「シネマノート」  「雑日記」


2009年 10月 17日

●Radio Futuraのフェスティヴァルにリーモート参加

9月にリスボンのRicardo Reisから、今月の14日から17日まで開かれるRadio Futuraというラジオとラジオアートのフェスティヴァルでリモートでいいから何かやらないかという誘いのメールが来た。
Ricardoは、約束を律儀に守る人で、先週からストリーミングのテストをしたいという連絡があり、本気であることがわかった。一応、RealMediaで音を流すテストをしたが、わたしにとっては、ストリーミングは、いつでも準備が整っているので、テストはいらない。それよりも、せっかく準備をしても、先方の受信体勢が悪くて、会場に流れないというようなトラブルがままあるので、テストをするわけだ。そのときは、彼が手際よく、こちらの音をループして流してきて、テストは数分で終わった。Ricardoは、Linux派で、MacもWindowsも使わない。
今日の本番は、日本時間の20時半からの30分だが、約束通り7pmすぎにテストストリーミングを開始すると、受信しているというメールがすぐに来た。待ち構えていた感じ。こういうのだとやりがいがある。
すぐに時間が来て、わたしは、最近入れ込んでいる中波の送信機を使ったラジオアート・パフォーマンスをする。ポルトの会場では、音だけしか流れていないので、サウンドアートとして聴かれてしまうが、ラジオアートとサウンドアートとは違う。
ラジオアートにとって音は単なる知覚的インデックスにすぎない。このパフォーマンスを体験する「観客」がいる以上、何かを知覚に感じさせなければならないわけだから、音をさしあたって使うに過ぎない。映像でもいい。が、一番いいのは、そのパフォーマンスの現場に立ち会う(パフォーマーの動きと存在にいあわせる)ことだろう。が、その場合でも、その身振りもまた、ただのインデックスにすぎない。
ラジオアートということでわたしが想定しているのは、脳や神経組織に電波が直接感応することだ。それは、一回的なものであり、また現前的=表象的な対象化をすり抜けるから、その十全的な知覚は、記憶や回想や想像やひらめきといった間接的な方法でしか不可能だろう。
その意味で、パフォームする側としては、なるべく現前的=表象的な対象としての体を空無化するような方向で自分の体を使うことになる。体も知覚もないものとして自分の体と知覚を使うこと・・・。果たして、わたしのパフォーマンスはそういうレベルに少しは近づいたかどうか?
http://radiofuturaporto.wordpress.com/