粉川哲夫の「雑日記」

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2023/06/08最下段にトランプ新起訴の追記

また飽きた 『雑日記』への回帰

ウェブサイトを書くきっかけは、わたしの場合、出来事への遭遇とか、書きたいことが首をもたげるといったことよりも、ウエブデザインが思いつくことからくる。

『雑記』を思い立ったのも、CSSのプログラムを文字通り筆のすさびならぬキーボードのすさびで書いているうちに、単語や短い文章が空中を浮遊しているのが出来たからだった。→クリック

しかし、いったん思い立つと反省能力を失うわたしは、画像や映像と文章としても文字とはちがうこと、書き始めると短文で済まないことをすっかり忘れてしまった。で、いざ始めてみると、文章はあいかわらず長くなり、話題も複数になってしまうのだった。これだと、イメージしていた「雑記」ではなく、「雑日記」と何も変わりがない。

それに、「雑記」用に準備したCSSフォーマットは、「雑日記」にくらべるとお粗末だ。こうなると、再読の機会には後悔だけが高まり、全廃してしまいたい衝動に襲われる。いずれにしても、「ヤバくなったらすぐやめる」ことにしているのでも、早速「雑記」をやめることにした。

SoundCloud「事件」

その間に起こったSoundCloud「事件」も、「雑記」をやめる遠因になったかもしれない。昨年から、狂ったように始めたSDR AJ、つまり、SDRを使って多領域の電波信号を即興的に干渉させたり重層化させたり(ただし、エフェクターのたぐいは使わない)して作った(というか、出来た)音をアップするサイトをSoundCloudに作った。しかし、それが(5月に、野暮用から解放されて「さてパフォームしよう」とアクセスしたら、https://soundcloud.com/sdrart-radioart-jp が完全に消えていた。

寡聞によると、SoundCloudは、誰かが「コピーライト違反」だと数回投稿すると削除されるらしい。が、その場合は、警告のメールが来るが、わたしの場合は何の警告もなかった。それに、そもそもわたしはコピーライト違反を一切していない。耳で聴いて内容のわかる信号つまり放送波や官公庁の業務通信といったものはすべてはずしていた。いまのわたしのradioartは、「内容」のアートではなくて「形式」のアートだ。

しかし、と知り合いは言った――軍事や秘密通信の信号を知らずに使った可能性はあるんじゃない? まあ、たしかに、VLFからSHFぐらいまでの広範囲の周波数をスキャンしながら特定の「混信」や「スプリアス」や「空電」を取り出して音にするわけだから、そのなかに軍事やスパイの暗号通信の一部が紛れ込まないとはいえない。不本意に「公開」された方としては、もともと秘密の通信だから、正面切ってこちらに抗議するわけにはいかない。だから、いきなりサイト自体をハックしてデータを消してしまう。なるほど、それはありえる。

サイトの説明によると、SoundCloudのサーバーはドイツにあるらしい。ということはドイツ的なやり方で管理されているサーバーだと思っていいだろう。ドイツ式というのは、決めたことを簡単には撤回しないことが特徴だ。事実、サポートに連絡はしたが、返事はなかった。官僚制と真正面からつきあったら、カフカの短篇「掟の前で」の「田舎から来た男」のやり方では無理で、一生涯待つことになる。それは、ごめんだ。

あの「田舎から来た男」はどうすればよかったのか? そう、門番の脅しを無視して、強引に闖入(ちんにゅう)してしまうか、さっさとその場を去ればよかったのだ。

SoundCloudの場合は、アカウントを新たにするという手がある。それでいいじゃないか。ただし、官僚制の模範のようなこのサイトは、バックアップ機能なんかはない。元にもどしたければ、自分のバックアップを1本1本アップロードしなおさなければならない。むろん、細部までは復元できない。

官僚制には屈したくないから、やりました。165本のファイルを一個一個アップしなおしました。おかげで、ふだんは聴きなおさない音を聴き、取捨選択することが出来た。とはいえ、そのつどのリスナーの反応やコメントはすべて消えたから、このサイトの時間性は完全に失われてしまった。

一回性の時間のアート

わたしは、依然として、深夜の街の徘徊しているが、そのノッペリとした無時間的な退屈さにはうんざりする。そんな思いの一片を最近、 ネット雑誌の『うえの』に書く機会があったが、「無時間的」と感じるのは、街自体の問題であることはたしかだとしても、こちらの感覚の衰えのせいでもある。アキシデントはないよりはあったほうがいい。「SoundCloud事件」は、その意味で、惰性化したわたしの「radioartパフォーマンス」に一瞬、活を入れてくれた。

かねがねわたしは、「radioart」は「radio art」とはちがう、radioartはradiation-artつまり電波の発生機の状態に関わることなんだと主張しつづけている。とすれば、(事情はどうあれ)消されたものを復活するなんてことは、そういう一回性の思想に反するのではないか?

というわけで、今回、新たに「One-time Oscillation of Airwaves」(電波の一回的な時間の振幅)というサイトを作った。

新たに作ったサイトは、一応、過去のデータは残すとしても、より一層一回性の方向を強調する意味で、表題を変えたのである。そして、そのついでに今後は、「radioart」もやめ、「airwaves-art」をなるべく使うようにすることにした。またしても、パチンコ屋の「新装開店」とかわりばえのしないやり方だが、それが好きなのだからしかたがない。

ドゥルーズの「同素的」振動

すでにSoundCloudの消されたサイトでも表題の下に「Sensation is vibration.」という文言を載せていたが、これは、言うまでもなく、ジル・ドゥルーズが『感覚の論理』のなかで言っている"La sensation est vibration" (Francis Bacon, Logique de la sensation, p.47)の英訳である。この意味は、「感覚というものは振動だ」ということだが、その前文で、"clle n'a qu'une réalité intensive qui ne détermine plus en elle des données représentatives, mais des variations allotropiques. La sen- sation est vibration."と言っているように、"variations allotropique" (同素体的変異)が起こることが感覚であるということにほかならない。

同素体というのは、「同じ元素から構成されるが、化学的・物理的性質が異なる」同一元素の状態を言うそうだが、わたしが「電波アート」( airawaves-art)として目下発信中の音は、すべてうわべは「反復」だが、まさにドゥルーズがいみじくも言った「同素体的」「反復」である。わたしは、理論を具体化するためにパフォーマンスをやっているわけではなく、理論はやっていることを反省・顕在化させる意味しか持たないと思うが、「感覚は振動」という言葉は、自分が直感的にやっていることを顕在化してくれる。

ドゥルーズの「反復」と振動・発振

そうこうするうちに、数日前、ライプチッヒのFからいきなり10ページほどのドイツ語論文が届いた。Fは大分まえから「スキゾラジオ」(Schizoradio)という観点からラジオ運動やラジオパフォーマンスにアプローチしようとしており、書いたものをどんどん送りつけてくる。相手は本気であり、テーマがラジオとあれば、感想を返さないわけにはいかないから、昨年、博士論文の下書きを送ってきたときには、詳細なコメントだらけのPDFを返した。その後は、疲れるので、そのときほどのヘヴィーな感想は送っていないが、今回のは、久しぶりに、詳読してコメントしたい内容のものだった。というより、こちらをインスパイアーしてくれる思考が表現されていた。

読書や視聴の創造性は、「あるがまま」に受け取った(まさにドゥルーズの先の引用で言っている「表象的所与」(des données représentatives)からではなく、思い切りブッ飛んだ「同素体的」「反復」のなかにある。つまり、そのテキストとの「振動」と周波数的「共鳴」が起こるかどうかである。

Fの今度の論文を読んでインスパイアーされたのは、ドゥルーズの『差異と反復』の「反復」は、「振動」と読みかえられるだろうということだった。Fはそうは書いてはいないが、『差異と反復』の「序論」の「反復と差異」へのFの引用的言及が、わたしにこの章の再読をうながし、その結果として、わたしは、そう確信したのだ。

まえまえから、『差異と反復』では、「差異」と「反復」という2つの概念の拡大と同時に、「差異」においては、ハイデッガーの「同一性と差異性」、「反復」においては、やはりハイデッガーのニーチェ論の「回帰」や「循環」や「円環」のが概念が暗黙に意識されていることはわかっていたが、今回、「序論」を詳読して、反復・同素体的変異・振動を相互補完的な概念と考えてよいということがわかった。

そういえば、ドゥルーズは、この本の他所で"oscillation"という言葉を使っており、翻訳では「揺れ動き」などと訳されているが、単にそれだけではなく、まさに「同素体的」な揺れ動きを含意しており、逆にここから、電磁波のオッシレイション(発振)が単なる「反復」ではなく、「同素体的」な「反復」であり、さらには、ドゥルーズにとって欠くことの出来ない思想家であったニーチェの「永劫回帰」も、たんなる同じ所与の反復ではなく、まさに「同素体的」な反復として解釈されるべきことがはっきりする。むろん、ハイデッガーは「出来事」という概念で同じことを言ったし、フッサールは、(ニーチェの名を挙げずに)「生ける、流れる現在」という時間論としてが同じことを展開してはいるが、彼らからは、ドゥルーズがガタリとともに概念化した、スキゾ人から演劇、戦争、歴史そして時間性の「反復」への視野はスリリングには出てはこないのだった。

米大統領選挙 Again

何年つきあわせるんだ? これじゃ、面白すぎて映画にもどれないじゃないか、と言いたくなる状況があいかわらずトランプをめぐって続いている。2024年の大統領選へむかっての動きがいよいよ加速しはじめ、その一方で、スミス特別捜査官による、機密文書の不法所持での「スパイ防止法」的容疑の取り調べが大詰めをむかえ、「トランプ、今週逮捕」なんて見出しが踊る。今週はあと2日しかないが、そうなのか?

ウォーターゲイト事件の検察官だったジル・ワイン=バンクス(Jill Wine-Banks)は, 「トランプはもうアウチよ」('I Think He's Toast')と言っている。が、トランプ自身は、獄中からでも選挙に勝つつもりだ。トランプがふたたび大統領になれば、大統領なんて事務能力や人格なんかはどうでもいい、名前が突出した人物が「象徴」として存在していればいいということが証明され、つまりは近代国家という概念の形骸化がはっきりする。それは、それでいいじゃないか。

トランプはすでに起訴されていた!(追記)

なんと、トランプは、機密文書の不法所持容疑で、すでに起訴されていることがわかった。

ちょうど上の文章をアップした直後の(現地時間の)6月8日木曜日に司法省はトランプを起訴したという。そのニュースソースは、トランプ自身が、目下ご執心のTruth Socialで「告白」した。むろん、彼は、これを「史上最大の魔女狩り」として抗議し、トランピストの同情を煽って2024年の大統領選の支持と資金を集めることをねらっている。もし大統領に再選されれば、この起訴を、他の起訴とともに、すべて帳消しにできる権力を持てる――という期待もトランプにはある。

この起訴は、その意味で、トランプとトランプ主義者たちにとっては、絶好のチャンスでもあるわけだ。反トランプ主義者は、単純に喜んではいられない。

トランプは、現地時間の6月13日火曜日に出廷しなければならないとのことなので、司法省は、いずれトランプの今回の起訴を公にして、説明することになるだろうが、こういう情報が、個人のSNSから、そして自己顕示欲の塊の人物から最初に発信されるということ自体が、いまのメディア状況の独異性をあらわにしている。

すでに、各メディア(「フェイクメディア」)が短評を載せ始めている(例えばCNNBBC)が、今後の動向が楽しみだ。(日本時間 6/9、 6pm、追記)