「シネマノート」  「雑日記」


2009年 06月 26日

●「ヴァーチャル」の終わり

とうとう今年の前期は音楽と音のゲストでぶち抜いたゲストシリーズ「身体表現ワークショップ」のセッティングに立ち会うため、早めに駅に向かったら、キオスクの新聞の客寄せ見出しにマイケル・ジャクソンの死を伝える文字が見えた。
特にM・Jに思いいれはないのだが、身体を改造して行く姿勢には面白さというより、いかにも1980年代の「ヴァーチャルの時代」を感じて面白かったので、とうとう逝ってしまったかという思いにかられた。有名人の死をもって「一時代の終わり」を語るのは、マスメディアのクリシェだが、あえて自分の身体をアンドロイドやロボットに近づけようとしなくても、環境的にどうしようもなく、アンドロイド化されてしまういまの状況では、意図的に身体を人工化しつづけたM・Jの死は、ひとつの区切りにふさわしいと思うのだ。
先日、「映画文化論」という講義にゲストで来てくれた佐藤敦紀さんも指摘していたように、1982年ぐらいの時代は、アナログな技術を使ってヴァーチャルな世界を構築する試みがぐんぐん上向いた時代だった。あの時代、「人間」とアンドロイドの差を描いた映画『ブレードランナー』はバイブルのような存在だった。しかし、いま「若い人」はこの映画を見ない。見ても「ははん~」という感じだ。
数日前、Sさんを誘って東京ビッグサイトで開かれた「第17回産業用バーチャルリアリティ展」に行った。この展示には、最初のときからほとんど毎年行っているが、今年のVR機器コーナーは実にお粗末だった。それは、業界の景気の悪さとも関係があるが、VR技術がもうあたりまえになったということと無関係ではない。VRの操作にも、もうSGIのワークステーションはいらない。普通のPCで十分だ。
では、「ヴァーチャル」が「普通」になるとき、どういうことが起きるのだろう?
当然「肉体/生身」志向、「自然」志向は強くなるし、実際になっているわけだが、「ヴァーチャル」が普通になればなるほど、何でももヴァーチャルになるわけだから、ヴァーチャルでない(つまり技術的に操作可能でない)「生身」も「自然」もなくなる。
ヴァーチャルなものは、「文明」のはじまり、いや、人間のはじまりからあった。それが、いま、全般化し、テクノロジカルなコントロールを無視して、「自然」や「偶然」にまかせるということが不可能になるという事態になった。こういう状況下では、驚きや新鮮さは、「無知」や「愚鈍」に徹する以外にはあたえられない。
医学は、患者の行く末を予測してしまう。患者の「余生」は演出可能である。だから、その余生に驚きや新鮮さを保つには、「不摂生」と「不養生」に徹するしかない。
こう考えると、ポストMJの時代には、とてつもない「怠惰」とか「不誠実」とかあらゆる意味での「無知」とかが流行るのかもしれない。


2009年 06月 18日

●見せ金の謎

『ぼくとママの黄色い自転車』の試写を見ようと、サロンパスルーブル丸の内のまえを通過してNISHIGINZAアーケードの高速道路の手前にさしかかったとき、向かい側から来た人からいきなり「ああ、お久しぶりですぅ!」と声をかけられた。
見ると、「でんでん」に似た初老のおっさんで、顔におぼえがない。が、相手は親しげに笑顔を見せているから、「ええと、失礼ですが・・・」とあいまいな態度をすると、「鈴木ですよ、電気屋の鈴木です」と言う。しかし、「鈴木」で「でんでん」の顔をした知り合いは記憶のなかにはない。
が、ひょっとして、秋葉原あたりの店の人かもしれないと思い、「いまどうしてらっしゃるんですか?」とさぐりを入れる。頭のなかでは、「鈴木って、あまりに一般的な名前だなあ」という疑念が渦巻き始めていたが、相手の顔をよく見ると、ちょっと目をそらすので、ひょっとすると新手の詐欺かなとも思う。
近況をきいたわたしの問いに相手がどう答えたかはよく聞こえなかったのだが、ほとんど間を置かずにそのおっさんが見せたパフォーマンスは驚きだった。
いきなり、背広のポケットから厚さにして4センチはあると思う1万円冊(輪ゴムで束ねてある)を見せたのだ。そのポケットのなかには、同じぐらいの束の札束がもう一つあるのが見えた。
その瞬間、何かばかばかしい気がして、こんなことで試写に遅れるのはいやだなという思いが込み上げた。「すみません、ちょっと時間で行かなければならない用があるので」と言って、その男と別れてしまった。
東映の試写室の席に座ってから、(たまたまこの日は席が大分空いていたこともあって)もうちょっと話をきいてやってもよかったなという思いと、一体あれは何だったのだろうという思いが浮かんできた。あと5分つきあっても、別に試写が見れないわけでもなかったはずだ。
しかし、札束の見せ方が、フラッシャーがいきなり性器でも見せるようなやり方で、むかっとしたこともある。最初わたしは、金を見せ、何か旨い話を持ちかけるような詐欺の魂胆を感じたが、考えてみると、あのおっさんは同性愛的な魂胆があったのかもしれない・・・そういえば、顔をにらんだら、ちょっと潤んだような目をしていたような気がする・・・振り切って別れたとき、悲しそうな表情であったことはたしかだ・・・。いや、あの人は単なる「孤独な老人」だったのかもしれない・・・。
いずれにしても、話をもう少しきいてやれば、『ぼくとママの黄色い自転車』なんかを見るよりはるかに面白かったかもしれない。


2009年 06月 03日

●今月公開の気になる作品

4月後半から5月にかけて、大学でやっている「身体表現ワークショップ」(href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/shintai )の事務仕事やトロントのDeepWirelessでのパフォーマンス準備(というより「逡巡」)のため、「シネマノート」の作業が手薄になった。「身体」のゲストプログラムの方はやっと半分終わったばかりで、まだまだ大変だが、パフォーマンスの方が一段落したので、今月は「シネマノート」にも力を入られるだろう。
とりあえず、今月の「気になる作品」をトップページに掲載した。そのうち、『ターミネーター4』は、カナダへの出発と重なり、見ていない。劇場公開で見たら、★評価を入れるつもり。

★★★ サガン 悲しみよこんにちは
★ ガマの油
★★★ ハゲタカ
★★ 幸せのセラピー
★★ アルマズ・プロジェクト
??ターミネーター4
★★ 真夏のオリオン
★★★★ レスラー
★★★★ マン・オン・ワイヤー
★★★ はりまや橋
★★★ 愛を読むひと
★★剱岳 点の記
★★★★ 人生に乾杯!
★★★★ 築城せよ!
★★★ それでも恋するバルセロナ
★★★★ 扉をたたく人
https://cinemanote.jp


2009年 06月 02日

●「新型インフルエンザ」の文化的・政治的落差

成田・トロント直行のエア・カナダ便を使うのは1年ぶりだが、この間にずいぶんとシステムが「合理化」された。コーヒー/ティーを別に配るやり方は撤廃されたが、空になった飲み物の容器を回収するし方の変化には驚いた。わたしが見た女性アテンダントは、回収の車を転がしてトイレのまえに来ると、さっと足でドアを開け、押えたまま、容器に残った水類を次々と捨てるのだった。合理的ではあるが、実にワイルドである。かつての「スチュワーデス」にあったそれなりの「優雅さ」はもうどこにもない。

吹雪のような寒さの一晩を過ごし、トロントからわたしを乗せたエア・カナダの1便は定刻通りに成田に着いた。着陸のまえ、「健康状態質問票」(英文では「Questionnaire on Health Conditions)が配られ、健康状態のほか、「座席番号」や連絡先を記述し、署名をさせられた。ちなみに、この紙には、「質問に答えなかった方又は虚偽の申告をした方は、検疫法第36条の規定により懲役又は罰金にしょせられることがあります」とある。

着陸し、やれやれと思っていたら、検疫官のチェックがあるので、席にとどまってくれと言う。が、わけがわからない「外人」客は立ち上がり、荷物を取り出そうとする。すると、なぜか日本人のアテンダントがたった一人で、「席を立たないでください!」と黄色い声をはりあげながら、通路を走る。しかし、日本語がわからない客には変化がない。とかくするうち、ブルーの服とマスクの検疫官が入って来るが、これまた日本語で何かを言いながら、通路を早足に移動して行く。どうやら、「熱のある人はいませんか?」と言っているらしいが、よくわからない。その間、カナダ人(?)のアテンダントが、われ関せずといった態度でいたのが印象的だった。それは、あたかも「日本人さん、勝手にやってください」と言っているかのようだった。ちなみに、成田からトロントに着いたときは、このような処置は何もなかった。

今回の日本の「異常警戒」は、冬季に予想される蔓延を考えば重要との説もあるが、わたしが思うに、今度のインフルエンザで急に検疫体制が過敏になったのは、「新型インフルエンザ」の「脅威」のためではない。むしろ、検疫体制の変化、検疫を利用した新しい管理の始動、そして厚生労働大臣・舛添 要一の「国家公安委員長」的ハリキリぶりのためである。

わかったことは、検疫法を拡大利用すれば、アメリカ型のテロ防止策はいらないということであった。たとえば、誰かを意図的に捕まえたければ、飛行機や電車のなかに一人「風邪引き」の人を座らせればよい。あるいは、そういう人がいることにするだけでもいい。それで即逮捕は無理としても、それを口実に周囲の人たちを一定期間拘束することができる。

しかし、今回の騒動は、まわりの人間を見たら「インフルエンザ患者」と思えという不信の意識を刷り込むことに貢献し、雑踏をうさんくさいもの、ひいては都市文化を魅力あらざるものに低落させた。これは、日本社会にとっては長い目で見てマイナスになる。

それにしても、マスクの売れ行きと、マスクをせよという指示を無批判に受け入れてしまう社会傾向は、日本があいかわらず「みんな主義」であることを確認させた。