スペースを生きる思想 目 次 ハッカーたちの街 秋葉原 ラジオと自動車 ハッカー的パーソナリティ いま再び秋葉原 都市のうさん臭さ” ヴィデオ灼都市 スイッチング・スペース 羽田 スイッテング.スペース 羽田のクロノロジー 貝殻都市羽田 フリー・スペースとは何か? 身休というフリー・スペース 記憶の街 下北沢 下北沢という街 Ich Kann 川俣軍司と佐川一政 都市の記憶 開放灼で共同的なスペース フリー・メディア セクシー.タウン 新宿 セクシー都市東京 浮遊するセックス 性的セラピー ポリセクシュアリティ ゼロ・ワーク エイズとポリセクシュアリティ エイズ予防はスポーツで!? パフォーマンスのスペース 六本木 なぜ俳優座のパブにいるのか TVミラー 私のアンドロイドとの対話 電子の街路を歩いていく 電子人間つく アンドロイド的身体 開かれた身体 スペースの思想 日比谷 スペース論の枠組 イデオロギーからスペースヘ 電波のフリー・スペース スペースとパーティー スペースの規定力 スペースのコントロール モノと情報} 身体というスペース 電子テクノロジーとスペース 音のスペース ホームレス・スペース 山谷 山谷を歩いてみれば ホームレスの出現 山谷の歴史 情報生産としての消費 ホームレスとハッカー あとがきにかえて ハッカーたちの街 秋葉原 ラジオと自動車 戦後のスペースー⊥意識のスペースから建築のスペース、都市のスペース、さらには政治、経 済のスペースまで含む非常に広い意味での戦後の日本のスペースを考える場合、最低限二つのサ ンブル・スペースが考えられるのではないか。 一つは自動車に象徴されるようなスペースです。戦後生活のメイジャーな動向はアメリカ的生 活様式、「アメリカン・ウェイ・オプニフィフ」を追ってきました。その象徴的な物質が白□動車 だったわけです。実際に、道路も高速道路ができ、ガソリンスタンドができ、高層ビルができる のは戦後です。日本の都市の多くは自動車向きの都市に変わってきた。 そういうスペースの流れが一つあるとすると、もう一つ別の流れがあると思います。自動車都 市とは別に、日本の都市のなかにはいまでも戦後の闇市から続いているような都市、闇市の屋台 のように、いろんなものが一つの場所に凝縮しているようなスペースがあります。そういう意味 で非常に象徴的な物はラジオです。 ラジオと自動車は二つのサンプル・スベiスとして戦後のH本のスペースを規定してきたので はないでしょうか。 ラジオ街という意味では秋葉原は一番それをはっきり出している都市です。厳密にいいますと、 ぼくの記憶でも秋葉原がラジオ街になるのは少しあとのことで、もっと前は神田駅のほうがラジ オ街の中心地でした。それが五〇年代に入ってだんだん秋葉原のほうに移ってきて、やがて秋葉 原が中心になってきます。 いま秋葉原の町を歩いてきましたが、最近またその中心がずれはじめている。駅のガードドに ラジオセンターがあり、昌平橋方向にラジオデパートがある。以前はラ、シオセソターの側が文字 通り中心だったのですが、最近はラジオデパートの周辺がホットなラジオ街になってきています。 若者が集まるジャンク屋の秋月電子とか若松通商とか千石電商はみなこのエリアにある。それか ら、コンピュータを扱うソフマップという店もその近くですね。 いずれにしても神田、秋葉原はラジオ街として発達してきたわけですが、秋葉原は自動車の中 心地の豊田市とは非常に性格のちがう都市です。豊田市は市ではありますが、闇市的な都市と比 較すると全く対照的なだだっ広い都市です。 日本の高度経済成長は、一貫して自動車文化を追求してきました。自動車文化の浸透はn□本の 戦後の主要な動向です。これは必ずしも日本だけではなくて、四〇年代以降の世界の動向は、ど こまでアメリカン・ウェイ・オブニワイフや自動車文化を普遍化していくかということで来たと いっていいと思います。つまりいままで高速道路もなかった都市に高速道路ができてくるという のは、日本は六〇年代に経験したのですが、いまは韓国が経験していることです。そういうプロ セスは世界的に見出せます。 意識レベルにおいても、個人主義 西欧ブルジョア思想のなかで出てきた個人主義 と自 動車とは非常に密接なつながりを持っているわけで、まず自分のスペースを移動できる、自分で 処理できる、それを自立したものとして処理できるというのが、自動車の本質をなしているわけ です。そういう自動車的スペースは、個人主義と密接なつながりをもっています。それがあらゆ るレベルにおいて広がっていくのが戦後の日本におけるアメリカ文化の浸透でしたし、世界の文 明の動向になってきたと思うんです。 日本の場合、戦前的なスペースから戦後的スベースヘ転換していく転形期は五〇年代です。一 九五五年にトヨペツト・クラウンが発売される。それでトヨタは一九五九年にいちはやく豊田市 に乗用車専用工場を設立します。これは日本で初めてのことでした。そこから日本の高度経済成 長がはじまりますし、ひいては、いまや悪名高き日本企業の世界進出が始まるわけです。いまで はアメリカにかわって日本が自動車的文化と自動車的スペースを世界に広げているわげですが、 四〇年代、五〇年代にはその役目はアメリカにありました。 意識のスペースというレベルで考えてみますと、自動車の浸透と並行して、あるいはそれに先 立って、自動車的、アメリカン・ウェイ・オブニワイフ的なスペースを準備する出来事がいくつ もあります。 その一つは一九五三年に伊東絹子が、ミス・ユニバースになったことでしょう。それ以前には、 女性の身体に対する価値観は全く違っていまして、戦前のグラビア写真や広告写真と、戦後十年、 二十年ぐらいの広告写真とを比べて見てみると一目瞭然です。五〇年代以前は、広告写真のなか に下半身の写真が出てきません。顔だけです。ところが伊東絹子がミス・ユニバースになってか ら、下半身への関心が高まってくる。広告写真にも女性が写る場合には下半身が出てきます。脚 を見せる。そういうふうになってくる。身体意識が完全に変わってくるわけです。あるいは女性 に対するセクシュアリティといっていいかもしれませんが、その基準が変わってきます。八頭身 という発想は伊東絹子から出てくるわけで、それ以前は八頭身などという発想はなかった。昔、 小股の切れ上がった美人という言葉はありましたが、それも着物の問からちょっと見える脚で、 下半身全体というものではありませんでした。つまり、ミス・ユニバースから、いままでとは全 く違った身体意識が出てきたわけです。 もう一つは戦後の大衆音楽における笠置シヅ子のブギではないでしょうか。これは一面で戦前 的な歌謡曲の流れを継承してはいますが、やはりアメリカ志向です。進駐軍的な文化、アメリカ のジャズヘのノリがあったわけで、笠置シヅ子とともにアメリカ的な文化を求める傾向がすでに 始まっていたということだと思います。それは戦前的な文化とは決定的に離反する文化です。 だから当然、一種の揺り戻しが出てくるわけで、笠置シヅ子のブギが出たあと古賀政男路線と いうものが強く出てきて、「湯の町エレジー」がヒットする。美空ひばりなどは、結局、笠置シ ヅ子的なものを否定していったところで生まれたのだと思うのです。戦後の歌謡曲の発展は、基 本的にアメリカ的なものを否定する形で出てきたのではないでしょうか。いま、今度は歌謡曲が だめになっています。それは戦後の三十年なら三十年という歴史を見た場合に、最終的にアメリ カ的な音楽文化が浸透してしまうということになったということですが、その問に歌謡曲がアメ リカ的な文化の流れに拮抗した形で出てきたところがあったわけです。 一九五〇年代の半ばぐらいに、江利チエミ、雪村いづみ、美空ひばりの三人娘トリオができま す。非常に面白いと思うのは江利チエミはジャズ、雪村いづみもジャズです。江利チエミは若干 歌謡曲的なものを持っていますが、雪村いづみは基本的にジャズです。それに対し美空ひばりは 歌謡曲。この三人がトリオを組めたことは非常に面白いと思う。まさに、つの転換期を象徴して います。その後どちらかというと歌謡曲フームが出てきますけれども、いまの目で見てみると、 美空ひばりは忘れられっっあります。それに対して雪村いづみは時どきテレビで歌ったりしてい ます。雪村いづみ的なものはいまでもわりあい受け入れられるところがあるのではないかと思う。 これは基本的にアメリカです。 ぼくは歌謡曲はあまり好きじゃないんですが、歌謡曲というのは、戦前のをいま聴いてみると、 同時代のアメリカのポピュラー音楽の影響を強く受けているのですね。歌謡曲は純日本的だとい うふうに見るのは絶対間違いだし、古賀政男も非常に多くのものをアメリカのポピュラー音楽か らとっている。そういう意味では非常に人工的な日本性だと思います。しかし、それはどこかに 自動車カルチャーを押さえ込むような側面を持っている。だから、自動車文化的なものに対抗す る歌謡曲とアメリカ的なポピュラー音楽とが共存できた五五年という時代は非常に面白い時代、 転換期ではなかったかという気がします。 戦後の意識のスペースということを考えた場合、アメリカ志向がはっきり出てきたのは五〇年 代以降ではないかと思います。もちろんそれ以前から進駐軍文化への思い入れはミュージシャン の問にもありましたし、いろいろなところにあったとは思いますが、知識人があと、がれる海外は フランスだったと思う。たとえば太宰治の場合、彼のなかにはかなり強い海外文化コンプレック スがあったと思いますが、彼にとっての外国は、フランスだったのではないか。銀座のパー「ル バソ」の椅子に座って足を組んで写っている有名な写真がありますが、あれなどもフランスのキ ャフェを思い浮かべながらポーズをとっているようなところがある。そういうフランス文化志向 は知識人のあいだでは戦後のかなり後まで続いたと思います。 それがある時期からアメリカになるのです。それは、フランスではサルトルがアメリカの小説 や映画を賛美する文章を書いた四〇年代後半ころから、浸透しはじめたのでしょうが、u本の大 衆的なレベルでは太陽族の出現からだと思います。石原慎太郎が一九五五年に『太陽の季節」で 芥川賞をとる。それが五六年に日活で映画化されて、いわゆる太陽族が出てくるわけです。これ は広い意味でやはりカー・カルチャーのはしり、日本における自動車文化のはしりだといってい いと思います。 『太陽の季節」に主演した石原裕次郎、まさにあれが広い意味で見た場合のアメリカ文化のはし り、日本でのアメリカ的大衆文化のはしりだったのではないでしょうか。彼が中年になってから はじめたテレビ・シリiズ『太陽にほえろ!』は、まさに自動車が主役のテレビ映画です。自動 車をバソバソ使って、アメリカ映画でも恥ずかしくなるような、かつての世界の検察官としての アメリカを露骨に感じさせるような内容のドラマですね。ここでも「太陽」という言葉が出てき ますが、あそこまでいってしまうと、「太陽」はまぎれもなく日の丸です。しかし『太陽の季節』 の「太陽」は、日の丸というより実はアメリカだったと思います。「スモール・イズ・ビューテ ィフル」ではなくて、「ビッグ・イズ・ビューティフル」のアメリカだったのではないかと思う んです。 『太陽の季節』で非常に重要だと思うのは、石原慎太郎があ・れを書く場合ヘミングウェイの影響 をものすごく受けていることです。ほとんど模倣といっていいくらい文体はヘミングゥェィ(の 翻訳文体)からとっています。ヘミングウェイはまさに旧き、「強い」アメリカの象徴的な存在だ ったわけですし、力とかスピードとかいうものをまさに一言語のなかで表現しようとした作家です。 ところで旧きアメリカを継承した戦後の大衆文化、あるいは大衆的な意識モデルとして石原裕 次郎と石原慎太郎があるとすると、その後の、ベトナム以後のアメリカを継承する意識モデルを 提示した小説家としては田中康夫がいると思います。一見すると石原兄弟的なものと田中康夫的 なものとは対立し合うように見えますが、そこには一貫した一つの流れがあるのです。 東京の都市スペースは、石原慎太郎から田中康夫に至る一つの意識スペースに合わせて変わっ てきたのではないかと思います。石原は自動車文化のヒーローですが、田中はポスト自動車カル チャーを代表している。もちろん田巾康夫の小説のなかでも自動車は重要な要素を占めている。 『なんとなく、クリスタル』のなかにも自動車は出てきます。しかし田中は、八○年代以降のヤ ッピー的アメリカ文化とつながっている。車は〃優雅”な〃室内”から”室内”への移動用具に すぎないのです。これは、石原も田中も、日本の消費都市のスペースに焦点をあててきたところ からすると当然のことでした。『太陽の季節』の舞台は東京ではなくて湘南です。しかし湘南は 早くから今日の東京的な消費文化を先取りしていました。アッパー・ミドル・クラスの人たちが 住んでいた場所でしたし、そこでは十年、二十年を先取りした東京的な消費生活をやっていたわ けです。そして、田中康夫は、今日の最も消費的な都市を小説のスペースにしたわけですね。 しかし、戦後のスペースを考える場合、必ずしも石原的、田中的スペースだけがすべてではな くて、もう一つの流れがあるのです。それが、これから話すラジオ的スペースです。 柴田翔の作品に「ロクタル管の話」という短編がありますが、その主人公「ぼく」に象徴され るような意識、あそこで取り上げられている舞台 神田、秋葉原周辺 、まさにこれがハッ カー的パーソナリティとラジオ的スペースのはしりです。 ハッカー的パーソナリティ ハッカーは今後、メイジャーなパーソナリティ・モデルになっていくというふうにぽくは見て います。そこでは自動車文化のスペースの主役は後退していくだろうと思います。いずれにせよ ぼくは、このハッカー的なパーソナリティとハッカー的な意識スペースが柴田翔の「ロクタル管 の話」のなかで非常に範例的に描かれていると思うのです。 「ロクタル管の話」は、、九六〇年に『象』という雑誌に発表されました。これは、中学生ぐら いのある少年が当時の万世橋周辺のジャンク屋でロクタル管という真比」L管を買う、ところがそれ がインチキでだまされてしまうという話です。このなかに、当時の露店がずらりと並んだ神田、 秋葉原周辺の非常にヴィヴイッドな描写があります。少年は非常に孤独な生活をしている感じで すが、その意識が非常によく描かれているし、同時に少年がうろついた都市の雰囲気がよく出て いる。ちょっと引用してみましょう。 「ラジオ屋の三軒を見終って、何とはなくまた歩き出した時、ぼくは右手に、ふと異様な感じを 受けて立ち止った。右手には狭い路地が長く、薄暗く、入り込んでいた。異様な感じは確かにそ の路地から来ていたのだが、より正確には、異様さは路地から来ていると言うより、むしろその 路地の在りようそのものなのであった。その路地は大きな店の側面の窓のない高い壁にはさまれ、 奥には戦前からの古びたしもたやもありそうな、狭い、暗い、じめついた感じの、しかし何処と 言って取り立てて特別な所のない、至極平凡な、いわば路地らしい路地なのではあったが、奇怪 なことには、それら全て平凡な諸要素からでき上っているその路地が、全体としては何か異様な、 あの頃のぽくの生活に対して完全に異質な、ある敵意といったような異様な雰囲気を持っていた のだ。ぼくは不気味な、しかし逆らいがたい予感に充たされて、その路地へ吸い込まれて行っ た」。 ある種の身体的スペースがここに表現されています。そのなかにいる「ぼく」は、学校のクラ ブの仲間のことに言及し、しばしば「ぼくら」という表現を好むのですが、どちらかというと孤 独な少年、孤立した存在です。人問的身体よりもむしろメカやエレクトロニクスがつくり出すよ うなものに身近さを感じるようなパーソナリティです。たとえぼこういう表現があります。 「だが、そういう箇所にもましてぽくらをひきっげたのは、ガラスの側面が次第に上底面へ移り 変る時見せる頭部の曲面の美しさ、そして、その曲面に内側から吹きつけられている、電極のシ ールド用の銀の薄膜が時折みせる、息が詰まって来るような輝きだった。あの頃、神田の小川町 あたりから須田町あたりまで、ずらっと並んだラジオ部品ばかりの露店街を終日ほっつき歩いて、 もう薄暗くなった時分、ふと目の前の露店の裸電球の下にロクタル管が白く輝いているのを見つ けた時、ぼくらは思わず立ち止ってしまうのだった」。 この「ぼくら」という表現がちょっと気になります。このへんが『されどわれらがH々」を書 いた柴田翔の矛盾でもあります。つまり「ぼく」でいいはずを「ぼくら」として何かひとつの連 帯感を表示する。ここにはある種「民有的」ないやらしさがある。これは「ぼくら」というより 「ぼく」だと思うんです。まあ、ある一つの同時代の記録として「ぼくら」という表現を使おう としたのかもしれませんが。その意味では、ここには、ロクタル管の身体性といいますか、その 後、アンドロイド的身体性とでもいえるようなものにリアリティを感じる世代のはしりが描かれ ているといえるでしょう。 この世代は、ハッカー世代のはしりでもあります。『ハツカーズ」という本を書いたステイー ヴソ.レビィはアメリカのハッカーの定義としてこういう言い方をします。「ハッカーというの はものを分解し、その働きを観察し、そうして得た知識を用いて新しくより面白いものを作りだ していくという経験を通じて学ぶことができると信じている」パーソナリティだ、と。ハッカー たちはこういう経験を妨げようとする人問、物理的障壁、法律、そういったものすべてに慣る。 だからハッカーは車の運転を嫌う。なぜかというと車の運転は交通規則に従わなければならない。 ところが交通規則というのは極めて不完全なプログラムだ。そういう不完全なプログラムに従う ことはできないというのがハッカーなんだ、という言い方をしています。 ロクタル管は、人問的身体よりもより完成された、崇高な、しかも、ある種の有機性を持った ようなものとして捉えられてくるのですが、ハッカーにとってコンピュータ・プログラムとは本 来そういうものなのです。人問よりももっと人問的なリアリティを持っているものとして捉えら れています。「ロクタル管の話」の「ぼく」とハッカーとの共通性は、物を分解したり、その働 きを観察したりということが一種のコミュニケイシヨソにたっているということですね。この点 は、「ロクタル管の話」に非常にうまく出ているのではないでしょうか。こういうパーソナリテ ィがだんだん普遍化してくるのが戦後のもう.つのスペースの腔史でした。そういうスペースが、 高速道路とか団地とか郊外都市とは別に広がってきたのではないかと思います。 東京には確かにオリンピック以後、非常にトラスティックな形で高速道路ができ、それから高 層ビルができましたが、いまでは結局、矛盾を起こしています。自動車都市としては破産してい ると思うんです。つまり、あれだけ大規模な都市整備計画が立てられて高速道路ができたりして も、しぼらくするとどこかに狸雑な部分ができてしまう。 戦後のスペースを見た場合に、巨大なものになろうとする、広がろう広、がろうとする動きがひ とつあります。それはアメリカ的な向動車文化と相関したものとして考えていいと思うんです。 そういうものが一方でありながら、それとは逆行するような、縮んでいこうという動きがもう、 方にあるわけです。そこの部分でラジオ少年やハッカーというものを考えていいと思うのですが、 そういうものが一方では確実に密度をましている。結局、戦後のスペースは.方で広、かろうとし ながら、他方ではうちに閉じこもってくる。凝縮してしまうという動きを.小します。このへんが、 社会運動の場合にも、建築構造の場合にも、政治に関しても全部がかわってきているのではない かと思うんです。 日本の戦後の高度経済成長を考えた場合にも、やはり、一つの枠組みがあります、一つは自動車 ですが、トヨタに象徴されるように、日本の自動車産業はアメリカの自動車産業を後追いしなが らそれを乗り越えるという形で発展していきます。ところが同時に、もう.つ、日本はトランジ スタあるいは電子部品というレベルで高度経済成長を図ったし、世界進出を図った側面があるわ けです。一九六〇年から六四年まで首相を務めた池田勇人がフラゾスヘ行った時、ドゴールに会 いました。後でドゴールが池田の印象として、「トランジスタのセールスマンみたいだった」と 言ったそうです。当時すでに日本のトランジスタラジオは、かつてのH本のおもちゃに象徴され るような、「メイド・イソ・ジャパン」というとインチキというイメージを修正するものとして 次第に世界的な注目を集めていました。そのきっかけが一九π五年に東京通信工業、いまのソニ ーの前身が発売したトランジスタラジオです。このトランジスタラジオは一九五七年にはもう真 空管のラジオを圧倒していきます。以後、日本のラジオ、エレクトロニクス製品はすべてトラン ジスタになっていく。 トランジスタは、ユ業レベルにおけるある種の凝縮史化の産物でした。自動車はその逆だと思 うんです。トランジスタ産業は巨人な産業ではありますが、スペースの意識としては凝縮、小さ いものへ小さいものへという方向で発展したわけですね。真空管からトランジスタ 本質的に 凝縮的なもの1への転換が起こるのが五〇年代の半ばですが、まえに一口ったようにジャズ的な ものが歌謡曲とぶつかり合う時期がやはり五〇年代の半ばだったということ、これはおもしろい 符合です。 いま再び秋葉原 五〇年代に入って秋葉原のラジオセンターが大火事を起こします。あそこはもともとスクォッ タリング、空き家占拠をした人たちが定住したような雰囲気のところで、自然発中的に増えてし まった露店が街頭からガード下に入ったようなところがあります。それが半分以L燃えてしまっ て、新しいラジオセンターがその後できる。いまのセンターは大火以後のものです。 秋葉原の電気店に去年(、九八六年)ギャラリーができました。これは非常に象徴的だと思い ます。秋葉原がいまや電気部品や家庭電化製品のマiケットだけではなくて、ある種の新しい都 市文化の拠点になり始めているのではないかという気がします。ラジオの部品を買いにいく、あ るいは家電製品を買いにいくだけではなく、秋葉原に遊びに来る人も増えているようです。そう いう意味では秋葉原はいま新しい都市として面白くなってきているのではないかと思うのですが、 電気部品のマーケットとしての秋葉原は、五〇年代の後半には停滞していったのでした。火事は まさにそういう時期に起こったのです。 トランジスタが出現して、真空僧を使一一た電子匝路一がトラン、シスクにバ太一、てくるとた加でも それをつくるわけにはいかない。トランジスタはいまは安いものだったら一一.LlHとか五十円とか ですが、かつてはものすごい値段、がしました。真空管よりも高かったんです。しかもちょっと使 い方を間違うと、瞬にしてだめになってしまう。真空管の場合は少し電圧を間違えても壊れない 強さを持っていました。ですから真空管でラジオをつくったり無線機をつくったりということは 非常に楽だったし、またそういうふうにつくらなければ望みのものは手に入らなかったわけです。 大量生産のラジオも出てきていましたけれども、依然としてまだっくるほうが安く、かっメリッ トがありました。ところがトランジスタになったら、素人がつくったらとてもじゃないが高くて ひきあわない。趣味でやるしかないものになってきたわけです。 そこで、五〇年代の後半ぐらいから秋葉原に行かなくなった人,かずいぶんいたと思います。実 際にぽくはあの時代に秋葉原をうろついていたのですが、圧O年代の後半からジャンク屋さえな くなったと思います。柴田翔が「ロクタル管の話」で描いているような、うさん臭い、電気製品 を売っているというよりも空ものを売っているかのような雰囲気を持ったジャンク屋はなくなっ ていったと思うんです。もともとジャンク屋は戦後の放出品をさ、ばく、ある意味で非常にうさん 臭い場所として発達してきたわけです。それは放出品がなくなってくれぼだめになるわけですし、 まして大丁場のなかで、高度の測定機を備えた場所でつくられるトランジスタ製品が主流になっ てくると、ジャンク屋の役目は終わります。そういうわけで、斤○年代後半から、秋葉原は急速 に活気を失ってきたのでした。 その時に秋葉原がどういう生き延び方をしたかというと、家電への進出…、家電のマーケット化 です。それまでももちろん、あそこへ行けば家電製品はあったけれども、掃除機だとか冷蔵庫だ とかテレビだとかだけを売る店はごく一部でした。家串凧製品を買うためにだれでもが秋葉原に行 くというふうにはなっていなかったわけです。一般には、洗濯機は近所の電機屋で買う、あるい はデパートで買うという傾向のほうが強かったと思います。ところが六〇年代になって家庭の宙 化がどんどん進んでいって需要も増えてくると、秋葉.原が家電のマiヶツトとして活気づいてき ました。それまでは電気部品商ばかりでしたが、それに対して石丸電気のような比較的大きな店 が店舗を家電マーケットに変更しはじめる。ああいうものはもとはありませんでした。ヤマギワ デソキはかなり大きな店でしたが、照明のプロ、か買いにいく店だったわけです。それが、一般の 人にも室内インテリアとしての照明器具を売るという方向に転換していきます。広瀬無線も最初 は部品商だったけれども、それがビルを建てて、ラジオ、テレビ、洗濯機までも檬くようになっ ていきました。露店とはちがう巨人なビルがあそこにヴつようになるわけです。そういう形で秋 葉原は変わっていったと思います。 ところが、近年、新宿とかいろいろなところに安売りショップができます。ディスカウント・ ショップがいっぼい出てくる。第、家電などは典型的だと思うけれども、いろんなところに店を つくって、秋葉原価格で家電を売るというふうになってきます。そこからまた秋葉原は変容を迫 られてくるわけです。 それと同時にもう一っ、秋葉原はその間に、七〇年代に入ってコンピュータの町として活気を 取り戻し始めていました。パーソナルなコンピュータは、、九七九年にNECがPC8001を 十六万八千円で売り出してから完成品としてのパソコンが普及し始めます。いまパソコンを自分 でつくる人はそう多くないと思いますが、それ以前にはバソコソは自分でっくるしかありません でした。二十万とか三十万とか、それぐらいの費用でコンピュータをいじってみようという人た ちは、キットを買うとか自分でつくるしかなかったと思います。そういうキットやコンピュータ 部品が七〇年代になって秋葉原の商店に山川回ってきます。 秋葉原の変化をさらに決定的なものにしたのはICです。トランジスタはだんだん安くなって いきますが、トランジスタの場合、部品自体が非常に小さいということがあって、それをたくさ んっないでいくのは非常に繁雑な作業です。それに対して、個のなかにトランジスタが十個とか .一十個分入っているICが一般に山川回るようになってきますと、ICをいくつか買ってきてそれ に若干の部品をっなぐだけで、アンプとかFM受信器ができてしまうわけです。七〇年代にはこ ういう新たな状況があらわれました。ICが単発の部品として安く出回るのは七〇年代です。そ の時に秋葉原は再び部品マiヶツトとして活気づいてくるわけです。 いま秋葉原を回ってきたのですが、本当に小さな部品を仕切って売っています。もともと秋葉 原は部品商として発達したわげですから、コンデンサーにしても抵抗にしても一つずっは小さい からそれらを置くスペースも小さくてよかった。ところが家電になってくると小さいスペースで は売れません。そのため、家電業に転換しなかった秋葉原の店は、一時期は非常に専門的な人だ けを相手にする店になったと思います。ところがICなどが出てくると、それほど高度に専門的 な知識のない人でも、小学生、中学生でも、ちょっと本で勉強して何かをつくることができます。 秋葉原は、そういう人が部品を買い求める場所にまた戻ってきたわけですね。部品は前よりもま ずます小さくなっていますから、狭いスペースに内容的には終戦直後の露店の時よりももっと密 度の濃いものを置けるわけです。ですからスペースの凝集度としては前よりも高くなっている。 そういう現象。かいま起きています。 東京にはまだ古典的なマーケットがあって、店によってはその多様性はなかなか見事なもので すが、それをはるかにL回る多様性が秋葉原のマーケットのなかにはあると思う。しかもそれが なま 空ものではなくて電子部品だというところが非常に現代的だと思うのですが、そういう現象が出 てきています。だから必ずしもエレクトロニクスに関心がなくても、あの街路を歩き回ると非常 に面白いのではないかと思います。 郁市のうさん臭さ 戦後白動車都市の浸透とともに都市がだんだんスリックに、まさに「なんとなく、クリスタ ル」になっていって、うさん臭い部分がなくなってきました。ところがそういう要素が、電子部 品の多様性、電子部品の持っている人工的なうさん良さとともに復活するさまが秋葉原という都 市のなかに見出せるわけです。この逆説は面白い。 都市のうさん臭さは、もはや空ものの側からは復活できないとぼくは思います。たとえば魚河 岸とか築地の市場とかには空ものの持つ多様性、うさん良さというのはまだあるかもしれません が、しかし行ってみれぼわかるように、非常にオルガナイスされていて、空ものの持っているう さん臭さはもはや感じられない場合のほうが多い。ところが秋葉原では逆に、電子部品という、 本来、非常に無機的なものが逆にうさん臭いものをつくりだしてしまう。ここのところが面白い のです。先ほど行った国際無線の店頭に並んでいる中古部品などは非常にうさん臭いものです。 ふっと見るとさりげなく無線機が置いであったりする。無線機というのはつねに違法性を持って いるわけですから、非常にうさん臭い。 盗聴機を並べている店もありました。それはピカピカの、機械として非常に洗練されたもので すけれども、その使い方を考えると非常にうさん臭い。そういうものがいろいろある町です。そ こが都市の可能性として面白いと思っています。 秋葉原がなぜ、いまの、たとえば原宿とか公園通りと比べて活気があるかというと、それはひ とつは国際性ということがあると思います。国際休というより、一種のエスニック性といってい いかもしれないけれども、そういう異質なものが混じりあっている、あるいは国境線を越えてし まっている、というところがあるのではないか。現に、秋葉原の町を歩くと、「H米無線」とか、 「国際無線」とか、一国主義、ナショナリスティックではない名前の店が結構多い。それは、拡 大解釈になるかもしれませんが。 実際にジャンク屋のなかには、韓国とかムn湾とか中国とか、そういう系統の人が経営している 店というのは結構多いわけです。それは当然日本では国際性を持っていることになるし、少なく とも一国主義の存在ではない。それから、秋葉原のマーケットに入っているものは、アメ横もそ うですが、非常に多国籍的なものが多い。台湾のラジオ部品もあるし、香港のものもあるし、韓 国のものもあります。もちろんアメリカのものもあるし、ヨーロッバのものもある。そういうも のがごったになってある。そしてアメリカやヨーロッバ、東南アジアの諸国からもお客がくるわ けです。その意味で、原宿や渋谷や新宿よりももっと奥行のある国際性があるという面は否定で きないでしょう。ある意味で市場というのはそういうものだと思うけれども、市場の本来性みた いなものを維持しているという意味で、秋葉原は面白いのです。 終戦直後の都市や市場に活気があったとすれば、それは異質なものが混じりあっていたからだ し、そこに国際的な状況があったからです。ただ、市場の持っている国際性というのは、コスモ ポリタン性とでもいったほうがいいものであって、そこでは国境的なものは崩れていないわけで、 むしろ重要なのはそこでの国境侵犯です。相互浸透が行なわれていることです。そういうものを 撤廃したアナーキーなものは、市場のなかでは出てこない。市場はそれでは成り立たないと思う んです。つまり国境などの領域があるからこそ、それを束の問、相互に浸透させる場として市場 があるわけです。 秋葉原の都市の可能性ということを考える場合に、それはいわゆる「ポストモダン・アキハパ ラ」という発想とは全く違うことを強調しておかなければならないと思います。秋葉原のラジオ ストアの奥のところに古い喫茶店があって、そこは秋葉原通の行くところになっています。別に 電子部品を買うわけでなくても秋葉原をぐるぐる回った後、そこに寄ってコーヒーを飲むのが通 なんだという一種のスノビズムが生まれつつあるようです。そこには五〇年代が残っているから というのですが、そういう都市としての秋葉原をぽくは評価するわけではなくて、秋葉原がいま の時代の「うさん臭い」都市であ・るという点で評価するのです。 しかし、それもいずれ終わるでしょう。だから、ぽくはもっと先を考えてみたいのです。 七〇年代にはつるつるの町が出てきました。たとえば原宿の表参道、そして渋谷も銀座も新宿 もだいたいそうなったと思います。かつて持っていた、生理感覚に訴えるようなうさん臭さはな くなっていった。 その反動が八○年代になって出てきます。ある程度都市に「うさん良さ」を入れていこうとい うわけですね。「レトロ」というのはそういうものです。しかし、この「うさん良さ」は、たと えば山谷のうさん良さとは、全く違うものだと思う。山谷というのはある意味で…舳壊の一途をた どるしかない、維持できないうさん臭さ つまり、なくなるか、あのまま続くかしかあり得な いようなうさん臭さなのです。「レトロ」志向の都市は決してそこまではいけない。それは、都 市が資本主義的都市として機能する場合に必要な程度のうさん良さ、都市の活件化にとって役立 つような「うさん臭さ」なのです。 山谷的なうさん臭さを都市のなかに取り入れるという、かつてリチャード・セネットがいった 「無秩序の活用」というような方向はやはり失敗に終わる。できないことがニューヨークで証明 された。それは資本主義的都市としては破綻を起こしてしまう。そこまで取り込めるほどのキャ パシティは資本主義都市にはないのです。本当に無秩序を取り入れれば面山いけれども、それを 取り入れた時には資本主義都市として成り立たなくなっていきます。だから結局どうなってくる かというと、現状では非常に人工的な形でのうさん良さになっていく。だから、「レトロ」のよ うな中途半端な「うさん臭さ」の次は、電子的な「うさん臭さ」だろう。その意味で、秋葉原の 電子的な「うさん良さ」が、これからまさに新宿においても渋谷においても取り入れられてくる のではないかという気がします。 秋葉原にいってから青物市場を覗いたわけですが、青物市場にいけば、そのスペースじゅうに 果物の匂い、野菜の匂いが充満しているし、たぶんうず高く積まれたダンボールの後ろではねず みが這っているのでしょう。そういう意味ではある種の有機的なうさん臭さがあるわけだけれど も、ぼくは、そういうものを原点と考えてそこに戻ればいいという発想は全然ないわけです。し かし、そういうものを一種のレトロ感覚として持ってくれぼいいんだという都市論がいまあると 思うんです。それはポストモダンという一言い方でなされている。あばら・家すらも非常にナウイん だという発想の都市論ですね。しかし、これは都合のいい部分で普遍性をもつだけであって、都 市論というよりも、都市への主観的な山心いにすぎません。それを本当にやることはできないでし ょう。つまり東京を山谷化できるかというとできないでしょう。山谷化したら面白いと思うけれ どもできないわけです。だから、結果的に、いまの資本主義システムの現状のなかで「うさん良 さ」を求める選択としては、秋葉原的な都市にいくと思うんです。 ヴィデオ的都市 都市の山谷化はできない、現状としてはある種の秋葉原化が進んでいくという場合に、そこに ぽくはもうひとつの、非常に逆説的な可能性を見ているわけです。それは何かというと、都市、か 秋葉原化していった時に、都市が終わってしまうということなんです。都市が終わってしまった 時に、それにもかかわらず何か都市的なものを求めた場合、その新しい都市は、ヴィデォ・スク リーンのなかにしかないような、あるいはコンピュータ・ネットワークのなかにしかないような 都市、そういうものが出現することになるだろうという予感なんです。 秋葉原を歩いていると、至.るところでヴィデオが映っていて、いろんな音楽が鳴っています。 これは非常にグロテスクなものですが、東京中がだんだんそうなってきています。たとえばマル チビジョン、か渋谷のパルコの建物の横にくっついている。店のウインドウのなかにもヴィデオの モニターがいっぽい並んでいて、そこにいろんなものが映っている。しかしこれは、渋谷ではじ まったものではなくて、映っているものは違うとしても秋葉原では前からあったものです。テレ ビをたくさん並べて映しているというのは秋葉原からはじまったわけですが、あれはマルチビジ ョンのはしりです。そういう意味ではまさに東京も、い圭一同速道路とか高層ビルがどんどん建」っ ていくのとは別に、一種の秋葉原化が進んでいるともいえます。そうすると、今後この傾向が進 むと都市全体がヴィデオになってしまう、ヴィデオ影像の装置になってしまう、という方向も考 えられるわけです。 だから、秋葉原的なスペースはヴィデオ・スペースにもつながっていることがわかります。自 動車的な都市のスペース、空間性は、むしろ映、胸的なスペースとどこかでつながっているのです が、それに対して秋葉原的なスペースはヴィデオにつながっているようなところ、かあると思いま す。 映画というものは確かにそこにいろんな情報を集めてはいます、が、その本質は拡散性なんです。 ヴィデオは非常に凝集力があって、しかも同時問のなかでいろんなものをそこに集める件格があ る。まさにデンシティを持続的につくり出しているようなスペースがヴィデオです。それに対し て映画は情報をいったん集めたらそれを固定してしまう。だから集まった情報は集まったままで 変わらない。結局は、映画というスペースは一つの窓として機能していく。それに対してヴィデ オはどんどん詰まっていく、そのデンシティが続いていくという性格があります。 しかし、そこまでいったとき、秋葉原的都市は終わるだろう。高速道路が渋滞のスペースとし て行き詰まっていくように、秋葉原的な都市はヴィデォとともに終焉していくだろうと思います。 その時に今度は何。か出てくるか。ヴィデオ的な都市というのは都市は要らないわけです。それ は部屋のなかにあってもいいし、携帯ヴィデオのなかにあってもいい。アメリカ的な、つの自動 車都市が終わり、さらに秋葉原的な凝縮都市が終わった時に出てくる都市は何なんだろうか。 いま、あるひとつの未来的シミュレーションをしてみると、一方に山谷的な都市が孤立した形 で忘れられたようになり、他方には、活気を失った自動車都市のあとに、秋葉原的な凝縮した、 電子的であれ、青物市場的であれ、何でもいいんですが、一様の人工的な闇市的な都市がしばら く続くんだけれど、それらも次第に孤立化し、忘れられていくと、やがて圧倒的な多数として出 てくるのが、電子都市なんだということです。 そういう予感がぽくはしているんだけれども、その場合、この郁巾の作人はふたっの選択を迫 られています。体を極度にどろどろにしていくような、体をリスクにさらしていくようなしかた で都市のなかで生きるか、それとも体をすっかり失ってしまうような電子スペースのなかで生き るかという、かなり極端な選択を迫られるのではないかということなんです。その時に、「もう、 電子スペースはいいや、電子スペースはもうかなわん」という形でそれを捨てる選択があるかも しれない。他方、どろどろの身体を逃れるという意味で、電子スペースのほうにくるということ もあるかもしれない。まさにここでは、いずれもう少し立入って論じるはずの、ホームレスかハ ッカーか、という意識スペースでの選択が要求されるわけです。 スイッチング・スペース 羽田 スイッチング・スペース きょうは大田区の羽田五丁目にきました。いま東京の西南部で、ジェノトリフィケイションが すすんでいるわけですが、その一方、東京の東北部の荒川、江東、足立…といった地域はジェ ソトリフィケイシヨソから振り落とされた感じがすごく強くて、ある種の沈滞ムード、時代から とり残された雰囮川気がある。そういう狭間に山谷があるわけです。 ジェソトリフィケイシヨソがつくり出すそういう「南北隔差」から少しはずれた場所はないか と考えたときにうかんだのが羽田五丁目でした。 大田区は、台東区と似たような意味で、非常にいろいろな場所が一緒に重層的に存在している 区だと思うんです。まず、田園調布のような高級住宅地がある。それから空港といった、現在の 交通手段のなかでは非常にすすんだ場がある。それから平和島みたいな競艇場があったり、池卜 本門寺のような占いイソスティチューシヨソがあったり、さらには,一子多摩川の娯楽センターに 接している。その意味で大田区というのは非常に多様なスペースをつくり出しているわけです。 これはニューヨークでいうとブルックリンに非常に似た地理構造を持っていると思うんです。 いずれにしても、いくつかの違う機能を持った場があって、しかも□本と日本ではない地域との スイッチングを可能にしているような場所でもあるわけです。 特に空港というのは、H本的なものが出ていったり、あるいはH本的でないものが入ってきた り、そういうスイッチング・スペースであるわけです。 羽出五丁目を歩いてから、羽田空港の国内線待合牢へいつて、そこがずいぶんきれいになった のに驚いたわけだけれども、そこから国際線の待合室のほうにずっと歩いてきたのです。いま羽 出の国際線は、チャイナ・エアラインが乗り入れているだげなんですが、それを表一止ってやらせ ないで、密かにでもないけれども、あまり目ヴたないやりかたでやらせているという感じなので す。そこの二階にティー・ルームがあって、片ぽくがはじめてアメリカにいった時に、そこで時 問をつぶした記憶があります。最初、このティー・ルームでスペース論をやろうというつもりだ ったんですが、なんとなく催しいうえに身体に対する拘束力が強いのです。この本は、しゃべる ことを通じてフリー・スペースのなかに自分を入れていくという試み、つまりいろいろなスペー スを見、歩き、体験しながら、そのなかで、自分の身体スペースに蓄積されたものを開放すると いう試みだと思うのです。ところが、どうも羽田の国際線の待合室の上にあるティー・ルームは、 そういうものを開放させてくれないわけです。拘束する力しか持っでないような気がするのです。 戦後の一時期の雰囲気を保っている、、シェントリフィケイションの時代以前のスペースの雰囲気 を持っているのはいいんだけれども、全体としてなげやりな雰囲気で、そこにいると開放されな いという感じがあって、そこでテープを回すのをやめてしまったのです。 それで結局、国際線の待合室から、すぐそばにある東急ホテルにきました。東急ホテルの七階 にラウンジがあって、いまそこでしゃべっているわけですが、ここを選んだのは空港の搭乗待合 室のロピーの雰囲気を持っているからです。空港の待合室のロビーというのは、身体スペースが 変わる場なんです。っまりこれから飛行機に乗ってどこかにいく。そうすると、自分の身体が別 なコードの中に組み入れられるわけです。それまで身体が使ってきたコードがひと区切りされる、 そういうスペースです。一種の組み替えの通過点なんですね。そういう、自分の身体コードを組 み替える疑似体験ができるという意味で、羽田東急ホテルのラウンジに来ました。 羽田に来るために、まずぽくらは、京浜急行の支線のーいまは羽出空港線というんですが、 昔は穴守支線といっていたようですね一-穴守稲荷という駅で降りました。そこからずっと歩い て、穴守稲荷を覗いて、空港まで辿り着いたわけです。ぼくは十年以上このあたりに来たことが なかったんですが、いつだったか、いま羽田五丁目が町としておもしろいという、噂の嗜みたい なものを聞いたことがありました。だから実際はどうなっているのかという感じがして期待して きたんですが、意外とそういうものはなくて、唯一目についたのは、「PASTA」という名前 の店で、外は一見、しゃれたイタリアン・レストラン風なんですが、近づいてみると、そこでは うどんしか売っていないのでした。玉うどんを売る店なのです。スパゲティも売っているのかも しれないけれども、ウィンドウには玉うどんだけだった。「PASTA」と横文字で書いた店な んで、当然スパゲティとかイタリアンパスタを売っているのかと思ったら、そうじゃなくて、そ れはそれでなかなか面白かったですね。そういう感覚というのはほかでは見たことがない。そう いう意味では面白かったんですが、あとはどちらかというと非常に寂れた町の印象をうけました。 羽田のテクロノロジー いま羽田沖にニューメディア都市をっくるといった都市プロジェクトがすすんでいるのですけ れども、羽田五丁目は、そういうことともほとんど関係がない、時間が止まってしまったような 感じがします。ここにある古いマーケットなどは、一九五〇年代の雰囲気です。ずっと歩いてい くと、基本的にまだ羽田が漁村であった時代の名ごりがあったり、稲荷があったりしますけれど も、その境内に入っていくと、潮が堤防を越えてよく水害が起きる、そういう時期の建て方をし ているのです。つまり床上げの建て方をしている。住宅にしても港町、漁村の雰囲気がある。し かしその一方には、町工場とか倉庫があるんだけれども、それもいまや斜陽の感じなんです。こ の近くは、かつては純農村だった。それがある時期に住宅地になって、その後、L業地になった。 そしていまその工業地が何かに変わろうとしている。そういう、ある意味で日本の産業構造の変 化と運命を共にしてきたようなところがあるわけです。 歴史的に辿ってみると、京浜急行というのは、だいたい東京最初の郊外電車なのです。1九〇 1年(明治三十四年)に開通している。当時、穴守支線といわれた、いまの羽出空港線は、翌年 にできている。だから、このあたりの交通は、非常に早い時期のものです。そういう意味では非 常にナウイ場所だったわけです。日本が軍事国家になっていくプロセスのなかで、「業化の場所 としても発達していったし、そういう意味でいつも時代の先端をいっていたのです。それから飛 行場という交通の先端部がここにできたということにおいても、ひとつの時代のインデックスに なっていました。 ぼくらは稲荷橋とか弁天橋とかあのへんを通ってきたんだけれども、あのあたりは1960年 の六月十日、ハガチー事件があったので忘れられないところです。アイゼンハワー大統領の新聞 係秘書のハガチーが日本へきてさんざんな目にあったわけです。当時、H米安保条約反対運動が 急速にもりあがっており、ハガチーはその状況を探りにきたのです。アイゼンハワーが来るド見 でもあったのでしょう。それに対して、安保反対の一万五千人のデモがハガチーの車を取り巻い て、ついにハガチーはヘリコプターで脱出するという事件でした。 あの時、ぼくはテレビで見ていたのですが、ハガチーは車の中で、顔をひきっらせていました。 周りでは「帰れ、帰れ」とさげんでいます。その時に、ハガチーが何をやったかというと、ポヶ ツトからミノックスというドィッの小さいカメラを出して写しているんです。自動車のガラスの ドアは全部閉めているんだけれども、そこに近づく人を写しているらしいんです。それがテレビ に映ったんです。それはぽくにはすごく印象的で、ああいう人は、この場におよんでもちゃんと 記録をとるような、ある種CIAに通ずる情撤収集技術を」心れないのだなあと思いました。当時 テレビではスパイものをよくやっていました。だから、ハガチiの第一印象は、ぼくにはスパイ のイメージでした。あの事件があったために結局大統領はこなかった。そういう事件があったの が稲荷橋のところなんです。 もうひとつは、六七年の十月八日に、第一次羽田闘争といわれる大きな運動があったのですげ れども、これは佐藤訪米反対のデモでした。その時、各党派がデモ隊を出したのですが、特に大 きな事件になったのは、弁天橋で中核派と機動隊が衝突して、当時京大の学生だった山崎博昭さ んが死んだ!殺された。弁天橋はそういう場所だったわけです。 貝殻都市羽田 こういう歴史的な背景を単に回顧してもしようがないんだけれども、羽田というのは、時代の 先端部がせめぎ寄せてくる場所であったと同時に、日本の何かが出ていく場所なんです。そうい う意味で見てくると、羽田という場所はたとえば山谷なんかと非常に対照的な場所なんですね。 山谷は、日本のひとつのトレンドが最終的に吹き溜まってくる場所です。たとえば高度経済成長 の波が高まってくると、建築ブームなどで東京の経済活動が活性化してくる。それを求めて地方 からいろんな人たちが出てくる。そういう人たちが集まってくるスペースとして山谷が機能して いたという面があるわけです。それに対して、羽田は、むしろいっも何かがどこかへ出ていって しまう場所というか、時代が変化した当座は活力があるけれども、時代がちょっと停滞してくる、 あるいは時代の波がある程度安定してくると、それまでたまった磁気が外へ飛び出して、何もそ こに残らない、がさがさになってしまうという雰囲気のある場所です。ですからどっちかという と 場としては負の場になるわけです。それに対して山谷の場合は、ある時代の波が去っても、 それが残存しているという雰囲気があります。だからいま高度経済成長が終わり、マニュアル労 働が力を持っていた時代はもう過ぎ去りつつあるのですが、山谷にいくと、そういうものがまだ 残って、生き続けているという雰囲気がある。それに対して羽田は、時代が去ると、そういうも のは完全に消えてしまって、後には形骸しか残らない雰囲気がある。 穴守稲荷を通って、海老取川沿いにずっと弁大橋のほうにきたら、多摩川に接する少し手前の 川岸の土が白いのに気づきました。そばにいってみたらそれが全部貝殻なのです。それも、一年 や.一年前のものではなくて、非常に古い、貝塚みたいにずっと堆積して、土手がすべて貝になっ ているほどです。羽出というのはまさにああいう雰囲気なのではないか。あの貝は、貝の缶詰か なんかの工場が近くにあって、まだ栄えていた時代にそれを捨てたのかもしれない。羽田という のは、そういうふうにいつも中身を外へ外へ出していって、殻しか残らないというようなところ があるわけです。ですから、殻だけが残るスペースということから、アメリカと日本との関係を 考えてみると面白いと思います。 歴史的には一九二九年(昭和四年)に、逓信省が、いまの羽田空港のど真ん中にあった稲荷神 社の裏手の五トガ平方メiトルの土地を飛行場にしたのです。戦前の地図を見るとはっきりして いるけれども、いまの空港の一二分の一のエリアを東京飛行場にしたわけです。それが、一九三一年 に民間飛行場として開場します。それをさらに十六万平方加えて、拡張したのが、一九三八年、そ れが戦時中には、南洋諸島への先進基地になっていくのですが、そういう意味で、羽田空港は戦 前の日本の丁業化のひとつの発進地になっていたわけです。ここを適じて東南アジア侵略も行な われた。 戦後は、ここはアメリカを考える場合に決して避けることのできないスペースです。一九四五 年に終戦になってアメリカ占領軍が入ってきて、いまの羽田空港の基礎をつくった。四五年八月 に米軍は、四十八時間以内に立ち退きをせよという命令をこの、帯にドして、敷地を広げた。い まの羽田空港のところは、かつて羽田鈴木町、羽田穴守町という.帯であって、人家があったの です。そこまで穴守支線 いまの羽田空港線 が入っていました。そこを全部撤収して、稲 荷神社も、現在の羽田五丁目に移転させられる。米軍がつくった羽出空港が、日本に返ってくる のは一九五ニ年です。だから、四五年から五二年までの七年間の問は、まさにここにはアメリカ があったわけです。 しかし、そのアメリカが出ていってしまう。山ていったということは、帰ってしまったという ことではなくて、日本全十に拡散して、侵入していくということですけれども。ここは通過点だ ったのです。まさに五ニ年以降、ここはその後に続く日木のアメリカ化の入口になります。その 意味ではここは、上種の時間スペースなんですね。通過点ともいえるけれども、同時にある限ら れた時間内に,ある特定の文化と経済、カ支翫サるようだ,そういう一種の時時的一フリー.スペ ース」なんです。いや、「フリー・スペース」というより、フレキシブル・スペースといったほ うがいいかもしれない。そういう要素があるのです。 ここには、何でも入ってくる。特にアメリカのものが入ってくる。けれども長続きしない。い つかはまた出ていく。そういう、いずれ出ていくだろうというあきらめみたいなもの、が羽田五、」 目を歩いていると感じるのです。というのは、ここにはずっと使っていこうという意識で建てら れた家はあんまりない。いつ取り壊してまた建て替えてもいいような感じの家,か多いのです。町 白体も、都市計画をきちっとやって、何世代にもわたって使っていこうという町には感じられな い。羽出線は、かつては飛行場へ通ずる重要な交通路だったかもしれないけれども、いまはむし ろこの地域に住む人の交通子段であって、飛行場への交通としては不ト分ですね。羽田空港駅か らもう一回バスに乗らなければ空港にはいけないわけで、かつて空港までつながっていた鉄橋は 使われないまま封鎖されています。だから、空港線であったものがもはや空港線でなくなったり、 そういう世の権力に踊らされているというか、そのなすがままに変わってきたというか、そうい うスペースなのです。 こういうスペースというのは、実は大なり小なり□本のスペースの平均的な性格を規定しても いるのではないかと思います。いつも自立できない、自立したスペースになり得ないという要素 は、日本の場合、意識的なスペースから都市スペースに至るまで、共通して見られるものです。 特にそれがテクノロジーの変化と呼応して起きてきているという点で、意外と羽出のスペースは 日本のスペースの消極的側面を代表しているような気もします。 フリー・スペースとは何か? ぽくがこの木のなかで絶えず問題にしていきたいと思っているフリー・スペースというのはど ういうものかというと、フリーであるということは、コード,か無限に組み替えられるということ ですね。あるいはコードが絶えず脱構築されるポテノシャルを持っている、ということだと思う んです。身体というものは基本的にそういうものです。絶えず身体を拘束し、制度のなかに入れ ていくのが権力だとすれば、身体は絶えずそれに逆らいながら、コiドを組み替えてきたと思う のです。ですから、組み替える可能性がまだ残っているということがn由である、フリーである、 ということにもなります。 フリー・スペースというのは、ある時点では、制度の形をしているのだげれども、それがっね に暫定的で、組み替え可能なものなのです。一見アナーキーに見える、なんのコードもないよう に見えるスペースもあるけれども、そういってもいまの状況のなかではアナーキーもまたひとっ の傾度になっているのだから、ある限られた時間内ではコードはつねに存在するわけです。しか し永久にそれが続くかのようにすすんでいる場と、絶えず組み替え可能件を残しながら機能して いる場があるとすれば、フリー・スペースというのは後者の場なんだというのが、ぼくの基本的 な考え方です。 その場合、さっきいったフレキシブル・スペース、あるいは括弧付きの「フリー・スペース」 として考えられる羽田空港と羽田空港周辺の都市は、そういう意味で絶えずコードを〔南に組み 替えられるわけではないのです、外側から勝手に、その時その時の都△□で組み替えられてしまう、 使われてしまうということは、フリーであることとは全く逆です。このなかに住み、このスペー スを実際に生きている人たちは、内分の意志では使えないのですから。米軍が東京空港を接収し て、それを広げようとした時に、四十八時間以内にヴち退きしろという命令をドしたということ 自体、非常に象徴的だと思います。ほとんど休民の意志は無視されているわけです。そういう場 です、ここは。だから、フリーリー・アヴェィラブル・スペースというふうにいったほうがいい わけで、フリー・スペースとは全く違うだろうということです。 かつて水沢透氏は、これからの都市は空港型都市にたっていくという説を…出しました。ぼくは 『ニューヨーク情報環境論』(,九八六年)のなかでそれを敷術したのだけれども、これからの都 市は、たとえばかっては湾岸都市が都市のひとつのモデルとしてあったけれども、それは横浜を とってみても、芝浦をとってみても、みんな後退しており、もはや湾岸都市がモデルにはなりえ ない。つまり船の時代は終わった。これからは飛行機の時代だ。実際にいま新しい都市の活性化 プロジェクトを出しているのは、「みなとみらい21」計画の横浜などのように湾岸部市なのです。 湾岸都市が化さ延びるためにはそれだけいろいろ⊥人をしなければならない状態になっている。 水沢氏の説では、だからこれからの都市は、空港型都市になるということだけれども、ぼくの説 では、実は空港をモデルとした都市というのは、都市の終わりなのです。 なぜかというと、さっきもいったように、空港というのは通過点です。つまり点なのです。点 というのは、広がりを持たないわけで、そこには住めないということです。絶えず流れていかな ければならない。それに対して、スペースにはある種の持続が必要です。羽出は、ある時期、高 度経済成長なら高度経済成長、あるいはアメリカの{領期問なら占領期問という、ある限られた 持続期問の問、ある一定の文化や経済が支配していた場所なんだけれども、その持続期問はどん どん、どんどん短かくなっているのです。そしていまや羽mは、そういう持続作をもはや許さな い瞬間的時間の「都市」になろうとしているのです。 いつでも変えられる、状況次第でどんどん変わっていってしまうような、そういうやりかたで 変わってきたこの都市の行き着いたイメージは何かというと、それは電子ネットワークでしょう。 つまりコンピュータ・ターミナルというものがまさにそれだろうと思います。そこでは一定の持 続はいらない。搾緑した身体的スペースというのはいらないのです。そういう意味において、殖 港「郡市」と山谷みたいな文字通り体だけの場というのは非常に対照的です。いずれにせよ、空 港「都市」では、だんだん頭脳だけの人問が主流になってくる。いわゆるハッカ!人問がキ流に なってくる。 フリー・スベ!スの可能性として見た場合、羽田的空間は、絶えずコiドを白ら組み替えてい くようなフリ!・スペースにはなり得ないと思うのですが、電子テクノロジーが日常生活のなか にどんどん浸透してくるような状況のもとでは、生身だけをさらしている身体都市、たとえば山 谷のようなスペースも、ぼくはフリー・スペースにはなれないと思います。 ぼくは、結局、具体的な、予め与えられた広がりをもった都市とか建物とか、いつでも安定し た持続性をもった場所というようなものはもうないのではないかと思うのです。最終的にスペー スの最小単位は個々の身体なわけですから、個々の身体をどこまで組みかえられるか、どういう ふうに他の身体とかかわりあえるかということのなかにしかフリー・スペースの可能性はないわ げで、まさにフリー・スペースの可能性は、絶対的な放浪のなかにしかなくなる。 かってぽくは『情報資本主義批判』(一九八五年)のなかでコ漂泊の終焉」ということをいっ たのですが、これはある場所に遍歴していけぼそこにフリー・スペースがあるという発想はもう 終わったんだ、ということです。 身体というフリー・スペース 場所論とかスペース論といった場合にも、ひとつは均質化された空間に対する対抗、批判とい うことがあって、それに対してどこまでトポスを見出せるか、.没するに異質な空間を兄山せるか という方向で問題を展開してきたと思うのです。その場合、.方にどうしようもなく均質空間が あるという悲観主義があり、他方にそれでも異質空間があるんだという楽観ド義があったと…心う。 だから、漂泊の方法を厳しく選んでいけぽどこかに異質空間、トポスが見Hせるという発想だっ たと思うのです。 しかしいまはもうそんな状態ではない。すべてが均質空間になってしまった。それにもかかわ らずどこにフリー・スペースが見出せるか、まさにフリーなトポスが見出せるか、ということに なると、それはもう身体にしかない。 身体というのは絶えずコードを脱構築するひとつのポテンシャルであるという考えをぽくは捨 てることはできないのです。どんなにエレクトロニクスのテクノロジーがすすんできても、その エレクトロニクスのテクノロジーに意外な作川を起こさせてしまうのは身体なのです。つまり身 体というのは予測できない部分を持っていて、たとえぼそれを伝導体として考えてみても、その コンデンサー容量がランダムに変化していて、合理的には解析しっくせないわけです。 最近の遺伝子生物学でもはっきりしているんだけれども、DNAに人問存在を還.兀する発想は、 もう破産しているんです。DNAに書きっくせない部分があるということがわかってぎている。 DNAを情報論的に解析すれば、あ」る個体の存在が全部わかってしまう、だからDNAを操作す ればどんな生物でもできるという発想は、もはや成り立たない。そういう意味で、遺伝チ生物学 は、身体というものはわからないと言いはじめている。結局はパフォーマンスあるいはハプニン グの場、要するに脱構築そのものでしかないということになるのではないか。ある忠味で不可知 論を肯定するみたいなことになるんだけれども、フリーであるということはそういうことでしょ う。 その場合、身体に対して、皮府で包まれたひとっの場だけを想定する必要はないわけで、「私 はできる(Ich Kann)」、身体的に脱構築可能な、そういうスポノタネィティというか、自発作が 機能し得るような場はすべて身体なのだというふうにいってもいいと思います。この木では、喫 茶店、バ-、レストラン……といろいろな場所で話をすることによって、思考をイソプロヴァィ ズしようというわけだけれども、結局こういう場というのはそこに定作できるような場所ではな いし、まさに立話しをしているような時間性のなかの場だと思うのです。 記憶の街 下北 下北沢という街 きょうは、下北沢の駅のホームのきわにあるファィプ・アンド・ハーフという喫茶店にきてい ます。ぼくは、卜北沢をわりあい昔から知っているんですが、この十五年間の変化はものすごい。 いわゆる「若者の街」にド北沢は変貌したわけですが、この店もそういう若者たちが集まる喫茶 店のひとつになっている。 下北沢の都市の変化は渋谷などの大都市の変化とはちょっと質が違う。ド北沢の場合は、もと もと個人が持っている小さい住宅が多かったために、底地買いをしにくかった。したがって大き なピルが建たない。住宅地は建ぺい率や容積率が低いから、大きいピルが建てられないというこ ともある。また、大きい道路がないから、高いビルが建てられない。そういうことがあって、結 果的に下北沢は小さい店が移しく建つという形になった。 下北沢が「若者の街」に変貌していったのには、文化的な理由もあると思います。ド北沢とい う街が、ある意味で身体的スペース、生身の身体に密着した都市空間だった、あるいはそういう ものとして発達してきたということがある。 都市を重要た生活スペースにする「若者」にとって、下北沢は非常にエコロジカルな-つま り身体にあったiスペースだったということです。 渋谷みたいにピルがどんどん建つような大都市でも、その、方で、たとえば公園通りのような 非常に狭い路地のなかに小さな店が密集しているような空間がつくられる。まさにあそこは人τ 的につくられた街だ。もともとあったわげではないのです。竹下通りの場合も同じです。それは 都市の一種のエコロジーと関係があって、都市がだんだん生身の身体を疎外していくと、それを 補うような形で、一種の身体的スペースがつくられていく。これはある種のバランス感覚だと思 います。 下北沢はそういう意味で、最初から一種の生身の身体に密着した都市という要素を持っていた。 そのために、下北沢は「若者の街」になっていったわけです。 そこには、物が商品になる時代から情報が商品になる時代への変化という動向ももちろんかか わっているわけで、下北沢の街を歩いてみると、食べ物にしても情報商品という要素が強いこと がわかる。いろいろな店があるが、実質的に食べ物の内実に違いはなくても、体裁とか雰囲気が 相当違う。ある種のブランドというか、ポピュラリティのなかのブランドみたいなものがある。 それは、この町が物よりも情報の稀少性で勝負しているということです。これは、一九七〇年代 以降浮上してきた新しい傾向のひとつであり、情報商品を流通させる場として下北沢が非常に適 していたから街として栄えたわけでしょう。 IchKann 身体と都市との関係で下北沢を考えた場合、下北沢はまず路地が小さいという特徴がある。だ から生身の身体を突っ放さないスペースであるといえます。 これは身体論と都市論とにまたがる問題です。六〇年代以降、身体論がはやって、それからだ んだん身体の形而上学や身体至上主義のような方向が出てくるのですが、一九七ニ年の連合赤軍 事件は、そうした身体の形而上学が瓦解した象徴的な事件だったといえるでしょう。ぼく自身、 ちょうど和光大学で教えはじめたときで、全共闘運動に参加していた学生がゼミの大半を占めて いましたが、連合赤軍の事件がきっかけになって、身体の問題を深刻に話し合ったことをよく憶 えています。すでにゼミではメルローポンティなどの身体論をかなり論議していましたが、この 事件は身体論を単なる理論問題ではなくしてしまったわけです。 一九六〇年代のアングラ演劇というのは、身体の自発性、〔然発生性に」止脚して、それを発散 させたり解放させたりするということが要になっていたと思います。そこでは身体の記憶とか身 体の自然発生性の命ずるままに、石を投げれば、あるいは怒りを表現すれぼある程度やっていけ たようなところがあったと思う。そういう身体の記憶や自然発牛、性に根ざした行動、身体の持っ ているパラソスとか身体的理性とか、何かそういうものにヴ脚してやってきたことが連合赤軍で は瓦解する。それに立脚してやっていたはずが、気づいてみたら仰問を殺してしまう、リンチに かけてしまうところまでいってしまったということが、運動をやってきた人にとってはものすご いショックだった。この事件は、いったい何を基準にしてやっていけぼいいんだろうというショ ックを与えた。だから、身体性とは何なのか、という問題がアクチュアルな問題になった。 メルローポンティなどの身体論は、わりあい楽天的な[然発生性にかけているようなところが あったと思う。彼は「世界は身体と同じ生地で織られている」と一言っている。しかし、問題は、 身体が「世界」とどう対一止するか、世界が身体をどう抑圧するか、です。このことは、メルロ・ ポンティの身体論からは出てこない。そこにはある種の身体秩序が宇宙的秩序と予定調和をして しまうようなところがある。そのへんは、ナチスの経験をしているフッサールの場合はもうちょ っと違うのではないかという気がする。 しかし、光時の身体論は、フッサールよりもメルロ・ポンティの影響のほうが強かったから、 身体論が行きづまると、そこから逆に構造主義にフーツと行ってしまった。構造ギ義には一面で ニヒリズム的なあきらめの発想がある。どちらへ動いてもおんなじだというような発想が、少な くとも世俗的な構造主義のなかにはあったと思う。 身体をスペースとの関係で考える場合、フッサールの身体件の規定は依然として非常に参考に なると思います。フッサールは身体性をIch Kannだといいます。 Ich Kannというのは英語の;彗です。これは非常に謎めいた言葉ですが、これをぽくなり に大胆に翻訳すると、チや足を仲はして周開のスペース、自分がいるスペースの意味のコンテク ストを組み替えられる、ということです。まさに「私はできる」「私は何かを変えることができ る」ということが、身体性なのです。 そうだとすれば、そういうIch Kannとしての身体性を許容する都市というものは、どうし ても道路の大きさ、それから建築スペースの大きさというものがある程度限られてきます。むろ んそこには伝統の問題があって、エドワード・T・ホールが分析したように、歴史的あるいは民 俗的な係数というものがあり、たとえばイスラムの建築空間は、日本の建築空間と比較して、明 らかに空間的スペースが広いわけです。われわれ日本人が快適だと思っている空間はアラブ人の 好む空間に比して広くない。そういう違いはありますが、個々の身体が変革できる空間と時間と いうものが、身体に内属したスペースだといえるでしょう。 そうすると、その最小単位としては、部屋がある。もう少し集団的な栄位としては、喫茶店と か居酒屋というものがあり、さらに劇場とか広場、路地というものがある。また、たとえ電波の ように広い空間であっても、時問的に処理できるスペース(ミニFMはその一例〕が必要になる。 いずれにしても、決して大きなスペースではない。しかもそこをn由に歩き回れる、自由に使え るというものにならざるを得ない。下北沢はそういう意味では「私はできる」という身体性に適 合したスペースをかなり可能にするのではないかと山心います。 そうはいっても、実際に下北沢の路地を歩く人びとが「私はできる」という内発性に立脚して 歩いているかといったらそうではないわけで、消費のいろいろな操作、予めインプットされた消 費のプログラムのなかで動かされている。「私はできる」ではなくて、誰かによってさせられて いる、という要素は確かに強い。 実際、六〇年代も終わりごろになると、だんだん身体を拘束するような状況が強まってきます。 たとえば道路交通法が強化される。街頭闘争が激しくなっていくなかで、当局は敷石をはがして、 歩道をほとんど一夜にしてアスファルトに変えてしまうということもやった。路地にも私服が張 っているというような状況が、六〇年代の終わりから七〇年代の初めにかけて強まります。 また、この時期は、高度経済成長の変化が日常的環境の変化として顕在化しはじめた時期で、 町並みも大幅に変わってくる。商売中心の、物を売ろうという、そういうアクレッシヴな姿勢が 都市の外観に現われてくる。都市の街路を歩く遊歩考にとっては、都市はいまや身体を解放する スペースでなくてむしろ拘束するスペースになっていった。六〇年代流の、身体の[然発生休に 立脚して、それをただ発散すればいい、解放すればいい、大士〃をあげればいい、絶叫すればいい、 というようなやり方ではもはや何もできなくなって、身体が管埋されているという問題を意識せ ざるをえなくなります。 マルクーゼの「抑圧的寛容」というような問題提起がアクチュアリティをもったのもこのため です。いまでいう「ゆらぎ管理」というか、たとえば適当に街頭で暴れさせておいて、n然発化 性を発散させて、疲れたところを一網打尽にしてしまうという、そういう管埋に対する意識、疑 問、批判がだんだん出てきたと思います。 そういうなかで連合赤軍事件が起きたわけです。だから、あの当時ぼくのゼミでも、いままで やっていた身体論の有効性がこの事件で最終的に問われたという感じがありました。少なくとも この事件以後、身体の自然発生性に身をゆだねた形での身体論と連動論は成り立たなくなり空し た。まさに連合芳軍事僻を契機として 均仏を非常にソフトな形て領理立る電子メティ7もだん だん発達してくるということもいえるわけです。連合赤寧事件は、一般の人びとには最初から最 後までテレビのなかの事件としてあったわけですが、テレビを使って「新左翼」のイメージ・タ ウソをねらう権力の方法が成功したのもこの事件が最初でした。 「歩行老天国」は、都市が都市を歩く個々の身体にとって決して快適な空間ではなくなっていっ た時点で現われました。都市の抑圧と不快が極度に強まっていった場合、そこから逆に面白い要 素が現われるのではないかと思うが、それが極限までいかないうちに、ある種の「快適さ」とか 「心地よさ」とか、そういう雰囲気を持った新しい都市を出現させるのが都市政策の管理的性格 です。その典型のひとつが西武の商業戦略のなかで出てきた公園通りだったと思います。まさに それと並行した形で下北沢の街も若者の街に変貌していった。 川俣軍司と佐川一政 七〇年代に都市が大きな変貌をとげるなかで、身体の自発作、身体の[中性が決定的な危機に ぶつかった例として、「深川通り慶事件」の川俣軍司と「パリの人肉事件」の佐川.政の例をあ げることができます。 川俣軍司の出身地は、茨城県鹿島郡波崎町で、そこは鹿鳥臨海工業地帯が発達する以前は関東 地方でも非常に「後進」の地帯だった。川俣軍司の両親は兼業の農家をやっており、利根川でシ ジミ漁をやったりもしていましたが、高度成長で利根川ぞいにプラントができ、河の流れが変わ ってそれができなくなった。その代わり、卜地が買い上げられて、大金が入った。 川俣軍司は、集団就職で東京に出てきてまず鮨匿に勤めました。集団就織というものがまだあ った時代です。まだあのころはテレビが一〇〇パーセント浸透する以前の時代で、地域の文化格 差は非常に強く、東京へ出てきた時に川俣軍司はまず芦譜的なコンプレックスに悩む。そのせい で鮨屋の仰問にいじめられたりして、だんだん屈折した生活に入っていく。結果的に、種の強迫 神経症になって、通行人を殺傷するところまでいってしまうわけです。その問にはやくざに憧れ たり、ヒロポン中毒になったり、いろいろあったが、次第にn分の体が自分のものではなくなっ てくるという体験をするようになる。絶えず電波が聞えてくる、テープの声が自分を強迫すると いうことを彼は調書でいっています。そして最終的にテープの声を振り払う、切り裂くために通 行人を殺傷してしまった。 これは、身体が生身の身体ではなくなったということです。「私はできる」ということは、私 が相手を、あるいは自分の周囲にあるものを何でも勝手に組み替えられるということではなくて、 共働してやれるというコミュニカティヴな関係を意味しているのであり、斥ブ ζ畠は結局は Wir Konnen英語で言えばWe Canということになります。 それに対して、川俣軍司の身体性は「私が勝手にできる」というような形に萎縮していった。 そうすると、他者は当然それ[体「私はできる」存在だから、歪んだ形での「私はできる」に対 しては、敵としてあるいは反抗老として立ち現われてくる。となると、歪んだ「私はできる」は、 他の身体を倒す、切り裂いてしまうということにならざるを得ない。そういう、自分の体と他者 の体がいわば物象化してくる経験を川俣は体現しているわけです。これは高度絆済成長以降、東 京の都市が身体の自由性を拘束するような方向に変わってきたプロセスと非常に合致しています。 佐川一政の場合は『霧の巾」という彼自身が書いた小説のなかに非常によく表現されていると 思います。彼は、和光大学の学生でしたがバリに留学します。留学したもののどうもパリではハ ッピーではなかったようです。東京からヴィデオを送ってもらってそれを,u内見ていたりとい うような非常に孤独な生活をしている。バリという都市はいろんな人と付き合う意味で面(い場 所だと思いますが、彼はあまり付き合わないで孤立した生活をしていた。たまたまベルギー出身 の留学生と知り合い、語学を教わるということでつきあいをはじめる。彼女は非常に数少ない友 人の一人になったけれども、その彼女を最終的に殺してしまった。 バリは彼にとってはある意味での疎外空間でしかなかった。実際に、佐川一政の留学していた バリは変貌のさなかにありました。 バリはなんべんも変わっており、ボードレールの時代に最も大きな変化を経験している。ボー ドレールの『悪の華』はまさに十九世紀末のバリの変貌ぶりを惜しむという形で書かれている。 あの一連の詩は過去のパリに対するひとつの哀惜と変化への憎悪の詩だというふうにもいえます。 また最近では、ポンピドー・センターなどができる時期にバリは大きく変わります。すでにアン ドレ・マルローが文化相になった時に彼はパリの街を一斉に洗わせ、バリが真っ白になってしま ったという批判が出されましたけれども、白色というのは身体性を消す色ですね。 佐川一政の身体的無意識が七〇年代のパリの都市変化にさいなまれていたかどうかはわかりま せん。むしろ彼の場合は、語学的な問題、身体的コンプレックスなどが作用して、必ずしもパリ の都市変化とは直接関係のない疎外感を味わっていたということのほうが大きかったのかもしれ ません。ただいずれにしても、都市と身体との関係がぎくしゃくしたところから彼の殺人が山山で きたことはやはり否定できないと思います。 この一一つの事件に共通しているのは、都市が持っている身体性と、身体性が要求する都市とい うものとがかみ合わなくなってきた時に神経障害やアクシデントが起きるということです。だか ら、逆に管理の側からすれば、そのへんのバランスをとってうまくやっていくのがいいんだとい う発想になってくるわけです。 郁巾の記憶 下北沢というのは、そういう意味である程度身体と都市とのバランスがとりやすい所なのかも しれない。それだけに極端なものが出てこない。極度に疎外されてしまえば、そこからまた面白 いものが出てくる可能性がある。たとえば山谷は東京ではいまかなり特殊なところだと思います が、山谷は身体でいえば陰部のような要素のある町です。それは否定的な意味でいっているので はなく、山谷の町を歩いていると生身の身体を街路に愛撫されているような感じがすることがあ るということです。普通の都市を歩く場合には、服を着た人とすれ違うとか、服を着た人を見る、 あるいは服を着た人と話している、そういった感覚だとすれば、山谷の町を歩く場合には、銭湯 に入っているような、あるいはもっといけぼセックスをしているみたいな身体性が感じられると いいましょうか。そういう極度に身体的度合の強い都市と比べれば、下北沢はすべての点で中間 的なわけです。このことは、下北沢を原宿に対照させてみてもよくわかる。 下北沢と原宿との決定的な違いは何かというと、それは都市の記憶件のちがいです。いま東京 で栄えているところは若者の町だが、若者とは極限すれば記憶喪失老というか、記憶と無縁でい られる人々だと思います。そうすると、いまの東京が若者でもっているということは、要するに 記憶というものを評価しない、記憶をむしろ持たないことが都市の価値になっているということ になります。その場合、下北沢は、依然として記憶性から完全には離脱してはいないのに対して、 原宿は記憶件を極限まで排除している。 原宿の竹卜通りあたりへ行くと、アメリカの斤・○年代の占物とか、口木のいろいろなアソティ ツクを売っている店が目ヴつ。しかし、これはあくまでも一種のビットになった、デジタル情報 化した記憶なわけで、組み合わせ方でどちらにでもなるような記憶です。つまり五〇年代も六〇 年代も、しかもアメリカの六〇年代も並列に置いてしまう記憶だと思う。 それに対してド北沢は、生活者がいることによってその記憶が中なる組み合わせになることを 許さない場所になっている。下北沢は「若者の街」というけれど、それは若者のショッピングや ギャザリングの町であるだけではなく、下宿やアパートの町でもあるのです。 身体というのは止□発性の場だといわれるが、それは同時に記憶の場でもある。〔発性というの は、エネルギーみたいなものが身体から噴き出てくるということよりも、記憶が行ったり来たり するということ、身体のn由炸のことであるわけです。そうすると、都市を止少く身体にとって一目 南であるということは、身体の記憶が柔軟になるということになります。それは単に、苫のもの が残っているということではないのです。 それに関して下北沢の駅のそばのマーケットについて考えてみましょう。ここはド北沢が「若 者の街」にたる以前とほとんど変わってない。これはもともと戦後の闇市の延長線上でできた スペースで、たぶん一種のスクォッタリング(空き家占拠)だったのだと思う。たまたま焼け跡 に雨をしのぐ屋根を張って店をつくってしまった。そういう人たちが既得権を得て住んでいるの ではないか。ここには魚屋もあるし、輸入の化粧品を売っているアメ横的な店もある。 以前にダグラス・ラミスさんらと風俗を読む「風の会」というのをやっていて、彼と下北沢を 歩きまわったことがある。そのときにラミスさんがマーケットのなかでおもしろい店を見付けた。 ぽくはしょっちゅうこのマーケットのなかを歩きながら気付かなかったのだけれども、老人専門 の衣服を売っている店があったのです。老人というのをぽくはあまり気を付けて町で見ていなか ったが、確かに老人特有の服装というのがある。洋服とも和服ともつかない長目の上着 羽織 の変形みたいなもの を老婆はよく着ている。その店はそういうものを売っており、下北沢の 他の場所とは全然違う雰囲気をかもし出している。そういうスペースに行くと、山谷に行ったの と似たような気持になる。 しかしながら、都市と記憶の問題を考える場合、あるいは都市の記憶作、さらには都市のスペ ースを自由にしていくという問題を考える場合、こういう場所がもっとふえればいい、というふ うにはならないと思うんです。これは、非常にロマン主義的な発想で、東京はもはや完全なつる つるの「電子都市」になってしまったから、都市を記憶の触発スペースと考えることはできない んだという絶望論と対をなしているように田山います、飛躍した言いカをすると、東京への絶望論 のなかには、皇居への賛美が潜在しているのです。単純な意味での歴史性を皇居ほど保持してい るところはないわけですから、皇居を別あつかいにして東京を歴史保持の点でダメだと言うこと は、逆に皇居の歴史性を強調してしまうことになるわけです。 単に戦前や戦後の記憶をよみがえらせる、あるいは思い起こさせるという点で都市の歴史咋を 考えていくと、街並保存とか景観の持続という方向に行ってしまう。しかし東京は景観というこ とでは絶望的である。東京は皇居以外は景観がどんどん変わっていく。景観のなかでは歴史は立 札くらいにしか残らない。何とか板とか何とかの跡とか、そういう立札がいまずいぶん立ってい ますが、そういうものとしてしか残っていないのですね。そうするとあとは何なんだろうかとい うことになる。 しかし、都市を歩くことによって戦前や戦後の歴史を感じさせるということは、時代の「遺 物しがいろいろ残っているということではないでしょう。必ずしも自分が持っている記憶ではな いのだけれども、戦前とはこんなだったのではないか、終戦直後はこうだったのではないか、一 九五O年代とはこうだったのではないかということを自発的に追体験できるようなスペース これがフリー・スペースの一つの条件でしょう。 閉放的で共同的なスペース その点でおもしろいと思うのは、最近の東京の、非常にミクロだが決定的だと思われる変化で す。東京が白っぽくなり、ギラギラしてしまった時代から←年以Lたったいま、公園通りもド北 沢も以前よりは幾分汚れてきました。特に公園通りの渋谷、最初はかなり人[的につくられた部 分が目立ったが、だんだん有機化してきた面もあります。 下北沢は公園通りに比べればアクレッシヴな消費性の点で若干弱かったかもしれないが、そう はいってもやはり七〇年代以降の情報社会化のなかでできた都市であるから、物や情報商品を売 ることによって発展してきたわけです。しかしいま八○年代も後半になってきた時点で考えると、 情報商品さえもそれほど売れなくなってきた。 その結果、解放空間にはならないかもしれないが、、方的にその使い方を決定されないスペi スだけが残ってしまうという傾向が出てきた。 現にいまこの話をしているファイブ・アンド・ハーフなる店にしても、開店当初は、カフェ・ バーとしてつくられたと思うんです。いまよりもナウい、「若者」向きの雰囲気でアッピiルさ せようとしたと思うんです。しかし、いまは普通の店になってしまった。「普通の店」というの は、若者だけではなくて世代を超えたいろいろな人たちの集まる場所、どんな目的にも使えるス ペースになってきたということです。 この店には入口の窓側のところに大きなテーブル、かあって、そこが一つのスペースになってい る。そこで十人なら十人の人たちが話し合うこと。かできる、か、ふだんはお客さんー ニ人ならニ 人単位の人たち がばらばらに座って話をしている。しかし、このテーブルは、同時に、互い に知りあっている人たちが共有する共同スペースにもなりうるわけです。ぽくはここで時々友人 や仲間たちと集まったりするが、大きいテーブルがあるところがいい。少なくとも可能性として はそこでいろんなことができる。 喫茶店の使われ方もいろいろ変わってきました。フリー・スペースという点で見のがすことが できないのは六〇年代のジャズ喫茶ですが、ジャズ喫茶はお客同士の関係が、見切れている。同 じテーブルに相席して座っても、全然じゃべらないでジャズを聴いている。その場合、実はジャ ズのつくる音がコミュニケイシヨソ・スペースになっていたと考える必要がある。口ではお互い に話さないが、そこではある種のコ、ミュニケイションが成り立っていたわけです。 ただ、それが成り立ったということはよき時代だったからで、身体の記憶の自然発生件にヴ脚 できた時代だったからなのです。六〇年代後半から七〇年代に入ってくると、、ジャズ喫茶ですら 漫画を読んでいる人たちが増えるのですが、このことは、そういう自然発生性がもはや単一では なくなってきたということでしょう。勝手にやってきて、お互いは会話しないでひとりひとりが 漫画を読んでいるという現象が強まってくる。つまり音が相互.に結びつける力を失う。ひとりひ とりが持ち込んだメディアで勝手なことをやる、相互にはぼらぼらに切れてしまっている。ジャ ズ喫茶もそういうスペースになっていった。 喫茶店というものは普通はひとりひとりが勝手なことをする、あるいはカップルや数人の集団 が勝手なことをするスペースですね。そこに来た個人なら個人、カップルならカップル、集団な ら集団が自分たちで勝手にそのスペースを使えれぼそれでよいという発想で使われている場にす ぎないのですが、これではフリー・スペースになりえないでしょう。孤立的であると同時に、そ の場がもう少し相互的なスペースになることもある、関係がいろいろに変わるというのでなけれ ぼそれはフリー・スペースではないわげです。 最近見かけるのですが、住宅地のなかなどの喫茶店へ行くと、近所に住んでいるらしい人たち が店のテーブルでてんでんに時間をすごしている。彼らはひとりひとりは漫画を読んでいたりす るが、顔見知りなので、必要なときはしゃべったり、帰るときは挨拶したりして、そこが一種の コミニユニティ.スペースになっているのです。本来のバブです。 日本にはもちろん飲み屋はいろいろあるし、商店のダソナ方でもっている小さなバーは下北沢 などにも多いけれども、もうちょっと開かれたスペースが要求されているのではないかと思いま す。イタリアのハー イギリスのパフ オーストラリアのパブ アメリカのバーもあるが、特に オーストラリアやイギリスのパフあるいはイタリアのパーは、日本の飲み星よりも開放的であり、 また同時に内輪的なスペースです。つまり使われ方の幅が広い。よそ者が入っていってもわりあ い受け入れられたり仲間になったりできるような要素がある。日本の喫茶店がそういうのになっ ていってもよいのではないかと思います。 フリー・メディア このあいだここでラジオ・ホームランの放送を聴く会をやりました。それは「会」というほど きちんとしたものではなくて、ラジオ.ホームランでやっている番組を聴こうという気のある人 たちが集まって、ここでラジオをつけて聴いだというだけの話です。そのとき近くの席にいた他 の客たちがもの珍しそうに見て、一緒に聴きたそうな顔をする人もいたんです。つまり、放送装 置を一台もちこんだだけで既存の非常にリジッドなスペースを壊す、変えるのだということです ね。 ラジオ・ホームランは最初、、ミニFM放送をやる自由ラジオ局として出発したのですが、その 機能を意識化するために、、九八六年に「スペース・ホームラン」と改称しました。このスベi スは、下北沢のファッショナブルな性格とはあまり関係がありません。場所だけは駅から非常に 近い便利なマンションのなかにありますが、ひとたびドアをあけれぼそこはむしろ山谷的雰囲気 をもった場所です。ただ下北沢という非常に便利な、あるいは若者が集まる場所にあるために、 当然、若者もやってくる。駅から便利であるためにいろいろなところからいろんな人がやってく るという可能性を持っている。だから、ラジオ・ホームランがやっている放送はいろんな人が担 当しているが、下北沢の住人で放送を担当している人はそう多くはないのですね。むしろ外部か ら、遠くから通ってきてやるものが多い。放送現場に来る人も、下北沢の住人であるよりもいろ いろなところからくる人が多いようです。だから、放送をやっている時にはいろいろなところか ら年齢を越えた、世代の違う人たちが束の間の時間コミュニティをつくることになる。これはス ペースの使い方としておもしろいと思う。そういう要素が下北沢だけではなくて東京中にもっと たくさん出てくれば、都市のフリー・スペース化は進むだろうと思います。 これまでの都市政策は、要するに若老中心、消費者巾心だったけれども、そういうやり方が進 んでいる限り都市はフリー・スペースにならないのですね。なぜならば、フリーであるというこ とは何でもできるということではなくて、まず第一に記憶を自分で操作できるということだから です。「私はできる」ということは、体を動かして何でも壊したり変えたりできる、ということ だけではなくて、むしろ自分の記憶を自分で組み替えられるということだと思う。特にすべてが ディジタル情報に移行している時代のなかでは、記憶というのはディジタル情報に対抗できる一 つの要素であると思います。 ディジタル情報は記憶も並列的なものとしてとらえ、外部からあなたやわたしの記憶をどのよ うにでも組み替えられるということを目ざすわけですが、それに対して記憶はつねに「わたしの 記憶」としてあり、他から勝手に組み替えられないところに意味がある。それがまさに「私はで きる」ということであるし、身体の自由性だと思います。またそういうものを許容する場として の建築、都市というのがフリー・スペースとしての建築であり、都市だというふうに考えられる わけです。 音がいささか宗教的なやり方で個々のお客を結びつけていたジャズ喫茶で、漫閑を読みながら 勝手に座っているという新しい客が出現してきた。その時に漫画は、ばらばらの客を.つに結び つけるというよりも、むしろアンサンブルとしてその場に居あわさせるフリー・メディアの機能 を果した。あの現象を積極的にとらえかえせぽこういうことになります。 しかし、そういう側面が中なる流行に終わってしまったいま、その潜在的な積極咋を引き継ぐ 可能性をもっているのはラジオとかテレビではないでしょうか。喫.茶店でポヶツトテレビを見る のもいいじゃないかという気がします。 いましゃべりながらFMラ、シオをつけたらラジオ・ホームランの放送が聞えてきましたが、最 近ぼくは、街を歩くときにラジオをつけ、FMのダイアルをランダムに回します。最近はいろ いろなところに、ミニFM局があるから、既存の放送だけではなくて、非常に限られたエリアでは あるとしても場所によってはいろいろな放送が聞えてくるようになってきた。それを聴くのは非 常に面白い。 ミ二FMというのは、放送を出すほうと受けるほうとの関係が普通の放送とは違います。違わ なければ、ミニFMとは一」一口えないのです。普通の放送ではリスナーは単に受けるだけである。ビー トたけしの事件のときのように腹を立てて放送局へ電話することもあるかもしれないが、通常は あまりリアクションをしない。、方通行です。それに対してミニFMは双方向、というよりも相 互放送のコ、ミュニケイシヨソなのです。コミュニケイションというのはもともとそういうものだ と思うけれども、そういう意味では非常にオーセンティックなコミュニケーションではないかと 思います。 そうだとすると、ラ、シオを放送するほうと聴くほうがぼらばらに分かれてしまっているという ことではなくて、聴き手が放送者になるということもなければならない。そういう意味でミニF Mでは、自宅で聴いていた人が放送局へ出かけて行ってそのまま放送に川でしまうということが よくあるし、それはいまではかなり普通のことだと思います。 しかしそれだけではなくて、聴き手がそのまま送り手に変身してしまうのではなく、その中問 に身をおく、つまり、相模大野なり横浜なりからわざわざ、ミニFMの聴えるエリアまで行って聴 く。局の近くの喫茶店から電話をかげてそれに参加することもできるし、とにかく聴くために体 を動かすのです。こういうある意味では馬鹿げたことが都市の、つのフリー・スペース化とつな がっていく部分を生むのではないかとぽくは思うのです。 セクシー・タウン 新宿 セクシー都市東京 スペースとしてのセックスの問題を今日はあっかうので、歌舞伎町のノーバソ喫茶に行ってテ ープを回そうというプランもありましたけれど、いまは新宿プリンスホテルの地下のラウンジに います。歌舞伎町をさまよい、店を物色しているうちに、スケスケの格好をした久性が浮遊して いるノーパソ喫茶に必ずしもセクシュアリティがあるのではなくて、むしろそういうセックスは 非常に限られた特殊なセクシュアリティではないかということに気づいたからです。それに、こ の種の店は、テープルのうえにテープレコーダーを出したとたん、性サービスの店ではなくなる のでした。 グルーブ・シアターの創立考のひとりであったハロルド・クラiマゾが日本に来たときの印象 をぽくに話してくれたとき、彼はまず「東京ほどセクシーな都市はない」といった。なぜセクシ ーかということを彼は一一善わなかったけれども、それは羊に東京中にソープランドやいろいろなセ ックス・インダストリi、かあふれているというだけではなくて、もう少し広い意味でのセクシュ アリティのことを言っていたと思う。 ぼくは最広義のセクシュアリティと什器主義(ジェニタリズム一.としてのセクシュアリティと を区別したほうがいいと思う。東京というスペースは、ジェニタリズムとセクシュアリティの.向 方からアプローチしなけれぽならないわけで、さもなければ単にセックス・インダストリーの地 勢図を示すだけに終わってしまうのではないかと思います。 東京は性器主義という意味でのセクシュアリティが氾濫している都市であると、応は「、いえます。 ニューヨークだったら、タイムズ・スクエアの、東京でいえば新宿の歌舞伎町よりももっと小さ なエリアのなかに、ポルノショップやポルノ劇場が密集しています。街角には売春婦がヴってい て、実際に売春が行なわれている。そういう意味でタイムズ・スクエアはジェニタリズム、什器 主義の集約された場所だといっていい。ところがニューヨーク全体を考えた場合、タイムズ.ス クエアのような場所は非常に一部で、ああいう場所はほかにはあまりないのです。 東京は、渋谷をとってみても、新宿にしても新橋にしても、街に性器主義的なセクシュアリテ ィがあふれているわけです。そういう意味では東京ほど性器ということを強調している街はない のではないか。実際に、たとえば電車に乗ってもポルノグラフィックな広告、かあったり、ポルノ を見ている人がいっぽいいたりする。日本の週刊誌をのぞいて見てもヌードの女性がいっぽい写 っている。あれがポルノじゃないといえぼ話は別だんですけれどね。これは国外的な基準からい えば明らかにポルノです。ところが、そういうポルノグラフィックな内容の雑誌のかたわらに非 常に真面目な書評が載っている。H週刊ポスト』がよい例ですね。そういう傾向は生るところに ある。東京はそういう意味でジェニタリズムと、もっと広い意味でのセクシュアリティが混小し ている場所だと思う。 問題は広い意味のセクシュアリティとは何かということです。そのへんのことを少し考えてみ たいのです。セクシュアリティについて考える場合、日本には性器た義的なものが…山てくる系譜 がある。それが、「悪場所」という発想ではないかと思うのです。怒場所という、.、H葉はだれがつ くったか知らない。か、ぽくがこの言葉を初めて知ったのは広末保の「悪場所の発想」(1970 年)で、これは江戸の遊廓文化に焦点を当てた.種の江戸論だと思います。遊廓を中心として出 てきた文化に焦点をあて、そこから歌舞伎、さらには解放の思想にまでひろげていこうという発 想ですね。 ただ問題は、いま悪場所というものが存在しなくなってくる傾向。か出てきたということです。 六〇年代までは、労働組合もそうだし左翼もそうだったと思いますが、ある種の有機的な否定性 に守られていた。つまり、、つの体制として存在する権力に対して反体制としてのもう、つの権 力が存在しえた。だから体制の権力に対してもう.つの権力を対置していく、体制の暴力に対し てもう一つの暴力を対時させていくことが一つの反権力闘争としてあったし、権力闘争の、つの 形態としてありえた。それは全共闘までは続いたと思います。 ところが六〇年代以降は、そういう反権力が存在しにくくなっていった。これは、悪場所がだ んだん消滅していったのと関係しあっています。六〇年代までであったら、ある地域に行くと、 なにか魔界にまで通じていくような、あるいはある種「地獄的」な暗さのなかにまで通じていく ような場が もう風前の灯であったとしても 丁応はあった。ヤクザにしても.つの「白一止 権力」として存在しえた部分、かあった。ところがパ○年代以降は、ヤクザ映画が川川てきたように、 悪場所的なもの、有機的否定休というものがだんだん希薄になっていった。つまりシステムのな かに取り込まれていったわけです。そういう意味で、全共闘運動は,否定件のまさに最後の祝祭 それを燃焼してしまう祝祭--になったと同時に、人工的な否定性をどこまでつくれるかと いう 体制側の 一つの実験にもなった。全共闘はむろん仕掛けられて出てきたものではな かったが、しかし同時にそれはシステムの耐性実験になった。つまり微乱なり暴動なりが起こっ た場合に、どこまで現体制が耐えられるかという耐性実験になった側面があるのです。 浮遊するセックス それはセクシュアリティについてもいえるだろうと思います。六〇年代までの北春を考えると、 生活に困って売春をやっていくというケースがまだ少なくなかった。ところが六〇年代以降には、 はっきりと組織されたセックス・インダストリーが出てくる。大阪がその実験場だとよくいわれ るけれども、自然発生的なセクシュアリティにヴ脚した性的商売は成り一止たなくなってきて、む しろあの手この手の人丁的なセクシュアリティをつくって商売にしていく方向がはっきりしてき た。ソープランドがその最も成功した例でしょう。 ソープランド(トルコ)というのは六〇年代以前にも擬似的なものがあったが、非常に組織さ れた形で…川できたのは六〇年代以降です。もちろんそれ以前にもいろいろな北春はありました。 赤線は組織的な商売ですが、それとは別に、かなり自然発生的な、要するにド婦のH常的セック スの延長であるかのような売春もあったのです。つまり、金がなくなると町角にヴって売春をす るというやつです。それはソープランドのような営業時間で働く労働ではない。戦後のどさくさ のなかから出てきた性商売というのはみなそういう要素があったと思う。彼女らは町角に立って 客を引き、近所の旅館に連れ込んで売春をするわけですが、その旅館はいまの連れ込みホテルみ たいなものではなくて、普通の旅館がたまたまそういう女性に利用されることによって「連れ込 み」、「いかがわしい旅館」になってしまうというものでした。そういう形での売春、そういう 形でできあがった悪場所が戦後、少なくとも六〇年代までは存続していたと山心います。 ところが六〇年代以降、日本のサービス・インダストリーや情報産業が少しずつ始動しはじめ た。㍉然セックスというものもそういう商売の目十になってくる。そのなかでソープランドがギ 要なサービス産業になってきたのです。しかし、ソープランドは最初はいわゆる本番をやらせる 売春とははっきり切れていた。もちろんそこではスペシャルサービスというのをやりはじめてい たのですが、北春としては子どもだましなものでした。それがだんだん本格的な、そして新しい 売春のスペースになっていくのは、六〇年代から七〇年代にかけてだったと思います。 ぼくの記憶では、ソープランドは最初は非常に限られた場所にできたように思います。ぼくは、 四〇年近く渋谷に住んでいるのですが、渋谷でソープランドができたのは円山町あたりだったと 思います。円山町というのは片の青緑地帯ですね。それはやはり悠場所の流れをくんでいたわけ で、最初は特殊地帯にできる傾向が強かったが、六〇年代も後半になるとソープランドはどこに でもできるようになる。 それは、都市のなかで悪場所というのをもはや特定できなくなったということです。どういう 場所でも人工的に悪場所にスイッチできる。つまり悪場所という必要すらもはやなくなってくる ということです。悪場所というものはいまでもあるといえばあるけれども、それはもう人ザ的な 悪場所であって、どこでも悪場所になるのです。家庭でも悪場所になるし、普通の学校もオフィ スも、もちろんプリンスホテルも悪場所になるわけです。銀座は悪場所ではなくて新宿は悪場所 だというようなことはいえなくなる。これは、有機的な。否定性としてのセクシュアリティがなく なってくるということと対応しているといってよいでしょう。 性的セラピー かつてポ!ドリアールが、セクシュアリティというのは男のセクシュアリティ以外の何物でも ないといったことがあります。これは、什器上丁義的なセクシュアリティについては,上しいでしょ う。有機的なセクシュアリティが存在したということは、それだけ男のセクシュアリティがまだ 有効性を持っていたということでもあります。逆にいえば、有機的セクシュアリティが希瀞にな るということは、ある点でフプロス信仰的、男性.全Lた義的なセクシュアリティ、か希薄になって きたことと関係、かあるということです。 確かに六〇年代以降、家庭の構造が変わってくる。そこではかっての父権というものは弱くな ってきます。いわゆる「ダメおやじ」が山てくるわけです。日本の父権性にっいてはいろいろ議 論があるのですが、日本の場合、本㍉に父権制、か突出してくるのは明治以降の人皇制のなかだと 思います。日本では母権制が父権制の代用をしているところ、が、方ではあって非常に複雑なので すが、明治の大里制はまがりなりにも一種の父権制を全般化させました。それは非常に人⊥的な ものであったけれども、一応は社会制度になったわけです。有機的な.否定性としての悪場所はこ の人L的な父権制に対応しているのです。 江戸の悪場所も圧倒的に切昨至L主義の場でした。つまり女作が悪場所に行くことはあまりな かったわけです。そういう意味では、江戸において遊廓が発達したこと、か、すでに明治の大皇制 的な父権制を準備したとみたほうがいいかもしれません。いずれにしても、遊廓、悪場所と並行 した形で父権制はできたと思うのです。 遊廓には必ず家庭が対応しています。遊廓、か存在することは家庭が確立されているということ です。つまり家庭を温存するために遊廓が存在するわけで、これはL1几肚紀のウィーンでも同じ てした。ウィーンでは、売春の場所と技術は高度に発達していました。フロイトがウィーンで脚 光をあびたのは、ウィーンの遊廓文化と無関係ではありません。フロイト理論というのは、本来、 フリー・セックスのすすめであるよりも、男にとっての買春のすすめだったんですね。つまり、 家庭を売春組織のなかで温存していく方法なんです。つまり家庭では「健全セックス」をして、 遊廓では「解放された」放らつなセックスを享受するという構造を暗黙に認めている。家庭を非 常にリジッドなシステムとして温存していくことと、売春の制度が確立されることは柵補的な関 係を持っているわけです。しかし、その場合、家の禁欲的なシステムのなかにとじこめられてい る主婦のほうは性的にめぐまれないから、その矛盾は神経症として現われてくる。精神分析はま さにそこを調整しようというわけです。 H本の場合は江戸期に制度としての売春、か発達する。同時に武家の家族をモデルにした家父長 制が広まりはじめる。その場合、ウィiソで精神分析が果したところのものは、〔本の場合は何 だったのでしょうか。江戸時代では、それは武士道であったかもしれませんが、少なくとも則治 以降にはどうも天皇制が一つのセラピーになったような気がします。だから、もし明治の火皇制 が浸透しなかったら、国家をささえる家族、国家権力に吸収されていった家族は決して成ヴしえ なかっただろうと思います。明治犬皇制は、男には悪場所をすすめ、ヶには怒場所と家庭との帆 櫟、矛盾を解消する装置として機能した要素もあるのではないかと思います。 広末保さんは、悪場所を一つの解放の場、ユートピアの場であったと考えるようですが、広木 さんが指摘していない唯、のことは、、忠場所はあくまでも家庭の温存のト、に成りL止っていたとい うことです。だから、もし悪場所が解放の場であるとしても、家庭の存在を前提しだし」での解放 であって、社会的な解放、革命に通じるような意味での解放には全然なっていなかったというこ とをやはり指摘しておかなけれ、ばなりません。 こう考えるならば、六〇年代以降そういう悪場所、か有機的なものではなくなっていくというこ とは、ある意味では家族の、特に国家に直結するものとしての家族が拡散しはじめたということ でもあります。六〇年代のアメリカでは件革命は非常に強力に進みました。それ以降、家族の解 体、あるいは家族の変質が進み、核家族がだんだん片親家族になるとか、男と久がつくる家庭か ら、男と掲、女と女も家庭をつくったっていいじゃないかという「ゲイ・ファミリー」の発想も 出てくるわけです。 日木の場合はそれはなかった。あるいはこれから遅れて出てくるのかもしれないけれども、そ こまではいっていないでしょう。ただ、その萌芽形態はあるわけで、六〇年代にソープラノドが 遍在してくるなど、セックス・インダストリー、か完全なインダストリーとして出てくるというこ とのなかにそれ、が兇出せます。家庭も希薄になってきました。かってならば、久に対しては姦通 罪があり、操を立てる儒教的なモラル、か強制され、男に対してはそれがなかった。ヶ性にリジッ ドな自已セラピーを強制して家庭を維持させ、男には遊廓を許すという形で家庭の一…壊をくいと めさせた。そういう方向がある程度続いてきたけれども、戦後はもはや通用しなくなってくる。 特に五〇年代以降の高度経済成長のなかで家族関係、家族乍活も変わってきたと思います。核 家族的なサラリーマン家族がだんだん広がる。そこでは女件はもはや我慢しなくなってきました。 夫が一週問のうち半分は遊廓や妾の家ですごすというようなことは不可能になってくる。H本の 男は、遅くまで仕事をして深夜に酔っぼらって家に帰ってくるというのは、八○年代のいまでも あるかもしれない。しかし六〇年代以降、まがりなりにも核家族生活をやっていく形態が確立し はじめた。この傾向は五〇年代以降川てきた建売住宅とか、郊外にどんどん進…川していったサラ リーマン住宅とつながっている。そういうわけで一九六〇年に出てベストセラーになった『性什 活の知恵』は、女性が我慢しなくなったことと無関係ではないでしょう。件的技巧が遊女、遊び 人の世界だけではなくて、、般家庭のなかにも入ってくるということによってある種の解放感を もったのは女作だったからです。男はそれ以前にも遊廓である程度技巧を楽しむことができたわ けですからね。その結果、家庭が遊廓になり、遊廓が逆に重みを失った。遊廓のセックスは、む しろインスタント.セックスになってくる。ソープランドはそういうインスタント・セックスの 場として発達してきたと思うのです。これは要するに、家庭と性器主義的なセクシュアリティの 両ヴを図る一つの方法でもあったわけです。 ポリセクシュアリティ 性器主義がある限られた場からH常的空間に遍在していくということは、あらゆる場がセック スになってしまう、あらゆる場に性器が浮遊するようになる、ということであると同時に、あら ゆる場が性の場だという面が潜在的に強まったということでもあると山心います。これは性的なも の、セクシュアリティの何たるかを理解する上では非常に好都合なことではないか。メルローポ ンティが一九四〇年代に書いたH知覚の現象学』という本のなかに、「件的存在としての身体」 という章がありますが、そのなかで、「件は一つの雰囲気として、絶えず人間生活に現前してい る」と彼はいっています。かつての非常に局所化された性 ベニスにあったりワギナにあった り乳房にあったりという局所的なセクシュアリティ の捉え方を否定して、こういう発想をメ ルロ・ポンティは主張するわけですね。 彼はこういういいかたをしています。件は通常は、「諸心像へ拡散してゆくが、諸心像は件の うちから幾つかの典型的な諸関係、或る感情的な表情しかとどめていない。夢見る"の陰茎は、 明白な内容に具象化されたあの蛇となる。以ト、夢見る人について語ったところは、われわれが 自分の表象以前のところで感じっづけている、いっもまどろんでいるわれわれのあの部分、われ われがそれを通して世界を知覚するところのあの個人的な霧にっいてもまた刈てはまる」。竹内 芳郎氏の訳はちょっともってまわるくせがあるんだけれど、要するに「われわれ、かそれを通して 世界を知覚するところの個人的な霧についても当てはまる」ということです。 メルローポンティはさらにこういっています。「他の身体領域に比べてとくに性をより多く宿 している身体領域から、性はあたかも匂いのように、あるいは音のように発散している。身体凶 式の研究の際にすでに身体に認めて置いた、あの暗黙の.般的転移作用が、ここでふたたび見い だされるわけである。私が千を対象へともってゆくとき、私はn分の腕が仲ぼされたことを暗黙 のうちに知っている。またHを動かすとき、それとはっきり意識しないでもその運動を考慮に入 れており、その運動によって、視野の動顛が〔対象n体のものでなく一単にみかけにすぎぬこと を理解している。同じことが性についても..、口えるわけで、性は明確な意識作川の対象とならない でも、私の経験の特権的形態を動機づけることができる」。 後でこれを超えるセクシュアリティについて話したいと思います、か、メルロ・ポンティのいっ ていることが.般化してくるのが六〇年代だと思います。つまりH本の場合はこういう意味での 遍在化する セクシュアリティが旭折した形で山てくるのですね。、全るところが什滞卜義 的な意味でのセクシュアリティの場になるということですね。具体的にいえばセックス・インダ ストリーが至るところに出現してくるということです。 ただ、六〇年代以降出てきたセックス インダストリーの遍在化という現象は、性器主義的な セクシュアリティの終わりを象徴しているのではないかという気がします。もし性というものが メルロ・ポンティのいうような意味で遍在しているものだとすれぼ、セックスをしなくてもわれ われは絶えずセクシュアリティに接しているということになります。セックスをしたからといっ て必ずしもセクシュアリティに触れられるというふうにはならないということです。その意味で 東京を見ていくと、確かにセックス・インダストリーは遍在しているけれども、それはあくまで もベニスであったりワギナであったりという、非常に限られた性器が生るところに…出現したとい うことでしかなく、本来のセクシュアリティの点でも什器主義の点でもともに貧しいんですね。 確かに六〇年代以降、「性生活の知恵」とかいった本が出てきて、それの週刊誌版がいろいろな ところにあふれたかもしれません。戦前の」平均的日本人の性生活から見たら、現代の日本人の件 生活は確かに多様化しだといえるかもしれない。しかしそれでもやはり什器主義である。セクシ ュアリティの遍在化にはなっていないのです。それは□本のポルノとかヌード写真とかを見れば はっきりわかるわけで、やはり性器の位置を明示すること、露出度といわれるものでセクシュア リティの度合が計られている。これは、ある点で東京の街のセクシュアリティの什格に通じてい ます。 これは、ニューヨークと比較するともっとはっきりするでしょう。ニューヨークでも、タイム ズ・スクエアのような特殊地帯では性器主義が横行しています。そのかわり、その性器ギ義は徹 底しているわけで、日本の特殊地帯のように性器の露出度がいい加減であるというようなところ はないわけです。H本はいくところまでいっていないから逆に性器ギ義を超えることができない のだと思います。 ニューヨークでは、六〇年代に性革命が起き、表現のレベルでも大きな変化が起こりました。 性器をメディアで露出することが規制を受けなくなった。いわゆる「ポルノ解禁」ですね。そこ では性器を特に見るということはあまり意味がなくなってくるわけであり、それは特殊な趣味に 属するものになってくるわけです。逆にいうと、これはかって性器を神秘化することによってセ クシュアリティを維持してきたことが不可能になるということでもあります。たとえば女作が性 器をちょっと手で隠すというようなことで色気を出すことができたのに対して、それがもうでき ないということですね。これは、性表現にとっては、大きな選択を迫られたわけで、身体企体を 性的な場とするか、それともそれを放棄するかということになったわけです。 日本は、国家権力が作表現を規制していることによって、性器はセクシュアリティの場だりえ ているのです。権力がセクシュアリティの解放を阻止しているために什器五義的なセクシュアリ ティが温存されているわけである。アメリカの場合はそのへんが六〇年代を契機として変わって しまった。性器帝国士義というものが崩れた。性の革命化で、もはや性器にだけ,種の件の解放 を求めることはできなくなってくるのです。 ここから二つの方向が出てきます。一つはセリバシー ある種の禁欲主義 、もう一つは ポリセクシュアル主義というか、性の遍在性を積極化していく発想です。ゲイもそうだし、動物 あるいは植物とのセックスということまで含んだ性の多様化路線が後者の流れのなかで出てくる わけですね。 ポリセクシュアリティに関しては、「セミオテクスト」というニューヨークのラディカル雑誌 が一九八、年にポリセクシュアリティ特集をやっている。「GS」がセックスについての特集を やったときにはここから多くのネタを得ていました。 Hセ、ミオテクスト』は、ポリセクシュアリティを十二、に分類しています。つまり、①セルフ・セ ックス、②ソフト・セックス、③アリメソタリー・セックス(栄養セックス一、④セックス・オ ブ.ザ.ゲイズ(のぞきセックス)、⑤アソビキュアス・セックス(あいまいセックス一、⑥アニ マル.セックス、⑦チャイルド・セックス、⑧モービッド・セックス(病気セックス)、⑨バイ オレソト・セックス、⑪コーポレート・セックス(企業セックス)、⑪ディスカーシィブ・セッ クス(散漫セックス)、⑫フィロンフイカル・セックス、⑫クリティカル・セックス、ですね。 この最後の「クリティカル・セックス」という章の巾で、シルビル・ロトリソジェという「セ 、ミオテクスト」の編集長(この人は男なんです)が「デファソクト・セックス」という非常に而 白いセックス論を書いており、これが新しいセクシュアリティを考えるうえで大変示唆に富んで います。 「デファソクト・セックス」というのは要するにデ・ファソクト 死んでしまった セック ス、あるいはノット・ファンクショニソグ・セックス、もはや機能しないセックスということで す。これは一種の性器上義的なセックスの終わりということを.小唆しながら名付けられたタイト ルであるわけですが、ロトリソジェは、性器主義的なセックスを超えたセックスを「ポスト・セ クシュアル・セックス」といっています。 ロトリソ、シェによると、アンディ・ウォボールは、「私はセックスするよりもベッドの中で笑 うほうがいい」といったというんです。これは性の遍市化が前提されなければ不可能なことでし ょう。性器ギ義的なセクシュアリティというものがもうおしまいになってしまったんだ、という 発想がなかったらこういう発想は出てこない。アンディ・ウォボールはセックスしないほうがい いということをいっているわけでは決してなく ベッドという「、口葉を使っているわけだから ー、ベッドの巾で笑うことのなかにむしろセックスを見出しているわけです。 かつて花田清輝がパウル・クレーの絵を取り上げながら、バウル・クレーがある種のエロティ シズムの極致として表現していたのは水のなかを漂うクラゲである、クレーはまさにそこにセク シュアリティの、つの極致を見ている、といっていました。花出がいったのは、性器主義という のは下らないもので、セクシュアリティをもっと広く考えた場合には、水のなかを泳ぐクラゲの ほうにセクシュアリティが表現されているということです。いずれにしても、花田もある意味で ポリセクシュアリティとしてセクシュアリティを考えていたということだと思います。 ロトリソジェは、「セクシーというのは一種のワクチンだ」といっていますが、セクシーとい う場合、彼は性器主義的なセクシュアリティを前提にしていっている。つまりセクシーであるか セクシーでないかというのは、たいていは肉体を露出しているかどうか 女が乳房を出してい るか出していないか 、男性にとってのセクシュアリティがあるかどうか、ということです。 そういう形でのセクシー度は、たとえば乳房だとか女性器だとかいうものを、「社会的身体の免 疫として注射をした」ところからはかられているのだ、と彼はいう。これは非常にうまい言い方 ですね。 ハロルド・クラーマンが「東京は非常にセクシーな都市だ」と言ったのも、いろいろなところ にセクシーなものが免疫体として注射されているということだと思います。ロトリソジェは社会 的身体にといったけれども、ぽくはむしろ、メディアのなかに男性にとってのセクシュアリティ、 セクシーなものを注射しているのが東京であって、そういう形でつくられたセクシュアリティの 度合が東京の場合、非常に高いと思う。 夜のテレビ番組を見ると、至るところにセクシーな場。が展開しています。そこにはいわゆるチ ラリズム、ちらっと性器の代替物あるいは代用物を見せるという操作がつみかさねられている。 そういうものがメディアのなかに埋め込まれて、だんだん一つのメディア的記憶として遍在して いった時、「セクシーなセクシュアリティ」が日常的な時間のなかで再生されてくるわけです。 ただ、そういうセクシュアリティはいまのH本ではまだ通川している、か、ニューヨークでは終わ りつつあるということですね。そこからアンディ・ウォボールの。言葉-i-やるのはもういい、ベ ッドの巾で笑っているほうがいい というの、かリアリティをもってくるわけです。 ゼロワーク 日本はまだ情報化社会への道の途中にいます。そこではたしかに情報とかサービスがかつての モノの生産よりも重視される方向が山川てきたが、それでも何かのために働くこと、命じられた労 働の価値自体はまだ疑われていないですね。働くことはまだ千トの価値になっています。政府が 指導したりして、最近は働きすぎをやめようみたいな発想が少しずつ出てきてはいますから、八 ○年代の半ばというのは、かつての労働の価値が疑われ始めた転機だというふうにいってもいい けれども、.平均的に見ればやはりまだ労働が価値なんです。 ところがニューヨークの場合は、命じられるままに働くことはもはや価値ではないという文化 が少しずつ広がってきた。働かないこと、「ゼロ・ワーク」、いや「ゼロ・レイパー」といった ほうがいいかな、とにかく「ゼロ労働」という発想が出てきたのです。これはイタリアのアウト ノミアの運動のなかですでに出ていたことですね。アウトノミアの運動は最初フィアットの労働 者のストライキから始まったわけですが、そのストの新しさは、かつてのような賃金獲得のスト ではなくて、最終的に労働を止揚していこう、命じられて働くことのない世界を実現しよう、と いう旗じるしの下で行なわれた点です。それを後にアントニオ・ネグリらが「ゼロ.ワーク」と いう言い方で表現したわけです。 デファソクト・セックスというのはまさにゼロ・ワークとどこかでっながっている。つまり性 器主義の終わり、ゲイとかポリセクシュアリティというものが出てくる状況は、いままでの労働 が疑われて「ゼロ・ワーク」への運動、動きが出てきたことと対応しているのです。 日本の高度経済成長から八O年代へ至る二十年問は日本の性道徳が極度に変わった時期で、そ れはデファソクト・セックスヘの方向とどこかでつながっていく部分があるとは山心いますが、大 勢は依然として前デファソクト・セックス、つまり労働を価値とする方向で進んでいます。だか らまだまだゲイ ゲイ・プライドという一一一日葉があるが の性を社会的に認めるような方向と か、それから、男性対女性のセックスを至上のものとはしない、あるいは性器をセクシュアリテ ィの拠点と単純に考えないポリセクシュアリティの発想は出てこないのではないかという気がし ます。 性と労働との関係は当然資本の問題につながっています。世界の資本主義の動向は明らかに情 報資本主義に向かって進んでいますが、資本がつくる身体というものも当然変わってきます。か つては資本がつくる身体は中心を持った、中心に向かって集約する身体でした。ところが情報資 本主義的な資本がつくる身体は、非常にポリモーファス、多形的な身体であって、絶えずリゾー ム状にいろいろな回路がそこにつくられていくことを求めていくような身体である。 これは、資本主義にまかせておけぼ身体が「多様化」したり、リゾームの文化が牛まれるなど ということではなくて、逆に、資本主義が自分自身をむしばんでいくような要素が広がっていく ということです。 ぼくが言っているのは、情報資本主義的な資本は資本の終末を内に秘めているということなの です。それが安直に何かリゾーム状の自由な社会をつくりだすということではありません。だか ら実際上は、情報資本主義は、それが資本†義にとどまるあいだは、形骸化したリゾームをつく っていくということになります。 これまでの労働運動は、同一労働には同、賃金を、ということを求めてきました。これを性の 問題に発展させて考えると、オルガスムにはオルガスムを、男がオルガスムを感じるなら久もオ ルガスムを感じなければならない、相互的なオルガスムこそセクシュアリティの、つの価値だ、 という発想ですね。つまり労働に対して賃金をという発想、労働の価値が賃金によって評価され るということと、性の価値がオルガスムの度合で評価されるという発想とは、同じ現象の両側面 なのですね。しかし、この発想はもう終わりかけているのではないでしょうか。 それは、情報労働では同一労働というものが存在しないのと同じように、現代の性にはまさに 限りなきオルガスムが追求された結果、どのような「エクスタシー」のなかにも何らかの不感症 が存在するということのなかで示唆されています。不感症にもいろいろあるのです、か、そのなか でも一番決定的なのは、異性に対してセクシュアリティを感じなくなってしまう不感症です。ホ モセクシアルがまさにそうですし、セリバシーもその、つですが、これはオルガスム中心主義的 なセクシュアリティの終わりということを意味するのではないでしょうか。それはまさに、労働 は賃金に還元されるものではなくて、むしろゼロ・ワークのなかにこそ価値がある、という発想 のセックス面だといえるでしょう。 ニューヨークでは、七〇年代以降、確実にポリセクシュアリティが社会の前面に山川てきたと思 います。従来の性器中心のセクシュアリティ、単一なセクシュアリティに対してポリセクシュア リティの発想と文化が出てきた。それは、家庭の変容にいちばんよく現われています。アメリカ における家庭・家族形態の変化はすさまじいものです。レーガンでもその流れをとめることはで きなかった。 エイズとポリセクシュアリティ ただし、ここで問題になるのはエイズです。エイズが性のポリセクシュアリティ化に対してど ういう影響をあたえるか。つまり八○年代末のセクシュアリティは、性器局所ド義、性器十⊥義的 なセクシュアリティを最終的に超えるのか、またもとに、決してしまうのか、ということです。 最近、アメリカでも日木でもエイズ予防にコンドームがいいということがしきりにいわれ、日 本ではそのうち全身コンドームができるんじゃないかみたいなことをいう人がいるけれども、ぽ くはある意味で日本文化は全身コンドーム文化だというふうに感じています。これは儒教から来 たものかもしれないが、距離の文化、人と触わらないでお辞儀をする、ある稲の清めの文化が根 強いのです。これは何かそういう歴史があったのかもしれない。儒教自体、紀、凡前の疫病のなか で発展したものかもしれないということも考えられますよね。いずれにしても日本では距離の丈 比は日常化しているわけであり、それは羊にお辞儀のレベルだけではなくて、人の体に触わらな いのが一つの文化になっており、あまり人の体に触わると「ホモじゃないの」などとユ互Hわれたり するわけです。 喫茶店に行っておしぽりと水が出るというのも、一種の清めの儀式が日常化していることです。 日本ほどおしぽりが徹底していろんなところで出たり、雨が降ると傘を包む袋 一種のコンド ームーが出たりするところは少ないと思う。これは、日本は湿度が高いからだとかいろいろ一一昌 う人がいるけれども、日本人の清潔好き、潔癖好きというのは距離の文化です。そういう距離の 文化が依然として温存されている場所では疫病がはやりにくいことは確かです。 米本昌平氏によると、アメリカでユィズが激しくはやって日本ではそれほどでもないのはセッ クスライフの違いのためだといいます。アメリカの場合、六〇年代以降、濃厚なセックスが一般 化してきた。日本の場合、平均的にいうとセックスでは性器と性器の結合に重点が置かれている のに対して、アメリカでは全身セックスというか、性器や体をなめ回したり、足の先をなめ回し たりという濃厚なセックスが浸透している。そこではどうしてもコンドームを使うような文化が 浸透しにくい、と米本さんは書いています。これはポリセクシュアリティがある種の大衆文化に なりはじめている社会とそうでない社会との違いの問題でもあるわけです。 その場合、ではエイズがポリセクシュアリティの阻害要因になっていくのかどうかです。日本 でも翻訳されたガブリエル・ブラウンの『ニューセリバシー」によれば、八○年代以降は新しい セリバシー、一種の性的禁欲主義が浸透する時代だという。確かに最近の映画などを見ていると、 ある種の禁欲主義のすすめ、ある種の「純愛」を強調する傾向が出てきているようにみえます。 たとえば、イギリス資本の映画ですが、アメリカで非常に当たっている「ミッション」を見ると、 イエズス会の信仰に生きた二人の人物をテーマにしたこの映画にりし一、さし僧猷カ読に出てこカ いし、性的なシーンもない。彼らは南米の原住民の中にミッジョソー1崇教的コミューソーを っくっていくわけで、原住民もある意味でセリバシーに改宗させてしまう。こういう映画が当た るのは、一つには確かにニューセリバシーの傾向が現われている証拠かもしれません。 その場合、ニューセリバシーがポリセクシュァリティの延長線上にあるのか、それとも途絶な のかという問題があります。確かに先はどのアンディ・ウォボール的な発想に立てば、性器を結 合するよりもベッドのなかで笑うことのほうが 笑うというのはたぶん男と男あるいは女と女 がベッドのなかで一緒に笑うということだと思うけれども-セクシーだということになると思 う。実際にそういうことが一部のインテリの問に浸透しているということは、ニューヨーク的コ ンテクストのなかでは十分考えられると思います。シルピル・ロトリソジェは「性的発展途上都 市」という言い方をニューヨーク以外の都市に当てはめますが、ニューヨークはたしかに性的に 高度に進んでしまった都市だといえるでしょう。東京などはニューヨークにくらべれば明らかに 「性的発展途上都市」だとぽくは思います。 そうだとすれば、「性的発展途上都市」である東京でこれからエイズがどう機能していくかは かなりみえやすいのではないか。きょう歌舞伎町を歩いてもすぐにわかったけれども、セック ス・インダストリーのパワーが落ちてきている。吉原へ行ってみると、昨年(一九八六年)の活 気はない。そういう意味では、エイズ騒動がある種の禁欲主義を広めてしまっている。しかしこ の場合、そういう形で生まれる日本の「セリバシー」とニューヨークのセリバシーとは違うでし ょう。どこが違うかというと、日本の場合は、結局、家庭内セックス、ホームセックスはいい、 安全だ、それに対していわゆる悪場所におけるセックスは危険であるという発想、商売女は危な いが女房はいい、あるいは女.房と犬との関係はいいという発想になっていくからです。 ところがガブリエル・プラウソなどがいっているニューセリバシーはそういうのではない。む しろ家族関係を超えた関係を前提したLでのニューセリバシiです。これは大変違う。確かにエ イズが、つの転機をつくると思いますが、日本の場合はそれによってむしろ占い価値に逆、尿りす る可能性がある。アメリカのほうは逆にエイズによって一歩超えてしまう可能性もあるわけです。 一時、エイズというのは生物化学兵器の延長線上でつくられたものではないか、六〇年代以降 にアメリカに広まっていたフリーセックスとかゲイの文化とか、そういうものを解体する目的で 浸透させられたのではないか、という説が出たことがあります。ぽくもそういう仮説を立てたこ とがありますが、たとえそうだとしても、その「策略」は結果としてどうも成功しそうにないの です。六〇年代以降に出てきた動きはそれほどやわではないのではないかという気がします。確 かに風俗的なレベルでのゲイ・カルチャーは後退しているし、会ったらその晩にだれとでもやっ てしまうというようなフリーセックスはエイズのために後退したかもしれないけれども、ある種 のポリセクシュリアリティに目覚めた人の間では、日常生活の中で性器主義に一つの結末をつけ ることがエイズによって可能になるわけです。ところが日本の場合は、そこまでいく以前にポリ セクシュアリティが阻止されてしまっているために、その萌芽もろとも.挙に逆転してしまうこ とになるのではないかという気がぽくはします。 エイズ予防はスポーツで!? そうしますと、この結果いま以Lに活発化するのはスポーツではないかという気がします。ス ポーツというのは明治時代に西欧から導入された一つの大衆的な儀式です。それは当然セック ス・コントロiルという側面を持っているわけで、明治の天皇制がある橘の性的自己セラピーだ とすれば、スポーツは性的な集団セラピーだと思います。 スポーツは当然、身体運動、身体的な遊びを組織化したものです。近代スポiツ以前にあった 蹴鞠だとか、さまざまな遊び、芝居、踊り、つまりは身体的な民衆文化を西欧近代的な合理上L義 の論理で型にはめることによって生まれたのが日本のスポーツです。儒教の伝統はそれを実にや りやすくしたわけで、だから野球のようにいまでも儒教的なものと西欧近代的なものとの奇妙な 連合がみえるスポーツもあります。ぼくはH本の野球をみると剣道の儀式にみえてしかたがない。 しかし、日本の前近代の民衆文化のなかには、身体運動を規制することによって性的な自己管理 を行なうという発想はほとんどなかったように思います。 スポーツには集団管理性があり、だからこそ、明治以降、スポーツが非常に発達したのではな いか。実際にセックスを強力に管理している国においてはスポーツは盛んです、そういうところ では国が援助しているスポーツは非常に強いのですね。その場合、セックスの管理というのは 二九八四年』の世界のようにセックスを一切禁じるというのではなくて、休をプライベート化 させないということですね。だから、エイズ騒ぎでセックスがプライベート化される傾向が強ま ると、日本では集団管理の場がセックスではなく、スポーツのような場に移るだろうと思うので す。 もう、つ性の集団管理の問題として宗教があります。新興宗教の最近の動きは非常に活発化し ているわけですが、日木の宗教は、「イエスの方舟」などはわからないけれども、姓とのっなが りをあまり表面に出さないようにしているんですね。キリスト教の場合は比較的はっきりしてい るでしょう。そもそも、バンはキリストの肉体であり、葡萄酒は血なのですから。しかし、H本 の宗教はそれを昇華する傾向があります。 目白の鬼子母神の祭りのときにダグラスニフミスさんに誘われて行列に参加したことがありま す。太鼓をたたいて池袋駅東口から鬼子母神まで行列するんです。それは、ある意味では非常に セクシュアルなものでした。つまり太鼓をたたくことによって一種の身体的な高揚に達するわけ です。宗教の原型はすべてそういう要素を持っていたと思うのですが、明治維新で民間信仰が国 家神道によって再編成された時、そういう要素が払底したのです。つまり明治以降の国家神道は、 日本の宗教が持っていた日常的な性の昇華的要素・機能を分断し、それをスポーツのほうに向け かえたわけですね。 いまエイズ恐怖、エイズ・パラノイアがメディアを通じてだんだん広まっていくなかで、健康 産業が元気づいています。スポーツセンターは非常に増えてきています。ジョギングをはじめと して日常スポーツは、七〇年代以降、健康産業の発達とともに急速に日本社会のなかに定着しは じめた。そういう流れがある以上、エイズ・バニックが強まれば、そういうものがさらに強調さ れていくことになるのではないかと思います。 このあいだ、女性用のボクシソグジムができたニュースをテレビでやっていました。そのなか である女性はレポーターに、「男女連とボクシングとどっちが重要ですか」と質問されて、「両 方、重要です」と答えていた。彼女が「両方」と、、〕ったのはおもしろいと思うんです。むろんこ の女性が実際にそうなのかどうかはわかりませんが、彼女にとってボクシングがセックスよりも より高度のオルガスムをあたえるものになるということも考えられるのです。その結果、男との 関係は以前よりも淡白なものになるかもしれない。 こうした日本的セリバシーの行きつくところ何になるかと言うと、登山ではないかなと思いま す。話がうますぎるけれども、口木の皇室はずっとスポーツの「振興」に貢献してきました。天 皇裕仁は非常に早い時期にゴルフをやっている。途中でやめてしまうが、ゴルフを日木に普及さ せるためには役ヴった。ゴルフというのは、つきあいゴルフといった実際而においても高度経済 成長と非常に関連の深いスポーツであるし、穴にkを入れるというビジュアルな側.面においても 性器主義を象徴している。まさにゴルフで穴に玉を入れるようにセックスしながら太ってきたの が日本の高度経済成長であったし、日本の戦後の核家族であったし、男女関係であったと思うの です。 ところが、それを超えるスポーツを白珊室はいちはやく川している。それは何かというとテニス です。皇太千が五九年に正出美智戸と結婚した時に、「テニスの縁」ということ、か人々的にプロ パガンダされた。それは、着実にほ本の大衆のなかにインプットされ、最近では、ゴルフよりも むしろテニスのほうがナウいという層が少しずつ増えてきているし、女性のテニス人口は非常に 多くなっている。 テニスは穴に干、を入れるのではなくて、たえず中心をずらす場の運動ですね。テニスのラケッ トは棒ではなくてネットです。ネットで玉を飛ばすわけだけれども、十は玉であっても穴に入る べき最終目標をもっているわけではない。仁というのは.つの男性の象徴でもありますが、テニ スでは玉に対してネットのほうが大きい。テニスは野球よりも女性向きだと-、口われますが、テニ スの流行は女権の発達・広がりと関係づけることができるでしょう。テニスを日常的レベルで愛 好しているのは女性のほうが多いように思います。ぼくの家のそばに商社の社宅があり、そこに 大きなテニスコートがありますが、そこでテニスをやっているのは女性ばかりであ・る。だんなは 会社に行ってるわけですから。 ポスト高度経済成長の時代において、日本の場合も女性の「白ヴ」、家庭を出て働くという動 きが出てきたが、テニスはそれと非常に相関関係をなしている。テニスは、シンボリズム的に解 釈すると、玉・男性を認めた上で女性のほうが玉をあやつるという要素があるわけです。 ゴルフの場合は小さな玉に対して耳かきみたいなクラブがある。それは玉に合わせた道具です。 それに対してラヶヅトは必ずしも玉に合わせて作られているのではなく、むしろ玉を包括してし まうように、ある種の許容度をもってつくられている。 スポーツがセクシュアリティのコントロールだという問題は、スピードの面からも考えられま す。そもそもオルガスムというのはひとっはスピード感覚ですね。そのスピード感覚をどうコン トロールしていくかということが、つの性管埋になっていく。セックス産業にとっても性的持続 度と強度を高くできれぽできるほど産業の効率は高くなる。 こうした性的スピード感の面からみた場合、ゴルフはある意味で早漏感覚である。つまりあく までも男本位の、男だけがエクスタシーを感じればいいというスポーツです。やってる人が、 玉を打つ人が高揚感を感じれぼいいというスポーツです。これは売春セックスに通ずるわけです ね。それに対してテニスは一応対等な.一老がともにある時間を享受するスポーツであるわけです。 だから、つの核家族のセックスです。 こういうスポーツが皇太子明仁とともに日本社会に浸透するということは驚くべきことで、宮 内庁は、一九五〇年代末の時点で、共働きの時代、女性の「社会進出」の時代の到来を正確に予 知していたということです。 しかし、こうした女性の「自立」がこれ以ト造んでしまうと本当のフェミニズムに行ってしま う。そしてさらにフェミニズムが進めばポリセクシュアリティが来る。日本のシステムの論理は そこまではいけない要素を持っている。それが天皇制国家のつまらないところですね。 そうすると、そういう傾向を抑えるには集団セラピーとしてのスポーツで解放と多様化への欲 求をうやむやにしていくしかない。そこに出てくるのが山登りです。うまいことに浩宮の愛好ス ポーツは山登りなんですね。宮内庁は山登りを今後メディアを使ってどういうふうに宣伝してい くのかわかりませんが、「エイズ祓いに山登り」なんてキャソベiソが出てくるかもしれない。 いまの日本の社会が直面している文化的危機は、ゴルフとかテニスのような象徴形態として昇 華的なセクシュアリティを満たすこと自体がもはや無理になってきているということです。それ 自身が一つのセクシュアリティであり得るようなもの、もう一つの生活が求められているわけで す。もう一つの生活をするには場を変えなければならない。それは、テニスコートとか都市のな かの限られた場ではなくて、それ自体がトータルな別の論理を持っている場です。それをぽくは この本のなかで追ってきたのですが、宮内庁はスベースヘの大衆的な欲求をいま山というプリ、ミ ティヴなよそおいをもった場のほうへもっていこうとしているわけです。 パフォーマンスのスペース 六木木 なぜ俳優座のバブにいるのか? 身体とエレクトロニックニアグノロジーとの関係が変わってきたということを前提とした場△い に、パフォーマンスというものはひとつのインデックスになると思うんです。そのへんを考えて みようと思って、きょうは最終的に六本木へきたわけですげども、最初は芝公園から歩きだして、 増上寺のなかをぬけて、東京タワーにいったわけです。東京タワーでテープをまわすっもりでし た。それは、とくに意味があったわけではなくて、エレクトロニックニアグノpジーの集積地と してのテレビ塔が何かを触発するのではないかという漠然とした不感のためでした。 東京という都市をパフォーマンスとの関係で考えた場合、パフォーマンスの都市というものが 見あたら・ないのです。下北沢には本多劇場やザ・スズナリのようなバフォー、ミソグ.アーツはあ る。しかしパフォーミング・アーツとパフォーマンスとは同じではありません。まあ、ミニFMは パフォーマンスかもしれない。でも純粋な意味でのパフォーマンスではないだろう。それから渋 谷も違う、新宿も違う。渋谷、新宿は消費の都市としての性格が強いように思えるのです。 パフォーマンスということで、真先に思い浮かぶ場所は、ぼくの場合だったら銀座です。それ は赤瀬川原平たちの「東京ミキサー計画」というのがあったり、ネオ・ダダの篠原有司男たちが やった街頭パフォーマンスがあったり、読売アソゲバソダソの催しが開かれたとか、画廊が多い とか、まあそういう記憶が関ヶしていると思うのだけれど、それだけではなくて、だれでも、が外 から入ってこれるようなスペース、常連でなくてもいっでも入っていって、何かをして出ていけ るような、そういうフリー・スペース性が銀座にはあって、それ、が、なにかパフォーマンスと関 係があるような気がします。 ただし、いまのパフォーマンスにとってエレクトロニクスが重要だというような意味では、銀 座にエレクトロニクスはない。エレクトロニクスと身体との関係をつきつけるようなところは弱 いのではないか。そうなってくると、むしろ港区のほうがテクノアiトっぽい感じがする。実際 港区にはテレビ局が多いのです。そういうようなことが、どこか無意識のなかで働いたのかもし れないけれども、最終的に足が東京タワーに向いたわけです。 ところが、東京タワーにきてみたら、たむろできるスペースというのがないんですね。二百五 十メーターの展望台はあるが、それは見るという目的を果したら上ムらなければならない。東京タ ワーには眺めるというスペースしかないんです。つまり、体を変える、視覚的にだけではなくて、 音響空間としても変えるようなスペースは、東京タワーにはないんです。なかに喫茶店はあるに はあるけれども、それは、べつに東京タワーである必要がないようなスペースだった。つまり東 京タワーという、一種の電子的なスペースというものに見合ったフリー・スペースはどこにもな かったのです。 それでしかたなく六本木のほうへ向かって、喫茶店、バー、そういったところをのぞきな、から 歩いてきたわけだけれども、その時ふと急に思いうかんだの、か「ウェイブ」でした。ウェィプと いうのは、西武白身が一種のメディア・ミックスのスペースとして、最初から計画的につくった ところです。ウェイブにいってパフォーマンスのことを話すのはいいんじゃないか。ウェイブに は喫茶もあるしバーもある。そこで一路ウェイブに直行した。しかし、改めてそういうH的でウ ェイ、フにきてみると、意外とウェイブというのは貧しいんですね。確かに世界のレコード、があり、 レーザーディスクがあり、ヴィデオもある。あれほどいろいろなソフトが集まっている場所とい うのはそうないと思う。ニューヨークを歩いても、何軒かをはしごしなけれぼ子に入らないよう なものが一カ所に集まっている。そういうところは世界でもあまりない。ただ、あそこに入って、 あそこをうろうろすることによって何かパフォーマンス的な意識を触発されるかというと、そう ではないのです。それは所詮、商品の場だからではないか、遊びがないからではないかという気 がしました。レコードを買って、レーザーディスクを買って、あるいは映画を見て、そして、階 のバーで酒を飲んで帰る、あるいはエスプレッソを飲んで帰る、ということはできるでしょう。 しかしそこでパフォーマンスをやりたくなるというような場ではないわけです。ぼくは、この本 のためにしゃべることがある種のパフォーマンスであるというふうに考えています。この企画も 言語的パフォーマンスとしてやってきているのですけれども、そういうことを可能にする場では ないわけです。 それで流れ流れて最終的に落ち着いたのが、俳優座の、階のこのパフです。これは、考えてみ ると何か象徴的な感じがするんです。俳優座というのは、スペースとしては非常に{いスペース で、アングラ以前のスペースだった。それが、アングラ、が制度化した時点で、新劇H体もスペー スの変革を迫られた。それでかつての十n典的な舞台を排して、円形のフリー・スペース状の舞台 守問をつくった。これが新しい俳優座の出現です。、階のロビーの奥にはこの前払い式の飲み屋 がある。それは、イタリアのバiやイギリスのパフに通じているとともに、山谷の「大利根」と いう飲み屋にも通じるものをもっている。身体的無意識に従って歩いてきて、最終的にここでこ ういう話をしているというのは、何か象徴的な感じがするわけです。 このパブは、イタリアのパーに通じるような、フリー・スベiス的な性格を持っている。つま り拘束されない。酒を買ってきて、座れぼあとは何も拘束されない。日本の飲み屋というのは、 飲め飲めという、せかされるようなところがあるわけだし、飲みたくなくても飲まないわけには いかないようなところがあるわけですが、ここにはそれはないわけです。まわりの音はうるさい けれども自由性はある。 TVミラー 都市、身体の両方を同時に捉える概念として、「スペース」を考えた場合、そうしたスペース で行なわれることを広い意味で「パフォーマンス」と呼ぶことができると思います。パフォーマ ンスという言葉自体は、パフォーミング・アーツ(舞台芸術)におけるパフォーマンスの意味も あるわけですが、いま「パフォーマンス」というともっと広い意味になります。いや、広いとい うよりも系譜がちがうといったほうがよいかもしれません。 アメリカで六〇年代に「ハプニング」という新しいジャンルができ上がった、それを継承した かたちで「パフォーマンス アート」というジャンルが生まれた。ジョン ケージとかローリ ー・アンダーソンとか、ナム・ジュソ・パイクとか、一連のいわゆるパフォーマンス・アーティ ストが出てくるわけです。 ぼく自身ずっと、テクノロジーと身体、テクノロジーと都市、オーラルな身体と都市といった 関係を考えてきたわけだけれども、これまでの都市論は、どこかで「裸形の身体」とでもいうも のを前提していたと思うんです。身体というのは自然発生性の拠点だという発想ですね。それが くずれてきたということは、すでに少し話したし、次章でもっと立入って論じるつもりだけれど も、そういう裸形の身体、あるいは身体の自然発生性を解体してしまうものとしてテクノロジー があるわけです。 ぼくが関心を持っているのは、テクノロジーというのは、はたして「裸形の身体」を解体する だけなのか、身体の自然発生性をこわしてしまうだけのものなのか、という問題です。その際、 まず一方に、身体の自然発生性を前提しておいて、他方に人丁的な身体を対置するという発想自 体がだめなんじゃないかという気がします。 そういうことをいろいろ考えてきた過程で、それを単に理論的にリサーチするだけではなくて、 自分自身の身体を実験台にして、自分の身体が受ける経験を通じてそういった問題を考えてみた いというふうに思ったところからパフォーマンスにかかわるようになってきたんです。もともと ぼくは都市を考える場合に体で試してみるというか、単に傍観するだけではなくて、こちら側が ある程度働きかけて、そこから出てくるリアクションのなかで考えるということをしてきたわけ です。それをもう少し積極化した場合どうなるだろうか。そういう意味でぽくはパフォーマンス をはじめたのです。 もちろんそういうことは、最初から厳密に計画してやったわけではなくて、偶然のきっかけが あったのです。一九八五年の二月に、駒込のサウンド・フプクトリiというところで、ヒグマ春 夫が難波京子さんという美術家とぽくを含めた三人のメディア・ミックスの集まりを企画しまし た。ヒグマ春夫がヴィデオを見せて、難波さん、が風船と布を使った、イソスタレイションに近い パフォーマンスをやったわけです。ぼくは最初、パフォーマンスについてしゃべることをたのま れたのですが、サウンド・ファクトリーという、小さいけれどもヴィデォがあり音の装置があり、 かなりいろいろなことができるメディア装置のあるスペースなのだから、ただしゃべるだけでは なくて、もう少しパフォーマンスn体を異化できるような時間にできないだろうか、そういうこ とをちよっと考えて、ヒグマ春人に話したら、好きにやっていいということで、それである種パ フォーマンス的なものをやることになったのです。 はじまる前に、ぽくがただ柚髄をうつだけのヴィデオを彼に撮ってもらいました。椅子にすわ って照明を当ててもらって、カメラに向かってうなずいているだけです。声はありません。それ を四十分ぐらい撮っておいて、それを使って、あとでそれとぼくが対話する、そのビデオのな かの自分の映像に向かってパフォーマンス論、とりわけ身体とヴィデオとの関係をしゃべるわけ です。 最初は、ライブ映像と録画をスイツチで切替えるとか、いろいろなことを考えたんですが、会 場にある設備の機械の条件などがあって、それはできなかったので、ただヴィデォをまわしてお いて、それに向かってしゃべるということを結果的にやったわけです。その時は思いっきだった ものですから、名前がなかったんですけれども、後で「TVミラー」というタイトルにしました。 このパフォーマンスを思いっいたのは、ち上うとその前年の一九八四年八月に福島県の檜枝岐 というところで「ヒノエマタ・パフォーマンス・フェスティバル」というのがあって、そこで鈴 木志郎康さんが八、ミリを使って自分の映像と対話するのをみたときでした。鈴木さんはこのパフ ォーマンスをなんべんもやっていて、かなりうまく八ミリと対話するんです。それはある種の芸 になってしまっているんですが、そこをもう少し、身体が露山川するような、生身の身体が異化さ れるようなものにできないかというところから、ぼくはヴィデオにそれを転換してみたわけです。 これはやってみたら、予想した以上に面白くて、テレビのなかのぽくのほうがリアリティをもっ てしまうんですね。向こうが一方的に相槌をうってきても、こっちが無視していけぼそれでいい んだけれども、それができないのです。だんだん、だんだんヴィデォのなかの自分にひきずられ でいって、しゃべり方まで変わってきてしまう。終わった時には、こちらはもう汗びっしょりで、 ヴィデオの映像のほうは笑っているという、そんなパフォーマンスになったのです。これはある 程度予想したことなのですが、ヴィデオのなかの映像、ヴィデオのなかの人格というもののほう が、いまの情報環境のなかでは強いということです。 このパフォーマンスを通じてぽくはエレクトロニクスニアグノロジーと身体との関係をパフォ ーマンスをやりながら考えていくということにとりつかれたのです。 私のアンドロイドとの対話 それからだんだんパフォーマンスに深入りしていくことになりました。その年の六月に、及川 廣信氏のプロデュースで「東京アートセレフレーション」という催しが行なわれたとき、参加を 呼びかけられたぽくは、「ヵソヴァセィション・ウィズ・マイ・チューリング・マシーン」とい うパフォーマンスを発表しました。チューリング・マシーンというのは、アーディフィシャル・ インテリジェンス(人了知能)ですが、「私のチューリング・マシーンとの対話」というタイト ルのなかには、「私のアンドロイドとの対話しという含みがあるのです。 アンドロイドというと、普通、人問そっくりの顔をしていて、手足、かあってというものを考え がちです。映画の『ブレードランナ⊥に出てきたようなものを普通考えるのですけれども、な にもそういうものが出現しなくても、すでに分散したかたちでアンドロイドは存在しているんだ とぽくは考えています。つまり、テレビにしても、留守番電話にしても、H覚し時計にしても、 ある程度人問に近い記憶をもち、情報をずらしたりする機能があるのですから、これらは、種の 「アンドロイド」なんですね。そうだとすると、そういうものをつなぎあわせて、ある場所に集 めたら、そこにある種の「意識」ができあがるのではないか。アンドロイドは、人間そっくりの 身体として存在するというふうに考えてもいいのだけれど、いろいろな器官かばらぼらに存分し ているというふうに考えてみれば、それを集めれば、まさに一体のアンドロイドが出現するわけ でしょう。それを「私のチューリング・マシーン」という言い方でいったのです。 その回路をもう少し詳しくいいますと、機材としてはヴィデオモニター.台とVTRを二台、 ヴィデオカメラ一台、カセットテープレコーダーを二台使いました。それにマイクとCDSの光 センサーなどをつないで、光センサーと昔センサー、が映像と音を切替えるという装置をっくりま した。これはぽく自身がつくりました。このパフォーマンスのなかには、前にやった「TVミラ ー」の要素も入っていて、ヴィデオカメラに向かってぽくが何かをしゃべる部分もあります。そ うするとそのしゃべる声に反応して昔センサーが働き、テープレコーダーの声を切替える。テー プレコーダーにはエンドレステープが入っていて、昔の早稲出小劇場の俳優のせりふとか、レコ ードを千で回して再生した調子はずれのカーメソ・マックレーのジャズボーカルとか、そういう ものがエンドレスで入っていて、それを昔センサーで切替えるのです。 その時ヴィデオを二台同時にまわしているのですが、ヴィデォにはアメリカのギャング映画の シーンとか天白干の顔とか、いろいろなものが入っています。この場合にも二台のVTRを切替え て、どちらかの映像がヴィデォモニターに出るようになっているのです、が、その切替え装置に光 センサーを使っています。光センサーは、ヴィデォモニターの光に反応し、フィードバックを起 して狂ったようにスイッチを切替える。ある映像、がヴィデォに写るとそこに影ができるわけです ね。その影と光の差を感じて、スイッチが入る。映像が変わるとスイッチ、が切替わるという、そ ういう装置です。だからしょっちゅう映像が変わり、ヴィデオカメラに映るぽくの身振りによっ ても映像が変わるのです。この場△H、装胃をセットしたり、いじったりすることも、パフォーマ ンスのひとつに入っていまして、途中でセンサーを切替えて、音に一反応してヴィデオ、か切替わる というふうにもしました。そうするとたとえぼぽくがある詩の、節を読むと、その瞬間に映像、が パラバラッと変わったりするわけです。 こういう装置の散乱するスペースのなかで、ぼくが椅丁に座ったりヴったりマイクを握ったり してやっているわけだけれども、そうしているうちにこのスペースのなかに一種の意識のような ものが、浮遊しはじめるんですね。うまく浮遊したかどうかわからないけれども、なにか奇妙な スペースができあがっていくわけです。そのスペースは、ぼくの生身の身体だけでつくられたの ではなくて、むしろヴィデオ映像とかテープレコーダーのサウンドとか、電ゴ的なものによって っくられているのです。「ヵソヴァセィション・ウィズ・マイ・チューリング・マシーン」とい うパフォーマンスはこういう実験でした。 ただぽくは、これ以後ヴィデオ映像を白口分のパフォーマンスにあんまり使わなくなりました。 むしろ音に執着して、電子的な装貯を通じた音と身体との関係を追求するようになっているので すが、それは次第に、映像というものは身体化される度合、かまだまだ低いという気がしたからで す。ヴィデオ映像が、生身の身体よりもリアリティの点で勝るという状況が州巡していることは たしかだけれども、音にくらべれぼまだ中途半端だということです。ところが片のつくるスペー スのほうは、まるで身体を完八十に消してしまうようなところまできているんじゃないか。たとえ ばウォークマンをつけて街を歩くと身体が消えるような意識を持つこと、かある。電卓のなかで、 そう混んでいないのに体をポソポソぶつけてくるような人、かいるので、その人を見るとウォーク マンをつけていたりするんです。つまり、n分の身体,かなくなっている。そういうところ、かウォ ークマンにはあるし、電f的な音の技術にはあるような気がするのです。 それに対して映像は、確かに生身の身体に勝るような部分、かもちろんあるのだけれども、依然 としてまだブラウン管の枠のなかだけのもので、あるスペース全休を映像で包んでしまうという ことはできない。それに、映像自身を操作する技術が、音ほど一般化していないということもあ って、ぼくは「カソヴァセィション」以後あまり映像のほうには千を出さなくなりました。 電子の街路を歩いていく ですから、一九八六年の八月に行なわれた第二回「ヒノエマタ.パフォーマンス.フェステ ィバル」では、音をギにした新しいバフ才ーマソスをやりました。これは「ウォーキング.タウ ソ・ジ・エレクトロニック・ストリート」、電子の街路を歩いていく、というタイトルのパフォ ーマンスです。 その仕掛けをいいますと、まず床に幅二、センチほどのビニールのデーブを一〇メーターぐらい 貼ります。その上を歩きながら、小型のカセットテープレコーダーに向かって、「ウォーキン グ・タウソ・ジ・エレクトロ,ニック・ストリート、ウォーキング・タウソ・ジ.エレクトロ・ニッ ク一ストリート、ウォーキング・タウソ・ジ・エレクトロニック・ストリート」と.一、三分間繰 り返ししゃべりながら歩く。 その後、そのカセットテープをとり出し、磁気帯のあるほうをLにして、先ほど床に貼ったデ ーブの上にずっと伸ばしてセロテープで貼っていきます。それからワイヤレスで場内のスピーカ ーに流れるようにした装置を使って、この磁気テープの上をトレースしていく。装置といっても 大した装間ではなくて、アルミの棒の先に、再生ヘッドをつないだだけのものです。それが無線 機を通じて、場内のPAに情けを流す。棒の先に.再忙ヘッド,かついているのです。が、ぼくのアク ションは、その再乍ヘッドにテ-プの磁気帯.伽がうまく合うようにして、録音テープのトを端か ら端までこすっていきます。その場介、録音テープのLをうまくヘッド、か接触すると片、か川るわ けです。そのスピードは僕の下の動き、足の動きに連動しているのですが、スピードを.定には できないから、スピーカーからは奇妙な汚が出る。笛、一」一π染みたいな音です。 これは、機能的には、テープレコiダーという完成された装附を露出させてみたわけですね。 露…山させて、その間に化身の身体を介在させてみたわけです。テープは浄逝、モーター、かまわし て、それがヘッドをこすり、汚、か…るわけです、か、逆にテープを川定しておいて、ヘッドを動か してみたら・どうかというの、かごの実験のハード面です。 やりながら痛感したのは、やはり身体の.小確定什でした。冷地に棒を押していくと、とてもま ともな音にはならないのです。あらかじめ入れておいた考は川たいので寸。あら.かしめ入れてお いた蒔を、鮮刎な音で出すには、身体をまず機械にしなければならない。突っ張らせていかなけ れぼならないということです。そのかわり、身体をこわぼらせながらテープをトレースすれば、 モーターの場合と閉じような音を出すことはできるのだけども、その時ほど身体が.橘の機械に なってしまうことはありません。硬直してしまうのです。しかし、逆に身体、か非常にしなやかで、 非常にリラックスした状態でこのテープのトをこする場合には、非常に抽象約な面白い音が…出ま す。ランダムな音が山川るわけです。つまり、身体、か身体であるときのほう、か炎現は劣様化する。 ここから、身体の解放とは何なのか、ということを考えることができるかもしれません。身体 は、歴史的に、体操をとってみてもそうですが、身体を機械に似せていくというかたちで管理さ れてきたわけです。それに対して身体を解放するということはどういうことなのか。しかもそう した拘束から解放された身体が、公術創造のようなものと結びつく瞬…とはどういうときなのか。 このパフォーマンスのねらいは、いま考えるとそういうところにあったのです。 これはかなり、反応があって、八、ゾの豊島通之は、テープレコーダーのヘッドでテープをこする というぽくの方法を彼のモル・シアターの出しもの一たとえば「f/F・パラサイト㌧のなかで 使っています。ああいった「引用」を誘発できたのはうれしいですね。 電子人間をつくる 東京の街を歩いていると、あちこちからスピーカー音が聞えてくる。さらにウインドウのなか ではヴィデオ、壁にはマルチスクリーンと、さまざまな電子環境にとりかこまれていることに気 づきます。こう言うところを歩いていると、こちらもだんだん一種の電子入間になっていくよう なところがあるのですが、では電子人問になるということはいったいどういうことなのか。それ を自分の身体で試してみたいというふうに思って、八六年の十.月にぽくは「エレクトロニッ ク・ヒューマンビーイング㎞1」というパフォーマンスをやりました。 これは前回に使ったCDSを、もう少し数をふやして使ったんですが、光センサーは光の度合 に応じて抵抗が変わるわけです。このときは、その抵抗の変化に応じて音が変わるような装置を つくりました。光センサーをぽくの手にとりつけ、ぼくが身体を動かします。光は照明を使わな いで、あらかじめ頼んでおいた人に座席から懐中電灯でぽくの身体を照らしてもらうのです。ぼ くの着ているしL着の背中と前には、合計八個の小さなスピーカーがついていて、そこからいろい ろな電子音が聞えるようになっています。 音はあまり大きくないので、場内スピーカ1のマイクのそぼにいって身体を動かし、光をあび るのですが、面白いと思ったのは、こういう装置を身にまとったために、ぽくがふだんは絶対に やらない動きをしてしまったことでした。なかば踊りのようなことをやってしまっているわけで す。これはすごく面山いなと山心った。普通、電子テクノロジーは、身体の.~能性を硬膚化させる ものだというふうに考えられていますが、すくなくともこの実験では身体、が拘束されるよりも、 むしろ解放されたのです。 そのあと、八六年五月の「メイ・プロジェクト」というパフォーマンス・フェスティバルで発 表したのが、「エレクトロニック・ヒューマンビーイング・N02」です。「電千人間第、、弾。 とでもいいまし上うか。これは、牛蹟桜ヶ丘のライブミュージアム・アウラホールというところ でやったのです、が、装置は前の「エレクトロニック・ヒューマソビiイソグ・N01」よりもも うちょっと複雑なのです。 光センサーに.反応して音を変える装置は同じなんですが、今度は、それにくわえて、光センサ ーの音の変化に対応していくつかのメロディーを発するメロディーICの装豚を使いました。メ ロディーICというのは、いろいろな音を記憶しているICですが、それに光センサーを接合し て、光の度合の違いでスウィッチが切替わり、いろいろな音楽が流れるようにしました。 そういう装蹄をつくってぽくが身体を動かす。身体を動かすと同時に、光を動かさなければ光 センサーは働きませんから、小さな軽いスライド・プロ、シェクタiをrに持って、いろいろな映 像を写していくということをやってみました。その映像というのは、ニューヨークやオーストラ リアで撮った都市のスライドです。そのスライドをn分で壬に持って、いろいろなところに投射 する。壁に投射したり、ヴィデォの蘭一mにも、テレビの.則,向にも投射したんです。これは独ヴし たパフォーマンスとしても.血肉かったと思います。 テレビ放送が終わると、両面にいろいろなノイズ信号のつぶつぶが映ります。それをヴィデオ コーダーにあらかじめ撮っておいて、それをモニタiに流すのです。モニターの明るさがあんま り強いとだめなんですが、少し暗くしてやると、そのブラウン管の位置にスライドの映像がうっ ります。なんとも微妙なうさんくさい画像が出てくる。たとえばニューヨークのグリニッジビレ ッジの、ジェソトリフィケイションでいまでは非常にきれいになってしまった町並みがあるので すけれども、そこで撮ったスライドをヴィデォのゆらぎといいますか、ノイズ信号の画面のうえ に投射してやるわけです。そのスライドは、ありきたりのニューヨークの街頭風景であり、火し たものではないのですが、ノイズ信号を流しているヴィデォモニターの両面にそれを投射すると、 なんとも奇妙な映像になるんです。それを見た観客が後で、「あれはインドですか」っていうん です。つまり、テレビ画面というのは、うさんくささとか、ランダムな要素というのを消してし まうものとして考えられていることが多いけれども、逆にこういう使い方をすると、うさんくさ いものをつくれるのです。 そういう装置を、方で動かしながら、ぽくはこのパフォーマンス・スペースのなかをスライド を投射しながら動きまわります。スライドを投射している時もそうですが、その光は出然、企体 は暗くしてありますから、ぼくの身体に反射する。そうするとぽくの身体には光センサーがつい てますから、その光センサーが光をうけて音を変える。その音が場内に響きわたる。それを一時 間、身体を動かしたり、踊り狂ったりして見せたわけです。その時もn分が想像もしなかったよ うな身体運動を披露してしまった。ある意味では、よせばいいような動きも多いのだけれども、 とても電子装置なしではできないような動きをいろいろやってしまったわけです。これは前回の 経験があるので、かなり予想できたことです、か、身体とエレクトロニックニアグノロジーとの関 係というものを、改めて確認する手段になったと思っています。 アンドロイド的身体 メイ・プロジェクトのすぐ三ヵ月後に、第三回の「ヒノェマタ・パフォーマンス・フェスティ バル」古があって、いまやパフォーマンスにどんどん引き込まれていってしまったぽくは、また新 しいパフォーマンスを考え出しました。アンドロイド的身体とエレクトロニック・テクノpジー との関係をテーマにするのならば、いっそマネキンを使ってみようということで、マネキンの上 半身を買ってきて一これは、女性だとなんか艶めかしいので、男性のマネキンを買ってきて -、それに服を着せず、腕もつけないで、その体内に振動センサーと音センサーと磁気センサ ーをつけました。ある磁気を争えると音、が出るし、音が変化します。ある振動を加えると、その 振動がアンプに伝わるようにしたのです。光センサーも口の部分につけてやって、その四つの、 一種の人工的感覚を装備したマネキンをつくって、それにぽく、かさわる。だきついたり、なでま わしたり、いろいろするわけです。指輪とか首飾りでマグネットがついたのがありますけれど、 そういうのを自分の首からマネキンの首にかけかえてやる。そうすると磁気が伝わって音が出る。 振動センサーは、マネキンの表面にさわると、その音を敏感に感じて音を出す働きをします。 最初の予定としては、ぼくの刺激に反応して、このマネキンが生気を持ってくるはずでした。 アクションとしてはぼくがマネキンを後ろから抱きかかえる感じになるんだけれど、その時後ろ にいるぽくよりも、マネキンのほうが生身であるかのような、そういう逆転状況をつくり出せな いものかというのがねらいだったのですが、これは見事失敗しました。エレクトロニクスをつか ったパフォーマンスの場合、往々にしてあることですが、このときも技術的な事故でうまくいか なかった。会場は、檜枝岐の山の中なので、電源に発電機を使ったのですが、その発電機が故障 してしまったのです。発電機が故障してしまってパワーがLがらなくなって、十分な電圧が出な くなり、装置が機能しなかった。それで見事失敗してしまったのです。 これはある意味でパフォーマンス以前のハプニングだというふうにもいえるのですが、エレク トロニクスの装置を使った場合には、こういうアクシデントがよくあるのです。これは、本来防 げる事故なんだけれども、ぽくはそういうエレクトロニックニァクノロジーの持っているこわれ やすさというか、そこが面白いと円心うので、あ・まり対策を講じない。逆に機械テクノロジーはそ ういうことが少ないでしょう。もちろんエレクトロニックニγクノロジーの場合でも、リハーサ ルをなんべんもやって、セッティングに気をつければ失敗は少ないと思います。ただ、それをや るとパフォーミング・アーツになってしまうわげで、パフォーマンス、が非常にプログラムされた ものになってしまうのです。エレクトロニクスの持っている、はかなさ、あやうさというものを 考えに入れたトで出てくるハプニングをぽくは尊重したいと思うのです。だから、ぼくはリハー サルはやりません。セッティングもある程度やるけれども、完全なセッティングをあらかじめや るということはしない。そのためこういう「初歩的」といわれるような失敗が起きるわけです。 パフォーマンスというのは、、同隈りのもので、それを繰り返すことは意味がないし、まさに .回限りのスペースの異化、スペースが変わる瞬間を重視したいと思うので、、席やったものを 二度はやらないんですけれども、このマネキンのパフォーマンスに関しては、期待していたこと がほとんど実験段階にすら至らなかったということもあって、それをもう.uやることにしまし た。どうせやるのなら、コレクティヴなかたちでやったほうがいいんじゃないか、集川的なかた ちでやったほうがいいんじゃないかと思い、たまたま霜田誠、.、か、緒にやらないかという話を持 ってきたので、彼と一緒にやることにしたのです。その時にべーター・コバルトというドイツ出 身のべーシストが一緒にやることになって、三人でやりました。 この時は、装置をちょっと単純化して、昔センサーだけをマネキンの体内に入れました。音セ ンサーを三種類入れて、反応周波数を二種類に変えた。低い音、高い音、うんと高い音。それを マネキンの首と腹と胸につけて、それらの部分をぼくが愛撫するというパフォーマンスをやった のです。これはうまくいって、ぼくの手の動きに合せて、いろいろな、実に多様な音をこの装置 は出してくれました。手が汗はんでくると思いどおりの音は出ないわけですが、そのときこそ、 まさに皮膚という、身体の無意識的な部分が予測できない音をひき山川すことになったのでした。 ただ、ペーター・コバルトはちゃんとした.ジャズのミュージシャンであったために、どうして もきれいな音を出すのです。それに対してぽくのエレクトロボディは非常にランダムな、雑音に 近い音を出す。それでぺ-ターが恐慌をきたしてしまった。霜田誠.一のパフォーマンスは、全く 身体だけのパフォーマンスで、身体をさらしたり、身体をマシュマロみたいにしたりする、そう いう意味ではまさに裸形の身体というものを露出させていくパフォーマンスです。それに別のメ ディア・スペースをぶつけていくというのは、ぽくにはすごく面白いものだったけれども、べ- ター・コバルトのほうはそうでもなかったのではないか。ぽくははじめ挑戦的にノイズを出して いたのですが、そのうちべーターの音楽的な楽音にひきずられて、エレクトロボディをたたいた り、こすったり、一種のミュージックコンクレートみたいなものになったところもある。聞いて いた人のなかには、一種のフリiな音楽と捉えた人も多かったようです。それは..度Hだという ことがあって、ぽくがこの装置にかなり習熟してきてしまい、その結果、それを使いこなすとい う方向にいったということを物語っていると思うのです。 そういうことがあり、またしてもエレクトロボディをパフォーマンスのスペースづくりの装置 にできなかったという恨みがあったものですから、もう一回やってみたんです。これは去年(. 九八六年)の十一月に明治大学で行なわれた「民衆文化運動フォーラム」の出しものの一つだっ たんですけれども、その時は、永山聡子、イトー・ターリ、武井よしみちという、二人のバフォー マーが加わりました。イトー・ターリはオランダで日本の舞踏の影響を受けながら、それに西洋 的なフリーなタソスを、ミックスしたようなスタイルをつくり出している人です。永山聡子は、も ともとH本画をやっていて、そこからパフォーマンスのほうにきた人で、タソスをきちっと習っ てはいないのです。そういう意味では非常にアブストラクトなタソスをやる人です。武井よしみ ちは、パントマイムをやっていて、それでパフォーマンスに入ってきた人です。それぞれに違う コンセプトを持ったダンサーたちの生身の身体と、このエレクトロボディとを対置させてみよう というの、がこの集団パフォーマンスのおおまかなねらいでした。 ただ、この時もアクシデントが起きたのです。パフォーマンスでは、ダンサーがただ踊るので はつまらないので、かつてぽくが「エレクトロニック・ヒューマンビーイング」のノリーズで使 った、センサーと低周波発信機の装置を身体につけました。そうすると踊り方で音が変わる。そ のとき、踊る人はある程度グソスをやってきた人だから白山な動きをしたほうがいいんじゃない かということで、有線ではなくワイヤレスのトランスミッターに接続したのです。そうしたら、 この会場は御茶ノ水の駿河台の八階にあり、高台なのでいろいろな電波が飛んできて、その電波 がワイヤレスの周波数に入ってしまい、肝心のダンサーたちのセンサーからの音が受信できなく なってしまった。つまりダンサーたちは予定していたとおりの電子音を出せないということにな った。とくにイトー・ターリの場合は、その装置をあらかじめ使っていろいろ練習をしてきたの です。こういうふうに動かせぼこういう音が出るという練習をしてきたわけです。つまり、、種 の楽器にしてしまったわけです。ぼくは、むしろアクシデント、ハプニング的な音が出る、自分 が予想しなかったような音が出て、それに反応して身体を動かす、というところが面白いと思っ たんだけれども、そういうふうにちゃんと練習してきた人もいたのです。それが音が出なくなっ たために、彼女は一瞬何をしていいかわからなくなってしまった。永山聡子の場合はかなりハプ ニングに馴れている。つまり自分が直面した状況のなかで、生身の身体を組み替えるということ をパフォーマンスのひとつの方向としてきたから、こういうアクシデントが起こってもかなり落 ち着いていました。 ただ残念ながら彼女にしてもそこで[分のパフォーマンスをやるというふうにはならなかった のです。つまり何かの音に合わせて身体を動かすというパフォーミング・アーツの古い伝統をど こかでひきずっているのです。そのため、ぼくもびびって、なにか音を出さざるをえなくなって、 彼女らの伴奏をしなければならないような気になり、べーター・コバルトと霜旧誠二とやった時 と同じように、ある種のフリーミュージックを演じてしまった。それに合わせて、他のバフォー マーたちが踊るというかたちになったわけです。もうぽくはマネキンを使ったパフォーマンスを やる気はないんだけれども、生身そっくりのオブジェを使うと、いろいろ予想しないこと、が起き るのかもしれません。身体的スペースの謎です。 こうしたいくっかパフォーマンスをやってきて考えることは、ぼくらの身体をエレクトロニク スのテクノロジiによってさまざまなスペースに拡散させることは簡単だが、ぼくらの身体がや っているような、さまざまなスペースをその技術でっかのまであれ連合させてみることは非常に むずかしいということです。ウェイブの各階にはヴィデォ、かあって、いろいろな映像、か流れてい ました。それらもひとつの脳髄であるわけです。脳髄が流れ出している、いろいろなところに分 散されて機能しているということでもあるわけです。しかし、これらは、いま半身の身体、か陥っ ている状況を象徴してはいても、実際の身体が一」・)した状況にもかかわらずやっていることを見 せてくれてはいないのではないか。それには、人聞の生身の身体そっくりのアンドロイドをつく ることしかないのではないか。マネキンを使って失敗したことはその不、~能作を逆説的に証明し たことになるのかもしれない。 ただし、ぼくらの身体はなかばアンドロイド化しているのだとすれぽ、そういう身体をあるス ペースのなかにぶち込んでみて、その時に受けるリアクションを表現する、あるいは記録すると いうことは、アンドロイドを電子テクノロジーで中途半端に使ってパフォーマンス実験を試みる よりもてっとりぼやいことはたしかです。マネキンは、結局はパフォーマンスをぽくにさせるこ とを拒否することによってこういうことを考えさせてくれたわけです。 開かれた身体 パフォーマンスというのは、結局は一語でいえば、下北沢で問題にしたIch Kann、「私はで きる」という、身体のポテンシャルを解放する試み、アクションだと思います。その場合にどう いうスペースを選へばIch Kannが可能になるかということなんですが、マネキンという疑似 身体スペースはIch Kannを不可能にするようなところがある。一見5ブぎ畠を広げるよう に見えながら、ぼくの人格、バフォーマーの人格を別なものに移すように見えながら、それを拘 束してしまうようなところがあるのです。それに対してエレクトロニクスの装置をいろいろ結線 して、ヴィデオとかフォトセンサーとか、光センサーとか、そういうものを使ってスペースをつ くりなおすということをやるほうが、Ich Kannの町能性が開かれるようなところがあります。 これはどうしてなんだろうか。つまり皮牌に覆われたひとつの個体としての身体というものは、 はたしてフリー・スペースなのか。これは非常に重要な問題だと思います。 たぶん、マネキンは、そういう皮膚というものに閉ざされたオブジェとしての身体を前提とし てできているものなのです。だから、ぼくたちが身体を使って都市を歩く、あるいはフリーなス ペースを探しながらさまよう、そしてこういうスペースをみつけてそこでしゃべるという場合に、 これはある意味で皮膚に閉ざされた身体というのをくずしているわけです。ところがマネキンは 逆に、皮膚に閉ざされた身体を、むしろ狭めているようなところがあって、たとえばマネキンに 非常に高度なセンサーを装備しても、結局はそれがひとつの楽器になってしまうとか、ひとつの 手段になってしまうとかするのです。これはマネキンを使ったパフォーマンスがパフォーマンス にならずに、むしろパフォー.ミソグ・アーツになってしまったということの、自己証明かもしれ ません。 スペースの思想日比谷 スペース論の枠組 きょうは帝国ホテルの十七階にあるレインボーラウンジに来ています。スペースをめぐる思想 的側面を少し考えておこうと場所をさがしているうちに、皇居を見トろせる場所に来てしまった というのは何とも皮肉です。皇居は歴史的にいっても、非常にプロブレマティックなスペースで す。 不思議なことに、依然として皇居の周辺には暗黙の、筒さ制限があって、周辺に鳥層ビルを迎て ることは難しいらしい。帝国ホテルも、新しく建てかえる時に、暗黙のr解のもとに高さをドげ たという話がありますが、このことは、口木のスペースを問題にする場合いつもどこかにつきま とってくる問題ですね。そしてまた、この「空虚な中心」をモデルとするスペースをどうこえる かということが、このスペース論の暗黙の前提でもあるわけです。 スペースという場合、具体的には、都市、広場、建築、学校、飲食店、コーヒーショップとか パーといった身体に直結したスペースとともに、オーディオ・ヴィシュァルな、、見身体から離 れているように見える電戸スペースを同時に問題にしなければなりません。ですから、大きな枠 組みとしては、都市的スペースあるいは電子的スペースと身体との関係であり、さらに、身体H 身のスペース性がスペース論の基本的な問題枠になるでしょう。 イデオロギーからスベースヘ それでは、なぜスペースなのか、という悶趣ですが、それにはまず、六〇年代以降の杜会、政 治運動の変化のことを考えてみるといいのではないか。 .九七〇年代に入って、イタリアで「アウトノミア運動」といわれる新しいタイプの運動が起 きました。周知のように、、九六〇年代には、ヨーロッパやアメリカではいわゆるニューレフト の運動、日本では全共闘運動が台頭しましたが、それらは従来の党信仰に対するアンチとして出 発したという共通面があったと思います。ただ、そうはいっても、党に依拠しない運動として出 発した新左翼運動、全共闘運動は依然として中央集権的な組織というものを前提としていたとこ ろがあって、従来の共産党に依拠することはなかったにしても、また、それに対して反対のヴ場 に立ったとしても、結局は党を結成するに至りました。ごく小さな組織にも綱領があり、.応そ れを表向きの羊導原理として運動を展開していった。 そういったどのみち中央集権的な組織を越えた、新しいタイプの運動が意識的に始1まるのは. 九七〇年代以降でした。そのひとつがアウトノミア連動です。アウトノミア運動にももちろん古 い要素があって、それが最終的には武装蜂起、テロリズムという方向を生み出したのですが、し かし、七〇年代のイタリアで展開されたアウトノミア連動のなかには、明らかに従来の運動とは 違った側面が見られます。それは、綱領というものを設けなかった点です。最初に綱領を定め、 それから中央糾織をつくって連動を股閉しようとするのではなくて、すでにある連動を連結して いくという形をとったという点です。これは、ももろん偶然的な.拠素があるわけで、汽時のイタ リアの状況を考えないでは理解できないのですが、いずれにしても、結果的にそのなかから新し い運動の方向が浮き彫りになってきました。P・Mという名前で文章を党人している人が後に 「ポロポロ」という名称で方向づけたスイスの運動もイタリアのアウトノミア連動の脱綱領件に イソスバイアーされています。 七〇年代のヨーロッパを見渡してみると、こうした、既存組織の枠にとらわれない自然発生的 な運動が、いろいろなところに発見できます。日本でも一九八三年に北海道で横路孝弘知事を誕 生させ、すぐに内キ解散した「勝手連」なんかも、こうした脱中央組織的な連動だといってもい いのではないかと思います。 そもそも、アウトノミアという言葉自体、か、すでにこうした方向を小唆していました。アウト ノミアというのは英語のオートノミー(白枠)であり、ひとつひとつの組織が自律して動いてい くということです。その場合に、ひとつの組織と他の組織、ひとつのグループと他のグループと の関係は、一方が他方を支配したり従属したりするのではなくて、いわばシンクロナイズしてい くのです。フェリックス・ガタリがしばしば「機械」という.一[葉をっかいます、か、これはニュー トンカ学的な機械ではなくて、まさにそれぞれ、か自体し、げいに連動しあい、シンクロナイズす るような組織の動きをいっているわけです。ガタリは、アウトノミァ連動のインパクトを強く受 けた山心想家の、人であり、この運動の帝要さを鮮明化した思想家の、人です。 アウトノミアについては何度も糸いたことがある一∴メディアの牢獄㌧ので、ここではスイス のポロポロについて触れておきましょうか。スイスの場合は、イタリアより若干遅れてアウトノ ミア的な運動が現われてくるのですが、その発端は、、九八O年にオペラハウスの取り壊しに対 する反対運動から始まりました、そしてそれは、地域住民、空き家占拠の人たち、それからバン クといった従来の意味では決して「政治的」とはいえないような人々を巻き込みながら、フリー な公共スペースを求め、既存スペiスの不自由な制約の撤廃を求める運動として約、年あまりス イスで燃えさかったのです。 スイスは、福祉の豊かな国ですが、その一方では、たとえばジュネーヴの公衆電話は全部盗聴 されているといわれているぐらい、非常に管理の強い国なのです。確かにスイスの生活は、第二. 世界に比べれば豊かかもしれないが、生きたまま冷凍されているような、種の氷の文化が十文配し ているわけです。だからスイスでは国家権力のことをアイスベルク(氷山)といいますが、そう した資本の氷河時代を代表しているスイスのなかで、あらゆる国家管理に一反対する運動がチュー リヒを中心に一年問続いたわけです。 もっとフリーなスペースをわれわれに与えるという要求は、ある意味では非常に賛沢な要求で あり、スイスのようなところだからそれが発展したといえるかもしれません。しかし、この運動 がもっている方向は、決してスイスだけのものではないでしょう。巾の公共スペースを市が民間 に売り渡して、そして民間の企業がそれを別たものに転換しようとするといったことはどこでも 起きています。しかし、それに対して、そこが市民のフリー・スペースである、市民のフリー一 スペースを市当局が放棄するということは、市民の権利を狭めることなんだ、という問題意識で このような問題がとらえられることはまれでしょう。ターゲットがスペースになったのです。街 頭、広場、パブリック・スペース、それから住宅、そういうものをフリーにしていくという意識 がはっきりと掲げられた形での運動が展開された点は非常に新しいでしょう。 スペースを開いていくというこうした運動は、すでにイタリアのアウトノミア連動のなかでも、 政治的なロックンロールを演奏するための場所を求める運動とか、あるいは空き家を占拠する運 動というかたちで現われていました。イタリアの場合は住宅難が非常に深刻であった上に、ナポ リでは大地震が重.なりました。多くの住宅が壊れ、そこで家を失った人たちがたくさん出たわけ です。そういう災害も引き金になって、もっと多くの住宅を提供しろという運動が広がっていき ます。市の施設あるいは放置されている空き家に強引に住んでしまうという、スクウォッタリン グはすでにだいぶ前から広まっていたのですが、そういったスペース運動が七〇年代にアウトノ ミア運動を通じてひとつの方向性を与えられることになりました。 電波のフリー・スペース もうひとつ、スペースの開放運動として重要だと思うのは、自由ラジオです。 これは、、九七六年以降、イタリアではっきりと表面化した運動です。従来、イタリアではR AI(イタリア放送協会)という非常に国家色の強い公共放送しかありませんでした。公共とい っても、それは市民のものではなくて、国のブロパガソダという側面が非常に強いのでした。そ れに対して、もっと市民の声を.反映した、市民のニーズに応えるラジオ・メディアをつくれ、と いう声はすでにいろんなところからLがっていたわけです。映向やレコードを通じて、すでにイ タリアにもアメリカンポップの文化、カウンター・カルチャー、か浸透していたわけですが、.九 七〇年代に入るとそうした要素を軽視しているメディアヘの不満が高まっていった。そのなかで、 既存のラジオ局では我慢できない人たちが非合法の自由ラジオ局を開設していき、多くの逮捕者 を出すということも起こり始めた。 イヴァソ・イリイチも一九七〇年代にその手のラジオ局で放送をやった。彼は、当時イタリア で人工中絶を支持する運動に関わっていました。しかし当時は中絶問題を公にしてくれるラジオ 局というのはなかった。新聞社はあったが、ラジオ局はなかった。カソリックの息のかかったR AIが中絶支持の放送をするはずはないわけです。そういうドから高まりつつあった中絶を求め る声を伝えるためにイリイチは海賊放送局のネットワークを使って自分のメッセージを放送した のです。その場合、おかしいのは、倣、一察と海賊局との関係がイタリアでは必ずしも敵対関係では ないという点です。非合法の放送局というのは、常に警察に踏み込まれる危険性をもっているわ けですが、警察は必ずしも暴力的に放送局を急襲したのではないようです。イリイチが放送して いた時に、その局に警察官が来たことがありましたが、その時、放送局の人は何をしたかという と、ワインを一本警官たちに振る舞った。そうしたら、警官たちはそのまま帰ってしまった。こ れは、イリイチ氏から直接聞いた話です。 イタリアの白山ラ、シオは、必ずしも反体制ということではなくて、もっと広い意味での民衆の メディアを求める要求がだんだん高まっていくなかで出てきたのです。ですから七六年以降イタ リアでは白山ラ、シオが合法化されましたが、政治的な方向をはっきり出しているラジオ局は全体 のト分の.ぐらいで、あとはアメリカ型の民間放送局というふうに考えていいと思います。消費 という側面をも含んだ形での大衆メディアが自由ラジオなんだ、といってもいいでしょう。いず れにしても、いままでの国家が上から管理する形で成立していた電波スペースに対して、下側か らそれをこじ開けていくという形で白山ラジオ 電波のフリー・スペース が出てきたとい うことが重要です。 電波メディアの白山化を求める要求が高まっていくなかで、裁判闘争が起きたわけですが、こ こでも電波というスペースの解放が問題になった点が重要です。つまり電波というのは誰のもの なのか、国家のものなのか、それとも憲法で保障されている市民の表現手段なのか、という問題 が間われることになったのです。その結果、.九七六年に最高裁の判決が出ました。電波という のは市民のメディアである、したがってRAIだけがラジオ放送の電波を独占しているのは憲法 違反である、という結論,か出たのです。そこから白山ラジオが事実上合法化されていくというこ とになった。 スペースとパーティ こういうふうに七〇年代にはいろいろな形で、スペースをテーマとする運動が起きました。従 来の運動を"イデオロギー運動"と呼ぶとすれば、アウトノミア以後の運動はスペース運動、場 の獲得・解放運動だと考えでいいのではないか。 では、スペースとイデオロギーとは、どう違うのだろうか。このことを考えるには"パーテ ィ"という一一黄葉を手がかりにするとわかりやすいでしょう。この一..口葉は二面性を持っている。普 通、パーティというと、日本語では人と人が集まってお酒を飲んだりすることをいう。つまりパ ーティというのは、場、フリー・スペース、あるいはコミュニケイション・スペース、人と人と 、か出会う場という意味があるわけです、が、この語は英語では「党」という意味を同時に持ってい ます。パーティラィソというと、綱領のことです。つまり一方ではイデオロギー運動の場として のパiティがあり、それに対してスペース運動の場としてのパーティもあるということです。実 は狭い意味での党という一言葉のなかにもこうした両義性がどこかに隠されている。アントニオ・ グラムシがすでに「獄中ノート」のなかで、党と言うのは従来の政治的なとうだけではなくて、新 間とか学校とかメディアというものも党たのだ、党という概念をもっと広げていかなければなら ない、ということをいっています。党というものをそういうふうに考えていけば、同時にそのな かにスペースという意味も含まれてくる。ただ、グラムシの場合は党に対して評議会というもの を対置させた。評議会とは工場評議会、工場のなかのフリー・スペースというふうに考えていい と思います。グラムシは、評議会が党に代わるべきだという考えを提起しています。 評議会、あるいはソヴィエトもある意味でのスペースだというふうに考えるなら、これまでの 共産党の歴史、あるいは共産主義運動の歴史、左翼運動の歴史、それから革命史というものも、 全く新たに捉え直すことができるはずです。つまりこれまでの共産党史は、イデオロギーの変遷 という角度からぼかり考えてきたわけです。しかしそれをスペースという視点、っまりどういう 場が生まれ、どういう場の質が問われ、どういう場をめぐって闘争や運動が行なわれたかという 観点から考えるならば、完全にこれまでとは違った相貌をロモすることになるだろうということで す。 たとえばロシア革命の歴史も、場という点から考えると、演劇ということをまず前面に押し出 して考えざるをえなくなってきます。ロシア革命前後の演劇は非常に高揚していたわけで、特に 革命直後のスタニスラフスキiからメイエルホリド、さらにはユダヤ人のイディッシュ演劇など の動きを見ていると、これは非常に目覚ましいものがあるわけで、その後の表現主義や、さらに は三〇年代以降の世界演劇に与えたロシアの革命演劇の影響というのは非常に大きなものだった と思います。むしろソヴィエト革命の核心にあったのは、そういったスペースではなかったかと も考えられる。ソヴィエトという一種の評議会のなかで行なわれた政治的な活動ももちろん重要 ですが、そのソヴィエトももう一回、コミュニケイシ.ンの場というふうに捉え直して考える必 要があるだろう。そう見ていった時に、だんだん硬直化してきてしまう宿命をもつ政治的なパル タイと違って、もっと豊かなコミュニケイシヨソ関係が演劇や文化運動の場のなかに見出せるの ではないかと思います。 スペースの規定力 スペースを都市という面から考えることができたわけですし、身体をスペースとして考.見るこ ともできたのですが、当然、集団というものもスペースなんだという方向で問題を展開していく こともできるわけです。 集団という次元からスペースを考えてみると、スペースとイデオロギーとの違いがはっきりし てきます。集団をあるひとつのイデオロギーによって統合していくという方向で、これまでの集 団性はつくられてきた面がある。政治的な集団性は特にそうで、そうでないものは群衆だとい う言い方で区別されてきた。 しかし、広い意味での生活というレベルから問題を考え直してみた時に、たとえばコミュニテ ィや地域というものは、これは決してひとっのイデオロギーによって統括されているわけではな い。イデオロギーがあるとしてもそこにはいろいろなイデオPギーがあるのです。むしろコミュ ニティを規定しているのはスペースであり、それは地理的なスペースであったり、情報スペース であったりするのです。 とくに現代の都市においては、消費の回路とか、流通回路とかいうものが、あるスペースを形 成しています。東京でいえば渋谷、新宿、銀座というのは地理的に離れているのですが、消費の 回路においてはそれが横断的に連動しあっている。必ずしも地理的な準位がスペースを決定して いるとはいえない。 いずれにしても集団性というものは単一のイデオロギーやシステムで規定されているわけでは なくて、言語や情報の構造に似た窓意的な行動や活動のなかでつくられているといえます。運動 というものも、そういう具体性に立脚して生ずるのであって、これまでの既存の構造とは違った 新しい構造というものが出てこなければ新しい運動は生まれないわけです。言いかえれば、新し い運動というのは、常にぼらばらの個人にひとつの場を提供するような条件がつくられた時に生 まれるのであって、それがあ・る時は電波であったり、都市であったり、劇場であったり、評議会 であったりする、というふうに考えたほうがいいのではないでしょうか。 スペースは、ドイツ語ではRAUMといいます。これは空間という意味でもある、が、同時に英 語のROOMという言葉にもつながっている。ぼくらは普通、思想とか理論によってものを考えた り行動したりしているように思っているが、実際Lはスペースに規定されて行動していることが 多いのです。だからこそ、この本ではそのつどいろいろなスペースに身を置くことによって、そ こから触発される思考を記録しようというわけです。 スペースが規定する力といってもいろいろな意味、かあって、たとえばノイローゼとか精神障害 というものもスペースの病気であるという「.口い方ができます。「広場の孤独」という一,、口い方があ りますが、空間が規定している要素は非常に大きいのです。ところが近代の思考は、そういった 具体的なスベiスを無視して、人問を一種の点的な頭脳存在として捉えてきました。実際には、 頭脳の周囲に浮遊している身体がかかわっているところのスベiスがあり、それは部屋であった り都市であったり電波であったりするのですが、そういうものの規制力が非常に大きいというこ とがだんだんわかってきたのです。ですから、精神分析学でいう「無意識」というのは、それが フロイト的な意味においてであれ、ユノグ的な意味であれ、人間十.体のひとつの場的要素だとい うふうに捉え直すこともできるでしょう。そういう無意識レベルを思いきり広げていった時、そ れは部屋になったり、さらには世界、あるいは宇宙スペースというようものに までなっていくのです。 スペースのコントロール ですから、スペースをどういうふうに捉えていくかということ、がギ体の問題を決定するものに なります。逆にいうと、人をコントロールするということも、スペースをコントロールすること によって可能になるという事態が起きてくることになります。 実はこれは特に、、十世紀後半になってはっきりと現われてきた管理様式なのです。人問を規定 しているのはイデオロギ!だといまだに思っているのはいわぼ狭い意味での「左.翼」だけで、権 力のほうは人問を規定するのはスペースなんだということを最初から知っていたのではないでし ょうか。権力といっても非常に広い意味の権力ですが…-。 たとえばアドパタィジングの専門家たちは、まず消費のイデオロギーを吹き込む以前に、消費 の場というものをっくるわけです。その場のなかに偶力、人を招き入れることによって、消費行動 に誘っていくという仕方をとる。すでにドイツのナチズムは、単にイデオロギーの政治権力であ っただけではなくて、場所の政治権力でもあったわけです。ナチスは場所の演出に非常に意を川 いました。ベルリン・オリンピックひとつ取り上げてみてもわかることですが、あれはスペース の祭典でした。しばしばナチス・イデオロギーのひとつのプロパガンダの祭典というふうに捉え られますが、それをやるためにまずオリンピック・スタジアム、つまりスペースをつくった点が 重要です。それからナチス時代に封切られた多くの映画ですね。ジークフリート・クラカウアー が川カリガリからヒトラーへ」のなかで分析しています、か、ああした映画もひとつのスペースで あったし、その映画を・「映する映画館も重要なコントロール・スペiスであったのです。 都市の景観とか都市環境も、そのギ体を規定する非常に垣要なスペースであるわけで、変なイ デオロギーを啓蒙するより、そうしたスペースを変えたほうがよほど効果があるということは、 すでに今Hの郁山開発の前提となっているとすらいえます。だからこそ、そういうスペースをコ ントロールする権力というものが非常に.般化している状況のなかで、われわれの側でも、スペ ースをどうするかという意識がもっと強くなってこなけれぼならないのです。解放とか打破とか ということをただいっているだけでは意味がないだろうということです。 モノと情報 哲学的にスペースといった場合、これは空閑と時間の両側.血から考えることができるでしょう。 時間的なスペースは、<過ぎ去る>こと,<瞬間性><持続>、と言う三つのあり方で捉えられ ますが、空間的なスペースは、〈開くVということとく閉じるVということを軸にして展開され ます。そう考えると、スペースの問題はどのようなあり方で開くか、どのようなあり方で閉じる かという側面に重心を置いて展開していかざるをえません。 スベiスの権力というものは、閉じる権力であり、空間の解放件をいずれかの時間枠のなかに 固定してしまう力であると一一-日えます。中心をつくって、そこに閉じ込めていく、という形でスペ ースがコソトロiルされるわけです。ですから、解放にとっては、それをひとりひとりがどう開 いていくかということが問題になってきます。一、」]うまでもなく、ぽくらはすでに権力内存在であ るわけで、権力の外にいるわけではありません。権力のなかにいるということは、哲学的生、口い 方では、ある時間の持続のなかでつくられた空間のなかにいるということです。 都市も,定の時間性のなかで動いています。絶えず時間が無秩序に続いているわけではなくて、 ある.定の時間リズムというものがあるわけです。そこには当然ひとつの空間的なスペースがつ くられているわけですから、その時間の持続件をどう解体していくかという課題がとりもなおさ ず空間をどう開いていくかという戦略になっていくわけです。このように、スペースの時間件と 空間性は、当然どこかでからんできています。 哲学的な一.、口い方をすると、モノというのは持続した時間性だといえると思います。最近は、 「あらゆるものが情報になった」という一言い方がされますが、これは、いままでみたいに、たと えば十年とか二十年という単位の持続時間を前提とした形でスペースを提供するという管理の仕 方にはなっていないということを意味しています。都市というスペースを考えた場合でも、これ は、たとえば東京などは特にそうですが、月単位で変わっているわけです。ひと月という持続時 間のなかで、スペースを たとえその表層だけであれ どんどん変えている。さらに、映像 というようなものになると、瞬間的な、十秒とか二十秒とかいう単位の持続しかありません。そ のなかでできるスペースがぽくらの意識を規定するというふうになっているのです。 情報とは時問的に最も操作可能なスペースのことです。 そういうふうになってきた時に、従来モノといわれていたものは、むしろ長持続のスペースな のだ、と言い直したほうがいいのではないか、ということになります。 それに対して情報というのは、短持続のスペースですね。よくぽくらは「時間を…買う」という 言い方をしますが、これは実は時問的なスペースを買っているわけです。だから、「モノを買う」 というのは、長持続のスペースを買っているのだ、あるいは買わされているのだ、と、言いかえる ことができます。 身代というスペース 身体というのもひとつのスペースですが、身体の場合、いわゆる代謝時間という持続がありま す。その代謝時間も、必ずしも絶対的なものではないわけで、これも長い時間をかけてつくられ たものです。ある意味では権力によってつくられた制度だということができるでしょう。いまそ れがいろいろな意味で崩れてきています。口の出とともに起きて、日没とともに眠るという これは太陽信仰に基づく権力のなかでつくられた時間性だといえるのですが そういう時間性 のなかでつくられた代謝時間が確実に崩れてきました。ぽくのように夜中じゅう起きている人も いるのです。 ですから、代謝時間を絶対視した形でのエコロジー論というのは成り立ちません。たとえば、 八時間寝て十六時間起きているのがこれまで普通だったとすれば、ハッカーたちは十二時間寝て 二十四時間起きている、要するに一・五日が、サイクルであるような生活をしているわけです。 一日二十四時間を基礎的な一サイクルと考える発想は成りヴたなくなってきました。 だから、身体の時間性も崩れてきて、、円、、一食というような食習慣も崩れてきた。たしかに脈 の平均値というものはあります。血圧の平均値もあるでしょう。人問のそういった代謝時間が今 後めちゃめちゃに変わっていくことは考えられないでしょうが、しかしそれはかなり大きな変動 幅を持っています。その幅を規定しているものとしてテクノロジーや都市環境があります。身体 機能のある種の基本構造・枠とそれを外部から規定するテクノロジーとは、相関的に捉えられな ければなりません。身体の固有性を絶対視する身体の形而LL学というのは馬鹿げているのではな いでしょうか。現代批判、権力批判がなされる場合にしばしば身体を絶対視することによって、 身体というのは人問の誕生以来変わらないんだという発想で問題が展開されますが、それはあま り有効ではありません。むしろ身体にかかわっているスペiスとの関係で具体的に問題にされな ければならないのではないかと思います。 そういうふうに考えた場合、身体を閉じられた時間、空間というように捉えるのはまずいわけ で、ある意味で身体性というのは、皮膚から抜け出して、部屋に、さらには都市へと流れ出して いるのだ、と考えるべきです。つまりは、身体はスペースの狭義の.限定であり、また都市はス ペースの広義の、限定であって、スペースとして連続的に捉えるべきだろうということです。 電子テクノロジーとスペース その場合、スペースの構成要素である時間、空間を規定する条件として、テクノロジーがある わけですから。そのテクノロジーは歴史的にいろいろな形態をとってきましたが、現代の主要なテク ノロジーである電子テクノロジーは、スペースの時間性、空間性をかなり窓意的に変えてしまう 力を持っています。その点がすべてのものの決定要因となります。そこでは、従来ある程度安定 した持続性をもっていた身体性とか都市が通用しなくなります。 たとえば今日の都市の傾向に関してぽくは「電子都市」という一.、口い方をしていますが、電子都 市としてもっとも象徴的なのは、新宿の「アルタ」にあるような、L大な電子映像スクリーンで す。そのスクリーンに映っている映像は瞬時に変わることができます。いま都市のピルには窓が あり側壁がありますが、そのタイルとか窓の全面に、ヴィデオスクリーンがついたということを 考えてみる。そういうSF的な発想をしてみると、都市の景観というのはいくらでも変えられる わけで、ヨーロッバのアールデコの時代まで続いた、ある程度の持続的な景観とか、十年たって も二十年たっても変わらなくあり続ける景観というものは、もう考えられないわけです。景観は くるくるくるくる変わっていく。犬際に東京は、都市の景観が変わるベースの点では世界の都市 のなかでもっとも早い都市のひとつだと思います。そこでは、従来のような郁巾の発想は通川し ません。 東京は、風俗、服装、流行の変わり方が早く、そういう意味ではたしかに非常に血山い都市で しょう。いずれにしても都市の伝統的な持続性はもう成り立たなくなってきています。つまりス ペースというものが持続しないということです。それは、一面では固定したスペースに拘束され ないという意味でもあります。 しかし他面では、固定した一定の持続性をもったスペースというのは、七体にとってひとつの 拠点という意味を持っているのですから、そこに住まうことによって、内由なアクションを実現 できるという側面を持っています。つまりスペiスというのは、完全になにかを閉ざしてしまう のではなくて、開かれた場としての性格を持ってもいるのですから、そのなかであるがままに行 動するという可能性もあるわけです。ところがそれがくるくる変わるということは、自分でそう いうスペースをコントロールできないということにもなり、記憶が役立たないというととにもな ります。記憶を長く持ちすぎるというのは、非常に保守的なことであり、ひとつの慣習のなかに 埋め込童れてしまうということですが、それが逆に極度に早くなってしまうと、一稲の冗長他と しての白山をも失ってしまうという面につながります。まさにそれが集約的に場われている都市 のひとつに東京はなりつつあるということです。これは非常にゆゆしい問題だろうと思います。 ぼくが東京を「電子都市」と呼ぶのは、東京というもともとは非常にフィジカルな都市、かだん だんヴィデォスクリーンと同じようなものになってきているということです。そういう意味では、 東京のタイルも窓もすべてヴィデオスクリーン。になってしまったほうが、むしろ㍉たり前なのか もしれません。まさにそう考えられるくらいに東京という都市は持続件を否定する都市になって きているということです。 音のスペース 視覚的には一応半年や一年のあいだ、ある景観を保っているにしても、音というほうから東京 という都市を考えてみると、東京の音はヴィデオスグリ!ソ以上にHまぐるしい変化をしていま す。たとえば銀座の街は今月と来月とでは決して同じ音をしていないはずです。ところが、対極 的な例として、たとえば山や海は通常、十年でも二十年でもある同じ音をしています。それと比 べると東京は毎日音が変わっている。街に鳴り響いているスピーカーの上目とか、自動車のクラク ションの音とか、これは絶えず変わっているのです。 東京の都市が持続性を消していくという意味では音の側面にその特徴がもっとも現われている かもしれません。スペースの問題を、単にヴィシュァルな側面だけからではなくて、音の側面か らも考える必要があるのではないか。そういうふうに考えていった場合、苫は時問的なスペース の管理の重要な要になってきていることがわかり、スペースの解放の閉趣も、音のなかにかなり 重要な部分があるということがわかるでしょう。 ホームレス・スペース 山谷 山谷を歩いてみれば きょうは山谷、つまり台東区日本堤、清川のあたりを歩き、その後、南千住駅前の「人利根」 という飲み屋に行って.杯やり、いまは南千住駅前商店街の奥に入った「モア」という非常に大 きな喫茶店でテープを同しています。大きいといっても東京の.平均的な喫茶店と比較してという 意味ですが……。二つの路地の問にはさまれてある喫茶店で、たぶん両方に出口があるのでしょ う。東京では非常に珍しいスペースだと思います。 山谷というのはぽくらにとって単なる興味の対象であってはならない而が非常に多くあります。 実際に山谷に住んでいる住人のことを考えた場合、そこをのぞいて歩くというのはひどく不謹慎 なことかもしれないけれども、いま東京のなかで少なくとも日本の現状とか、高度経済成長とは 何だったのかとか、あるいは白口分がいま馴れ親しんでいる身体というのがある時代特有のもので あって、それが必ずしも普通ではないのだ、ということを考えさせる場所としては、山谷ほどユ ニークな場所はないということがいえると思います。 最初、三ノ輸から歩きだして、三ノ輸商店街のアーケードを潜ってきましたが、歩いている人、 たむろしている人の感じがだんだん違ってくるのでした。ニノ輪のほうから入ってきた場合、最 初はごく普通の商店街が建ち並びます。アーケード自体は非常に新しい。たぶん七〇年代にでき たのだと思います。タッパの高い、きらきらしたアーケードです。ただアーケードに囲まれた家 には非常に占いままのところもかなりあります。つまり吉祥寺とか一一、鷹のアーケiドと比べると 時代色やわびしさを残している。しかし三ノ輪に近い側はわりあい普通の、周囲の中流の人たち がものを買ったりして歩いている雰開気なのです。 それが奥に進むにつれて、だんだん、路上で酒盛りをしているおじさんたち、額に鉢巻をして、 路面に段ポールを敷いて酒を飲んでいる人たちが出てきたり、路Lで立ち話をしている人たちが 増えてくる。日本堤に近くなると小さな、コップ酒専門の飲み屋もあります。そこで根が生えた みたいに座り込んでいるのはほとんど男たち、しかも中年以上、むしろ五十代以上の年の人た ちです。 こういう風景は世界共通で、「スラム」に行くとどこにもあります。〕木でもたとえぼ大阪の 釜ヶ崎、愛隣地区に行くと、飛田遊廓までつながっている長いアーケードがあって、そこは三ノ 輪の商店街と比べるともっとどろどろしており、いわば日本堤に近い部分をバーツと広げたよう な感じがある。そこには「立ち呑み屋」(なぜか「呑」の字を使うんです)といわれる、イタリア とかオーストラリアとかへ行くとよくある立ち飲み式のパー、飲み屋もたくさんあります。それ 惇.一ノ輪の場合は少ないのですね。立ち呑み屋というのは街路と室内とがつながっているような 空間を持った飲み屋です。 山谷の交番の前の通りに出てくるととたんに雰開気が違ってきます。路LLに座り込んでいる人 がいるだけではなく、立ち小便をしている人がいるのがまずH立ちます。その通りを、若干、浅 草方向に向かって歩きだすと、山谷としてはわりあいきれいな部類に属する旅館がいくつか並ん でいるのが目につきます。 山谷はだんだん変わってきて、中流の家が山谷の「ドヤ」を押しつぶすような、侵食するよう な形で広がっているが、それが歴然と見えるのがあの通りです。浅草方向に歩いていくと、 「BACH」というやけに派手な、ある種新人類ふうとでもいうのか、国立や聖蹟桜ケ丘にあって も不思議でないようだ喫茶店が出現します。あそこはだれ、か使っているんだろうという気がまず しますが、このあたりをとりしきっている西戸組のヤクザたちがたむろしているようには思えま せん。やはり周辺の中流の家庭の人たち、か行くのかなという気がしますけれども、そういうのが あったりします。 そこを通りかかったとき面白かったのは、タクシーがいきなり止まり、そこから一杯機嫌のお じさんたちが降りてきて安ホテルに人っていったことでした。どこで飲んできたのかはわかりま せんが、ああいう光景をぽくは何度も見たことがあります。山谷でタクシーを{.めようとして断 られる人も結構いる。山谷に什んでいる人はわりあい金離れ、かいいというか、宵越しの金は使わ ないというか、そういうところ、かあって、金が入ると使ってしまう、飲んでしまう傾向がある。 だから金が入った日にはむかし世話になったママさんのところに行って、飲んで、それでまたタ クシーで帰ってくるということをやるのではないかという気がします。そういう光景が見られた りする。 そこから歩いて、今度は玉姫公園のほうに左折します。十姉公園はまさに山谷の現状を象徴し ていると思います。かつての玉姫公園は山谷の住人たちのある種の解放区でした。それに対して いまは、真ん中の三分のニぐらいのスペースを金網で闘って〕アニスコート」をつくっています。 しかも鍵がかかっていて中に入れないようになっています。金網の周りにベンチがあって、そこ に、明らかに山谷のドヤに住んでいると思われる人たちが座っていたりしますが、真ん巾はすっ ぽりあいていてだれも使っていない。日曜日などにテニスをやる中流階級がいるのでしょう、か、 ふだんは使わない。区はそういうものをつくりました。これは、山谷に対する.区および政府の行 政がいかなるものであるかを非常によく見える形で表わしているのではないでしょうか。中流が だんだん侵食していって山谷の住人を追い出していく、できればドヤを消してしまおうという動 きが強くなっているのです。 それを見て、少し行くとNTTの中継所があります。ほとんど窓のないコンクリiトの建物の 上に大きなマイクロウェーブのバラポラ・アンテナ、か立っている。そこでは当然マイクロウェー ブ公害、電磁波公害の可能休があるわけで、電磁波がまき散らされているのです。やはり、ああ いうものは山谷あたりにつくるのですね。 そこから日本堤の通りにかけての路地には、大通りにあったのより値段も安い、外観からして も非常に粗末なドヤがたくさんある。そのあたりには屋台の店 鮨を食わせたり、杯飲ませた りする店 があったり、インスタントかけはぎというか、服を着たまますぐ縫ってくれる屋台 の店,かあったり、そういうところがずっと続きます。 人たかり、かしているので行ってみたら、バクチをやっている。とりしきっているのは明らかに 西戸組全町一家の連中だと思いますが、バクチを張っているのです。そこには二卜人ぐらいの労 働者が集まって千円札を山のように積んでさいころばくちをやっている。しばらく見ていたら、 ぽくらがよそ者とわかったのか、胴巻きをしたヤクザに「見たけりゃカネ張ってやってよ、じゃ なけれぼ向こうへ行ってよ」といわれて追い…山されてしまいました。 バクチは、山谷で白上労働組合をつくろうとしてきた山谷争議団が持慮している問題でもあり ます。つまり山谷の労働者は、当然、心理的・肉体的プレッシャーが強い。先ほどタクシーで安 ホテルに乗りづけたという話をしましたが、金が人」ればどうしても使ってしまう。ここでは金を 使うことに一種の解放感を見出すしかないところがあるからです。そういう意味でバクチは,番 スリルのある遊びだから、バクチがあれぼそちらへ走っていきます。片はバクチと売春でした。 売春はいまもあると思いますが片ほどは見えません。むしろバクチです。街頭バクチだけでなく 室内でもやられている。それを組織し、食いものにするのが、右翼やヤクザであり、バクチは彼 らの相当な収入源になっているのです。結局、…谷の人たちがもう少し結束して組合をつくって いくということがあれぼいいが、なかなかそうはいかない。その基盤が少しつくられても、たち まちバクチでこわされてしまうのです。そこのところ、かまさに山谷のようなスペースの持ってい るジレンマだと思う。つまりある種の解放的な側面と、ある種、ゲットー、奈落という要素が混 在しているのです。 山谷のドヤに住む人たちは、一種の自主経済で生きている人たちだといえます。決まった組織 に属してサラリーマゾになるのを拒否してドロップアウトするところからいわゆるn常の労働者 は山でくるのですが、そういう労働者と川谷にたむろしている人はどこかっながっています。も とはどこかの企業に勤めていたり、あるいは川稼ぎという形で東京に出てきて、初めは着実に工 事現場で働き、仕送りをしたりしているけれども、だんだんそれ、ができなくなっていく。ある稀 の自由さがありますから、それに寄りかかって止沽していくうちににっちもさっちもいかなくな り、一日千円の最低価格の旅館にも泊まれなくなって「青カゾ」、つまり野沽をする。㌻カンを すれば体がきついから、たまたま少し化事をしてお金が入るとあとは飲んでし凌うという思循環 になります。 山谷をずっと歩いた後、南手仕駅前の「大利根」という人きな飲入崖に入りました。ここは山 谷のもう.つの解放.Kになっています。山谷の作人たちのなかにはいろいろな属、かあると思いま すが、そういういろいろな屑の人たちが集まる場所になっている。だからあそこにいると、…谷 に来るいろいろな人たちのバターン、かはえます。つまり、絶えずいら.いらしていて、何か機 あれぼけんかを叱ってしまうような人たち。それから.山谷に根が生えたように仕入、込んでしまっ ているもう六卜近いような人たち。若いけれども、志気消沈してひとりでポッソと榊を飲んでい る人。また平均的には、三、四人でテレビを見ながら楽しく 本当に楽しいのではないのかも しれませんが、仲間うち結構楽しそうに やっている人たち。それから、たまたますごい金が 入ったのか、座敷のテーブルの上に鮨だとか果物だとか、何本ものお銚子だとかを並べているよ うなおじさん、いろいろいます。そこにわれわれのようなよそ者もたまに行く。日によってはサ ラリーマン、か、杯引っかけて帰る。そういう場所です。 山谷の見取図というか、ざっとスケッチをするとこういう感じです。山谷の問題はやはりいま の日本の状況、スペースという問題を考える場合に非常に、爪唆する部分が多いと思います。 ホームレスの出現 浮浪老は英語で「ホームレス」と呼ばれますが、ホームレスは、消梅的な意味でも積極的な意 味でも、スペースの横断者です。ホームレスは、固定したスペースにとどまらない。最近はH木 でもだんだん「ホームレス」という一一口薬、が定着してきました。 ぼくは、ニューヨークに行って、とにかく至るところに浮浪老というかホームレス、かいるのに 驚いた。一九七五年のことです。もっと先をたどれば、終戦後、L野駅の地、卜道を歩いた時にま さに浮浪者の大群を見ましたし、その後少なくとも十数年は街のあちこちに浮浪老がいたと思い ます。ただそれは浮浪老il生活に窮して路頭に迷っているという浮浪者 でした。ぼくは小 学生の時に上野動物園に遠足に行きましたが、上野公園で朴、めしの弁当を食べていたら、中学牛 ぐらいの少年、がどこかからとび出してきて、級友のおにぎりをまさに泥棒猫みたいにかっさらっ ていった。当時は何かを奪ったり拾ったりすることによってしか生活できなくなった人が浮浪老 だったのです。五〇年代あるいは六〇年代の初めぐらいまでは、路頭に迷うという形で浮浪考に なるという人たちがまだいました。 ところがニューヨークで見たホームレスは、そういう浮浪老とは違うのです。近年、新宿西]、 京工新線の地ド、紀伊国産ビルの地.トあたりに行くと、昼間から寝ころんでいる人が何人もいま すが、ああいう人たちは基本的に浮浪者とは違うと思います。それは〔発的になったかどうかは わかりませんが、普通の意味でいう、生活に窮しただけで浮浪老になったのではありません。も ちろんきっかけは会社がつぶれたということがあるかもしれないし、破産した、あるいは借金が かさんで蒸発したというようなこともあるかもしれませんが、それは一つのきっかけで、生活で きないからあそこにいる、できれば並の生活にはいトがりたい、というわけではないようです。 むしろもう一つの生活を選んでいるというところがホームレスと古典的な浮浪考との違いではな いでしょうか。つまりホーム、家を持たない、拠点を持たないことに何か引かれている、無意識 であれ、そこを選んでいる人たちなのではないか。 日本でそういう人たちが出てくるのは七〇年代、高度経済成長以降です。これはある意味で豊 かな社会の病気だという、言い方もできますが、これを新しい階級形成だと考えることもできると 思います。積極面から考えると、六〇年代に出てきたドロップアウトの発想とつながっているわ けで、いわば無意識のドロップアウトをしている人たちがホームレスなのだというふうにいえな いこともありません。 アメリカではレーガンの時代になってホームレスが一段と増えました。最近のH本の新聞にも ホームレス、がますます増えてきたという記事がありました、か、アメリカの場合、新しいタイフの ホームレス、が増えはじめるのは七〇年代後半のニューヨークにおいてであり、それがレーガンの 時代になってだんだん全米に広がっていく。どの都市にもホームレスがいるという現象、か出てき ました。ただしアメリカのホームレスのなかには、本当にその〔の生活に窮している浮浪者も混 じっています。そのへんは逆に日木のほうが進んでおり、ポスト・ホームレスといいますか、物 質的な理由よりも手活の価値観の意識的・無意識的なちがいからホームレスになっている人たち が多くなっているのではないかと思います。 アメリカのホームレスでも、少し前の浮浪老と決定的に違うのは、非常に教養のある連中とか、 家族全員で放浪している人たちが非常に増えてきていることです。これを「ニュー・ウェイヴ・ オブ・ホームレス・ピープル」と八、、年のHワシントン・ポスト」は表現していますが、そうい う現象、か出ているわけです。これはレーガンの時代になってさらに増える。データを見ると必ず しもレーガン、かホームレスを休み出したのではなくて、レーガンがそれを加速させたといったほ うがいいと思いますが、だいたい七〇年代後半からアメリカでは高所得者層がぐっと増えてきま す。それに対して中問所得者層はあまり増えていません。ところが低額所得層は高額所得憎と逆 方向になった形で増えているわけです。八四年以降、八五年、八六年、いずれも増えています。 これはレーガンの政策でもあったわけで、アメリカ経済を連て直すために下を切ってLを上げ る 下はもう放灘していき、中よりLにとって都合のよい 政策をどんどん採用していきま す。これは、肉体労働や工業労働を.、次的なものにしていって、精神労働・情報労働を重視して いく政策に対応したものです。蘭学にいいますと、ひらめき、があったり、いろいろアイディアが 出てきたり、知的能力があるというような人はどんどん深川されていきます,が、腕つぶし、か強い だけしか能がない人たちは切られていくということです。それは、かつてのL場の労働・肉体労 働をどんどんオートメーション化していく傾向とっながっています。そこでは、機械がやるよう なことをやっていた人はどんどん振り落とされていく。だから、そういう人たちがホームレスに なっていくという面もあるわけです。 山谷の歴史 〈三多摩・山谷の会」しが出している「寄場の歴史から未来を見通す」という小冊があります。 山谷争議団のリーダーの一人だった山岡強一さん 彼は山谷のヤクザに殺されましたーと か、山谷闘争をずっとやってきた風聞屯次氏とか、いろいろな人たお、か…行の.雌史をずっとたど っています。 山谷だけではなくて釜ヶ崎も抜かせないと…心いますけれども、閑束地力においてけ一…谷はH木 資本ド義の「発展」の関数です。特にパO年代、オリンピックの前後に東京では桃、次建築ブー ムが起きますが、山谷はその建築労働者を提供していました。、時、東北と東京ではまだ非常に 経済格差がありましたし、東京に出稼ぎして仕送りをする人たちは大変劣かった。その時に山谷 は停泊地でした。地方から出てきて山谷に泊まって労働をする、これは、つのパタiソだったと 思います。 山谷の歴史は実は江一ゾ時代以前からあるわけで、そこをたどっていくと人変なことになります。 ただ六〇年代以降ということでいうといくつかの波を定めること、かできるでしょう。宗村娩降、か 分類しているところによれぽ、戦後の場八H、朝鮮戦争ぐらい叱で、が姑.期であり、この時期はH .属い・ド層の連動、か盛りトがっていく時期でした。これはまさに牛沽のためにどうしようもなく ド層に追い込玄れてしまった人たらが山谷に吹きだ生っだということです。その人ん、、か口.豚い・ .卜層の連動、職よこせという闘争をしていく。いずれにしても、そういう意識が洲巻いていまし た。これを宗村は「職安闘争」の時期だともいいます。 その後、高度経済成長時代に山谷に以前とは違う人たちが入ってくる。ここから山谷は「暴動 の時代」に入るのですね。山谷では、九六〇年に大きな暴動があり、これを契機に山谷に労働組 合ができた。 ポール・ピッコーネが、左翼運動とダウ・ジョーンズの曲線とは重なるのだ、というような皮 肉を言ったことがありますが、経済的な高揚期には同時にいろいろな連動が成凧り上がっていく。 山谷暴動の時期はまさに高度経済成長の時期です。資本の高度化の時代は人をかき混ぜる。いろ いろな人たちが山谷にも入り込んでき玄す。それは、新しい集川とスペースができてくる時期だ ったと思います。 そういう時期が六〇年代だったとしますと、七〇年代後半、仙油ショック以降は、山谷の運動 の後退期といわれています。そのなかではかなり個別的な闘争が生まれ、、九七九年にマンモス 交番の警官が山谷の労働者によって刺し殺されるという事件が起こりました。この時期、労働者 がそこまで追いつめられていた。山谷は結局その時期に右翼による町組織が進んで、そのfがど んどん伸びてきます。山谷で闘争をやっていた人たちはかなり追い込まれていくために、どうし ても武装という方向に走っていく。そういうふうになっていった時代だと思います。 山谷の住人はずっと同じ人々ではないわけで、生活のためにとにかく山谷に作むしかないとい う人たちがいたのが五〇年代だとしますと、κ○年代末から六〇年代にかけてはむしろ仕事を得 る場として地方から上京して山谷に.時的に泊まり込む人たちが増えました、そういう人たちと 学生、左翼の人たちとの連帯が六〇年代にかなり進んだわけです。しかし、高度維済成長が終わ ると、石油ショックあたりを契機にして山谷はだんだんさびれていきます。その時そこには、高 度経済成長期に山谷に来たのだけれども帰れなくなってしまった人たちが増えてくる。つまり孤 ヴ化が非常にはっきりしてくるわけです。 底辺の会が編集した「ドヤ』という本がかつて一、一、新書から出ていて、山谷のある意味で.番 熱気のあった時代の雰囲気を非常によく活写しています。ぽくはこの木をヒ○年代になってから 古本屋で手に入れたのですが、初版は、九六.年に出ています。ぼくが千に入れた木のなかには いろいろな書き込みがあります。とくに「ドヤモソ」という章には横文字も含めたいろいろな書 き込みがあるのです。 そのうち一番面{かったのは、山谷と売春は密接につながっているということを置いている. 節があって、そのなかに、「金持ちは妻とか情婦とかいって大勢の久を所有するが、ド憎社会で は売春婦を大勢の男が共有するわけである」という文章があると、そのトに「資本のr.、夫多 妻、ド層労働者・多夫、妻」とペソで書き込みをしている。これは非常に面山いと思いました。 つまり山谷にとって売春婦は、たとえばここから少し先にある吉原とは違う意味を持っているわ けです。ここでは資本の論理が成り立ちません。資本の性質の、つは所有ですが、北春の是非は いま括弧に入れて、女と男の関係でいうと、女性、か所有の対象になっています。それに対してこ こ、六〇年代の山谷においては、売春婦、が共有の対象、共有のスペースになっているということ が抽象的だけれどもいえます。このことは女性だけではなくて、飲み屋ひとっとってみても所有 の対象にはなり得ません。そういう意味で、川谷は、物理的なスペースから身体的なスペースに いたるまで、資本手義の紗漢のなかにぽっかり開いたフリー・スペースであるという、巾、かなきに しもあらずというわけです。 そう考えた場合、現代の山谷の作人たちのほうが逆にかなり町能作をもっているのではないか という気、がします。五十年代には資本ザ義の中心部に作めない連中を追いやる場所という、.榊 の「部落的」な要素が強かったと思います。それに対して六〇年代はまさに労働の山場、肉体労 働の市場として機能したわけです。山谷がなけれ、ば六〇年代の迎築ブームはあり得なかったとす らいえる。それは…谷が完全にうまく使われてきたわけで、資本ド義的允展の閑赦になってきた ということです。 ところがいま山谷はむしろ「余計汽」になってきています。現に「一姫公園にテニスコート、か川 米たように、だんだん山谷を侵食しようというふうになってきている。でき得れば山谷を浄化し てしまいたいという動きです。これは特に普通の生活粁たち、か持っている発想で、たとえば最近 山谷では、中学生、高校什がホームレスをいじめたり傷を負わせたりするという勢什、か増えてい ます。かつて横浜で、中学生による〈浮浪者殺し〉がありましたが、それと同じ現象が今三谷 でも起きているわけです。まだ殺傷事件にはいきませんけれども件数は非常に増えている。これ はやはり山谷がそれだけ中流以上の住人に侵食されてきて、だんだん余計者になってきていると いうことだと思います。 情報生産としての消費 ただ山谷をそれ自体として捉えていった場合、山谷は確かに資本主義にとっては余計者だとし ても、それだけに資本主義とは違う世界を実現しており、また山谷がそういう要素を持っている ということです。そこを逆に拡大してみることによってポスト資本主義の可能性が考えられるの ではないかと思うわけです。 「大利根」などでも見えたと思いますが、山谷を歩いているとある種の蕩尽的消費がかなりHに つきます。街頭バクチもそうです。中流より上の人たちと比べたら、山谷のドヤに住んでいる人 のなかには当然お金のない人が多いと思う。しかし物の使いヵは非常に派戸ですし、消費をする わけです。これは、消費の過激な形ではなくて、今日の最も進んだ資本←義よりもさらにもう、 歩進んだ時代の観点から考えると、、つの生産なのだと考えたほうがよいのではないか、ぼくは そう思うのです。 通常これまで、マルクス羊義経済学の発想でも、近代経済学の発想でも、消費を生産と対比さ せて考えています。ぼくは、マルクスヒ義をある意味でラディカル化した、脱構築した場合には そうではない、つまり消費と生産は対応しないと考えています。よくマルクスた義経済学には消 費論がないという批判が出ますが、これは当然で、マルクスは消費というものを認めていなかっ たと思います。消費は実は年産の.側面だ、という発想を彼はしていたと思う。だから消費があ まり出てこないわけです。 別にマルクス主義を出す必要はありませんが、マルクスの考えを脱構築してもいいし、またい まの状況から考えても同じなのですが、消費とは実は情報生産なのだとぽくは一、、]いたいのです。 消費とは、あらゆる生産に対応して、生産されたものが消費されるということではないのではな いか。消費は生産の一つの形態、情報生産なのではないか、と捉えたいのです。 その場合、いまの時代は生産がほとんどなされなくて消費ぼかりされているという批判が山て くる。あるいは、生産はもう行なわれないのだ、すべてが消費だ、というのがボードリアールな どの発想です。しかし、消費を情報生産というふうに考えていくと、いまはすべて情報が資本に なっていく時代ですから、情報生産は無限に増えでいっている。 要するに浪費としての消費とはどういうことかというと、買ってfに入れて使わない、つまり 商品を、買うと言う単なる情報交換の対象としてしか扱わないと言うことです。情報から区別さ れる物という発想からすると、物は常に何かの目的性を持っていて、最終的につくられた物が使 われるという使用価値があるわげです。ところが、浪費としての消費においては使うために…買う のではありません。まさに、買うために買うというよりも、ひとつの情報配置を再編するために 物を買う。ぼくは今日の消費とはそういうものではないかと思います。 山谷の人たちが一方でバクチをやる、それから食べ切れないようなものをとってテーブルに並 べておくことは、非常に消極的あるいは無意識的な情報生産をやっていることなんだと考えてい いと思うんです。これからの情報資本主義のシステムのなかではすべてが情報生産になっていき ます。しかし、そうした情報生産は、資本主義的な情報生産だけではなくて、資本主義的ではな い情報生産をも含まざるを得ません。それはあらゆる資本主義の逆説です。資本†義的な情報生 産は反復し利潤を生んでいきます。しかし、それに平行して使わないものをつくっていく、使わ ないものを買っていく、回転させていくという方向も同時に発展せざるを得ないのです。 その場合、利潤を生んでいく生産のなかに、使えないものの生産が増殖していくとき、資本主 義は一つの終末に達するような気がします。 ただ、そのとき、使えないものを生産していく情報生産は、極度に使える情報乍産と刷神的な 関係になっていて、使えない生産がふえたからといって簡単には自滅しはしません。情轍の場合、 むだだ情報がものすごくあります。マス・メディアのなかで流れてくる情報は人半使えない情報、 回転していれぼいいという情報です。それに対して企業情報とか軍事情報とか、国家秘密は使え る情報です。これが情報資本主義的なシステムを動かしています。またそれにかかわる階級と、 そうではない、むだな情報にかかわる階級とがはっきり分かれてくるという現状があります。つ まり、情報資本ギ義は、一見それH身を減ぽしてしまいそうな消極的な情報生産をやると同時に、 他方では、ものすごく効率的な使用価値を追求するわけです。 この前話したセックスの問題でも、丁を乍むセックスなのか子を生まないセックスなのかとい う問題があります。セックスの情報資本手義化の.つの最も具体的な形態としてゲイがあるわけ です。ゲイのセックスは千を生まないセックスで、それに対して伝統的なヘテロ・セックスは千 を生むセックスです。しかし、セックスは一般に、ゲイのセックスがエイズで評判が悪いのとは 関係なく、次第に千を牛むセックスではなくなってきています。つまりセックス白休が、つの情 報になってきているということです。 ホームレスとハッカー そういうふうに考える場合、現代の資本主義社会の構図として、かつての「労働者」と「資本 家」に対して「ホームレス」と「ハッカー」という対比ができるのではないかと思います。これ まで労働者と資本家といった場合、資本家は結局、土地、金銭、丁業資源など つまり非情報 を所有している老になってくるわけです。それに対して労働者はそういうものを持たざる者 になっています。ところがいまは情報が資本になってくる。そうするとト地とか丁業資源とか、 女性とか金とかというものではなくて、むしろ情報をどう持っているか、どんな情報を掘ってい るか、が資本家の一つの重要な要素になってきます。またそれに対して、情報を持たない、ある いは情報を同転させるだけ--それが,つの生産であるかのような情報化産に従事しているだけ の人たちが出現します。ある意味で「ハッカi」は前者を、「ホームレス」は後者をどこか で体現しているのではないでしょうか。 ハッカーというのは情報とか暗号を解読して利潤 それは必ずしも金銭的なものではなく、 むしろ情報効果ですね を得ています。ハッカー的資本家といったほうがいいかもしれません。 少なくとも情報をただ回転させるのではなくて、利潤・効果を生んでいく同転のさせ方をハッカ ーはするわけです。それに対してホームレスはそうはならない。そういう意味でホームレスとハ ッカーという対比が新しい.つの階級配置として考えられるのではないかと思います。 フィリップ・マッチーラーがHオフ・ザ・ブックス 地下経済の台頭」(.几へκ年一一という 題の本を書いていますが、ホームレス的な労働老の可能性の問題に関してこれはなかなか面白い 見方を提供している。マッテーラーは従来の〈第三世界〉という発想はもはや成り立たないにで はないかというのです。たとえば世界銀行とか多国籍企業とかが金をつぎ込んでいって第三世界 を発展させていく、近代化していく、という発想がこれまでありました。いわゆる近代セクター と伝統的セクターとの対比を前提にした上であらゆる場所が近代化されていくという発想があっ たわけです。ところが七〇年代ぐらいまでに、そういうやり方では第.一.世界は従属と貧困の位置 から脱出することは決してないだろうということが明らかになってきました。第,、、世界の貧困は 近代世界に遅れた貧困ではなくて、世界資本ギ義と相関関係を持っている人工的なもの、つまり 世界資本七義を補完している要素が強いということです。だから、第.一、世界の町能性をいうので あれぼ、逆に補完の裏の側面、資本主義とは全く違う経済が行なわれている而から見ていかなけ れぽならないだろうというわけです。それをフィリップ・マッテーラは地ド経済に見出していま す。 「オフ・ザ・フックス」とは帳簿をごまかす、帳簿から外していく、脱税するということです。 第、一、世界は近代セクターから比べると非常に貧しい面がもちろんありますが、帳簿に載らない、 表面化しない経済がここほど多様に行なわれているところはありません。 理論的にはすでに七〇年代までに「発展理論」のパラダイムは挫折しました。つまり伝統的な セクターは近代社会より遅れたものだ、むだなものだ、できれぼなくしていきたい、という発想 が西側の経済学者のなかにありました、が、そういう発展パラダイムでは説明のできないことがい たるところに出現したわけです。 このことを…谷について考えてみましょう。いま確かに山谷は、.方で資本主義のなかの余計 老的な存在にもなってきていますが、必ずしもそれだけとは言い切れません。いますべての小心 がだんだん東京に移っていき、そしてその東京はある意味で第ニ次、第三次の都市改造の時期を 迎えています。.至るところ底地買い、かなされています。ところ、か、先ほど喫茶店を探して十五分 ぐらい歩いたときによくわかったように、南千作の駅から千代大橋のほうに歩いていくと、そこ は非常にだだっ広い商店街ですが喫茶店、かほとんどありません。非常に閑散としています。これ はまさに荒川区、足立区、江東区といった東京の東北都で、近年、産業がだんだん停滞してきて いる、人口も減ってきているという事態とっながりがあります。つまり東京の、州側にすべての中 心、か移っていって、そこに外用商社のオフィスとか情報資木ギ表にふさわしい産業、か集まってい き、かつての町.L場、鉄,L場とか縫製「場などの肉体的なマニュアル労働を中心とした労働集約 型の産業に頼っていた地域はだんだん衰蜘してきている。斜陽になってきています。このあたり もまさにそういう場所。なのです。 一つの区のなかにも、そうした「南北隔差」がtじており、…谷は、台東.Kのなかではちょう どその交錯地点にあります。日本堤のあの通り1-南千住の駅から消橘父差点を突っ切ってずっ と言問橋の方まで抜けている道路--は、.つの境界線なんです。それを横切ると隅田川にぶつ かります。隅田川を越えた向こう側が向島ですね。阿川区へ来るともう完全に東京の岬側的な谷 囲気はなくなります。そういう意味で山谷は第一.、次産業のひとつの地平、筑一一、次産業とそれ以前 の産業を区別する地平ともいえるのではないかと思うのです。だから.方で山谷は中流の侵食を 受けているように見えながら、他方で中流から外れてしまった世界、産茱でいえば情報化産から 外れてしまった⊥業生産の残りの部分と接触しているのです。 そこから考えた場合、いま日本の資本キ義は情報資本ギ義としての道をどんどん進んでいます が、情報資本主義はある意味で上を上げて下を切る方向に進みます。地ヵでもすでに斜陽産業が 増えてきていますし、東京だけに熱気があって地方はさびれてくるという状況がはっきりしてき ているわけで、東京の関数である名古屋とか仙台とか、東京の企業の支店がたくさんある地域は 発展しますが、そういうものがないところはさびれてしまうという現象がはっきり川ています。 つまり日本国内にある稀の「第三叶界」が出現しはじめているということがいえるわけです。か つて地方は一種の東京予備軍で、いつかは東京化していくだろう、中央と同じように発展してい くだろうという発想で考えられていましたが、これからは準東京は発展するけれども、準東京に なれない部分は全く切られていくか、違うものになっていかざるを得ません。そういう意味では、 第二、世界が経験した七〇年代以降の状況と非常に似ているのではないかと思います。雛一肚界か ら外れてしまった第三世界の多くは、工業志向な労働者のドヤになっていきます。 資本主義経済というのはあらゆる所に網を張って情報の回路を浸透させていきます、が、これを 徹底化させていった場合には、人問のいられる場所はなくなってくるわけです。ある種、見えな い部分がなければ人問は生活できないわけですが、その陰の役どころがまさに第∴.世界に割りあ てられてしまっているのです。資本年義経済はコンピュータ化されてどこまでも見えやすい構造 をどんどん広げていきますが、それが実際上機能するためには、見えない部分をある程度残して いかなけれぼなりません。それが「アングラ経済」なのです。 アングラ経済は非常に個人的な労働、その□暮らしのいろいろな労働、そういうもので成り一止 っている経済です。だから□本でどんどん情報資本ド義化が進んでいった場△H、ひとにぎりのハ ッカ1的な新人類が中枢部にいて、大多数の人はいわば潜在的なホームレスにならざるを得ない という状況が進行していくのではないでしょうか。その時に、全く同じではないにしても、山谷 的な生活スタイル、が遍在化していく可能性,かあります。つまりアングラ経済的なライフ・スタイ ルですね。 現にいま、学生でなくても、アルバイトで生活をしている人は結構毎いのです。収人的に中流 より以ドの人たちでも、帳簿に載らない絡済に依存して生活している人は多いと思います。税金 として中告されない収入で生活している人は結構増えてきているのではないか。山谷の人たちは まさにそういう側面を肥大化させた生活をすでにしているわけです。山作の生活をしている人た ちで収入を帳簿化できる人はいないでしょうし、する必要もないと考えていると思いますが、そ ういうことが山谷以外の世界にもこれから強まってくるのではないかと山心うのです。フィリッ プ・マッテーラは「都市のサブ・プロレタリアートしというふうにいっていますが、都市のサ ブ・プロレタリアートはますます増えてくるのではないでしょうか。 キース・ハートという経済学考が.九ヒ.二年に発表した「ガーナにおけるインフォーマルな収 入機会と都市の雇用」という論文があります。これにヴ脚してフィリップ.マッテーラは彼のア ンダーグラウンド経済論を展開しているのです、か、キース・ハートによれば、第三世界界に限らず、 たとえばヤクの売人とか売春婦とか、場合によっては泥棒も含めて、新しい労働者と考えなけれ ぱまずいのではないかというのです。その場合、まず筑一に彼や彼女らは一種の自主経済、自営 に立脚しています。もちろんドラッグのディーラーなどの場合には、ヤクザなどの組織には属し ていますがサラリーマンとは違うわけです。 ここには、裏返しの形ですけれども、単に資本ド義を延命させるというだけではなく、ある棚 の新しい可能性があるのではないでしょうか。つまりアングラ経済のなかには、少なくともルー ティーソの仕事、決まった時間に勤めてフルタイムの仕草をするという蜘範に芝舵された牛沽と は違う仕事のスタイルがあります。たしかに、これでは階段をトっていってある地付につくとい うことも成り立ちません。しかし,それは非常に消極的ではありますが、アウトノミア運動のな かで川山できた「労働の拒否」とつながるところがあるのではないかと思うのです。アウトノミア 運動のなかでは従来のかたちでの労働を最終的に終わらせようという「ゼロ・ワiク」の考えが 主張されました。ここから、生産点ではサボタージュや時短、消費点では、か的な他ドげといっ た一連の「アウト・リデュツィオーネ」と呼ばれる闘争、か生まれたのです。 フィリップ・マッテーラは自営の労働者を、フランスの「ル・ヌーベル・オフセルバトワー ル』に出ていた一、、口葉を使って「鎖なき労働者」と表現しています。彼はホームレスまで「鎖なき 労働者」だとはいっていないのですが、そこまで発展させてもよいのではないかと思います。ホ ームレスというのは潜在的な意味での情報労働折であり、そこにはかっての労働を廃棄するよう な可能性、かあるのではないかということです。 ただその時に、山谷で「労働の拒、台」としての方向を選んだ場合、山谷なら山谷の作人でいわ ば消耗して終わってしまうのか、それともそこから何か新しい可能件を出せるのかという問題が あります。山谷のようなスペースは非常に消極的な形です、か、一方では「労働のが{」、また情 報資本主義システムとは違った一つの経済、文化を持つ.り能性があるわけです。それをどこまで 広げられるかという問題になってきます。つまり問題は、かって山谷が高度経済成、長を支えた、 つの補完スペースになっていったように、今度は、情報資本主義が昂進していった場合に川でく るハッカー的労働老から外れたホームレス的労働者の一つの吹きだまり、一種の収容所という形 になっていき、情報資本主義システムをやはり補完していく形態になるのか、それとももっと別 たものに吹っ切れるのか、ということです。 五〇年代には仕事よこせの闘争があり、六〇年代には山谷暴動がありました。七〇年代にはあ る種のゲリラ闘争がありました。それでは八○年代の末期になって、情報労働老の消極形態とし てのホームレスのなかからどういう動きが出てくるか。ホームレスの、反抗は具体的な暴力の形態 をとらないだろうと思います。むしろそれは一種のネグレクトというか、さぽるという形態をと るのではないか。だから、それは非常にストレートな形で礼金にインパクトを与えることはでき ませんが、次第にシステム全体を侵食していくかもしれません。いまでも、たとえば都心であく せく働いている人が、山谷に来て町をひと回りした時、その人がもし自分に忠実ならば、毎ほ、 満員電車に揺られて通う自分たちの生活といかに違うかということに非常にショックを受け、働 くのがぼからしくなると思います。実際に山谷に来ている人たちのなかには、ある日、突然すべ てがいやになってポッと来た、来て出られなくなってしまったという人もずいぶんいるようです。 そのへんの微妙なところに一つの分かれ目があるのではないかという気がしています。 あとがきにかえて この『スペースを生きる思想』という本は、ちょっとかわった編集過程をたどってきまし た。今日はそれを振り返るということになりましたが:・:・。 「ちょうど一年ほど前に、井崎さんから企画の話があったときに、いままでとはちエっとちがう 本の作り方をしたいな、と思ったのです。ぼくは初めて本を出したときから、木というのは編集 者・読者との協同作業だ、著老名というのは、映画の監督名のようなものになるべきだ、という ことを強調してきたつもりなのですが、実際には、作るのは著者で、結局のところ、編集者の積 極的なかかわりの点ではどうしようもない限界がありました。筆を握る著者がいて、それを補佐 する編集者がいるという、物理的な条件があるかぎり、筆者至ヒト義はどうしても越えられない。 それを越えるにはどうしたらよいかということから、今回の試みを思いついたわけです。」 しかし、編集者の力量があって、今回もまた越えられなかったのではないか、と帆促たる ものがあります。 「最初、井崎さんは、アンドロイド論、それもメディア論としてのアンドロイド論の本を作ろう といってきました。しかし、それならばこそ、そのメディアを論じている著各自身の位置をもう 少し変えていくことができるのではないか、いわゆるく超越論的主体Vとしての答者ではなくて、 著者自身がメディアになっていく方法はないのか、と相談しているうちに思ったわけです。 ぼくたち白身をメディアにしながら、何かメディアを実際に作っていく過程を本にしようじゃ ないか、という方向に話が進みましたね。アンドロイドを実際に作ってみようじゃないか(フィ ジカルな意味ではなく)、というところまで話はついに過激化したこともありました。 そういうことをあれやこれや考えているうちに、メディア・都市・身体という、従来のく場V のバースペクティヴをもう一歩越えていく概念として〈スペース〉に行きあたりました。メディ ア・都市・身体というこの三つの空間概念は、電丁テクノpジーが極度に進展した現在、もはや 有効吐を失おうとしている。都市ひとつとってみても、明らかに〈廃堆〉に向かって進んでいる。 メディアも、人と人とを媒介するものから、むしろ人と人とを遠ざけるようなものになってきて いる。身体も、いわばアンドロイド化しようとしていますね。 こういう状況を同時にとらえら・れる概念はくスペースVではないか、テクノロ、シーの進展によ ってずたずたになっているくスペースVにこそ、いまやリアリティがあるのではないか、決して トポス(記憶の集まった場)ではない、という方向でぽくたちの認識が深まっていったと思うのです。 トポスというのは、文化的な都市論のキー・コンセプトになっていますね。ですから、そ の再発見、あるいは再建ということが課題になる。それに対してスペースは、空間という意味で ニュートラルに使われるか、あるいは均質空間としてむしろ.合定的にとらえられています。とこ ろがこの本では、この「、口葉を逆手にとって有効な方法概念としてとらえなおそうとしたわけです ね。電子テクノロジーにずたずたにされたトポス、組みかえられたトポスをもう、uわれわれの 側でさらに組みたてなおしたときに何があるか、といった場合に、〈スペース〉そして〈フリ ー・スペース〉という概念が出てきたのですね。 「そうです。そういうテーマの問題と、本作りの方法の模索とがおπいにからみあいながら、こ の本はできてきました。 実際にぽくたちは、今年(.九八七年一のかなり寒いころから一一人でさんざん東京中を歩きま わりました。ぼくたち白身をメディアにして、この東京のなかにっかのまであれ、ミクロな〈フ リー・スペース〉を現出させることができるか、という実験をしたわけです。 もちろん、せっかく歩くわけですから・、どこか面白い場所はないかと探してもみましたが、結 局のところ、ほんとに面白いところ.うさん臭いところなど、どこにもなかった。卜全たるトポ スなどどこにもなかった。 むしろスペースのリアリティを感じさせてくれたのは、秋葉原のようにテクノロジー、が悪辣な までに浸透していて、その矛盾のなかに、ある種の活気があったり、安らぎが見えてきたりして いるところでした。 そこで、東京の街をめちゃくちゃに歩きまわり、メディア・都市・他者の身体にぽくたちの身 体性をぶっけていって、疲れきったところで、どこかオープンな場を見つけて、さらにしゃべり ながら考えを進めていくという、今回の試みに最終的に落ちっきましたね。さんざん歩いたその すぐあとでしゃべるというのが、この試みのユニークなところじゃないのかな。いわば臨時ラジ オ放送を繰り返した。この本は、その記録であるわけです。 そして、その[の印象を話しあいながら、論を進めていくなかに、まったく暫定的なものでは あるけれども、〈フリー・スペースの可能性、が見えたのではないか。」 行きあたりぽったりの店にとびこんではテープを回すということを繰り返してきました。 その場所も、何の変哲もない、ホテルのラウンジであったり、カフェパーであ」ったりしたのです が、いざテープレコーダーを出してしゃべるとなると、何となく気、かねしてしまいましたね。飲 みながら談論風発しているまわりの人たちよりも、ぽくたちのほうが小声でしゃべっているとこ ろがありました。テープを出してしゃべることが禁じられているわけではないのですが、スペー スの空気が、あるいはぼくたちの意識が、どこかで規制しているのですかね。そういう抵抗感が ありましたね。 「そうでしたね。行きあたりぼったりといっても、それなりに心身ともにくつろげるような場所、 擬似くフリー・スペースVを探して入っているんですよね。それでもテープレコーダを出すのに はたしかに抵抗感があった。しかし、それをやったことにこの本の意味があったと思いますね。 現代の都市には、〈フリー・スペースvはなかなかない。ということは、時間をフィードハッ クさせる場がない、ということです。レトロ趣味の場所はいくらもあるけれども、個々の人問の 歴史的な記憶をよみがえらせるようなところはだんだんなくなってきました。そういう都市スペ ースのなかで、テープであれカメラであれ、記憶装置を出すということは禁じられたことなのだ と思うのです。時間を先へ先へ送っていこうとする都市スペースのなかでは、それは違犯行為な のではないか。だから、ぽくたちがやったことは大げさな一、口い力をすれば都市のスペース化に逆 行することだった思いますね。」 1それにしても、これという店をただの一軒も見つけられませんでした。これでは路止観察 学会に馬鹿にされる? 「今日も、東京湾岸を歩きまわったあげく、チサソホテル浜松町というビジネスホテルのパーに いるわけですが、どうもホテルが多かったですね。ホテルというのはおおむねどこも徹底的に均 質化した場所です。まさしくくスペースVです。ホテルの利川老の多くは旅行客ですが、現代の 旅行客というのは、実はどこにも移動していない。ほとんど同じような場所をさまよっている。 場所の質的な差異はもうない。個々のトポスはないのです。まさしく誰もが〈スペース・トラベ ラー〉になっている。宇宙飛行上はつねに均質の空間・時間のなかをさまよっているわけで、 心理的な時間のなかにしか差異はない。 ぽくたちも、結局落ちつく場所が、民公調の喫茶店だったり、小粋なお女将のいる飲み崖では なくて、世界のどこにでもあるようなスペースだった、そういう場所のほう、がぽくたちの記-意の たどりなおしをするのに適していた、ということは象徴的だと思うのです。かえって、レトロ調 のカフェバーみたいなところのほうがテープを川しにくかった。ホテルのようなスペースのほう が逆に勝千に何でもできるということ、かありましたね。」 1今度の本では、写真家・粉川新大も登場します。n分で写真も撮るというから、さぞかし 立派なカメラを持ってくるのかと思っていたら、おもちゃみたいなカメラなので当初は小安にな りました、が-…。 「あれはローライ35という、いまは発売停パ.になっているカメラです、か、35ミリのフルサイズて は、いちばん小さいといわれていたものです。それをいま、何で使っているかといえば、非常に 身体性に密着したカメラなんですね。小さくて軽いのは便利なのですが、それゆえに、すぐプレ る。ブレないためには体に押しつけて撮らなければならない。 写真を撮るということは、自分を特権的な位置に貯くことですよね。ニューヨークのスラムで 気づいたことなのですが、小さなカメラを出すのは、.眼レフで撮るよりも.反感を…買いやすい。 、眼レフならプロだと思ってくれるから、かえってr解、が得られるのです。望遠レンズで盗み撮 りもできる。ところが、ローライ35だと、素人の観光客が興味本位で撮っているのだろうという 反感を呼ぶのです。レンズも広角だから、ぐっと近寄らないと人物は振れない。ただ、そのかわ り、被写体に対する特権什を壊せる可能性、かあるのです。こういう小さなカメラを使う場合には、 許可をとるとか、仲…になるとか、そういうことをしなければ振れない。被写体と触れあわなけ れぼ振れないという意味では、きわめて身体件に密着したカメラだと思うのです。L --身体什を解体しようとしているいまの都市スペiスのなかで、ローライ35で写真を撮るこ とによって粉川さんの身体性を回復することが閉趣だったわけですね。 「そうです。スペース化した都市のなかにひとつの時…のスペースを作ることですね。撮るとい う行為のなかで都市がいわば空転するのです。ファインダiを覗いてシャッターを押すときに、 ぼくたちは都市にそれまでとはちがった対応をしているのです。だから、この本のなかの写真は、 そういう行為の記録として見ていただきたい。写されているものよりも、被写体を通して写真の 奥に見えてくる、カメラを握っている主体の位置が弔、理なのではないかと思います。それには高 級機よりもローライ35のようなマニュアル性の強いカメラのほうが適していたのではないかと思 います。」 そうすると、ローライ35という簡便なカメラで撮るという行為のなかに意外にも含まれて いた困難さというのは、何でもないテープレコーダーを出してそれを回す時の抵抗感とどこかで っながっていますね。これは、逆にこの都市のある,面を一心唆しているともいえる。 「たしかにそうなんですね。テープレコーダーの場合でも、放送局川の大きな装置をすえて、こ れから録音ですよ、というイメージをかきたててやるのだったら、逆に何の抵抗もない。これは カメラの・場合も同じでしたね。一 ささやかとはいえ、そういういろいろな実験を試みた本ですから、出来あがった本自体も、 あんまりおさまりかえっていてはいけない? 「この本自体が、本文で強調してきたくフリー・スペースvになりうるかというと、やはりもう ひとつ自信はない。 活字メディアは非常に拘束性の強いスペースで、組みかえをなかなか許さない。新聞・雑誌だ ったら、それでも切り抜き・はぎとりができるけれども、本はそれもしにくい。本というスペー スを開放していくのはかたり難しい。 だから、むしろ読者の個々人が、自分n身の身体吐でもって、この本を郁巾の場のなかへもう この本の編集過程でぽくたちがたどってきたことを、読者白身が別のそれぞれの身体性を よりどころにして、もう一度たどりなおす、というより、たどり方を変えていく、ということで すか。それがこの本を〃読む”ということになるのでしょうか? 「まったくそうだと思います。 出来あがるまで、いろいろたいへんだったけれども、井崎さんといっしょにこういう作業がで きたということは、ぼくにとってとても意義のあることでした。そして、読者の方々が、ぼくた ちの発想を批判し、さらに発展させていってくれれぱいいな、と思っています。」 (聞き手 編集部・井崎正敏)