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2006年 01月 31日
●『プロデューサーズ』を見た
明日から海外なので、けっこうあわただしいが、しばらく見れないので、銀座へ。ヤマハホールで『プロデューサーズ』を見る。今月のみおさめだ。68年にメル・ブルックスが映画化し、その後ブロードウェイのミュージカルとしてヒットした。今回は、ミュージカル性が強まり、華麗になっている。なかなかいいと思う。
メル・ブルックスは、いつも、ドタバタのなかになかなかしたたかな政治批判をしのばせる骨のある映画人。今回も、時代設定は大分むかしになっているが、ブッシュやその信奉者も、こういうやり方で笑い飛ばしてしまうこともできそう。
逆手で金儲けをしようというこの映画のプロデューサと会計士の組み合わせは、ちょっとライブドアを思い出させる。こちらは、ペテンではなく合法を逆手にとろうとしたところが方向が全く逆だが。
帰ったら、『グラフィケーション』の長文連載(最終)のゲラがファクスで。手を入れて送りかえしたら、編集長の田中和男さんから電話。同誌の平井玄さんの連載にニューヨークの篠原有司男氏から激励のハガキが来たとか。彼は、東京を歩きながら面白い都市マルチチュード論を書いている。
さあ、これからニュージーランド行きのしたくをし、『ユリイカ』のマドンナ論を書かなければならない。さてさて。
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■2006年 01月 30日
●ナムジュン・パイクの訃報
いろいろあって、試写に出そびれた。時間がないときこそ、無理しても試写に行こうというのがわたしのポリシーだが、それも、今日は、物理的に無理だった。
メールや電話もたくさんあった。予感はしていたが、「とうとう」という思いをしたのは、ナムジュン・パイクの訃報だった。起きてすぐメールを開くと、トップにニューヨークの刀根康尚さんのメールがあり、パイクの訃報を伝えていた。無断で引用してしまおう。
【Nam June Paik が今晩7時過ぎに亡くなったと、久保田成子さんから電話がありました。このところ、マイアミに避寒中のパイクから何度か電話があり、寝ていて2度ほどミスしたのですが、今日アンサーリングマシーンにメッセージが残っていたので午後に電話したところ睡眠中とのことでした。そして夜9時頃の訃報でした。正月の2日に介護人が不注意から熱湯をパイクの足にかけマイアミのマウントサイナイに入院したのですが、その際に電話で話した時は元気なようすで絵を描いている、と言っていました.話といっても、昔のように突っ込んだ話はとても無理なので声を聞いて安心するだけの状態でしたが。何回か続けて電話してきたのは死期を悟っていて、なにか伝えたいことがあったのでは無いかと思うと、痛恨の極みです。】
パイクに直接会ったのは、1978年ごろ、ニューヨークで刀根さんと会っていて、そこへふらりとパイクがあらわれ、3人でマンハッタンの喫茶店で話したときだった。ビデオやアートの話はせず、彼はひたすら情報や諜報の話をし、しかもそれが手のつけられないほどのひらめきにあふれているので、驚いた。
80年代になって、ワタリ画廊がパイク展をやり、やがて日本でパイクは超有名になった。すでに世界的に有名だったが、日本では一部でしか知られていなかった。
このときも、またそのあとも、何度かインタヴューのような対話をさせてもらったが、いつも彼の関心は、最新の世界情勢であり、テクノロジーと情報だった。
刀根さんのメールを読んだとき、なぜかふとわたしの頭に浮かんだ映像は、仏像がテレビ(そこに自分の映像が映っている)を見ている「TV BUDDHA」だった。このインスタレーションは、サンディエゴのカリフォルニア大学・コミュニケーション学科の庭にもある。といっても、彼は(おそらく)仏教徒ではないし、わたしもそうではない。
https://cinemanote.jp/
■2006年 01月 29日
●サイレントTVプロジェクト
ロッテルダムの国際映画祭のサブプログラムとしてV2が企画した「Exploding Television: Tea Time TV 」でアダム・ハイドとわたしがテレビ送信機を自分で作るワークショップをやった。といっても、わたしは日本にいるので、ストリーミングでその理論と技術の背景を話し、ちょっとした実験を見せるというだけ。あとは、アダムがやり、午前4時までつづいた。わたしの30分の映像と声も、ワークショップの模様も、TANGENT_TVのストリーミング回線で一般に公開されたが、さすがV2、450Kのビットレートで流しつづけて、一度も画像がとぎれなかった。
http://www.v2.nl/
■2006年 01月 27日
●『かもめ食堂』を見た
期末試験の「監督」の仕事で退屈な半日を過ごし、そのあと、京橋に走った。無理をして来たかいのある魅力的な作品。日本食の「食堂」を開いた日本人という設定ながら、不思議な国際性がただよう。いつまでも、「日本だけ」とか(その反対に)「日本はだめ」という単純な2方向ではなく、日本的であり、グローバルである(要するに「トランスローカル」ということだ)方向があるということを見せる。
わたしは、何度も大学の期末試験のくだらなさを批判してきたが、この映画の姿勢を拡大的に活用するならば、ダメだダメだといいながら大したこともせずに、文句だけ言っているよりも、そのダメさを別様に活用することを考えたほうがいいかもしれない。
自分で好きでやっているとはいえ、時間に追われる生活をしていて、試験場で見張りならぬ見張りのような位置に置かれると、それが無為徒労の時間であればあるほど、断食とか座禅をするときに体験できるのかもしれない「無」の体験としてみれば、悪くないような気もする。
わたしには、「カンニング」という観念はないから、カンニングの「見張り」はしない。とすると、試験場にいる90分は、ほとんどやることがない。やりたいことはいくらでもあるが、それができないということは、「無」というより、「負」の時間ということになるが、その「負」を「無」に転化できれば、この時間も活きてくるだろう。
しかしねぇ、音楽であれ芝居であれ、「ライブ」をたちあげる際に、お客が来ただけのかいがあるようなことをしなければ、意味がないのはあたりまえなのに、どうして大学は、ネットで済んでしまうような「テスト」に生身の学生をわざわざ一箇所に動員するというようなことをやっているのだろう? 時節がら、あちこちで咳する者がおり、流感の熱を押して出て来たような学生の姿もある。集まるということは、「ライブ」性(生身で集まること)が活かされなければ意味がないが、それが風邪引きでは、割が合わないだろう。
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■2006年 01月 25日
●『リバティーン』を見た
ジョニー・デップ好みの作品で、相当熱を入れているらしいが、この手の手合いを実際にさんざん見てきたわたしにいわせれば、デップが、冷笑的なキャラクターを演じ、「俺っていやなやつだろう、俺もおまえなんか嫌いだ」(こういうせりふはないが)というような拒絶的な態度をとればとるほど、その人物が淋しがりやの愛すべき人間に見えてしまう。もっと、すげぇ嫌味なやつをやってくれぇと言いたくなる。
今日は2本はしごしようと思っているところへ、AFP通信社の人から電話。うっかりとってしまったので、逃げられなかった。用件は、ライブドア問題。逃げ腰になったが、「これからは、新しい後任者のように背広の感じになってしまうんでしょうか」という質問に誘惑を感じ、長々と話をしてしまう。
たしかに「Tシャツ」(堀江貴文)から「背広」(平松庚三)へのゆりもどしは、当面、日本の産業カルチャーを規定するだろう。しかし、堀江的な傾向がもてはらされるのは、情報資本主義の流れからすれば、必然的だった。もし、日本が情報資本主義を突き進んでいくのなら、「新しい堀江」を作りださなければならない。が、事実は、日本の情報資本主義度が相当うわべだけのもので、現状は、たかだか「後期資本主義」のレベルにとどまっていることを露呈した一面もある。
情報資本主義というのは、資本主義のどんづまりだから、そこまで行かない段階で右往左往していた方が賢明かもしれない。が、それを意識的にしているのなら、まだしも、「金で買えないものはない」というのが資本主義の基礎であるのに、その反発がまず起こり、堀江が捕まれば、それ見たことかということになるのは、情報資本主義はもとより、資本主義以前である。また、堀江自身が、法律や制度のパラドキシカルな活用で金を儲けてきたのかと思ったら、実は装いだけ「新しい」ただの詐欺だったというのでは、彼も、情報資本主義以前である。
しかし、堀江のやったことは、既存の「詐欺」の域を出ないといっているのは、検察であって、裁判も始まらない段階で、堀江=詐欺師が決まったかのような印象が定着してしまうのも、日本社会の前資本主義的な傾向をあらわしている。
問題は、堀江への批判が、「おまえは情報資本主義のヒーロー(ただし日本でのみ)だと思っていたのに、そうじゃなかったではないか」というのか、それとも、単に「汚い手口で金儲けをした」という疑惑からなのかである。世の流れは、確実に後者の方に行っており、「金のことしか考えないやつの行く末はこんなものだ」といった昔の国定教科書に出てきそうな教訓へ向っている。
だが、堀江ブームには、社会の無意識としてであれ、「情報資本主義のヒーロー」待望というものがあったことを忘れることはできない。その「待望」は、いま「失望」に変わったわけだが、その「失望」は、今後、情報資本主義への反発や反動になりかわるのか、それとも、もっとレベルの高い「ヒーロー」への新たな願望へ向うのか?
堀江がやったことは、かなりお粗末であることが露呈したとはいえ、情報資本主義ではあたりまえである。「規制緩和」とはこういうことを「お目こぼし」することだ。その意味で、小泉/竹中路線は、暗礁に乗り上げた。インフラが全然情報資本主義志向ではないことが判明したからである。ちなみに、その国の警察の動向を見ると、体制の情報資本主義度がわかる。
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■2006年 01月 23日
●『マンダレイ』を見た
このところ、アメリカ批判に余念のないラース・フォン・トリアの『ドッグヴィル』を受けた作品。ニコール・キッドマンとブライス・ダラス・ハワードとでは、演技の爆発力のようなものがちがい、理屈では、アメリカ社会への痛烈な批判になっているとは思うが、まえほどの緊張感がない。しかし、それでも、後半のセックスシーンとか、「村」の秘密があばかれるくだりとかは、さすがフォン・トリアだという感じがする。
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■2006年 01月 20日
●『ククーシュカ ラップランドの妖精』を見た
あいかわらず自律神経失調症気味だが、元気を出して京橋まで足をのばす。来てよかったという実感。少し古いと敬遠するわるい癖があるが、2002年に発表され、いまの状況にこそばっちりリンクする奥行きをもっている。詳細は「シネマノート」で。
帰りのホームで、木下昌明さんに声をかけられる。久しぶり。同じ試写を見ていたのだった。しばらく立ち話。『ホテル・ルワンダ』の会のことをきかれ、当惑。彼は、この会がもりあがり、東経大でも「集会」をやり、国内での上映に行き着いたと思っているのだった。事実は、会の実にユニークな活動にもかかわらず、配給会社は、非協力的で、東経大での集まりに資料を貸してくれることも拒否し、アメリカ版のDVDの上映も控えてほしいとのたまった。
この映画とは関係ないが、この会社、いくら頼んでも、試写状に旧住所の郵便番号が表示されているのを直してくれない。いまの郵便局は、郵便番号で配送の仕分けをするから、住所は新しくなっていても、旧住所に行ってしまう。旧住所のひとがたまに思い出したようにまとめて郵便物を送ってくれることもあるが、そのときは試写がおわっている。だから、この会社の試写を見る機会はない。
わたしはミクロ・ポリティクスの人だから、「一事が万事」と解釈しがち。このずさんさは、それだけにとどまらないのではないか?
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■2006年 01月 19日
●『忘れえぬ想い』を見た
卒業制作を10本ほど見て点をつけ、そろそろ寝ようとしているところへニュー・プリモスのメルセデス・ヴィセンテから電話。招待を降りたいというわたしのメールに驚愕したという。以後、90分にわたり、話をする。最初の5分ぐらいでわたしは降伏し、あとは、詳細な打ち合わせをした。この人は、メールでは詰めた話をするのが嫌いらしい。メールでの交渉がうまくいかないので変だと思ったら、彼女は、バロセロナ出身で、活字よりもオーラル・カルチャーのひとなのだった。
あまり寝ないで大学へ。先週うっかり「今週で終わりですねぇ」などと口走ってしまったためか、あるいはもともとそんなノリなのか(うんと昔は、ゼミの最後の日はなしという先生もいた)、出席した学生は半分以下。朝まで見ていた、卒業予定生のDVDなどを見せながら、映像の「定型」からのがれることの難しさについて話をする。というのも、今朝それらを連続して見たとき、ほとんどが既存の真似に近いものが多く、「素人」に居直るようなものがなかったので、それについて考えてみたいと思ったのである。
夜の回に間に合いそうなので、京橋へ。イー・トンシンの『忘れえぬ想い』を見る。この監督とセシリア・チャンの組み合わせは、順序では次作となる『ワンナイト・イン・モンコック』で見ているので、こういうところから『ワンナイト・イン・モンコック』へ行ったのかという感慨。
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■2006年 01月 18日
●メールのわざわい
海外に呼ばれたとき、そこでやるパフォーマンスやワークショップの打ち合わせは、すべてメールでする。が、今回、ニュージーランドのニュー・プリモスにあるゴヴェット・アート・ギャラリーのキュレイター、メルセデス・ヴィセンテの場合は、メールがうまく機能しない。まず、返事が遅い。わたしは、コンピュータ・スクリーン3台にかこまれた「コックピット」のようなところで仕事をしているから、メールの返事は早い場合が多い。メールの返事が遅いのにイラつくのは「病気」だということは知っている。が、デッドラインが刻一刻と迫っているときに、3日たっても返事が来ないというのはおかしいでしょう?
そのうえ、大分たって届いた返事が、要領を得ないということになると、「やめた」という気持ちになってしまう。真夏のニュージーランドの太陽を浴びるのは悪くないが、コンセプトと段取りの悪いイヴェントには行きたくない。
そもそもこのイヴェントのテーマ「ミニFMからハクティヴィストたち」というのは、わたしの文章(『AT DISTANCE』MIT Press所収)から発案されたものだという。だから打ち合わせの必要はないということなのかどうかは知らないが、その一方で、わたしのやること(まだキュレイターと話しあっていないのに)が別の知り合いたちから伝わってくるという事態になり、わたしはいらいらしはじめた。で、質問のメールを送ったわけだが、その返事が来ない。
ニュージーランドと日本とのあいだには現在(夏時間で)4時間の時差があるが、これは、わたしには困りもの。向こうは、わたしが寝る時間にオフィースのテーブルにすわり、わたしが起きるころには、美術館から帰ってしまうのだ。近年は、オーストラリアのような「怠惰文化」(いまなら「スロー・ライフ」か?)を称揚していた国でも、ネットの世界では9時5時生活にはとらわれない。わたしは、かつて『遊歩都市』という本でオーストラリアの「怠惰文化」をリサーチし、その面白さをもてはやしたが、スロー・ライフというのは、時間にルーズであることではない。それに、数分間のあいだにメールがチャット式にババーと飛び交うのは、「あわただしさ」の称揚ではなくて、ある種時間を飛び越えた世界への飛翔でもある。それこそが「スロー」かもしれない。
とにかく、彼女とはタイミングが合わず、わたしは、さぼりの虫がもたげはじめるのを感じた。そして、ついに、キャンセルのメールを出す。
この文章を四方幸子さんあたりが読むと、「あいかわらず」という印象をもたれるかもしれないが、コラボレイションというのは、タイミングとレゾナンスでしょう。ね?
http://www.govettbrewster.com/exhibitions/now+showing/default.htm.html#
■2006年 01月 17日
●『ナルニア国物語』にあぶれる
1月17日は、1963年にFLUXUSのアーティスト、ロベール・フィリウが提案した「アートの誕生日」。根拠なんかないのだが、とにかくこの日を勝手に祝おうというわけで、その後一部のアーティストが賛同して、それぞれのやり方でアートを祝ってきた。1990年代になってから、ハンク・ブルやロベルト・エイドリアンらが電話やFAXや電波、さらにはインターネットを使ってリモートパーティをやるようになり、ウィーンの実験サウンド専門局のKunstradioが世界各地のパーティをリンクして放送するようにもなった。
わたしは、90年代のはじめからつきあっており、近年は、Radio Kineosusの仲間で参加したりもしたが、今年は、わたしもそのメンバーたちも忙しく、パーティどころではないようなので、アートの誕生を街と空中の「雑音」たちといっしょに祝うことにした。
街頭にマイクと諸々のセンサーを設置し、それらで音と電波を採り、そのままストリーミングで流すのである。サウンドスケープと「エアウエイヴスケープ」(とわたしが名づけた)である。その音の一部は、Kunstradioが流したので、どこかの誰かがコピーしたかもしれないし、その音を使って演奏したかもしれない。
午前0時からそんなことをしたのち、すこし眠って、六本木トンネルの近くのブエナビスタへ『ナルニア国物語』を見に行く。30分まえに着いたのにすでに列が出来ていたので、やな予感がした。しばらくして会社の人が、列を指して「ひょっとするとこのへんで入れなくなるかもしれません」と言う。試写室の定員は決まっているから、「このへん」ではなくて、「ここまでで」と言えるはずだが、そうは言えないところが妙。これは、特別の客のために取り置いている席があり、そういう場合、その人の都合次第で、来ないこともあり、そのときは空くが、それまではわからないからなのだ。
すでに3時15分をすぎていたから、タクシーを飛ばしても飛び込める試写はないが、待っているのもばかばかしいので、出ることにする。
http://kunstradio.at/
■2006年 01月 16日
●『ステップ!ステップ!ステップ!』を見た
『ミュンヘン』を見たきり、もう半月がすぎてしまった。今月もあまり映画を見れなさそう。大学のゲストシーリーズのイヴェントでは、年明けから2人の大物ゲストを迎え、疲れたが、それが終わってほっとするまもなく、明日(といっても今日の深夜)は「Art&.html#39;s Birthday」のネットイヴェント。準備をしなければならないが、映画を見ない人生なんてと思い、六本木のアスミック・エース試写室へ。
じきに犯罪に加担するようになる子が多いエリアのニューヨーク市の小学校で、1994年からやっているという「社交ダンス」の講座とコンテストの話。社交ダンスを学ぶことによって、「レディ」であること、「ジェントルマン」であることを意識させ、少年少女が「非行」への転落するのを防ごうとするのが一つのねらい。どこも先生は苦労しているねぇ。
生徒を真剣に心配する先生たちの態度は胸を打つが、結局は、競争で勝ち抜くことに情熱を燃やすわけだから、彼や彼女らは、街の犯罪に加担する人間にはならなくても、「レディ」として、「ジェントルマン」として、会社や政界で競争にあけくれる人間になるのではないかな、と心配する。アメリカの問題は、結局、街の犯罪ではなくて、競争主義そのもののなかにあるからである。
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■2006年 01月 15日
●自律神経の問題
わたしは眠るのが嫌いだ。寝ないでいられればずっと眠らないでいたい。それは、可能だと思う。カフカの「断食芸人」は過激に断食しつづけ、自分では死んだと思うことなく、干からびてしまうのだが、同じように、かぎりなく眠らないでいることは可能だと思う。しかし、それにもかかわらずわたしがそうしないのは、2日ぐらい寝ないでいると、約束とか仕事のたぐいが支障をきたしはじめるかからだ。あたりまえである。
金曜に小嶋さんのイヴェントが終わり、ほっとし、いくつかのシメキリを片付けた(失礼)あと、土曜になり、思い切り寝ないでいたら、日曜になって、体が二つに分裂するような気分に襲われた。お酒を飲むと、しばらく「安定」するが、すぐにおかしくなる。これは、わたしがしばしが経験する自律神経失調症であり、規則生活を怠ったツケである。
身体が、自覚的な意識(顕在的な意識)を越えており、意識の自由にはならないことは、別にメルロ=ポンティの指摘がなくても、あたりまえである。が、年に何度か経験するこの自律神経失調症のおかげで、身体論をわが身で経験できるのは悪くない。
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■2006年 01月 13日
●「身体表現ワークショップ」のハイライトはイタリア料理
前期と後期で総24組のゲストを招く「身体表現ワークショップ」も今日が最終回。最後は、料理という身体にとっても、身体表現としても究極で基本のジャンルを選んだ。ゲストは、青山のイタリア料理店「クッチーナ・トキオネーゼ・コジマ」のシェフ、小嶋正明さん。
予想はしたが、参加者のかかわり方が普段とは全くちがうのだった。いつもは強引に勧めてもなかなか前に来ない彼や彼女らが、「前に座ってもいいですか?」と訊き、誘導したら、小嶋氏が料理を作っている台のかぶりつきまで接近した。
第1部は、わたしが小嶋氏に、料理の道に入った由来、イタリアでの修行、厨房やフロア・サービスのことなどを尋ねる。その間に、前夜に大急ぎで編集した『ディナーラッシュ』の厨房シーンや『ギャルルソン』のイヴ・モンタンの完璧なまでのフロア・サービスを見せているシーンを映し、インタヴューが平板になるのを回避する。
第2部は、白い料理服に着替えた小嶋氏がさっそうと現われ、パスタ料理を作り、途中で学生たちにも作業に参加させる。完成が近づき、大量のバジリコとパルメザンチーズが鍋に投入されると、感動の歓声があがった。
はたして、40人を越える参加者(明らかにふだんより多い)全員が試食することができるのかと心配したが、さすがはプロの小嶋氏。誰もが小皿に盛ったパスタ料理をしっかりと試食する量を作ってくれた。みんな実にハッピーな顔をしていたのが、なによりだった。教室を教室(収容所)ではなくしようというねらいは、教室がまさしく「コンヴィヴィアル」な場に変容したことで、完全に満たされた。小嶋さん、ありがとう。
http://www.tokionese.com/
■2006年 01月 12日
●『ミュンヘン』を見た
昨日は少し疲れたのでいつもより早く寝た。さもなければ、10時の『ミュンヘン』内覧試写に駆けつけることはできなかったろう。
出来は、かなりいいと思う。これによって、スピルバーグは、『シンドラーのリスト』のときに一部の偏狭な批評家からかぶせられた「親イスラエル派」というレッテルをはがすことができるだろう。ただし、ハリウッド映画はグローバルな巨大ビジネスだから、ここで通用するのはその語の本来の意味での資本主義だけであって、「親イスラエル派」とか「反イスラエル派」というようなあまったれた概念は通用しない。
終わって大学へ走る。ゼミでは、イラクとアメリカの活動グループが製作したDVD『Fallujah』を見せ、ディスカッションしようとする。これは、2004年に米軍が行なったファルージャでの残虐行為の記録。が、残念ながら、こういうことに関心のある学生が少なく、わたしの独演会に終わる。
後半は、OHPIA、長谷川洋(Astro)、中原昌也のライブで、開始の6時までセッティングやリハを見学することになっていたが、ゼミ生でノイズに関心がある者がいないのか、あるいは本番が授業時間外だったせいか、ゼミ生は誰も残らないのだった。そのかわり4時すぎからぞろぞろと外部のお客がやってくる。最終的にかなりのお客が集まり、安心。
持参のOHP機を使って「デジタル」的な映像を作る3人組OHPIA(オーエイチピア)はなかなかユニーク。
長谷川洋は、質のいい音響装置を得て、水を得たように魅惑的な音を披露。シンセとサウンドジェネレイターを操作する姿も美しかった。
中原昌也は、多芸な人。今回ヴィンテージもののエフェクターを含む多数の機材を持ち込み、さまざまな実験を聞かせた。終わって、「調子悪くて」と言っていたが、たしかに若干装置倒れなところもあったように思う。
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■2006年 01月 11日
●造形大キャンパスの「海賊」放送
四方幸子さんにたのまれたレクチャー・パフォーマンスの最終回。「レクチャー」(つまらない「講義」のこと)ではなく、「レクチャー・パフォーマンス」をしますと言いながら、つまらなくはないにしても形式的にはかなりレクチャー的になってしまった前2回だったので、今回は、パフォーマンス性を高めようと、まず、超シンプルな送信機を作るのを披露。そのあと、用意した送信機とアンテナを設置して、学内に臨時の放送局を開設。
当初のねらいは、メディアのサイズがいかにコミュニケーションの質を左右するかを、超ミニの送信機と1キロメーターはカバーできる本格的な送信機とを起動させて比較することだったが、一旦「放送局」が出来、放送担当と聞き歩き担当とを分け、ラジオパーティを始めると、学生たちは、そんな理論的なことは忘れ、すっかりハッピーになってしまうのだった。基本的に、イリイチが言った「コンヴィヴィアルな道具」の実験でもあるのだから、それでもいいし、とにかく、学生たちの楽しんでいる姿を見るのは、喜ばしいことだった。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/radio/micro/howtotx.html
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2006年 01月 10日
●編集者は死なず
京都からの新幹線を降りて、東京駅の近くの喫茶店へ。『ユリイカ』のマドンナ特集の原稿の打ち合わせで編集部の萩原玲子さんに会う。いまどき、原稿の打ち合わせをしたいと言ってくる編集者はほとんどいないが、彼女は、例外。『図書新聞』の時代からそういう「古典的」なスタイルでいい原稿をあつめていた。90分ほど話し込んでしまったが、おかげで、頭のなかでほとんど原稿の構想ができあがってしまった。脳情報スキャナーがあれば、原稿を書く必要はないかもしれない。
仕事場に急行し、DVD-BOX「ロバート・アルトマンBOX」のブックレットのための原稿(3200字)を朝までに一気に書く。アルトマンの全体には触れられず、『ナッシュビル』論になる。それから、明日(今日か)の造形大でのレクチャー・パフォーマンスのために、大小の送信機を用意し、若干の映像を作る。
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■2006年 01月 06日
●紅谷愃一氏の「身体表現ワークショップ」
午前中に大学に行き、会場でのセッティングと事務処理を済ませ、駅に走り、紅谷愃一氏と植草信和氏を出迎え、タクシーで大学へ。
紅谷氏が音を担当した『海峡』や『夢』のいくつかのシーンを見ながら、興味深い製作裏話をうかがう。後半は、『博士の愛した数式』の詳細な分析。聞き手をつとめてくれた植草さんが最初かなり上がっていたのは意外だったが、シーンの細かい話になると、紅谷さんた立ち上がり、スクリーンのそばでマニアックに語りはじめ、20歳ぐらい若返ってしまうのも意外だった。
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■2006年 01月 04日
●2005年11月の宿題を終える
マルセイユ行きであわただしくなり、中途にしていた昨年11月のシネマノートを完成させる。『ブロークバック・マウンテン』と『美しき運命の傷跡』と『死者の書』の3点だ。
今朝寝るまえ、かつてGHQに公開を禁止され、フィルムを没収されたた亀井文夫のドキュメンタリー『日本の悲劇』を見る。もっと天皇制に辛らつなのかと思ったら、それほどでもなかった。ただし、ここにいたるまでに何度かの検閲を受けているから、その過程で甘くなってしまったことは十分考えられる。とはいえ、いまのマスメディアが天皇制に対して示すいいかげんな姿勢からすると、このドキュメンタリーのほうがはるかにしっかりしている。
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■2006年 01月 03日
●年賀状という「シメキリ」
ようやく、今朝方、年賀状を作った。わたしのは、10年来、NeXTでプリントアウトして、コピー機で刷り、万年筆で宛名を書くという原始的なもの。1年一回ぐらい自前の「ミニコミ」を作るのもいいのではないかと自分を納得させているが、正直、もらうから出さなけりゃといった贈与の慣習に引きづられている側面もある。
このへんのことは、以前、「年賀状のポリティクス」という雑文で分析したことがある。年賀状なんて、ひとに会ったときに頭を下げる、握手する、キスするといった習慣の一種だぐらいに簡単に考えればいいのだが、ときとして、なんでこんなことをしなければならないんだなどと考えることがある。
とりわけ、年末に作りそこね、元旦にはと思いながら、他事にまぎれて、それも果たせなかった場合などは、元旦早々もらった年賀状が何十、何百のシメキリと化し、正月早々から「脱稿」のプレッシャーをかけてくることになる。
こういう事態を回避するのが、代理人に頼み、仕事として処理することだが、一人でも、パソコンを使えば、宛名まで刷り出すことができる。が、そんな割り切りかたができれば、苦労はいらない。
わたしは、返礼として年賀状を出すのでも、返事を期待して年賀状を出すのでもない。出したい人に出すだけだ。だから、津野海太郎のように、年賀状というものを絶対に出さない(いまもそうか?)人にも年賀状を送りつける。その代わり、全部印刷だけ、宛名もプリンター仕込みのような年賀状に、その返礼として年賀状を送ることはない。が、そういう年賀状をくれる人も、年一回のわたしの「ミニコミ」の送付リストに載っている場合は、自動的に受け取ることもある。
とはいえ、昨年は、大学のゲスト企画で、いままで交流のなかったいろいろな人の世話になった。そういう人たちには、儀礼としてであれ、ありがとうの年賀を出したいと思っていたが、その機会を逸してしまった。今年も、シームレスに年号が変わり、昨年やり残したことと格闘している。
https://cinemanote.jp/articles/2003/20030923ichimainoe.html