「シネマノート」  「雑日記」


2007年 09月 22日

●床屋政談「ポスト安倍」(続族)

――「しょうや」政談読みましたって学生に言われました。
――「学生」じゃなくて「生徒」だろう? だろうなぁ。「とこや」なんてもうないし。俺だって、カットは美容院だからねぇ。でもさ、「床屋」があったころでも、床屋で政治談義は出なかったよ。芸能人の話とか・・・。
――江戸の床屋と近代の床屋とはちがいますしね。それに「床屋政談」といっても、実際に江戸の床屋がそういう場だったというわけじゃなくて、「床屋」風の「政談」だってことでしょう? それにしても、連日マスコミで報道される福田と麻生の「選挙」キャンペーンはひどいですね。
――ひどいかもしれないが、ちゃんと機能しているわけよ。結局、対・民主キャンペーンなんだよ。二人の全国行脚がマスコミで報道され、二人の発言が津々浦々に広まれば広まるほど、民主の形勢は悪くなる。
――日本記者クラブの「ディベイト」をテレビで見ましたけど、司会者が「対決」を煽っても、麻生は終始「インタヴュアー」に徹し、もう福田は「総裁」気取りで応えてました。
――民主的な手続きを踏む構造になっていないところでフリだけ「民主的」なやりかたで総裁を選ぶ身ぶりをするんだから、演出的にも見えすいたものになっちゃうんだね。自民党には芸達者な政治家がいないわけじゃないけど、ドラマがあんまり過熱しても、治めるのが難しくなるという判断だろうね。
――1つだけ面白かったのは、麻生がいまの日本は十分に「誇れる国」なんだと言ったら、福田が、麻生は「近場の将来」を考えているが、わたしは「遠い将来」について考えているんだと言ったところです。先のことを考えたら、必ずしもいいことばかりではないでしょうというわけです。暗黙に、問題は、「誇れる」かどうかなんて観念的な問題じゃないだろう、ということです。そうしたら、麻生は、そういう「自虐史観」には反対だと言いました。このへんは、考えが違うんでしょうね。
――安倍をつぶしたのは、民主の攻勢を抑えるためで、福田が基調として挙げた「自立と共生」は、もともと小沢一郎なんかが言っていたことだよね。むろん、小沢だって、もっと下の運動のスローガンから取ってきたわけだけど。ただ、ここには、民主を取り込もうとする福田次期政権の挑戦がはっきり出ている。
――福田政権が長続きすると、民主の出番がなくなる。
――そりゃあ、あたりまえですよ。自民側は、すでに対・民主のメディア戦略を実行しているが、民主の方は何にも出せてないでしょう。「自主と共生」なら、自由ラジオでもやればいいのにね。


2007年 09月 21日

●「批評界のヴィクター・マチュア」

ワーナーに『ブレイブワン』を見に行ったら、高崎俊夫さんに会った。ロビーのカフェでしばらく談笑。『ものみな映画で終わる 花田清輝映画論集』(清流出版)が出来上がったので、もうじき着くでしょうと言われた。仕事場にもどったら、その本が着いていた。恐縮。高崎さんとは、月刊イメージフォーラム以来のつきあいだが、彼の編集センスにはいつも敬服している。
ページを開くと、巻頭に上野昂志の序文的文章が載っていて、う!?と思った。上野昂志は、花田とは大分趣きの違うもの書きだからである。
案の定、最初の文章でひっかかってしまった。上野は書く、「批評家という存在が、いまよりずっと尊敬されていた時代、映画ファンの間で、花田清輝は、批評界のヴィクター・マチュアといわれていました」。嘘だろう?
わたしが知るかぎり、当時の「映画ファン」はそもそも花田を知らなかった。でなければ、「映画ファン」は花田を無視していた。
そして――そもそもその「映画ファン」が「ヴィクター・マチュア」を知っていてこういう言い方をしたのだとしたら、その「映画ファン」は花田の敵であったと言える。
なぜなら、ヴィクター・マチュアは、シルベスタ・スタローンが「大根役者」であるのと同じような意味で「大根役者」であり、「韜晦とレトリック」を売り物にした花田清輝を「批評界のヴィクター・マチュア」と呼ぶことは、侮辱と嘲り以外のなにものでもないからである。
花田自身、いささか自嘲的に自分の風貌がヴィクター・マチュアに似ていなくもないとは書いている。が、ストレートに自分がヴィクター・マチュアに似ている、しかもその仕事までもが・・・と言われたら、激怒したのではないだろうか?
最初上野のこの下りを読んだとき、上野が花田流の屈折したレトリックを使っているのかと思った。つまり、花田清輝という批評家は、映画に関しては、所詮「大根役者」だったという意味だ。(そういう面もある)。しかし、最後まで読んでも、上野の文章からそういう屈折は発見できなかった。上野昂志は、そもそもそういうレトリックを弄さない人だ。ああ、そういえば、その昔、上野は「ジャナ専」という専門学校の事実上の「教務主任」をやっていて、わたしを呼んでくれたことがあった。筆一本のもの書きを助けたりする義侠心のある人だ。いやがらせ電話に困っているという悩みも聞いた。とにかく屈折したもの言いはしない人である。閑話休題。
上野も書いているが、中原弓彦(いまは「小林信彦」で通っているが、当時は、映画とミステリー評論を中原で書いていた)が、『ヒッチコック・マガジン』に花田の写真を載せ、「その下にヴィクター・マチュアと注釈をつけた」とき、花田は中原批判を書いた。が、ここにはもうちょっと複雑な屈折があり、花田を読むには、そういう屈折を読めなければならない。
花田と中原とのトラブルは、花田が中原の「敬愛的ユーモア」を逆にとったためだと思う。中原は、当時、かなり熱心な花田の読者だった。だから、(花田によると)この花田の中原批判にショックを受けた中原は、たくさん持っていた花田の本を全部焼き捨ててしまったという。花田は、それを「もったいないことをするものだ」と揶揄している。
中原弓彦がヴィクター・マチュアを知らないわけはないが、彼には、芸能界ノリというか、花田などにくらべるとある種の「軽さ」指向があった。彼にとっては、花田の写真とマチュアの名前を接合することが、辛辣な批評とは思えなかった。が、花田は、つねにそういう批評的接合やパロディに意を用いて来た人間であり、そのため中原の「おふざけ」に過剰反応をしたのだと思う。(いや、映画評論の世界では花田より「プロ」のつもりだった中原は、本当は、花田を「大根役者」と嘲笑しようとしたのかもしれない)。

まあ、せっかく本をもらっておきながら、いちゃもんをつけてしまった。本自体はこれから読むのだが、花田の映画エッセイだから面白くないはずはない。


2007年 09月 14日

●床屋政談「ポスト安倍」(続)

――急速に福田にシフトしてきましたね。福田で決まりですか?
――まあ、そうだろうね。麻生という線はないと思ったけど、一番つまらない線を選んだわけだ。暫定内閣だから事務能力のあるやつが求められるんだろうけど、解散以後の総選挙では難しいことになるね。
――小泉再出馬なんて、最初から無理だったわけですね?
――いや、床屋話で、小泉は最初出てもいいような素振りを示したけど、小泉チルドレンが署名活動なんかをはじめちゃったもんだから、「おいおい、そんなことをしたらいざというときにも出られんじゃないか」と怒ったとか。小泉チルドレンって、馬鹿だよね。昔の学生運動や住民運動のマネみたいなことしかできないんだから。本当に出したいなら、「署名」じゃないでしょう。
――ますぞえ(「舛添」はやめたんですよね)だって、みっともない感じでしたね?
――そりゃあ、政界をかいくぐってきたのとは違うでしょう。学会やマスコミでは「したたか」でも、政界では赤ん坊ですよ。何かやっても、所詮は、PTAのうるさいおじさんぐらいのことしかできない。
――今後の注目点は?
――与謝野だろうね。彼が立候補することはないが、彼が今後どういうポストにつくか、消えるかは、この間の策略がなんだったのかを判断する鍵になるだろうね。与謝野というソフトな「下剤」を入れ、安倍を「下痢」させたわけだが、彼が単なる「下剤」にすぎなかったのか、今後、福田につながっていくのか?


2007年 09月 12日

●床屋政談「ポスト安倍」

――安倍がついに辞めたね。霞ヶ関に戦慄が走ったとか。
――よく言うよな。朝青龍がトンズラしたのとはちがうんだ。シナリオがあったんだよ。
――朝青龍といえば、安倍の辞め方も似ているじゃない? 歳はちがうけど、「今の子」なのかな? がんばらない・・・。
――それはいいと思うんだ。「要職」をパーっと捨てるのはいいことだよ。その点で、今回、野党の連中はダメだね。テレビできかれて、「辞めた? よかったですね」なんて言うやつは一人もいないもの。みんな「無責任だ」と批判してたよね。これじゃ、野党は安倍に辞めてもらいたくなかったみたいじゃないか。
――ジャック・ステルンベールの小説に『五月革命 '86』ていう傑作があったけど、あれみたいに、与党も野党も「無責任」に辞めちゃったら面白いですよね。
――でもね、政治はそういう自然発生性じゃ動かないんだよ。陰謀理論ほどじゃないにしても、仕掛けるやつがちゃんといるんだな。そもそも与謝野馨が官房長官になった時点で、安倍はチェックメイトだったと思う。自分で大転換するつもりで与謝野を選ぶほどの技量はないからね。
――安倍政権というのは、小泉の落し子ですよね。理論は竹中平蔵がつくり、安倍政権ではそれを太田弘子に引き継がせた。だから、安倍の失政は小泉に責任がある。
――与謝野は自分でも言ったり書いたりしてるけど、竹中・太田路線とは反対の経済政策の人だよね。
――病み上がりを無理して登板願ったというから、よほどの魂胆があったんでしょうね。
――そうすると、解散総選挙に向けての「暫定首相」は、落し子の責任を取るという意味で小泉の再登場しかないかもね。
――それでまた小泉人気が出て、テロ特捜法か新法かが成立し、自民・公明「連立政権」が生き延びるということになる? 民主にぐりっと回っちゃうということはないですか?
――小泉が出ればないだろうが、麻生とか(まちがって)福田なんかが暫定首相になれば、安倍のときのもたもたがまたくりかえされるよね。
――でも、ブッシュにしても安倍にしても、トップがダメだダメだという不人気にもかかわらず、体制は存続するわけですね。王制とは違うわけです。陰の(単一か少数の)「主体」(陰謀主体)を云々するのもいいけど、(おびただしい「主体」がからみあった)「主体なきシステム」なんだということから出発しないとどうにもならないんじゃないですかね。
――そうしたら、運命論になるよ。


2007年 09月 01日

●「だいじょうぶです」

20代の女性に、「好きなのを持っていって」と10数枚の写真の束をわたした。彼女はそのなかから数枚を選び、「これはだいじょうぶです」と言って、残りを返した。
言語というのは面白い。あとで考えると、何が「だいじょうぶ」だったのだろうと思いが強くなるのだが、そのときは、全体のコンテキストとの関係で、それが「いらない」という意味だということがわかるのだ。でも、どうして「だいじょうぶ」が「いらない」という意味になるのか?
大学で学生(生徒)たちにチラシなどをくばっているときにも、「だいじょうぶです」という言葉に接したことがある。この場合は、「もうもらいました」という意味なのだが、最近耳にするディスクール(言い方)だ。
英語で、"I am OK" が「けっこうです」の意味になることがある。「Something drink?」ときかれた相手が、「I'm OK」と言うことがある。これは、「I am OK, No, thank you」の省略形だが、要するに、「ご心配なく」という含みがある。
わたしが最近よく耳にする「だいじょうぶです」は、英語の転用なのだろうか? とすると、最初にこの言い回しを使ったのは、英語経験のある人間だということになる。
しかし、飲み物のことをたずねるのは気遣いからだが、チラシを配るのは、気遣いからではない。「だいじょうぶです」=「お気遣いなく」と言われてもこちらが困ってしまう。
しかし、「いりません」とか「あります」と言うかわりに「だいじょうぶです」と言う意識には、かなりの遠慮というか、相手に対する気遣いがあることはたしかだ。つまりそれは丁寧語なのだ。
日本語は、英語などとくらべると、ストレートな言表を避ける傾向があるが、その日本語が丁寧語指向になるということは、その使用者の意識のなかに、他者との対立を避けたいという気持ちが強く働いていることを意味する。
日本語を話す人たちのセンシビリティは、いま、とても壊れやすい状態にある。