「雑記」

“みんな”から“オレオレ”へ



◆「4月は残酷な月・・・」(“April is the cruelest month,...") というT・S・エリオットの『荒地』の冒頭の詩句は、詩の含意は別として、新入生とか新社会人を形容する言葉に使われることが多いが、わたしには、毎年4月は「残酷」きわまりない月だ。もうちょっとオレの使いみちがあるだろうと思うようなバカ仕事に拘束される。なんて言い方をすると、「オレ」って何様?とつっこまれるかもしれない。そう、今回は「オレ」の問題について書いてみたいので、いつもは使わない自称代名詞を使ってみた。この雑記は、4月18日に一気に仕上げるべく書き出したのだが、「残酷」なバカ仕事に追われて、果たせなかった。



◆そもそも「仕事」を果たそうなんてこと自体がまちがっている。《発作》で書いているのだから、それが「完成」にいたるかどうかはわかったものではない。わたしはネクタイなどしないが、写真のように、ネクタイ人でも頭がぶっ飛んじゃうようなのが発作だ。だから、その自称「バカ仕事」に追われると、発作はどこかに消え去り、べんべんと5月をむかえた。しかし、そういう散漫な意識のなかにも、トランプ問題はくりかえし飛び込んできて、刺激してくれた。


◆4月25日には、今度は女性ライター(E Jean Carroll)レイプ事件の審理がニューヨークの連邦裁判所で始まり、例によって、トランプ側は、「誤審」の申立をしたが、それが5月1日、連邦裁判官によって拒絶されるという醜悪劇が開幕した。ただ、この事件は、90年代のこと(キャロルは現在79歳)であり、トランプ側からすれば、そういうことがあったとしても、彼女は「大統領」にレイプされたのではなく、「成金不動産屋」にレイプされたにすぎない。まえに触れたが、彼は、そういうことは、よくやっていたし、まえの大統領選挙の最中にその証拠録音が暴露されて、いっとき窮地に陥ったことがある。→参照「共和党大物たちの反発 プッシーはダメ」。


【追記 】5月5日に公開された映像によると、E・ジーン・キャロルの弁護士とトランプとのあいだに次のような爆笑もののビデオインタヴューがあったとのこと。トランプは裁判への出席を拒否している。


弁護士:有名人だとオマンコも掴めるというのは本当ですか?
トランプ:過去"何百万"年の歴史〔「長い」という意味だが、長さや大きさを誇張して"million"を使うのはトランプの子供っぽい――あるいは見え透いた詐欺師の――口癖〕を見て見れば、それはほぼ真実だ。不幸というか、幸いにしてというか。


これは、火曜(現地時間5月2日)に開かれた裁判で公開された映像のなかの言葉で、果たして陪審員らはどう受け取るか? スコットランドに逃げてはいられないかもしれない。→詳細『ロイター


【追追記】5月9日、ニューヨーク市民事陪審は問題のレイプ訴訟に関し、トランプの性的虐待を認定し、E・J・キャロルに500万ドルの損害賠償を支払う判決を下した。→『ロイター』 いよいよツケがたまって、これじゃ、ロシアにでも亡命するしかないかな?


◆わたしがトランプを問題にするのはそのモラルを糾弾するためではない。日本では「不倫」と称する行為の疑いがマスメディで騒がれると、それだけで社会的な制裁を受け、抹殺されたりする。まるで姦通罪が施行されていた時代(ただし、日本のは女性の「姦通」を罰するもので、男性は対象外)を思わせる。それだけ日本では「モラル」がまだ価値基準になりえるのである。


◆トランプが面白いのは、彼がアモラルだからではない。彼ぐらいの悪徳者はどこにでもいるだろう。日本でも、女と知り合うとすぐに「やって」しまう男はいくらでもいたし、いまでもいるだろう。ひとむかしまえには、そういう「フリーセックス」のカルチャーがあった。いまちょっと「手続き」がやっかいになっているだけである。


◆じゃあ、何を問題にしたいかと言うと、トランプ現象から浮き上がってくる時代の相貌、とりわけ国家との関連現象である。わたしはあいかわらず「現象学」の追従者なのだ。ここで言う現象学は、俚談とか迷信とか偏見とか慣習等々をとりあえずひとつの「事実」として受け入れて、つまり「括弧」付の「事実」とみなして、(あるいは、「内在化」して)思考することである。


◆その際、トランプの私的なことは括弧外の問題になる。彼がどんなセックスをしようが知ったことではない。が、その問題が、国家問題に関わってくる場合は、括弧内の分析対象になる。彼は、セックスだけでなく、縁故関係の問題も国家政治に持ち込む。そういう「私物化」の政治が国家をどう機能させるかである。「独裁」のような概念では何もわからない。


◆トランプの基本の価値基準として、「みんな主義」がある。この言葉は、そのむかし、わたしが捏造し、色川大吉さんに頼まれて書いた原稿(『心とメディア (現代の世相) 』小学館、1997)のなかで使った言葉であるが、国家や組織の管理において個々人を「みんな」として束ねる技法とその機能を問題にしている。


◆その論旨は、「みんな主義」なんかにうつつをぬかしていると、進んだ国家や組織の管理に好きなようにされちゃうよということだった。いまでも、クックパッドは、「みんなが・・・」という「みんなレシピ」を売り物にしているが、ユーザーや、とりわけ「国民」が、「みんな主義」につきあってくれれば、管理の一元化がしやすくなる。が、そんな一元化は、国家や組織にとっても得にならない。だから、実際には、「みんな」レシピよりも「オレオレ」レシピのほうが受けるのだ。


◆いま、管理の技法は、「オレオレ」主義である。トランプもある意味では「オレオレ主義者」である。俺が、俺なら(ロシアのウクライナ侵攻は起こらなかった云々)・・・は彼の口癖である。しかし、それは、厳密には「オレオレ主義」ではなくて、自己顕示欲的な「俺主義」にすぎない。彼の「俺」誇示は、逆に、いま進行中の「オレオレ」管理を見えないようにする。それが、トランプが批判されるべきところである。



◆「オレオレ」主義とは、この言葉の普及の過程を思い起こせばわかるように、「オレ」が2度発せられているところが肝心である。電話で、「俺だよ、俺」と言って本人を騙る詐欺師の台詞はなぜ2回なのか? ここには、最初の「オレ」と2度目の「オレ」との差異に注目すべきである。


◆「オレオレ」には、「意識」が想定する(そのつもりである)「オレ」と身体としての「オレ」(騙るために仮想した身体)との相克が表現されている。ひとは、この両者が一致したと確信することによって、相手が自分の思っている相手だと認識する。 ただし、身体としての「おれ」とは、意識の派生態としての「多重人格」の一つのようなものでは全くない。この「オレ」は、他者性の「原基」を意識の言葉で示唆しているのであり、このおかげで意識の「他人」の認識や交流が可能となる。



◆「オレオレ」の二重性は、「オレ」に仮面や仮想の「オレ」を配備することだと言ってもよい。たった1枚の仮面でも、それが、それまで信じらてていた身体を括弧に入れるのである。



◆いま、身体は、肉としての身体とは別に、かぎりなくそれに似せたヴァーチャルな身体とすりかえられようとしている。身体は、もはや「人型」をしていなくてもよい。ここでは、オレオレ詐欺犯ではなくても、誰もがつねに「オレオレ」を無言で言い続けて「人型」の身体を維持しなければならない状況に置かれる。「オレオレ」を念仏や呪文にしなければやっていけない意識(心)の状況である。


◆ある意味では、意識に支配されてきた身体が、意識から「解放」されるわけだが、ただし、身体にとっては、そんなことはどうでもよい。身体は、分子レベルで動くから、器官や細胞がどう変化しようと知ったことではない。「体を大切に」という慣用句にもかかわらず、「大切に」してくれようが、そうでなかろうが、ある程度までは意識につきあうものの、最終的にはそれ自身の道理で動く。体のことを気にするのは意識であって、身体ではない。身体がそうしてくれと頼んでいるわけでもない。


◆「オレオレ」詐欺の流行、そして、基本的にはその怠惰な一形態であるトランプ主義も、身体のヴァーチャル化が示すように、意識が身体の存在を単純に「これだ」と肯定することが出来なくなったという状況に立脚している。むろん、警視庁の防犯キャンペーンの写真のように「家族の絆」なんぞはたよりにはならない。


◆ただし、「オレオレ詐欺」の場合には、一対一の関係のなかで行われるのに対して、トランプは、不特定多数の相手に、「オレ」を「みんな」がそう言っていると称する「オレ」になりすまし、国民全体を騙そうとすところが、悪質だ。



◆3月31日に、「ポルノ女優」Stormy Danielsとの関係をもみ消そうとして 34の重罪容疑で起訴されたトランプは、4月11日火曜のFOX News のタッカー・カールソンの番組 (Tucker Carlson Tonight Show)のインタヴューで、オレが裁判所に行くと、みんな泣いてて、すみませんと言うのもいた・・・ (“When I went to the courthouse ... they signed me in, and I’ll tell you, people were crying,” Trump told Carlson. “It’s a tough, tough place, and they were crying. They were actually crying. They said, ‘I’m sorry.’) とまたまたトランプ一流のデマを披露した。



◆トランプを自分のショウに呼んだタッカー・カールソンは、先輩にあたるショーン・ハニティとともに、トランプの「オレオレ」詐欺を手伝ってきた「極右メディア」の主要人物である。彼らは、みんなオトモダチで、よくゴルフなんかをしていた。写真は、それに、次期の選挙でトランプが大統領に返り咲いたら、副大統領になる可能性の強い、これまた「オレオレ」(女性もむかしはこの言葉を使った)主義のマージョリー・テイラー・グリーンである。


◆デマだと言うのは、法廷につめていた記者の証言ではそんな事実はないとのことだし、彼が法廷の外に出るとき職員はトランプのためにドアを開けてやることすらしなかったのを見ても彼らがトランプに対して「すまない」などという気持ちを抱いてはいなかったことがわかるというのである。


◆まあ、彼は、alternative factsで生きているひとだから、事実か嘘かはどうでもいい。それよりも、その「事実/嘘」の基準を「みんな」に託しているところが欺瞞だと思うのだ。のっぺりした顔の「みんな」がどう思うか、どう反応するかを基準にして、そのためにちゃんと顔のある「個人」をないがしろにする。


◆官僚制は、そういう「みんな」主義をカモフラージュする方法のひとつである。トランプの欺瞞は、国家組織が官僚制にそまっているのにそのただなかで「オレ」を強調することだ。そんな「オレ」が何の意味もなかったことは、彼の大統領就任の4年間にことごとく露呈した。そもそもいまの国家組織は誰が「オレ」でもいいのである。


◆だとすれば「オレ」はいらないわけだが、トランプはあたかも官僚制に反対している言動を発しながら、そのおかげで官僚制がぬくぬくと生き延びるのを助けている点が欺瞞である。


◆ついでに言っておけば、アメリカの「民主主義」も「みんな主義」である。トランプの「みんな主義」との違いは、こちらは、「みんな」を多元化するところか。そういえば、幼い子供が「みんな・・・持ってるよ」と親に買物をせがむとき、その「みんな」は自分以外のもう一人でもよい。「みんな」も数の問題ではなく、トランプのように例外を一般化して大言壮語するのは「みんな主義」としては古いのだ。


◆ちなみに、上述のタッカー・カールソンは、4月24日、Fox Newsから解雇された。トランプの唱える「大統領選が民主党に盗まれた」陰謀論を積極的に支持し、斜陽の(そうでもないという説もある)トランプを養護しつづいてきたのに、さすがの保守メディアも音を上げたのだ。Fox Newsは、カーソンらの番組で、投票装置にやらせの仕掛けがされていたという証拠のない主張をし、Dominion Voting Systemsから訴えられ、先ごろ$787.5 million(1,060億円相当)を支払うことで示談に持ち込んだばかりであった。
なお、失業したカーソンには、すでにいくつかのオッファーが来ており、そのなかにはロシアの国営テレビRussia-1も入っているとか。



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Thursday 04 May 2023 (updated)