「シネマノート」  「雑日記」


2006年 06月 30日

●納富貴久男氏のデモンストレイション

ガン・エフェクトの納富さんは、スタッフの方、それからいずれこの講座に来ていただくことになっている「花火師」の山崎望氏をしたがえてご来校。なかに映画用の「銃器」と諸装置がびっしりつまったアルミのトランクは、台車にたっぷり2台分。
イントロのインタヴューで、『TAKESHI&.html#39;S』の最後の部分で、両手に持つ銃が入れ替わってしまったエピソードを紹介してくれ、面白かった。ガン・エフェクトはハリウッドの独占かと思っていたら、『灰とダイヤモンド』でハリウッドより進んでいるテクニックが使われているという。お持ちいただいたそのシーンを見て、みんな納得。
学生のなかから希望者をつのって「銃」を撃たせたとき、恥ずかしそうに前に出た女子学生が、5,6発撃ったあと、「すかっとした~あ!」と嬌声を発する。銃はやはり人を変える。


2006年 06月 29日

●カフカは誰も知らない

「演習」でカフカを持ち出したら、ほとんどの人がカフカを知らなかった。村上春樹の『海辺のカフカ』あたりで名前だかは知っていると思ったが、意外だった。かつて授業でカフカをとりあげたら、「横田順弥のSF小説に、カフカの『変身』のサムサと<寒さ>をひっかけたのがありましたね」などとマニアックなことを言う学生がいたが、もうそういう時代ではないらしい。
「映画文化論」という講義では、先週のボーイ・ミーツ・ガール・ムービーの続き。『プリティ・ウーマン』で使われているヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」に触れ、マリア・カラスのスカラ座公演のCDの該当部分を聞かせ、そのあいだスクリーンにカラスの写真を映しておいたら、案の定、「きれいな人ですね」という反応があった。これで、少しはカラスへの関心が高まったはず。カラスぐらい聴いてほしいので。
何とか間に合いそうなので、丸の内プラゼールへ走る。『イルマーレ』の完成披露試写会。すでに開場していたが、うしろの方に空席を見つける。韓国映画のリメイクで、ちょっと荒っぽいなという感じがしたが、タイムスリップものが好きなので、楽しんだ。


2006年 06月 28日

●『40歳の童貞男』と『サイレント・ヒル』を見た

前者は、いわゆる「ボーイ・ボーイ」ムービー。要するにガキぽい男が出て、わいわいやるやつ。そのわりに「道徳的」なところがつまらない。
後者は、よくもわるくも、監督クリストフ・ガンズの前作『ジャヴォーダンの獣』を、『マルホランド・ドライブ』風にアレンジした『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』といったおもむき。
帰り、もうじき閉まってしまうインド料理店ハリドワールへ。


2006年 06月 27日

●不調なときはコンピュータ

というよりも、しめきりや試写や約束があるのに、それらを回避して、やらなくてもいい新しいソフトのインストールとか、まだためしてみないLinuxのOSをインストールしてみたりするときは、調子がわるいのだ。
決まったパターンは、NeXTstepをVAIO PCG-U1に(しかもVMwareごしに)載せるという試み。この日も、結局は、kernel panicを起こして、中座。うまくいっているという人もいるので、いずれまたチャレンジすることになるだろう。調子の悪いときに。


2006年 06月 26日

●「こわい」という今的意味

学生くんの感想文などでよく「こわい」という表現に出会う。テクノロジーの近未来的可能性として人間の「アンドロイド化」や「データー人間化」のことを話したら、何人もがそういう言葉を使っていた。が、それは、単に「恐ろしい」ということではないらしい。一面で「恐ろしい」のかもしれないが、他方でそれに「期待」していることを含意しているらしい。
新宿でブルガリアから来たアイヴァ・Gに会う。彼女は、ブルガリアのソフィア大学で哲学を専攻している人で、数年前、突然わたしにメールをよこした。色々質問をしてきて、そのうち日本のアニメを勉強したいと言うので、わたしは、アニメはあまり好きでないのでと言い、上野俊哉を紹介した。今回彼女は、彼の紹介で、明治学院で開かれる学会ASCJに来たのだという。
メールでは、むずかしい話を交換していたのでどんな人かと思ったら、まだ「娘」っぽいお嬢さんで、待ち合わせの場所までお母さんがついてきた。母親との日本旅行をかねて来たらしい。でも、哲学科を出ているから、ギリシャ語、ラテン語も読めるし、日本の学生にくらべるとはるかにレベルが高い。思想史の基礎的な知識はしっかりしている。日常的には「お嬢さん」だが、知的には脱年齢で、話がはずんだ。いずれは、アニメではなく、AI(人工知能)への哲学的なアプローチをしたいという。


2006年 06月 25日

●シネマノートの問題

今月はたっぷり試写を見て、シネマノートをすばやく書こうと思っていたが、毎日、疲労・過労・心労(?)で大分手抜きになってしまった。また本格的な夜型にもどってしまったので、調子が出て、昨夜からかなり挽回する。
https://cinemanote.jp/


2006年 06月 22日

●一挙にブートアップ

昨日の昼間さぼったおかげか、深夜になってブートアップ。サンパウロのFILEフェスティヴァルにたのまれたDVDを一挙に仕上げ、そのあと、たまっていた原稿も仕上げ、発信。さあ~て、それからゼミと講義の準備をし、ちょっと寝る。
ゼミは、不倫とか離婚とかいう具体的なテーマの映画を見たとき、それをどの程度映画のコンテキストのなかで見ることができるのだろうかという興味もあって『恋におちて』をクリップに分割したものを見せ、話をする。いきなり離婚はOKかNGかという議論を出してきた者がいて、まあそれもしょうがないかと思う。1980年代のニューヨークのアップステイトに住む「保守的」なミドルクラスの男(デニーロ)と女(ストリープ)の話で、それが、他方「離婚ブーム」だった当時のマンハッタンとどんな文化装置的な意味を持ったか・・・なんて議論は期待しても無理なのかも。
講義では、昨年もやった「ボーイ・ミーツ・ガール」ものの話。ふと気づくと、床にクッションを敷き、しっかりと足の延ばして寝ている学生がいるのに気づく。放っておこうかなと思ったが、ふと木村大作氏のことを思い出し、揺り起こして「恫喝」。マイクを持っていたので、「ふざけんじゃねぇよ、おまえ」とか言ったわたしの声は相当ドスがきいていたらしく、その学生くんは目を白黒。不思議だったのは、わたしのこのパフォーマンスを他の学生たちが喜んだことだった。しばらくまえから気づいているが、なぜいまの学生は怒られるとうれしそうにするのだろうか? オヤジに怒られたことがないからだと誰かが言ったが、そうなのかな?
明日のゲスト講座の準備などをして国分寺駅へ。学生くんから渡されたケータイに電話すると、「迎えに行きますから待っててくださあ~い」と言う。案内されたのは、とある飲み屋。2階に上がると、ゼミの大半の学生くんがせいぞろい。彼や彼女らが自分で計画した「飲み会」。いまは「コンパ」とは言わないらしい。昔は「飲み会というと、酒に弱いわたしなんかがロシア人とつきあうときのような目にあったが、いまの人はそんなには飲まない。でも、考えてみると、自然発生的に学生の側からこういう集まりが立ち上がるのは、久しぶりだ。しかも、ほとんど全員出席とは。
夜、講義で使おうとしたクリップの音(QuickTimeからのDVDに焼いた)がでなかったのが気になり、あれこれ試す。プロテクションがかけられているらしいのだが、こうなるとかえってはずすことに情熱がわく。(これは、結局、LinuxのMplayerについているMencoderではずれた)。


2006年 06月 21日

●コンピュータへの逃避

いくつか締め切り仕事や事務的な仕事があるのだが、手につかない。そういうときは、必ずコンピュータのまえにいるから、いつもはさわらないソフトのテストをしたり、やらないでもいいコンピュータの「チューンアップ」にはげんだりする。そのあげく、コンピュータの調子が悪くなったりするのだから、無意識に破壊的衝動に走っているのであろう。


2006年 06月 20日

●『日本沈没』を見た

銀座に出て東宝で『日本沈没』を見た。避難者たちがリアカーを引いて避難しているシーンを見て、この映画って、現代か近未来に時代設定しながら、結局は第2次世界大戦中や戦後のどさくさの時期の「崩壊」イメージをモデルにしているんだなと思う。リアカーは、いまでもないわけではないが、庶民が簡単に手に入るものではなくなっている。


2006年 06月 17日

●コンピュータなんか信用しない

一昨日、講義のデータを整理していて、突然、コンピュータがおかしくなり、1つのハードディスクのデータが全部消えた。このコンピュータは、映像編集用に使っているので、処理したファイルはディスクに焼くことが多く、バックアップはとっていなかった。それにファイルの容量がギガ単位になるので、バックアップを二重にとるのはやっかいだ。わたしは、コンピュータをで信用していないので、これ以外のコンピュータのデータは、15分おきに自動で別のコンピュータにバックアップをとっている。ただ、問題のコンピュータには、大きなディスクがついているので、折にふれ、いますぐ使うわけではないようなファイルを無造作に突っ込んでおいた記憶がある。それらは何だったか?
そこで、ファイル復活ソフトを使って、消えたファイルを復活し、ファイル名だけでもチェックすることにした。それが、2日間稼動した末、やっとデータを復活させてくれた。さいわい、貴重なものはなく、確認しただけで事なきをえた。
ちょうどこの2日間に、わたしの知り合いは、わたしよりもっと深刻なコンピュータトラブルに直面していたらしい。最初のメールで、新しく出たインテル版のMacBookProが「スリープ 解除後にカーネルパニック」を起こして困っているというメールをもらった。わたしは、もうMacを使ってはいないので、知り合いのMac使いからきいた解決方法らしいものをメールで告げた。が、それは彼を大いに侮辱することになったらしい。問題は、そんな「初歩的」な問題ではないというと言いたいが、それをぐっと抑えたメールが届いた。わたしは、9台もMacを遍歴したきたというこの人をバカにしたわけではないが、アップル社のサポートが適正に対応してくれないのに苛立っていた彼は、抑えきった怒りをわたしに爆発させたかのようだった。申しわけないことをした。
その昔、わたしもずいぶんコンピュータ会社とは喧嘩したことがあるので、彼の気持ちは痛いほどわかる。が、いまは、そういうストレスから解放された。というのも、いまわたしが使っているマシーンは、みな自作のAT互換機か「保証対象外」ないしは「質問不可」などと書かれたジャンクのワークステーションを再生したものばかりだからである。まして、Macintoshのような、OSとマシーンとを一体にして売っているような高価な製品は一台も持っていない。だから、わたしの場合は、コンピュータにトラブルがあっても、「自己責任」しかないのである。
コンピュータは所詮道具にすぎない。NeXTのようなフェティッシュな気分をそそるマシーンにもう一度出会いたいと思うが、もうそういう時代は来ないだろう。Macは、そういう要素を残しているが、そのへんがMacの限界であり、Intel Macは、OSとマシーンとを一体にして売るMac商法の終焉を示唆するように思える。


2006年 06月 16日

●カリスマ美容師が学生の髪をカットする

「身体表現ワークショップ」の前期8回目は、ジャック・デサンジュのスタイリスト3人(銀座店トップスタイリスト白鳥徳雄さん、同店の人気スタイリスト北原タエさん、国分寺店長でカリスマ美容師阿部等さん)が来てくれた。まず、白鳥さんが美容師とはなんぞやということをパワーポイントや映像を使いながら「講義」し、そのあと、3人が、2人のモデルさんと4人の学生くんをカット。実演で、ださい髪がたちまちおしゃれで洗練された髪型に変わっていくのを目の当たりにするのは、なかなか感動的であった。
毎回、ちいさな紙を配って短評を書いているのだが、終わりごろに入ってきて、「出席カードください」という学生がいた。わたしは、いつになく頭に来た。ばかやろう! ふざけんな! とは言わなかったが、「いまごろ来て、感想書けないだろう!? いっしょけんめいやってるゲストをなめんじゃないよ」と一喝。


2006年 06月 15日

●きわめて常識的「教師」をしてしまった一日

教師なんてやってるつもりはねぇえんだと思いながら、ときどき、えらく「教師じみたこと」をやってしまう。といって、出席をとったり、説教をたれたりするわけではない。
基礎とか常識なんか無視してきた身でありながら、マリリン・モンロウもマックルーハンもパイクも知らないとなると、ちょっと「教師根性」が出る。で、今日は、ゼミではハリウッドの「ロマンティック・コメディ」なるものはなんぞやという解説的ムービーを見ながら、多少の議論をした。
講義では、バスター・キートーンの話。こちらも、まえに『セブン・チャンス』を見せたら、「ジャッキー・チェンより昔に、ジャッキーよりすごいアクション俳優がいたんだぁ」なんて言う学生がいるので、キートン紹介をしなければならないという「教師根性」がわきおこり、短編をちりばめたDVDクリップを作ったりして見せ、最後は、ジリ貧のキートンを力づけるために起用した『ライムライト』の競演場面と、カナダのキートンファンのジェラルド・ポタートンが、最晩年のキートンを出演させた『The Railrodder』を前編を見せる。このタイトル、railroader(鉄道員)とrodder(暴走族)とをかけ、なかなか含蓄がある。


2006年 06月 14日

●『M:i:III』と『弓』を見た

かなり早く行ったが、今回もあっという間に満席。ただし、上映まぎわまでパンフやそのへんの物品を置いた空席がめだった。やがて売れてる週刊誌や女性誌の関係者やテレビの有名人が登場し、ちょっとバツの悪い感じでお座りになった。いえ、そんなに気にすることはないよ。宣伝力という点ではちゃんと働いてるんだからね。
楽しませるという点では、『M:i:III』はよく出来ている。トム・クルーズを嫌う人はけっこういるが、こういうプロは嫌いではない。
『弓』は、いまや「巨匠」になってしまったキム・ギトクの最新作だが、ちょっと屈折が希薄になってきたのを感じる。どきっとするところが薄れた。わたしなら、少女じゃなくて、少年にするけどね。


2006年 06月 13日

●『蟻の兵隊』と『太陽』を見た

前者は、『リーベンクイズ』と『ゆきゆきて、神軍』と『新しい神様』と共通するところがある。中国に従軍し、民間人を殺したことを明確に告白し、それが究極的に天皇の命令であったことを糾弾するのを見て、そのヒロヒトを主人公にした『太陽』を見ると、ちょっと奇妙な感じになる。そこには、最初にして最後の(宮内庁がやめたので)昭和天皇テレビ出演で、戦争責任を問われて、「そういう文学のあやは・・」と言ってしまったときと同じキャラクターのヒロヒトがいる。こういう人じゃ、まあ、しょうがないかと、いまなら思えるとしても、戦争で死んだ人間はそう苦笑して済みはしない。


2006年 06月 12日

●テクノロジーの未来は暗いだけか?

インターネット文化論という講義で、ヴァーチャルな環境の亢進について話す最終回。映画技術から医療や戦争・軍におけるVR技術の紹介をしたら、学生の感想は、「テクノロジーは危険」、「このまま進んだら大変」といった反応が大半で、わたしの方がびっくりした。
テクノロジーの「主流」が軍や企業の利益のロジックで「発展」するのはあたりまえである。そんなことは、いまに始まったことではない。ヘルマン・ディールスの『古代技術』なんかをひもとくまでもなく、ギリシャ時代からそうだ。
問題は、にもかかわらず、テクノロジーには、つねにもうひとつの側面があり、メディア・テクノロジーであれば、伝達やデータ蓄積の効率化のほかに、情動の活性化や交流関係の横断的変換という側面がある。
この分では、来週は、そういう側面をヴィヴィッドに体験させる実例を持ち込まなければならなくなりそうだ。また自由ラジオでもやるか。


2006年 06月 11日

●おくればせながら「シネマノート」を仕上げる

日 曜日、家族と遊園地に行き、帰りにファミレスで食事――なんて人生はわたしにはない。
メモだけがたまってしまった「シネマノート」とメールの返事に追われる。外見的には、ごく単純な一日。
ドイツのハレで開かれる「radiorevoluten」(http://www.radiorevolten.radiocorax.de/)というフェスティヴァルでトニック・トレインのクヌートとサラがいっしょにサウンド・パフォーマンスをやりたいというので、大分まえ、OKの返事を出した。が、その後、ベルギーからハレに行くスケジュールのすり合わせがどうしても無理なので、行けなくなり、わたしは、リモートで参加することにした。ところが、キュレイターが、わたしが来ないのなら、クヌートたちにギャラを払わないと言ってきたという。わたしは、フェスティバルには興味がないし、自分の実験でしかない(いつも変えているから)パフォーマンスにギャラなど期待しないが、そういうことになると、わたしが行かないというのは、彼と彼女に対して責任があるな、と思い、スケジュール調整をしてみる。10月末にベルギーのOKNOから呼ばれているので、それに「便乗」してハレにも行けるかと踏んだのだが、「radiorevolten」は10月18日で終わってしまう。とすると、それ以前に別枠で行かなければならない。それは、経費的にもスケジュール的にも無理に近い。まあ、2には、泣いてもらわざるをえない。
昨日届いたクリスチャン・ニコライのCD "soundmaddnessbox"を聴く。彼とはトロントで知り合ったのだが、本当に「変な」奴だ。ここで言う「変」とは、ユニークという意味だが。同封の手紙は、いまでは骨董品になってしまった手打ちのタイプライターで打ってある。
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2006年 06月 10日

●朝からDVDで『街の野獣』、『拾った女』を見た

このところ試写通いが減っているせいか、映画映像に飢え、起きだしてすぐジュールズ・ダッシンの『街の野獣』を見る。ダッシンは、その昔、わたしが「研究」していた左翼イーディッシュ劇団「アルテフ」の俳優だったことがあり、それから映画界に入った。若いことから左翼で、のちに「赤狩」でひかっかるのは偶然ではなかった。この映画は、彼が(ギリシャに行くまえ)ロンドンに「亡命」していたとこに作ったもの。
なんとなくフィルム・ノワールの作品が見たかったのと、リチャード・ウィドマークのことを思い出したので『街の野獣』を久しぶりに見たのだが、勢いに乗ってサミュエル・フラーの『拾った女』に手がのびる。フラーは好きな監督だが、この作品を見ると、完全に「非米活動委員会」に擦り寄る「反共」的な姿勢が読める。リチャード・ウィドマークといえば、少年時代、わたしは、エドワード・ドミトリクの『ワーロック』で、ならず者一味に捕まった彼が、ナイフで手を刺されて拷問されるシーンを見て、その残酷さに仰天したことがある。いま見れが、どうということのないシーンだが、わたしも純だったのだ。


2006年 06月 09日

●平田康彦・ミオさんのダンス講座

ゲストシリーズの今週は、ダンサーの平田康彦さんと平田ミオさん夫妻。彼には、昨年、サンバのダンサーとドラム隊を率いて来てもらい、学内を「大荒れ」にした。そのとき、ちらりとみせた平田さんのタップやジャグリングがなかなか絶妙だったので、今回は、(サンバも最終日の7月14日にお願いしている)タップを特化して教室を教室でなくしてもらうことにした。
タップの基本を説明し、実演したあと、日本舞踊とタップとの境界をスライドさせるような多芸さを披露、満場を沸かせた。タップの映画の名画面もわざわざ編集してきて見せるなど、レクチャーとしての側面も考慮し、サービス満点。
そして、そのあと、ミオさんがサンバダンサーの衣装で登場。学生たちは、(去年見ていない者が大半だったので)その華麗さとセクシーさにタジタジ。楽屋にもどり、衣装を取り、ふたたび会場にもどってからはじめた彼女のトークが受け、平田康彦さんが予定していたらしい時間をオーバーする。彼は、学生をまじえてのインスタント・ダンス・レッスンも予定していたのだという。ミオさんのトークが受けたのは、彼女の独特のディスクールと個性とともに、彼女が、ダンスに入れ込んで単身ブラジルやキューバに渡ったという経験がいたく学生(何をやったらいいか迷っている者が実に多い)を刺激したためのようだ。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/TKU/shintai/


2006年 06月 08日

●マイクの実験

今年のゼミは、去年と全くちがう雰囲気で展開している。毎回メールで感想を書き、それに対してわたしが必ず返事するというようにしたのもよかった。少なくともヴァーチャルには、わたしと交流が出来上がっている。次は、現場での横のフィジカルな関係をどうつけるかだ。
というわけで、今日は、10チャンネルのミクサーに10本のマイクを接続し、メンバーが3人ぐらいの組になって、各組1本のマイクを使って、勝手におしゃべりをするというシステムを実験した。ミクサーの手加減で、どの組のおしゃべりを浮き彫りにするかを選択できるが、全部同じ音量で流し、PAからは、オーネット・コールマンの『Free Jazz』のようなカオティックな声というかざわめきというか(それは、ときにはシュトックハウゼンの「若人の歌」のように聞こえるときもある)なんか不思議な音の連続になるときが一番おもしろかった。
ときどき理解できる「話題」は、各組単位ではなく、別の組の誰かがたとえば「嫌われ松子の一生」と言ったのを聞きつけて、別の組でその話が始まるというように、横断的なつながりをもつこともあった。
予想したように、こういう実験で、学生たちは、マイク/PAというメディアを「伝達」という意味では「無意味」に使いながら、情動的には効果的に使うことになったようだ。この実験によって、確実にフェイス・トゥ・ファイスの横の関係はよくなった。
この実験の直接的な結果ではないのだが、このあと、たまたま一人の学生が、このゼミの「飲み会」の勧誘をはじめた。学生自身からこういう計画が登場するのは、10年ぶりである。


2006年 06月 07日

●『ユナイテッド93』1本のために半日が過ぎた

わたしにとっては映画をたっぷり見ることのできる少ない日なので、同じUIPで1時から『M:i:III』、3時半から『ユナイテッド93』を見るつもりで出発。しかし、みんな同じことを考えるらしく、30分まえに着いたら、もう満席。こういうときに限ってほかでやる試写状を持っていない。それと、この分だと、『ユナイテッド93』もすぐ満席になるから、そうとう早く来ないとやばいと判断。
寿司を食い、本屋へ。最近は、大きな本屋でないと(大きな本屋でも)必要な本がないのだが、大きな本屋では必ずBGMというやつをながしている。わたしは、周囲過敏症が亢進していないときでも、本屋のBGMを快適と感じたことがない。音楽によっては、出たくなり、買いたいと思った本もそこそこにして出てしまう。音楽を流さない大書店というのはないのか?
50分ほどまえにUIPへもどったら、すでに待っている人がいた。『M:i:III』のお客が継続的に見るというやり方はしないということを電話で確認しておいたが、この分では、あっという間に満席になる気配。だから、どのみち、今日2本見ることはできなかったのだ。開場は3時10分ぐらいになったが、待つ人たちは、けっこう殺気立っていた。
https://cinemanote.jp/2006-06.html#2006-06-07


2006年 06月 06日

●『カポーティ』を見た

病院の近くを歩くのは恐怖なのだが、ソニーの試写室は聖路加タワーにあり、周囲は病院街だ。昨日からの周囲への過敏症が続いているようで、息をひそめ、サングラスをかけて(帽子をかぶっていれば、目深にして――といった雰囲気で)歩く。
30分まえだったが、最初に試写室に入ったのはわたしだった。冷房がかかっていなくてえらく暑い。そのうち人が入ってきたが、ドアーが閉まっているので、入るたびにバタンバタンという音がする。たまりかねて、ドアのストッパーをセットしに行く。こんなこと会社の人がやるもんでしょう。
映画は、悪くなかったが、アカデミー賞を取る作品というのは、『モンスター』のときもそうだったが、主演俳優の「力演」がかえって浮いてしまうような感じがある。
終わって、ちょっと実験材料を買おうと、有楽町のビックカメラに行き、以前にも見たことのあるSONYの「ロケーションフリーテレビ」のデモを眺めていたら、店員君が近づいてきて説明をしてくれる。が、わたしには、その説明が完全にまちがっているように思われ、だんだんこちらがIP接続やDHCPの説明をしているような格好になる。ただならぬ雰囲気に別の店員君(もうちょっと詳しい)が来て、紙を出して、説明を始める。わたしが問題にしたのは、このシステムは、「グローバルアドレスを振らないとLANのなかでも使えない」というのだが、そんなバカな話ってないでしょうということ。


2006年 06月 05日

●『カーズ』を見て大学へ、そして新宿へ

気圧のせいか、ちょっと日本を離れたせいか、それとも別の原因か、電車に乗ると周囲の音やにおいや動きが気になってしかたがない。地下鉄のなかで隣の女性が化粧をはじめたのだが、バックのなかから頻繁にモノを取り出すのがいらつく。そのうち、口紅のスティックがわたしの膝のうえに落ちた。さっと手を延ばして取ったが、無言だった。わたしの膝に手が触ったのは失礼ではないのか? 席を替わったら、となりのおじさんが、昨夜肉をたらふく食って泥酔したような息を吹きかけてきた。
乃木坂からブエナビスタへ。『カーズ』の試写。かなりの盛況。作品の出来もよく、これなら当たるだろう。
六本木まで歩き、大江戸線で新宿へ出、大学へ。今日は、ヴァーチャルな世界の増殖というテーマの補注的な話として、90年代におけるコンピュータ・グラフィックス技術の飛躍的な前進を、MayaやFlameの操作例を見せながら、例証する。
夜、新宿で渡邊裕之に会う。彼が、『海の家スタディーズ』(鹿島出版会)という本を出し、「久しぶりに会いたいね」などと言っているうちに1年たってしまった。食事をし、歓談。その後、ゴールデン街の「じゃこばん」へ。


2006年 06月 02日

●織田尚さんの特殊メイク

舞台監督の「現役世界最高齢」の木村威夫氏が体調不良になり、特殊メイクの織田さんにピンチヒッターをお願いした。
快く引き受けてくれた織田さんは、最初かなりとまどっているようだった。ご自分から口を開くのがおっくうそうなので、わたしが、織田さんの担当した作品の制作エピソードなどをうかがうことから始めたが、わたしが特殊メイクの現場を知らないので、なかなかかみ合わない。学生たちも退屈そう。怪獣オタクやフィギャー・マニアにインタヴューアーを頼めばよかったのかなと反省したが、布袋寅泰の顔が七変化する「DOBERMAN」のDVDを上映したころから、雰囲気が変わってきた。
そして、後半、学生をモデルに傷口や銃傷の穴などを特殊メイクする実演では、会場はけっこういい雰囲気になって行った。最後は、40人近くの参加者が全員マイクを握って質問をし、なかには仕事のギャラまで訊いてしまうのもいた。最近は、そういう質問を平気でする子が多くなった。ある種のアメリカ化である。
http://www.setouchi.com/


2006年 06月 01日

●岡本喜八『ジャズ大名』

ゼミと映画文化論という講義の日。トロントに行く前日と同じスケジュールだったので、タイムスリップした感じ。
ゼミではメンバー同士が知り合ったり、交流を深めたりするものだという観念は、あらためなければならないのかもしれない。
今年は、実験的に、わたしと各メンバー一人ひとりとはメールで結びついているが、メンバー同士は(それ以前からの友達関係は別として)ばらばらのままという状態を4月から放置してきた。それは、けっこううまく行き、欠席する者もほとんどなく2ヶ月がたった。
しかし、せっかく一週一度でもフェイス・トゥー・フェイスの関係になるのだから、そろそろこのへんで、自己紹介を含めたパーティ的な関係を持ってはどうかと思い、好きなメディア機器を使って「自己アッピール」をやってもらうことにした。結果は、準備してきた者は、数名で、あとは、その場かぎりの「挨拶」をマイクだけでやるという安易なものだった。わたしは、この2ヶ月間感じていた楽天的な気分を失い、昨年のうんざりした気分を思い出した。
感想などを書かせると、「もっとゼミ内の交流がほしい」というような意見が出る(今年は出ていない)が、いまの学生は、ゼミにそんなものを求めてはいないのではないか? いるとしても、それは、むしろ、ゼミ生としては半身で、ゼミで何かを追求する気がないような人がそんなことを言うのではないか?
いま必要なのは、いかにして、ゼミの限られた時間を知的な意味で高揚したものにするかだろう。テレビをつければ、タレントやお笑い芸人たちが、実に「楽しげ」にゲラゲラ笑い合っている。電車のなかや街頭で見るしかつめらしい空気とは正反対だ。
学生が「楽しいゼミ」と考えるときのイメージは、テレビのバラエティ的なものであるような気がする。何かを発見したり、創造したりする喜びに立ち会うことではない。そういう喜びは、みな独異的なものだから、みんなが必ずしも「共有」しなくてもいい。いっしょに声を合わせて笑ったり、泣いたりしなくてもいいのだ。そういう意味での楽しさのモデルを提供してくれるメディアはほとんどない。
ところで、講義では、解説をしながら、岡本喜八の『ジャズ大名』を見せた。面白いと思うのは、わたしは、この映画を1989年ぐらいから講義で見せて来たが、その都度、学生たちの反応は、プラスなのだ。この日も、短い感想を書いてもらったら、大半が「面白かった」「全編見たい」というのだった。岡本喜八は偉大なり。