「シネマノート」  「雑日記」


2009年 05月 29日

●ラディオアート・パフォーマンス Tesla Agencements

昨夜、ハンク=パトリックとのセッションのあと、ハンクに拉致されるようにクイーン・ストリートのNoceというイタリアン・レストランに行った。いきなり行ったので席がなく、1時間ほど近くのバアでビールを飲んで待ったが、まあまあうまい料理の店だった。しばらく会わないあいだにハンクの関心は中国から離れ、いま一番の関心はウクライナだという。彼はいつも時代の流れを数年先に読む敏感さがある。別に時代を読もうと鵜の目鷹の目になっているわけではなく、自然に読めてしまい、その関心の高まりに従って動くというだけなのだが、中国(のアーティスト)への注目も早かった。彼によれば、いま中国は新しいアートが生まれる環境ではなくなったという。

午前中のセッションは無理としても、午後からのグレゴリー・ホワイトヘッド(Gregory Whitehead)の回には行けるとハンクに言って、深夜に別れたのだったが、今夜の9時すぎからわたしのパフォーマンスがあるので、気を抜くことにした。もともと、パワー・ポイントなんかを使った講義・講演には飽き飽きしており、ましてラジオアートの会議でそんなものを聞きたくないと思っているのだが、そういうのがあとをたたない。講義・講演の形式を取りながら、それがパフォーマンスに流れていくレクチャー・パフォーマンスを演る人はほとんどない。特に今年のDWではそんな気がする。

昼近く、ホテルを出て、街を歩く。パフォーマンスのまえ、街の「気」を体に溜め込むというか、街の「気」との循環を変えるというか、そんなことをするのが好きだ。そういう時間がたっぷりある方が「気に入った」パフォーマンスが出来る。雑貨を売っている店を見つけ、入り、目についたガラス食器を買う。今夜使うアイデアが浮かんだのだ。

5時過ぎ、機材をかかえ、ホテルからタクシーで、昨日行った601 Christie StreetのArtscape Wychwood Barnsに着く。ここは、元市電の修理車庫だったところを改装し、ギャラリーやアートオフィースが共同使用しているところだ。DWは、今年からここに拠点を移した。

8時から同じスペースで連続的に集団とソロのパフォーマンスが2つあり、最後にわたしのがある。インターミッションでセッティングをしなければならないが、ぶっつけ本番はわたしにはうってつけである。が、1点だけ神経を使ったのは、細くて長い銅線の処理。それをガラスの容器に巻くのだが、ひっかからないように、床にあらかじめ延ばして置く。その作業をやっていたら、外に出ているはずの客が入ってきて、写真を撮ったりしているので、それなら、セッティングも「本番」に含めた方がよかったと思う。

DWは、ラジオアートのフェスティヴァルということになっているが、わたしの目には、「アートラジオ」のフェスティヴァルに見える。つまり、ラジオ=ラディエイション=電波そのもののアートではなく、既存やオールタナティヴなラジオ局のコンテンツの違いが問題であるにすぎないからだ。だから、わたしのパフォーマンスも、わたしには電波のラディエイションの単なるインデックスにすぎないにもかかわらず、その音で判断されかねない。わたしに問題なのは、「聴こえる」周波数ではない。

少しまえ刀根康尚が誘ってくれたプロジェクトの際に彼と交換したメールを通じて、わたしは、送信機とわたしの「手」とのあいだで進行する「Hand-waving」パフォーマンスにおける身体性の問題を反省した。刀根の批判では、わたしの「手」は、結局は「演奏」の手(身体)になっているのではないかというのだった。「手」が送信機を操作して「演奏」するのではないのだが、「手」が音を選択しているかもしれないから、手=身体は「出来事」の次元にはなく、「再現前」を呼び込んでしまうのではないか・・・と。

新作「Tesla Agencements」は、コイルの誘導をニコラ・テスラから、送信機と送信機との関係をドゥルーズ=ガタリの「アジャンスマン」(英語ではarangements)から触発されている。その際、パフォーマーの側からすると、自分の体(主として手)をどこまで「無化」できるかがチャレンジになる。そのために、わたしは、今回、「手」の動きを、四角いコップ状の容器に巻いたコイルにフェライトコアの小さな塊をピンセットで淡々と入れ続けるとう単純な動作に極小化した。

音的には、送信機を作る音、送信機同士が生むノイズ、ドローン、エレクトロニカ的な音が流れたはずだが、今回わたしはあえてPAを使わず、わざわざ東京から運んだ大型のポータブルラジオを使った。free103point9の生放送は会場のマイクから採音したのだと思うが、「音作品」としてどう仕上がったかには興味がない。

すべてが終わり、またハンクと昨日行ったクイーンズ・ストリートのバーに行き、ビールを深夜まで飲む。腹が減ったのでフィッシュ&チップスを取ったら、そのサイズは優に二人分あった。


2009年 05月 28日

●「危険な」トロントへ

今年もDeep Wireless Festival of Radio & Transmission Artに参加することになった。
アングロサクソン系の飛行機は寒いので、軽ブランケットやルーズソックスを用意してカナダ・エアーの成田・トロント直行便に乗る。成田で空港がすいているのが印象的だった。機内では、ウェブチェックインをしたせいか、周囲は「外人」ばかり。みなマスクなどしていない。わたしはマスクを信じていないので、むろん、していない。それに、マスクというのは不気味だ。トイレに行くので通路を下がっていくと、ところどころにマスクをした不気味な顔がある。おそらく日本人だろう。
区などの通達では、「不要・不急の外出を控え、もし外出する場合はマスクをつけて人混を避けてください」とのことなので、「善良なる日本人」は、マスクが普通の衣装になる。まして、悪名高きトロントなどに行く者は、だ。

持参した防寒具のおかげで持ちこたえたが、摂氏20度以下の温度でたえず風が吹いている空間に12時間以上いるのだから、飛行機というのは大変だ。初冬の吹き曝しにいるようなものではないか。が、人はさまざまで、トロントに着くまで半袖で通した「外人」もいた。

トロントにはオンタイムに着いたが、迎の人の姿がない。30分ほどして現れたのは、以前わたしのワークショップに参加したC。が、あと二人をいっしょに送迎するが見つからないので、しばらく待ってくれといって人混みに消えた。となりに座っていたインド人の女性のところに正装して花束を持ったインド人の男性が来る。西洋式の熱い抱擁。空港でぼんやり過ごすのは苦痛ではない。

30分ほどしてシカゴからの二人のアーティストを連れてやってきたCは、地下の駐車場に引っ張っていったが、今度は車が見つからないという。そんなこんながあって、空港到着後1時間以上もたってからようやく市内に向かうことになった。だが、車はだんだん郊外に向かう。「おいおい、どこに行くの?」と聞いたら、フェスティヴァル会場に行くという。え~! おれはホテルに行きたいんだが、と言いかけて、やめる。7時半から会場でハンク・ブル(Hank Bull)と公開トークをすることになっており、もうこの時間では、会場に直行するしか手がないことを悟ったからである。どうも、今年のDWフェスティヴァルは、段取りがルースすぎる。とたんに、ドタキャン願望が込み上げて来た。

しかし、主催者のナディーンの顔を見たら、そんなきまぐれも消えてしまった。ある意味でDWフェスティヴァルは、彼女の「いいかげんさ」で成立っている。

隣室でセッティングをしているというのでカーテンをくぐると、懐かしいハンクの姿が見えて。フェイス・トゥ・フェイスで会うのは久方ぶりだ。彼は、わたしの顔を見ると、「ああ、コグゥワ~さあ~ん!」と叫んだ。声が昔より一段と大きくなったようだ。丁度スクリーンには、ヴァンクーヴァーでつながったSkype画面が映っており、そこにパトリック(Patrick Ready)の顔が見える。今夜は、この3人でハンクとパトリックが70年代にやっていたHP Radioと、ハンクとパトリックが、90年代に、わたしの作った送信機を使ってそれぞれにフィリッピンとヴァンクーヴァーのHornby Islandで立ち上げた「放送局」の話をすることになっている。

ちなみに、パトリックがわたしのサイト「マイクロ・ラジオ」に寄稿した文章「Mini FM in Hornby Island」は、以下で読める。
http://anarchy.translocal.jp/radio/micro/patrickreadyminifm.html

パトリックは、70年代にニコラ・テスラからヒントを得たインスタレイションを作ったり、エレクトロニックス・アートのユニークなクリエイターだが、ヘビーな喫煙で喘息になり、いまは酸素吸入を離せない生活をしている。そんなわけで今日のセッションは、そんなパトリックを元気づけるためにハンクが仕掛けたのだった(当初の予定では彼とわたしがパフォーマンスをすることになっていた)。
http://www.naisa.ca/deepwireless/


2009年 05月 08日

●スーパースター・鈴木勲

矢部直さんのおかげで鈴木勲さんに出演してもらうことが決まった。
懲りずに続けている東京経済大学コミュニケーション学科の企画「身体表現ワークショップ」のゲスト出演である。矢部さんとおしゃべりをしているとき、「ひょっとして来てくれるなんてこともアリですかね?」と言ったら、鈴木勲さんと何度も仕事をしている矢部さんが、お膳立てをしてくれたのだ。
実は、わたし、鈴木さんにはン十年もまえに会っている。場所は、銀座の松屋デパート裏のビルの地下に出来た「ジャズ・ギャラリー8」。ここは、固定したライブジャズのスポットとしては日本で最初の場所だった。いまでは信じられないかもしれないが、日本では、ジャズは、(大橋巨泉――タレントになるまえのジャズ評論家としての――がいみじくも言ったように)「レコード・ミュージック」だった。ライブが聴けるのは、たまにアメリカから有名ミュージシャンが来るときを除けば、米軍基地か高級ホテルのラウンジぐらいで、ジャズ・ミュージシャンの方にとっても、ライブ演奏を出来るジャズクラブは皆無だった。
やっと1960年代の前半になって、シャンソンのスポット「銀巴里」に「フライデイ・ジャズ・コーナ」というのが故・高柳昌行や相倉久人さんらが率いる「新世紀音楽研究所」の主催で出来、毎週金曜の午後だけ、その場所がテンポラリーなジャズ・スポットになった。
「ジャズ・ギャラリー8」は、「銀巴里・フライデイ・ジャズ・コーナー」に拠ったミュージシャン(そこには若き日野皓正や山下洋輔がいた)が本格的な場所を求めるなかで生まれたのだった。
それが出来たことを知り、ごく自然に「銀巴里」から流れ、毎日のように通いつめていたわたしは、ある日、真っ黒なサングラスをかけ、ビンビン「黒い」音を出すベーシストに出会った。名前を聞いてびっくり。鈴木勲。ああ、この人がテナーの松本英彦なんかと演っているベーシストなのか――でもこんな凄い人だったの! という驚きである。
この当時、大橋巨泉や湯川れい子などが書いていたジャズの辞典があり、ミュージシャンの名前や経歴は知っていた。いや、もっと別のソースの情報から知ったのかもしれない。とにかく、顔や演奏は知らなくても、名前だけが先行し、夢だけが肥大化していた。
当時、「ジャズ・ギャラリー8」で目立つ(レギュラーの)ベーシストは、金井英人だった。当時まだそれほどの歳ではなかったが頭がスキンヘッズだった「キンサン」こと金井英人のベースは、実にユニークですばらしかった。が、それは美しいベースで、「ファンキー」さは薄かった。むろん、いまではそんなことはどうでもいいわけだが、生を知らない者としては、目のまえで「黒人」のベーシストが弾くファンキーさにあこがれていたのである。
そういう過剰な期待をいだいていたわたしのまえにいきなり「黒い」響きをあびせかけたのが鈴木勲だったのである。

今回、鈴木さんは、快く出演を引き受けてくれ、7月17日(金曜)、午後14時40分から、東京経済大学6号館地下「スタジオ」に来てくださる。すばらしい。ジャズ史の文字通りの巨匠たちと共演してきた話も聞けるだろう。

この枠は、本来、受講生のためのものであるが、来たい人は歓迎である。たまには、外の人で一杯になり、受講生が困ってしまうなんていうのもいいのではないか、と思っている。詳細は以下のURLで。
http://anarchy.translocal.jp/TKU/shintai/


2009年 05月 06日

●Windows 7 RC

Windows 7 Ultimate betaをダウンロードするのにレジスタレーションをしたら、5月5日からWindows 7 RC (最終版になるはずのリリース候補版)をダウンロードできるというメールが届いた。
もの好きなので早速ダウンロードし、DVDに焼き、わざわざ別のHDを用意してインストールしてみた。
おおむねは、 Windows 7 Ultimate betaと同様に軽く、構成も同じだが、気のせいか、動画の立ち上がりが鈍い。それから、画面の日本語文字が汚い。大体、Macでも日本語の画面になると全然美しくないのが普通だが、Windows 7 Ultimate betaでは、マイクロソフトにしてはキレイだなという思いがしたのだった。しかし、それはわたしの錯覚か、一時的な偶然で、またもとのダサい画面にもどってしまった。フォントの調整ということができることになっているが、してもあまり変わらない。そもそも、オープニングの画面の色がどぎつく、ダサくなった。
まだ細かくためしてはいないが、そんな感じ。
しかし、このまま2010年6月1日まで使えるのだから、みんなXPやVistaをやめて、RCに流れそう。え? 個人情報がみんなマイクロソフトに筒抜けだって? むろんそうだろう。しかし、インターネットというのは、もともとデジタル・ヌーディズムのためのものであって、裸を禁じたり、恐がったりする者には向かないのだ。
http://www.microsoft.com/japan/windows/windows-7/download.aspx


2009年 05月 05日

●車内の言語論

無頼な生活時間のために体がぼろぼろになったので、ちょっと「治療」の旅をした。「治療」というのは、わたしの場合、うまいものを食って体と気分を立て直すことである。

電車はいまや病院のようだ。まわりはマスクをだらけ。ウィリアム・バロウズは言ったとローリー・アンダーソンは言った――言葉は宇宙から来たウィルスだ、と。われわれはいつもウィルスといっしょに暮らしている。ならば、「豚ウィルス」を敵視するなかれ。

新幹線の英語の車内アナウンスではなぜ「品川」を「シネガワ」と発音するのか? まるで「死ね川」に聞こえるじゃないか。ちなみに山手線や京浜東北線の車内の英語アナウンスは、ちゃんと「シナガワ」と発音している。

山手・京浜線の車内アナウンスといえば、「優先席」に関して、「・・・妊娠中の方には席をお譲りください」と言っているが、「妊娠」という言い方はキツく響きませんか? これを聞いてビクっとする女性もいるのではないか? ちなみに英語では「expecting mother」と逆にソフトすぎる表現を用いている。この場合、「母親になる方」の意味だが、「期待している母」の意味にもなり、何かよくわからない。それと、母親になるにしてもいつなのかがあいまいなので、「いつかおかあさんになるの」なんて漠然とした期待をいだいている少女も「優先」されてしかるべきことになる。

ホテルである店への道順をきいたら、「コンシェルジェに案内させます」と言われた。まあ、「コンシェルジェ」というのは流行りで、要するに「案内係」のことらしいが、もとのフランス語"concierge"って、「門番」のことではなかったか? まあ、アメリカのホテルなんかでも使っていることだし、雰囲気を変えたり、カッコをつけたりするのに外国語を持って来るのが日本語の習慣だから、どうでもいいが、車内で「ウェディング・コンシェルジェ」というのを見た。単語を連結して新語を作るやり方はドイツ語にもあるが、この新語から原語を想起してしまったら、わけがわからなくなる。

名詞といえば、日本語で名詞になると反復性が明示される。電車がいきなり止まり、アナウンスが、「豊田駅構内でイシオキがありましたので・・・」と言った。「イシオキ」?! それは、どうやら「石置き」つまり線路に石を置くことらしいが、「石置き」と名詞で表現されるということは、それがけっこう頻繁に行なわれていることを意味する。道路の渋滞はなくてしかるべきもののはずだが、いまでは「自然渋滞」という名詞がある。

かつてハイデッガーは、日本語に劣らず名詞化が好きなドイツ語の習慣に逆らい、すべての表現を動名詞で表現しようという大胆な試みをした。『存在と時間』である。その意味では、「存在と時間」と言ってはいけないのであって、「存在することと時間すること」と訳さなければならないのかも。