「シネマノート」  「雑日記」


2010年 05月 28日

●「雑日記をせめて月1ぐらいで更新してくださいな」

Kさんからこんな文章のメールをもらった。「K」といっても、「粉川」のKではない。わたしのもう一つの自我ではない。むろん、わたしのなかにもたくさんの自我がいるが、書き分けないでやっている。だから、わたしはわたしであり、わたしではないので、「わたしは・・」には、ご注意願いたいのだが、今回の「K」は、一応わたしの外部の他者である。
ずっと「雑日記」を書かなかったのは、おそらく、わたしのなかのわたしが多くなりすぎて、調整がきかなくなっていたからだと思う。それを何とか調整して二派に分けることができれば、「対話」なり「論争」なりが成り立つが、ばらばらだと、「日記」という形式は、そういう動的な「混乱」を形にするのに向いていないのだ。
その意味で、メールとか手紙というのは、そうした「混乱」をとりあえずなだめすかし、その相手に向かって「統一」見解を表明するのに向いている。
「雑日記」は書かないのに、「シネマノート」のほうは何とか続いているのは、こちらは、全体が断章から出来ており、自我がどんどん分裂して行っても、そのまま書き続けることができるからである。行き詰ったら、「◆」で改行し、別のことを書けばいい。しかし、「日記」を書くときには、「わたし」は(とりあえず)一つになっていないと、先へ進めない。

いまこの「日記」を書けるのは、Kさんに向かって書いているからである。

「日記」を書かないときは、おおむね、飽きっぽくなっているときかもしれない。

Kさんのメールのなかにあった「身体表現ワークショップ」だが、最近ちょっと飽きている。どんなゲストを呼んでも、何をやっても学生の反応が「暖簾に腕押し」であるのは、慣れているが、それよりも、自分では、「学校の先生」としてではなくやっているつもりだったが、全然「先生」を越えていないことに気づいたのです。
テレビなんかでも、「ワークショップ」が多い。かつて大学当局といつも喧嘩しながらやり抜いた講座も、いまでは、「身体表現ワークショップ」という安全な枠組みのなかに組み込まれたといえる。世間がやりはじめたのなら、それは世間にまかせればいいじゃないかという思いがどんどん亢進してきた。
そういう場合、一番簡単なのは、企画自体をやめてしまうことだが、すでに最終日まで済ませてしまった依頼をこちらからドタキャンするのは、頭でも剃らないかぎり無理ですね。それに、わたしももうちょっと「成長」した。

そこでふと思い出したのは、あの講座は、サイトのタイトルにもあるように、最初から「教室を教室でなくするチャレンジ」というテーマを持っていたということだった。これは、世間がまだ普通の「教室」を堅持していたときのテーマであるから、いま、世間が「教室を教室ではなくする」ことを始めたのだから、もしこのテーマを失っていないのだとすると、「教室でなくする」ほうに相当の強度をあたえなければならないだろう。わたしは、それを怠ってきた。
まあ、ここまで気づいて、でも、世間がやりはじめたのなら、そんなテーマはもういいじゃないのという気持ちと、もっと過激に行こうという気持ちとのあいだを揺れ動いているのが、実情なのだが、投げ捨てるのはいつでもできるので、先週から、わたしが司会とか進行をせず、ゲストにすべてをまかせるというやり方をとることにした。紙に感想を書かせるなんてのもやめてしまった。
しかし、それだけでは、ただの丸投げと手抜きだから、その代わり、Ustreamで「ライブ放送」をやり、閉ざされた空間を外部に向かって開く試みを始めた。これまでも、なるべく外部の「客」を導き入れる努力をしてきたが、ウィークデイの午後2時半すぎにのこのこ国分寺くんだりまで見物に来れる人は少ない。
おりしも、ストリーミング放送が簡単に出来るようになった。かつてわたしは特別のサーバーを立ち上げてストリーミング放送をやったが、いまはそんな必要はない。Ustreamは、警戒して使わなかったが、これは、いまや「自然環境」のようなものになりつつある。使わない手はない。
というわけで、わたしは、目下、ネットのライブ放送の「送信係」として、何とか「身体表現ワークショップ」との友好関係を維持している状態です。でも、これで過激に「教室を教室でなくする」ことができるとも思えないから。これもじきに飽きるかもしれません。いいアイデアがあれば、歓迎です。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/TKU/shintai/