「シネマノート」  「雑日記」


2006年 07月 31日

●『フラガール』を見た

『フル・モンティ』の二番煎じのような予感があって、見るのを後回しにしてきたが、それは偏見だった。なかなかいい。しっかり作っている。詳細はノートで。
京橋から末広町に地下鉄で出て、久しぶりに秋葉原を歩く。といっても、わたしが歩くのは、いま「ホット」なイーストサイドではなく、むかしながらのウエストサイドの電気街である。あいにく月曜で閉まっている店が多く、興味を惹かれるものはなかった。運のいいときには、古本屋をはしごするときのように、電子部品が新しいアイデアや思考を刺激してくれる。 
2006年 07月 28日

●『マイアミ・バイス』と『プラダを着た悪魔』を見た

『マイアミ・バイス』は、マイケル・マンでもはずれがあるということか、それとも、思う存分普段出来ないことをやってしまったということなのか、彼の他作品とくらべて新鮮だったのは音と音楽だけだった。せっかくのコン・リーも借りてきた女子学生みたい。
『プラダを着た悪魔』は、楽しめた。スキのない演出。ストリープは余裕、アン・ハサウェイは大ブレイク、エミリー・ブラント、エイドラン・グレニアー、サイモン・ベイカーがばっちり脇をかため、スタンリー・トゥッチがバシッとアクセントを決める。
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2006年 07月 27日

●鈴木みどりさんのこと

今日は試写に行くのをやめて書き残したシネマノートを書こうと思っていたところへ、ニューヨークのディーディ・ハレックからメール。それは、鈴木みどりさんが23日に乳ガンで亡くなったことを知らせるWACC(The World Association for Christian Communication)の報道のコピーだった。え、鈴木みどりが死んじゃったの!
この数日、新聞を読まなかった。気をつけていたニュースは、イスラエルのレバノン攻撃のみ。これは、「世界同時多発戦争」の本格的なはじまりだ。
鈴木みどりを知ったのは、1980年代の前半だった。わたしが自由ラジオの運動をやっているのを知って、連絡してきたのだった。彼女は、FCT (forum for children&.html#39;s televison)という研究グループをやっており、そこで自由ラジオをやれるのではないかというのだった。何度か会って自由ラジオの話やパブリックアクセスの現状などの話をしたが、FCTとして自由ラジオを開局するまでにはならなかった。彼女は、ヴァイタリティのある人だったが、そのエネルギーと関心は、ラジオ局を開くよりも、会議や研究会を組織する方にあったようだ。
よく電話をしてきて、「ねえ、・・・してくれない」という口癖を聞いた。最初、そのぶきらぼうで「男」っぽい態度が鼻についたときもあったが、そのうち、彼女の日本語は「英語」なんだと思いはじめた。彼女は、スタンフォード大学のコミュニケーション学部で修士号を取っていた。英語は達者で、ジャパンタイムズで仕事もしていたこともあったと聞いた。
あるとき、ジェリー・マンダーの『テレビを排除するための4つの議論』の話になり、彼女は、「ねえ、翻訳したいんだけど、出版社を紹介してくれない」と言った。わたしは若干マンダーのメディア観に批判的ではあったのだが、メディア論としては翻訳されるべき一冊だと思い、当時時事通信社の編集者でわたしに連載を書かせていた平塚信夫さんを紹介した。それは、1985年に『テレビ・危険なメディア』というタイトルで刊行された。
ゲラができあがったころ、彼女から電話があり、「ねえ、帯を書いてくれない」という例のディスクールを聞いた。苦笑しながら引き受けたわたしは、こんな帯を書いた。「テレビは、現実を映すメディアではない。それは、『現実』をつくり、私たちをそこに巻き込む巨大な装置である。この『現実』には出口があるのか? 本書はこの問いに重要なヒントをあたえる」。
エネルギッシュなみどりさんは、その後、ジェリー・マンダーを呼び、東京でシンポジウムを開いた。このときも、「ねえ、来てくれない」という電話があり、(まだこのころは「会議」ぎらいではなかったので)パネルの一人として発表をし、マンダーと議論をした。面白い会議だった。
90年代になって、彼女は、「ねえ、パブリック・アクセスで面白い人紹介してくれない」という電話をしてきた。わたしは、迷わず、前から彼女に話をしているペーパー・タイガー・テレビジョンの創立者のディーディ・ハレックを紹介することにした。みどりさんは、キリスト教の団体といっしょにディディーを呼び、会議を開く計画を立てた。それは、実現し、面白い会議になった。ディディにとっても、初訪問の日本を知るいいチャンスになった。
1992年にみどりさんが出した最初の自著『テレビ・誰のためのメディアか』(学藝書林)以後、彼女は、京都の立命館大学で教えるようになった。このころから、彼女に会う機会がなくなった。わたしも、「兼業」にまきこまれ、忙しく、また、彼女自身、日本のフェミニスト系メディア・アクティヴストとして知られるようになり、世界の国際会議を飛び歩くようになっていた。ときどき近況を知らせるハガキをもらったり、新著を送ってくれたりした。そこには、かつてのメディア批判が「メディア・リテラシー」という比較的新興のセオリーのなかに居場所を見出しているようだった。
メディア・リテラシーに関しては、ディーディを呼んだ会議のときも議論をしたことがあった。わたしは、その「リテラシー」という名称が、文字とのつながりを引きずっているかぎりで、メディア・リテラシーは、映像や音を余すところなく論じることはできないだろうと言った。「そんなことないわよ」という声は聞いたが、ちゃんとした反論を聞く機会はとうとうなかった。
数年まえ、またディディ・ハレックを呼んで何かやりたいとうメールをもらった。が、昨年、大阪のremoが主催した集まりでディディが呼ばれたが、みどりさんの姿はなかった。みどりさんの弟子筋にあたるガビ(ガブリエル・ハード)さんから、わたしに「よろしく」という伝言をもらったが、どうして来ないのかなと思った。いまにして思うと、彼女はすでに体が思わしくなかったのかもしれない。
わたしは、人の死を悲しいとは思わない。習慣上涙が出たりするとしても、喪失という感じはしない。みどりさんは、彼女の多数の本、ネット上の文章、彼女の知り合いや教え子たちが引用したり、言及したりしている文章のなかで生きている。文字や形にならなくても、わたしにとっては、わたしの記憶のなかで生きている。そこには悲しみが介入する余地はない。
でも、一応サヨナラね。


2006年 07月 26日

●『トリノ、24時からの恋人たち』と『UDON』を見た

映画史を勉強した学生の映画という趣の『トリノ、24時からの恋人たち』。その出来は、プレスで高崎俊夫さんが誉めているほど凝ってはいないが、主役の一人を演じる新人フランチェスカ・イナウディが、かつてゴダールの『勝手にしやがれ』で鮮烈なイメージを焼きつけたジーン・セバーグのような強烈な印象をあたえる。これが映画初出演だというから驚き。
『UDON』は、エンタテインメントの作品としてはかなりの成功作。たぶん当たるであろうし、海外ウケもいいだろう。最初から海外ウケをねらっているらしいが、そういう場合うまくいかない場合が多い。
ビールが飲みたくなり、銀座1丁目のピゼリアに行く。例によって女性客だらけ。夕食のつもりで、前菜とマルゲリータを取り、食べながら女性6人組の隣席に目をやると、真ん中にわたしのと同じサイズのピツァ置き、それを一人一切れづつ自分の取り皿にわけて食べているが見えた。
日本のレストランではこういう光景をよく見かけるが、彼女らは、それで満足なのだろうか? どのみちもっと何枚も注文するから、結局、一人で一皿を食べることになるのだろうが、食うというのには勢いが必要ではないか? 熱く料理されたものは、『UDON』のさぬきうどんではないが、勢いである一定時間のなかで食べなければうまさがわからない。ピツァの一切れは、ピツァを味わうにはあまりに小さすぎる。スパゲッティなども、一人分を何人もで小鳥のエサのように分け合って食べたのでは、シェフがリキを入れて作った味がどこかに飛んでしまう。
一枚の皿の料理をシェアするというのは麗(うる)わしい習慣かもしれないが、はたして彼女らは、本当になにかをシェアするつもりがあってそうしているのだろうか? レストランがいつのころからかはじめたやり方(それは、多数の客をこなすための方法でもある)にしたがっているにすぎないのではないか? と同時に、ここには、外見だけ「平等」をよそおう――自分だけ目立つのを避ける――ご都合主義があるようにも思える。


2006年 07月 25日

●『ロフト』を見た

渋谷って汚くなっちゃたなぁと思い、次の瞬間、むかしは「きれい」な街を軽蔑してなんじゃなかったっけ、と思いなおす。
黒沢清の作品はけっこう見ているが、最近は、彼の作品って、プリテンシャスでこけおどしだなと思うようになってきた。その点で、思い切りハッタリをかましてくれると、こちらも勝手にあれこれ思念の遊びが出来るのだが、最近は、そのハッタリの射程が短くなったような気がする。
渋谷の試写に来るとよくのぞく楽器屋でシンセサイザーのところに立ち止まったら、慣れない風情の店員さんが、「これは音を変質さあせて作曲するものです」と説明してくれた。「うん、それはわかってるんですがね・・・」と苦笑するが、こっちもそう見られるおっさんになっちまったのかねぇと思う。
シネマノートで書いた『有限会社ひきもどし』評が縁でメールをもらった畑泰介さに会う。けっこう話が盛り上がり、3時間も話をしてしまった。
帰り道、しばらくごぶさたのレストランに行く。ここは、たくさんの種類のおいしいワインを一杯飲みさせてくれるのが売りだったのだが、少し来ないあいだにその種類と質が普通の店の「グラスワイン」並みになっていた。シェフの腕並みは変わっていないのだが、なぜか勢いが落ちている。これじゃ、次回はワインではなくビールを取るしかない。


2006年 07月 24日

●試験をしない教員の定期試験監督

1年に何度か、不本意で無意味で時間の浪費だと思われる仕事を引き受ける。「定期試験監督」というやつだ。わたしは、カンニングの監視がともなう「定期試験」には反対なので、そのむかし、「わたしの教育理念に反するから協力できない」という声明を出したら、お偉方が次々とやってきて「説得」ぜめにあった。で結局、ある老教授が、「協力しあうのがわが校のよき伝統だから」というのにほだされて、反抗をあきらめた。
定期試験をすると、解答用紙を事務が学籍番号順に束ね、自宅に送ってくれるらしい。用紙もフォーマットがあるから、採点は簡単だ。結局、定期試験は仕事の合理化なのである。わたしのような、いろんな紙に書かれたレポートを苦労して読むよりはたしかに利口な処置である。しかし、試験場から回収した試験用紙を、事務方が総出で指にゴムサックをつけて枚数を数え、番号順に並べなおしているのを目撃すると、そういう事務仕事は、本来、教員のものじゃないのかねぇと思え、その「合理化」は、教員本位の勝手な合理化ではないかと思うのだ。なぜ、事務方は、そんな労働を不当だと抗議しないのだろうか?
とはいえ、こいういう時間の浪費のような場にも、かならず予想外の出来事が紛れ込む。ふだん会えない教員との出会いもその一つ。この日、たまたま同じ組にさせられた教員のなかに本橋哲也さんがおり、「はじめまして」と声をかけてくれた。彼は今年から同じ科に入って来たのだが、教授会に出ないわたしは、顔を合わせる機会がなかったのだった。


2006年 07月 21日

●戦争も平和も天皇だのみの日本

昨日の夕刊で、靖国神社A級戦犯合祀問題について昭和天皇が否定的な意見を述べていたというニュースを読んだ。当時宮内庁長官だった富田朝彦のメモに残されていたという。それでふと思い出したのは、先日見たソクーロフの『太陽』と寺崎英成の『昭和天皇独白録』だった。
『太陽』にはあまり政治的発言の描写はないが、裕仁が「平和主義者」であったという解釈を採用している気配が強い。今回のニュースと『太陽』はフィットするトーンを持っているので、両方合わせてキャンペーンをやったら面白いのではないかとも思う。
いまの時期に富田メモが明るみに出るのは、むろん、魂胆があってのことだ。どう見ても安倍総理の実現が優勢になってきたいま、牽制をくわえることもあろう。
しかし、このメモに対する小泉のコメントが興味深かった。彼は、メモから読み取れる裕仁の見解を、それは「あの人の――すぐに『あの方』と言いなおしたが」思いにすぎないと切って捨てた。そうか、小泉にとっては、天皇も「あの人」なんだと、時代の変化を思った。ひとむかしまえなら、この一言で、「民族右翼」が小泉に恫喝を加えただろう。
しかし、小泉が思わず言った「あの人」発言は、天皇制国家として憲法で明記している日本も、グローバルな資本主義国家であり、天皇制の論理では動いてはいないことを示唆する。ということは、世界が戦争を必要とすれば、そのロジックで動くということであり、天皇の、まして前代の天皇の「発言」ぐらいで国家は左右されないのである。
『昭和天皇独白録』を読むと、天皇自身が願っていたことと国家の実際の路線とのずれがかなりあることがよくわかる。この記録では、天皇が軍部の路線にかなり抵抗したように受け取れる個所があるが、天皇が何か事を進めるための水戸黄門的な「印籠」の役割をしていたこと、そしてそのことを天皇自身承知していたことがよくわかる。
天皇という存在は、もともと個人的なものではないわけだから、彼が「平和主義者」であったかどうかは、問題にならない。これは、公人一般についても言えることで、小泉がしばしば用いるレトリックの「心の問題だから」の欺瞞もここにある。彼が公人でなければ、彼の行動は「心の問題」で済むかもしれない。しかし、一個人の「心の問題」でも、たとえば、その彼ないしは彼女が、「心の問題」として行なった行為の結果、人が死んだり、怪我をしたり、あるいは不快な気持ちをいだく場合には、「心の問題」では済まなくなる。が、無人島でロビンソン・クルーソー的な生活でもしているのでないかぎり、他人に影響をあたえない「心」などないから、小泉の言う「心の問題」というのは、公人でなくても、欺瞞なのである。そんなことは、50年もまえの哲学でも論証していたことで、一個の「心」に閉ざしておけるような問題など、ありはしないのである。
むろん、小泉は、それを承知で言っている。彼の言う「心」は、彼自身の個人的な「心」ではなくて、彼の賛同者や子分たちの「心」であり、「野心」である。
日本が「天皇教」の国で、何か大きな動きを作るには天皇を利用しなければやっていけないのなら、戦争を天皇の名のもとにやるよりは、平和を天皇の名のもとに維持する方がましだろう。
しかし、いま、1億なり数千万なりの個人を国家の名のもとに統合し、一つの方向に向かって行動させるようなことが有効性を失っている。戦争も平和も、「ゲリラ」的に存在する。そういう戦争を「テロ」と呼ぶならば、「ゲリラ」的なつかのまの平和の新しい呼び名があっても悪くない。いまその名称が浮かばないが、それが天皇とは全然関係がないことはたしかである。
http://cinemanote.jp/2006-06.html#2006-06-13_1


2006年 07月 20日

●「自由ラジオ」はそんなにダメだったか?

気圧のせいか、外出する気力を失い、コンピュータのまえに漫然と腰を下ろしているところへ、井崎正敏さんの新著『倫理としてのメディア』(NTT出版)がとどく。井崎さんは、その昔、筑摩書房の編集者として、『情報資本主義批判』と『スペースを生きる思想』という本を作ってくれた。
遠い昔のこととはいえ、いっときある種の状況や思想を共有したと思っている(幻想かもしれないが)こともあって、パブリック・アクセスやコミュニティ・メディア、さらには自由ラジオへの言及(それはほとんど傍注的なものだったのだが)が気になり、お礼のメールを書いているうちに、次第に言動が批判調になる。
「管理された電波網にゲリラ的に参入した『自由ラジオ』はそのこと自体を自己目的化するか、サヨク的な議論だけが交わされる場におおむね終始し、稀有な例外を除いて一般に開かれていなかった」と井崎氏は書くが、これは、わたしが自由ラジオの局に案内したこともある井崎氏とは思えぬ、全く事実をねじまげた記述だ。というより、無知もはなはだしい。
そもそも、日本に、「管理された電波網にゲリラ的に参入した『自由ラジオ』」なんてあっただろうか? 子供じみた電波ジャックは何度かあった。が、それは「自由ラジオ」とは何の関係もない。
「そのこと自体を自己目的化する」とは一体どういうことか? この人は、いまだにメディアが単なる手段だと思っているのだろうか?
「サヨク的な議論だけが交わされる場」とは? 「サヨク」であれ「左翼」であれ、「左慾」(深沢七郎の命名)であれ、彼らは、一度も「自由ラジオ」に本気で関心を示したためしはなく、「サヨク的な議論だけ」を交わすような局は皆無だった。
井崎氏は、どの程度「自由ラジオ」を知っているのか? 日本の「自由ラジオ」は、それ自体で存在したわけではなく、海外のそれともつながっていた。そもそも、こういう「ポストマスメディアティク」(とガタリが呼んだ)なメディアに関して、「一般に開かれて」いるとかいないとかいうのはどういうことか? 地上波のテレビのヴァラエティショウででもとりあげれられば「一般的」なのか? が、実はそういう時期もあったのだ。1982、3年ごろには、テレビや週刊誌がひんぱんに自由ラジオのことをとりあげた。わたしも「一般の」テレビやラジオで自由ラジオを解説したこともあった。文珍の出るイヴェントの「前座」で自由ラジオの話をしたこともあった。それは、向こうが希望したからやったまでで、それが自由ラジオについての通念を撒き散らし、自由ラジオのアイデアを風化させるのを承知していたので、わたしは戦略をもってマスコミには対応した。井崎氏がわたしに本を依頼してきたころは、すでにそういう「ミニFMブーム」も一段落しはじめたころだったし、学会志向の強かった伊崎氏は、そういうユースカルチャーの状況にうとかったのだろう。しかし、本を書くのならちゃんと調べてはどうか? あまりに杜撰ではないか?
日本の自由ラジオ/ミニFMは、その後のメディアに影響をあたえた。影響ということを、ずっとあとの制度化した結果でしか判断できない学者バカにはわからないかもしれない。一度、インターネットの検索サイト(ただし日本語版ではなく)で "mini fm" とか "mini-fm" とか入れてみてはどうか? ちなみに「ミニFM]という言葉は、ミニFMが「一般的」なブームになったとき、朝日新聞の記者だった岩崎進氏がはやらせた言葉である。それが、いま世界中で使われている。
いや、これ以上書くと批判から非難にエスカレートしそうになるのでやめる。井崎氏にしてこの程度の認識だから、わたしが日本で自由ラジオについて語ったり、デモンストレイトする気を失ってしまったのをご理解いただきたい。
http://cinemanote.jp/books/baberunokonran/baberunokonran.html#3-4


2006年 07月 19日

●『釣りバカ日誌17』と『マーダーボール』を見た

毎度のパターンの「釣りバカ」シリーズだが、「歳時記」なデテールの面白さで、わたしは好んでいる。でも、三國連太郎は年々好々爺的になってきているのは隠せない。このシリーズでは必要ないからかもしれないし、もうそういうのは出来なくなってきたのかもしれない。たまには三國の「悪」の演技が見たい。
『マーダーボール』には、弱肉強食を肯定する不愉快さがあり、最後にG・W・ブッシュの姿が映って、それをさらに強調するのにはまいった。スポーツ嫌いで、いまのアメリカを嫌うわたしには、うんざり以外の何も残らなかった。
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2006年 07月 18日

●『X-MEN』と『悪魔とダニエル・ジョンストン』を見た

ずっとばたばたしていて、試写通いがおろそかになりがちだったが、すこし余裕が出て、六本木と渋谷を横断。
『X-MEN』では、パトリック・スチュワートやイアン・マッケランのような爺さんが(役者としてというより、役柄として)若者にまじってがんばっているのが、妙におかしかった。
『悪魔とダニエル・ジョンストン』でも、今年45歳になる「問題児」ダニエル・ジョンストンをかかえた高齢の親父さんががんばっているたが、こちらは、おかしみよりもあわれみを呼んだ。
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2006年 07月 17日

●休日出勤で「モデル」授業

大学にも入試生へのいろいろPRイヴェントがあるが、イメージダウンを恐れてわたしには依頼が来ないのが慣例なのに、今年は「果敢な」新担当者のおかげで、「モデル」授業にわたしまでかり出された。末期現象なのか、それとも画期的な試みなのか?
なんて言うと、わたしがいつもでたらめな授業ばかりしているように聞えるかもしれないが、けっこうまともなのです。情報的な面は、ちゃんとDVDを作ってきて、プロジェクターで見せるし、手抜きはしません。もし、違いがあるとしたら、情報的なことは本でもインターネットでも自分で調べられるから、「教室」では、いまここでしか体験できないことを持って帰るような出来事性を重視するということか。
この日用意したのは、朝方までかかって作ったDVDのほかに、カラフルなスニーカー(わたしが履く)、ヴォイスチェインジャー、小型のテレビ送信機、などなど。主催者側と打ち合わせたテーマが、「メディア<が>メッセージ」だから、まあ大したことをやったわけではない。「内容」がではなく、「メディア」が「メッセージ」を決定してしまうということをあれこれ実験して見せただけ。ついでにナムジュン・パイクを追悼して、「バイバイ・キップリング」の映像の一部を紹介し、「テレビ・ボール」を再現。
終了後の質問会で、「もうちょっと普通の授業もあるんですか?」という質問が高校生からあったとか。ざまみろ。
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2006年 07月 16日

●『ゆれる』、『ハッスル&フロウ』、『ゲド戦記』のノートをアップ

ドライブがかかるまで時間がかかったが、何とか3本のシネマノートを仕上げた。今回は、まだ6月のもアップしていないのがあり、幾人かの方に問い合わせのメールをもらった。今日も、もうちょっとできるはずなのだが、これからちょっと準備をして(もう眠る時間はなさそう)大学へ行かなければならない。なんと、進学予定の高校生を相手に「模擬授業」をしなければならないのだ。わたしがやる「授業」を標準と思われては、大学にも受験生にもいい迷惑だと思うのだが。
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2006年 07月 15日

●休日の誘惑――あるコンピュータ中毒者の手記

この休日には、アップロードがえらく遅れている「シネマノート」を完成しようと思っていた。が、どうもまた延期になりそうだ。
暇なときが一番あぶないとも言うわけでもない。かえって忙しく、それが多少「クリエイティヴ」なことを要求されていながらうまく対応できないようなときもあぶない。締め切りがとうにすぎていながら何も書けないようなとき、パフォーマンスやプレゼンの日が目前にせまっているが迷いがあるとき(それはいつもだが)、そういうときにかぎって、別にいまやらなくてもいいようなことに手を出す。Sさんは、テレビを漫然と見ることでそういう「危機」を乗り切るらしいが、わたしは、コンピュータのデータ整理、カスタマイズ、新ソフトのテスト、未経験のOSのインストール、とうてい載りっこないOSをインストールしてみる実験等々にのめりこむことがある。
この日もそんな感じだった。「シネマノート」を書くNeXTのエディターを一度は立ち上げた。そして、急に進路を変えて、破局に向かった。そのエディターが立ち上がっているのとは別のWindowsマシーンのタスクを調べようと(なぜそのときそうする必要があったのか?)、Ctrl+Alt+Delキーを押したのだ。が、なぜかタクスマネージャーが機能しなくなっているのを発見した。これは、しばしばスパイウェアが侵入した場合に起こる現象なので、X-Cleanerでスパイウェアをチェックした。いるいる。Purityscan, Spyware Quake, Stwoyle, Trojan.Desktophijack,Trojan.Puper.....の魑魅魍魎たちが姿をあらわした。そこで、こいつらを片端から削除。
が、そのあと、あるデータソフトを立ち上げたら、データを読めないのだった。削除しているうちに、スパイウェアが侵入して一体をなしていたアプリケーションデータを壊してしまったらしい。当然、そのデータを色々なエディターで読み出して修復が出来ないものか調べる。しかし、それには失敗。
こうなると、だんだんこういうソフトやアプリを使っているわたしのコンピュータ生活そのものへの疑いがつのってきて、いっそこの機会に、システム全体を変えてしまおうかというような過激な発想にいたる。全部 Linuxだけにする(しかし、Linuxって、サーバー機能以外はどれも中途半端だな)とか、スケジューラやメーラーやウェブ作成のエディターを全部ブログソフトに統合してしまうとか、いやそれにしてもNeXTのメーラは、そういう発想を根本にもっていたな――なら、NeXTにもう一度帰り、すべてをそこに統合するか・・・(しかし、あのパワーでは・・・)とか、迷いの病が膏肓に入る。
こうして時間がどんどん経過していき、ブラインドをぴっしり閉ざした窓からも、ぎらぎらした太陽の光が洩れ込み、昼間になってしまったことを思い知らされる。
この迷いの根底には、わたしがふだんコンピュータでやっていることを全部一つに「統合」する方法はないかという問題がある。むろん、頭の一方では、システムが「進化」すればするほど「統合」などは無理だし、そうしようとすること自体が「進化」したシステムに相反することを意識している。が、それを認識すればするほど、「統合」への欲望が亢進し、その(無駄な)試みに邁進するのである。
コンピュータは、これまでのテクノロジーのなかでは、人間の脳や身体に近づいた。が、近づけば近づくほど、それは、両世界の相違をあばきだす。テクノロジーは、昆虫のように非情だから、結局、脳や身体の方が妥協し、それに合わせようとして疲労する。


2006年 07月 14日

●サンバで打ち止め

「身体表現ワークショップ」なる名のゲストシリーズの前期最終回。いろいろな人の協力で何とかやってきたが、今日は平田康彦・ミオ夫妻と「クルゼイロ・ド・スウル」の太鼓隊とサンバダンサーとのコラボレイション。
同時間に講演会がありますという学校側の暗黙の警告(要するに「静かにやれ」ということ)があったが、いざ、サンバダンサーと太鼓隊を見たら、血が騒ぎ、「今回は自粛します」と言っていた平田さんを煽り、建物の外へパレードすることにする。
火吹きの火もそうだが、サンバダンサーの衣装と露出度の高い身体は観客を扇動するらしく、今日は幾分人が少ないキャンパスに、あっというまにどこからともなく人が集まってくる。
平田さんもミオさんも、天才的な扇動者らしく、たちまち周囲に華やかな解放の気分がひろがる。ついでに学務課の通路をパレードし、職員をねぎらう。そのまま地下のスタジオに学生を誘導し、ワークショップが始まった。
以後、時間をややオーバーしながら、学生が自分の意志で参加を表明し、太鼓をたたき、踊って楽しんだ。そのなかには、いつもはこういうイヴェントの仕掛け人の方をやっている小田マサノリさんの姿もあった。また、近所に住んでいるんだからおいでよと誘った旧友の桜井克彦が、・・十も違う年令の若者にまじって踊っている姿があった。


2006年 07月 13日

●『ハッスル&フロウ』と『ゲド戦記』を見た

メンフィスのディープなストリートでヒモをやっていた男がラッパーになる話だが、成功物語ではなく、また、といって失望の物語でもない。この街の猥雑さとそこで生きる連中のしたたかさと連帯がヴィヴィッドに描かれる。かなりのおすすめ作品。
後者は、宮崎駿の息子吾朗の第一回監督作品と呼ばれるのが常だが、なんとなく宮崎帝国の「世襲の儀式」を感じさせなくもない。ル=グインの原作とはいえ、宮崎親子の話のように見えた。


2006年 07月 12日

●『スーパーマン・リターンズ』と『ゆれる』を見た

前者は、先日の劇場試写をのがした。スーパーマンの「超人」的パワーが、とてつもないものにエスカレートしているのだが、そのままだとちょっと滑稽な感じになるところを、「父子もの」のテーマでバランスをとっている。なかなかいい出来ではないか?
後者は、とっくに試写をやっていたのだが、運が悪く、試写を見る機会がなかった。新宿武蔵野館の最終に飛び込んだが、満席。用意されたクッションと風呂場の腰掛のようなプラスチックの台を前の方に持っていって座る。周囲は、ほとんど20代の女性ばかり。オダギリジョーの人気のせいか? が、オダギリも悪くなかったが、香川照之が彼として最高の演技をしていた。
深夜、14歳と称するアメリカの少年のために、送信機の回路図をPDF化し、詳しいメールを書く。わたしのウェブのマニュアルを参考にして作ったがうまく起動しないという。アメリカでは手に入らないので、代わりの部品を使ったので、接続をまちがえているらしい。そこで、配置を変えた図面を作った。
今日は少し早く寝ようと思ったが、こういうときにかぎって、DrawをきれにPDF化してくれるNeXTのアプリケーションがトラぶる。再インストールしてうまくいったが、朝になってしまう。


2006年 07月 11日

●『サンキュー・スモーキング』と『上海の伯爵夫人』を見た

アメリカのタバコフォービアをしたたかにパロディ化。こういうアイロニーをたたえた作品が生まれ、多くの観客を動員しているということは、いまアメリカがかなりの危機(転機)に陥っていることを示唆するのではないか?
1930年代の上海の外国人地区を舞台にする後者は、よくも悪くもジェイムズ・アイヴォリーらしい作品。が(だから?)、軍ともつながりのある日本人を演じる真田広之が全然いかされていない。


2006年 07月 10日

●ちょっとした解放感

「インターネットメディア論」の最終日。毎回感想を義務づけたので、いやいやながら出席し、意外な発見をして帰るという学生を何人も目撃した。「無理させないとダメ」という木村大作流は正しいのかもしれない。
当初、インターネットの社会的な問題を論じようと思ったが、批判意識の受け皿がないところでそういう話をしても空虚なので、「メディア」の方へウエイトを置いた。もともと、わたしは「メディア論」の教員として呼ばれた。メディア論を5年ぐらい担当したが、メディア論をやりたいという人がいて、そちらに譲った。が、わたしの好みは、脱領域なので、インターネットに限定した話などできない。おのずとメディア全般に逸脱してしまう。
で、最終の講義として、マクルーハンやエンツェンスベルガーを知らない学生が多いので、彼らのテーゼを話し、それを電子メディアを使って実際にデモし、印象づける。最後に、メディア・テクノロジーへの関わり方との関連で、送信テクノロジーというものがいかに神話化されているかを、まずラジオ送信機をゼロから作って見せ、それから部品1個を付加するだけでそれをテレビ送信機に変容させる「パフォーマンス」をして、説得。これは、同時にDIYテクノロジーのすすめでもある。
一仕事が終わったという意識から、何かふだんとちがったことがしたくなり、青山のイタリアン・レストランに電話をし、席があったので直行。こちらの意識・身体状態のせいか、今夜の料理はなかなかのものだった。堪能。


2006年 07月 07日

●矢部直さんとの1日

ゲストシリーズで矢部直さんに来てもらうのだが、昨日、「今晩寝ると(起きられるかどうかわからないので)やばいので、寝ない」と言っていたので、午前中に電話する(わたしは数時間寝た)。やはり寝なかったらしく、バックでガンガン音楽が鳴っていた。準備していたらしい。彼がタクシーで直行する原宿駅で待ち合わせをすることにする。無事、20分遅れで到着、そのまま国分寺へ。本人をつかまえてしまったので、安心し、駅の地下でエスプレッソなどを飲み、話す。わたしがゆっくりしているので、逆に矢部さんが時間を気にする。時間を気にする矢部さんを見るのは意外だった。
今日は、時間がすぎても学生を会場に入れず、開場してすぐ、矢部さんの紹介も一切なしでスタートすることにする。
昨日決めたクリストファー・ボーの『恋に落ちる確率』とディーディー・ハレックのコラージュ作品『The Gringo in Mananaland: A Musical』を流しながら、矢部さんがDJプレイする。わたしの狙いは、矢部氏がいかにこれらの映像を「無化」するかだったが、期待に応えて、大スクリーンに映る映像を見ることが無意味に感じてくれるようなプレイを展開してくれた。
矢部さんのDJプレイは、ミックスがどうの、スクラッチがどうのといったいわゆる「DJ」のそれではなく、確実に、音盤を使った演奏である。わたしの希望でかなりジャズの音盤を使ったが、それが別のリズムやフレーズと「ミシンと蝙蝠傘の出会い」をし、全く新しい音楽を創造する。
終わり近く、ちょっとわたしのいたずら心でカメラのナイトショット機能(矢部さんのテーブル付近はかなり暗かった)を使い、彼の手さばきや機器を映す。これは、彼を刺激し、その創造作業を助けるためではなく、未経験の学生には矢部さんのプレイは高級すぎるかなという「教師根性」的な思いから、若干そのプレイの一端を「公開」したもの。
「もう帰って寝ます」という矢部さんを無理やりさそって、駅ビルでビールを飲む。かなり話したので、帰りの電車のなかでは、二人とも相当疲労する。でも、なかなか創造的な一日であった。
http://anarchy.translocal.jp/TKU/shintai/


2006年 07月 06日

●メル・ブルックスとカフカ

「演習」でカフカをとりあげるのはやめることにしたが、では何をやろうかと考えながらビデオやDVDを物色し、たまたま『メル・ブルックス/逆転人生』を見たら、意外にカフカの『審判』や『城』的要素があることに気づいた。メルはユダヤ系だから、カフカを意識しないはずはない。それにしても、この作品でのレスリー・アン・ウォーレンの演技は抜群。
「映画文化論」では、『ミセス・ダウト』と『エイプリルの七面鳥』の山場を見せ、ファミリーと「泣き」の関係を話す。映画における「泣き」が今年のテーマなのに、笑いの話が続き、今日はこの講座の最終日なので、ちょっとは「泣き」に触れておかなければならないと思ったからだ。試写で見たときは、エイプリルの母親が、思い直して、たまたまバーにいた「バイク野郎」の一人に頼んで、バイクの後ろにまたがって、娘のところに直行するシーンがやけに印象的だったが、DVDで見ると、それほどでもなかった。しかし、この映画は、なかなかいい。
明日DJをやってくれる矢部 直さんが下見に来るというので、待っていたが、90分たってもあらわれないので、帰りかけたら、校門の近くでばったり。電車を乗り違えたのだという。スタジオにひきかして、打ち合わせ。
音楽といっしょに流す映像のチェックなのだが、予定していたズビグ・リプチンスキーの『カフカ』やレネの『去年マリエンバートで』が全然合わないのが面白かった。
近くの店で閉店まで話す。明日は、昼間に弱い(わたしもそうなんだけど)矢部さんがドタキャンしなければ、絶対に面白くなるはず。
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2006年 07月 05日

●『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』を見た

昨日見ることができなかった『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』をブエナビスタの試写室で見せてくれるというので、早起きして行く。外は雨。シリーズ化の構造が出来上がったことを感じさせる作りだったが、その分、大英帝国対「パイレーツ」の対立的性格が薄らいだ。息つかせぬリズム感は、『M:i:III』に似ている。


2006年 07月 04日

●『日本以外全部沈没』を見た

今日は、非難運の日。『パイレーツ・オブ・カリビアン  デッドマンズ・チェスト』の試写が予約制であることを見落とし、電話したときは満席で見られなかったのが運のつき。そこで、『日本以外全部沈没』を見に行ったが、行きの地下鉄のなかで、牛のひずめのようなハイヒールのかかとがわたしの靴のうえに。痛いと叫んだが、その女性は恥ずかしそうにちょっと後ろに頭をかたむけただけだった。日本って、人の足を踏んだくせに、顔を見て、あやまるよりも、不思議そうに自分の足を見たりする人が多いから、あきらめましたが。試写室で本を読んでいたら、開映直前に飛び込んできた人が、わたしのうしろの席の奥の空席に進んだとき、その人の大きなバッグがわたしの頭の上に乗る。びっくりしてふりむいたが、その人は座るのに夢中だった。3度不運があったので、これで終わりかと思ったら、映画の出来が4度目の不運だった。やれやれ。


2006年 07月 03日

●ウェブとシナップス

「インターネットメディア論」で、インターネットのウェブ的イメージと、脳のシナップスのイメージとが類似している点について話す。これは、必ずしも両者が構造的に似ているというよりも、両者に関して同じ視点と同じ先入見があり、それらを問題にすることのほうが先決である。
この点に関しては、すでにマリタ・スターケンが、(直接インターネットや脳についてではないが)免疫システムの電子顕微鏡写真に関し、それが対象へのアプローチの姿勢次第でどうにもなること、それがいかにメタファー的であるかを指摘していた(『アメリカという記憶』未来社)。ウィルスも、13万5千倍にも拡大され、勝手に色づけされたりするならば、その写真が「ありのまま」だなどとは誰にもいえない。むしろ、そこには、免疫システムをどうとらえたいかという先入見があり、その結果としてわれわれが科学雑誌などで目にする「免疫システム」の「写真」があるわけだ。シナップスやウェブについても同じである。
夜、新宿で久しぶりに来日したシャロン・ハヤシに会う。フランクフルト学派とは異なるポストコロニアルの諸思想を「clitical theories」と呼ぶことの是非、それから、本当は出たくなかったのに "roped"されて出てしまった会議の話などについて歓談。"roped"というのは、牛が(捕まりたくないのに)カーボーイのロープで捕らえられてしまうイメージ。言い得て妙。