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2005年 11月 30日
●『死者の書』を見た
川本喜八郎が折口信夫の「小説」を映像化した人形アニメ。美しい。声を担当した俳優や声優の顔ぶれもすごい。が、怨念をいだいて死んだ者の霊をなぐさめるという御霊信仰を真正面から形象化した原作のきわめてイデオロギー的な要素は、感じられない。川本が、靖国問題に直結するこの作品を取り上げたのは、そういう意識があってのことだが、猥雑なものを何か加えないと、ただの美しい夢物語で終わってしまう。本書の最大の問題点は、「御霊」を神道によってではなく、仏教でなだめるという点だが、その点を検討しなおさせるインパクトには欠ける。
https://cinemanote.jp/books/denshikokka.html
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2005年 11月 29日
●『ブロークバック・マウンテン』と『美しき運命の傷跡』を見た
前者は、「同性愛」というよりも「ポリセクシャル」な愛が表現されているという意味で、「ゲイ・レズビアン」系の映画とは一味ちがうが、愛し合う2人の男の20年ちかいスパンをナイーヴな時間の流れにそって描いているにしては、時間が流れたという感じがしない。これも、この映画の面白いところというべきか?
後者は、たまたま愛をセクシャリティがテーマの作品だが、スタイルと映像がすばらしい。セクシャリティへの切り込みでは、互角かもしれないが、映画としての完成度が、前者よりもより深い次元に切り込んでいるような気にさせる。
ここまで書いたところへ、ウィーンのKunstradioのエリザベス・ツィマーマンからメール。来年1月17日のネットイヴェントArt&.html#39;s Birthday 2006のテーマ "TransDADAexpress"を日本語で発音してmp3ファイルで送ってくれという。え~、いくらわたしの発音が悪いとしても、「日本語で」発音しても、これは、「トラスダダエクスプレス」で変わりないんだけどなぁ。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/
■2005年 11月 28日
●『SAYURI』と『THE有頂天ホテル』を見た
途中で出たくなった。いくら監督の「ファンタジー」だといなおっても、「京都」、「置屋」、「芸妓」という具体的な前提がある以上、基礎はおさえなければなるまい。しかし、結局、『SAYURI』は、「マダム・バタフライ」の京都版なのだろう。というより、いじめや足の引っ張りあいの世界で一人の女が生きぬくさまを描くためにそういう「京都」の「置屋」が書割としてだけ利用されたというにすぎない――と考えないと見続けられなかった。
わたしは、いつも、三谷幸喜の作品の「舞台」的な要素、というより、舞台を演出している監督の醒めた目の存在が感じられて、そのどんなギャクにもノレない。これを演劇の舞台で演れば面白いのだろうが、このギャクのノリはアングラ演劇でさんざんやられた。いろいろ映画的引用もあるのだが、それもなんか勉強の末のような感じでいただけない。
https://cinemanote.jp/
■2005年 11月 27日
●送信機「研究」
近々マルセイユで演るラジオアートの共演とワークショップで使う送信機を作る。今回、Jacques Foschiaの所望で短波の送信機も使うことになり、若干手を焼いている。VHFのFM波の送信機には慣れているが、短波のAM送信機作りはしばらくやっていないからだ。ジャックは、年代ものの短波受信機を使ってサウンドを作るアーティスト。そこへわたしが短波送信機でノイズを入れるというわけ。しかし、入れ過ぎれば、無音かこちらの独占になってしまうから、その微妙なかねあいを考えた仕組みを作らなければならない。
http://anarchy.transloca.jp/
■2005年 11月 25日
●首くくり栲象のパフォーマンス
首くくり栲象(たくぞう)のパフォーマンス公演を、しかも彼の公演のなかでは最高の部類に属する形で実現できるとは、全く予想しなかった。こういうところが、プロデュースやキュレイティングの面白いところだ。
首をくくるというと、苦悶と格闘のどろどろの身体プロセスを見せるようなゲテ・パフォーマンスを想像する向きが多いだろうが、彼のは全然違う。風倉匠を尊敬し、(パフォーマンスのあとのアーティスト・トークの話で)首くくりパフォーマンスをはじめたきっかけは、60年代にモーリス・ブランショの『文学空間』を読んだことかもしれないと言うだけあって、出発点に凛としたコンセプトがあり、「存在と非在」とのあいだの「宙ぶらりん」といった概念性を基礎にしている。それから30数年首を吊るアクションを試みてきたが、最近の数年に飛躍的なレベルに達したという。「首くくり栲象」と名乗ったのは、最近で、少しまえまでは「古澤タク」ないしは「古澤栲」という名で知られていた。
この日の公演は、実は、偶然の産物だった。昨夜、11時をすぎてから、この日に予定されていた人をアレンジしてくれた三田格さんから電話があり、「どうもダメみたいです」という。とにかく捕まらないのだという。わたしもドタキャンは好きなほうなので、それ自体には驚かなかったが、企画者としては、そのまま企画を流すわけにはいかないので、あわてて代案を考え始めた。
あれこれむなしい試みをしたあげく、岡村洋次郎さんに電話したら、古澤氏の名が出た。彼からはしばしば古澤氏のことを聞いていて、一度会いたいと思っていた。ピクっとくるものがあったのだ。で、早速連絡をとってもらったが、最終的に古澤氏からこちらに電話がかかってきたのが、午前3時すぎ。たがいに夜に強くて幸運だった。電話の話で意気投合してしまい、古澤氏も「やりましょう!」と言ってくれた。以後、わたしは、ウェブの情報を書き換え、簡単なチラシなどをつくり、万が一のために音(CD)の準備をし、すこし仮睡して大学へ。出掛けに、岡村さんが心配して電話をかけてきてくれた。岡村さんもあまり寝られなかったらしい。
【追記】小田マサノリさんがすばらしい感想を書いてくれた:
http://illcomm.exblog.jp/2262900/
( 2005-11-26 14:31の項)
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■2005年 11月 24日
●アレックス・コックスのお話し
今年のゼミは、「学生主体」では進まないので、たたき台のつもりでこちらが何かをする。しかし、それは「たたき台」にならず、「講義」と区別がつかなくなるが、それを言っていては何もできないので、そのときどきに思いついた作家やアーティストをとりあげることにしている。
アレックス・コックスといっても、一人もその名を知らないというので、『レポマン』のシュールで猥雑な感じをつかんでもらい、それから『シド・アンド・ナンシー』のメイキング『イングランド・グローリー』を見ながら、ニューヨークのシド、同時期にわたしが泊まっていたチェルシー・ホテルのこと、彼が通っていたラフィエット・ストリートのメソドン・クリニック、のことなどに話が及ぶ。あとは、コックスが、『ストリート・トゥ・ヘル』でマカロニ・ウエスタンを茶化して顰蹙を買い、『ウォーカー』でレーガン政権下のアメリカを痛烈に揶揄し、ますますアメリカで名誉ある「不評」を買った話をする。
イギリスで「アンチ・クライスト」と言うことの「強烈さ」を日本で表現すると何でしょうという質問に、みんなきょとんとしているので、「反天皇」じゃないかなと言うと、ますますきょとんとされ、説明に窮した。世間では「女帝」問題が話題だが、ここは真空地帯なのだろうか?
12月1日にこの場所を使って映画『ホテル・ルワンダ』についての集まりをする「ルワ会」の大八木恵子さんが、下見に来られた。話をしているうちに、この映画の話から、彼女の出身地京都の方に焦点が移り、以後、もっぱら京都の町の話でもりあがってしまった。
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■2005年 11月 21日
●『家の鍵』と『スタンドアップ』を見た
『家の鍵』は、原題の直訳だが、なぜ「家の鍵」なのかがなかなかわからないところが面白い。自分の子供を見るとき、「ひとに迷惑をかけてしまったことを詫びる」ような目になるということをシャーロット・ランプリングが言うところが深い。公開は来年3月ぐらいらしい。
『スタンドアップ』は、先日の劇場試写を逃した。あいだの時間がなく、京橋から内幸町までタクシーを飛ばす。これは、むかしなら、ジェーン・フォンダが好んだような作品。そういえば、シャーリズ・セロンはフォンダに顔が似てきた。社会的な意識を持つと同じような目つきになるのだろうか? それとも映しかたが似るのだろうか? アメリカの「社会派」映画の典型的なスタイル。
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■2005年 11月 20日
●グッド・モーニング・ミスター・TK(2)
昨日よりもさらに1時間早く「出勤」。日曜なので、電車のなかの雰囲気がちがう。10代のころから、電車のなかで「家族連れ」を見るのがつらかったが、あいかわらずその意識は変わらない。「出勤」して何をしたかは「内規」で言えないが、いまの10代は新聞とはほとんど無縁であることを痛感。新聞社さん、もう新聞やめたほうがいいよ。新聞離れは、10代にかぎったことではない。だいたい、明日月曜の新聞を見ればわかるように、大事件でもなければ、前の週に仕込んだ記事がぐっと増えるような号を作っていては、新聞は滅びる。新聞って、news-paperだよ。
夜、12/9のゲストの宇仁貫三さんご指定の出演シーンを植草さんから借りた『赤ひげ』のテープからDVDクリップに変換中、コンピュータがいきなり暴走。ブルースクリーンに"deleting orphan files"の文字。おいおい、誰がファイルを「孤児」にしたんだ?! 立ち上がったら、映像ファイルが一杯はいっていたディスクが空。仕方なく、「ファイナルデータ」で復活を設定して就寝。うまく復活できても12時間以上かかる。くそ忙しいのに。
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■2005年 11月 19日
●グッド・モーニング・ミスター・TK(1)
爆睡できる日だが、早起きして「勤務」につく。早朝の空気と陽射しが、新鮮で、外国へ行った気分。「儀式」には出ないので勤務先の人をあまり知らないのだが、この日は、ふだん会えない人たちと会えるのも楽しい。先日「サンバ」の音にクレームをつけた人に「ご迷惑をおかけしたようで」と言ったら、「いやあ、あのリズムは好きなんですけとねぇ」。好きだけでは生きられないのが日本? わたしなんか、好きなことしきゃしてないけどなぁ。自分がやっていることは、すべて好きでやっているのだという自己暗示にかかっているのかもしれない。
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■2005年 11月 18日
●納富貴久男が来た、押井守まで!
植草信和さんのアドヴァイスではじまった納富貴久男招待計画実行の日。早めに現場に行き、DVDやマイクをセット。やがて納富氏がスタッフを引き連れてバシっと時間に到着。氏がぽろっと、「押井さんも来るみたいですよ」。え!? さらに、同行された納富夫人が、実は、そのむかし「シネマノート」のことでメールをくださった方であったことを初めて知る! この企画は運命的なものだったのだ。
まず、植草さんの司会で納富氏へのインタヴューが行なわれ、途中から押井氏も話に参加。その後、モデルガンがテーブルにごろごろならび、学生たちがそれらを触って、映画の「銃」を実感。特殊装置のついた「連発銃」が火を噴き、押井守氏の凄みのある発射実演まで飛び出して、会場は、わたしの理想とおり、完全に「教室」ではなくなった。さらに、学生が、押井監督の「アクション」で、押井組の俳優・藤木義勝さんに撃たれ、胸から血を流すという「ガンエフェクト」のさわりまで実演してもらう。
完璧な3時間だった。本当のプロたちとの仕事は楽しい。わたしは、とりわけ、納富氏の、技術への執着・姿勢に共感を強くした。映画のなかの「銃」というのは、マシン・テクノロジーの1つの集約なのだ。ラジオもまた、電子テクノロジーの1つの集約でもある。
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■2005年 11月 17日
●『マイ・アーキテクト』を見た
ゼミが終わってから六本木にかけつける。建築家ルイス・カーンの愛人の息子として生まれたナサニエルがルイスの足跡をたどるパーソナルなドキュメンタリー。彼には妻と2人の愛人がおり、それぞれに子供がいたが、「家庭」はなく、しばしばオフィスで眠っていたという。彼の弟子の一人が言うのが印象的だった。「大勢を愛するために家庭を犠牲にすることもある」。
ゼミでは、出掛けに読んだ新聞にソニーのゲームソフト「トークマン」のことが出ていたので、その話をしながら、あわててバッグに投げ込んだ滝田洋二郎『熱帯楽園倶楽部』に似たような装置が出てくるシーンを見せ、わたしの『もしインターネットが世界を変えるとしたら』のなかの「デジタロン物語」(下記)に書いた「アレコレトーカー」について話しながら、日本の言語文化について比較文化論的な「考察」をした。
https://cinemanote.jp/books/moshiinternet/2-1_digitalon.html
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2005年 11月 16日
●東京造形大で「講義」をした
キュレイターの四方幸子さんにたのまれて、造形大メディアデザイン学科でラジオカルチャーについての「講義」をした。四方さんの依頼なので講義ではなく、レクチャー・パフォーマンスをすればいいのだと思っていたら、どたんばでそうでもないらしいことがわかり、ちゃんとした映像・音資料をDVDで作る。
出席率はよく、途中退室もなかったが、ある種「おとなしい」という点では、ここも似ている。なにかがいまの学生を「おとなしく」させている。なんだろう?
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■2005年 11月 15日
●『男たちの大和』を見た
「関係者席」というのがずらりと空いていたが、始まってからどやどやと制服の男たちが入ってきて座った。最近のこの種の映画は、自衛隊・防衛庁の協力というクレジットがあると必ず「反戦」の傾向であるのは面白い。「死ぬなよ」「死なないで」という母親や妻や女たちの声がかなり何度も響く。どうやら自衛隊や防衛庁は憲法改正「反対」らしい。ほんとかね? 詳細はノートで。
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■2005年 11月 11日
●組織と言語の問題
大学の例の企画(下段URL参照)で、平田康彦率いる「クルゼイロ・ド・スウル」の面々が来て、サンバの実演とワークショップをやってくれた。この企画の方向をばっちりおさえた実にエンジョイアブルな3時間となったが、大学側からクレームが来た。7人のメンバーが大きな太鼓をたたき、独特の衣装で着飾った3人の女性サンバ・ダンサーが、最期の余興でキャンパスの戸外に繰り出すと、学部長が飛んできて、「近所から苦情の電話がかかっている」ので、やめてほしと言う。え!? そんなに長く演ってないのにと思い、「どの家からですか?」と訊くと、自分が電話をとったのではないというので、「誰が言ったのですか?」と訊くと、学生課長がそう言っているという。そこで、すこし離れたところに険しい顔をして立っている課長のところへ突き進んで同じ質問をする。すると、それは、近所からの電話ではなくて、「ある先生」からのクレームだという。大分話がちがうので、コミュニケーション学科の人間としては、コミュニケーションの回路を整理する必要があると思い、「じゃあ、その『先生』って誰です?」と訊く。すると、課長は、答えにつまったが、こういうときだけ怖い顔になるらしいわたしの剣幕におびえたかのように、2人の「先生」の名前を教えてくれた。
学部長も学生課長も「立場上」わたしに「中止命令」を告げたにすぎないので、話は、聞くだけ聞いておくといった形でものわかれになった。実際のところ、こんな程度の命令にひるんでいたら、面白いことは何もできない。それにしても、大学という「組織」は20年たっても変わらないのですね。ちなみに、パレードの方は、最初から外で演る予定はなく、外のは余興だったので、その間に、「お客」を引き連れて、本来の予定の場所(地下の「スタジオ」)に移動した。こういう場合、昔は、「お客」(学生)をまきこんで「大学当局」ともみあいになることがあったが、いまはそういうことは起きない。
さて、それから問題の「先生」に電話して事情を訊いてみたが、その人も、学生課に電話したのは、自分がどうだということではなくて、あんな音を出していると、近所からクレームが来るのではないかと心配したからだという。ようするに、コミュニケーションの回路を追っていったが、とうとう具体的な「主体」にはぶち当たらず、「近所」とかのもやもやしたものによって肩透かしを食ってしまった。
でも、あとで考えたのだが、これって、実は、自分が嫌だという場合のきわめて日本的な表現方法かもしれない。よく、自分が何かしたいときに、まわりの人にまず訊くというパターンがある。それと同じなのかもしれない。自分を直接出さずに、「世間」を迂回して出すというやつだ。それもコミュニケーション文化なのだから、いちがいに否定はできないのだが、なんかすっきりしないよな。
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■2005年 11月 10日
●『フライトプラン』を見た
ゼミの日。Tくんが押井守の初期作品『天使のたまご』のDVDを持ってきたので、それを少し見る。そのあと、押井守の『攻殻機動隊』から、今度別の時間に来てくれる納富貴久男氏の話になる。しかし、Tくんとだけ話していてもゼミにならないので、「ゼミ」って、語源は「種」や「精子」を意味するsemenだよね・・・だから内部から「発芽」するようなところがないとダメなんで・・・と要するに「もっと発言してよ」ということを間接的かつ自暴自棄的にいい、それから、予定していた、『ムーラン・ルージュ』、『スリー・キングス』、『万事快調』のいくつかのチャプターを見せながら、CGを使う場合の意識変化、映画のなかのリアリティと「現実」との問題等々について話す。ゴダールの『万事快調』は、映画を撮る/見るということへの意識度が抜群に高いので、こういうときの材料としてはいい。が、あいにく参加学生は誰もこれらの作品を見ていない(あるいは見ていても発言したがらない)ので、一方的な「講義」で時間がアップ。みんな帰りたそうな顔をしているので、時間で終わり、雑用をすませて、外へ。
そらからいくつか仕事をすませ、最終的に銀座へ。ジョディ・フォスターの久方ぶりの主演作を見る。サスペンスとしては楽しめるが、こんなに強い母親を持った娘って、どういう大人になるのかと思う。彼女が、ピーター・サースガードをばしんと殴り倒してしまうところなど、かっこいいことはいいのだが。
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■2005年 11月 09日
●『ハリー・ポッターと炎のグブレット』を見た
先日も見損なった『カミユなんて知らない』を見るつもりだったが、こっちは2時間37分の長さなので、今日見ないとなかなか時間がとれそうがないと思い、決心した。このシリーズに冷淡なわたしだったが、今回は、いいねぇ。1分ごとの映像的祝祭を堪能した。が、隣の女性(わたしの知り合いではない)が、画面が急展開するたびに椅子をゆらすので、横を見ると、手の平のあいだから画面を見て、悲鳴をあげそうになっているのだった。スリラーじゃないんだけどね。
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■2005年 11月 08日
●「ネタバレ」なんて古すぎる
渋谷で手塚眞の新作を見ようと思っていたが、メールの返事などを書いていて出遅れる。その一つは、ニュージーランドへ来ないかというけっこうな話。もう一つは、昨日見た『プライドと偏見』の短評(深夜にすぐ書いた)に対して、担当者から、「ネタバレ」があるので書き直してくれというメール。くりかえし書いているが、映像と文字は次元がちがうのだから、「ネタバレ」なんて意味がないと思う。以前、キネマ旬報で30年も編集を担当した植草信和さんに「ネタバレ」だぁと騒ぐのがいるから書きにくくてしょうがないと話したら、彼は、あっさりと、「ネタバレあり」って書いとけばいいんですよ、と。なるほどねぇ。しかし、わたしは、「ネタバレ」なんてものはないと思っているので、そういう看板もかかげていない。
オースティンの有名な小説の映画化だから、ネタバレもクソもないのだが、だいたいそういう「規制」を配給側が言うので、自己規制的にそういう傾向が強まるのだろう。まあ、そんなわけで、連載そのものを降りてしまったが、その指令は「上」からのようで、間に入った担当者はどうなったか。う~ん、誰が悪いんだろうなぁ。映画については、「シネマノート」がるから、それ以上に書かなくてもいいという無意識がはたらいたのかもしれない。ごめんねHさん。
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■2005年 11月 07日
●『プライドと偏見』を見た
幅広い年令のとにかく女性を集めたという試写会。そのあいだで「マスコミ関係者」は小さくなって座っている。
原作であるジェーン・オースティンの小説は、財産相続の手段だった結婚制度を批判しているのだが、それをいまさら映画にしてもつまらないので、5人の娘たちのうちの主として3人が男のプロポーズをどう受けるかを描くことに焦点をずらした。しかし、なんかポイントのさだまらない作品。
恵比寿で前田毅さんと食事をしながらおしゃべりし、帰ったら、頭を整理して書かないとやばいメールが3本来ている。一人は、ニュージーランドのニュー・プリモスに来いという。もう一人は、パリからで、マルセイユに来るのなら、パリによって自分の個展を見て帰れという。むかしは、衝動的に出かけて行って、最低3ヶ月は帰らないという旅のしかたをしていたが、変なイヴェントを(大学で)始めてしまったので、そうはいかなくなった。そういえば、休講というのをしたことがないなぁ。
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■2005年 11月 06日
●またコンピュータでてんやわんや
少し時間ができると、余分なことをして罠にはまる。旧anarchyサイトである大学のサーバーへのアクセスは減ったが、まだここ経由でanarchy.translocal.jpサイトに来るアクセスがかなりあるので、停電で止まってしまっては困るし、本体が壊れたらもう代品がないので、無停電電源を入れることにした。10年前には信じられないような値段に、通販で買ってしまった。が、よくしらべなかったので、「UNIX可」といっても、そこで想定されいるのはLinuxであることを確認しなかった。そこで、「古典的」UNIXのSGI-IRIXとどうつなぐかで「苦闘」することになった。どのみちRS-232Cで接続するのだから、昔とった杵柄とかで何とかなると思い、あれこれコマンドラインで設定をする。が、たちまち5時間ぐらいたち、「シネマンート」の未掲載分も書かなければならないと思い、中断。
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■2005年 11月 05日
●2099年へのメッセージ
ドイツのカイ・グレーンとカールステン・ニコライの連名で、ヘッセン州の放送局で「2099年のためのメッセージ」という企画をやるので、参加してくれというメールがとどいた。これは、世界のアーティストに呼びかけ、各人3分間の音声メッセージを集め、2006年に一度放送したのち、密封して世紀末に開封しようというもの。当然、吹き込んだ者の大半(もしこの10数年のあいだに革命的な延命術でも発明されないかぎり)がその反応を知ることができないわけだから、ある意味での「遺言」のようなもの。
とはいえ、このプロジェクトの直接的な意図は、未来の人々に向かって語るという形をとって、現代にメッセージを送ることだ。それに、今後の50年間に世界大戦が起こり、そんな音カプセルなど消し飛んでしまうかもしれないから、「2099年」自体にはあまり意味がない。さあ、何を吹き込むか。
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■2005年 11月 04日
●『クラッシュ』を見た
6組以上のエピソードを並行描写していって、一見あまりにバラけすぎるのではないかと思わせながら、見事に集約していく。ロスでは、コンクリートとガラスで囲まれた生活をし、タッチに乏しいからクラッシュが必要なんだというようなことをドン・チードルが語る。ここで言う「クラッシュ」とは、車の「衝突」から喧嘩、対立、抗争、テロをも含意する。9・11に至るアメリカ、9・11以後のアメリカを描いてもいる。
終わって、頭のなかで色々な想念がうずまいた。新橋から数寄屋橋まで歩く。アルコールが欲しくなった。
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■2005年 11月 03日
●宇仁貫三さんと話した
鳴ってもふだんはとらない電話を気まぐれに取り、無愛想な声を出したら、相手は宇仁貫三さんだった。驚き。その電話から宇仁さんのところにかけたことがあるので、メモリーされたらしい。
打ち合わせをする打ち合わせなのだが、ついつい話がはずみ、宇仁氏が時代劇俳優でなくて評価する3人の役者とか、氏を殺陣の世界に引き入れた三船敏郎の思い出などまでうかがってしまった。その3人って誰かって? それは、何と香山雄三、上川隆也、木村拓也なのだ。いずれも、殺陣の視点からの評価なのだが、面白いと思った。
なお、宇仁貫三氏は、12月9日に東経大に来てくれることになっている。
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■2005年 11月 02日
●『博士の愛した数式』と『リトル・ランナー』を見た
時間が気になったので、いつもは歩くところを六本木1丁目からタクシーで。案の定、会場はじきに満席となった。小泉尭史監督はこれで「巨匠」になる。出演者も、それぞれの特質を活かされている。数学ネタをはったりではなく使った聡明さに、原作を読んでみたくなった。なお、例の大学のイヴェントに、この映画の録音を担当している紅谷愃一氏が来てくださることになった。
六本木から新橋まで大江戸線で行くのがこんなに早いとは思わなかった。汐留で降りたら、会場はすぐそばだった。が、疲れぎみの体を運んだわりには、「リトル」な感じ。50年代の話とはいえ、わたしにはいささかキリスト教臭が強すぎた。
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■2005年 11月 01日
●『白バラの祈り』を見た
60~70年代にはよく知られていたゾフィー・ショル。反ナチの活動が命がけであった時代に志をまっとうして抹殺された活動家。未来社から出たインゲ・ショル『白バラは散らず ドイツの良心 ショル兄妹』はよく読まれた。しかし、いまは、「志」や「理念」に執着すると、すぐ「原理主義」とか「テロリスト」という非難をあびる。
日本の場合、そういう感性は、法の理念的な側面の無知と無視という形であらわれる。これから国家をどうするのかという「理念」ではなく、現状を肯定するための道具としてしか憲法を見ない発想が、まさにその典型。いや、そうじゃないか。国家をどうするという「理念」はあるから憲法を改正するんですね。ただし、その「理念」は死と崩壊への願望を方向づけるものなのだが。
href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/日
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