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2009年 01月 01日
●出来事のための代償
暮れから正月にかけて、時間が出来るとサーバーや自分のコンピュータのデータ整理やチューンアップをするのが例年のならわしだ。そして、たまに大失敗をする。データを消してしまったり、サーバーの機能を改善しようとして泥沼に陥ったり・・・。
大晦日から正月にかけての深夜、11月から12月にこの日記に書こうと思いながら、時間がなくてメモだけ書いておいたメモをすべて失った。古いスケジューラがいきなり落ち、データをが消えてしまったのである。すぐにほかの作業をやめて復活ソフトで救い出せば出来たかもしれないが、そうしなかったので、データは絶望的となった。
これまでもハードディクスをぶっ飛ばし、中をあけて円盤を取り出し、同じ型のディスクの円盤と交換して生き返らせたなどということもやっているので、通常はバックアップを取っている。しかし、事故は、たまたまバックアップなどとっていないときに起きるのだ。
しかし、こういうとき、意外にさっぱりした気持ちになるのはなぜだろう? 家が全焼したときのように、あきらめるしかないからか?
日本には、すべてをチャラにして出直すという習慣があるが、これは、歴史の捏造にも利用される。生身の人間がいて、物的な史料が存在しても歴史の捏造が行われるのだから、デジタルの世界では、捏造があたりまえにもなりえる。
しかし、歴史が史実の累積ではなく、出来事の連鎖だとすれば、デジタル世界では特に、起きても、喪失してしまえば、その出来事は終わったのであり、「歴史」は存在しないことになる。
出来事にとっては、その意味で、ときどきデータが消えてしまうのは、よりよいことかもしれない。そして、消えるデータが多ければ多いほど、その代償の分だけ、つぎの出来事は新鮮で活気があるかもしれない。