「シネマノート」  「雑日記」


2010年 10月 31日

●ロンドンの日々(1)

久しぶりのロンドン。Cut & Spliceというアニュアル・フェスティバルに招かれてやってきた。暑くもなく、寒くもない快適な気温。

迎えに来てくれたSound & Musicのジョナサンに案内されたホテルは、チェーン店の一つだったが、イーストロンドンのブリック・レーンに近く、バーは遅くまで開いており、インターネットの接続(最初はトラぶり、フロントの人を悩ませる)もうまく行き、しばしの滞在には悪くないと思った。

予定を打ち合わせてから、機材と生活用具の整理をする。明日1日だけ自由な時間があるだけで、明後日からワークショップが始まり、4日にラジオアート・パフォーマンスをして帰る予定。

大分遅くなったが、夕食に出る。機内で2度食事をした。Virgin Atlanticは、サービスの「合理的」なカットをしているが、ネットであらかじめ「ヴェジタリアン」の指定をしておいたこともあってか、まあまあ食べられる食事が出た。

ブリック・レーンには、ベンガル料理の店が軒並みあるが、ホテルから5分ぐらいのところにパキスタン料理の店を見つけて入る。客は、ほとんどイスラム系の人。まわりはみんな大きなグラスでラッシーを飲んでいたが、ビールを飲みたくなり、たずねる。すると、「置いてはいないが、隣で買ってくる」という。これは、宗教上の理由ではなくて、ライセンスがないだけの話なのだが、いかにも異端者になったような気がしないでもなかった。しかし、店の中学生ぐらいの子が、「隣」(そんな店は見当たらなかったが)からビニール袋にビール瓶を入れていそいそと帰ってきたのが見え、異端者気分はすぐに消えた。

どこの国に言っても、ぼおーっと、窓外や室内を見ながら一人で食事をするのが好きだ。自分がいまどこにいるのかを忘れる。だから、その記憶は、時と場所を越え、いりまじり、ごたまぜになってしまう。言葉も、自分のジョイス的な内的独白(たぶん日本語)と英語とイスラム系の言葉などなどが混じりあい、夢うつつになる。



2010年 10月 08日

●おいおい(洋画の字幕版)

<洋画の字幕版は、他人の頭がじゃまをしてよく観えず、文字を追うのがやっとなので、洋画は日本語版で見せてほしいです>(映画を見せたあとの学生の感想より)

映画を見て考える授業を毎週やっている。毎回短い感想を書いてもらい、次週にその一部を(名前を出さずに)紹介する。日本では(いや、わたしの現場では)マイケル・サンデル教授のようなライブでの議論は無理なので、1週間の時間差を介した間接議論を構成するようにしている。それは、それなりに面白く、週を追うごとに学生との相互関係のなかで新しいテーマが浮き彫りになる。
が、たまに上記のような、この授業そのものを否定するような意見がある。狭い空間に「お客」をぎゅうぎゅうに詰め込んでいるわけではない。椅子を使うのも、クッションで床に座るのも自由だし、まえの方のフロアーはたっぷり空いている。しかし、この人は、最後列の、しかも他人の頭で前が見えないような場所(おそらく床の上)に座りこんでいたのだろう。見えなければ席を移動すれば済むことだが、その気はないらしい。
字幕が見えないということは、画面のディテールも見えないということになる。それを、吹き替えの声だけで済ませてしまおうというのだから、映画を見る気が最初からないということになる。
こういう人に、映画を大スクリーンで見るのと、PC上のDVDで見るのとは違うとか、字幕版と吹き替えとでは違うとか、まして、字幕に継承されている無声映画の要素とかいうようなことを説明しても無駄のようだ。
わたし自身が話す場所をまちがえているなという思いもあるが、他方で、こういう考え方がなぜ出てくるかに興味をいだく。アイコンをクリックすれば一通りの情報は与えられる習慣がこういう発想を生むのか、それとも、ただ身勝手なだけなのか・・・。



2010年 10月 06日

●おいおい(「デジタルシニア」)

<少子高齢化によって国内消費の先細りが懸念されるなか、電通などではネットを活用するシニアを、消費トレンドのけん引役を担う「デジタルシニア」と名付けている。彼らの行動様式には、新たな商品・サービスの開発や社会の活性化策を進めるうえでのヒントが隠されていそうだ。>(業界紙より)

デジタルメディアは、ジェンダーや年齢差を消去ないしはシームレスにする機能があるが、マーケッティングは、いまだに年齢差にこだわっているらしい。既存の「差異」をとっぱらったあたらしい指標を創造しなければならない事態なのに、これではおぼつかない。

そもそも、消費にせよ、あらゆる行動の単位が、いまや、個人、さらには個人のなかの複数で固定性のゆるい「TP」(テンポラル・パーソナリティ)に微細化しているのに、マーケッティングは、あいかわらず「常態的」なパーソナリティやグループを想定している。これは、「おいおい」というより、「やれやれ」か。