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2008年 06月 10日
●ユニークであること
秋葉原の殺人者には、既存の無差別殺人の一歩先に行こうという競争意識があったらしいという。競争社会化が進むという定型的な認識の延長線上で構築された定型的な解説かもしれないが、一理はある。
今日、ゼミでデジタル録音機を使い、18人の参加者がひとことずつ、きわめて恣意的な言葉や文章を発声して録音し、それを一続きにして再生するという実験をやった。カット・アップとコラージュの応用である。
面白いと思ったのは、みな、他の人が言わないことを言おうとしている姿勢が濃厚なことだった。以前にも別のメディア機器をつかって似たような実験をやったことがあったが、そのときは、まわりを意識して「和」をたっとぶような発言が多かった。だから、あとで一続きで再生すると、全体としてなんとなくつながりが出来たりしたのだった。
今回も、漠然としたつながりはないわけではないが、他を抜きん出ようという競争意識がはるかに強いのである。しかし、ここには、もう少し微妙な要素があり、彼や彼女らは、必ずしも他を圧して自分が頂点に立ちたいと思っているわけではないのだ。
おそらく、本当に望んでいることは、ユニークであるということだと思う。が、ユニークであるということ、しかも社会的に自分のユニークさを輝かしく提示することは、なまやさしいことではない。天才は別に努力しなくても、そのままでユニークさが出る。しかし、すべてが天才にはなれない。
そこで、てっとり早い方法として、他に抜きん出るという競争原理が導入される。しかし、一番になればユニークになれるのかというと、そうとはかぎらない。凡庸な集団のなかで一番になっても、ユニークさへの道は一向に近づかない。
とはいえ、「唯一性」(サンギュラリテ)という見地から考えれば、人はみな「唯一」であり、ユニークで「天才」なのだ。幼児はみな「天才」である。それが「凡才」になるのは、グループや制度の凡庸さであり、それらの拘束である。
競争による方法ではなく、ユニークさを解放できる方法があるはずだ。が、それはいまの日本の社会制度や教育制度のなかでは、まじめには検討されてはいない。
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2008年 06月 09日
●年令差を上からと下から縮めること
同僚が、最近の学生はひどいとこぼした。ゼミ中にプイと消えてしまったり、ものを食べたり。が、わたしのようないつまでも円熟できない者には、ちょっと印象がちがう。
あいかわらず年令社会の日本で教師をやる場合、19や20という決まった年令で入学してくる学生(いまは「生徒」と呼ぶ)に対して、教師の方は、毎年一歳づつ年令が上がっていくわけだから、算術級数的には年々、年令差がましていく計算になる。その点で教師の方は、下への歩み寄りというか、年令的想像力が要求されるわけだ。が、論理的に考えて、そんなに「世代差」というものはあるだろうか?
電車のなかで化粧をしたりシェイクをズルズルっと飲んだり、ハンバーガーを食ったりするのも、旧世代が車中で本を読むのと大差ないのではないか? 化粧されると毛が飛んだりもするが、本を読みながらページをめくるジジイの腕があたってうざったいこともある。
この日、「映画文化論」という講義のあと、感想を書かせた紙を一人づつ受け取っていたら、いきなり手に水分を感じ、手を離すと、その女子学生は、「ジュースがかかちゃったんです」と応えた。「こんなの手がべとべとして受け取れないよ」と言うと、「ええ~、クリネックスで拭かなきゃいけないんですかぁ~」とのたまった。
これは例外としても、「年令的な想像力」をもっている学生が減ってきたのはたしかかもしれない。
さきほどトイレで読んだ『すばる』(7月号)には、「鶴見俊輔・思索の道すじ(2)まちがい主義の効用」が載っていて、先月号に続けて面白く読んだが、このインタヴューと構成を担当している増子信一さんなどは、まさに年令差をシームレスに飛び越える達人だ。『青春と読書』(6月号)でも、小田実夫人の玄順恵(ヒョン・スンヒェ)氏にしなやかなインタヴューをしている。その昔よく顔を会わしていたころ(ちなみに、増子さんは、わたしの『シネマ・ポリティカ』<作品社>を作ってくれた人だ)、「あんたいくつなの?」と聞きたくなるほど、古いことをよく知っているというか、歴史的想像力を自在に発揮できるのに驚かされた。
増子さん的な要素を持った学生がたしかにむかしはもっといたかもしれない。ただ、全然いなくなったわけではなく、この日の講義のあと、残って(大半はバイトに急行)1時間以上も話をしていった2人の学生くんなどは、幾分かそういう要素をそなえていると思う。彼らが、もっともっと本を読み、映画を見れば、増子さんに幾分かは近づけるかもしれない。
思い出したが、鶴見さんも、年令差を縮めるという点では天性の人で、わたしも『思想の舞台』と『コミュニケーション辞典』という本を作る過程などで面座させてもらう機会に恵まれたが、決して「君呼び」をせず、つねに相手を対等にあつかう姿勢が身についていた。それが、80歳を越えても若々しい鶴見氏の基本的スタンスなのだろう。
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2008年 06月 03日
●トロントから東京へ
行きのときは嫌いだが、帰りに空港で時間をすごすのは嫌いではないので、早々と空港へ。近年、国際空港では、チェックインを自動のスタンドでやり、荷物のチェックインだけ近くのカウンターでやれるようになっている。そのため、列を作らなくても、すぐにゲートに入れる。
時間がたっぷりあるので、開いたばかりのバーでワインを飲む。来るときに見た映画『バーナードとドリス』は、アル中同士の愛の話だったが、わたしも、そのうちアル中になるかもしれない。
Boeing777は予定通りに飛び立ったが、行き同様、えらく寒い。すぐに周囲で咳きをする人が増える。わたしは、機内に入るとすぐセーターを着ることにしているので、寒さで苦労したことはないが、半袖のままで、毛布を2枚もらって胸までかけている人もいる。こういう状況は、30年以上まえと全然変わっていない。機内食などは、逆に悪化した。機内の騒音は、(乗ったことがないので知らないが)ファースト・クラスでは低減されているのだろうか? 通路を通ったときの印象ではエコノミーと同じだったようだった。
帰りの機内には、赤ん坊を連れた人が乗っており、その子が(少なくともわたしが目をさましていた時間は)泣き通しだった。あんなに泣いてよく病気にならないものだと思うくらい泣き通しだった。子連れで飛行機に乗らなければならない人は大変だろうが、あの鳴き声を聞き続ける周囲の人も大変だ。
これも、30年まえから変わらない風景だが、以前は、「スチュワーデス」が抱いて通路であやしたりしたのを見たが、最近は、万が一のことがあって訴えられたりすると怖いのか、そんなことをする「アテンダント」を見ない。
問題は、飛行機にある。あの騒音では、赤ん坊が泣き出すのは当然だ。しかし、飛行機はそれを無視し続けている。列車でもバスでも、この30年間にサービス面での相当の「技術進歩」があったと思うが、飛行機は、退歩の方が目立つ。赤ん坊の問題でも、乗せる以上は、赤ん坊用のノイズキャンセラーを用意するとか、赤ん坊を連れた客専用のブースを作るとかしてもいいはずだ。ヘルメット型で赤ん坊にかぶせると、眠りや平安をさそう音が聴こえてきて、自然と泣き止んでしまうようなデバイスなら、わたしでも作れそうだ。そういう工夫を何もしないというのは、手抜きというよりも、詐欺ではないか?
とにかく、飛行機ほど、手抜きが目立つサービス装置はない。「アテンダント」も人材派遣会社的な人集めの結果なのか、サービスに優雅さがまったくなくなってしまった。これならば、全部セルフサービスにした方が気持ちがいいと思うくらいだ。通路側に座っているときに「アテンダント」が近づいてきたら、身を少し引く。さもないと、かならず肩にぶつかられて、驚かされるからである。そのとき「失礼」の言葉もない。この日、使い終わったコップを回収に来た女性の「アテンダント」が、手を滑らせてわたしの前の席の人のコップを床に落とした。とたんに、わたしの足に水を感じたので、「Wet!」と言った。すると、そのアジア人の「アテンダント」は、英語で、落としたのは氷のかけらだけだから、心配ないと言う。しかし、その子が去ったあと、膝の上のトレイを上げてみたら、一面に水がかかっていた。
機内ではアルコールは摂らず、映画を見ることにする。行きに見た『バーナードとドリス』のディテールを確かめたくて、もう一度見る。この映画では酒だが、何かに溺れて行く感じが、この映画のレイフ・ファインズと若きケイト・ブランシェットが主演した『オスカル・とルシンダ』を思いださせる。
続けて、『サヴェジ家』(The Savages)を見る。認知症の父親の晩年につきそう兄妹をフィリップ・シーモア・ホフマンとローラ・リニーが演じている。ホフマンが、大学でブレヒト演劇を教えているという設定が面白かった。でも、なんでブレヒトなのか?
飛行機に乗ってシラフでいると、不満がどんどんつのってきていけない。日本の電車のアナウンスで「ドアが閉まっております」と言って乗車をせきたてるのも腹立つが、飛行機で食事を配るまえに、「お食事は・・・と・・・とをご用意していますが、数に限りがございますので、ご希望にそえないことがございます」というのも腹が立つ。希望にそえない可能性があるのなら、そんな選択の可能性をにおわせる必要なない。実際には、うんと後ろの席に「団体客」や格安切符の乗客を突っ込み、前の方から食事を配っていくので、選択肢が乏しくなるのは、最後尾に近い席の人たちなのだ。そういうやり方と差別化が前提となっていて(タイタニック以来変わらない)、そこから帰結する問題が心配なのなら、乗るまえに確認を取ればいいではないか? ちなみに、「普通」の切符なら、あらかじめ「ベジタリアン」などの「特別メニュー」を依頼することができる。ただし、その味は全然「特別」ではない。
飛行機というのは、いずれガソリンの時代は終わるということを前提にして作られ、運行されている暫定性のみが肥大化した乗り物ではないかと思う。いま、ガソリンの価格が高騰し、航空会社も四苦八苦らしい。わたした乗ったカナダ・エアーも、かつては毎日運行していたのに、運行しない日があるし、全日航との「共同運航」だった。しかし、飛行機という乗り物を完全に代替できる乗り物はないから、当面、ガソリン燃料の飛行機はなくならない。
さて、13時間の拘束から逃れて成田空港の建物に入ったら、とたんにすえて、湿った臭いに襲われた。まるで普段使っていない場所のような臭い。またしばらくは日本にいなければならないなあと思いながら、イミグレイションに進む。「お帰りなさい」という文字を見ながら。
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2008年 06月 01日
●DeepWireless Festival of Radio & Transmission Art(2)
早く目が覚めたが、ホテルでは8時からしか朝食が食べられないので、近くのホテルに行く。ビュフェ式の朝食を食べ、ふとPDAのスウィッチを入れたら、いきなりネットにつながってしまった。ネットではこういう感じが本来だと思う。おかげでメールをチェックできた。
海外のホテルで朝食を食べていていつも思うのは、なぜ日本ではこういうスタイルを「バイキング」というのか、なぜ日本のホテルではトレイに乗せたまま給食みたいなスタイルで食事をしている人が大半なのだろうか、ということだ。「バイキング」は、帝国ホテルかどこかで考案した名前らしい。給食スタイルも、そのときから定着したのだろうか?
キーノート・スピーチのあとパフォーマンスも演ることになっているので、普通なら開演の2時間ぐらいまえに会場に「入る」のが普通だが、今回、キーノート・スピーチの「付録」としてパフォーマンスも演ることになってしまったので、セッティング時間がスピーチのノリなのだ。これは、演る方にとってはプレッシャーになる。普通ならやらないところだが、「理論」と「実践」との関係が単なる外挿関係ではないことをマニフェストするいいチャンスでもあるので、受けた。
スピーチでは、3月のニューカッスルでの脱プロードキャスティングと先日のKHMのためのリモート・レクチャーでのradio=radiationに関する話をさらに広げた。ただのスピーチをしてもつまらないので、電波(airwaves)というマテリアル/マテリーを変形するための一つの方法として、ジル・ドゥルーズが『襞(ひだ)』のなかで言っている「多様化」のくだりを引用しながら、紙を取り出し、そこにプリントしても字を書いても、所詮は、紙というマテリアル/マテリーを「媒介/メディア」(medium)として使っているにすぎないが、一枚の白紙をぐちゃぐちゃに揉むと、それが「屑」になり、「媒介/メディア」としては通用しなくなり、その結果、ベンヤミン/アドルノ的な「廃品・屑」の層が生まれ、そこから、そのひとつ一つの「襞」がマテリアル/マテリー的な「多様性」につながっていくのではないか・・・・という方向に持っていった。
パフォーマンス自体は、グラーツ/ベルリン/ニューカッスルで演ったものと同じスタイルのものだったが、電波の「襞」をさぐるという意識は今回、キーノート・スピーチを書くなかで発見できたもので、そのおかげで、パフォーマンスのスタイルが少し変わったと思う。反応は、パフォーマンス後に次々に出された観客からのコメントで、手ごたえありという印象を受けた。
【後記】早速ブログでこう書いている人がいるのを教えられた:
attended tetsuo kogawa’s lecture and performance at 9am this morning. i am completely blown away. it is rare that such a level of theoretical grounding and articulation accompanies such masterful artistic execution. or at least its rare that we get a glimpse of both sides. kudos to naisa (see link above) for a) programming kogawa san and b) creating a context for both of these sides of this amazing artist.
(http://oldmonkey.wordpress.com/2008/05/31/deep-wireless/)
海外で何かを演るのは、元気をもらうためだから、お世辞でも反応がよい方がいい。でも、いっぺん、会場から非難轟々のパフォーマンスというのを演ってみたいという欲望もある。本物はそうなるはずだ。だから、わたしにのはニセモノなのである。
次のセッションでは、アンナがテルミンについて話した。話のなかでわたしの名前が何度も出たが、発端はわたしが「Micro Radio Manifesto」で書いていることのようだ。テルミンの発想自体はradiationとしてのradio artなのだが、それが「楽器」の方に遊離していったという話。
続いてあのチャーミングなシャンターがパブリックアートとしてのラジオの話をしたが、彼女がポインターを当てたMacのアイコンから予定した音も映像も出ず、彼女はしきりに笑って場を作ろうとする。西洋人がこういうシーンで笑うのは、取り乱しているときで、笑えば笑うほど、会場は白けてくる。コンピュータによるプレゼンの恐ろしさ。飛び出していって、抱きしめてあげたい感じでしたね。
昼になり、ビュフェの出ているロビーに出たら、みんながわたしを見る表情がちがっているのに気づいた。ただほほえむだけでなく、軽く目礼する感じなのだ。「さっきのはよかった」と話かけてくるのもいる。このへんは、フランスや日本よりも素直なのだと思う。いや、いま世界で一番素直でないカルチャーを発達させているのは日本かもしれない。それは、それで面白いものを生んでいるのだが、そのコストも大きい。
サンドウィッチを食べる間もなく、午後のワークショップのセッティング。今日は、もう一台送信機を作り、アンテナの作り方を教える。この種のワークショップで、近年わたしは、遠距離に電波を飛ばすことを軽視するような教え方をしてきたが、このささやかな送信機でもちゃんとしたアンテナを付ければかなりのところまで飛ばすことができるのだということを示しておきたいと思ったのだ。
このあともう1セッションあったが、それは失礼し、ホテルに帰る。いささか消耗したが、一仕事したという充実感はある。