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2007年 05月 11日
●あいかわらずのストリーミング騒動
毎年5月にカナダのトロントで開かれる「Deep Wireless」は、ダレン・コープランド(Darren Copeland)とナディーン・テリオール・コープランド(Nadene Thériault-Copeland)が主宰するとラジオアートのフェスティヴァルだが、今年は、大学のゲスト講座などの関係で、参加することができない。今年は、R・マリー・シェーファーやハイディ・グルントマンも出るので、行きたかったが、2、3日で飛び帰るような旅行はもうやめた。
その代わり、ストリーミングで参加してくれというので、準備をととのえた。しかし、直感的にダレンらがストリーミングのライブに慣れていないと感じたので、数日前にテストを申し入れた。案の定、向こうでは受信できないという。ヴァンクーバーやブリュッセルの友人に問い合わせ、チェックしてもらうと、ちゃんとこちらの映像と音は受けられるという。
こういう場合は、ファイヤーウォールやプロヴァイダーのポート制限のためなのだが、本人がその仕組みを知らないと管理者に注文もつけられない。こちらからダレンたちにリモコンで教えるには限度があるし、時間がないので急遽、やり方を替えることにした。前倒しでライブ演奏をし、それを録画して、ファイルを送るという方法である。
いまでは、1ギガぐらいのファイルでも受け取れるようになった。10年ほどまえ、町田市国際版画美術館の箕輪裕と「アート・オン・ザ・ネット」というネット・アートの「展覧会」を始めたとき、ネットで応募してもらった作品をネット上で審査員(世界に散らばっているので)が審査するということにした。ところが、ネットの先端を熱烈に論じていたヘアート・ロヴィンクが一番貧弱なネット環境にいて、数メガの画像も表示できないというので、わざわざフロッピーに入れて、郵送した。いまでは、なつかしい話だ。
ネット上の動画はもはやめずらしくなくなったが、ことライブになると、まだ問題が多い。いろいろやってみた経験では、依然としてRealMediaが効率よく動画を送ってくれるが、普及度はますます下がっている。そのため、RealMediaで送信すると、受けるのにトラぶってしまう人が少なくない。いいものが普及するとはかぎらない例がここにもある。
かつてロブ・グレイザーは、誰でもがラジオ局を持つという夢を具体化しようとしてRealAudioを開発した。1995年4月のことである。やがてそれに映像が付き、RealMediaになった。
http://www.translocal.jp/oldpages/98-08-20/realserver/content/realnet.html
わたしが、ネットのライブ放送実験を始めたのは1996年だが、道具として使えるようになるまでには時間がかかった。だが、不思議なことに、コンピュータが格段のパワーを持つようになるにつれ、発信の方の機能は、発展するよりも放置され、一般のユーザーが安い費用で送信することが難しくなってくる。その機能は、分化され、ケータイのなかに閉じ込められる。
現に、RealMediaのサーバーソフトでフリーのものは、いくつかのOS用のものにかぎられている。映像、映像というが、ライブで「テレビ放送」のようなことが出来る環境はそう豊かではないのだ。これでは、普及しなくなるのも当然だ。
これって、テクノポリティクス的な「陰謀」ではないのだろうか?
http://www.naisa.ca/RWB/
■2007年 05月 10日
●"キビキ"欠席
「先生、先週"キビキ"欠席なんですけど」
ひとりの学生が近づいて来て言った。
「え?! "キビキ"?」
「ええ、"キビキ"ですよ、葬式に出て」
世間にうといわたしは、ようやく"キビキ"が「忌引き」であることがわかった。
「で、忌引きだとどうなの?」
「忌引きだと欠席にならないんじゃないですか?」
「あ、そうなの。"忌引き欠席"というコンセプトがあるわけ? でもなあ、ぼくは出席取ってないから」
「でも、先生は、"出席カード"を配ってるでしょう?」
「あれねぇ、大学にある"出席カード"を使っているけど、感想を書く欄があり、紙がいいから使ってだけなんだ。出席をチェックするためじゃないよ。もし出席しなくても想像力で面白い感想が書ければ、それでもいいわけで、"忌引き"で欠席が出席になっても、感想が書けるとはかぎらないでしょう? 書けるの? 普通の講義をやってるわけじゃないから、出なければ書けないでしょう?」
わたしもこの学生の言いたいことを十分理解できていないようだが、この学生の方も、わたしの言うことがさっぱり理解できないようだった。
わたしの考えでは、講義に出るか出ないかは個人的な嗜好の問題で、映画に行くか行かないかの問題と同じだ。そして、葬式に行く行かないも、それと大差はない。その日しかやらない映画があるとすれば、わたしは葬式よりも映画に行くだろう。葬式でも、故人やその近親者に深い思いがあれば、映画よりもそちらに関心が向くはずだ。それは、すべて個人的な選択の問題ではないか。
だが、「忌引き欠席」というものがあるのだとすれば、それは、最初から葬式を他のいかなる行為よりも優先されるべきものと社会や組織が勝手に決めているわけで、そこには個人的な選択の余地はない。
それにしても、「忌引き欠席」というコンセプトは面白い。出席しなくても出席になるというのだから、シュールではないか。そして、出席ということが、出席して90分なりの時間に何かを経験するということとは全く関係なく、単なる手続きになっているというところもすごい。学校は、経験の場ではなく、手続きの場にすぎないというわけだ。
先日も、「カード」を何枚も取る学生がいるので、「そんなに取ってどうするの?」ときくと、狼狽しながらその学生は、「ほかの授業で使うんです」と答えた。そこで、「じゃあ、いくらでもあげるよ」と言うと、喜んで受け取るかと思いきや、恐いものでも見たかのように、「いりません、いりません」と言うのだった。大学って、へんなところである。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/TKU/shintai/
■2007年 05月 02日
●内向きの時代(2)
内向きになっているのはマスコミだけではない。
ケータイやパソコンの使い方がますます内向きになっているような気がする。
学生から来るメールの多くに「宛名」が書かれなくなったのは、近年のことだ。いきなり「おひさしぶりです」などと書いてあるから、また売り込みのメールかと思うと、そうではない。その手のメールを避けるためにわたしは、文面に「粉川」や「こがわ」や「tetsuo」や「kogawa」が一切入っていないメールをいったん「ゴミ箱」に捨てるようにフィルター設定をしている。そのため、この種のメールは、みな「ゴミ箱」から回収しなければならないのだ。
むろん、メールをチャット的に使っているときは、「宛名」など書かない。しかし、チャット的でないメールで宛名がなく、いきなり「お久しぶりです」などと来るメールは、日本語の、それも「いまの若者」からのメールが多い。その場合、「宛名」だけではなくて、差出人の名前も書かれていないことがある。こうなると、メールアドレスから相手を判断しなければならない。
これは、明らかに、ケータイメールの影響だ。いまケータイのユーザーの多くは、登録した相手のメールしか受けない。つまり、ケータイというグローバルなメディアを限られた内輪のコミュニケーションにしか使わないという傾向がある。ケータイは有線電話なのだ。
10年ほどまえ、まだ電子メディアが「人を遠ざける」装置だと誤解されていたころ、そういう考えをくつがえすために、教室に複数台のコンピュータを置き、それらをLANで結んで、顔の見える距離でメールを送りあう試みをくりかえしたことがある。2、3年続けているうちに、ケータイが普及してきて、ケータイを使えばそういうことが容易にできるので、やめたのだったが、いま、ケータイは、人と人とを近づけるメディアから、近づけはするが、限られた人しか近づけない、つまり他は排除するメディアになってしまった。
そして、そういう度合いが、ケータイの機能の高度化と反比例して進んでいる気がする。
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2007年 05月 01日
●内向きの時代(1)
時代が以前よりさらに内向きになっているように思う。
それはメディア・テクノロジーの一般的な使われ方の傾向を見ればわかる。たとえば、通信衛星という国境を越えたということを実感させる技術が、国境を忘却させるために使われる。メールという「ここ」と「あそこ」を地球規模で結べるメディアがごく内輪のチャットのためにしか使われない。
わたしはかつて、メディア・テクノロジーが、「国際」だの「地球規模」だのという期待でばかり語られる傾向(80年代の「ニューメディア」ブーム)に反発して、メディアを私的に、無目的に、そしてミクロに使うことを主張した。インターネットが普及したときも、それが「グローバル」なメディアだということばかり喧伝されるので、そうじゃないんじゃないの、それは「トランスローカル」translocalなメディアでしょうとさからった。
ここで書いていることは、そういう主張をひるがえすかのようだが、むろん、そうではない。トランスローカルに使われるのなら、問題ない。そうではなくて、いまのメディア状況は、「ローカル」でも「グローバル」でもなくて、要するに「ナショナル」なのだ。
ニューヨーク・ヤンキースやボストン・レッドソックスの衛星生中継があっても、それは、松井や松坂を映すためであって、この中継は、国境を越えるということには全然関心がない。
イチロウや松井や松坂は、どこへ行っても日本の「一族郎党」がへばりついて「国際人」にしてくれない。彼らは、アメリカの野球チームの一員として仕事をしたいと思ってアメリカに行ったのであって、「日本人」(正確には「日本国人」)の宣伝に行ったのではあるまい。
個人を許さず、個人が「国際人」になることも許さないという傾向が日本にはある。だいたい、いまごろ「美しい国」とか言って、単一の「国」を問題にするような首相がいるのが遅れている。ネオコンのアメリカはどうしようもないと言っても、あちらは、「United States」で複数の「国」だ。しかも、その「国」は、「州」の意味と重なりあっており、安倍が言う「ネイション国家」ではない。
とにかく日本のマスコミが日本の「国際人」を報道するやりかたは、ニューヨークで蕎麦屋を見つけて喜ぶのとかわりがなく、向こう側からすると、おいおいせっかく報道するんなら、もっと「森」も見てくれよという気になるにちがいない。