「シネマノート」  「雑日記」


2010年 08月 29日

●ライプチッヒの日々(6)

マイケルの注文は「ラジオパーティ」をやってほしいということだが、彼は、「ラジオパーティ」がどんなものであることがわかっていないらしい。「レクチャー」では、少しその「歴史」映像を見せた。そのヴァリエイションの一つである「ラジオ・ピクニック」も紹介した。
場所が既存のラジオ局で、(「ラジオ・ブラウ」が「自由ラジオ局」だとはいえ)普通のスタイルのスタジオで放送することが決まっているので、わたしはライプチッヒに来るまえから、本格的な「ラジオ・パーティ」は期待しなかった。25日に現場を見て、大きなコンソールが部屋の面積の大半を占めているこのスタジオでは「パーティ」は無理だろうと確信した。だから、わたしは、これならヴァーチャルで行こうと、今日までその準備をしてきた。
始まるすこしまえになって、マイケルが「ちょっと出てくる」というので、「どこへ?」と聞くと、「パーティだからビールなんかを買ってこなきゃ」という。え~、だけど、どこで飲むのと思ったが、わたしも飲みたいので止めなかった。
スタジオでラジオ・パーーティをするとすれば、スタジオのドアは開放されなければならない。空間だけでなく時間や習慣の壁も取り払い、ラジオ放送と遊びの空間・時間が溶け合う必要がある。
ビールのおかげで、最初、スタジオに何人かがビール瓶を片手に入って来たりもしたが、スタジオ内でモニターの音を出さずにヘッドフォンでモニタリングをしているので、番組に参加することが出来ず、すぐに出て行ってしまった。
わたしが準備したのは、ブライトンのオナー・ハージャー、ウィーンのエリザベート・チマーマン、ベルリンのラルフ・ホーマン、ユーブリックのクヌート・アウファーマン+サラ・ワシントンといったラジオアート関係の古い知り合いをSkypeで結び、リモートオンラインパーティをすることだった。現場のフィジカルな参加をベースにしたラジオ・パーティは無理だと思ったのである。
オンラインのリモートパーティは、みなが熱弁をふるったので、たちまち予定の2時間が来てしまった。途中、ネットでも流れる「ラジオ・ブラウ」の放送を聴いて、ベルリンのダイアナ・マッカーティがいきなりSkyapeで「介入」してきたので、パーティらしさが強まった。彼女も予定の参加者だったのだが、連絡が途絶えていたのだ。
しかし、「番組」が終わってスタジオの外に出たら、ソファーがある広いスペースにたくさんの人がいて、わたしとマイケルに拍手をしている。テーブルにはビール瓶がころがり、まさにパーティがたけなわなのだった。彼や彼女らは、このスペースでラジオを聴き、それをサカナにして盛り上がっていたのだった。だから、それならば、このスペースにマイクを置いて「ラジオ・パーティ」をやればよかったのだが、このラジオ局の連中は、頭が固く、マイケルも経験がないので、彼らを説得することができなかった。わたしはそれを予測したが、無理やりやっても意味がないので、わたしの範囲で出来ることをやった。しかし、これも「構造的カップリング」である。閉ざされたスタジオとデジタル空間のなかでも、一つの「共振」が起これば、それが別のフィジカルな空間(身体空間)と「カップリング」し、その「共振」が同時進行するのである。
その「共振」は、その後繰り出した近くのレストランでも深夜まで延々と続けられた。空間をいくつもシフトさせる「ラジオ・パーティ」もありなのだというのは、一つの発見であった。
http://www.radioblau.de/


2010年 08月 28日

●ライプチッヒの日々(5)

午後、ワークショップの機材をバッグに詰めてD21へ歩いて行く。早すぎたようなので、少し何かを食べておこうとあたりをうろつく。土曜なのでこのあたりのレストランは閉まっている。バーがあったが、入ってみると、タバコかシガーの煙がもうもうとし、ほとんどアル中的雰囲気の男たちが数人いて、こちらをじろりと見た。なるほど、ここには古いライプチッヒがあるように見える。しかし、肉系の大きなサイズの料理ぐらいしかなさそうなので、あきらめ外に出る。
ライプチッヒには、一見してヤク中らしい人間を見ることははとんどないが、アル中にはときどき出あった。アルコールの問題が深刻だという話は聞いた。それは、「社会主義政権」時代からの継続かもしれない。ある種ロシア的な影響もあるかもしれない。
雲行きがあやしくなったのでアイスクリーム屋の看板が見えたので入ったら、どしゃぶりの雨が降って来た。果物系が食べたいと言うと、愛想のいい女性が、「これが絶対」というので、アイスクリームのうえに生のチェリーがこんもり乗ったのを注文する。外をながめ、コーヒーの飲み終わったころ、雨がやんだ。
D21に行くと、マイケルも到着していた。すぐにワークショップのセッティング。これは、大体方式が決まっているので、苦労はない。それをマンネリでなくいかに、自分にとっても緊張度を保ちながら遂行するかが問題なだけだ。
終わりごろになってやってきたのがいて、特別にめんどうをみなければならなかったが、限定人数10人がすべて送信機を作りあげ、それぞれに送信実験をやり、ハッピーな顔をして引き上げた。毎度のことだが、リアクタンスがどうのとか、コルピッツ回路なのかとか、「専門的」なことを言いながら作る参加者は、たいていうまくいかないのは面白い。少し経験があるために、こちらの指示通りに作らないのだ。この日も、昔無線技師をやっていたとかいう「おじいさん」が一人いて、「ちょっと黙れよ」という感じでやっていたが、案の定、作った回路が最初作動しなかった。
ワークショップのあいだ、わたしのほうから理論的な話もするが、手技→DIYの話をしようと、「今日はゲーテの誕生日ですね」と切り出すと、その「おじいさん」を含めて誰もそのことを知らなかったのには、隔世の感がした。若い人が、ケータイで調べて、そうだそうだと言い、「そうなんだ」ということになる。まあ、8月28日がゲーテの誕生日だなんてことをいつも意識しているのは、わたしぐらいかもしれない。
面白かったのは、一昨日の「レクチャー」のとき、送信機の使い方として「コンテンツ」を送るのはつまらない、コンテンツがない方法で送信機を使う方が面白いのではないかという提案をし、送信機で干渉や発振状態を起こす簡単なデモを見せたのだが、そのとき来ていた者が何人かこのワークショップにも参加しており、彼らが、作り上げた送信機でそういう実験を始めたことだった。

夜は、マイケルの家でパーティだというので、一旦ホテルにもどる。バーのカウンターが見えたので、まずは生ビールを一杯。


2010年 08月 27日

●ライプチッヒの日々(4)

昼間、ときどき降る雨を喫茶店などで避けながら、周囲を歩き回った。人の数は少ないが、殺伐とした廃墟の感じはしない。なぜなのかは依然としてわからない。むろん、「ジェントリフィケイション」が進行しているということもある。古い建物のように見えても、1990年代に改装されたところが多いらしく、小奇麗な店なども大半は1995年以後に開店している。しかし、住居らしきビルが意外にちゃんとした風情なのである。

夕方約束の時間が大分すぎても姿をあらわさないので、出てしまおうと思っていると、夜の8時すぎになってやっとJan Brueggenmeierがホテルにやってきた。彼とは10年来のつきあいで、彼がヴァイマルのバウハウス大学の学生だったとき、Ralf Homannのゼミでわたしが講義とワークショップをやり、それに深くコミットして「人生を誤った」。アーティストにはならなかったが、UstreamやSkyapeなどというものがない時代に「pingfm」というストリーミング放送局を学内に開設し、数々のラジオアートイヴェントのオルガナイズをやった。彼の卒業論文の審査をしたので、ありていにはわたしの「教え子」ということになる。実は、明日彼は、卒業後住み慣れたライプチッヒを発ち、メルボルンに行く。わたしの知り合いのNorie Neumarkのところで4年間研究することになったのだ。
ホーマンのゼミにいたヤンの後輩のMareike Maageもヴァイマルからわざわざやってきて、3人で会食をした。彼女は、しばらく会わないあいだにすっかり「キャリアウーマン」風になった。ヤンくんだって、かつての「美青年」の面影は大分薄れた。
せっかくライプチッヒに来たのだから都心部も見てほしいと言われ、ヤンくんの車で「名所」を外から眺める。しかし、わたしは、今回観光には関心がないので、スラムとか廃墟とかを見せてほしいというと、彼は何ヶ所かそれらしきところへ車を走らせたが、彼が昔言っていた「シュリンキング・シティ」の雰囲気はない。
そこで、D21のマイケルから聞いた「ヴェヒターハウス」(Waechterhaus)をどうなの、と水を向ける。彼の目が輝き、車の方向を換えた。「ヴェヒターハウス」というは、D21自身がそうなのだが、いわば「スクウォッター・ハウス」の「合法版」のようなもので、空いているビルの「留守番」(Waechter)(補修や管理も含む)をするという条件で家賃を払わずに家に住む方式だ。どうやら、「廃墟」が見えないのは、そういうビルがすでに「「ヴェヒターハウス」」に転換されつつあるからかもしれない。こういう場所にアーティストやアクティヴィストが住み込むという傾向は確実に強くなっているらしいから、今後、「ヴェヒターハウス」から面白い文化(ラジオ局も含めて)が生まれてくる可能性はあるだろう。
http://www.flickr.com/photos/ssl_lues/2285319307/


2010年 08月 26日

●ライプチッヒの日々(3)

今日は「レクチャー」をしなければならないので、「心」を平静にすることにつとめようと思う。というのは、近年、わたしは「レクチャー」に飽きており、受けてしまってから土壇場になってやめたくなることが多い(ならば受けなければいいのに)ので、最初の約束を守り、相手に迷惑をかけないために最初の意識を持続させる努力をしなければならないからである。こんなとき、地震とか台風とか電車の事故とか(自分を納得させることができる)アキシデントが起きれば確実にドタキャンするだろう。
ライプチッヒには地震も台風もなさそうである。現場はホテルから歩いて行けるところなので電車の事故もなさそうである。
昼すぎ、ホテルのフロントの人に薦められた近所のギリシャレストランに行く。ひと気のない住宅街のなかにぽつんと建っている店なのに、なかは満員。奥では結婚披露宴のようなことをやっている。花嫁の姿が見えたが、映画の1シーンのように華やかだった。
魚介の料理を注文してすぐ食前酒の「ウーゾ」が出た。これですっかり気分は地中海モード。単純である。わたしは、一人でも二人でも多数の人といっしょでも、とにかくレストランで時間を過ごすのがこのうえなく好きだ。一人でいるときは、まわりの時間がわたしと関係なく流れていくのを眺めているような気分になり、飽きない。ある種の「映画」を見ている感じだが、そのあいだに料理が味覚を刺激する。きびきびと働き人をそらさないウェイターが気持ちいい。日本だとこのくらいの広さの店ならときには10人ぐらいのスタッフがいるが、ここではマネージャーを含めた3人が走るように働いている。欧米ではこれが普通。日本と何が違うのだろう?

6時まえ、会場のD21に行く。時計を見たらまだ5時まえなので面食らう。間違ったのかと思ったら、その時計が停まっているのだった。

7時すぎ、マイケルが司会をして「レクチャー」開始。ほぼ満席の会場を見たら、昔見た顔があった。2004年にミュンヘンでいっしょだったFriedrich Tietjen だった。あとで彼がいまライプチッヒに住んでいることを知った。彼は、ラジオアートの研究者でもあるが、以前、ブーフェンバルトの収容所で密かに進められた放送計画について書かれた珍しい本をいきなり送って来て驚かせた。そこには製作されたた使われなかった(没収された)送信機の写真も掲載されている。
最初は乗り気でなかった「レクチャー」も、自由ラジオからラジオアートまでのわたしの経験を話し、送信機をその場で作って簡単なデモをした。レクチャーを頼まれて躊躇するのは、依頼者が「学術的」なレクチャーを求めているのか、それとも「ショウ」風のレクチャーパフォーマンスを求めているのかがはっきりしないためであることが多い。無理ないしは強引な注文があれば、かえって反発して面白いことをしようと思うが、こちらが歳をとったせいか、相手も遠慮して無理な注文はしない。だから、自分で自分に無理を強いることで二番煎じをしないようにしている。
この日は、理論にも強い客が多かったので、「構造的カップリング」の概念を拡大した「理論的」な話も手ごたえがあった。打ち上げで行った近くのバーで、(いまどきと思もわれがちな)現象学のヘルムート・プレスナーを新たにコミュニケーション論の側から研究しているという「女の子」や、ギリシャ人でハイデッガーでもガタリでもなんでもござれの「ノスフェラトゥ」(ムルナウの映画に出てくる)みたいな顔の男と深夜まで議論して飽きなかった。こういうお客がいれば「レクチャー」も悪くない。
http://www.herkules-leipzig.de/index.html


2010年 08月 25日

●ライプチッヒの日々(2)

東京で「普通」より半日遅れぐらいの生活をしているので、7時間遅い時差のあるここでは、7時に早起きすると、東京で午後起きるのと同じことになり、わたしには理想的である。
6時半から開いているというレストランスペースに朝食を食べに行く。席に着くなり青年が近づき「コヒー?」ときき、諾を告げるとすぐに大きなポットを持ってきた。コーヒーをたっぷり飲み、ベーコンや卵・・・最後はフルーツのサラダにヨーグルトをかけたのを食べる。ふだんの食事のパターンを崩さないで済むのはありがたい。
打ち合わせのメールを送り、資料をチェックしてから、散歩に出る。東京の猛暑は飛行機のなかで忘れてしまったが、気温が20度程度というのは快適だ。
数年前、「統合」後のライプチッヒは、廃墟だらけだと聞いていたので、かつてのブロンクス的環境を期待したが、全然そういう気配は感じられない。地域にもよるのだろうが、むしろ明るい感じだ。すでにジェントリフィケイションの気配すらある。
昨日バーで話したとき、マイケルは、「ライプチッヒはドイツで最も貧困な都市の一つだ」と言っていたが、州が「Funk Now!」のようなイヴェントを助成すること自体、すでに変化の兆しではないか? むしろ、今後ライプチッヒにはアーティストなどがどんどん流入する感じがする。歩いていて目にした不動産屋の売家情報でも、値段はヨーロッパのなかでは極端に安い。

夕方、アンドレアスが迎えに来てくれて、市内の中央にある「Radio Blau」へ行く。案の定、「自由ラジオ」とはいえ、立派な事務所とコンソールがデンとあるスタジオから成る「普通」のラジオ局だった。これだと、放送は、どうしても「普通」になってしまう。
マイケルのイントロで始まったわたしへのインタヴューは、ごく「普通」のディスクールで始まり、自由ラジオからミニFM、さらにはラジオアートへと移ったわたしの関心を、すでにあちこちで書いた通りに話す。「平凡」なスペースがそういうことを要求したのだ。最後にラジオアートの話になり、馴染みのないリスナーのために何かやってほしいと求められ、(これも「普通」のスタジオを予想して)用意した音源をDell Mini9のHackintoshマシーンのDJソフトでミックスして聞かせる。音源は、昨年トロントで即興したラジオアート・パフォーマンスのものと、ポルトガルのポートのフェスティヴァルのために即興したものとの2つである。
10時すぎ、スタッフもいっしょに近くのバーレストランへ。すっかり腹がすき、日本の基準では大盛のパスタ(ペストのソース)をたいらげる。ワインは、「stark」(強い)という文字が冠されたピノノワールを取ったら、えらく芋くさかった。
http://www.ubermatic.org/?p=1261


2010年 08月 24日

●ライプチッヒの日々(1)

久しぶりのヨーロッパ。旅行は好きだが、飛行機がますます嫌いになり、直行便以外の旅は避けてしまう。が、ラジオアート関係の誘いとなると抵抗できない。
飛行機の乗り心地は、映画『アメリア 永遠の翼』の描く時代の飛行機よりも後退しているのではないか? 客席の階級差もさることながら、それに関係なく配慮のない機内のあの騒音は何だろう? 重工業時代の工場内と変わらない音環境を我慢させる強制空間。空港内も、911位後始まったセキュリティチェックは刑務所環境だ。
成田→フランクフルト11時間は何とか我慢したが、フランクフルト空港での5時間待ちは退屈した。とにかく、何時間も待たせておいて、空港内にはロクなレストランもない。

午後11時まえ、ようやくライプツィッヒ空港に到着、ロビーに出ると、今回のフェスティヴァル「Funk Now!」(さあ放送せよ!)の主催者のマイケル・アールツトと自由ラジオ局「Radio Blau」(青いラジオ)のアンドレアス・マーチの顔があった。
車に乗せられ、市内へ。疲れていないと言ったので、まずはスペイン人のバーレストランへ行き、打ち合わせをする。ワインがうまい。
深夜近く、リンドナウ地区のホテルに送られる。瀟洒なホテル。まずはネットの接続を確認。フロントでもらった暗証番号を入力するとWiFiがすぐにつながった。29日に予定している「ラジオパーティ」に出てもらう人たちにメール。
2時前、シャワーを浴びてベッドへ。
http://www.central-hotel-leipzig.de/


2010年 08月 15日

●書こうと思いながら書かなかったこと

ときどき、何で「雑日記」を書かないのかというメールをもらい、書く気になりそうになったが、文章が頭に浮かびながら、書くにはいたらなかった。
この1、2ヶ月間に、書こうという思いが浮かんでは消えたことを羅列すると――
ニクラス・ルーマンの再評価(むろんこちらの不明の反省)、Hachintoshのその後の実験、あいついで亡くなった梅棹忠夫、森毅、今野雄二の思い出、ディヴィッド・ロッジ『ベイツ教授の受難』(白水社)を読んで思い出した(この小説に出てくるアレックスという女性のようにわたしを困惑させた)あるギリシャ系女性のこと、雑誌『インパクション』の献本廃止、ある若きメディアアート研究者の来訪、期末試験監督をさせられた後の相変わらぬ不満、小倉利丸との富山での久しぶりの長談義、11月の「Cut & Splice」のためのメールインタヴューで、インタヴュアーのイタリア人とヴィレム・フルッサー論議になり、すっかり意気投合してしまったこと等々。