遊歩都市 5

ふたたび街の”うさんくささ”を求めて

 メルボルンでもアデレイドでも、わたしが「マンハッタン的なうさんくささを求めてオーストラリアヘやって来た」と言うと、人々はみな、「それならシドニーへ行った方がいいでしょう」と言うのだった。モナシュ大学へ行こうとして、郊外の人気のないバス停でいつ来るともないバスを待っていたとき声をかけてくれた車の男は、「メルボルンは死の街だ」とはきすてるように言った。フリンダーズ・ストリート駅のベンチで隣あわせた老人は、シドニーからメルボルンに移り住んで十年になるが、「ここの気候はクレイジーだよ、シドニーに帰りたいね、シドニーには夢がある」と言った。そして、わたしがメルボルンでセント・キルタのストリート・カルチャーに一番興味をもったと言うと、人々は一様にシドニーのキングス・クロスを比較研究するようにすすめた。
 アデレィドからシドニーには、アンセットの直行便で五〇分ぐらいしかかからない。その日、予定では、アデレイドの古本屋をもう一度のぞいてから、夕方ごろシドニーに行くつもりでいたが、なぜか午前六時すぎに目ざめてしまい、一刻も早くシドニーへ行きたい気持になったので、十時の便でシドニーへ向かった。
 以前には、はじめて訪れる街の印象は、そのにおいによって印象づけられたーマンハッタンの場合は、トゥワイニングのタージリング紅茶に似たにおいだった−が、最近は、鼻が全然きかなくなり、においにかわって色が街の全体的な第一印象を与えるようになってきた。そのため、マンハッタンの印象も、いまではタージリング紅茶のにおいではなく、レンガと街燈の色のまじりあった茶系統の色の印象が強く、メルボルンはグレイ、アデレイドは白というわけだった。空港から都心に向かう車窓からみえるシドニーの街の色は、心なしか茶系統にみえ、中心地に近づくにつれて見えてきた建物も、メルボルンやシドニーの街なかで見る建物よりうすよごれており、”マンハッタン的なもの”を感じさせる。
 時間はまだ昼すぎなので、めざすキングス・クロスヘ直行してもよかったのだが、はじめからキングス・クロスに”定住”したかったので、他所にひとまず仮の宿をみつけ、身軽になってホテルさがしをすることにした。以前ロンドンで、大きなトランクをキャリヤ−・カーにつけ、ヴィクトリア駅からブルームズベリーまで歩いてしまったことがあったが、今回の荷物は、そのときよりも重い。そこで、あまりあとさきのことは考えずにハイマーケット地区を当座の滞在地に決め、たまたまメルボルンの”ニュー・サウス・ウェルズ政府観光局”てもらったリストにのっていたこの地区のホテルにやってきたのである。
そのホテルは、またしても”ピープルズ・パレス”と言い、メルボルンで最初にとまったホテルと同じ名前だ。チェーン店なのかもしれない。ロビーに入ると、いかにも”流れ者”といった風態の青年たちがおり、鋭い目つきでこちらを見る。ニューヨーク以来、久しく見なかった目つきだ。しかし、その目に全然クレイジーさがなく、退屈しきっている感じがあるところがオーストラリア的というのか。フロントで空室をたずねると、シングルは一律十六ドルで入浴は別室でするという。二つ部屋を見せてもらって明るい方に決めた。フロントにもどって金を支払い、鍵をもらってふたたびエレベーターにのったら、いっしょになった老人が、「ここは、再建されるまえはひどかったけど、いまはよくなったよ」と言った。たしかに、建物自体は新しくはないが、水道管や電気器具が真新しい。ボイラーも新型らしく、蛇口から出る湯は、アデレイドのホテルのように一〇〇年分の湯あかのたまったボイラーから出てくるようなまっ黄色の微温湯ではなくて、透明の熱湯だ。
トイレとシャワー、洗面台がずらりとならんだパス・ルームも清潔で、ニューヨークの安ホテルみたいなものすごさは全くない。難点は、ベッドと洋服ダンス、小机が置かれている部屋のスペースが四畳半ぐらいしかなく、とても長期の滞在には向かないことだ。しかし、エレベーターで会った老人も、腰にバスタオルだけをまいてはだしでバス.ルームに歩いていったあいそのいい初老の男も、あきらかにこのホテルの長期滞在者で、こんなところでも、なれれば”マイ・ホーム”になるようにみえる。
 このホテルが面しているピット・ストリートは、シドニーのメイン・ストリートの一つで、そこから北上すると有名ホテルやデパートがある。しかし、そういう”名所”めぐりをするまえに、ホテルの周囲を歩いてみようと思い、ホテルの玄関を出ると、真向かいに二、三軒、小じんまりした安ホテルがあり、一泊十ドルの看板を出しているところもあるのに気づく。入口からのぞいてみると、フロントのそばにあるベンチには、老人たちが何人がぼんやりとした表情で腰を下ろしており、ニューヨークの安ホテルに共通する雰囲気がある。早々と宿を決めてしまったのをちょっと後悔したが、問題はホテルだけではなく、それをとりまく街のうさんくさい環境の方なのだから、それにはこだわらず、歩きはじめた。ロシア語の本を売っている店がある。ロシア人のコミュニティがこのあたりにあるのだろうか。しかし、それはみつからず、グルパーン・ストリートの方へ行くと、とたんに中国語の看板があらわれ、チャイナ・タウンがみえてきた。路上で行きかう中国人も、メルボルンのチャイナ・タウンで会った中国人たちよりも生活のにおいを感じさせている。
全体としてこのあたりは、土地の人たちの街という感じで、夕方になると店を閉め、郊外の白宅に車でサッと帰ってしまうようなことはない。これはたぶん、シドニーの全体について言えることなのだろう。
 歩きまわっているうちに、地下鉄の中央駅がすぐ近くにあり、そこからキングス・クロスまで二駅のればよいことがわかったので、今日のうちにキングス・クロスをみておくことにする。地下鉄は横はばがやけに広く、二階だてになっている。駅のデザインは、ちょっとロンドンの地下鉄駅に似ていなくもない。マンハッタンの地下鉄駅は大体、地上から浅い部分にあり、地上の音がきこえてくる駅もたくさんあるが、ロンドンのもシドニーのも、井戸の底にいるような気持にさせる。それは、おそらく構内の照明のかげんなのだろう。
 その点日本の地下鉄は、白けるくらい明るいので、気分をめいらせるようなことはないが、そのかわり妙に神経をいらいらさせるようなきらいがないでもない。やはり、わたしは、マンハッタンの、不潔で、うす気味わるくて、そのくせ、路上の光が射しこんでいる窓なんかがついているクレイジーな地下鉄駅がいい……と勝手なことを考えていると、マーティン・プレイスをすぎた地下鉄のなかに急に陽光が対しこんできた。屋根に煙突のついたヨーロッパ風の小じんまりした建物が建ちならんでいるのがみえる。メルボルンのような殺風景な空間はみあたらない。もっとよく見ようと窓に目をこらしたとたん、地下鉄はトンネルのなかに入り、キングス・クロスの駅についた。
 キングス・クロスには出入口が二つあり、わたしが出たのはヴィクトリア・ストリートの出口だった。もう一つは、ダーリンガスト・ロードのどまんなかにあり、キングス・クロスの表玄関はこちらの方だ。わたしは、裏口からキングス・クロスに入ることになったわけだが、たしかにここにはマンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジの雰囲気がある。ただ、全体として街路が清潔で、商店にはまたしても統一規格の電飾看板が取りつけられているので、新興都市がヴィレッジの雰囲気をまねているような感じがしないでもない。しかし、細い路地を入ると古いレンガづくりの建物がならんでおり、ウエスト・ヴィレッジのパロー.ストリートやベッドフオード・ストリートの界隈にそっくりだ。
 しかし、ウェスト・ヴィレッジとちがってキングス・クロスのこうした地域はひじょうに規模が小さく、しばしウェスト・ヴィレッジ・ノスタルジアにひたって路地をうろついているうちにダーリンガスト・ロードの目ぬき通りに出てしまった。この通りには、レストラン、商店、ポルノ・ショー劇場、ファースト・フードの店などがびっしりたちならんでおり、ニューヨークのクリストファー・ストリートをもう少しタイムズ・スクウエアー化したような雰囲気をしている。ホテルという標示のある建物の戸口には、まだ明るいのに、ショート・パンツやミニスカート姿の若い女性が「ユー・ウォナ・ゴー?」と言って客をひいている。わたしが通りかかったとき声をかけてきた女性などは、まだ十五、六歳にしか見えず、おそらくヘロイン中毒にかかっているらしく、うつろな目をして、ロバート・ウィルソンの舞台の役者のように身体を前後にひどく緩慢にゆり動かしている。この女性にはその後もよく出会ったが、目つきがまともなときはほとんどなく、そういうときは歩道にすわりこんでハンバーガーのようなものをむさぽっていた。
 キングス・クロスとこの種の女性たちとの関係はかなりながい歴史をもち、入口に小さな赤ランプをつけ、はっきりと売春業であることを明示しているマッサージ・パーラーの数も相当数にのぼる。最近は、家出少女や東南アジアからの女性たちがインスタントな勤め口としてここに流れこんでくるらしいが、一八八○年代からすでにキングス・クロスは、ヨーロッパからの移民者やボヘミアンたちの吹き滞りとして有名だった。ピーター・スピアリヅトは、『一九二〇年代以降のシドニー』(一九七八年)のなかで次のように書いている。
「ボヘミアン、外人、ユダヤ人、ギャンブラー、ストリッパー、ホモセクシュアルズ、服装倒錯者、売春婦、ゲイ・バー、ナイト・クラブ、非合法の堕胎医、そしてその他の”好ましからざるもの”が実際に、そして想像上より集まっていることによって、クロスは、おのぽりさんたちをたとえつかのまであれ魅了しつづけた。」 わたしは方向音痴らしく、地図を見てムダなく歩くということができない。さんざん同じところを歩きまわってムダを重ねた末に、わたしの身体的無意識の内部に”地図”が刻みつけられてはじめて、新しい街に慣れることができるのである。地下鉄駅を出て、ヴィクトリア・ストリートを歩いているときに何軒かプライベート・ホテルがみえたので、ふたたびその界隈へもどろうとするがなかなかそこへ出られない。全くの勘にたよって歩いていたらエリザベス・ベイという標識のある閑静な住宅街に出た。ほとんど商店はないのだが、オカルト本を好んでおいてある風情の小さな本屋があったので入って地図を買い求める。地図でみると、ここはもうキングス・クロス地区ではなく、ポッツ・ポイントという隣りの地区だった。
 ヴィクトリア・ストリートに出、最初に一瞥したプライベート・ホテルをみつけ、その一つに入る。が、そこは私営のユース・ホステルで、一日五ドルという宿泊費は驚異的だが、一部屋に二段式ベッドをいくつもならべた一種のベッド・ハウスで、わたしのように部屋で勝手な時間に仕事をする者には向かない。まあ、共同の台所と居間があるので真夜中に原稿を書くようなことがあっても何とかなるし、ほかではそんなことをしたこともあるが、朝寝坊ができないというのはちょっとまずい。とはいえ、ヒヅビー風の青年、家出少年とおぼしき若者をふくめて、十代から二十代の若者たちでいっぱいのこのホテルには、時間が許せば泊ってみたかった。
 三階だての小じんまりした建物に、”ヴェイカンシー”(空室あり)の札がみえたのでベルを落すと、二階の窓があいて、白人の家主らしい初老の女性が疑いぶかいまなざしでわたしを見下ろした。その目つきを見てわたしは口を開く気力を失ったが、「ハブ・ユー・ア・ヴェイカント・ルーム?」と言うと、その女性は無理なつくり笑いをしながら、「わるいわねえ、たったいまふさがっちゃったのよ。あら、看板をなおしとかなくちゃ」と答え、窓をぴしゃりと閉めた。ちなみに、そのホテルのまえを十数分後に通ったが、看板の”ヴェイカンシー”はもとのままだった。
 空部屋がなかなかみつからず、少し落込んだ気持になりながら、ヒューズ・ストリートという細い路地に入ったら、その通りにも三軒ばかりプライベート・ホテルがあって、その一軒がガラ・プライベート・ホテルという、いかにも”民宿風”の家だった。ペルを押すと出てきたのが、短パンに裸足、上半身はばたかという、サーフイン帰りみたいな中年男で、胸と腕に華麗な入れ墨がある。オーストラリアでは、入れ墨をしている人がひじょうに多く、入れ墨がヤクザのトレイド・マークであるといった伝統はない。入れ墨師の店も多く、五センチ四方のサイズの簡単なデザインの入れ墨だったら、一五ドルぐらいでやってくれる。で、その入れ墨だらけのマネージャーは実に気さくな男で、あいている部屋をいくつか見せてくれ、「日本人も泊まりにくるよ」と言った。建物は一九世紀末の個人の屋敷を改造した三階だてで、部屋数は一二、どの部屋も小ぎれいに手入れされている。
結局、わたしは、一階の居間の奥にあるバス付で週七五ドルの部屋をかりることにした。
 明日からの住まいが決まったので、ひとまずピープルズ・パレスに帰ろうと、マクリアイ・ストリートヘ出たら、つきあたりに郵便局がみえ、さらにその通りをダーリンガスト・ロードの方へ進むと、小さな公園(フィツロイ・ガーデン)があり、そのなかに公立の図書館がたっていた。郵便局、公園、図書館  住まいの近くにこの三つの公共施設があれば、わたしはどんなスラムにでも住める。とりわけ図書館があれば、書斎などというものはいらないのである。
 本屋を何軒かのぞいてから、”アメリカン・カフェー”という名のイタリア風コーヒー店でエスプレッソをのみ、キングス・クロスの地下鉄駅に行くと、入口の石だたみに人だかりがしていた。それは、ギターを弾く大道芸人で、いままさに本日最初の演奏をはじめようとするところだった。
 オーストラリアでは、大道芸人のことを”ストリート・アーチスト”とは言わず、”パスカー”と言う。メルボルンに行ったとき、実は一番期待していたのがこのパスカーだったが、パーク・ストリートのデパートのまえで老人がカセット・テープにあわせてカスタネットとタンブリンをあやつっているのをみたくらいで、ニューヨークのように、公園や繁華街には必ず大道芸人がいるというようなことはなかった。日本で読んだ新聞では、ヴィクトリア州の芸術省がパスカーを保護し、大道芸の発展をプロモートしているとあったが、それは、芸術省の援助でオーストラリア各地の大道芸人が集まり、芸を披露するフェスティヴァルが一度ひらかれたのが、誤って伝えられたのだろうとのことだった。
 しかし、シドニーに住み、街のすみずみを歩いてみると、音楽、ダンス、手品、ジャグルといった芸を街頭で演じ、なけなしの小銭をもらう芸人がかなりいることがわかった。
これは、メルボルンよりもシドニーの方がより遊歩的な都市であるからにちがいない。とくにキングス・クロスは、街の性格上、夜おそくまで人通りがはげしいのでパスカーたちの数も多い。また、セントラル・ステイションや主要な地下鉄駅の通路は、ホール効果があり、一本のアコースティック・ギターの音が、アンプをつけたかのような大きな音でひびくので、ギター片手に歌をきかせゑ公人たちの格好の舞台となっている。



次ページ