「シネマノート」  「雑日記」


2010年 09月 26日

●おいおい(「NYに1ドルピザ店」)

習慣的に取っているが、大手の日刊紙に読むべきものは少ない。単なる面白さという点ではスポーツ紙のほうが価格に見合うものを提供している。大手の日刊紙は、いまのままなら、いずれ、なくなるか、ニューヨークのVillage Voiceのようにフリーペーパーになるだろう。
日曜のある朝刊の1面に「NYに1ドルピザ店」という見出しがあったので読んでみた。マンハッタンの「2ブロス・ピザ」が「スライス、1枚1ドル」の販売を始めたというのだが、それが、ニューヨークの経済的困難を示す例として挙げられている。たしかに、いま、世界中で、半端に高いものが売れなくなっていることはたしかである。
しかし、いま進行しつつある値下げは、景気後退や経済危機のためというより、資本主義システムの新たな再編の結果である。
クリス・アンダーソンが『FREE フリー』(NHK出版)でわかりやすく解説したように、いまや「ビット経済」が稼動しており、「無料のまわりに世界規模の経済がつくれる」という発想が先行している。「無料のものよりよりよいもの」を売るためにかぎりなく無料のものを配るという傾向がどんどん進んでいる。
値引きは、そうした傾向への「優柔不断」なあるいは「しぶしぶ」の試みであり、その背景には「非貨幣経済」がある。
こういう動向を意識するならば、旧態然とした値下げ→不況という構図は成り立たない。
わたしは、それをよしとするわけでは全くないが、情報資本主義の段階に進んだシステムで、貧富の差が極度に拡大し、一方を見れば大不況時代なみの低落、他方を見れば依然バブリーな興奮が存在するという分裂状態が生まれるのは、自明の理である。
重要なのは、こういうアンバランスな状態のなかで生まれつつある新たな動向――むろん現状のシステムを終わりにしてしまう動向――を見ることだ。いくら危機をあおっても、そういう危機は来ない。本当の危機は別なところにある。ならば、どうせ危機をあおるのなら、スポーツ紙のように、最初から眉唾的にあおったほうが誠実というものである。


2010年 09月 10日

●おいおい (哲学と言語)

こんなタイトルのブログを始めたいと思うことがある。最近、ある雑誌を読んでいたら、以下のような発言に出会った。

「日本では、哲学というと何か特別に勉強するというイメージだけど、ヨーロッパでは普通にものごとを考える時のスタンスで、みんなが哲学している。欧米社会では、普段の生活に哲学が埋め込まれているんですね」。

これは「では教」(「日本では」/「欧米では」)の典型的なパターンではあるが、おいおいと言いたくなる。それは、「欧米では」哲学の言葉は、日本語の日常語と現代俳句の表現との違い以下の差しかないかもしれないが、じゃあ、日本で日常会話が出来る人が、「みな」俳句でも短歌でも、その意味を解するかといったら、ノンでしょう。

ただし、「日本では」黙ってしまったり、口数が少ないのに対して、「欧米では」口数が多かったり、いっぱしの屁理屈を言う人口が多いとはいえるかもしれない。が、それは「哲学する」こととは関係ないんじゃないの?