「シネマノート」  「雑日記」


2009年 07月 25日

●Kaywon School of Art & Designでのワークショップ

レクチャーの可能性を捨てたわけではないが、ワークショップの方が何かが伝わったという実感は味わえる。
わたしは、どちらも自分にとっては「パフォーマンス」だと思っているから、準備(したごしらえ)に手は抜かない。昨夜も、参加者が使う部品の再チェックに念を入れた。
決められた時間で全員が送信機を作りあげるためには、それ相当の下準備がなされているのだが、参加者当人はそのプロセスは見ていないから、簡単に出来てしまうと、それ自体が簡単だと思いがちだ。だから、もう一度自分でやってみて、同じようにうまく行くかどうかはわからない。そういう難関をのりこえて、自分で何度もやてみて、送信機をすべて自分で作れるようになる人は、ワークショップの参加者のうちの1%である。
会場に行ったが、主催者のLくんはまだ来ていなかった。まあ、そういうのんびりさが、わたしは好きだ。変に緊張されるのも困る。だが、彼とパートナーのHさんがあらわれ、道具のチェックの段階になって、半田コテしか用意されていないのに驚いた。彼らは、昨年、同じようなワークショップをオルガナイズしているのである。でも、こういうとき、なぜか彼がそうやっていると、笑えてしまうのである。
ふと思いついたのは、この学校には半田コテやニッパーなどがあるはずだから、それを借りればいいではないかということだった。その話をすでにテーブルについている学生に話すと、2人ぐらいの学生がどこかへ走っていく。
道具がそろって、ワークショップをはじめたのは、予定より1時間ぐらい遅れてからだったが、それから1時間後、全員がFM送信機の製作に成功し、みんなハッピーな気分につつまれた。やれやれ。
あとからあとから、ケータイでいっしょに写真を撮りたいという学生たちが来て、おそらく全員がわたしといっしょに写真を撮ったのだが、一人だけ、大人びた服を着た女性だけが、そういうことをしなかった。が、ほかの子たちが帰えりかけるころになって、その子が近づいていきて、2人で写真を撮らせてくれという。なるほど、この人は、みんなといっしょが嫌いな人なのだ。それを「みんな」のなかで主張せず、そうできるまで待っていたわけだ。

近所のイタリアンレストランでLくんとHさんといっしょに軽く夕食を食べ、すぐにソウル市内に向かう。地下鉄のなかで、半ズボンの片足に臭いの出るリングをはめてなにやらわめいているおじさんに出会った。Hさんは、彼に小銭をわたし、そのリングを買う。おみやげだといってくれたそのリングは、蚊を追い払う防虫リングだという。ソウルの地下鉄は面白い。

「Bowie」というクラブに急行したのは、Ryu Hankilさんから今夜のライブでパフォーマンスをやることをするめられたからだ。入口のドアには、
Takahiro Kawaguchi
Olaf Holcherz
Kevin Parks
Tetsuo kogawa
Ryu Hankil
Choi Joonyong
Hong Chulki
Jin Sangtae
Joe Foster
という今夜の出演者の名が手書きで書いてあったが、なかに入ると、すでにセッティングは終わりつつあり、ちょっと場違いなところに来たという感じだった。開演30分まえだから、それもそのはずである。わたしがオルガナイズするイヴェントなら、ごめんこうむりたいゲストである。まあ、普通なら、のんびり(ではなかったが)夕飯を食っている暇はなかったのだ。このへんは、ソウルまでどのくらい時間がかかるのかわたしが知らなかったこと、タクシーで行くつもりが地下鉄になったことなど、いろいろ理由があるが、招待主にとっては困ったゲストなのである。
しかし、紳士的なHankil氏は、すぐに場所をつくってくれた。もともとわたしは飛び入りの即興には慣れているし、「修練」の「芸」を見せることを目指していないから、こういうアキシデンタルな条件の方がいい。
しかし、結果的には、あまり面白いパフォーマンスにはならなかったと思う。ビールをすすめられて、飲んでしまったのもわざわいし、送信機とわたしの手とがうまく感応しないのだった。
その代わり、ハードディスクをばらしてケータイでコントロールするなどという「高度」のことをやるJin Sangtaeさんなどと知り合ったのが楽しかった。Joe Foster氏とは、彼が親しい中村としまるさんの噂話を楽しんだ。


2009年 07月 24日

●Kaywon School of Art & Designでの講義

ゲストハウスから渡り廊下を通って、教室へ。昨日の打ち合わせでは、講堂のようなところを使うことになっていたが、映像のコントロールがひとまかせになり、やりにくいので、ワークショップルームの方にする。
アメリカの学生と日本の学生を混ぜたような雰囲気。ときどき居眠りしている子が1,2名いて、それが日本の学生を思わせる。が、全体としては、反応はいい。
自由ラジオの歴史、微小なトランスミッションの意味、DIYカルチャー、ラディオアート等々。
すべて英語で講義し、通訳がついたのだが、中休みのとき、うしろで傍聴していたKさんが、「どうも先生の言っていることが正しく訳されていないようだ」と言い、若い女性の通訳が緊張。上下関係や年令にうるさい文化がまだ残っているので、こういうときは、逆にこちらが気を使ってしまう。
通訳に水をくんであげたりして、落ち着いてもらい、後半を開始。DIYカルチャーの説明に(懲りずに)送信機を作ってみせ、明日のワークショップでいっしょに作りましょうというところで結ぶ。


2009年 07月 23日

●Nam Jun Pail Art Center

明るい寝室なので、はやばやと目が覚めてしまった。階下にキャフェテリアがあるらしいが、まだ開いていないので、校門の外に出てみる。昨夜ビールを買ったコンビニは開いていて、そこで材料を買って朝食を作るのが一番賢明のようだったが、外食が好きなわたしは、その店を通り過ぎて、店舗がならぶ界隈に出た。1軒だけ喫茶店のようなのが開いていたので、入り、メニュー見たが、すべてハングルでわからない。店の人も英語は苦手らしく、しばらく身ぶりコミュニケーションをしたあげく、コーヒーとマフィンらしきものを注文することに成功した。
ゲストハウスにもどると、すぐにKangさんが迎えに来た。今日しか自由になる日がないので、これからNam Jun Paik Art Centerに行くことになったのだ。が、まだ早いので、そのまえに「電子部品街」を見に行こうと言うと、Kangさんは、最初それはYongsan駅の近くにあるマーケットだと思った。あそこは、いまは電子部品の店は少なく、コンピュータの店ばかりになったことを話すと、とにかく行ってみようということになった。
名前をすぐ忘れるわたしは、名前が出てこなかったのだが、駅で路線図を見て、それが、Jongno3-ga駅のそばであることを思い出した。彼はそのへんはよく知っているのだが、電子部品街のことは知らないという。
駅を降りると、彼は、わたしを「ソウルで一番うまい」という冷麺屋に連れて行った。細いアーケードをくぐると、別世界になる。客は中高年で、ほとんどのテーブルにマッコリの緑の瓶がのっている。その場で叩いて切り、ゆでるその味は、ワイルドで素朴でうまかった。
昨年来た電子部品街はすぐに見つかり、そこからシームレスにつながっている機械部品や板金の小工場の通りも覗く。「ここはまさにパイク的アートのアトリエになりえるね」と言うと、Kangさんも同感する。日本ではすでに消滅しはじめているが、こういう場所が生き残っているのは、すばらしい。
Insa-dongでギャラリーを開いているJoan Leeさんの運転でNJPACへ向かう車のなかで、わたしはひたすら眠った。日本と時差はないが、急に昼間中心の世界に引き出されてので、疲れた。
1時間ぐらいかで、到着したNJPACは、想像したよりえらく大きかった。ロビーを入ると、真空管ラジオのジャンクを沢山ならべてオブジェがある。パイクの作品ではなく、パイクにちなんで再構築した作品だという。
この美術館の面白さは、オリジナルをあまり所蔵できなかったので、それを複製したものや、パイクのテーマを再構築した作品が多いことだろう。これは、「オリジナル」の墓場のようになりがちな美術館の宿命を乗り越える重要な要素がある。解釈や再構成は無限に可能だから、この美術館は、その努力をおこたらなければ、つねに現在進行形のパイク館になる。
展示の一角で、崔承喜の珍しい動画が上映されているのが興味を惹いた。崔承喜とは、戦前、国内外に影響をあたえた「舞姫」であり、久保覚は、崔承喜論を書こうと膨大な資料を集めていたが、果たせなかった。雑誌『新劇』だったかに書いた短文には、彼の豊富がつまっていた。
館長のLee氏の案内で、近くのレストランへ。肉を食べないわたしを配慮して、豆腐の料理もある店に案内された。日本で韓国・朝鮮料理というと、肉料理しかないような印象を受けるが、実際には、野菜や魚の料理も旨い。
Lee氏と話がはずみ、ゲストハウスに送ってくれる車のなかでは終わらず、階下に運転手を待たせたまま、Kangさんもまじえて、深夜までパイクや現代アートの話がはずんだ。


2009年 07月 22日

●Keywon School of Art & Design

昨年、"8th New Media Festival"にわたしを呼んだLim Kyung Yongさんからメールが来て、ソウルから車で1時間ほどのNaeson-dongにあるKeywon School of Art & Designの学生たちのためにレクチャーとワークショップをやることになった。
欧米に行くのにくらべると、韓国への旅はあっと言う間である。が、わたしが好きだったアシアナ航空も、この1年でずいぶん変わった。明らかに、(ブリティッシュ・エアーやエールフランスなどではもっと露骨な)「合理化」が導入されたのだ。その分、機内の温度は下がり、食事はまずくなった。変わらないのは、乗客サービスの女性たちの笑顔だけである。
通関をし、荷物を受け取ってロビーに出たらミュージシャンのRyu Hankilさんが出迎えに来てくれていた。が、あとの便で来る川口貴大さんを待ってバスと地下鉄とタクシーを乗り継いで大学まで行くという。いやあ、わたしも昔はそういうのもよくやったが、腕力に自信が持てなくなったいまは、機材の詰まった思いスーツケースをかかえてエレベータのない地下鉄駅の階段を下りるのは辛い。それと、今夜することがあるので、早く現場に着きたい。そこで、ハンキルさんには悪いのだが、タクシーで直行させてもらうことにした。
新興住宅地のなかにあるKaywon大は、森を背後にひかえたモダンな建物。入口に着くと、ワークショップ・シリーズの最終的な引受人であるSuki Choi教授とアシスタントの青年が出迎えた。すぐにゲストハウスに案内される大学構内にこういう施設があるのはうらやましい。海外や地方からゲストを呼ぶ場合、一番ネックになるのがアコモデイションで、わたしの大学などは、全然そういう施設を持っていないからである。
今回、色々な偶然が重なった。Kaywon行きが決まってから、昔わたしが教えていた武蔵野美術大の映像学科の第一期生のKang Sung Mongさんから連絡があり、近々Nam Jun Paik Art Centerの館長Youngchul Lee氏が来日するので、引き合わせたいとのことだった。しかし、それがKaywon行きと重なるので無理だと言うと、「それならばNJP Art Centerにお連れしたい」という返事が来て、「ついては「ぼくも韓国に行きます」とのことになった。聞く所によると、Lee氏は、Kaywon大の教授でもあり、「これは願ってもないことだ」と言うのだ。そして、数日後、Lee氏から丁寧な英文の招待状も届いた。おいおい、これだと、どっちが本命だかわからなくなるよ、とも思ったが、偶然性を愛するわたしは事態の進行に逆らわなかった。
ゲストハウスのわたしの部屋は、大きな台所がついたかなり広めのスペースで、床には靴を脱いで上がる。インターネットやケーブルテレビも完備している。
重いスーツケースを置いたところへ、Kangさんが現れた。彼も並びの部屋に滞在しているという。それから、すぐにみんなでChi教授の案内で、近くの韓国レストランに行くことになった。
韓国では、座席の位置がうるさいので、わざともたもたしていると、結局、上座に座らせられてしまった。年令ではたしかにわたしが最年長かもしれない。
料理も大分進んだころ、Hankilさんと川口さんが姿をあらわした。川口さんはまだ若いはずだが、「地下鉄にエレベータがないのには参った」と憔悴した表情だった。やれやれ、タクシーで来たのは賢明だったと思い、重いトランクを抱えてバスを乗り継いだりしていた30年前を思い出した。
空が暗くなるのが遅いこの地の空がすっかり暗くなったころ、ゲストハウスにもどり、Kangさんと話す。そのかたわら、ワークショップでやるかもしれないテレビ送信機のチャンネル状態を試す作業をする。韓国のテレビチャンネルは、アメリカと同じで、一番下の第1チャンネルの映像周波数も、45.25MHzと日本の91.25MHzにくらべると、ずい分低い。
Kangさんは、武蔵美時代、いまの東経大の「身体表現ワークショップ」に似たゲスト講座を熱心に手伝い、ビデオ記録を撮った。その後も、忽然と姿をあらわし、わたしを驚かせた。東経大にも来たことがある。「ぼくは喧嘩には自信ありますよ」と言っていたので、そのうち海外であぶない取材でもするとき頼もうかな、と冗談を言ったことがあった、
2009年 07月 08日

●マイケル・ジャクソンとジョン・ランディス

デザイン替えをした「シネマノート」が不評なので、もとのデザインにもどそうと作業を始め、リンクを張るのにIMDbにアクセスしたら、トップページで「Michael Jackson Memorial」のライブ中継のリンクが見え、そのまま朝まで中継を見てしまった。
わたしが見たのは、後半の2時間だったのだが、なぜか(当然か?)さあざまな「たくらみ」や期待がひしめく脂ぎったイヴェントという印象が強かった。この機会を利用して・・・といったねらいがぎらぎらする追悼会で、わずかに最後のパリス・ジャクソンの涙で言葉にならない挨拶が救いだった。いや、それすらも意図的な演出に見える作為さが感じられた。とにかく、しめは、"We are the World"と"Heal the World"だからね。
いまアメリカでは、オバマ政権の出現の機に、アフリカン・アメリカンのアグレッシヴなまでの体制進出が目立つ。映画もアフリカン・アメリカンの登場人物を出すのが売りである。

マイケル・ジャクソンの急死以来、日本のテレビでも「スリラー」のシーンを見ない日はないが、このクリップがジョン・ランディスによって作られたことへの言及はほとんどない。彼は、今年の1月に「スリラー」の著作権料支払いが4年も止まっていることでマイケル・ジャクソンを訴えたが、ランディスなしにその後のマイケルは存在しなかった。
ドキュメンタリー「Michael Jackson - Thriller and The Making of Thriller」を見ると、のちにマイケルが「アンドロイド」志向になっていくきっかけは、ランディスとの出会いと「スリラー」製作を通じてであったことがわかる。
24歳でも10代の「ナイーブ」さをもっていたというマイケルは、狼男への変身メイキャップの体験を感動的に受け止めている。ランディスは、ダンスシーンにも立会い、細かい注文をつけている。マイケルは、製作まえには、ランディスの『ケンタッキー・フライド・ムービー』と『狼男アメリカン』の2本しか見ておらず、ランディスの傑作『ブルースブラザース』を見ていなかったが、この映画でダン・エイクレイドは「ムーンウォーク」的「足芸」も見せている。「スリラー」の映画技法のすべては、ランディスにとってはすでにお試し済のものばかりだった。
ランディスは、「狼男」に変身したいというマイケルの願望を満たしただけでなく、ヴァーチャルな世界へのイニシエイションをした。
しかし、1980年公開の『ブルースブラザース』は、そのコンテンツにおいても製作技法的にも、70年代後半からじりじりと台頭してきた「アンドロイド」志向とヴァーチャルな傾向とは一線を画しており、ランディス自身も、その後の流行路線には乗らなかった。が、時代は、むしろ、ハル・アシュビーの『チャンス』(1979年)の方向で進んだ。マイケルは、『チャンス』の主人公のように「自然」に「アンドロイド」になることはできなかった。彼の人生は、「アンドロイド」になろうとして失敗した人生でもあった。それは、身体という「見えるけれど見えないもの」の逆襲であり、身体とメカニズムとのかぎりない距離と近さとをあらわにした。
その意味で、いま、ヴァーチャル志向の文化は、一つの終わり、転換期に入った。それは、マイケルの死以前に始まっていたが、それが、彼の死によってより明確になった。
そうだとすれば、「マイケル・ジャクソン・メモリアル」は、キリスト教とアフリカン・アメリカニズムで再編された「世界は一つ」主義の面からではなくて、「ヴァーチャリズム」をたたえ、悼み、反省する集まりであるべきだった。