「シネマノート」  「雑日記」


2009年 12月 28日

●Miya Masaokaと6次の隔たり(2)

昨日、自由が丘の住宅街にある不思議なレストラン「mondo」(かつて青山にあったクチーナ・トキオネーゼ・コジマにいた宮木康彦さんの店)でミヤ・マサオカと16年ぶりにゆっくり話をしてみて、彼女の茫漠とした、宇宙の果てまで広がっていくような「おっとりさ」というか、まわりが変わってもいつもそこにいるといった落ち着き、何かそういうものがジョージ・ルイスとのあいだを結びつけているような気がしたのだったが、同時に、いろいろな知り合いや友人の話を回想しあいながら、「6次の隔たり」というのは、「スモールド・ワールド」論の単なる思いつきではないなと思った。
「6次の隔たり」は、たぶん、ある種のこだわりや、知っている範囲で済ませてしまうある種の「閉鎖性」とも関係があるのではないか? そもそも昨日わたしが「mondo」に行ったのも、単なる偶然ではなかった。宮木さんが料理の新しい実験をつづけていて、是非その最近の成果を味わってみたいと思いながら、日がたって行き、何とか今年のぎりぎりにでも駆け込もうかと思っていた矢先に、ミヤから連絡があったのだ。たまたま彼女が横浜に仮寓していたということもある。が、それならば、横浜で会ってもよかったのだ。が、横浜と自由が丘はそう遠くない。このへんで知っている店といえば、わたしには「mondo」ということになる。
「6次の隔たり」は、すでに知っている関係のなかにある。もし、本当に人間関係が「6次の隔たり」で成り立っているとすれば、知り合いや友人は、すでに知っている人とどこかでつながっているはずだから、パーティで名刺をばら撒くようなことをする意味は全くなくなる。昔知っていた人を思い出し、連絡してみること。そういうことのほうが、世界が広がるかもしれない。
分厚いが極めて鋭く現代をプリズム状に書き込んでいる刺激的な小説『コレクションズ』(新潮社)の著者ジョナサン・フランゼンのエッセー集のタイトルが『How to be alone』というのは、「一人であること」が人間関係を切る方法ではなくて、人とつなげる方法であるということを示唆しているのかもしれない。まだ読んでいないのでわからないが。


2009年 12月 27日

●Miya Masaokaと6次の隔たり(1)

ときどき意外な人からメールをもらう。ウェブサイトやこの雑日記を読んだ人からのメールではない。もうわたしのことを忘れているだろうと思うような人からのメールだ。
ミヤ・マサオカのメールは、「わたしは以前ジェッシー・ドリューと結婚しており、あなたはずいぶん昔、家に何度か泊まったことがあります」という書き出しだった。それは、ひょっとしてわたしが彼女のことを忘れているかもしれないという響きの文章だったが、わたしが彼女のことを忘れることはない。
ミヤは、10年ぐらいまえから、サウンドアートの世界ではよく知られた存在であり、日本に八木美知依あり、アメリカにミヤ・マサオカありといった国際的に活躍する琴プレイヤーである。が、ミヤは、わたしにとっては、そういう存在とは別の忘れがたい人だった。
それは、1980年代だったと思うが、ジェッシー・ドリューという人が日本にやってきて、わたしに連絡をしてきた。当時はまだメールはなかったから、電話がかかったのだと思う。彼は、サンフランシスコで、ペーパー・タイガ-・ウェストという事務所を主宰しており、ニューヨークのパブリック・アクセス・テレビ局、ペーパー・タイガー・テレビジョンの西海岸支部のような役割を果たしていた。そのことは、ディーディー・ハレック(DeeDee Halleck)から聞いていたので、ジェッシーからの連絡は、必然的なことだったかもしれない。彼女の妻が日本人であることも聞いていた。
ジェッシーは、日本のミニFMの自由ラジオに関心を持ち、ラジオホームランのメンバーも加えて居酒屋で熱い話をした。彼は、そのとき、ミヤといっしょに彼女の故郷を訪ねるために来日したらしかったが、ミヤはわたしたちの集まりには来なかった。
それから、ジェッシーとわたしとのあいだで手紙のやり取りが始まり、1992年に初めてサンフランシスコの彼の家に行った。当時、彼は家から歩いて数分のDolby Labsにエンジニアとして勤めていた。いまにして思うと、わたしもあのころは随分体力があった。サンフランシスコに来るまえ、まずBanff Centre for the Artsでラジオアート・パフォーマンスとワークショップをやって10日ほどすごし、それからヴァンクーヴァーのウエスタン・フロントで似たことをやり、それから飛行機でひとまたぎのサンフランシスコにやってきたのだった。ここでも、ワークショップとレクチャーをやった。
このとき初めて、わたしはジェッシーからミヤを紹介された。日系の3世で、日本語はしゃべらなかったが、フルクサスや具体グループの活動に関心があり、刀根康尚のことなどを話したと思う。泊めてくれた部屋の隣から琴の音が聞こえてきて、「ああ、琴をやっているんですね」といった会話をしたことを覚えているが、そのときは、その後の彼女の活躍ぶりは予想できなかった。
ジェッシーが主宰した集まりには、自由ラジオに関心を持つ活動家やアーティストが集まり、ワークショップで作った送信機で臨時の放送局をたちあげ、のちに名づけた「ラジオパーティ」をやったのだった。このときの興奮をジェッシーは、「Pirate Radio」という文章で活写している。翌年ふたたびジェッシーに会ったとき、この文章を読んで自由ラジオに関心を持っている男がいるというので、会ったのが、のちにアメリカでマイクロ・ラジオ運動のスターになるスティーヴン・デュニファー(Stephen Dunifer)だった。
それからでも、すでに16年以上たっているわけだが、その間に、ジェッシーは、エンジニアをやめ、オースティンのテキサス大学のコミュニケーション学科に入り、学位を取って、いまでは、カリフォルニア大学のデイヴィス校で教えている。たしか、オースティン時代の彼の指導教授はジョン・ダウニング(John Downing)だと思う。ちなみに、ジョンは、ニューヨークにいたとき、ハンター・カレッジのコミュニケーション学科の科長をしており、Semiotext(e)のジム・フレミングなどにも講義を持たせていた。ディーディーとも親しい友人で、別に誰が誰を紹介したとかいうことではなく、不思議な「スモールワールド」(6次の隔たり――たったの6人を介して世界中の人がつながれる)の関係なのである。
ところで、ミヤとの関係は、ジェッシーというわたしの友達の奥さんという関係にはとどまらなかった。いつだったか、たしかハンク・ブルからだったと思うが、ミヤがジョージ・ルイスと再婚したことを知った。え、あのジョージ・ルイス。わたしは、ニュージャズのなかから飛び出した異才のトロンボニストにいたく惹かれており、ニューヨークで実演を聴いたこともある。そして、これまた「6次の隔たり」の関係なのだが、ニューヨークでたまたま知りあいになったジャッキー・レイヴン(Jackie Raven)から、やがて夫となるトロンボニストのレイ・アンダーソンを紹介され、話をしているうちに、彼は、シカゴ時代のジョージの幼友達で、いっしょにニューヨークに出てきた仲だというのだった。ジョージにパーソナルに会う機会はなかったが、やがてトロンボニストから哲学者へと変身をとげるこの深遠な人物が、ミヤの夫になるとは思わなかった。だから、ハンクの話は、それまで忘れていたミヤのことを思い出させたのだ。


2009年 12月 01日

●ウォーリーとイヴ

この「雑日記」に何かを書くと、すぐに鋭いメールをくれる畏友から、「貧困や格差に視点をおいた場合、日本の今後はどういうふうでしょう?」という質問のメールをもらった。わたしにはとうてい答えられそうにない質問だが、最近さっぱり更新しないので、刺激をくれたのかもしれない。
たぶん茂木健一郎先生なら、すぐさま答を出してくれるだろう。答だけなら。そうそう、茂木先生といえば、先日、『真幸くあらば』という映画を見に行こうと思ったら、試写状に、「あなたの脳内純愛が、ここから始まる」という茂木先生の推薦文があるのを発見し、急に行く気がしなくなってしまった。
「脳」とか「脳内」とかをつければありがたく見えるという傾向は、養老孟司先生あたりから始まったが、「10倍速く本が読める」というベストセラー本(複数あり)の基礎は、「脳」の最新理論にもとづく「フォトリーディング」だという。しかし、この手の本を本屋の店頭で卒読してみたが、100倍ぐらいの速さで読んでしまったためか、あまり「脳」とは関係ない感じがした。
そういえば、その「10倍云々」の本の帯に、<「フォトリーディングをマスターしたことが、現在の私につながっています」経済評論家 勝間和代」>という大きな文字があった。
そう、勝間和代先生なら、わたしの畏友の質問に、茂木先生よりはもっとリアリティのある答えを出してくれるかもしれない。
「儲かる仕事、没落する仕事」を特集した『中央公論』11月号の巻頭座談会「10年後、稼げる業種はどこなのか会議」で、勝間先生は、鼎談相手の男二人を終始圧倒しながら、「日本の政府は基本的に経済にはおバカです」と言い切る。そして、「地方の百貨店は全滅する」と予言する。「人が集まることで価値を見出していく『場のビジネス』そのものが廃れていくんです」。そのあとを襲うのは、Amazonだそうだ。電気メーカなども、「これから狙うべきは、電化製品のブランド化なんです。昔は鞄も汎用品でした。その汎用品をブランド化したことで、ルイ・ヴィトンのような企業が育ちました。つまりパナソニックやソニーという社名を、靴の世界でいう『ルイ・ヴィトン』のイメージまで持っていく。これから世界中で富裕層が増えてきますから、そういうブランド家電を買いたいというお客さんも出てくるはずです」。
う~ん、問題は「富裕層」しかないのだ。しかし、予測はかなり当たるのだろう。日本のテレビ業界も、「ダメになる構造がデパートと一緒なんです」と先生は言う。「これまでテレビでしか手に入らなかった情報が、ソーシャルメディアやオープンメディアで手にはいってしまうので、メディアとしての価値が暴落してしまったんですね」。
茂木先生が「ウォーリー」だとすれば、勝間先生は「イヴ」である。ウォーリーが新しかった時代もあった。ウォーリーはひたすら決まった作業をする。「脳」とか「クォリア」とかをぺたぺた貼り付けることが新しく見える時代もあった。しかし、イヴは世代が違う。イヴは速攻で躊躇しないから、ウォーリーはもたもたして見える。
いずれにしても、いま流行の寵児は、みなロボットを演じている。それが「成功」の鍵である。
この「会議」のなかで勝間先生は、「現在の私」がどう出来上がったかをきかれ、次のような明解な答えをしている。
「それなりの高収入が狙える個人の資格職業には、弁護士、税理士、医者もありますが、会計士の試験がもっとも勉強時間が短くて済むんです。・・受かる人は1年で受かるし、3年かかって受からない人はやめたほうがいいというタイプの試験です。それに一度資格を取ってしまえば、公認会計士として働く以外に、私が実際にしたように投資銀行へ勤める、メーカーの経理部に入る、税理士になる、というように選択肢が多い。・・とにかく私は、いわゆる『つぶしが利く』状態に自分を置きたかったんです。お嫁に行って他の選択肢を選べなくなるのもまずいと思いましたし、会社に染まってしまって、その会社と運命を共にしなければいけないのも避けたいと考えました」。
ブリリアント! が、これは、頭の悪い「ウォーリー」向けの「イヴ」のせりふであって、こう言いながら勝間先生は、映画のなかのイヴのようにクククと笑っているような気がする。人生、そんな単純じゃないからね。