「シネマノート」  「雑日記」


2007年 10月 31日

●ヘルシンキ経由ベルリンへ

ベルリンへの旅行客は増えているが、日本からベルリンへの直行便はない。いつもはフランクフルトかミュンヘンを経由して行くが、今度は、日本からヨーロッパへの最短ハブ空港といわれるヘルシンキ経由を選んだ。
成田の空港第2から出発する飛行機便は、第1にくらべて、どちらかというとワケアリの感がある。ヘルシンキへ向うフィンランド航空も第2からの出発で、何かあるぞという予感がした。実際、機内のサービスは、かなり粗雑だった。「団体」席ではないのに、食事のまえの飲み物の「配給」があとになる。ヴェジタリアンの特別食を指定しておいたが、注意しないと持って来ない。機内の温度もえらく寒い。これは、Airbus系の飛行機にありがちなことで、わたしは、最初から毛布を2枚もらっておいたが、それでも寒くてしょうがなかった。他の航空会社の便より最初の長い旅が10時間ほどで済むことにメリットを感じたが、機内が快適でないので、かえって長く感じられた。
ヘルシンキ空港は悪くない。色々なワインをそろえたワインバーもあり、2時間待つのは苦痛ではない。しかし、チェックインのカウンターの女性はいかにも気がきかない。電話片手に応対だからね。
ベルリンに着いて、カスタムを出たら、Diana Mcatyが出迎えに来ていた。2004年のミュンヒェン以来である。
テーゲル空港からベルリン市内はすぐで、街の外観が、2003年に来たときにくらべて輝いているのが新鮮だった。みんなが最近ベルリン、ベルリンという理由がわかったような気がした。
ホテルのロビーにダイアナを少し待たせて、それから街にくりだした。最近移転したBootlab/Backyard Radioのオフィースは、ホテルのすぐ近くで、しかも、Oranienburugerstrasse 54の「ドイツ最後のスクウォッターハウス」(いまは共有スペース)のビルのなかにある。落書きとポスターだらけの階段を上がり、ドアーを開けると、なかにリスボンから招かれたラジオピープル「Rocket Scientists」がいた。4人で食事に出かける。時間のせいか、どこも混んでいて、結局、ダンスホールで有名な「Claerchens Ballhaus」へ行く。食事をしていると、最初はがらんとしていたフロアーにだんだん人が集まり、DJがかけるスウィングなどにあわせてノスタルジックなダンスを踊る。
明日「レクチャー」をするC-Baseを見ておきたいというわたしの希望で、ダイアナとタクシーでC-Baseへ行く。エンジニアと打ち合わせを始め、どこかで会ったことがあるやつだなと思ったら、昔ロッテルダムのV2にいたスティーヴ・コヴァッツだった。彼はいまベルリンに住んでいるという。たしかに、いま、ベルリンは、いい雰囲気になっている。いつまで続くかは別として、ヨーロッパのアートは、確実にベルリンで過熱している。
http://www.ballhaus.de/ballhausbilder.html


2007年 10月 08日

●ハイディ・グルントマンとロベルト・エドリアンに会う

午前中にエリザベートがホテルに迎えにきてくれて、列車でいっしょにウィーンに向う。窓外の景色は殺風景で、もっぱら話ばかりしていた。少なくとも、実験サウンドのレベルではテーブルにラップトップコンピュータをならべてしこしこやるのはもう終わりだという点で意見が一致した。
ORFのそばのホテルに送ってもらって、それからORFのオフィースへ。ハンス・グロイスがいて、いきなり4年前に話したウィーンの下町の話をあたかも先週の話を続けるかのようにはじめ、これから娘をピックアップに行くのだが、その途中が面白くなっているからいっしょに行かないかという。4年前、彼の案内で「中国人」街(ウィーンには明確なチャイナタウンはない)に行ったのだが、彼はわたしとちょっと似た方向音痴で、えらく無駄な場所を歩かされた。それを思い出して躊躇したが、結局、行くことになった。しかし、この日も、とうとう彼の言う、中国の海賊DVDなどを並べている店は見つからなかった。彼によると、いまウィーンでは、ある種のポスト・ヤッピー現象が始まっており、そういう階級(かつて「ヤッピー」と呼ばれた階級の流れ)を「ボヘミアン・ブルジョワ」、略して「BB」と言うのだという。これは、面白い。
夜、Kunstradioの創始者でもあるハイディ・グルントマンとロベルト・エドリアン夫妻に招かれ、イタリアン・レストランで食事をした。時間に行くと、すでにハイディは来ていて、しばらくしてボブが来た。席につくなりいきなりタバコをプカプカ吸い出した。昔、東京の喫茶店で人に会うときは、こんな感じだったなと思い、面白かった。
ボブと初めて会ったのは、1992年にカナダのThe Banff Centre for the Artsに呼ばれてワークショップをやったときで、彼はそのとき、バンフのアーティスト・イン・レジデンスなのだった。このときは、アントニオ・ムンタダスもいて、山のうえのアートスペースに熱気がみなぎっていた。当時ラディオアートでは先端を走っていたクリストフ・ミニョーンもいて、わたしの送信機ワークショップにも参加した。
ハイディに初めて会ったのは、1996年に北イギリスのサンダーランドで開かれた「Hearing is Believing」というラジオアートの集まりがあったときだった。ダグ・カーンとわたしが「理論」を話し、ハイディがKunstradioの経験を話し、Scannerことロビン・ランボーが彼の「作品」を披露し、そのあとNegativlandのドン・ジョイスが簡易なテルミンでロビンとデュオをしたりした。ほかにもいろいろ発表があったが、もう憶えていない。わたしは、このときすでに「学術報告」風の発表にあきており、15分ぐらいしゃべったあと、ミニFMをどうたちあげるかをその場で見せるために送信機を作って見せた。電波が出たら、会場から口笛と歓声があがった。翌日、30人ぐらいが参加して、送信機ワークショップをやった。それから7年後の2003年にテイト・モダンで(このときとは少し違うのだが)プレゼンの一環で送信機を作ったら、終わってから、サンダーランドのワークショップに出たという人が挨拶に来て、なつかしがった。が、わたしは、あいかわらず同じようなことをやっているのを見られて、ちょっと恥ずかしかった。
サンダーランドで会ったハイディは、ウィーンの「貴婦人」といった感じだったが、メールと電話だけのつきあいになってしまったこの10年間のあいだに、温和な老人の面影が強まった。が、3人の話しは、次第にデジタル化以後のラジオの話になり、あっという間に3時間ぐらいが過ぎた。
ボブとは、2001年にKunstradioで「Natural Radia」というパフォーマンスのようなワークショップのようなトークショウをやったとき、参加してもらった。そのとき、将来、通信機能をもった小さなチップを身体に埋め込むような慣習が生まれるかもしれないという話をした。
彼はその続きを話すかのように、ケータイのことに触れた。彼はケータイにはなじめないという。明らかに、身体とプライバシーに関する観念が変わってきているのではないかと言う。監視装置の「発達」も考えに入れると、近代ヨーロッパ的な意味での「プライバシー」はなくなるのではないかと言う。
それは、「プライバシー」と対概念である「パブリック」の変容とともに起こっていることだとわたしは思うが、テクノロジーの侵入が進めば進むほど、わたしは、「内にひそめる」という身体技術(習慣)は強まるのではないかと思うと言った。つまり、近代ヨーロッパ的な意味での「私生活」はあらわなものとなり、わたしが言う「デジタル・ヌーディズム」はあたりまえのものとなるのだが、その反面で、自分でも知らずに内にひそめてしまうような姿勢が強まり、そこから別の社会関係が生まれてくるのではないか、とわたしは思う、と。
ボブことロベルト・エドリアンは、「コミュニケーションアート」などと呼ばれるようになった分野のアーティストの草分けである。彼とヴァンクーヴァーのハンク・ブルは、1980年代に、ウィーンとヴァンクーヴァーの名をもじって「ヴィエンクーヴァー」というリモートメディア・プロジェクトを立ち上げた。Kunstradioの初期のプログラムの一部である。こういう人と話しをしていると、想像力がどんどん解放され、創造的な愉悦感をおぼえる。
http://kunstradio.at/


2007年 10月 07日

●グラーツ/Kunsthaus+Dom in Berg

1日にワークショップとパフォーマンスをこなさなければならない日。
午前9時半からセッティングを開始するのでいつでもどうぞというので、午前11時に万端ととのえてKunsthausに行ったら、机や映像スクリーンのセッティングが終わって、スタッフたちが待機していた。早速、注文を出し、多少の模様替え。昼までには準備完了。
2時すぎ、ワークショップ開始。Musikprotokollのディレクターのクシストファーや事実上の実行委員長のロザリンデも来て見ている。15人限定ではじめたが、遅れて来たものがいて、結局20人をこえてしまった。作る部品はたくさん持ってきたので、問題ない。最初に「μラディオ」についてレクチャーをやり、そのあと10数分で送信機を組み立てて、そのあと参加者自身が作るといういつものパターン。
今回、この方式に飽きてきたので、最後に完成した20台の送信機を同じ周波数送信し、部屋のかたわらにすえた大型ラジオで信号を受け、ある種の電波ジャムを提案した。しかし、今回は、ラディオアーティストが半数以下だったので、あまり面白いことにはならなかった。グラーツは、ちょっとノリがちがう。

しかし、夜、11時からの「コンサート」(と招聘者は言うが、わたしはミュージシャンではなく、「電波との戯れ」を可視化・可聴化するパフォーマーであり、「音楽」とは無縁の者である)では、かなりの手ごたえがあった。「ドム・イン・ベルク」という中世の洞窟のなかに作られたスペースは、外の電波を遮断した空間なので、超微弱な送信機を使うわたしのパフォーマンスには最適。
わたしが気を入れて演れたのは、ウィーンからわたしのパフォーマンスだけを放送するために乗り込んできたKunstradioのディレクター、エリザベート・ツィマーマンの存在もあった。会場の外には放送車を3台並び、彼女自身が、わたしの目の前でキューを出すわけだから、手は抜けない。結果は、わたしとしては80%ぐらいの満足度のパフォーマンスが出来た。ORF(オーストリア放送協会)の放送なので、時間厳守ということだったが、そろそろ時間かなと思ったとき、照明の落差で手元以外ほとんど真っ暗なわたしの横に彼女の姿が突然あらわれ、終演の合図をくれた。これなら、ずっとわたしの横にでも座ってくれていたらよかったのとあとで言って笑った。そのあとすぐに彼女が運んできてくれた水とビールを一気にあおり、この世の至福を味わった。
http://kunstradio.at/2007B/07_10_07.html