「シネマノート」  「雑日記」


2005年 12月 31日

●紅谷愃一氏にお会いする

来年1月6日の「身体表現ワークショップ」で映画と音のお話をしてくださることになっている紅谷愃一氏に新宿でお目にかかる。その日に使う資料をわざわざ持ってきてくださったのだ。
打ち合わせかたがた、色々な話が出る。面白い。音採りのことから、役者や監督のこと。74歳で現役。近々封切られる『博士の愛した数式』の音も、紅谷さんの担当。
映画における音の重要性は誰でも知っているが、紅谷さんのお話をうかがってからその作品を見直すと、全くちがった見方ができるようになるのが不思議。
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2005年 12月 30日

●ストロー内の送信機

アメリカのどこかに住むテッド・ニッケルという人物からメールが届いた。わたしがウェブに載せている超簡単ラジオ送信機を直径4分の1インチ、長さ18インチのストローのなかに収納することはできないかという。一体何に使うんだ、スパイ行為に加担するのはごめんだぜぃと思ったが、わたしのウェブの「読者」ということなので、責任を感じ、早速、実験を試みる。
トランジスタの脚を延ばして配線したら、なんとかそのサイズに収まりそうなものができた。電池は、時計用のボタン電池を直列にしてやれば、なんとかなるだろう。変更した配線図と試作品の写真をPDFにして送る。変なことに使わないでね。
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2005年 12月 29日

●The most simplest TV transmitter

アムステルダムにいるアダム・ハイドから、わたしがデザインした超簡単ミニ送信機の映像バージョンを作れないかという話があり、それにインスパイアーされて、すこしまえ、「マイクロ・サイレントTVプロジェクト」というのをたちあげ、マニフェストを書いた。テレビ送信機で難しいのは、映像と音の分離と兼ね合いの部分であり、音をあきらめれば、回路はいたって簡単になるのである。
しっかりした音と映像が組み合わさったテレビやコンピュータの映像が氾濫するいまの時代、サイレント映像が、かえって、新鮮なのではないかとも思った。
で、早速、実験にとりかかり、他事に邪魔されて遅れに遅れたが、ようやく、そのマニュアルをウェブに公開するところまでこぎつけた。
ラジオとくらべて、映像は、まだわれわれの身体が、音ほどは体になじみ、飽るほどのところまでいっていない。映像はまだ実用のレベルを抜けきっていないのだ。ちなみに、あるテクノロジーにもとづくアートは、そのテクノロジーが、終末に達したころになってようやく活気づく。映像は、まだ早すぎて、実用負けしかねない。
その意味では、超簡単テレビ送信機は、実用的な道具としては「欠陥」だらけだから、その分、かえってアートに近づけるかもしれない。
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2005年 12月 27日

●葬式の無意味

親戚で葬儀があり、式に出ることになった。むろん、いやいやだ。普通わたしは葬式には行かない。親の墓もまいったことがない。不幸にして、わたしが会った坊主がどいつもこいつも、いんちきに見えてならなかったからだ。ボイスアートとして聴いても、読経で感動したことがない。焼香というやつの凡庸な形式主義はがまんがならない。こんなことをすることが故人と何の関係があるのだろう?
故人や遺族を冒涜することになるかもしれないが、今回の葬儀では(それは、たまたま今回の葬儀社の演出なのだろうが)、遺体に木の杖、草鞋、藁の帽子などを持たせるというシーンがあった。
死は、人間的な身体からそれ以外の物に変形すること以外の何ものでもないとわたしは思うから、冥土や天国への旅という発想はお笑いぐさだが、それを信仰的遊びとして受け入れたとしても、わたしなら、木製の杖や草鞋での旅はごめんこうむりたい。どうせ旅する道具を持っていくというのなら、エンジンのついたスケボーかな、いや、とにかく草鞋なんかはごめんだ。
いずれにせよ、葬儀というのは、故人とは無関係な、遺族の自己満足、いや、寺や葬儀社や火葬場の商売であって、それを世間常識なるものとして無反省に踏襲しているにすぎない。
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2005年 12月 25日

●じゃこばんでの対話

阿部晴政編集で出るシリーズ本(以文社刊)にわたしへのインタヴューを入れてくれるというので、新宿ゴールデン街のじゃこばんに行く。ここは、アウトノミストの矢部史郎さんの店。インタヴューしてくれるのは、平沢剛さん。2階にあがったら、平沢さんは、すでにマックを開いて準備完了という感じ。とりあえず、ビールをもらって、ひと休み。
話は、60年代からニューヨーク時代、それ以後から今日までわたしが関わったことに関し、けっこう多岐にわたり、いまでは何をしゃべったかよく憶えていないが、起こされた原稿を見るのが楽しみ。
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2005年 12月 24日

●造形大でのクリスマス講義

クリスマス時期の日本の街のにぎわいはすごいが、日本では、クリスマスは祭日ではない。大学もちゃんと開いている。いろいろな都合で、東京造形大の四方幸子さんと大久保誠さんのメディアデザイン学科のゲストレクチャーが今日になった。例によって、講義はいやだ、レクチャーならせめて「レクチャーパフォーマンス」でとダダをこねていたわたしだが、いざ、フタを開くと、ちゃんとした講義をしている。教師根性が染みついてしまったのか?
テーマは、「オータナティヴ・メディアとしてのラジオ」。今朝方準備をしていて、その昔、ラファエロ・ロンカリオが、alternativeを、マージナルな、代替のという意味ではなくて、alter(変革する)とnative(本来の、土地の)との合成語として戦略的に考えることを提唱したことを思い出し、シューリー・チェンが編集した初期の傑作ドキュメンタリー『..will be televised』などの映像を用意し、ヴィデオ・アクティヴィズムの誕生にも言及する。
もしそういう意味での「オータナティヴ・メディアとしてのラジオ」を考えるのなら、マスメディアの代案としてのラジオ(たとえばコミュニティラジオやマイクロラジオ)を考えるのではなく、そういうものとは全く機能の違うラジオを考えなければならない。それには、まず、「ブロードキャスト」の「キャスト」という機能、情報を「伝達」するという機能を変えなければならない。その可能性をラジオアートやワイヤレスアートに求めるという主旨の話。
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2005年 12月 22日

●吉本大輔さんの公演

パリで飛行機に乗り遅れたとき、唯一気になったのは、この日に大学キャンパスで行なわれる吉本大輔さんの舞踏公演のことだった。この分では空港から直行かなと思ったが、一応、眠る時間は取れた。早く目がさめ、大学へ直行。
一度やりたかったという「最期の晩餐」というテーマ。13人のパフォーマーたちが踊り、音をかなでる。が、13人ではなく、12人になってしまったのが、吉本さんらしい。そのなかには徳田ガンさんもいたのだから、壮観。吉本さんとそのご一党が、内田学さんとマルキドさんのサウンドでスタジオ内の踊りを見せ、お客を外に連れ出して、全面展開。風が強いのでやらないはずだった高足も見せ、記念館まえで乱舞。
学務課と学生課の課長さんらが出てきたので、身構え、近づいたら、彼らもこういうイヴェントに大分なれたのか、開口一番に出てきたのは、近所迷惑のことではなく、「こんなに寒い日に、あんなかっこうで大丈夫ですかね」という一般観客と同じ目線の感想だった。
吉本さんらがまだ外で踊っているあいだ、内田さんのサウンドで、徳田さんがスタジオで一人で禁欲的に踊っているのを見た者は、わたしぐらいだろう。こういう踊りをする徳田さんには、いつも興味をおぼえる。
この間、なんと、1月6日に来てくれることになっている紅谷愃一さんが植草信和さんにつれられて下見に来られた。おいおい、植草さん、脅かさないでよという感じ。
7時すぎ、片付けを終えて、ほんやら洞へ。吉本さんを囲んだうちあげがすでに開かれている。常連の荻内勝之さんもおり、とちゅうから、「スタジオ」に荻内さんが敬愛する島倉千代子と都はるみを呼ぶ話にシフト。
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2005年 12月 20日

●シャルル・ドゴール空港で『ターミナル』状態

マルセイユは、やはり面白い。タクシーにしても油断するとボラれる。それが都市の論理だ。街に住むにはシティワイズにならなければならない。荷物が重いので空港までタクシーを呼んだ。「この時間だと70ユーロかかるかもしれないが、特別に50でどうでしょう?」というからまかせたら、(一応倒してある)メータでは40を少し回った程度だった。とうぜん、こちらもチップはやらない。しかし、50という設定は、なかなか絶妙ではある。
早々とチェックインしたが、マルセイユからパリまでの飛行機はなかなか出発しない。約1時間遅れで出発した飛行機がパリに近づくと、スチュワーデスが来て、「I&.html#39;m not sure」と前置きして、成田行きの国際線のゲートまでは、2分ぐらいなので、着いたら走ってくださいという。おいおい、おれが病人だったらどうするんだと思ったが、とにかくその指示にしたがうことにする。
ところが、ここはやはりフランス。国際線のゲートに入るにはパスポートチェックがあり、その時間がえらくかかる。結局、成田行きは出てしまい、「乗り継ぎ」のカウンターにならぶ。
ならんでいる人があまりに多いので一人のアメリカ人に尋ねると、自分も成田行きに乗り遅れたのだが、ここには、エアフランスでさまざまな国へ乗り継ぐ人がみんな集まっており、このぶんでは、明日出発になりそうだという。2時間ぐらい列にならぶあいだ、ブラジルから飛行機を乗り継いで、これからスペインに行くという一人の男は、苦笑しながらも、「セラヴィ」という感じでこの悠長さをあまり気にしていないようだった。
この人の悠長さを見習わなくてはなどと思ったこともあって、「今夜の便」の搭乗券をもらったときは、なにかもうけものをしたような気がしたが、「今夜」といっても、まだ10時間もあるのだった。同じエアフランスなら、接続の便もいいだろうと思ったのだが、フランス式勝手主義で、それは甘かった。まえにもエアフランスで荷物がロンドンに行ってしまい、パリで3時間待たされたことがあった。そのときは、文句を言い、市内までのタクシー代ももらった。今回は、フランス式勝手主義に慣れてしまい、文句も言わなかった。
出国手続きを済ませたことになっているので、ゲートに入ってしまうと、外には出られない。が、レストランもバーもなく、コンビニとドトールを掛け合わせて2で割った程度の店しかない。ビールを何杯か飲んだが、あきてしまった。ワインも、一杯飲みできるのは、安ワインだけ。仕方なく、コニャックを取る。これは、なかなかよかった。こうして、酩酊状態で10時間をつぶし、成田行きに。それからまた12時間かけて、日本へというわけ。こうして、20日が無為にすぎ、時差のおかげて21日へすべりこむことになった。
もうエアフランスを使うのはやめよう。トイレなんかも、ソ連崩壊まえの東欧の列車のトイレ状態。ペーパーの入れ替えなんかを豆にしないのだ。つぶれるまえのベルギー航空もこんな感じだった。
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2005年 12月 19日

●マルセイユの休日

最近はいつもそうだが、外国へ来ても、フリーな時間がない。今日は、一日あきるまで街を歩こうと早朝にホテルを出発。路上で明らかに「盗品」とおぼしきものを売っている連中がいならぶ通りや、トルコ人やモロッコ人だらけの通りを抜けて、港へ行く。風は強いが空が抜けるように青い。
港に面したレストランで魚料理をたらふく食べる。ブイヤベースというと、日本ではサフランの入った汁で煮込んだ魚料理のような印象があるが、こちらのブイヤベースは、むしろイタリアンの「アクア・パッツ」に近い。そこにサフランが入っている。主人が骨をとりわけ、皿に盛る。半分ぐらい食べたところへ、別に作った魚汁を持ってきて、そのうえにかけてくれる。この状態でも、汁の煮込み=ブイヤベースという感じではない。
さんざん歩き、先日「襲われた」場所のすぐ前にあるバー(そのときは閉まっていた)でビールを飲んでホテルに帰ったら、すぐに電話がかかる。トニック・トレインのサラとクヌートからで、近くまで来たのだが、いっしょに夕飯を食べないかという。早速、外へ出て合流。レバノン料理の店に行く。
http://www.grenouille888.org


2005年 12月 18日

●DATAでのワークショップ

午後にジャックとマリアンヌともう一人が迎えに来て、モロッコ・レストランで食事。現場に到着する3時をすぎてしまったので、気にすると、名前を忘れたAくんが、「フランスでは30分や1時間は問題じゃないですよ」と言うので、ゆっくりワインを飲みながら、話す。
しかし、4時ごろ、リュー・デ・ボン・ザンファン(よい子らの通り?)のダータに着いたら、すでにたくさん人が集まっていた。それはそうでしょう。
送信機を作るワークショップだが、参加した者たちは、手際よく完成し、それぞれに完成した送信機を使った音実験をはじめた。質問ぜめをさばきながら、わたしは、台のうえに散らばった道具や部品を片付ける――というより、バッグに詰め込む。なにせ、このあと、ライブをしなければならないのだ。
トニック・トレインがすでにセッティングをはじめているのに、わたしは、インタヴューマニアのような女性につかまり、延々と質問をされる。ジャックもいっしょにまきこまれて、彼はあせっている。彼もいっしょにセッションをすることになっている。こういうとき、わたしは、もうあせらないことにした。あせって時間ぴったしでゴーするよりも、遅れるほうがウケがいいような気がする。それと、ノマドのわたしは、それなりの簡単システムを用意している。
いい感じのセッションで、演るほうも観客も満足だった。「ワイヤレス・アート」というのは、わたしが作った言葉だと思っていたら、最近は、電波を使ったアーティストが増え、そういうアーティストとよく会う。コンピュータにプリセットした音をセレクトする傾向に厭きたアーティストが電波に行くみたい。
http://www.data-error.org/


2005年 12月 17日

●ENGRENAGES(歯車)フェスティヴァル

アリアンヌがホテルに迎えに来てくれて、会場へ。ラジオ・グルヌイユの事務所にサラ・ワシントンとクヌート・アウファーマンとわたし、つまり午後からの公開座談会のときに英語でしゃべる3人と、通訳のカロライン・ニューマンと司会で今回の総プロデューサーのエチエンヌ・ノワゾウとで進行の打ち合わせ。
会場では、すでに座談会風のものや、実験ドラマ的な公開番組がはじまっており、フェスティヴァルはスタートしているのだった。ラジオ放送とライブ公演をドッキングした1日フェスティヴァルである。
ライブ会場の隣に仮設のレストランがあり、出演者はそこで勝手に食事をする。フランスだから、ワインが出て、ゆったりと食事。が、その間、ラジオ・フランスとラ・ラディオ・キュリエーズの取材があり、すぐにわたしらの座談会「コミュニケーションの新しいテクロノリーとラジオの創造」の時間になる。90分で10人がしゃべるのだから、あっというまに終わる。
終わって、フロアーに降りると、初老の男が近づいてきて、ミラノのラジオ・ポポラーレの者だと名乗った。わたしがイタリアの自由ラジオとガタリのことを話したのを聴いて、嬉しかったという。むかし会ったことのあるシルヴィア・コヨーやパオロ・ウッターの話をすると、なつかしがり、話がたちまち盛り上がった。
まえから共通の友人がいたが会うのは字初めてのジェローム・ジョイらと話をしているうちにたちまちジャック・フォシアとわたしのセッションの時間になった。座談会、ワークショップ、実演と盛りだくさんのときに凝ったことをしても失敗するので、ミニ送信機5台を使った手なれた「ウェイヴィング・ラディオ」パフォーマンスをする。ジャックは、短波の電波を受信してミックスするこれも十八番のラディオ・パフォーマンス。
深夜すぎ、サラとクヌートによるトニック・トレインのパフォーマンスが終わり、お開き。明日パフォーマンスのあるわたしは、マリアンヌに送られてホテルに帰ったが、ジャックたちは、朝までさわいでいたらしい。
http://www.grenouille888.org


2005年 12月 16日

●マルセイユの朝

昨日夕方マルセイユに着き、空港に出迎えてくれたエチエンヌ、マリアンヌ、ジャックの3人と市内のホテルへ。ロビーで少し待ってもらい、身づくろいをしてふたたび外へ。明日のフェスティヴァルの会場を見る。タバコ工場を市が買い取って改造した巨大なアートスペース。この夜は、パンクバンドの実演が行なわれていた。しばらくいて、ふたたび車でくだけたワインバーへ。トニック・トレインのサラも来て、遅くまで歓談。
にもかかわらず、今朝は、飛行機の長旅をしたあとのパターンで、早く目がさめる。少し薄暗く、人気もなかったが、ホテルの周囲を散歩。次の地下鉄駅まで歩いて、時計を見たら、もう9時だった。あわててホテルへ。マリアンヌとジャックが待っていた。彼女の運転でフェスティヴァルの会場のそばのラジオ局「Grenouille(蛙)」のスタジオへ。ジャックがわたしとのコラボレイションで使う短波受信機をテストし、会場に運ぶ。
スタッフに紹介され、セッティングを開始。シンプルであることにひたすら心がけているわたしは、すぐに終わる。楽屋での食事に誘われ、ピッツァやクスクスやチーズを食い、ワインを飲む。
しばらく街をうろつき、バーでビールを飲んでもどったら、ジャックがまだ短波受信機と格闘していた。デジタル機材のノイズをキャッチしてしまい、やばいという。
夜、この日続々集まったアーティストとスタッフの20名ほどで、トルコ人街へ夕食をしに行く。最近のウディ・アレンはダメだという派と、いいという派が分かれ、喧喧諤諤。
みなと別れ、ホテルまで20分ほどの道を歩いて、信号待ちで立ち止まったら、いきなりバッグをタックルしてくる奴がいた。「ばかやろぅ、ふざけんじゃねぇ」とか言い(やはりわたしは品性が悪かった)ながら、もみあっていたら、いきなり相手が地面に尻餅をついた。そのときはなぜかわからなかったが、バッグのベルトのバックルがはずれ、綱引きの綱が切れたような感じになったのだった。その瞬間、わたしがどんな形相をしていたかわからないが、若い(明らかに)トルコ人の男は、脱兎のように逃げ出した。わたしはみやげに日本語の罵声を浴びせる。おそらく、奴は、レストランのそばからわたしをつけて来たのだろう。まだ到着したばかりで見るからに「外国人」(要するに田舎者)とわかったのだろうが、70年代のニューヨークのような緊張感のあるマルセイユがぐっとわたしに近づき、しばらく忘れかけていたシティワイズの感覚がよみがえってきたのを感じた。
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2005年 12月 15日

●シネマノートはしばらくお休み

これからちょっとマルセイユに行き、トークとワークショップをやる。マルセイユというと、わたしのイメージは、『フレンチ・コネクション2』でジーン・ハックマンが連れ込まれたあやしげなホテルとその周辺の感じで、いたって落ち着く。最近はどうなのだろうか? 世界中どこもジェントリフィケイションで、都市の庶民的な活気(うさんくささ)がなくなってきたから、わからない。
海外に行くと、わたしのことを妙に知っていて、たちまち意気投合してしまい、そのままそこにいっしょに暮らしてしまうような人(性別、年令を問わない)と出会うのではないかという願望がある。残念ながら、そういうことは、これまでつかのましかなかったのだが、いずれはあるような気がする。なんて、気持ちを持てるから、海外のほうが、気が落ち着くのだ。であ、しばらくバイバイ。
http://www.grenouille888.org/dyn/IMG/pdf/engrenage.pdf


2005年 12月 10日

●Radio Wavesへのネット出演

リガ(ラトヴィア)のRIXC Meida Spaceで行なわれる「Radio Waves」というイヴェントでイントロ的なコメントをしてくれといわれ、宇仁さんたちを送り出し、片付けをすませたあと、仕事場に走った。運良く、校門のまえにタクシーが通りがかり、飛び乗る。大体仕込みはしてあったので、技術的な問題はない。向こう側で技術的なサポートをしてくれるのが、気心知れたアダム・ハイドなので、気が楽だ。
11時すぎにテストストリーミングを開始。すぐにSkypeでの交信がはじまり、打ち合わせはすぐに終わる。
午前0時15分、カメラとマイクのまえで、マイクロな送信機の意義について話し、ちょっとした実演をする。スピーチでは、少しまえから暖めていた"cripple the technology"とう発想を披露。これは、テクノロジーがある一定の完成段階に達した時点では、それをあえて「不全状態」にし、そうすることによって、さもなければ全くスキがなく、人間をとりこにするしかないテクノロジーのあいだに身体性を回復しようという戦略。
具体的には、普通では「おもちゃ」でしかない超簡単なラジオ送信機とか、モノクロしか発信しないテレビ送信機とかを作り、使うという試み。ギンギンのカラーやVRシステムで「ホンモノかニセモノか」という議論が意味をなさなくなったいま、モノクロのテレビなんかは、実にほのぼのするだろう。その「ほのぼの」が、わずかに残された身体性なのだ。
終わってから、アダムのワークショップをネットでながめ、それが終わってから、彼とチャット。すでに、土曜の朝になっていた。
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2005年 12月 09日

●宇仁貫三氏多々益々弁ず

京都の撮影所にカンヅメ状態になり、お会いして打ち合わせをすることはできなかったが、わたしは、全く心配しなかった。電話で十分打ち合わせをしたし、お弟子さんからも何度も電話をもらった。本当のプロは、ドタキャンなどしない。
3人のお弟子さんも気合が入っていて、冒頭、紹介ぬきで立会いを見せたいという。願ってもない。かくして、暗転からなにやら「あらそう」音をたて、「舞台」がぼんやり明るくなると、宇仁さんを3人が取り囲んで剣を切り結ぶが、宇仁さんのサエた太刀のまえに3人があえなく切り倒されることになる。打ち合わせでは、ここで、ライトを全灯にして、わたしが宇仁さんを紹介することになっていたが、宇二さんの頭のなかでは、すでにシナリオが出来ていたらしく、倒れた3人をうしろに、ぐっと前に出た宇仁さんが、それまで身にまとっていた武士のベールをはぎとり(といっても見えるわけではない)、笑みをうかべながら、「宇仁貫三でございます」と挨拶する。完璧だ。
逆にキューを出されてしまったわたしが、余分なコメントをくわえたあと、植草信和さんと宇仁さんとの対談がはじまる。三船敏郎から中村獅童までの並でないつきあいのある宇仁さんの話はとどまるところをしらず、高倉健の知られざる横顔にまで及ぶ。おかげで、あと一回見せてくれることになっていた殺陣の実演が飛んでしまったが、あっという間の3時間であった。
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2005年 12月 08日

●『ジャーヘッド』を見た

苦難のゼミの日。今日は、『Street Prophetz』という、グラフィティやスケボーやDJでいっぱしとなったストリート・アーティストたちがその生い立ちを語るDVDのチャプターをいくつか見せ、「あなたがアーティストだとしたら、どんなことをやる?」と尋ねる。このDVDに登場する連中は、好きなことをやりつづけ、そのままそれを職業にしてしまった。それは、彼らに特別の才能があったというよりも、好きでふだんから熱中できた特異(得意)なことのなかに「アート」を見出したということなのだ。だから、わたしは学生に、「あなたたちが日常やっていることで、これがわたしのアートだといなおるとしたら、それは何?」と訊いたのである。
この質問に、学生たちの表情が幾分変わったように見えた。ルイス・カーンは、「よい質問はよい答えよりもつねにすぐれている」と言ったそうだが、重要なのは問うことなのだろう。しかし、どうやら学生たちは、わたしが「いなおる」と言ったことに一番惹かれたらしく、「わたしは玉ねぎをきざむのが誰よりもうまいと思うから、玉ねぎをきざむアーティストです」とか、歩くのが速いから、競歩でアートするとか、どれもスポーツ的な技能を競うたぐいの答えがかえってきた。選んだことは、どれも「健全」で、特異なものは皆無だった。
日本で「芸能人」と言っている奴がアメリカに行くと、しゃあしゃあと「アーティスト」と称するが、芸能人はアーティストではなく、アーティザン(職人)である。彼や彼女らは、「芸」を極めようとするが、アーティストは、自分のやっていることにいなおる独創的な「流儀」(アート)をもっている。逆に言えば、そういう流儀さえもっていれば、「芸」がなくてもアーティストになれる。
いまの日本は、芸能や技芸(スポーツ)に目がくらんで、「流儀」(アート)の独創性を忘れているのかも。
遅い時間の試写なので、新橋まで足をのばし、サム・メンデスの新作『ジャーヘッド』を見る。湾岸戦争をあつかったハリウッド映画では、もっとも上質の部類の作品。高所から戦争を批判するのではなく、内側からそのばかばかしさを暴き出す。アメリカも、ようやくこういう作品ができる状況に来た。
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2005年 12月 07日

●『カミュなんて知らない』を見た

かなりまえから試写があったが、タイミングが悪くて見られなかった。タイトルから、アルベール・カミュの「太陽がまぶしかったから」(殺人した)という理由なき殺人を意識しているらしいことがわかる。最近、カミュやサルトルへの関心が高まっているとかいうが、本当だろうか? むかし実存主義にかぶれた老年が、往時を懐かしんで若者に読ませようとしているのではないか? いや、時代がひとまわりして、「不条理」が時代の気分になったのかな? 
ところで、「不条理」は、フランス語の「アプシュルディテ」の訳として定着したが、この仏教語(?)には、原語のもつ「ばかばかしさ」や「どたばた」の気分はない。カミュが流行らせた「アプシュルディテ」が、「不条理」や「不条理性」として深刻なムードで受け入れられたところに、日本における実存主義ブームの不毛さがあった。
さて、この映画は、その点ではどうか? こいつも、どうやら、どたばたよりも深刻さの方が好きな路線で作られているようだ。
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2005年 12月 06日

●『マグダル パイナップルパン王子』と『ウォーク・ザ・ライン』を見た

アニメには距離をおいているのだが、配給の市川篤さんの熱い熱意を感じて見に行った前者。う~ん、たしかにユニーク。それと、アニメで育った世代がもっているらしい、独特の親子関係や人間関係の意識がひしひしと(そういう世代には)伝わってくるだろうということがわたしのような部外者にも納得できる。
急に声をかけられ相手を凝視すると、遠い記憶がよみがえった。20年前、原稿の打ち合わせよりも映画の話でもりあがるのがつねだった伊藤卓氏。「オタク」という言葉のできる以前の映画オタクだった氏と話した映画のことはおぼえているが、頼まれた原稿のことは記憶に残っていない。
京橋から溜池山王経由で六本木へ。フォックスでマンゴールドの新作。さきほどのアニメにくらべると、しごく明快なハリウッド映画。美味くても変わったエスニック料理を食わされたあとにマクドナルドのハンバーガーなんかが食いたくなるように、食ってホッとし、そのあと、また食ってしまったと自分の単純さを笑うような映画。ジョニー・キャシュを演じるホアキン・フェニックス、ジューン・カーター役のリーズ・ウィザースプーンは、たしかに見事。伝説の『ジョニー・キャッシュ・アット・フォルサム・プリズン』を再現したシーンもタッチング。が、全編の底流に流れるキリスト教(それへの反逆も含めて)は、いまのアメリカを強く感じさせ、わずかに猜疑心をよびさませた。
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2005年 12月 05日

●イタリア料理が恋しくなった

早朝、新大阪から東京へ。帰るなり、宇仁貫三氏のスタッフの鎌田さんから電話。今週金曜のイヴェントの打ち合わせ。京都での仕事がぎりぎりになり、打ち合わせなしのぶっつけ本番になるという。すでに宇仁氏が担当したり、出演したりしている映像はすべて用意してあるので、問題ない。
夕方、知り合いのお薦めの目黒のイタリア料理店へ。シャープな味ではなかったが、イタリアの田舎料理という感じで、疲れない。量もたっぷりで、夕食になる。メルロー系のワインもおいしかった。
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2005年 12月 04日

●remoで送信機ワークショップ

異国情緒たっぷりのフェスティヴァルゲートにあるremoで、トランジスタ1石の最単純送信機を作るワークショップ。10人限定で、全員が、ちゃんと機能する送信機を手に入れることができた。やがて、それを使った送信が始まり、打ちっ放しのコンクリート壁の広いスペースに複数の電波が飛び交った。
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2005年 12月 03日

●ディーディとの再会

大阪のremoの桜田和也さんと雨森信さんが仕組んだイヴェントで、わたしをディーディ・ハレックに再会させてくれた。ディーディは、ニューヨークのパブリック・アクセス・テレビの草分けであり、今日のオールタナティヴな放送に強い影響をあたえた教祖的人物である。わたしは、1978年ごろ初めて会い、いろいろなオールタナティヴ・メディアを紹介してもらった。ミニFMの話をしたら、ただちに興味を示し、シアトルで出たCultures in Contentionという本のために、わたしに英文のミニFM論を書かせた。彼女がいなかったら、ミニFMの概念がアメリカやヨーロッパで広まることはなかったろう。
この日は、新幹線で大阪府立現代美術センターに直行し、桜田さんらと「アーティスト・トーク」をやり、そのあと、remoに移動し、ディーディのプレゼンを聴いた。
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2005年 12月 02日

●彫仁さんの刺青パフォーマンス

三田格さんと前田毅さんのアレンジで彫仁さんが大阪から来て、学生たちの前で刺青を彫る実演を見せてくれた。意外だったのは、女子学生が異状な興味を示し、終わってから興奮ぎみに感想を述べたことだった。モデルが男性だったのと、彫仁さんがイケメンだったためだろうか、それとも、肉体をさいなみ、血が出ることに女性はそのセクシャル・デザイアーを刺激されるのだろうか?
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2005年 12月 01日

●「ルワ会」のゼミ

『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会(「ルワ会」)の水木雄太さんと大八木恵子さんがゼミに来てくれ、ルワ会の由来を話、『ホテル・ルワンダ』の英語版DVDでいくつかのチャプターを見た。
面白いと思ったのは、この会がネットで形成され、ある種のヴァーチャルなネットコミュニティを形成していることである。事実上、この日は、ルワ会のオフ会にもなり、ルワンダに思い入れのある人たちも来てくれたので、議論が煮詰まった。こういうゼミを毎回やりたいのだが、この日、時間を倍に延長したら、ゼミ生のうち後半の部に残ったのは、たったの2名だった。面白くても、単位取得やアルバイトの方を選ぶのが、当世学生気質。