「シネマノート」  「雑日記」


2011年07月20日 (1:20am) JST

「アナログ放送終了まであとX日!」

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テレビはほとんど見ないが、たまに点けると「アナログ放送終了まであと・・日!」という文字(CMの出るときだけは消える)が、画面の三分の一あまりを占めているのが見える。これが、すでに始まっているデジタル放送のほうにはないのだから、アナログ放送の視聴者などものの数に数えていないということを意味する。


この表示を視聴料を取るNHKまで出しているのだから、視聴者は1年以上もテレビを半端の状態で見せられてきたわけである。いまの時点でどの程度の人数がアナログ放送を見ているのかわからないが、こんな侮辱をうけるほど例外的な少数者ではあるまい。それに、少数者というものを大切にするのが民主主義だとすれば、いまの表示は言語道断である。


しかし、その不満を新聞が批判するのは見たことがないし、反対デモが起こったという話も聞かない。わたしが知らないだけかもしれないが、とにかく批判はテレビ局には全く反映されないままここまで来てしまった。日本には、批判がそっくり吸収されてしまうブラックホールのようなものがあるのだろうか? 福島の原発事故で暴露したことは、国家、東電、マスコミ、学会(原発推進の御用学者たちや研究施設)の「陰謀」があるということだった。誰かが細かいシナリオを書いて実行される陰謀ではなく、マスゲームのように自動的に進行してしまう陰謀だ。食物の放射能汚染をマスコミが報道せざるをえない状態になっても、世の中は驚くべき「沈静」さを保っている。メルトダウンしたリアクターの地下の土層への放射能漏れの問題も、マスメディアでは忘れ去られようとしている。


これは、「悪者」がいて計画を立て、実行する陰謀より始末が悪い。なぜなら、こちらは、その「悪者」を捕まえて懲らしめるということができないからである。つまりこの「陰謀」は、電気を使っている人間ひとりひとりまでまきこんでいるので始末が悪い。


国民の多くがあまり気にしないあいだに原発が54基も敷設されてしまった背景には、明らかに陰謀があった。それについては、佐野眞一の『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』という先駆的な著作で書きつくされている。


ただし、日本の場合は、陰謀が成功すると、いつの間にか、その責任者の姿が見えなくなり、元凶の究明や告発がほとんど出来なくなるという特徴がある。ここがアメリカなどとは大分違う。アメリカは、依然、5%以内の特権者が他の95%をコントロールする帝国である。だから、その5%のなかではたえず権力闘争が起こり、下克上がくりかえされる。


これは、資本主義にとっては「あたりまえ」の事態である。資本主義システムとは、極少の人間が支配し、大多数は無力であることを理念とするシステムだからである。キャピタリズムの「キャピタル」つまり頭があれば、胴はなくてもよいというシステムである。


とはいえ、多数を黙らせるにはテクニックがいるわけで、それをメディアや電子装置を使って行使するのが情報資本主義である。20世紀以後、「先進」資本主義は、大多数の者があまり「がんばらないこと」を求める。「がんばる」気力があったら、レジャーやスポーツで余力を消費し、余計なことをしないでほしいというわけだ。実際には、とはいえ、なかなかそれがうまく作動せず、「大衆」の「反乱」や「造反」が頻発する。


アナログ放送からデジタル放送への移行も、そうしたテクニックをグレイドアップする手続きの一つであるが、それによって支配がよりやりやすくなるという保証はない。デジタルテレビやアダプターを買い急ぐ人もいるが、放置状態の人も少なからずいるはずで、アナログテレビ放送終了の7月24日以後が見ものである。


ところが、日本には、先進的なメディアや電子装置以前に、大多数を黙らせ、無力にしてしまうすぐれた装置があり、極少数の特権者の勝手を思いのままに具体化するのが容易なのだ。その意味では、恐ろしくすんなりと「移行」が進んでしまうかもしれない。しかも、その特権者=支配者の姿をすっぽり隠してしまう闇が用意されている。この闇とは何か? ロラン・バルトが「空虚の中心」と言った天皇制のことが思い浮かぶ。なるほど、天皇制的資本主義は、資本主義の「理想」形態で、今回のような普通なら致命的なことが室テムの存続にはこたえないのである。が、本当にそうか?