース(『英国王のスピーチ』)のほうが一般受けがする。ジェシー・アイゼンバーグ(『ソーシャル・ネットワーク』)は、うまいというよりキャラクターが彼に合っているだけ。ジェイムズ・フランコは、特に熱演というわけではない。

●助演男優賞→クリスチャン・ベール(『ザ・ファイター』)
pic エキセントリシティの演技ではジェレミー・レナー(『ザ・タウン』)が目を惹く。ジェフリー・ラッシュ(『英国王のスピーチ』)は手堅いが、今回突出しているわけではない(功績が加算されることはあるが)。マーク・ラファロ(『キッズ・オールライト』)も、同様。ジョン・ホークス(『Winter's Bone』)の演技の質は高いが、これはというほどではない。その点、クリスチャン・ベールは、彼の長い俳優歴のなかでも新しく感じられる役柄を創造した。もし彼が選ばれなければ、アカデミーの選考はでたらめである。

●主演女優賞→ナタリー・ポートマン(『ブラック・スワン)』
pic 「主演」ということでは、候補のなかでナタリー・ポートマンしか主役を演じてはいない。屈折した微妙な演技としてはアネット・ベニング(『キッズ・オールライト』)は高く評価できる。ミシェル・ウィリアムズ(『ブルーバレンタイン』)は、ほぼ同格。ジェニファー・ローレンス(『Winter's Bone』)は、大器を感じさせる主演だが、賞には早過ぎる。『Rabbit Hole』のニコール・キッドマンは、これまでと大分違ういい演技を見せるが、主演女優賞には地味すぎる。

●助演女優賞→メリッサ・レオ(『ザ・ファイター』)
pic エイミー・アダムス(『ザ・ファイター』)とヘレナ・ボナム・カーター(『英国王のスピーチ』)は似た位置にある。が、ともに優れた脚本・演出のもとで一流の俳優がこのぐらいの演技をしなければ、手抜きになるだろう。その点、独善的な母親役をユニークに演じたメリッサ・レオは有利である。ヘイリー・スタインフェルド(『トゥルー・グリット』は、事実上の主役なのだから、それを「助演」あつかいにしないほうがいい。いずれ主演女優賞を取るだろう。ジャッキー・ウィヴァー(『Animal Kingdom』)は、警察に狙われる強烈なファミリーの母親を圧倒的なリアリティで演じたが、「助演」にしては出場が少ないのでは? 演技の質としては凄い。

●アニメーション賞→『ヒックとドラゴン』
『イリュージョニスト』は、ショメの前作『ベルヴィル・ランデブー』にくらべると見劣りがする。『トイ・ストーリー3』はいいが、「3」なので、『ヒックとドラゴン』が有利。

●美術賞→『アリス・イン・ワンダーランド』
『英国王のスピーチ』や『トゥルー・グリット』のArt Directionは、自然である。『アリス・イン・ワンダーランド』は、Art Directionにかなりのウエイトがかかっている。『インセプション』も同様。が、にぎやかさを取って今回は、『アリス・イン・ワンダーランド』。

●撮影賞→『トゥルー・グリット』(ロジャー・ディーキンス)
pic 『ソーシャル・ネットワーク』の撮影が特にいいとは思えない。『英国王のスピーチ』は堅実。『ブラック・スワン』はこの手の賞の範疇からするとやや「実験的」。『インセプション』の金のかかった新しさは、有力だが、撮影の古典的技法をおさえながら、見事な映像を構築した『トゥルー・グリット』のロジャー・ディーキンスに歩がある。でも大家すぎるか?

●監督賞→デヴィッド・O・ラッセル(『ザ・ファイター』)
pic 『トゥルー・グリット』のコーエン兄弟は、旧バージョン(『勇気ある追跡』)をしっかりとおさえながらバージョンアップしはしたが、下敷きがあるので、パス。デヴィッド・フィンチャーは、彼の実力としては後退とわたしは思うので、取らない。そうすると、ダーレン・アロノフスキーかデヴィッド・O・ラッセルかということになるが、正攻法で撮った『ザ・ファイター』を取る。

●編集賞→『127 Hours』(Jon Harris)
「Film Editing」というなら、候補に入っている『ブラック・スワン』、『ザ・ファイター』、『英国王のスピーチ』、『ソーシャル・ネットワーク』とくらべて『127 Hours』の映像は評価の基準を変えなければならないだろう。こちらは、きわめて「実験的」であり、単なる目新しさにとどまらず、3D時代に「3D」対「2D」といった月並みな区別を一歩越えている新しさがある。いずれにしても、これが「Film Editing」の候補に入ったのなら、断然これを取りたい。

●メイクアップ賞→『Barney's Version』
『ウルフマン』の狼変身は「古典的」すぎるように見える。『The Way Back』は、時代の雰囲気を出す技術とエイジング(身体と物両方で)が非常に「自然」で技術の高さを感じさせるが、「自然」すぎるためか、「メイクアップ賞」に特筆できるのかどうかがわからない。『Barney's Version』は見ていないので、消去法でこれを選ぶ。

●視覚効果賞→『インセプション』
『アイアンマン2』が候補に挙がっているが、論外である。ヴィジュアル・エフェクツという点では前作『アイアンマン』のほうがよかった。『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』ならば、『ヒアアフター』のほうがいい。とすれば、『インセプション』しかない。候補作がまちがっている。

●脚色賞→『Winter's Bone』
アダプテーションという点では、『トゥルー・グリット』には旧バージョンがあり、そこから特別傑出した脚色がなされているとは思えない。『ソーシャル・ネットワーク』も、事実があり、特別のところはない。『トイ・ストーリー3』はかなりいいと思うが、『Winter's Bone』とどちらかといわれれば、『Winter's Bone』の奥行きと社会性を取る。

●オリジナル脚本賞→『英国王のスピーチ』(デイヴィッド・サイドラー)
よく書けているという点では、『ザ・ファイター』と『キッズ・オールライト』は双璧である。が、着想の面白さという点では、『英国王のスピーチ』に一日の長。『Another Year』は見ていないので、見当がつかない。こちらになるかもしれない。