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2005年 10月 31日
●『ロード・オブ・ウォー』を見た
安田生命ホールでの試写は久しぶりだが、待つお客が階段に座り込み、まるで徹夜で待っていたかのような雰囲気。配給さんが全然整理しないのでそうなったらしいが、一体どこに並んでいいのかわからない。仕方なく、ロビーでプレスを積み上げたテーブルに緊張して立っているだけの会社の人にアドヴァイズ。
映画は、ブルックリンのロシア移民から世界の紛争を左右する武器商人になりあがる男と家族の話。冒頭、『スリー・キングス』的な遊びの映像も入るが、全体としては「正攻法」で撮っている。しかし、ケージが演ると、「悪」が悪に見えなくなってしまうのは、武器商人の現実からすれば、それでいいのだが、ものたりない感じもいなめない。
キオスクに「安倍官房長官」も大文字。やばいじゃないか、先日の予測がおおはずれ。所詮は床屋政談だったわけだが、これで、小泉政権の本質とアメリカのアジア戦略が読めた。つまり、中国や韓国(むろん北朝鮮も)との関係を等距離ではなく、調整可能な対立のなかにおいておく、つまり日本を「極東」ではなく、「極米」の位置においておくことがアメリカの思惑だとうことがはっきりした。靖国は、国内問題でもアジア問題でもなく、日米関係の関数なのだ。
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■2005年 10月 28日
●「大学」の枠ははずせるのか?
「身体表現ワークショップ」という名の「大学講座」を思い切り脱構築してやろうと思っているが、うまくいくときとそうでないときがある。今日は、あのディスターバンスなDJとして定評のあるシロー・ザ・グッドマンとケイヒンが、意外にも「大学」という枠のなかに取り込まれてしまうのを目撃することになった。
彼らが残したビールの空缶を捨て、酒がこぼれた床を拭き終わったところへ、ふっと納富貴久男氏の姿が見えた。忙しい撮影の合間をぬって現場の下見に来てくれたのだった。感知機や警報装置の位置を確認し、11月18日の「策」を相談。こちらは、確実に「大学」の枠を越えるはず。
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■2005年 10月 27日
●『ベルヴィル・ランデブー』もなんのその
今日も試写にいけない日。その分、興奮と発見があればいいが、ゼミはあいかわらず沈滞。ゼミ30年の「ベテラン」にもわからないことが起きているのか、それともわたしが耄碌したのか?
シルヴァン・ショメの天才的な傑作『ベルヴィル・ランデブー』のなかにみなぎる「サウンド・アート」的な要素を、いくつかのチャプターを見せながら、たたき台として話すが、無反応。講義ではく、ゼミなのだから、反応と発言がかえってこなければ困るのだが、それがない。一人は、わたしの至近距離で眠ったまま起きない。「ねえ、暗くなったら寝てしまうというパターンはやめようよ」とわたし。きっとアルバイトで疲れきっているのだろう。かつて大学を「モラトリアム・スペース」とみなす発想が流行ったことがあったが、いま大学は、よくて「リラクゼイション・ルーム」なのかもしれない。
今回も、OBと「もぐり」のお客さんが来てくれて、わずかに元気をもらう。これじゃ、塾でもやったほうがいいなぁ。
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■2005年 10月 26日
●『単騎、千里を走る。』と『力道山』を見た
チャン・イーモウと高倉健の組み合わせで評判の前者。う~ん、イーモウ、高倉、降旗康男(日本編監督)の三者のからみがうまくいっていない感じ。ストーリーにもやや無理がある。
力道山をその(テレビへの)登場から知っている者には、フィクショナルな要素の強い中谷美紀の部分を除くと、みなうそっぽく見えてしまう。ロバート・ホワイティングが『東京アンダーワールド』(角川書店)のなかの「金信洛」という20ページほどの章で活写している力道山の方が143分のこの映画よりアプローチが深い。
御徒町のホームで、停車中の車両から「助けてください!」という女性の声がしたので行ってみると、酔った老人が床から3人分ぐらいの座席にまでゲロを撒き散らしたのだった。その人、飛んできた駅員に誘導されて近くのベンチに座ったが、自分のやったことには気づいていないようだった。ドラマティックな場面で、今日見た映画の強度が消し飛んだ。
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■2005年 10月 25日
●「ガンエフェクト 納富貴久男」を見た
六本木の喫茶店で植草信和さんが、納富貴久男氏に引き合わせてくれた。「教室」を教室でなく、「大学」を大学でなくするゲストシリーズの11月18日の回に納富氏のご登場を願う打ち合わせである。いいテンポで話が進み、その間にアキバの常連であることを知り、そっちの話に入りそうになったが、ぐっと抑える。当日は、なかなか面白いことになりそう。
渋谷に出て、2,3仕事を済ませ、仕事場にもどり、いただいたDVDを見る。BS-1で7月に放映された納富貴久男密着ドキュメント。この人のすごいところは、映画撮影で「実銃」を使えないという日本の制約を逆手に取り、そこから「フェイクのリアリティ」をかぎりなく追求するという戦略と美学を確立しているところだ。
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■2005年 10月 24日
●『あおげば尊し』を見た
タイトルが気に入らなかったが、これまでけっこう見ている市川準監督の名と映画初主演のテリー伊藤の名で見に行った。
映画がはじまっても、それまで流れていたBGMが停まらず、最初の画面にかぶってしまうというお粗末さ。けっこう長いイントロのシーンのあいだに途中入場の人が6人ぐらいおり、そのうち何度かスクリーンに頭が映ってしまう。なんじゃこの試写は!?
好演にもかかわらず、歳の割に枯れすぎているテリーにその老父(加藤武)がいるという設定は、なんか実感がわかなかった。
いまの時代に小学教員であることへの疑問のまなざしはわかるが、やっぱり「あおげば尊し」は失われていなかった風の結末では、そのまなざしがどこを向いているのかわからない。
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■2005年 10月 23日
●日曜は床屋政談で
映画のはじめのシーンを見て、全体を予測するなんてことには興味がないが、政治の帰趨を予測する床屋政談は好きだ。小泉の組閣がどうなるこうなるとテレビやスポーツ紙で報じているのを見て、床屋政談的イマージネイションが広がる。が、竹中が入閣するかどうかなどということを論じているのを見ると、バカじゃなかろかと思う。だって、小泉政権は竹中理論内閣でしょう。竹中の脚本・監督、主演・小泉なのだ。つまり竹中なき小泉政権は存在しないのだ。
安倍晋三は当然はずされるだろう。小泉が靖国を参拝するのは、遺族会などの票集めとそれへの義理立てのためだが、安倍色が強くなれば、アジア外交は混迷に陥るからである。ただし、中国への小泉の距離取りは、中国を警戒するアメリカの思惑と合致してもいる。が、安倍的な距離と緊張でもまずいということだ。
いまの生活レベルを維持したいという意識が体勢をしめるならば、日米関係は是が非でも維持するという路線は崩れない。竹中は、その要にいる。その点で、猪口邦子の入閣はけっこうリアリティがある。片山さつきだって、「大蔵」の旧弊へ連射攻撃をかけ、竹中理論を徹底させる闘士としては悪くないタマだ。
床屋政談をするとガラが悪くなるので、もうやめるが、日本の政治予測のファクターは、アメリカと竹中だということは、世の政治評論家はあまり言わない。
アメリカは、いま揺れはじめているが、当面、日米関係は切れない。これから必要なのは、「反」米ではなくて、「超」米だろう。オイル依存のいまの「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」をやめなければ、日米関係は不変だし、アメリカ以上に「アメリカ」的になってしまう。いや、もうなってるかも。
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■2005年 10月 21日
●タキミ・ケンジを床に座って聴く?
毎週やっている大学のゲストシリーズの第3弾はタキミ・ケンジのDJプレイ。実は、この日、タキミとストラッグル・フォー・プライドのコラボレイションが実現するはずだったが、急遽中止になり、タキミが一人でがんばらざるをえなくなったのだった。昨夜、この企画をアレンジした三田格から連絡があり、ストラッグルのメンバーが怪我をして演奏ができないということを知らされた。あわててウェブページに載せていた情報を訂正し、中止の旨を書いた。そのためか、ストラッグルのファンが押し寄せることはなかったが、ちょっと残念だった。
学生(いや、「生徒」というのかいまは)たちは、身体をゆすり、けっこういい気持ちになっていたようだが、DJサウンドをあぐらをかいて聴くのを見るのは(このスペースでは毎度のことながら)タキミ氏には異様に映ったようだ。わたし自身は、彼や彼女らを見ながらふと、そうか、これってウッドストックのヴァリエイションだと思えばいいんだ、と思った。
かつて遠藤ミチロウが和光大学のわたしの「授業」でプレイしたとき、「おまえらロックを座ってきくのかぁ」とどなったが、パンクはすでに立って聴くものだった。が、ヒッピーカルチャーとないまぜになった60年代のロックは、ごろごろ寝ながら聴いてもいいものだった(のではないか?)このへんは、専門家の三田格に訊いてみよう。
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■2005年 10月 20日
●大学ってなんだろう?
ゼミで今野雄二氏をお呼びした。氏が手がけたクリストファー・ノーランの『メメント』とマーク・ロマネクの『ストーカー』のノベライゼイションを手がかりに、文字表現と映画のあいだを語る刺激的なお話だったが、時間を延長したら、受講生が3分の1に減った。さいわい、うわさをききつけて聴講に来た学生(なかには岩手から夜行バスで飛んできた卒業生も)が熱心に聴いてくれて、何とか様になったが、なんともお粗末。こんなゼミ、つぶしてしまった方がいいのではないかと毎週思う。が、1人でも熱心な者がいると、そうできないのが、集団教育の難点。最近翻訳の出たイヴァン・イリイチの談話集『生きる意味』(藤原書店)(凡庸なタイトルだが、原題は Ivan Illich in Conversation)にも出てくるが、「学校とは不可避的に脱落者を生み出すシステムである」。
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■2005年 10月 19日
●『イベリア 魂のフラメンコ』を見た
イサーク・アルベニスの組曲『イベリア』に捧げるカルロス・サウラの舞踏映像詩。顔はけわしすぎるが、サラ・バラスのタップはやはりすごい。「舞台」は、複数のスクリーン/ボードをたくみに使ったシンプルなもの。これなら、東京経済大学の「スタジオ」でもできそう。その意味で、ライブならば、これで十分だが、映画としては、(サウラだけに)ちょっと期待はずれ。
出かけるまえ、植草信和さんから連絡があり、「身体表現ワークショップ」(href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/TKU/shintai/)にガンフェクトの納富貴久男氏が来てくれることが確定した由。感激。
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■2005年 10月 18日
●『綴り字のシーズン』と『プルーフ・オブ・ライフ』を見た
前者は、アメリカ的競争主義と父権主義的な家庭への批判が根底にある。その代案として、ある種の神秘主義や瞑想志向が示唆されているのが、興味を引いた。これでは、何を言っているのかわからないが、詳しくは「ノート」に書く。
後者は、ちょっと『ビューティフル・マインド』https://cinemanote.jp/2002-01.html#2002-01-28)に似たところがある。なんでも屋のアンソニー・ホプキンスは、今度は数学者に扮するが、全然「数学者」に見えない。狂って一線から引いている役柄ではあるが、なんか違うという感じ。グウィネス・パルトロウはかなりいい。
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■2005年 10月 17日
●『アメリカ、家族のいる風景』と『ファイナル・カット』を見た
サム・シェッパード脚本・主演の前者は、彼自身の実生活ともダブる部分がありそう。家族というより、肉親とは何かを問う。東洋には「因縁」とか「業」いう言葉があるが、そう言うだけで済めば気楽。そんなものには縁がないという男をティム・ロスが演じるが浮いてしまう。それだけ、肉親の因縁は不可解かつ不如意。わたしも肉親問題では何度も狂った。
全生涯に経験した映像を記録するチップを誕生時に脳に移植するのが金持ちのステイタスという時代の話。なぜ映像だけなのかがわからないと半畳を入れはじめるとぼろぼろとアラが見えてくる。記憶の不思議さには全くせまっていない。
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■2005年 10月 16日
●「ポッドキャスティング」は「キャスト」にあらず
赤坂に行ったので、本屋に立ち寄る。『ポッドキャストのすべて』というムックがあったので、買う。しかし、「ポッドキャストを配信しよう」という章には、「ケロログ」などのサイトを借りて「配信」することしか書いてなく、自分でサーバーを立てて配信する方法には全く触れていない。「ポッドキャスティング」という以上、ライブで送信する(キャストする)ことが前提だが、あらかじめ作ったファイルを置いて、自由に取ってもらうのを「ポッドキャスティング」なのだと定義している本や文章もある。「間借り」じゃ、全然新しくない。
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■2005年 10月 15日
●八木田宣子さんに会う
阿藤信也さんが、「身体表現ワークショップ」のゲストの候補として八木田宣子さんを紹介してくれるというので、彼の家へ。八木田さんは、童話や児童文学関係の著作が70冊以上もあり、また独楽や点袋(ぽちぶくろ)などのコレクターとしても有名。彼女は、児童向けの紙芝居も書いているので、紙芝居で何かやってもらいたいというのがわたしの注文だったが、なんと、10年ほど大学教え、学生の質の低落にうんざりして辞めた経験の持ち主なのであった。一番もりあがったのは、学生の質の変化の話と睡眠薬の話(両者は無関係)だったので、これは、どうも、お引きうけ願えない予感。
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■2005年 10月 14日
●黒谷都さんの公演とディスカッション
「身体表現ワークショップ」の今週のゲストは「人形遣い」の黒谷都さん。最初のほうで、彼女の過去の公演記録をDVDで見せはじめたが、1時間かかるというので、やめてもらう。ゲストを呼んでおいてこの強引さは無礼だが、映像も一つの表現であり、映されたものを「ありのまま」に伝えるわけではないから、その映像表現についての話なしにそれを「記録」として使うのは、この企画に反するんじゃないのというのがわたしの言い分。黒谷さんは、わたしのわがままな注文をうけいれ、以後、すばらしい実演を展開。紙一枚のようなオブジェが、彼女の手と身体の動きのなかで、生きものに変貌する瞬間をまのあたりにする。
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■2005年 10月 13日
●『恋に落ちる確率』の話は無理だった?
映画にウエイトを置くようにした演習の第2回。『アンダルシアの犬』、『プライベート・ベンジャミン』、『Kill Bill Vol.1』、『A.I.』の、あらかじめ編集した数分のクリップを見せ、観客側のポスチャー(姿勢)と映像のリアリティとの関係、映画と時代性、内在性の映画などについてプレゼンし、それから『恋に落ちる確率』の最初のエピソードを見せ、参加者各自の意見を言うというスタイル。いずれの作品の見たことがなく、監督も知らないという学生が大半という環境では、ろくな発言はなく、なにかまちがったことをやっているという気分だけが残った。先週も同じようだったので、日記を書かなかった。
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■2005年 10月 12日
●『ロード・オブ・ドックタウン』と『タブロイド』を見た
1975年にカリフォルニアで起こったスケートボード「運動」のはじまりと終わりを描いた前者を見ると、その余波が次第に東海岸に波及してきたのを目の当たりにしたことを思い出した。ニューヨークで、1978ごろから街にスケボーが目立つようになり、車の間をすり抜けるのを目にするようになった。
10年前は、まだ、たいていの試写室が銀座にあった。だから、淀川長治氏は、いまはなき銀座東急ホテルに住んでいた。そのうち、試写室の場所があちこちにちらばり、歩いてハシゴするのがむずかしくなった。今日は、前者を見て、タクシーで京橋へ移動。あわてて第2試写室の方へ飛び込んでしまい、バツが悪かった。すみません、『カミユなんて知らない』はいずれ見るつもりです。『タブロイド』は、なかなかの力作だが、子供をはねてしまった男にその子の親と野次馬が襲いかかるシーンがすごい。
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■2005年 10月 11日
●『愛より強い旅』と『あらしのよるに』を見た
映画を作るということと作曲し、演奏するということとが一体となった前者。失われた故郷へ収斂的に回帰する話だが、アルジェリアの回教徒の呪術的儀式でトランス状態になるシーンがすごい。こちらも思わず踊り出したくなり、それを抑えて、変な気分になった。変といえば、後者も変。「変」というのは、裏に同性愛が隠されているのに、ポーカーフェイスをしているのに立ち会うことになるからだ。
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■2005年 10月 10日
●またやってしまった
信じられないような約束の失敗をよくやる。事実上「ドタキャン」と同じ結果になることもある。この日、休日なのに早起きして仕事をし、疲れたので青山に出かけ、食事をし、お店の人たちとのんびりとおしゃべりをして仕事場(わたしは自宅というものを持たない)にもどってきた。そしてメールを見て仰天。昨日の日記に書いたハンガリーのブダペストの集まりを仕切っているTSからメールが来て、引き受けた「レクチャー・パフォーマンス」の日が今日だという。さいわい、ストリーミングのサーバーは直したので、送信はできる。しかし、カメラの前で話し、ラディオアートのパフォーマンスをするには準備不足もはなはだしい。わたしは、てっきり14日だと思っていたのだ。一度は断りのメールを入れる。だが、すぐにSkypeで電話がかってきて、明日ではどうかという。いや、明日は予定がびっしりでとてもできない。そこで、こいつはやるきゃないと、30分で準備をする。そしてやりました。やることは。いま、そのバックアップを見て、自己嫌悪におちいっている。
考えてみると、授業にせよ、パフォーマンスにせよ、ちゃんと準備万端ととえて本番に臨んだという記憶がない。いつも、やっつけなのだ。だから、ほめられても、素直に受け取れない。その点では、役者やスポーツの選手は、みな偉いなと思う。そしてかわいそうだと思う。だって、万全を期してやっても、非難を受けたりするのだから。いや、わたしもそのうち総好かんを食うかもしれない。
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■2005年 10月 09日
●機械は気まぐれ
週末にハンガリーのブダペストで行なわれるRE_ACTIVISM会議にネットで参加してくれとたのまれ、引き受けた。そろそろ準備をしなければならないので、しばらく使っていないストリーミング・サーバーを起動させようとしたら、エンコードできない。しかたなく、再インストール。が、それでも直らない。
RealNetworks社のソフトなのだが、更新を記録するためか、使わない期間が長いと、こういうことがまえからあった。そういうようになるような「時限爆弾」がしかけてあるのだろうか? この会社は、以前、マイクロソフトが、リアルプレイヤーを起動させなくするプログラムをひそかにインターネット・エクスプローラーに仕込んだと言って、マイクロソフトを訴えた。ソフトに「時限爆弾」を埋め込むのは、どこもやっているらしい。
で、どうしたかって? いや、その「時限爆弾」をはずしました。あとには、「爆弾処理」でもやったかの解放感。
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■2005年 10月 07日
●「身体表現ワークショップ」が始まった
前期に好評だった、別名「教室を教室でなくする」企画の第1回。最初に過去の映像を見せながら、趣旨をわたしが説明し、今回、音楽関係では献身的に協力してくれた三田格を中心にしてクラブ・カルチャーについての小シンポジウム。ライターの磯部涼、イルリメが加わり、そのあとでイルリメのソロ・パフォーマンス。ユーモアとDIYテクノロジー感覚がいりまじった独特の「電子大道芸」。実にユニークであり、楽しめ、インスパイアーされる。
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■2005年 10月 06日
●第2期のゼミは映画で行こう
と思って、本来テキストを読むことで集めたゼミで映画を見て議論することにする。その初日。長いものを見る時間はなので、『short 6』というDVDのなかから短編を3本選び、見てから意見を言ってもらう。ウ~ん、目立つのがイヤでそういうポーズを取っているのか、実に社交辞令的な意見しか出ない。あまり「面白い」という表情も見えない。実は、「いまの学生は本を読まない」というのは神話だろうと思い、前期は、テキストを使った「古典的」なゼミにした。が、みんな見事に本を読んでいない。書名を指定して読んできてと頼んでも、読んでこない。何かもっと基本的なところにぼくなんかの発想とのズレがあるのだろう。それは、テキストを映画に替えても変わらないようだ。
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■2005年 10月 05日
●『僕のニューヨーク』と『インサイド・ディープ・スロート』を見る
ウディ・アレンのファンとしては悲しい2番煎じ。ギャグも笑えない。ブッシュ体制下で進む反動への恐れがやけっぱちのような形で出ているが、ナチとのアナロジーを強調するだけでは冗談にもならない。
『ディープ・スロート』がニューヨークで爆発的な反響を生んだ時代が終わり、いままた何度目かの反動が来ていることに警鐘をならしているところもある後者だが、『ディープ・スロート』が、限定上映であれ、いまだに「ちゃんとした」形では上映できない(このドキュンタンリーでも、引用されるシーンにはボカシが入っている)日本では、皮肉な意味を持つ。それにしても、わたしがニューヨークにいた1970年代の後半から80年代のはじめ(つまりカーター政権の時代)というのは、実に「いい」時代だったのだなと思う。
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■2005年 10月 04日
●『タブー』を見た
南青山のアウラ・スクーリング・ルームは初めてなので、迷ってしまう。試写状にビルの名前も電話番号もない。番地をたよりにデリバリーのおにいさんに訊いてたどりつく。おしゃれなスペース。
上映はDVDでちょっとがっかりしたが、字幕があるので、助かる。ボーイ・ジョージも出るが、ボーイ・ジョージを演じるのはリー・バウリー。この人、若きボーイ・ジョージに実によく似ているし、歌唱力もすばらしい。とてもセクシー。
久しぶりに青山通りを渋谷に下り、何軒かの古本屋をハシゴする。が、本の時代が終わったのか、その「凋落」ぶりは悲しかった。
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■2005年 10月 03日
●あいかわらずメールの返信で動けない
昨日から「瞬間芸」の返事では済まないメールが重なる。その一つは、1975年にニューヨークで撮ったElgin劇場のモノクロ写真(href="https://utopos.jp/about_jp.html"jp/newyork/newyork_bw_70s/)をハリウッドにあるWorld of Wonder ProductionsのTerrance Austinという人が使いたいという。金を払うというので、こちらは「アンチコピーライト」(コピーライトフリー)だと返事し、勝手に使ってくれと言うと、仰山な契約書をpdfで送ってきた。それにサインしてfaxしてくれないかという。アメリカは契約社会なので、いつもこうなる。やっかいだから普通はそのままにしてしまうのだが、今回は、サインする。が、そのために、細かい字で一杯うるさいことが書いてある契約書を読む。万が一、すべての権利が向こうへ行ってしまって自分の写真をこっちが使えなくなるなんてことが起こりえるからだ。
この写真は、チェルシーにあった「名画座」で、経営難に陥って職員のストライキが起きた。住民から立て直しの運動も起きた。わたしは、ここで『ピンク・フラミンゴ』とかヴィスコンティの『ルートヴィヒ』なんかを見た。ライブもあった。場所がらゲイ系の出し物が多かった。
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■2005年 10月 02日
●メールが殺到
試写がないので、シメキリがすぎている原稿にかかろうと思ったら、あちこちから返事の必要なメールが来る。返事を書くのは好きだし、比較的早く出す方だが、今日のメールは、あれこれ調べて返事しなければならないものばかり。一番やっかいで、いま現在まだ続いているのは、カナダの人からの送信機に関する問い合わせ。わたしが、サイトに載せている送信機マニュアルで作ってみたが、機能しないという。チャットみたいに返事をしているうちに、話がだんだんもつれる。あげくに、わたしのマニュアルが「くわせもの」(hoax)だみたいな調子にエスカレートする。こう言われると、わたしも黙ってはいられず、こいつは、わたし自身何十回とワークショップで使い、世界の各地で利用者があるんだぞぉとタンカを斬る。すると向こうは、こんなにやってもできなぁーいとデジカメ写真を添付してくる。見ると、この人、わたしの回路を「ブレッドボード」(実験用に部品を差し込んで仮に回路を組み立てる板)で作っているではないか。これは、高周波回路ではダメなんだよ。しかし、わたしも意地になり、じゃあ、同じ条件でやってみて、それがダメだということを証明してやろうじゃないの、と、同じものを組み立てる。するとですね、腕のちがいか(!)なんとか起動してしまうんだな。しかし、非常に不安定だ。それは当然。
結局、こちらが部品を一式そろえて郵便で送ってやることにする。部品も、わたしの指定とはちがうものを使い、作り方も全くちがうのに「くわせもの」はないが、そんなことでキレていたら、メールのコミュニケーションはできない。
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■2005年 10月 01日
●サミングアップ/シネマノートは大道芸
サミングアップというのは、「合計」することではなくて、「反省」をふくめて、いっとき後ろをふりかえることなんだと、その昔、サマセット・モームの同名の小説を片手に予備校の先生が言っていた。
わたしもときどき、サミングアップのつもりで検索サイトに「シネマノート」と入れて、批判やコメントをチェックする。事実誤認の指摘もあり、その場合は、問題の個所に【追記】として引用させてもらう。誤解や誤認も映画の知覚の一形態だと思うので、「訂正」して何食わぬ顔はしない。
GOOGLEの見出しを流し見していたら、「粉川哲夫の【シネマノート】では 長めの評が新作映画に関して載っている。評のレベルは低い」という文字を発見して、そのリンクサイト(http://watanokuni.tripod.com/index.html)へ入ってみた。作者は覆面なのだが、映画関係のウェブサイトをならべ、コメントしている「リンク」にその一文があった。
う~ん、「評のレベルは低い」かぁ。わたしも決して「高い」とは思わないが、じゃあ、この人はどんなのを「高い」と思っているのかと、他をのぞかせてもらう。ちなみにこのサイト、映画への情熱がひしひしと伝わってくる。わたしのサイトよりも多重的で啓蒙的だ。
ややナルシスティックに自己インタヴューの形式でのせている「自己紹介」のなかで、自分は、映画を見ることによって、「いろんな映画を見たという知覚、思い出、そして感動(ドゥルーズの受け売りだあ)」だと言っておられる。試写会族には辛らつで、「試写会なんかでただで、しかも自分の仕事と関係なく映画見ても、感性働かせずにいい加減に見て、いい映画を味わう機会を自分で駄目にしてしまいそうだ」という。
ここから想像するに、この人は、ドゥルーズ的な「内在批評」を「高い」とするのだろう。たしかに、その点では、わたしのノートは、「外在批評」の方を向いている。そのつど一回的に経験した「知覚」や「感動」の内在性をかぎりなく掘り抜いて概念化していくのではなく、「外部」との関係をいわば「違犯的に」つかまえようとするのが、わたしのシネマノートの傾向といえばいえる。それは、哲学で言う「超越的外挿」というやつで、ある意味では「捏造」なのだが、そのへんのうさんくささをもって「低い」というのだろう。
しかし、「内在批評」を「内在批評」として展開するスタイルとは別に、「内在批評」をテコにして「大道芸」をする映画批評もあるだろう。路線としては、わたしは、そっちで行きたいのです。だから、そこには、当然、はったりも荒っぽさも下品さもある。もし、問題があれば、そういう毒が弱いということだろう。
でも、ご批判ありがたく。
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