「シネマノート」  「雑日記」


2007年 02月 13日

●歴史のアナロジー

北朝鮮の「核施設無能力化」というニュースを聞いて、ふと、1972年のニクソン訪中を思い出した。ニクソンが満身創痍になって辞任するのがその2年後だが、さんざん敵視していた中国と国交を結ぶのがニクソンなのである。
ブッシュも、すでに相当満身創痍だが、こういう大統領にかぎって意外なことをやる。北朝鮮は、このチャンスをいかしてぐいっと資本主義路線にハンドルを切るチャンスをつかんだ。その後何度か嵐を経験していまにいたる大国中国とはちがい、北朝鮮の場合は小回りがきくから、国風が変化するのは早いだろう。
田中角栄は、ニクソン訪中の意味をすばやくつかみ、同じ年に訪中し、「日中国交正常化」をはかった。資本のロジックを知り抜いていたからだ。あの時点でいまの中国をイメージできた人はほとんどいなかった。
資本の論理からすると、北が「自由化」を示唆しているわけだから、素直に歓迎するのが「大人」の戦略のはずだが、安倍にはその展望はなさそう。ブッシュもまだ及び腰だが、ひょっとすると訪朝もありえるかも。安倍がその先を行って、ただちに訪朝し、「民主化」の促進のなかで「拉致問題」にも糸口をつけて行くといった方向を示せば、支持率低下をくいとめることができるかもしれない。でも、日本の外交は、アメリカの先を行くなんてことはありえない。わかっていてもできない構造がある。
しかし、10年後の北朝鮮は、いまとは全く異なる姿を見せるだろう。


2007年 02月 10日

●Mesdages for 2099

今日、ちょうどいまごろ、フランクフルト・アンマインのジャーマン・ナショナル・ライブラリーでわたしの声が3分間流れたはずだ。これは、Kai Grehnが発案・ディレクトし、Carsten Nicolai(alva noto)が音をつけた「2099年のためのメッセージ」という77分のラジオドラマのプレミアだ。
この音源は、限定7枚のヴィニール盤に焼かれ、世界の美術館や博物館に配られ、2099年まで密封されるという。とはいえ、そうなると、いま生きている人間の半数はそれを聴く機会がないだろうから、おそらくはCDなどで公開されると思われる。[そんなことをしたら、元のアイデアが意味をなさなくなるので、一切公開しないとのこと――後記]
参加者用に送られたデータCDで聴くと、下のURLに見るような錚々たる人物から街頭で採取した声、さらにはわたしのような流れ者まで50人以上が参加していて、壮観である。カールステン・ニコライの音は、これまで彼がやってきたスタイルをそれほどこえていないが、メッセージのロウ・ボイスを立てようということなのだろう。
Kaiから依頼が来たのは2005年の11月で、わたしが音源を渡したのが2006年の1月だったが、その後何の音沙汰もなかったので、立ち消えになったのかと思っていた。
大半の参加者(坂本龍一、フィル・ニブロック、アナ・メイリアン、アルヴォ・ペールトらは音楽を「メッセージ」として提供した)が、アイデアを真面目に受け取り、2099年の人々に向けて語っている。わたしは、「ドラマ」なのだから、少し演出したいと思い、2099年に息もたえだえに生きている超老人ないしはサイボーグがいまを回想するという形式のストーリーをしゃべった。会場で笑いが起こればさいわいだ。
この「メッセージ」を作ったとき、なにか1つの決算(とりわけ表現上の)が出来た気がし、以後、英語でナレーションをすることに興味を持った。OKNOに頼まれて作った3部構成のMini FMについての映像付きナレーションも、その流れのなかで作った。聴いてもらえばすぐわかるが、わたしの英語は流暢ではない。が、もうちょっとすると、その未熟さが出来の悪い自動翻訳機か発話ロボットのような独特でユーモアのあるディスクールに達するのではないかという期待をいだいている。
http://www.kaigrehn.de/hoerspiele/messages.html


2007年 02月 09日

●デジタルと寛容さ

どうもデジタル世界に深入りすると寛容さを失うらしい。寛容さというのは、身体のリダンダンシー(冗長性)と関係があり、インプットされた信号に対して許容度があるということだ。が、インプットとアウトプットとの関係が厳密であるデジタルの世界では、「論理」が優先され、フッサールが「超越論的論理」と呼んで「形式論理」と区別したものが、ないがしろにされる。だから、カオスやファジーというようなやり方で人工的に「あそび」を作ってやるわけだが、それは、成熟したシステムでのことである。
この1週間あまり、ネットのトラブルの解決に深入りし、「完成披露試写」も普通の試写もないがしろにしたが、いずれの場合も待ち時間の長さが「無駄」に思われてしまうのだった。ふだんなら、待ているお客の姿を観察するとか、知り合いとおしゃべりをするとかできるのに、そういうことがすべて「無駄」に思えてくる。一種の内的ファシズム状態ともいえる。
この日、そういう「忘我状態」を逃れて、六本木のギャガ試写室に行った。受付で試写状を出すと、係の女性が当惑する。なんと、わたしは昨日とまちがえて来たのだった。20時間起きていて、昼頃に寝て、すぐ起きるような生活をしていて、通常の日の区分がどこかへ飛んでしまった。
が、運というものは、あるもので、丁度この日、その時間に『バベル』の試写会があり、普通では1時間まえぐらいに行かないと入れないというこの映画の試写を見ることができたのだった。場合によったら今夜(実は昨日)の8pmに見ようと思っていた回に入れなかった人のために臨時の試写会をやることになり、しかも、席が空いていたのだ。
「犬も歩けば棒に当る」というのは、デジタルで行き詰まったら、とにかく体を動かせということか?
http://cinemanote.jp/


2007年 02月 08日

●病気になったみたい

といっても生身の肉体の話ではない。この1週間ほど久しぶりにネットワークのことで悩まされている。3年はいじらなかったコンピュータの回線の経路とシステムを変えたのだ。「テクノロジーとのすったもんだ」あらため「テクノロジーとのすったもんだ」(http://cinemanote.jp/notes/webtek/index.html)で何度も書いたように、電子テクノジーというのは、実用で使おうとすると実働時間の80%は無駄な時間だ。だから、わたしは、それをアートにしてしまおうとしてきたわけだが、ネットを実際に使うには、「アート」ばかりしてはいられない。
先日のArt&.html#39;s Birthdqy 2007に触発されて、しばらく休んでいたRadio Kinesonusを完全にリモートで再開しようという声がブリュッセルのJacques FoschiaやいまはインドにいるKeith de Mendoncaからあがった。休止した理由は、フィジカルに一同に会する日本勢のスケジュールが合わなくなり、スケジュール調整役のわたしがめんどうくさくなって投げてしまったからだった。
しかし、その間に、RealMediaでなくても、フリーで簡単にインストールして実用になるエンコーダがふえ、こちらにサーバーを立上げれば、世界の各地から自分のコンピュータに入れたエンコーダで演奏やしゃべりを送れるようになった。動画はいまだRealMediaほどうまくいかないが、音だけだったら、簡単になった。
すでに大分まえからそういう試みはやってきたし、IcecastやShoutcastなどのサーバーを公開して、似たようなことをやっている「局」はあった。が、エンコーダの問題(簡単にインストールできて実用になるものが少なかったこと)で、太鼓たたけど誰も踊らずだったのだ。
本当は、ストリーミングのサーバーの方も、誰でも使える条件が確実にととのってきたのだが、回線の問題などもあり、エンコーダとサーバーとを自分のコンピュータにインストールして、自分の「局」を作ってしまう人はまだ多くはない。だから、サーバーを提供すれば、それを使いたい人はまだ少なくないのである。
そういうわけで、サーバーをもう1つ立ち上げることにしたのだが、「テクノロジーの汎用性」(要するに誰でもが使えること)にこだわるわたしは、費用をなるべくかけずに、どこにでもあるソフトで、しかもWindpws、Mac、LinuxといったOSの違いをこえてできる方法を「定式化」しようと思った。いずれ、上記のコラムにまとめるつもりだが、エンコーディングの方は、すでに10数種類をテスト済だ。皮肉なことに、いまや、Windowsのフリーソフトが実用性があり、選択肢が多いのだった。
エンコーディングをフリーでやれるなら、サーバーの方もかぎりなくフリーでやろうと、回線もADSLにした。光ケーブルが流行りだが、世界中が光ケーブルになっているわけではないから、世界を結ぶストリーミングにはADSLの帯域で十分なのである。
ところが、これもいずれ詳述するが、回線を独占しているNTTのサービスは、3年まえとかわっていないこと、つまり導入した回線の具合が悪く(あいかわらず)、ログデータをもとにつっこんだ質問をすると、ちゃんと回答できる人が全くいないのだ。電話はラチがあかないし、やっと来てくれた「修理」の人は、回線の通りをよくすることは知っていても、ルータの内部のことはほとんど知らなかった。
ちなみに、ストリーミングでは、メールやブラウザを閲覧するだけとは違い、ルータの設定に若干のコツがいる。が、NTTから買うかレンタルすることになるモデム・ルータなるものは、ストリーミングなんてことを想定していないのだ。だから、これまでは、NTTのを使わざるをえないスプリッターとモデムを残し、ルータ部分は使わず、別途購入したルータでやってきた。
3年たったんだから改善されたろうと思ったのは甘かった。今回数日かけてNTTの人とやりあったことは、ほとんどすべて、2001年にADSLを初めていれたときにも、そして2004年に47Mにレベルアップしたときにも経験している。普通の大人なら、そういうバカらしいことはくりかえさないはずだが、業者にマル投げするのでもなければ、そうしないと使えないのが電子テクノロジーの不可解で面白いところでもある。
いま、1台のちっぽけなコンピュータに数種類のストリーミング・サーバー・ソフトが動き、そこに、ドイツとカナダと日本から同時にテスト信号が送られ、事実上、テスト放送がはじまっている。しかし、まだ不安定な部分もあるので、始終ログを見ている。
そんなわけで、試写にも行けないし、シネマノートも更新できない。いまは12時間ぐらいモニター3台と向いあっているが、そのまえはLANケーブルを引っ張りまわしたりする肉体労働をしていた。でも、これは、「心身」のバランスのとれた生活というものではなさそうだ。なんか体がネットのなかに溶け出していくうような感じだ。