「シネマノート」  「雑日記」


2008年 08月 25日

●ソウル再訪(4)/Itaewon、Gangnam、Jongno-sam-ga散策

 今日だけわたしの自由な日。明日は早朝の便に乗って日本に帰る。さて、どこへ行くか? 近年は、いつも仕事だけして帰る(らざるをえない)パターンの旅行をしているので、むかしのような遊歩が下手になった。ホテルという空間は好きなので、ホテルでぶらぶらしているのもいい。が、一つ問題は、このホテルのインターネット接続は有料なのだ。コンピュータを接続するとタイマーが出て、使用時間を知らせる。こういうのはどこにもあるが、ネットというのは、いまや「自然」環境のようなものだと思っているわたしには、いらいらする。むろん、コンピュータなど使わずにホテルでのんびり過ごすこともできるだろうが、ネットが身体の一部になってしまったわたしには、ホテルの部屋のような人工的な空間のなかではネットという「自然」の窓がほしくなる。
 ネットを絶った空間は牢獄だから、街に出ようと思う。Itaewonをもう少し見てみたいと思い、地下鉄で昨日と同じ駅に降り立つ。目抜き通りを歩いたあと、東の方に歩く。レストランの歩道に面した席にアメリカ人かイギリス人と思われる客がおり、コーヒーを飲んでいる。アメリカンなホテルもあり、ロビーに入ってみたが、なかは日本のビジネスホテル風だった。ロビーに置いてあったチラシに日本語が見えたので手に取ると、「実弾射撃が楽しめます」という勧誘のチラシだった。
 メインストリートの南側は高台になっており、坂が多い。登りつめたら、イスラム教のモスクがあった。食材の店もある。細い道を下ると、インドレストランもあった。規模は小さいが、たしかにインタナショナル・タウンになっている。
 電子部品の街のことがまだ気になっており、Gangnamにもそんな場所があると聞いたので、行ってみようと思い、Itaewonの地下鉄駅からOksuに出て、3番線で南に下る。しかし、ラジオ街は見つからず、Gangnamのビジネス街で昼食をしただけで時間になった。
 ホテルで1時にバルーシュさんと会う約束をしていた。ひと月にみたない間での再会。ホテルの喫茶店で話す。彼はアジア人に囲まれた西洋人なので、西洋文明とアジア文明の違いの問題に関心がある。まさにイマニュエル・ウォーラーステインが問題にしている「ヨーロッパ的普遍主義」がなぜ世界を支配したのかという問題である。ちょうどわたしは、この本を近々書評(東京新聞)で取り上げることにしていたので、話がはずんだ。
 中国の科学技術の歴史を論じた碩学ジョゼフ・ニーダムによると、アジアの知は「実学」であり、理念的な「普遍性」のなかでヴァリアントを変換していくことをしない。が、彼はもっと重要なことを言っていたと思う。ふとニーダムのことを思い出し、帰ったら、少し再読してみようと思う。
 昨日店が閉まっていたJongno-sam-gaのラジオマーケットのことが忘れられず、夕方、地下鉄で行ってみる。Jongmyo公園を左に見ながら(あいかわらず、路上での飲食交流がさかん)大きな電子マーケットへ。なかに入ると、ほとんどが卸屋で、膨大な量の電子部品が取引されていることがわかる。秋葉原の電子部品もここから来るのではないかと思った。
 そこから横道に入ると、小さな部品屋が立ち並んでいる。電線の専門店があったので、リムーバー液で簡単に皮膜がはずれるエナメル線がほしいというNさんのリクエストを受けて、見本を見せる。その老主人は、無言のまま、いきなりわたしをうながしながら、店を出た。ついて行くと、向かい側の同業者の店のまえで「ここできけ」とばかりの表情をする。面白い。が、その店では所定のものはなく、さらに路地を進む。また電線屋があったので、尋ねると、若い店主は、英語で「テストしてみよう」と言い、店に並んでいる電線をブチブチ切って、次々にリムーバー液に浸すのだった。見事に皮膜が取れるのが見つかり、1巻を購入。そのフランクさと徹底性が気に入った。
 大分歩き、Euljiro-sa-gaの地下鉄駅の近くに来たときに、空から1滴水しぶきが落ちるのを感じた。雨が降るのかなと思ったその数秒後、バケツ一杯の水を頭の上からぶちまけたような勢いで雨が降ってきた。以前、韓国映画のなかの雨のシーンで、雨があまりにタイミングよく急に降ってくるので、映画的な操作かと思ったことがあるが、あの急な降り方は、ソウルではあたりまえなのだった。


2008年 08月 24日

●ソウル再訪(3)/「ソウルの秋葉原」

 昼まえにホテルを出て、地下鉄でItaewonへ。ワークショップに参加したHansolさんからすすめられた場所だ。「国際的」なミックス・カルチャーがあり、米兵同士の喧嘩で人が死んだりする場所もあるというので、是非行ってみたいと思った。
駅でイスラム系の衣装を着けたカップルを見た。ソウルでは初めて。空港でも見かけなかった。うん、これが「街」というもの。通りへ出ると、なぜか「なつかしい」感じがした。路地がサンフランシスコの下町を思い出させる。ひとまわりし、駅を降りてすぐに目についたイタリアン・レストランに入る。朝食をしていない。開店してすぐの時間なので、客は一組だけ。
 前菜にモツァレラチーズのディープフライを取ったが、妙なクリーム味がした。一体に韓国ではクリームの味が特殊だという。簡単に言えばまずいというのだが、わたしはちゃんとした比較をしてはいない。ただし、このモツァレラは特殊だった。カベルネ系ではないものを求めたが、グラスで飲めるのでおすすめはカベルネ系のチリワインだというのでそれにする。わたしはカベルネ系が苦手なのだが、そう悪くはなかった。パスタはアラビアータのソースのスパゲッティ。韓国で唐辛子を使ったものを食べるのは、面白い。アラビアータが「キムチ味」と接近遭遇するようなところがあり、その店がどの程度「異国味」を意識しているかがわかるからだ。キムチに使うのと同じ唐辛子を使うと、アラビアータが韓国味になってしまうわけだが、この店のはそうでもなかった。麺の国なので、パスタの茹で方はどこも(ヨーロッパより)繊細だが、ここのも悪くなかった。
 通りを歩き回っているうちにあっという間に時間がたち、ホテルでリムさんと待ち合わせをする時間が近づいた。地下鉄でもどるが、出口をまちがえ、遠回りをした。ロビーを見回すと、リムさんはおらず、Seung-junさんの姿があった。昨日、リムさんは、わたしを「ソウルの秋葉原」と(日本では)言われるYongsanに案内すると言った。どうやら、彼が映画の編集で動けなくなり、代わりにSeug-junさんが来たらしい。
 Yongsanには、前に一度行ったたことがあるが、猛烈暑い日で時間もなく、駅の周辺の店を見ただけだった。が、その経験だけでも、ヨンサンを「ソウルの秋葉原」と言うのはまちがいであることがわかった。むしろ、秋葉原が「東京のヨンサン」なのであり、店舗の規模や数は秋葉原をはるかに上回るのだ。
 少し道に迷ったが、遊歩と会話を楽しみながら、Seung-junとヨンサンの駅の向こう側に行く。教会帰りのファミリーなどの姿もあり、彼は、「このあたりの人はみなクリスチャンだから、店も閉まっているかもしれない」と言う。たしかに、部品をあつかっているらしい小さな店はみな閉まっていた。が、だんだんわかってきたことは、そもそも、このあたりは、完成品の店が主で、もはや電子部品屋街ではなくなっているということだった。そういえば、前回、SFXのバルーシュさんが、電子部品屋はJongnoだと言っていたのを思い出した。また、SFXでわたしの世話をしてくれたミンソさんが、わたしのために作ってくれた電子街マップが、(もらったときはヨンサンのだと思っていたのだが)実は、Jongnoのラジオマーケットのものであることに気づいた。
 巨大なYongsan駅にもどり、Jongno-sam-gaまで乗る。駅を出たら、とたんに雰囲気が他とはちがっていることに気づいた。路上の飲食パーティがいたるところで行われているのだ。アルコール類は、ビールよりもマッコリ。ぐっと「庶民的」で、わたしが日本で目にした在日韓国人・朝鮮人の街の雰囲気に近いのである。Seung-junさんにとっても、こういう雰囲気はめずらしいらしい。たしかにホンデあたりとは全く違う雰囲気だ。
ミンソさんの地図が最終的に役立って、ソウルで最大の電子街Seunアーケードにたどり着いた。残念ながら、ここも多くの店が閉まっており、ところどころにしか人がいない。半開きになっている店に近づいてみると、店のまえで魚などをグツグツ煮ながらマッコリを飲んでいるおじさんがいたりする。とにかく今日は休みなのだ。が、迷路のようになった路地をどんどん進むと、いたるところに旋盤で加工した部品などがならんでいるエリアに入りこんでしまった。「いいねぇ、映画を撮るにはもってこいの雰囲気だね」とわたし。
 二人でさんざん歩きまわり、火事があって廃墟となったと彼が説明するアパートビルなどを見ながら、Euljiro-sam-gaまで来てしまう。彼と再会を約して別れたあと、Euljiro-il-gaのあたりを歩きまわる。同じ場所を2,3度まわったら、50歳すぎぐらいの女性に英語で声をかけられた。わたしを香港の中国人だと思ったという。英語がうまいですねと言うと、学校で英語を教えていると言った。これからどうするときくので、街のサウンドスケープをリサーチしているのだと答えると、とまどった表情をした。「商売」系というより、「諜報」系という感じの人。


2008年 08月 23日

●ソウル再訪(2)/ワークショップ

 日本と時差はないのに、ヨーロッパやカナダに行ったときと同じように、早起きをする。なぜだろう? 朝食をしようと、外に出たら、ホテルの入口にウェディングドレスを着た女性とその父親らしい人がいた。彼女と彼の着ているものがバリッとしており、まるで50年代のハリウッド映画の感じだ。韓国では整形率が高いというが、彼女の「女優」のような顔も整形だろうか?
 韓国の朝食のスタンダードというのを知らない(ほとんど予備知識なしで来ている)ので、開いている店があっても、入りづらい。若い人は、スターバックスやその類似の店でパンとコーヒーなんかを食べている。が、海外に来ると、朝、腹が減るという癖があるわたしは、もうちょっとしっかりと食べたいなと思う。結局、ホテルにもどり、そのレストランで「アメリカン・ブレクファースト」を取る。が、これは、ひどかった。どうやら、このホテルは、「虚飾」傾向が強いところらしく、格好だけ「洋風」をよそおっているのだ。けっこうの値段なのに、量も少ない。
 昼まえ、材料と道具をつめた大きなバッグをかかえて、地下鉄でHongiku University駅へ。街の人に道を訊きながら、現場のSsamzie Spaceへ。入口のガラスのドアを押し、なかを見てびっくり。何とその1階の全スペースが、あの「ラジオホームラン」展になっていた。前田敏行が十数年にわたって撮り続けた写真を壁一面に張り、その由来が表示されている。奥では、加藤到や伊藤陽宏が撮ったビデオがプロジェクターでくりかえし上映されている。写真もビデオも、リムさんの依頼でわたしがネット経由で送ったファイルからのものだが、こんな使い方をするとは思わなかった。彼の言では、「いまソウルには、ラジオホームランが必要なんです」と言う。彼は、日本の80年代にことのほか思い入れをしており、ソウルのアートや都市文化が日本の80年代と共通するものがあるのだという。
 彼らが担当するスペースの総テーマが、「Useless Resistance Zone」だということはメールで聞いていた。その意味なら、わたしのワークショップは、(1)作る送信機は大して電波は飛ばない(2)使用する部品はいまでは「無用」のアナログ製品(3)それが本領を発揮するのは、メッセージの伝達としては「無用」であり、まさに「Useless Resistance Zone」のテーマにぴったりだとはメールで告げていた。しかし、こういう形の展示をやるとは思わなかった。地下には、延々と雑談しながらzineなどのアイデアをつむいで行くグループ「Irregular Job Zombie」のコーナーもある。
 ワークショップの通訳はヘレンさんがやり、順調に進む。やり方は、またしても「アジア」方式で、床にゴザを敷き、そのうえに段ボール箱をならべて、座ってやった。何度も腰を折らなければならないので、畳生活を半世紀もしていないわたしにはつらい。が、全員送信機を作りあげ、解散。今回も、ノイズミュージシャンのSeung-Junさんが熱心に参加してくれた。ギャラリーの女性から、古典的な麦藁帽(かつて日本では多くの人がかぶっていたが、日本でも韓国でももう街では見かけない)をプレゼントされた。
 打上の場所に行く途中、Nemafの企画の中心になっているIgongというスペースに連れていかれた。そのリーダ格のKim Yannhoさんが出てきて、わたしにNemafの資料とTシャツの包みをどさっと渡す。路地裏の居酒屋・食堂で飯を食いながら話をしているうちに、彼女がシューリー・チェン(Shu Lea Chang) の知り合いであることがわかった。特別展をやったという高山仁監督の話なども出て、日本の「左翼運動」の話になる。
近所でNemafのプログラムの「オールタナティヴ映像展」が野外で行われており、ビールも出るから行かないかというので、みんなで行く。荷物が重いので歩くのはつらいなと思ったが、日本語を話すハンソルさんが断固としてわたしのバッグを持ち、十数分の道をわたしは手ぶらで歩くことが出来た。ヤンホさんもそうだが、年令的に少し上のせいか、年上の者を敬うといった韓国の古い文化を維持している感じ。
 野外のスクリーンに次々と上映されたのは、いわゆる実験映像だが、わたしは、Lim Mi Rangの「Voiceover God」という作品を面白く見た。時代をニュースのコラージュなどを使って批判的にとらえている。
 タクシーで遅くホテルに帰り、ビール。
http://www.nemaf.net/bbs/view.php?id=2008_daily&no=39&category=&page=1


2008年 08月 22日

●ソウル再訪(1)/インチョンから市内に

 実は、前回の訪韓は、順序が逆だった。今回のは、ずいぶんまえから計画されていたのである。ほぼ1年前、Lim Kyung Yongという人から突然メールをもらった。彼は、Mediabus Publicationという活動をやっており、そのムックにわたしの「Toward Polymorphous Radio」という論文を転載したいというのだった。この文章は、もともと、Banff Centre for the Artsの論集『RADIO rethink: arts, sound and transmission』(1994)のために書き下ろした文章であるが、すでにわたしのanarchyサイトにコピーライト・フリーで掲載してしまっているので、わたしはすぐに全然問題ないむねをリムさんに伝えた。
 以後、メール交換がはじまり、一度ソウルでミニFMと送信機製作のワークショップか何かをやってくれないかという話になった。韓国は、わたしにとっては、近くて遠い国であったので、機会があれば是非行きたいと思っていた。「近い」というのは、キム・ジハ以来、わたしは韓国の文化や政治運動から多くを学んだし、心情的に支援もしたからだ。この10年の韓国映画の飛躍にも関心を強めてきた。「遠い」というのは、「軍事政権」のイメージや、韓国の活動家をまじえた集会などに「KCIA」とおぼしき人がいたり
その昔ソウル経由でニューヨークに行ったときに空港で受けた厳しいチェックといった陰惨なイメージがつきまとっていたからだ。それは、大分まえにわたしのなかで消えつつあったが、ラジオ関係でしか海外に行かない(まあ、ほかに暇もない)ので、ソウルに行く機会はなかった。しかし、2年ほどまえ、放送法が変わったり、ラジオの風向きがわたしの方に向いてきた。
 ワークショップなどの打ち合わせをリムさんとしている3月のある日、わたしは、まえに書いたSFXのJi-Yoon Yangさんからメールが届いた。そのとき、わたしは、てっきりリムさんの根回しか何かで彼女がわたしにコンタクトしてきたのかと思った。事実はそうではなく、両者は無関係で、SFXの方はカナダ・コネクションだったのだ。
 SFXの招待が来てから、リムさんに、どうせなら、SFX主催のわたしのワークショップに合流しないかと提案した。が、彼は、その時期に、別の企画を進めていた。それは、毎年行われる「Nemaf」(New Media Festival in Seoul)のなかにわたしの招待を突っ込むことだった。奇しくも、それが、SFXと同時進行しており、そのためにわたしは、2度にに分けてソウル訪問をすることになったのである。
 ソウルまでは、飛行機であっという間だが、荷物のパッキングや成田へ行き、ボーディングを待つのは、ヨーロッパへ行くのと変わりがない。午前11時すぎ、成田に着き、チェックイン。バーでビールを飲みながら待つ。ある意味では無駄でバカな時間だが、ふだんはしない瞑想の時間をすごせる。今回は、アシアナ航空を使ったが、この会社は、いまどきめずらしいサービスぶりで驚いた。欧米の飛行機のサービスはますますひどくなっているので、その差が新鮮だったのだ。「古きよさ」を新しい感覚でとらえなおしているというのは、ほめすぎか?
 前回の経験で、インチョン空港から市内に入るには、バスが一番であることがわかったので、イミグレイション(けっこう念入り)が終わって外に出ると、12Aの乗り場から6015というバスに乗った。最初のストップ地がマッポで、わたしのホテルは、バス停の真向かいだった。
 チェックインしてしばらくして、リムさんのパートナーのヘレンさんから電話が入った。流暢な英語。韓国人ではないのかと思ったが、あとでれっきとした韓国人であることがわかった。2時間ぐらいしたら、彼がホテルに来るという。じゃあ、少し散歩でもしようかと窓外を見たら、さきほどはそうではなかったのに、どしゃぶりになっていた。傘を買いながら散歩しようと外に出たが、ソウルの雨はディープで、たちまちぐっしょりと濡れてしまった。コンビニ(実に多い)でビニール傘を買い、周囲を歩きまわる。居酒屋風の店が立ち並ぶ一画があり、ちょっと下北沢に似ている。
 8時すぎ、リムさんが、友人のシムさんを連れてホテルに来た。初めて会うが、そんな感じはしない。会話はすべて英語。すぐに外へ出て、先ほどわたしが見たあたりのだがマーケットのなかの細い道の奥にある非常に庶民的な食堂に行く。肉を食べないわたしのために豆腐と野菜の料理を取ってくれたが、なかなかうまかった。2人は、映画製作の仲間で、映画の話で盛り上がった。
 明日のワークショップのスペース(Ssamzie)を見ておいた方がいいということになり、地下鉄でSangusまで行き、ホンデの現場に向かった。このあたりは、前回も見たが、実に活気づいている。むかしのニューヨークのヴィレッジみたいだ。大分歩いたが、現場はすでに鍵が閉まっており、部屋そのものを見ることはできなかった。
 近くの居酒屋にヘレンさんたちがいるというので、合流する。zineを作るワークショップのあとの交流会だとのことで、彼女の生徒たちが何人もいた。みな、ビールを飲んでいるが、旧世代のように強い酒をがぶ飲みするようなことはしない。全然飲まない若者もいる。帰りは、タクシーでホテルへ。
http://www.nemaf.net/bbs/view.php?id=2008_daily&no=5&category=&page=2


2008年 08月 07日

●真夏のアジア風ワークショップ

7時に起きて、コンピュータを開いたら、バルーシュから、今日のワークショップの道具と機材についての問い合わせのメールが入っていた。深夜に入れたらしい。今日の午前に買いに行くという。相当な泥縄である。来るまえからさんざん説明したことを繰り返しているので、ちょっとムカっとして、メールの返事に、昨日のシンポのお客の反応のひどさについても書いてしまう。
 8時すぎにラウンジに行き、朝食を食べる。インド系の人と目が合い、話しを始める。アメリカの大学の先生で、経済学の集中講義に来たという。
 部屋にもどると、バルーシュから3通もメールが入っている。「軍事政権がつづいた韓国では、依然、オールタナティヴな発想はデリケートで・・・」、しかし「わたしたちが必要だったのは、あなたの発表だけであって・・・」などと書いてある。おいおい、あの日は、「Vaseline Project」のような「過激」なのもあったじゃないかと思うが、彼は、わたしが相当気分を害していると思ったらしい。わたしとしては、相手がカナダ人だから直裁にものを言ってもいいと思ったのだったが、彼は、長い韓国滞在ですっかり「年長者を敬う」文化に染まってしまったらしい。彼は、この3ヶ月間の打ち合わせのメールのなかでも、「Hi Tetsuo」はむろんのこと、「Dear Tetsuo」とも書かなかった。「Professor Kogawa」なのだ。
 ワークショップの準備をしていると、Helenから電話が入った。彼女は、Lim Kyung Yongのパートナーで、流暢な英語をしゃべる。今日、8月16日から始まる「Nemaf」(New Media Festival in Soul)の打ち合わせをしたいという。ワークショップをひかえているので、きついので、ギャラリーに来てもらうことにする。
 昼になって、いささか「健康」にも腹がすいたので、(夜のワークショップがひかえているので)「味見実験」はできないと思い、Hyundaiデパートの10階にあるイタリアンに行く。カースビールを飲み、ワインをとり、前菜とパスタを食べた。味は、日本のデパートにある「有名店」ぐらいの味。
 ホテルにもどり、それから、地下鉄でHUTギャラリーへ。ヘレンが待っており、外へ。会うまでは、その名から、てっきり非韓国人だと思っていたら、キム・ヒソンにちょっと似た韓国人だった。
 ヘレンの電話を受けて、しばらくして路上にふらりと現れたのは、韓国というより、中国の農村出身の大人〔たいじん〕(身体が大きいわけではない)といった感じの青年だった。このリムくんとは、もう1年以上もメールのやりとりをしてきたが、会うのは今日が初めてだ。タクシーでSsamzie Spaceの近くのカフェに行って打ち合わせをする。
 3時まえ、HATギャラリーまでリムくんの案内で遊歩。短時間ながら、街のディテイルに触れることができた。
 HATギャラリーに着き、すぐに準備をはじめる。とにかく暑い。水を2本買ってきたが、すぐに飲んでしまう。細かい部品を12人分えりわけなければならないが、部屋が暗く、部品の文字が見えないので、外に出てやることにする。大分たって、下から横長の重そうなテーブル(というより「ちゃぶ台」)が運ばれてきた。なんと、運んでいるのは全員女性たち。男はどうしたのか?
 部品の配分をしている途中で、部品が足りないことに気づく。実は、これ、部屋が暗かったので、色のバーコードを読み違えていたのだったが、ホテルに取りにもどる必要を感じる。どうも、今日は運がよくない予感。タクシーはすぐにつかまり、部品を持って、もどる。普通は、ストックも全部持って出るのだが、わたしの無意識のどこかで、「この程度でいいか」といった意識がはたらいていたのかもしれない。すでに、ワークショップが始まる6時になっており、タクシーでギャラリーの近くに来たら、ジユーンが、心配そうな顔で外に出ていた。
 部屋が狭く、暑く、おまけに参加者が座って半田付けするので、一人一人の世話をやくとき、いちいち腰を下ろさなければならず、わたしには相当の苦行であったが、9時すぎ、全員がFM送信機を完成させて、みな興奮の面持ちで帰っていった。ワークショップのあいだ、バルーシュとジューンは、かたわらのマイクで部屋の模様を放送し、ときどき、めんどうを見る手を休めて、わたしもしゃべった。まあ、1998年のブリュッセルのときに次ぐ「異様」なワークショップだったが、やった意義はあったと思う。
 9時すぎ、ワークショップも見学したネットマガジン『East bridge』のSonya Kimのインタヴューを受ける。1階の涼しい展示会場で話す。質問が的を得ているので、1時間近く話してしまう。
 10時すぎ、近くの居酒屋で打上。深夜近く、ジユーンの運転する車でホテルに送られる。疲れたが、そのまま寝る気にはならず、といってどこかのバーに行くエネルギーはなさそうなので、ビールを飲むことにする。


2008年 08月 06日

●いやいやながら講演をする

 海外に出ると早起きになる。日本と同時間のソウルでも早く起きた。今日は朝食付のサービスを試してみようと、14階の「ラウンジ」に行ってびっくり。エレベータを出ると、すぐにテーブルがあり、人が並んでいる。泊り客であるかどうかのチェックもない。大半はビジネスマン風の韓国人。並んでいる食事は、一応「コンチネンタル」。人々は、無言でどんどんパンやスープや果物を取ってテーブルに行き、無表情で食べている。形式は「ビュフェ」(日本では、その昔、帝国ホテルが造語した「バイキング」が一般化しているが、これは海外では通じない)だが、どこかちがう。食べ終わると、皿を返すのだが、残ったもの、ナイフ、フォークを別々の「穴」に放り込む。たしかに、合理的ではある。いや、世界で一番合理的な「ビュフェ」式朝食ではないか?
 部屋に帰って、今日の「講演」の準備を始める。わたしは、「講演」はしないとバルーシュに言ったのだが、無理矢理やらされることになった。おそらく、謝礼を捻出する関係でそうなったのだろう。
 昼ごろ、Minsoさんが「Sorry, sorry」と言いながら迎えに来る。別に謝らなくていいのだが、地下鉄をまちがえて15分遅れたのを詫びる。かえってこちらが恐縮。タクシーに乗せられ、Soongsil大学へ。新しい、とてもアメリカンなキャンパス。学生たちも優雅。環境は、わたしのいる大学なんかよりはるかにいいのではないかと思う。
1時から始まったシンポは、Sound Effects Seoul Radio 2008のキュレイター、Ji Yoon Yangのイントロで始まり、サウンドアートについての「学会」風の発表が続いた。サウンドスケープ・デザイナーのBahn Do-heonがホイスパリングで通訳しようとしてくれたが、すべて韓国語のスピーチなので、ジユーンのスピーチでわたしの仕事への言及があったことぐらいしか、内容はほとんどわからなかった。
 3時からは、バルーシュが英語でイントロをやり、それからわたしの番になる。マイクロラジオとそのセラピューティックな機能についてパワーポイントを使って話した。英語から韓国語への通訳はジユーンがやってくれた。ヨーロッパやカナダで話をするときのような反響は感じられなかった。そのあと、2004年から始まった新放送法のもとで「Mapo FM」コミュニティラジオをやっているchangjiu Kimと、「Vaseline Project」という移動ラジオ(不法)をやっているSangmoo Chungがプレゼンし、ジユーンのホイスパリングで理解できる範囲でも、なかなか面白く感じた。質問の時間に、(あとで、昨日も来てくれたノイズミュージッシャンのPark Seung Junだとわかった)若い人が「ラジオホームラン」の内容について少し突っ込んだ質問をしてくれ、話が進んだ。
 終わって、近くの居酒屋風の韓国レストランへ打ち上げに行く。知らなかったのだが、その店は、第1部で話をしたJieun Rhee教授のおすすめの「カルビがうまい」店なのだった。しかし、わたしは肉を食べないので、教授の歓待に応えることができなかった。教授は表情を変えず、「魚もうまいですよ」と英語で言い、焼き魚や豆腐と野菜の鍋などを注文してくれた。それらはみなうまかったが、ふと気づくと、全員が肉ではなく、魚を取っているのだった。ここでは孔子道徳(?)が生きており、あくまでゲストを立てるのだ。恐縮。


2008年 08月 05日

●ソウルでのパフォーマンス

 昨夜、今日のパフォーマンスの準備などをしていて、起きるのが9時をすぎた。日本では、こんな時間に起きることはないが、ホテル暮らしのときは、「正常」の時間帯の生活になる。
 遅い朝食あるいは早めの昼食をしようと、ホテルの周囲を少し歩く。路地裏の小さな店で見るからにうまそうなものを食べさせているのだが、注文の仕方がわからない。肉を食べないので、外見で頼んで出てきたものが肉系ではいやなので、結局、伝統料理を食べるのは、今夜にのばすことにし、近くのヒュンダイ・デパートの10階のレストラン街でインド料理を食べる。まずCassビールを一杯。早いので、客はほとんどいない。習慣でウェイトレスがいちいち頭を下げるので、恐縮してしまう。昨日、ナンデエモンの街頭でペコりと頭を下げる人がいるので、知っている人かと思ったら、食べ物屋のビラを配っているおばさんだった。で、インド料理だが、少し気取っている店らしく、量が少ないうえに、味にパンチがない(韓国料理の辛さに対抗するパンチがない)不思議なインド料理だった。
 ホテルにもどり、明日しゃべるレクチャーの英文原稿を書いていたら、突然、停電になった。雷もなしに白昼いきなり停電という経験はしばらくぶりなので、新鮮な驚きがあったが、10分後には復帰した。
 3時すぎ、機材を詰め込んだバッグをかかえて、地下鉄に乗る。ソウルのタクシーは安いので、500円も出せば、現場に直接行けるのだが、街を歩いてみたかったのだ。ホンギク大学駅で降り、SFXのパンフの地図を見たら、ハングルでしか場所が書かれていなかった。仕方なく、昨日の体感記憶をよびさまし、それを頼りに歩く。スターバックスと「魚」という文字の看板を覚えていたので、そこを左折し、しばらく行くと、カジュアルなブティックなどが立ち並ぶ通りに出たので、そこをしばらく行くと、明瞭に記憶されている通りが見えた。
 3時すぎにHATギャラリーについて、セッティング。一応、オープニングのメインイヴェントということになっているので、緊張して早めに来たが、昨日頼んだものはまだ用意されていない。しばらくして、企画者の一人のJi-Yoon Yangさんがあらわれた。わたしに最初にメールをよこしたのは彼女だ。ちょっとイ・ヨンエに似ている。メインの企画者のBaruchは、せわしげに動きまわっている。メインのスペースと別室のようになった空間の両方でビデオを映すことになっていたので、「自由ラジオからラジオアートへ」というテーマのDVDを何枚か編集して持ってきたのだが、その上映環境の準備が出来ていない。そのうち、『EAST bridge』というネットジャーナルがインタヴューしたいが、いいかという話。いいけど、そんなことより、はやくアンプを出してくれよと思いながら、5時すぎにはセッティングを終える。
 6時すぎにスタートなので、一旦ギャラリーを出て、あたりを歩く。ギャラリーが何軒もあり、ホンデでも「ジェントリフィケーション」が始まったという感じ。イタリアンキャフェを見つけ、入る。エスプレッソを飲みながら、外をながめ、気を休める。パフォーマンスや講演のまえに過ごすこういう空白の時間が好きだ。ときとして、そのままさぼってしまいたいと思うこともある。
 HATギャラリーの一階では、壁にスピーカーを埋め込んだインスタレーションや、壁からセンサー付のスピーカをぶら下げたインスタレーションなどが展示されている。こちらは、フロアの一角に飲み物と食べ物などを出し、いわゆるオープニングの雰囲気だ。その客たちが、1階をしばらく散策したのち、2階にやって来る仕組み。が、6時まえに2階にもどったら、床に客がたくさん座っていた。そのうち、狭いスペースが人でびっしりになった。わたしは、隣室で時間を待つ。ここだけが冷房が効いている。パフォーマンスのスペースはすでに相当の温度。
 わたしがやったのは、小さな送信機で電磁波の重層的環境を作り、それを両手の微妙な動きで変化させ、それを音として表現する(映像でもいいのだが)という近年入れ込んでいるヴァージョン。が、面白かったのは、温度と湿気のために、ヨーロッパで演ったときには、わずかの手の動きで変化したリアクタンスが、一向に変わらず、その分、大きな手の動きを要求されたことだった。
 第1部を好評のうちに終わり、質問のコーナーになった。この模様はすべて101.5MHzの「SFX&.html#39;08」でライブ放送されたのだが、客のなかにはノイズミュージシャンやキュレイターもいたので、けっこう実のある質問が出た。
 インターミッションののちの第2部では、第1部で出した(たまたま出た)音と同質のものをシンセサイザーとエフェクターで出す試み。要するに、なぜ電波と戯れるのか、音だけならば、コンピュータで済むでしょうということを実証して見せる。
 打上は、居酒屋風の店で、鍋物をみなでつついて食べた。飲み物は大半がビールで、「酒」を飲んだのは、カナダ人の(親しみのない)女子学生だけだった。バルーシュの教え子らしい。
 タクシーを拾ってもらってホテルへ。毎度のことながら、すぐには眠りにつけそうもないので、近くのコンビニへビールを買いに行く。
http://www.koreatimes.co.kr/www/news/art/2008/08/148_29672.html


2008年 08月 04日

●初めてのソウル

 ソウルのインチョン国際空港に着き、通関を済ませてロビーに出ると、「Cogawa Tetsuo」という紙を持った学生風の女性がいた。「Kogawa」を書きまちがえたらしい。SFX (Sound Effects Seoul Radio) 2008のボランティアのMinosoさんで、以後、正味4日間、キメの細かいアシスタント役をしてくれた。
 エアポートバスに案内され、1時間ほどでシンチョンの繁華街に着いた。荷物が重いので、バスだとヤバイなと思ったが、ホテルまではすぐだった。陽射(ひざし)の暑い路上の屋台車で何やら真っ赤なものをぐつぐつ煮ながら売っているおばさん。それは、どうやらイタリア料理のニョッキのようなものらしい。ホテルでチェックインの作業を済ませ(パスポートは、さっとスキャナーにかけてコピーを取るところがテクノ先進国の韓国らしい)、Minsoさんが現場の下見に連れて行ってくれるというので、部屋(簡易なキッチンのついた広い部屋)まで来てもらう。部屋に入ったら彼女が緊張したのはおかしかった。
現場の電波状況を調べるための用具だけをバッグに入れて、ホンデ(Hondae)のハット・ギャラリー(Hut Gallery)へ向かう。街を見たいので、歩くことにした。なぜか、結婚衣装の店が多い。看板はほとんどハングルだけだが、街の雰囲気はわたしには「ヨーロッパ」を感じさせた。路地には、外見が日本のそれに似たところもたくさんあるが、日本の都市とは基本がちがうような気がした。ソウルに「文字化けした東京」を見る人もいるようだが、全然ちがうと思った。
 ホンギク大学駅が近づくと、急にあたりが「ロンドン」風になってきた。これも、池袋や渋谷とはちがう。う~ん、これは、予想以上にわたしの体質に合っているなぁと思いながら、(高い建物を省略した)ニューヨークのイーストヴィレッジのような一角を抜けて、路地を入ると、ボヘミアン・カルチャー的な雰囲気をただよわせたスペースが見えた。
 わたしを呼んだバルーシュ・ゴットリープ(Baruch Gottlieb)が出てきて、「ついに会えましたね」と固い握手をする。彼は、20年まえにわたしがモントリオール・ツアーをしたときから、わたしに関心を持っていたという。2階の全フロアーをあてがわれたが、オーディオシステムはなく、ギターアンプを用意してもらうことにした。すでに別のビルに10ワットのFM送信機がセットされ、この部屋の一角にしつらえられたマイクから、このスペースの音が放送されるようになっていた。免許は取っていないので、「海賊放送」ということになるが、2004年以後、韓国の放送は日本とは大違いに「自由化」の道を進み始めた。まだ、商業的な「自由化」が主流だが、ポテンシャルとしては、「自由ラジオ」の可能性がある。
 打ち合わせを済ませ、ギャラリーを去る。路地は、日本とも似たところがある。ホンギク大学駅まで歩き、地下鉄に乗る。駅の表示に必ずアルファベットが併記されており、車中からそれがはっきりと読めるので、迷うことがない。市内の中心部ならたったの9000ウォン(約100円ほど)で行けるというのもすばらしい。Minosoさんが用意してくれた英語表記だけの地下鉄地図もありがたい。日本では、韓国の町名や人名を漢字表記する悪習がまだ続いているので、まわりくどい。たとえば、「シンチョン」とか「Sinchon」と表記すれば済むのに、「新村」などと書くので、どう発音してよいかわからない。漢字は、韓国では、中国と日本の支配のいまわしき記憶を思い出させる記号でるわけだから、日本でも、もうそろそろ漢字表記をするのをやめた方がいい。地下鉄は、「弱冷房車」や「優先席」があり、日本と似ているが、「優先席」に若者や中年は座らないのが違う。
 ホンデは、学生街でもあるからか、日本ではよく出会う「アクの強い」感じというか、存在感があるというか、そういう感じの韓国人に出会わない。(その後、ジョングロサムガのジョンミョ公園の近くに行ったら、そういうタイプの人だらけだった)。みな、モダンであり、しかも、肥満している人がほとんどいない。地下鉄のなかで人々は(日本のように)ためらうことなくケータイを使っている。これも、ヨーロッパと同じである。野菜を売るおばさんとか、子供に手を引かれた盲目の物乞いなども欧米的。
 シティ・ホールで降りて、体感にまかせて歩いて行ったら、ナムデムン・マーケットに出てしまった。ここは、アメ横と昔の下北沢を合わせて、思い切りスケールを大きくしたような場所だった。さらに歩いて行くと、ブランドものの店が立ち並ぶ通りに入った。ミョンドンである。ここは、原宿・青山的でもあるが、むしろ、ロンドンのソーホーやニューヨークのヴィレッジの方に近さを感じさせる。
 腹がすいたので、たまたま目についたイタリアン・レストランに入る。わたしは、海外に行くと、必ず一度はイタリアンを食べて見る。好きであるのが最大の理由だが、いつもいろいろな国でイタリアンを食べているので、異郷に来てイタリアンを食べると、その土地の食感覚がわかるのだ。せっかくソウルに来たのだから、コリアン・フードを食べた方がいいのだろうが、そのチャンスは明日以後、いやおうなく訪れるはずだ。
 そのイタリア料理店のなかは、ズキンとするほど冷房が強く、汗になった身体には少しきつかった。地下鉄の冷房も、かなりきつく、ひと昔まえのアメリカの感じ。で、料理:パスタは(麺の文化のせいか)なかなかうまい茹で加減だったが、アラビアータの唐辛子の味は、キムチと同じにおいがした。クリーム系のものが「特殊」だとはきいていたが、モツァレラ・チーズも、甘みの強いクリームのような味がした。値段は、同等のものとしては、日本より安い。
 シンチョン駅にもどり、コンビニ(実に多い)でビールを買って帰る。暑いので、昼間から何度もビールを飲んだが、なぜか「バドワイザー」がうまいのだ。韓国製のCassもうまいが、こんなのビールじゃないと思っていたバドワイザーがうまいのは、なぜかと考えた。こちらの味覚の変化のためか、それ自体の違いか?
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