「シネマノート」  「雑日記」


2008年 09月 26日

●世界金融恐慌の再来?

リスボンにいるあいだ、BBCやCNNを見ていると、欧米では、今後世界金融恐慌が起こるのではないか、いや、確実に起こるという雰囲気がひしひしと伝わってきた。
しかし、日本に帰ってきてみると、その感じはない。この落差は何だろう? 欧米の方がパラノイアに陥っているのだろうか?
ついにアメリカの悪政のツケが回ってきたという感じだ。
構造的にいまの自体が生じていることもたしかだが、バカな奴が指導者になるとこういうことになるということも言える。
やばい状況になってきた。


2008年 09月 24日

●リスボンのワークショップ

 昨日行った市電の通りのカフェーで朝食を食べる。途中まで注文したら、その店の奥さんが、「最後はコーヒーでしょう?」と言った。顔をおぼえられた。オレンジジュースがあまりにうまいのでおかわりをする。
 ホテルにもどり、明るい陽射のなかでワークショップの準備。台所は全く使わないが、料理用の大理石の台が、かっこうの作業台になる。10人限定の参加者が、わたしがデザインした回路に従って送信機を作るというだけのワークショップだが、これまで多くのアーティストが参加してくれた。そのノウハウを自分のインスタレイションやパオーマンスに使った者もいる。わたしの方は、もうやめたいと何度も思ったが、要求があるのでやめることができない。
 毎回同じようで微妙なところでは違う。むかしは、とうとう最後まで成功しない参加者もいたが、その失望の顔を見るのがいやなので、このごろは色々工夫する。料理で「下ごしらえ」(dress)というやつが必要なのだ。一見、用意された部品を半田で取り付けるだけのように見えながら、実は、部品の爪があらかじめ適当な長さに切ってあり、決して取り付けをまちがわないようにしてあるとか、いろいろ手心が加えてあるのだ。これは、「甘やかし」かもしれないが、重要なのは、自分で作れるという実感を体験することであり、それをやや劇的に体験させることなのだ。
 荷物はけっこう重かったが、バイシャまで歩く。地上を歩いていくとけっこう大変だが、Baixa-Chiado駅の地下道をくぐると、チアードからあっという間にバイシャに出てしまう。バイシャには、イタリア料理店がかたまっている通りがある。その一軒の路上の席で昼食。あとがあるので、飲み物はビール一杯にしておく。味は、あの「女哲学生」の店の方がうまいかもしれない。
 地下鉄でAlamedaまで乗り、The Instituto Superior Tecnico (IST)へ。リカルドの本拠である。ここに「Radio Zero」もある。キャンパスの門を入り、広い前庭を通ってロビーに入ったら、アフリカの象狩りや探検家のような帽子をかぶったリカルドがダンボールの箱をたくさん抱えて立っていた。
 ワークショップは、ほぼ定時にスタートした。リカルドは、「5時までに終わってほしい」とめずらしいことを言うので、ちょっと気勢をそがれた。こういうワークショップには時間の制限はなしにしたい。
 これまでもう何十回も送信機ワークショップをやってきたが、こちらが持っているノウハウを思う存分伝えるほどの時間をたっぷりあたえられ、相手も十分ノウハウを身に着けて帰るというワークショップをやったことはほとんどない。本当は、送信機を作り上げ、電波が出たところからradioartが始まるのだが、電波ができれば、みんな「やったぁ!」と喜び、終わりになる。自分であとから試行錯誤して使うと考えればよいわけだが、わたしには、なにか貴重なことをはしょりすぎているように思える。それが、近年、ワークショップの依頼に対してわたしがいだく躊躇でもある。
 イベリア半島では、今回が初めてで、これはほんのはじまりにすぎないと思えばよいのだろう。このワークショップに参加した一人の男が、終わってからわたしのところに来て、名を名乗り、こういうワークショップを自分の学校でもやりたいと言った。近々またリスボンに来ることになりそうだ。
 6時から、ダイアナやエド・バクスターらによるセミナーがゲーテ・インスティトゥートで開かれることになっていて、リカルドはそのために時間制限をしたのだったが、わたしは、連日のパーティで少し疲れた。自由時間もほしかったので、これでみんなと別れることにした。
 地下鉄でBixa-Chadoへ出て、歩いてホテルへ。やれやれ、すべてのノルマは終わった。魚料理も少し飽きてきた。イタリア料理はもういい。何かちがったものでも食べてみよう。
 明日は飛行機に乗らなければならないので、パッキングをする。たちまち8時ごろになった。ふたたび、外に出る。気の向くままに歩いて行くと、またバイシャに来てしまう。夜のロシオ広場は美しい。が、このへんのレストランは観光客だらけで落ち着かない。これまで連れて行かれた店は地域性があってよかった。・・・と思いながら歩いているうちに足は自然にホテルの方に向いたようで、カモンイス広場の近くにもどっていた。ふと見ると、フレンチレストランがある。普通わたしは、フランス料理は食べない。が、たまにはいいかと思い、ドアーを押す。
 中は意外と大きくて、天井が高い。気取ったゲイっぽいウエイターが出てきて、席に案内する。ややスノビッシュな感じの店。
メニューはなくて、「うちはステーキのおまかせコースだけです」と先ほどのウェイターがフランス語なまりの英語で言う。平均的なポルトガル人の雰囲気とはちがい、ちょっと意地悪っぽい。「ああそう、じゃあ、ぼくはヴェジェタリアンだから、やめようかな」というと、「ヴェジタリアンのコースもあります」とあわてて言う。顔をよく見たら、なかなかカワイイ顔をしている。早く言えよという感じだったが、その理由はあとでわかった。この人は、秘密めいたもの言いが好きなのだ。
 非常に美味なサラダのあと、「ヴェジェタリアン」料理が出てきたとき、見ると、どう見ても肉だ。口に含むと、歯ごたえも「肉」である。「素材は何?」と彼に尋ねると、いたずらっぽ笑顔を見せながら、「シークレット」と言った。が、わたしは、精進料理などで肉そっくりにつくられたものを何度か食べたことがある。ステーキの部分だけをグルテンか何かの擬似「肉」と替えているだけかもしれない。が、ソースが売りのフレンチベースの料理なので、そのソースの凝った味からすると、ソースもすべて植物だけで作っているかもしれない。なかなか、想像力をかきたてられる料理だった。


2008年 09月 23日

●リスボンの「レクチャー・パフォーマンス」

 少し身体が環境に慣れてきたので、リスボン的な朝食を食べようと、市電の通りのカフェに入る。オレンジジュース、ミルク・コーヒー、パイ、最後にエスプレッソ。オレンジジュースは、その場で数個のオレンジを機械に投げ込み、絞った生だった。これが、最高にうまい。パイも、甘くなく、これなら朝でも食べられる。
 ホテルにもどり、準備。昨日現場を見せてもらったが、プロジェクター関係がどこかおぼつかない感じがするので、いくつかのオプションを用意する。
 2時まえ、チアードのあのパスタ屋で昼食。今日は、あの「哲学女性」はいなかった。ペストのソースのタリアテーレ。
 建物の外にパークしていたタクシーで、ゲーテ・インスティトゥートへ行く。モラエスの生家の近くで、最初タクシーの運転手は、「わかっている」と言ったくせに、ぐるぐる遠回りをする。文句を言うと、ポルトガル語で「大丈夫だ、大丈夫だ」と言いながら時間をかせぎ、やっと現場に到着した。海外でタクシーに乗るときは、この程度のことはいつも覚悟しているが、あやしいときは、何語ででもまくしたてると、大体は、(運がよければ)態度を改める。
 エンジニアのアントニオと会い、セッティング。が、なぜか、プロジェクターにコンピュータの画像が出ない。DVDプレイヤーもあるらしいがNTSCは映せないと言う。しばらくして、わたしのプレゼンを補助することになっているマルサが来た。万が一のために持ってきた彼女のマックをプロジェクターにつないでみる。これも映らない。アントニオは、「そんなはずが」と言い、自分のノートPCを持ってきてつなぐ。なるほど、ばっちり映る。では、彼のを借りることにしようと、わたしのUSBスティックからデータを映そうとしたら、彼のWindows Media Playerが、「コーデックがない」とデータを拒否。では、ネットからコーデックを取って、インストールしようとしたが、会場にはネット環境がないという。
 そんななかで、マルサのマックのRGB出力を再度接続してみたら、いきなり映像が出た。そこで、彼女のマック使おうということになり、USBのデータを移し、準備をはじめる。が、わたしのVAIO PC-U1(小さくて軽いので、海外ではいまだに愛用している)の映像が出ないのが理不尽に思い、マルサのマックのコネクターをはずして、わたしのに差し替えて見る。コネクターは同じなのだ。すると、ちゃんと映像が出るではないか。要するに、コネクターが問題だったのだ。最初、彼女のマックがつながらなかったのも、アントニオがくれたケーブルとの接触が悪くて映像が出なかったのだ。わたしのケーブルとは、さらに相性がわるいので、全然映らなかったというわけ。
 わたしのコンピュータが使えるようになったので、5時にはすべてセッティングは終わる。テーブルに半田鏝や工具が並んでいるのが、普通のプレゼンとちがうところ。
 わたしのあと、外のガーデンで演奏をするウィーンのMichael FischerとLale Rodgarkia-Daraが、送信機でガーデン内に音を流したいというので、手伝う。やがて、ほかの面々が姿をあらわし、ビールやワインを飲みながら、歓談。今日モントリオールから着いたというAnna Frizも姿をあらわし、5月の「Deep Wirelss」以来の再会を喜ぶ。
 ミハエルと話をしているとき、彼が、「日本のサウンドアーティストのなかでわたしが一番尊敬するのは刀根康尚です」と言うので、急に親密度が深まった。近々やることになっている「A Tribute for Tone」(刀根のToneと音のToneとをかけたストリーミングのライブイベント)に是非参加してほしいと告げる。
 ガーデンのベンチでのおしゃべりが盛り上がり、わたしは、プレゼンのことを忘れそうだったが、予定時間から1時間ほど遅れて、マルサが呼びに来る。2階の会場へ行くと、50ぐらいの椅子席がすっかり埋まっていた。
 最初、Google Earthで東京からこの場所にズームインする映像(ライブを危ぶみ、ヴィデオにしておいてよかった)を見せ、これを逆回しして、送信におけるサイズの問題に引き込む。送信サイズを拡大するのが送信の夢だったが、インターネットで世界がつながったいまの時代には、こうした「broadcasting」の発想は無意味になっている。ならば、少なくとも、「ラディオアート」は、そういう拡大の概念を越えたレベルで創造作業をしようではないかという提案だ。
 そのほんの一例として、微弱な出力の送信機をその場で作り、それと同じ数個の送信機を使ってラディオアート実験をして見せる。最近、わたしは、送信機と受信機とのループに興味を持っているので、それを実演。会場のPAはあてにならないと思い、少しパワーの出るラジオを2台用意したのがよかった。PAからの大音響よりも、「未完成」で面白い音が出て、聴衆も喜んでくれたと思った。
 しかし、質問の時間になって、真っ先に出たのが、「いま作られた送信機のパワーを上げるにはどうすればいいのですか?」という質問で、わたしは、わたしの「レクチャー・パフォーマンス」が完全に失敗であったことを知らされる。距離を延ばさないという発想の極限で「ラディオアート」を発見すると言ったはずではないか?しかし、必ずこういう質問はある。誰もがアートに関心を持っているわけではないからだ。
 終わって、片付けをしてガーデンに行くと、ミハエルたちの演奏が行われていた。彼はサキソフォンを吹くが、メインはラップトップ・ミュージック。野外のスクリーンにモノクロ映像を映しながらのマルチメディア・パフォーマンス。
 わたしは、ノルマが終わったので、「アーティスト・フリー」のワインとビールをたっぷり飲みながらみなと歓談。
 すべて終わり、近くの路地裏のレストランで打ち上げ。今日が、フェスティバルの公式の初日なのだという。リカルドとこのフェスティバルを立ち上げたPaulo Raposoがはしゃいでいる。今日ベルリンからついたばかりのGilles AubryやパリからのPatrick McGinleyもいる。今夜も帰るのは何時になることか?
http://www.goethe.de/ins/pt/lis/kue/rks/deindex.htm


2008年 09月 20日

●リスボンの「コンヴィヴィアル」パーティ

 近くの教会の鐘の音で目覚めた。窓を半開きにしているのだから、外の音は聞こえる。が、それほど神経にはさわらない。西欧の色々な街に滞在したが、こういうことはめずらしい。パリなどでは、教会の狂ったように鳴る鐘に頭にきたこともある。
 朝食兼昼食に外へ。カフェーでイタリア式に、コーヒーとマフィンのようなものを立ち食いしている人々が多いが、時差ボケの残っているわたしはこれでは足りないので、そういう店を無視しながら市電の通りを歩いていくと、シアードのガレット通りに出た。その奥に「アルマンゼンス・ド・シアード」(Armanzens do Chiado)が見えたので、なかに入る。受付できくと、上にレストラン街があるというので、行って見る。すべてファーストフードの店だが、その一軒が興味を引いた。
 全部女性たちでやっている店で、パスタ、具、ソースを幾種類ものなかから選び、その場で調理してくれる。まだ準備中だったが、哲学科の学生じゃないかと思うような顔をした女性と目があい、「あと5分待って」と言われる。が、まだ開店していないのだ。11時前、コンキリエに、マッシュルーム、乾燥トマト、ゆで卵を具にし、トマトソースであえたのが大皿にもられたのが出来る。赤ワインの小瓶(コルク栓)、ミネラルウォーターもとり、朝のディナーという感じ。決してグルメの味ではないが、このラーメンにも似たカジュアルな調理法とそこそこの味に惹かれ、ちょうど出来上がってウィンドウに並べられたズッキーニやナスなどのラタトゥーユ的なものも試食する。これも水準以上。
 散歩してホテルに帰り、荷物の整理をしていると、外でわたしの名を大声で呼ぶのが聞こえた。リカルドが迎えに来たのだ。少し離れたところにパークしてある車にサラ、クヌート、イギリスから来たXentos Fray Bentozがいる。近くのカフェで彼らは朝食。わたしはビール。それから、鉄道駅(Cais do Sodre)へ。その向こう側にフェリーの発着所がある。船のなかでの雑談は、すべてストリーミングで放送される。
 フェリーの駅のすぐそばにあるフィッシュ・レストランへ行く。いわしの塩焼きがどっとはこばれ、おいしいワインとともに舌鼓を打つ。一人が10匹ぐらい食べていた。この宴会の最中の会話もストリーミングで「ラジオ・ゼロ」から放送され、われわれの日常行動がすべてフェスティヴァルの先行プログラムである。ここでは、たしかに、イヴァン・イリイチが言った「コンヴィヴィアリティ」と放送とが一体化した。
 食後、強い陽射のなかをみんなで散歩。このあたりは、もともと工場地帯であり、いまも少し町工場的なところが残っているが、それらが廃業するなかで、文化的な施設に転用されつつある。水は河だが、すぐ海なので、海岸を歩いているような感じ。
 ふたたびフェリーで鉄道駅にもどったが、昨日パリから20数時間かけてやってきてまだ疲れているというサラとクヌートが、少し休養を取るというので、ダイアナ、ピット、ゼントスとわたしは、列車で2、3駅先の「電気博物館」に行くことになった。そこは、もと発電所だったところを博物館に改造したもの。ロンドンの「テイト・モダン」をまねている。が、展示は、ばらばらで、日本の科学技術館と普通の美術館とをまぜこぜにしたような感じだった。たまたまマリア・カラスの衣装展をやっており、彼女の身体の慰霊を見るような気がして感動的だったが、発電施設を回顧したスペースでは、なぜか、サメの模型や歯型などが併置されていた。
 さんざん歩き、疲れたので、まだ意欲的に見学をしているダイアナらと別れ、鉄道駅からタクシーでホテルへ。室内で使えるはずのWiFiがつながらないので、管理人に言うと、事務所のLANをいつでも使ってくれという。早速、ノートPCを持ち込み、メールをチェック。本当は、自分の部屋で、いろいろデータをダウンロードしながら、23日の「レクチャー・パフォーマンス」の準備をするはずだったが、この分では、工夫がいりそう。が、人のいい管理人の顔を見ていると、腹も立たない。このときも、「ワインでも一杯いかがですか?」と言われ、今夜交流会があるからと、断った。
 あっという間に7時になり、外へ。先ほどの鉄道駅でリカルドと待ち合わせ、近くのレストランに行くことになっていた。スタッフと、到着したばかりのゲストが顔合わせをするのである。が、タクシーで来たときにはあっという間だったので、鉄道駅まで坂を下れば簡単だろうと思っていたが、行けども行けども、駅には近づかない。仕方なく、またタクシーを拾い、駅へ。リカルドとダニエルが待っていた。50分ぐらい遅れたが、このくらいはリスボンでは想定内のようだ。ダニエルとは、ベルリン以来。わたしをリスボンにもたらした陰の仕掛け人。
 また魚料理(わたしは、タコのリゾットを取る)でおいしいワインを飲んで、コンヴィヴィアルなパーティ。この分では、毎日こんな感じになりそう。騒いでいる人々のなかで、たった一人、マリア・カラスを若くしたような美女が終始口を開かずにいたのが気になった。たまたまそこへ、花売りの男が入ってきて、一人一人に花をすすめるが、誰も買わない。わたしのところへ来たとき、「全員に5ユーロでいいから、どうだ」と言うので、買うことにする。大した花ではなかったが、20人以上が一輪づつの花をもらい、その場が盛り上がった。「マリア・カラス」も花を持ってちょっとほほえんだ。
 午前2時まえ、ダニエルと彼の友だちに送られて、ホテルへ。近道を知っている彼らは、石段を小まめに選びながら、歩き、すぐにホテルの近くに。距離的には、そう遠い場所ではなかったのである。


2008年 09月 19日

●リスボンの初日

 毎度のことながら、空港で出国手続きを終えてゲイトに着くと、気が落ち着く。仕事は好きなことしかしていなくても、それからの解放感はさわやかだ。今回は、現地でおいしいワインがたっぷり飲めるはずなので、それまでアルコールは極力控えようと思い、ビールも飲まずに、定時にボーディング。食事のときもアルコールは避けた。
 ところで、飛行機のなかで配られる小瓶のワインを何本も飲んでいる人がいるが、あんなものをよく飲めると思う。おそらく、コンビニで300円で売っているものよりも粗悪なのではないだろうか? そもそも、コルクでなく、アルミの蓋のワインにいいものはないが、そのなかでも相当低級のはずだ。いや、ワインはまだいい。機内食というのは一体何だろうか? 以前は、コース料理の「おままごと」という感じもしたが、この10年間にどんどんレベルが下がり、「TVディナー」よりもひどくなってしまった。もう、機内食はやめた方がいい。わたしは、あらかじめネットで「特別食」を指定するようにしているが、出てくるものは、別に「特別」でも何でもない。ただ、「ヴェジタリアン」なら肉や魚がつかない、「フィッシュメニュー」なら、肉はつかないというだけだ。でも、納得がいけるものを食べられるから、指定はした方がいい。
 夕方の4時すぎ、定時より早く(エールフランスにしてはめずらしい)パリ・シャルル・ドゴール空港に着いた。時差の関係でまだ19日である。これから4時間ほどリスボンへの乗り継ぎ便を待たなければならない。が、外には一切出られないので、飲食はゲート内の店を利用しなければならない。その点、シャルル・ドゴール空港は選択肢が恐ろしく乏しい。ワインの国の空港なのに、おいしいワインを飲ませるスタンドもない。食べ物はファーストフードだけだ。それでも、1時間はジャンクフードを食べたりしてつぶす。あとの1時間は狭いゲート内を散歩。あとの時間、意外と楽に時間をつぶせたのは、メモリープレイヤーでの「音楽鑑賞」だった。
 夜10時すぎ、少し遅れてリスボンに着く。チェックもなく外に出ると、ゲバラ帽をかぶったリカルドがいた。クールなイケメン。彼の車で市内に。リスボンは空港から市内へのアクセスが世界一いい。が、車の進入規制があり、セント・カタリーナにあるアパートメントホテルのまえまでは行けないので、路面電車の通りに車を停め、リカルドがわたしの大きくて重いスーツケースを軽々とかかえて歩き出す。石畳の道は、ヴィム・ヴェンダースの『リスボン物語』やマノエル・デ・オリヴェイラの『階段通りの人々』で見たことがあり、来たこともないのに「なつかしい」感じ。来てよかったという気持ちがみなぎる。いつもこうなのだ。
 チェックインといっても、オーナーに部屋に案内され、鍵を渡されただけ。その部屋が実にいい。5階に位置し、海が近い河が見渡せる。台所道具は完備(外食志向のわたしには無意味だが)している。
 待っていたリカルドとふたたび車で彼の家へ。車をパークしておいた通りに出たら、リカルドが急に走り出した。彼の車の後ろで路面電車が停まり、運転手が路上でタバコを吸っている。線路の上に車がはみ出しているために電車を走らせることが出来ないのだ。 運転手は、「あと5分たっても来なかったらポリスを呼ぼうと思っていた」(リカルドの通訳)と言っただけで、彼をどなりつけたりはしなかった。う~ん、これがポルトガル風か!
 下町から大分北上した(つまり空港に近い)リカルドの家で、フェスティヴァルの主催者の一人のPaulo Raposoやスタッフたちに会う。すでに到着していたDiana McCarthy、Pit Schulutz、Knut Auffermann、Sarah Washingtonが奥から出てきて、再会の熱い抱擁。すぐにそこで、Radio Zeroの番組が始まり、クヌートたちがマイクに向かって演奏を始めた。わたしは、ワインをもらって、ポルトガルで初のワインを楽しむ。
 あまり寝ていないので、午前2時すぎ、ホテルの近くまでリカルドに送ってもらう。その路地に沿って行けば簡単だと彼が言い、わたしもそう認識していたのだが、路地に入ると、全く見当がつかなくなった。というのは、先ほど通ったときはあまり人通りがなかったのに、通りに人がびっしりなのだ。まるで日本のラッシュアワーのよう。通り抜けるのもむずかしい。「リスボンでは勘で道を選んではならない」とのちに肝に銘じたが、起伏が激しいので、知らない道に入り込んでそのまま歩いて行くと、とんでもないところに出てしまう。人はいくらでもいるから、片端から道を尋ねるが、酔っ払っていたり、英語がわからなかったり、別のエリアから来た人間でこのあたりの地理に詳しくなかったりで、全く役に立たなかった。結局最後は、タクシーをつかまえて、ホテルの住所を言い、近くまで届けてもらうことになる。
 週末のリスボンでは、バーがお祭り状態になる。夕方からなかで飲んでいたひとたちが、深夜には外に出て路上でパーティを始める。そういう祭りのただなかにわたしはまぎれ込んでしまったのだ。面白い! 最高だ。
http://www.youinlisbon.com/index.html


2008年 09月 18日

●リスボン行き前夜

 大人げないといえばそれまでなのだが、わたしは、原稿でもパフォーマンスでもその他の約束すべてにおいて、土壇場でぐらつくイデオシンクラシー(癖)を持っている。むろん、そうでない場合もあるが、一旦引き受けておきながら、次第に、あたえられたテーマが凡庸だとか過去にやったことのくりかえしだとかと感じ、いやになるのである。
 今回のリスボン行きは、大分まえから決まっていた。昨年の12月に、リスボンのネットラジオ局「Radio Zero」のリーダーのRicardo Reisから、今年の秋にラディオアートのフェスティヴァルをやるので来てくれないかという連絡をもらった。そのきっかけを作ったのは、昨年11月の「Backyard Radio Berlin」で会ったDaniel Zacariasで、彼はこの集まりにRadio Zeroを代表して来ていた。
 イベリア半島で最初のラディオアート・イヴェントだというのと、リカルドについては、クヌート・アウファーマンからもよく聞いていたので、ためらわずに参加を快諾した。が、段々スケジュールが固まり、わたしにあたえられた「任務」が理論的なプレゼンテイションだとわかったとき、わたしのそれまでの熱が醒め始めた。その点を最初から恐れていたわたしは、早い段階で彼に「non-PowerPoint presentation」ならいいが、ということは伝えておいた。その意味は、コンフェランスでありがちな、文字・画像・映像をPowerPointで見せながらの学術研究発表風のプレゼンはなしの会議にしようということだった。わたしは、講義や講演という形式に飽きている。だから、理論的なことを発表しなければならないときでも、「レクチャー・パフォーマンス」という形式でやらせてもらう。3月のニューカッスルでも、5月のトロントでも、なんとかそのやり方で自分のなかの講義アレルギーを乗り越えた。それは、フェスティヴァル/会議を仕切ったHonor HargerとNadene Theriault-Copelandの柔軟ですばやい対応のおかげだった。
 リカルドの場合は、まだラディオアートへの明確なコンセプトがないためか、ほとんど丸投げ状態だった。これが、わたしの場合問題なのである。原稿でも、「好きなことを何でも書いてください」という注文が一番苦手だ。むしろ、「そんなにコンセプトが出来ているんなら、自分で書けばいいじゃないか」と反発するくらい「押し付けがましい」注文の方が、抵抗精神を刺激されて、いいもの(と自分では思うもの)が出来上がる。
 引き受けておいて、だんだん嫌になると、パターンとして、断りの理由を探しはじめる。そして最後に出すのが健康上の理由である。不思議なことに、行きたくないと思いはじめると、それにつれて体の調子も悪くなる。が、今回は、それ以前に、アコモデイションの問題が舞い込んだ。普通、招待される場合、宿泊先をどうするかという打ち合わせがあるが、今回はそれが一切なかった。あとでわかったのだが、リカルドは、自分の家をゲストの多くに貸し渡するつもりでいて、とにかく、リスボンまで来てくれればいい、あとはどうとでもする(それが「ポルトガル」気質か?)という発想だったようだ。が、いずれにしても、そうした事務的手続きがいいかげんだったのである。わたしは、宿泊先は自分で探さなければならないと思い、ネットでアプローチしてみた。ところが、フリー・インターネット接続があって、エリアが都心でという条件では、超一流ホテル以外はどこもかしこも満席なのである。これは、あとで、この時期に、リスボンで医療関係のコンベンションがあるためであることを知った。
 そんなわけで、一週間ほどまえ、わたしは、行けないという断りのメールをリカルドに送った。すると、彼は一向に動ぜず、それならば、俺の家があるから心配するなという返事をよこした。が、わたしは、近年、海外に行ったときぐらいゆっくりしたいという気持ちが強くなり、孤独を享受できるホテルに泊まることにしている。大体が、別の仕事を片付けて、逃げるようなかっこうで海外に行くので、最終的な準備や構想は、行った先のホテルで立てる。知り合いの家に泊まると、毎日パーティといったことになり、それ自体は楽しいのだが、本番で苦しいことになる。
 リカルドは、その点、ユニークな男だった。率直に事情を話したら、それならちょっと待ってくれというメールから数時間後、わたしが住みたいと思うエリア(Bairro Alto、Baixa、Alfanaのあたり)にあるアパートメント・ホテルを探してくれた。金額もえらく安い。これでは、ドタキャン男も、簡単にチェック・メイトである。
 そんなわけで、一旦は行かないつもりになったリスボン行きが一挙に具体化し、またしてもスーツケースをパックすることになった。ソウルから帰ってひと月もたたないのに、また判で押したような旅行準備をくりかえすことになったのである。
http://radialx.radiozero.pt/eventos_en.html