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粉川哲夫の雑日記」


戦争の記憶

haptic criticism 毎年この時期になると、「戦争を経験した」あるいは戦争を知っているという老人たちの回顧話が新聞やテレビに登場する。まだ、登場するだけいいのかもしれないが、実際問題としては、こういう話は、〝戦争を再び起こさない〟という意味では全然役立たないのではないかと思う。

そういう回顧話には、イタリアの未来派のような「戦争は美しい」などという戦争礼賛は出てこない。あれば逆に、反発するひとたちが増えて、反戦意識が高まるかもしれない。が、話の大半は、戦争がいかに悲惨であったか、非人道的であったかが語られる。

しかし、戦争というものは、そもそも、人間なんて(自分以外は)滅んでもいいと思う者が企画するのであり、戦争を遂行する者は、1万人死んでもXX人は生きられるといった冷徹な計算が出来る者だ。こういう輩に向かって、いくら「戦争の悲惨さ」を訴えても、まったく効果がないどころか、かえって自分のやっていることが「正しく」機能しているという自信をあたえてしまうだろう。

「戦争を経験した世代」がいなくなると、戦争の悲惨さが忘れられ、人びとは平気で戦争をはじめてしまうという定番の「反戦」プロトコールがあるが、戦争を一番忘れないのは、戦争の遂行者であり、好戦的な人物のほうである。実際、これまでの大きな戦争を詳細に総括し、活かしてきたのはそういう連中であって、「反戦論者」ではなかった。ただし、彼や彼女らの目的は、反戦のためでないことは言うまでもなく、ひたすら「次の戦争で同じ過ちを犯さない」ためである。そう、戦争をやめる気など毛頭ないのである。

そもそも、戦争が起こると、そこでは大きなテクノロジーの消費と再開発が起こり、その戦争がとりあえず終わると、その「成果」の詳細な分析が行われ、それが、次の戦争に対してだけでなく、企業活動や管理組織のノウハウとして応用されるようになる。

戦争に反対して文章を書いたり、デモをしたりする者たちは、とてもこのような組織的な「反省活動」には太刀打ちできない。だから、これまでくりかえし「戦争の悲惨さ」や戦争の不条理性(ばかばかしさ)が語られてきたにもかかわらず、(つまり、誰も戦争を忘れたわけではないのに)時をおかずに次の戦争が起こされてきたのだ。

日本が、この70年間、公的には一度も「血を流す戦争」に加担しなかったのは、日本の権力者が反戦的であったからではない。人道主義であったからでもない。経済的・政治的な差異が明白な〝植民地〟的なテリトリーがなかったためにすぎなく、生身の人間を殺してまでも整理統合する必要がなかったからである。

ただし、その代わり、情報やテクノロジーのレベルでの戦争には深く介入し、その度合いはますます強まっている。戦争のトレンドは、「血を流す戦争」から「血を流さない戦争」へと移行する度合いが高まっているから、その意味では、日本は、とうの昔に「戦争が出来る国」どころか、戦争をしている国になっている。しかも、その戦場は、われわれの職場と日常生活の場に拡大しており、戦争の単位が、爆弾で破壊されるような規模から、レーザーメスでカットするようなミクロなレベルに微細化しれいる。

こういう状況のなかでは、「戦争の悲惨な記憶」をヒステリックな感情で煽り立てても、戦争遂行者たちの〝冷徹〟な記憶整理のまえで色をうしなってしまう。

必要なのは、別の質の記憶だろう。それは、「脳」の記憶ではなく、傳田光洋(『皮膚は考える』、『皮膚感覚と人間の心』、『驚きの皮膚』等)が新たな光を照射した「皮膚」の記憶である。中心を持つ、すべてを組織化し、中央集権化する「脳」のやりかたでの記憶をいくら組織しても、それは軍事にしか役立たない。戦争を越えるには、「皮膚」のミクロで、トランスローカルで、個別=全体的な記憶を「老人の回想」とは別のスタイルで展開しなければならない。

老人の回顧話よりも、幼児や少年少女がモバイルやゲーム機のスクリーンをタッチする皮膚感覚が戦争から何を引き継いでいるか、それをどう越えられるかだ。指を命令(マニュアル)通りに動かす「皮膚感覚」は、必ずまた戦争を起こすだろう。

(2015/08/15)
安保とサイバーセキュリティ

obama-cybersecurity 安保関連法案についての議論がさかんだが、「安保」の英語がSecurityであることがわすれられている。英語の得意なひとでも、"The U.S.-Japan Security Treaty"とか"The U.S.-Japan Security Alliance"の英文の"Security"をあたまのなかで「安全保障」と訳しているのだと思う。そのため、旧安保条約も今度の安保関連法案も、いずれも、「安全」が核心にあるかのような印象で受けとめられてしまう。

しかし、これは、たいへんあぶない先入観である。なぜなら、英語のSecurityは、もはや「安全」とは無関係とは言わないまでも、決して安全を保障するものではないからだ。

Securityという概念自身が変わってしまった。かつては、"security gard"といえば、ガードマン、つまり誰かの身に危険が迫ったときにその安全を守るためのひとだった。しかし、いまのガードマンは、その存在によって周囲を威嚇し、それによってつかのまの「安全」を守ろうとするが、その安全には何の保障もないのである。

話は、コンピュータのことを考えたほうが早いだろう。コンピュータシステムの「セキュリティ」とは、「不法侵入」を防ぐのではなく、システムに「侵入」してきたら「抹殺」してしまうことがのぞましいような条件をしつらえることである。つまり、戦争状態を開始することだ。

最近、『図書新聞』(2015年8月8日号、発売は今日)に、「『安保』とは、平和概念ではなく、戦争概念である」というタイトルの文章を書くはめになったが、そのおかげで、「安保」とセキュリティの関係について考える機会が得られた。

2012年ぐらいから、日米両国のあいだで、役人やシンクタンクのアナリストらの行き来が激しくなり、安倍/オバマ会談以来、アメリカのマスメディアで「安保」の記事がにぎわっている。その際、当然、「北朝鮮のネットへの不法侵入」といった狭義の「サイバーセキュリティ」が話題になったわけだが、わたしが、おやっと思ったのは、アメリカ側が「新たなセキュリティ同盟」と言う場合、その「セキュリティ」は、従来の「防衛」的なセキュリティではなくて、サイバースペースでのセキュリティを指しているということだった。

日本では、「安保」問題は、憲法違反とか、「戦争ができる国」への転換が問題になっているが、アメリカ側からすると、セキュリティという概念をサイバーセキュリティとして底上げし、こちらのほうから世界戦略を考え、その概念を日本にも認めろということなのだ。実際、「新同盟」を「Cybersecurity Alliance」と表現する場合もある。

日本の政治家がホンネを吐かなのか、ほんとうにわかっていないのかは不明だが、すくなくとも頭の冴えた官僚レベルでは、安保関連法案をサイバーセキュリティでまとめあげようという合意がなされているはずだ。安倍・オバマ会談では、その合意の確認がなされた。

安倍内閣は、憲法の改正をしないと言っているのは、その必要がないからである。そもそも、長期にわたって憲法を無視してきた日本の政権は、憲法など改正しなくてもなんでもできるという傲慢な確信を持っている。それに、憲法を改正したら、長きにわたって憲法を無視してきた「伝統」を守れなくなり、途方に暮れることがわかっている。

それは、ともかく、サイバーセキュリティは、「血をながさない戦争」をも戦争とみなし、現状況を戦争状態と考えるから、通常、考えられている「戦争」を持ち出す必要がない。逆に、そういう「血を流す戦争」(ちなみに、こういう2つの区別をしたのは毛沢東だった)は、サイバーセキュリティ下の〝短期的な特殊状態〟とみなし、現在の日本国憲法のもとでも、「憲法違反にはならない」という勝手な解釈がなりたってしまう。なかなかうまいことを考えたものだ。

そういえば、サイバーセキュリティという発想は、ドナルド・レーガンの「スター・ウォーズ計画」ではまだ漫画的なスケッチだったが、湾岸戦争以来、アメリカの「侵略」を侵略ではなくするキーコンセプトになっていった。そのあたりからこの概念と今日の戦争について再検討してみる必要がある。サイバーセキュリティは、もやはネットの「不法侵入」などの問題にはつきないのだ。

(2015/08/01)