「シネマノート」  「雑日記」


◎福島原発事故関連

●くりかえされる原発の問題   ●福島チェリノブイリ   ●どっちが正しいの?   ●マスメディアはいらない   ●恐怖の教訓   ●メルトダウン以後   ●テレビ汚染   ●ジョゼフ・エーマン の「謎」   ●五里霧中   ●ウラニウム価格の暴落   ●「・・と聞いています」   ●ガイガーカウンター   ●「基本」を言い続けること   ●福島とスリーマイル島との違い   ●原発依存症   ●ドイツ選挙のインパクト   ●ウインドスケールの事故   ●「善悪の彼岸」の笑み   ●ドイツからのブーメラン   ●「米軍の援助拒否」   ●放射能汚染の浄化   ●「再処理」ビジネス   ●「壮大」なシナリオの破産   ●「コラテラル」な犠牲はたくさんだ   ●トニー・バレル   ●流言蜚語   ●「ウィンズケール」?   ●制服文化ないしは制服商売   ●身代わりの速度   ●「凌原発」?   ●歌人の機能   ●地獄のサイクル   ●テクノロジーとの「心中」   ●「核」は見えなかった   ●放射性廃棄物の行方  


2011年03月31日 (10:56 am) JST

「コラテラル」な犠牲はたくさんだ

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終わりにすると書いたが、マスコミ批判から始めたシリーズなので、マスコミ批判でしめておきたい。というのも、今朝、「地球環境を救え」キャンペーンの背後に原発のグローバルな推進という野望があることを書いたあと、息抜きにテレビをつけたら、みのもんたが、福島原発の現場で処理に当たっている職員への「感謝」を強制するかのような含みがみえみえのパフォーマンスをしているのに気づいた。

テレビには、「同情の強制」という技法がある。悲劇的な事故が起こったとき、情緒過剰な「同情」表現をして視聴者を泣かせるという方法である。基本は、泣かせの映画技法を踏襲したものであり、「技法」として意識されていなくても、一般受けするテレビや映画が自然にやってしまうありがちなパターンである。無視するより同情するほうがいいという意見もあろうが、涙を流して終わりという同情ならしないほうがいい。

この手の「同情」は、本当に共感し共有すべきことを忘れさせるだけではなく、もう一つ、同情されるべき不幸を生み出した責任者にとって好都合な機能をも発揮する。同情すべき相手をずらすことによって、悲劇や不幸を相対化してしまう機能だ。今回のような災害と事故では、誰が「一番大変」かなどということは言えない。とりわけ福島原発の事故は、今後も広がりうる範囲の人間をまきこんでいる。だから、このような事態のなかで、「一番大変なのは現場の人ですよ」などと言われると、ちょっと待てと言いたくなる。地震が引き金を引いたとしても、設計・認可・運営のレベルでの甘さと身勝手による人災という面を否定できないから、その責任が会社やその職員にかぶってくるのは論理的にはあたりまえである――というだけではない。現場の人間が大変なことは誰でも承知している。放射能の危険がその外部の人間よりも高いことも十々わかる。危険でないなどとは誰も言えない。が、問題は、それを報道するテレビの姿勢と視点である。

今回の事故で原発の職員や自衛隊が「命をかけている」ということをテレビが一斉コーラスで言うのは、この事故で致命的な被害を受けて野菜を破棄しなければならなかった農家や退避を余儀なくされた周辺住民の被害を相対化することにもなる。古い話では、戦中、「兵隊さんが命をかけている」と言って国民に犠牲を強いた歴史があるが、いまの時代なら、「コラテラル」(collateral) という(もともとは軍の)言葉を思い起こせば、事情がわかりやすいかもしれない。

「コラテラル」という言葉は、映画の『コラテラル・ダメージ』(1993) や『コラテラル』(2004) で浸透している。ただ、これも日本のマスメディのせいにもなるが、原題を片仮名にしただけなのでその意味がさっぱりわからないまま浸透しており、若干の説明が必要かもしれない。この語は、日本語では「副次的」とか「付随的」とか訳される。もっと簡単に言えば、「しょうがない」である。

『コラテラル・ダメージ』では、「ゲリラ」の「テロ」で妻子を殺された男(アーノルド・シュワルツェネッガー)が、警察から彼女らの死は「コラテラル」だと言われて怒り、ゲリラを探しあてて復讐をする。ここでは復讐がテーマだが、タイトル自身は、ハイジャックされた300人の飛行機の乗員を救うために警察が突撃を敢行して1名が犠牲になったときにその犠牲を「付随的犠牲」と言うようなときの合理化の矛盾を示唆してはいる。

これが『コラテラル』になると、さすがマイケル・マンで、たとえ1名であっても犠牲は犠牲であり、「付随的」や「副次的」というのはおかしいではないかという異議を含ませる。この映画についてはすでに書いたが、マシーンのように計画に従って着々と殺しのビジネスを遂行する殺し屋(トム・クルーズ)が、関係のない者を平気で殺す理不尽さが異化されている。マイケル・マンが「コラテラル」というタイトルを付けた筐底には、「アンチテロリズム」と称して市民に理不尽な犠牲を強いることを平気で始めたブッシュ政権への批判があった。

地震の被害は不可避だったとしても、福島原発の事故も不可避だとするのは韜晦だ。まして、そのうえ、放射能汚染の被害を「コラテラル」(付随的)な被害だとされたら、誰でもが怒るだろう。が、いまテレビが現場のひとたちの「犠牲的努力」を強調することは、暗黙にそれ以外の人たちの被害を「コラテラル」な犠牲として「しかたがない」「あきらめてくれ」と言っているようなものなのだ。それを現場の人間から言われるのならともかく、テレビには言われたくない。



2011年03月31日 (5:32 am) JST

「壮大」なシナリオの破産

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この20日間、福島の原発事故にというよりも、事故にとって本質的なことを表現しないマスコミへのもどかしさから、「批評」的な言語パフォーマンスをやってきた。が、そろそろやめようと思う。「雑日記」が「批評」に占拠されてしまった。これでは「雑日記」らしくない。そろそろマスコミでも本格的な分析が出るだろう。そう願いたいものだが、最後に (I hope!) 重要なことを書いておきたい。それは、この10年加速に加速を加えている「地球温暖化防止」キャンペーンは、その発想自体とは逆に、原発推進の役割を担ってきたのではないかということである

MIT が2003年に出し、影響のあったリポート『原子力の未来』(The Future of Nuclear Power) は、原子力の技術的・経済的・政治的な射程を考察した「インターディシプリナリー」な研究であるが、そのなかで、原子力を発展させるためには、「可能なかぎり大規模な発展」でなければならないということが強調されている。そして、それこそが、「地球規模」の温暖化防止と安全な運用と「パブリック(一般大衆)の支持を得る必要条件」だということが主張されている。これは、これまで「地球環境保護」の名のもとに進められてきた「壮大なキャンペーン」の見事なシナリオである。が、それは、いまや、福島原発の事故とともに破産した。

原子力が低CO2のエネルギーであることはよくいわれるが、このリポートは、既存エネルギーを「大幅に」、かつ「大規模に」原子力に転換することによって高い効率で温暖化防止を進めることができるという。たしかに理論的にはそうかもしれない。が、温暖化以上の人類的危機を招く可能性をもつ原子力を「大規模に」開発することで温暖化を防止するというのは、狂った論理である。

70年代に謳い文句だった「スモール・イズ・ビューティフル」は、いつのまにかどこかに消え、今度は、「地球にやさしい」とか「地球温暖化」とかいうように、大きなサイズのことばかりが気になる時代になった。環境問題といいながら、原子力は「クリーンなエネルギー」だということになり、その恐るべき環境破壊機能は不問に付された。「人類」のためだと称し、いまここで生きている人間を犠牲にすることが見えなくされた。

原子力の潜在的な危険性は、国々がグローバルに協力すれば解決されると称し、地球規模の管理を徹底させる方向が促進されたが、その結果うまれるのは、地球規模で個々人が日常生活のすみずみまで、いや、脳細胞の隅々まで監視とコントロールのテクノロジーのがんじがらめになったウルトラ・セキュリティ社会(アメリカの「ホームランド・セキュリティ」はそれを先取りしたものだ)である。

原子力の危険性と一体にならざるをえない超高度のセキュリティシステムは、いまわれわれが20日間も(そして今後何ヶ月も)味わっている不安といらだちのようなものを一切感じさせないはずだが、それは、われわれが忘却するからであり、韜晦されるからである。だが、そのようなシステムはまだ実現していないし、実現しないだろう。原子力のシステムと同様に、どこかで破綻を起こすだろう。ただし、いまわれわれが味わっている先が見えない日常のかぎりなき延長がだらだらと続くというパターンは、原発事故以外でも生じうるものであり、今後の「新しい」管理方法になるかもしれない。

*写真は、nuclear-news から勝手にいただいたものだが、グローバルな原子力ビジネスとわたしが呼んだものを「豚」が食っているものの一つに「the arts」も入っているのは、辛辣である。ほかには定冠詞は付いていないのに、アートだけ付いているのも、意味深だ。



2011年03月30日 (5:15 am) JST

「再処理」ビジネス

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福島の件で政府がアメリカの「援助」を「断った」ということが、いかに馬鹿げた風聞にすぎないかは、核燃料がアメリカを中心にしたグローバルな「国際協力」によって強権的に管理されているかを考えればすぐわかる。もし、何らかの意味でのつばぜり合いがあったとすれば、それは、先に書いたようなテクニカルなレベルでのことにすぎない。大枠は、極めて複合国家的に動いているのだ。

1988年に締結された「日米原子力協定」(有効期限は2018年)によって、日本は、原発の「使用済燃料」を「再処理」して、そこからウラニウムやプルトニウムを取り出したり、「MOX燃料」を作ることが許可された。ここから、独立行政法人日本原子力研究開発機構や六ヶ所村のような再処理工場を増やそうとする動きが加熱する。

「再処理」が出来るということは、理論的には、核兵器を作ることができるということだが、そこを「協定」はがっちりと規制する。しかし、そういう危険を犯してもアメリカが他国に核燃料の「再処理」を許すには、自国でそれがしきれなくなっていることもあるが、「再処理」ということが、「世界平和」をギャンブル原理として複合国家管理できる極めて効率のいい真のグローバルビジネスを展開できるからである。

ところで、「再処理」の「使用済燃料」も、またそこから作られた「MOX燃料」も、どちらも運搬の際、つねに放射能事故の危険をはらむ。だから、いつの日か、この分野でも、これまでの「常識」では考えられない「想定外」の事故が起こらないとはいえない。



2011年03月29日 (4:55 am) JST

放射能汚染の浄化

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福島原発から漏れた放射能が東京都内の飲料水まで汚染しはじめたというので、汚染された水を浄化する方法への関心が高まっている。「質問サイト」(英語)でも、例によって知ったかぶり居士(こじ)が、「蒸留すればよい」などと答え、「ばかなことを言うな」と反論されたりもしている。放射能に汚染された水から化学的な方法で放射能物質を分離することはできず、トリチウムならば、「枯れる」まで12年以上待たなければならず、千分の1パーセント以下になるには100年以上かかるという。

その話は何度も聞いていたが、浄化の可能性はないものかとおもってネットサーフィンをしてみたら、放射能汚染浄化の専門会社がアメリカにあることを知った。その名は、Nuclear Solutions Inc. 。その「ホーム」は、なぜか「工事中」だっがが、株価のほうは、福島原発の事故の期に急上昇している。なるほど、福島原発周辺の人々の恐怖を代償にするかのようなビジネスも存在するのである。

NS Inc.は、「GHR」という、化学的なフィルタリングで放射能物質を抽出するこの技術の権利をイスラエルの Institute for Industrial Mathematics, Incから取得したという。そうか、これもイスラエルか。GHRは、もともと核戦争で汚染された状況を想定した研究の成果であり、イスラエルは、核戦争後に生き残る技術をちゃんと開発していたわけである。



2011年03月28日 (11:20 pm) JST

「米軍の援助拒否」

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特別の情報を持っているわけではない。すでにちゃんと報道されているのかもしれない。が、依然として、世間の雑談レベルでは、「政府は米軍の援助を拒否したそうですね」ということがまことしやかに語られている。今日会った知り合いも福島原発の事故の話になったら、その話をした。

しかし、わたしは、それはありえないと思う。といって、わたしは政府を擁護する気はない。この間の政府の対応はあまりに杜撰である。ただ、「政府が米軍の援助を断った」というようなことで政府を批判しようと思っても、それは全然批判にならないし、むしろ、足をすくわれてしまうのではないかと思うのだ。対応はダメでも政府は政府だし、その政府は政府の思惑だけで動いているわけではない。政府の「歯がゆい」対応も、どこかで軍事機密とつながっている原発だから、機密情報の遺漏を恐れるアメリカの牽制の結果であるということもないわけではなかろう。

もし「米軍の援助を断った」とすれば、それは、政府ではなく、東電や原発メイカー(GE、東芝、日立など)の可能性がある。GE (General Electric Co) は、アメリカの軍事企業だから、米軍の援助をすぐ受け入れるのではないかと思うかもしれないが、話はそう簡単ではない。わたしは、映画的な知識しかないが、アメリカにおける民間企業と軍との関係は複雑である。軍事企業とて(いや、だからこそ)軍の言いなりにはならない。そんなことをしたら、あとでたたることもあるからだ。企業には、商売上、軍にも明かせない機密事項もある。いや、大ありだ。

そもそも「米軍の援助」とは何か? 米軍なら原発の事故を処理できるのか? 事故があった場合、GEの関係者が急遽来日し、その専門家が処理に当たったはずである。そのへんのスクープは、タレントでは妙技を発揮するマスコミも、だんまりを決め込んでいる。これこそ、なにか陰謀があるのではないか? いずれにせよ、当面、リアクターの事故処理は超専門レベルの者しか手を出せないはずだから、米軍に出来ることはないはずなのだ。

ウインドスケールの事故でもスリーマイル島の事故でも、事故への対応には専門の科学者が当たり、科学者から(時間操作はあったとしても)専門的な説明があった。福島原発の事故では、科学者はもっぱらテレビの解説者としてしか登場していない。しかも、その科学者たちも、どうやら思っていることをストレートには言っていないようだ。




2011年03月28日 (5:06 am) JST

ドイツからのブーメラン

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ひとつ仕事を終えて、Yahooのドイツサイトを開いたら、バーデン=ヴュルテンベルク州の選挙緑の党が第一党に選ばれたニュースが掲載されていた。アップされてまだ時間がたっていない。予想されたことだが、福島原発事故が世界にあたえたプラスのインパクトである。

これによって、今後、ドイツの連邦議会のパワー関係が変るだけでなく、ヨーロッパ全体の原発政策に大きな影響が出るだろう。敗北したドイツキリスト教民主同盟(CDU) の関係者は、原発への意識変化があたえたこの影響を「深刻に受け止め、深く詳細に検討する」と述べたとのことだ。

この選挙の結果がこれから日本のマスメディアでどのように報じられるかが、原発への体制側の意識をずばり示すことになるだろう。民主党が、これを深く深刻に受けとめならなければならないのはいうまでもない。



2011年03月27日 (5:54 am) JST

「善悪の彼岸」の笑み

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BBCの「ウインドスケール:英国最大の核惨事 」には、「ウインドスケール」の創設者の一人で、1957年の事故後、「事故調査委員会」の委員長(マッチポンプ?)をつとめたウィリアム・ペニー (William Penney) の記者会見のシーンが出てくる。それを見て、思い出したのは、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』でピーター・セラーズが鬼気せまる演技をしたドクター・ストレンジラブの笑いだった。この人物のなかには、ヒットラーのパロディー化されたイメージも入っているが、マッドサイエンティストとしてのあの表情のモデルの一部に、ウィリアム・ペニーが取り入れられているのではないか?

「ウインドスケール」は、1947年にイギリスが独力で原子爆弾(次には水素爆弾)を作るために創設された軍事施設である。「独力」でというのは、冷戦を利用した「軍拡」のヨーロッパにおける地盤をより強化するために米国をよき競争相手にするというということである。そもそもペニーは、広島・長崎に落とされた原爆の開発にも関わっている。彼は天才であり、「ウインドスケール」で最初は原爆のためのプルトニウムを、次には水爆のためのトリティアムを効率よく生産するシステムを作り上げた。

その笑顔には、「善悪」が存在する「こちら側の世界」(此岸)のことは全く頭にない幼児のような「爽やかさ」がある。が、幼児が母親の手のなかで笑っていられるように、彼の幼児性は、軍核を進めようとするチャーチルやマクミランやアイゼンハワーの手のなかで維持されたのであり、アドルノとホルクハイマーが言った「道具的理性」の模範児童にすぎなかった。

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道具的理性は、理性自身によって「腐食」される。「理性の腐食」である。「ウインドスケール」は、高まる「ソ連脅威」(そういう形での核・権力・マクロ経済の拡大――戦争ほど儲かるものはない?)をバネ(表向きは「危機」)にして水爆の原料生産を加速させた。1957年10月4日のソ連によるスプートニク打上は、そういう方向をさらに推し進める格好の事件だった。

ところが、その一週間後に「ウインドスケール」でリアクターの加熱事故が起きる。システムは制御不能になり、煙突から放射能がばらまかれた。翌日の10月11日にようやく公表された事故は、政府によると「放射能汚染の危険はない」とのことだった。にもかかわらず、周辺の牧場から採れる牛乳が廃棄され、しかも、最初14マイル(約22キロ)四方だった指定区域が、3日後には200マイル(320キロ)にまで拡大された。これだと、ロンドンも汚染区域に入る。

「ウインドスケール」の事故は1957年だが、それまでに10年間も核の処理をやってきた。400フィートの高さがある煙突から放射能を帯びた塵と煙が長期間ばらまかれていたことは確かのようだ。当時の最新の建築技術を動員して建てられ、ここに勤めることが憧れともなった「アトミック・カルチャー」の伽藍は、1957年10月10日の事故によって死の獄舎であることを暴露した。なお、事故原因を調査したウィリアム・ペニーの結論は、現場職員の「判断ミス」(error of judgement)というものであった。



2011年03月26日 (11:46 pm) JST

ウインドスケールの事故

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今回の福島原発の事故では、しばしばスリーマイル島の事故との比較がなされる。が、事故の現場の詳細が小出しにしか明かされない点や、放射能汚染に対する政府の対応の「あいまいさ」という点では、1957年10月10日にリバプールから100マイルほどのところにある軍事核処理場「ウインドスケール」(Windscale) で起こった事故を思い出す必要がある。

わたしがこの事故のことを知ったのは、福島の事故で見舞いのメールをくれたイギリス人のプロデューサからだっが、彼は、「ウインドスケール」(現「セラフィールド」)からほど近い場所で毎年、ノイズや実験音楽のフェスティヴァル、FON (Full Of Noise) を開催している。リバプールから100マイルほどの海沿いの場所である。

イギリスで最初の核事故といわれる「ウインドスケール」については、ネットで調べると膨大なデータがあり、またすぐれた映像ドキュメンタリーも作られている。わたしがDVD で見ることが出来たのは、BBCが2007年に製作したドキュメンタリー「ウインドスケール:英国最大の核惨事 (Windscale: Britain's Biggest Nuclear Disaster)」だが、この事故には、冷戦に突入した世界政治と、それを主導する米英のねじれた利害が凝縮されている。(追記→YouTube)。

なお、ネットで調べたら、日本の『原子力委員会月報』の1957年12号でこの事故の総合的なリポートが日本語で発表されていたことを知った。むろん、ネットにあるのは、最近になってデジタル化したものだろうが、そこに書かれていることは、当時としても一般には伏せられていたはずである。福島に関しても、このレベルの報告が日々書かれているはずであり、それは、すぐには公開されないのである。



2011年03月26日 (3:55 am) JST

ドイツ選挙のインパクト

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福島原発の事故が「劇的」な反発を生んだのはドイツだった。事故後すぐにドイツの各都市で1万人規模の「反核」デモが起こされたという。これには、環境問題に対するドイツ人の敏感さということもあるが、現地時間の27日に行われるバーデン=ヴュルテンベルク州の選挙も大いに作用している。

大きなデモは自然発生的に起こるわけではない。それなりの蓄積とノウハウとネットワークがなければならない。そのネットワークは、別に組合や党の必要はなく、漠然とした反発の社会的気分でつながっているような人脈や場でもいい。ヨーロッパには、たしかにそういう意識が持続するがまだある。だから、何かが起これば、すぐに連携も出来るのである。

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アンゲラ・メルケル首相率いるキリスト教民主同盟 (CDU) にとってこの選挙はかなめ中のかなめで、ここで地盤を失えば、政権の存続があやうくなる。だから、福島原発の事故が起こると、17個所あるドイツの原発のうちの7個所(そのうちの2個所はこの州内にある)を急遽停止させるという決定を下した。これは、彼女が原発の危険性を認識したからではない。メルケルは基本的に原発推進派である。むしろ、福島の事故でいやおうなく広まった反原発ムードで歩が悪くなるのを察知したしたたかな(でも見え透いた)先手である。こういう敏捷さは、日本のいまの政治家にはみられない。

しかし、原発の一時停止の処置がメルケルの見え透いた戦略であることは、ドイツではすでに知られているから、彼女がいかに敏捷に動いても、CDUの勝利という結果を得られるかどうかは疑わしい。結果的に、福島原発がドイツの政治を変えるかもしれないのである。

3月17日、福島原発の危機的状況がヨーロッパに広まりはじめてすぐ、わたしは、ミュンヘンのババリア放送局のビルギット・フランクからインタヴューの電話をもらった。そのまえにメールが来て、一度は断ったのだが、メディア状況についてということで受けた。が、希望した午前2時を(夏時間との関係で)1時間まちがえて電話してきたので、アドリブでしゃべることになった。

原発の専門家ではないわたしに電話をしてきたのは、結局「日本人」の声がほしいからであることは承知していたが、一応言いたいことだけは言った。こういうときの(マスメディアの)インタヴューというのは、インタヴュアーが言いたいことを相手に言わせるにすぎない場合が多い。だから、メディアの話に限定するという最初の約束は、話しているうちにどんどん破られ、「菅首相は辞任するでしょうか?」という質問まで飛び出した。何かがあるとすぐ「辞任」するというのが日本の政治のパターンになっていることが知れ渡っているらしい。が、政権の帰趨などわたしが知るわけがない。

しかし、勢いに乗せられたわたしはこう答えた――「辞任したくても当分辞任できないでしょう。もし、辞任すれば、ウルトラナショナリストの挙国一致内閣になるのではないか・・・」。いま考えると、これは半分当たっていて、半分まちがっている。というのも、いまは、経済も政治もナショナルなレベルでは動いていないからである。すでに、ソニーのようなグローバルな企業は、東北で稼働しなくなった工場の機能を海外に求めるとのことだ。

グローバル産業にとって、国内の厄災が転機にもなり得る。非情な話である。そして、その結果、日本は、広大な「荒地」と化していく。いつの間にか、世界の原発所有第2位にまで登りつめ、かくかくしかじかの危機に直面しながら、原発の将来への展望の断片すら提示できないでいる体制の現状を見ると、その先には、若きリュック・ベッソンの傑作『最後の戦い』の都市の殺伐としたイメージが頭に浮かんでしまうのである。ただし、こういう内部日本的な悲観的な見方が、今後、「ウルトラナショナリストの挙国一致内閣」に呼び水をあたえることにもなるわけでもある。



2011年03月25日 (5:56 am) JST

原発依存症

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原発は「ギャンブル依存症」である。核分裂や核融合*ということ自体が、破滅の可能性を前提にした「ギャンブル」なのだが、それに「依存」してしまうのだから始末が悪い。

*(追記)「核分裂」を「核融合」と書いてしまったが、新エネルギーとして期待されている「核融合」が危険でないという保証はない。いずれにせよここでは、微細(ミクロ)や巨大(マクロ)のエリアは、「賭」のような「投機」を前提にせざるをえないということを言おうとした。

依存症は、パチンコであれ酒であれドラッグであれ、かかると治るのが難しい。治らないと観念して、それとうまくつきあったほうがいいという医者もいる。アル中の現象学的考察の傑作『今夜、すべてのバーで』(講談社新書)は、中島らもの自伝的小説だが、これだけアル中のことを熟知していながらそれを脱することが難しい(中島がそうだった)ことを証明する皮肉な資料に使われたりもする。

そうした依存症は、しばしば家族を犠牲にするが、まあその範囲で治まる(?)。ところが、原発ギャンブルの依存症は、地域どころか国家規模、さらには国際規模の犠牲と負担を強いる。

普通の依存症の場合、家や病院や刑務所に閉じ込めて「ひと安心」(勝手なもんだ)できるかもしれないが、こっちの依存症は、閉じ込める場所がない――というより、もし「閉じ込める」のなら「自分」で「自分」を閉じ込めなければならない――から、今回の福島原発では、一家に依存症者が出て途方に暮れる悩みと苦しみを国際規模で負わなければならなくなる。つまりここでは、「依存症」の治療ということのジレンマがドラマティックな、ホラーをともなう戦慄のリアリティで出現しているわけである。

アルコール中毒者が、酒への通路を絶たれれば、工業アルコールに手を出したりするように、通路を断てば片付くわけではない。原発も、それをただ停止すればよいというわけではない。原発を要請するライフスタイルと考え方を絶たなければ、別の「原発」を発明するだけに終わる。

では、「原発」を要請するライフスタイルと思想とは何か? それは、しばしば言われるような「贅沢」や「消費」ではない。それよりも、リアクターのなかで何が起こっているのかが直接知覚できないような間接性をよしとするシステムと観念――これこそを改めなければならないのだ。



2011年03月24日 (10:06 pm) JST

福島とスリーマイル島との違い

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1日ここに書かないでいたら、「どこかに逃げたのですか?」というメールをもらった。いや、逃げも隠れもしない。というより逃げるところがない。どのみち「アポカリプス」は最後まで見届けたいと思っているのだが、この間の沈黙はそんな高尚な理由からではなく、ルーティーンの雑用に追われていただけのことである。

ミルクや野菜の廃棄、水の汚染などで思うのは、1979年のスリー・マイル島のときのことである。当時わたしがニューヨークにいたことは書いた。それから30年以上たって、当時は明かされなかったことも明らかになった。いま、福島原発の事故が「スリーマイル島以上」だというようなことが言われているが、技術的な面のことが明かされていないから、どうとも言えない。スリーマイル島のとき「メルトダウン」が起こったとは発表されなかったが、1985年になってそれが認められた。「部分的なメルトダウン」は起こっていたというのだ。

技術的な問題は別にして、福島とスリーマイル島とのあいだではっきり違っていることがある。それは、スリーマイル島のときは、最初から最後まで州知事(ディック・ソーンバーグ)が処理と広報を仕切っていたのに対して、福島では官房長官つまり国の責任者が対応したことである。国家的な事件だからあたりまえではないかというかもしれないが、「地方の時代」「地方分権」というようなことがいわれても、日本では、県も府は所詮国家の支配下にあるということが見事にあらわになった。

といって、スリーマイル島のときワシントンがペンシルベニアにすべてをまかせたわけではない。また、州ですべてを処理できたわけでは全然ない。それどころかカーター大統領は、現場の心臓部の視察までやっている。が、面白いのは、カーターの来訪が国家元首として当然といったロジックのものではなかったことだ。州知事は、危険だからという理由で一度は断っている。が、カーターは、核の技術者でもあったわたしのあくまでも「個人的な訪問」だとして、ヘリコプターで婦人をともなってやってきた。

いくつもドキュメンタリーがあるが、このときカーター夫妻は、長靴をはいてコントロールルームまで入っている(福島はコントロールルームは壊れ、非常用のオフサイトセンターも使えなかったというから、その点では「スリーマイル島以上」である)。また、事故後に組織された調査委員会は、大統領の名のもとに組織されている。だから、スリーマイル島の事故が州の問題で片付いたわけでは全くないのだが、わたしが言いたいのは、組織のタテマエのことである。

今回、菅首相も枝野官房長官も、恨まれこそすれ、現地の人からも国民からもその訪問を有難がられることはなかったし、今後もないのだが、カーターは、リアクターが「水素爆発」するかもしれないという危険(それがスリーマイル島の危機の要だった)を犯して現地に赴いたことを大歓迎され、帰りの車は沿道の市民の拍手を浴びた。そして、「大統領が来るのなら安心だ」という印象すらあたえた。これは、レジティマシーのコントロールという点でうまいやり方だった。

菅首相、カイワレのサラダを食べたのだから、毎日テレビのまえで関東各地の水道水を飲んでみせてはどうか? いや、そんなことをしても「おまえと一緒に死にたくはねぇ」といった負のレジティマシーを強めるだけかもしれないが。



2011年03月21日 (1:59 am) JST

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「基本」を言い続けること

Democracy Now の3月20日号で久しぶりにラルフ・ネーダーの顔を見、声を聞いた。1934年生まれの彼が、少しも老いを感じさせない身ぶりと声で「基本」を言い続けているのが感動的だった。

スリーマイル島の原発事故のあと、1979年9月にニューヨーク市で20万人を動員したという「反核デモ」では、ネーダーとジェーン・フォンダ(たまたま10日ほどまえに彼女が主演の『チャイナ・シンドローム』が封切られた)はスターだったが、ネーダーは、それ以前から、車社会の危険に警鐘を鳴らすなど、環境問題の基本を言い続けてきた。

ネーダーによれば、今回の福島原発の事故は、あらためてアメリカの110あまりある原発の廃止をうながすものであり、そもそもアメリカの原子力依存は、「テクノロジカルな狂気」であり、「ロシア・ルーレット」のようなものだという。オバマ政権になっても、依然として市民の通信の不当な(憲法に反する)盗聴を続けている状態で「ウィキリークス」を犯罪視することなどできないのではないか、いまのアメリカは「制度的な狂気」(institutional insanity)に陥っているとも言っていた。

この放送には、リビアやエジプト情勢へのリポートもあったが、やはり戦争が起きた。非常にまずいのは、福島原発事故とアラブ・アフリカ情勢とが連動してきたことである。核プラントビジネスの先行き不安は、ウラニウムの価格下落、ウラニウム鉱山のある地域の「危機」を理由にする陰謀、原油価格の変動、政情不安に乗じた組織の暗躍などをエスカレートさせるだろう。こうした動乱の時代には、「基本」をまもるしかない。



2011年03月19日 (11:13 pm) JST

ガイガーカウンター

案の定、ガイガーカウンターへの関心が高まった。通販で購入するひとも増えているという。福島原発の事故が明らかになって、秋葉原のある店は、ガイガーカウンターの大量注文をしたらしい。ネットでもいろいろな広告が出ている。

いまは忘れられているが、チェルノブイリの事故のあとも、ガイガーカウンターを一家に一台のような雰囲気が高まった。秋葉原の秋月電商にはキットが出たりもした。わたしも実は買って作ってみたのだが、こういうので測れる程度の放射能が来たら、終わりだなと思った。つまりこのカウンターが測定できる数値はかなり高いところからで、微量の放射能には感応しないのである。

1954年にビキニ環礁でアメリカの水爆実験のとばっちりを受けて被爆した第5福竜丸の久保山愛吉氏が死亡したときも、日本で放射能の被曝の恐怖が強まった。だから、その後出た無線関係の雑誌にはガイガーカウンターを作る製作ノートが載ったりもした。

無線少年だったわたしは、そういう記事に触発されてガイガーカウンターを作ろうとした。その回路が残っているかなと思って探したら、見つかった。1956年に出た『無線と実験 臨時増刊』の「トランジスター化された簡易放射能検出器」という記事だ。

その解説文がふるっている――原子力の平和利用が強調されて以来、ウラン鉱の採掘は素人の領域まで進入してきた。またアメリカやソ連で原爆・水爆が実験される毎に、日本には放射能雨や雪がふってくる。またこんな話もある。すなわち放射性同位原素(アイソトープ)を追跡子(トレーサー)として医学の研究のために実験用兎に注射したところ、その兎が行方不明になった。人間が犬にぬすまれたのか、逃げ出したのかは別としても、これを人間が食べたとなると大へんである。もし上述の如き場合、簡易な放射能検出器があれば、便利であるし、安心でもある。で、ここにこの目的のためにトランジスター化された簡易検出器をご紹介しよう。

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トランジスター化された」という言い方は、いまでは不思議に響くかもしれないが、1950年代にはトランジスターはまだ特殊であり、電子回路はほとんどが真空管式だった。そして、当時のトランジスターは、すこしもたもた半田付けをしているとすぐにアウトになってしまうほど熱にもろく、えらく高価だった。そこでわたしは、ここに書かれている回路を真空管にアレンジしなおして作ったのだったが、幸か不幸か、十分な反応を起こす放射性物質はなく、本当に作動しているのかどうかわからないのだった。いまの製品には微量の放射能を発する資料がついているらしいが、当時は、時計に塗布された蛍光塗料なんかでテストしたような気がする。

時代がかわっても、個々人のやることはあまり変わり映えがしないような気がする、とはいえ、いま各地に設置されていて、ネットでもその測定値を見ることができる放射能測定装置があることは、かなりのちがいではないかと思う。だから、個々人でガイガーカウンターをそなえるよりも、そういう装置を増やすことであり、そのデータを公開することなのだ。

★追記→全国の放射能濃度一覧


2011年03月18日 (3:01 am) JST

「・・と聞いています」

福島の原発事故について枝野や菅や原発の関係者が「記者会見」をし、きわめて重要なことを言うときに、「・・と聞いています」とか「・・・という報告を受けています」という語句を発するのがえらく気になった。なんなら直接言える奴を出せよと言いたくなる。

こういう言い方は、しかし、よく耳にする言い方である。訴訟社会であるから、言い方に注意しないと痛い目に遭うのかもしれないが、これは、「リモート」ということが基本にある社会では不可避のカルチャーなのかもしれない。

こういう表現に慣れている人は、「・・と聞いています」と言われても、わたしなんかが感じる無責任さや他人ごとという印象とは逆に、「・・である」という意味に解釈できるのかもしれない。逆に、「・・です」と断定されたりすると、それが嘘っぽく、あるいは不正確なことを言っているという印象をあたえるのかもしれない。

なるほど、福島原発のリアクターがどうなっているかは、現場の人間でも肉眼では知覚できない。モニタースクリーンを通じて「リモート」で「距離」を置いて知覚する。だから、すべての事態は、正確には、「観測システムを通じて・・と判断されます」という言い方しかできない。

ところが、今回、その監視システム自体が壊れてしまったのだから、正確には、「・・を通じて判断されます」ということすら言えなくなってしまったのである。とすると、福島原発の事故のすべての報告で「・・と聞いています」といっても、その元を誰も語ってはいないということにもなる。

実際に、今回、「原子力緊急事態宣言」後、事故の対応に直接当たることになった自衛隊の人間は、一切テレビで説明を行わなかった。17日になって、「オフサイトセンター」(これは東海村の事故を受けて、非常時に対応するために創られたというのに)が機能できなかったことが明らかにされたが、そうだとすると本当は、「・・と聞いております」ではなくて、「・・と憶測できます」にすぎなかったのかもしれないのである。

それにしても、深刻な問題の説明を、毎度のことながら、「記者会見」という形でしかしないのは、国民を馬鹿にしていることにならないか? マスメディアの人間が国民の代表ではないのだから、カメラに直接向かって話すべきである。そしてそのためには、官邸は、テレビ局などには頼らない独自の放送設備を備えるべきだ。



2011年03月17日 (6:12 am) JST

ウラニウム価格の暴落

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予想されたことだが、福島原発の事故のために、早速ウラニウムの価格が暴落した。オーストラリアで最大のウラニウム供給をしているPaladin Energyの株が14日に暴落した。

日本のウラニウム消費は、世界の10%程度にすぎないらしいが、今後日本のウラニウム購入が下落することは確実で、さらに福島原発事故が引き金になって世界のウラニウム消費が下降するとなると、核兵器の原料として軍への期待がより高まるはずだ。「311」は、「911」以上に、世界を搖さぶることになる。



2011年03月16日 (11:45 pm) JST

五里霧中

わたしがジョゼフ・エーメンの意見を紹介したのは、その意見が正しいと思ったからではない。その正誤は、専門家でないわたしにはわからない。が、事故の基本を押さえるという意味では、大方の発言より優れていると思った。

基本を押さえた意見は、非常に少なく、海外では、情報源が「怪しい」と一蹴されてしまったジョゼフ・エーメンのようなあまり「権威」のない人物からか、あるいは、「極右」(ジョン・バーチ協会)というレッテルのついている「The New American」誌の論文(「Japanese Nuclear Reactor Faces Media Meltdown」)のような色目で見られやすいメディアからか、いずれも「プロ・ニュークリアー」(核推進派)と十把一絡げされやすいサイドからしか出てこないのは皮肉である。

今回の福島原発の事故に対してマスメディアで流布している「最悪のシナリオ」は、リアクターの爆発→放射能の大量放出という「チェルノブイリ」型のカタストロフを前提にしている。「ヒロシマ原爆の600倍」といったような表現もある。しかし、原子炉の形式の相違を踏まえるならば、事故の過程と帰結は、チェルノブイリとは相当ちがってくるはずである。それが「チェルノブイリ」よりもましであるかどうかはわかないが、一瞬に巨大爆発が起こって、人々がバタバタと死んでいくような惨事は起こらないだろう。

放射能の放出も、どっと一度に撒き散らされるのではなく、スプレーで噴霧するように小出しに撒かれるのではないか? しかし、「チェルノブイリ」とはちがって、一挙に「結論」が出にくいから、いま現在のような状態がズルズルと何ヶ月も続くかもしれない。その場合、小出しに撒かれる放射能がどのような影響をあたえるかはわからない。むろん、無害のはずはない。この点でも、こういう条件に応じた説明が関係者からあたえられていないことが問題だ。

はっきりしない、(炉を直接点検できないから)はっきりさせられないという状態が長期化する場合、政府はどのような対策を持っているのか? これは、経済に関しても、国際政治に関しても言えることで、いまのところ、全然展望が見えない。



2011年03月16日 (4:40 am) JST

ジョゼフ・エーメンの「謎」

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なぜわたしは日本の原子炉を心配しないか」という発言で有名になり、ここでも紹介したジョゼフ・エーメン (Josef Oehmen) という人物への疑惑が取りざたされている。

すでにリンクを張っておいたが、MITのNSE (Nuclear Information Hub) は、彼の文章(それはもともとは、日本に住み英語教師をしている親戚に送ったものを、その友人がブログに載せたという形で日本で英語教師をしている親戚が、友人に送り、公的なものとなったのだという)の反響を懸念して、その内容の補足と修正のページを作った。

NSEのページは、福島原発で起こりつつある最新情報をおさえた分析で、くりかえしアップデートされているから、非常に参考になるのだが、他方で、もとの文章を書いたエーメンへ批判と中傷の(ともとれる)ブログ記事がではじめている。わたしは、事態をなかなかクールに分析していると思ったが、いまはその機能が大分変わってしまった。

ブログ「Genious Now」によると、ジョゼフ・エーメンが務めるLAIは、原発と核の推進派であり、ジョゼフの父親はドイツ人で、軍事産業でもあるジーメンスに協力しており、彼の論文の公表には、原発肯定派の「陰謀」があるというのである。

政治は、「陰謀理論」では進まないが、何でも事が起きれば、力学が働き、それ自体が意図していない方向に表現が利用されることがある。まして、今回のような世界規模の事件となれば、写真映像一枚でも政治的力学のなかで動き始める。最初は「偶発」として起こることが、次の瞬間には「陰謀」になってしまうのだ。

だから、事件がある程度社会化した段階では、「陰謀理論」が有効になりもするわけである。とすると、福島原発の場合、その破滅的な終末への「期待」はどこから生じるのだろうか? 誰もそんなことを望んではいないはずなのに、それを「望む」者がいないわけではないという矛盾。事故から日がたつにつれて、わたしは「日本の終末」をまるで期待するかのような記事をいくつも読んだ。

いまわたしは、1979年にスリーマイル島で原発事故が起こったとき、ニューヨークのヴィレッジの街角でペンシルバニア州のほうを見ながら、「これで終わりかねぇ」などと友人たちと立ち話をしたのを思い出す。そのときいっしょにいたのは、その後政治マンガ家になったマーク・アラン・スタマティー、ジャズトロンボニストのレイ・アンダーソン、それからいまは亡き彼の美しき恋人ジャッキー・レイヴンたちだった。



2011年03月15日 (6:26 pm) JST

テレビ汚染

海外の知り合いから安否を気遣うメールが殺到して、返事に追われていた。心配してくれるのはありがたいが、みなテレビ報道に触発された心配であり、なかには、原発事故で日本が終わりになるのではないかといった懸念を示したものまであった。なぜテレビはそういうもの言いしかできないのだろうか? 終わりをいうのなら、今回の事故は、「原発の時代の終わり」をこそ示唆しているのだ。

テレビのダメさかげんは日本だけのことではない。政府も、本当に「チェルノブイリ級」の事故に至らないという確信があり、それを国民に説得したいのであれば、現場に据え置きカメラでも置いて、事故処理の様子をライブで放送すべきである。密室で何をやっているのかわからないという雰囲気が恐怖を煽るのだ。

ちなみに、「チェルノブイリ級」という言葉が飛び交っているが、もし福島原発のリアクターが1基でも露出するようなことになれば、リアクター自体がチェルノブイリよりも大きいのだから、惨事は「チェルノブイリ級」では済まない。政府はそういう可能性がなくはないこともあらかじめ言うべきではないか?

今日になって、避難距離が20キロから30キロに拡大されたが、こういうやり方も実に不手際だ。なぜ最初の段階で100キロにしておかなかったのか? パニックを恐れたのだろうが、段々距離を延ばしていくほうが恐怖を煽るということがわからないのだろうか?

石原慎太郎は、今回のツナミ惨事を「天罰」だと言ったそうだが、その無責任な発言の言語同断さは別にしても、あのツナミは決して天罰ではない。ツナミを予測して高い防波堤を作った町も飲み込まれてしまった。だが、福島原発の事故は「天罰」である。にもかかわらず、石原は原発事故を「天罰」とは言わない。



2011年03月14日 (6:32 pm) JST

メルトダウン以後

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何人かの知り合いから「疎開」宣言のメールをもらった。フランス大使館などは早々と滞在するフランス人に日本退避勧告を出したというから、「疎開」がいま最もトレンディなことかもしれない。

しかし、たとえば ツイッターに「なぜわたしは日本の原子炉を心配しないか」というコメントを書き、話題になったLAI/MIT の研究員ジョゼフ・エーメン詳細な論文によると、「原子炉建屋」の爆発は事態の悪化を意味しないという。微量の放射性のセシウムが空中に飛散したり、排水にまじったりはしても、最悪のウラニウム(これは水には溶けない)が放出されることはすでに食い止められているという。が、こういう論文のことは日本のテレビには出てこない。

それよりも、いますでに高まりつつ懸念は、大惨事が食い止められた「事後」のことである。まず、この機会に、日本の原発のすべての総点検がおこなわれること。それには、4、5年の年月を要する。ここで、原発の廃止へ向かうよりも、マグニチュード9以上の地震に耐えるアップグレードがおこなわれるだろう。これは、ビジネスチャンスであるとしても、かつてスリーマイル島の原発事故のあとに高まった反核運動(No Nuke)が台頭するだろう。また、それをもビジネスにしてしまう「カウンターカルチャー・ビジネス」も出てくるかもしれない。

だが、産業と社会の基本動向からすると、電力不足が強まり、それが長期間続くことは必至である。エネルギ地図の再編をめぐって戦争が起こされるかもしれない。だから、ここで、本当の意味での省エネを考え、実践するのか、それともこれまでの生活水準を維持できる場所に「疎開」するのかは、あなたの政治意識や世界観が問われるところである。



2011年03月14日 (5:20 am) JST

恐怖の教訓

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東北地方太平洋沖地震とは違い、福島原発のメルトダウンは、人災である。地震の被害が想定できる場所に原子力発電所を建造するということに対する警告* はすでにあったし、建造されてからも危険な事態に直面している。少なくとも、地震国に原発は無理であることだけは、今回はっきりした。

しかし、このことに限らず、効率を追求して突っ走っているシステムは、大転換ということがほとんどできない。が、可能なのは、今回のような未曾有の危機のときだ。この恐怖を活かし、原発を廃止するのでなければ、後世の歴史は、菅政権を、日本を敗戦の地獄に追い込んだ平沼内閣よりも罪が重い内閣として明記することになるだろう。

太陽エネルギー、風力発電、地熱発電のようなオータナティヴ・パワーは、地震があっても今度のような恐怖と(ありえるかもしれない)チェルノブイリの4倍以上(チェルノブイリは700万キロワットだったが、福島原発は第3号機だけでも78.4キロ万ワットだという)にもなりえる惨劇をもたらすことは全くないのだから。
* 追記→石橋克彦「第162回国会予算委員会公聴会証言」(2005/02/23)、「石橋克彦 私の考え」(2011/03/15)


2011年03月13日 (5:25 pm) JST

マスメディアはいらない

完璧なマスメディアなどというものはないから、これは、基本的なマスメディア批判にすぎないが、こういう事態になるとその限界や弱点が見事に露呈する。限界も弱点も、むろん、時代と状況の係数がついているから、それらは、あくまでもいまという時点での問題である。

今回、新聞ほどその無意味さを露呈したマスメディアはなかった。ばかみたいな大活字の見出しは、さもなければもっと記事を入れられるスペースを浪費しているにすぎない。「速報」といいながら、すでに知られていること、時間がたって変わってしまった情報を羅列している。

新聞は、紙メディアなのだから、それでなければ出来ないことをすべきなのに、全くしていない。じっくり読める分析記事、何度も読みなおしても意味のあるデータやノウハウなどを掲載するとか、あるいは、地震の報道で見えなくなってしまっている事件について集中的に報道するという棲み分けをしてもいいはずだ。

「速報」とライブ性が機能のはずのテレビも、津波の危険を速報する機能をあまり果たすことができなかった。津波が陸に押し寄せてくる映像は映ったが、テレビというものは、リアルなことをあたかもドラマの1シーンのようにしてしまう。これは、すでに911のときに経験済である。また、お笑いなどで過剰な身ぶりともの言いに慣れてしまった感性には、アナウンサーが「早く逃げてください」などと普通の表情で言ったぐらいでは、誰もその深刻さを感じ取ることができなかった。

最悪は、福島原発のメルトダウンに関する政府閣僚の会見だ。みな「正確」さを期するために文章を読んでいる。実に「官僚」(「ビューロクラット」とは「書類」の人という意味)らしいやり方だ。へたなことを言ってあとでやりこめられることを心配している。言葉の細かい表現ばかり気にして、奥歯にもののはさまったことばかり言う。これは、閣僚だけでなく、キャスターや解説する先生たちも同じだ。

発言が「慎重」になるのは、テレビに影響力と責任があるからだというが、それは、半分以上、その機能に対するおごりであり、視聴者を子供あつかいすることだ。重層的なメディアの環境にいるいまの人間は、単一的なテレビ報道などに踊らされたりはしない。

日本のマスメディアは、全国メディアを目指すから、その報道内容が、おのずから「万人向き」になる。子供から老人までの平均値を取るから、複雑な内容はカットされるか、単純化される。いま必要なのは、「最悪」と「最善」とのすべての可能性を提示し、視聴者それぞれに判断をまかせることだが、そんなことをしたら「混乱」を起こすというわけで、おざなりの情報しか流さない。

その結果、あとになり、「なんで早く言ってくれなかったのか?」ということになり、それに対しては、関係者が記者会見をして「申し訳ありません」の懺悔(ざんげ)の儀式をすることになる。ばかばかしいかぎりである。



2011年03月13日 (2:13 am) JST

どっちが正しいの?

気象庁は、今回の「東北地方太平洋沖地震のマグニチュードを「8.8」と言っている(最初は「8.4」)と発表しているが、海外のメディアでは「8.9」と報じている。
USGS」(United States Geological Survey) によると、「2011 March 11 05:46:23 UTC」の地震は、「Magnitude 8.9 - NEAR THE EAST COAST OF HONSHU, JAPAN」というふうに発表されている。
* 追記→気象庁は4月13日午後、東日本大震災の規模を示すマグニチュードを8.8から9.0に変更すると発表した。



2011年03月12日 (5:30 pm) JST

福島チェルノブイリ

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すでに書いたように、福島原発のメルトダウン(炉心溶融)はすでに起きていた*。ヒラリー・クリントンが冷却水を送ったと宣言した時点でもそれはわかった。

ネットのコラムでも、「The answer according to the nuclear expert, is that as Fukushima is now well on its way to a full core-melt nuclear accident, a worst case scenario could possibly lead to the same results last seen in 1986 Chernobyl. 」つまりチェリノブイリよりやばい状況になりえるというのだ。

規制と体裁ばかり気にして、わかっていても何も報道しないテレビは何をやっているのか。いまになって、プラントの建物が破壊されている写真を見せている。そんなの、望遠カメラでリアルタイムで報道できただろう。
* 追記→5月12日になってやっと東京電力は、第1号機で「メルトダウン」が起きていることを認めた。



2011年03月12日 (4 am) JST

くりかえされる原発問題

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昨日、気圧過敏症で調子が悪く、出かけるのをやめて家にいたら、ぐらぐらと来た。テレビはすぐに報道をはじめ、津波の恐ろしい光景が放映されたが、そのリアリティは驚くほど空虚だった。テレビを見ていると、そこに揺れが映ると、それからしばらくしてこちらがゆれるので、不安を自己増幅している感じになるので、テレビを止めた。止め際に枝野官房長官が「原子力緊急事態宣言」の説明をしていたが、なんとも煮え切らない感じだった。

海外の検索サイトを覗くと、カール・グロスマンによる「Nuclear Emergency in Japan」というコメントが見つかった。福島原発について細かい論評をしている。日本の放送も、このぐらいのコメントがほしい。

地震国が、万が一のリスク度が強い原発に手を出す意味はない*のだが、効率を求め続けるシステムは、わかっていてもやめられない。

USGS Home 」には、時間単位でどういう地震が起こったかが出ていて、これだと、1週間ぐらいまえから気配が感じられたのではないかという印象もうけた。

海外のサイトには、福島原発と「原子力緊急事態宣言」についての論評が続々出ているが、日本発は少ない。テレビも新聞も、現象を追っているにすぎない。

英語 Yahooでチェック
*追記→「放射能防護は絶対安全でなければ困ること(地球全体と未来世代をも汚染する)、ところが原発は不完全な技術であること、地震が「本気を出せば」本当に恐ろしいこと、しかし、人間の地震現象の理解はきわめて不十分であることを真摯に直視すれば、地震列島に五〇基以上の大型原子炉を林立させることは、驚くべき暴挙であった」(石橋克彦、「首都圏直下地震、東海・東南海・南海巨大地震の促進も否定できない」、『中央公論』2011年5月号)。




2011年03月01日

ナイトショット

暗闇のなかでポッと赤いLEDのようなものが点滅した。スクリーンの右手で男がカメラのようなものを構えてこちらに向けている。暗視カメラか?
この試写室に入るとき、荷物チエックがあり、ケータイや電子機器は取り上げられた。そんな状況で誰がどうやって盗撮をするのだろうか?

画面が明るくなってその男の姿が少し見えるようになったが、そのときはただ立っているだけだった。威嚇のためにスクリーンの傍らに立っているらしい。少し目障りだが、ただ立っているだけならば、それほど気にらなない。が、赤いパイロットランプはまずいじゃないの。

少しいたずら心が出て、目立つことをしてみたらどうなるかと思い、頭を掻いてみた。即座にその男はカメラを構え、こちらに向けた。やはり監視しているのだ。

どうもやり方が気に入らない。試写作品は悪くなかったが、気分が乱された影響で、評価が下がる。そんなにこちらを監視したければ、どこかに監視カメラを設置して、リモートで監視すればいいではないか? そうすれば、思う存分細かい動きまでチェックできる。

もしそのカメラがナイトショットの暗視カメラなら、作品に感動して涙を流している場合にも、退屈で居眠りしているのも観察できるわけだ。しかし、それをこれみよがしにやる必要があるのか? 失礼じゃないの?