14——廃品回収の技法
エドガー・L・ドクトロウの『ラグタイム』(早川書房)は、作中人物やエピソードの虚実をめぐって、かつて花田清輝の『鳥獣戯語』が日本の文芸評論家のあいだに惹起したのと同質の無意味な実証主義的論議をアメリカのジャーナリズムに提供したらしい。
むろん、そうした傾向と対をなして、この作品を単なる娯楽小説として読み捨てる傾向もあるわけで、この作品が全米のベストセラーになったのもその種のレクチュールのおかげである。たしかに、この小説はどのページから読みはじめてもおもしろい。たとえば、有名な抜けわざ師ハリー・フーディー二が、マンハッタンとブルックリンを結ぶ地下鉄の川床工事中巾に事故で地中からイースト・リバーの上空まで吹き飛ばされて死にもしなかった労務者を病院にたすね、その”抜けわざ”の秘訣をききだそうとするくだりとか、ユングとフェレンツィを同行してニューヨークにやってきたフロイトがロワー・イースト・サイドの貧民街で尿意をもよおしたがどこにも公衆便所がなく、さんざんな目にあってすっかりアメリカが嫌いになる話とか、アナーキズム史上有名な雑誌「母なる大地」(一九〇六~一九一七年)を創刊した女性アナーキスト、エンマ・ゴールドマンが、日本のトルコ嬢にもまさる(とは書かれてはいないが)マッサージの名人だったとか、今日のメトロポリタン美術館のコレクションの一部をなしているモーガン・ライブラリーが銃とダイナマイトで武装したコマンドに占拠されるが、そのコマンドの一人がのちにメキシコ革命に加わるとか、想像力ゆたかた虚実混淆のアドリブと変拍子のエピソードにみちみちている。
しかし、この作品はそれだけにとどまるものではたく、フレデリック・L・アレンの『アメリカ社会の変貌』(光和堂)にも許しい一九〇〇年初頭から一九一五年ごろまでの前=工業社会から工業杜会への転形期を、脱=工業社会の眼で活写してもいるのであろ。したがってそこには、「機械の重苦しいあえぎとともに」結局は工業杜会へつきすすんでゆくことになるアメリカ史の主要な可能性と、それとは別の歴史的可能化とが、いまだいりくみあった状態で存在する姿が描かれているわけである。
ラグタイムとは、言うまでもなく、ジャズ・ピアノの技法であり、邦高忠二氏の適切な定義によれば、「不規則な断続的な力点移動」であって、これは、「アクセントが、ときに、モーガンやフォードやフロイトといった史上の著名人物の描写に置かれ、ときに、無名のアングロ・サクソン系家庭やユダヤ系の貧乏移民や不黒人ミュージシャンに置かれる」(訳者あとがき)この作品の構成技法にもなっているわけだが、ひょっとしてこのタイトルはそれ以上のことを意味するかもしれない。
ワルター・ベンヤミンはあるとき、モンタージュや引用、シュールレアリスムの技法を念頭におきながら、「現実をもっともめだたずに定着しているもののなかに、いわば現実の廃物のなかに、歴史のイメージをしっかりととらえる試み」(『書簡II』、晶文社、一九三五年八月九日付)を語ったことがあるが、ベンヤミンにとって歴史とは、断じて、事実をもともとあった通りに配列することによって現れわれるものではなくて、現にある諸事物つまり「廃物」をモンタージュしなおす瞬間にひらめくものであった。それゆえ、たえずこの現在へ向けて再構成される「廃物」——ラグ——にみちみちた”ラグ・タイム”とは、さまざまな可能性にみちた転形期であり、このような転形期の歴史的可能性を探求するしかたは、おのずから、”廃品回収”の形をとる。
ベンヤミンは、彼の僚友にして偉大なる文化批評家ジークフリート・クラカウアーを評して、「ところで、ぼくらが脳裡で、ひとりせっせと仕事をしている彼の姿を想像してみると、朝早く、まだうすぐらいうちに、クズを集めている男のすがたがうかんでくる。彼は棒きれで、演説のクズや言葉のキレハシを突き刺し、不機嫌そうにぶつぶついいながら、いささか酩酊の様子で、それらを彼の車のなかへ投げ入れている。ときには、”人類”とか”内面性”とか”沈潜”とかいった使いふるしのボロクズのあれこれを朝風のなかに侮蔑的にひらひらさせてみたりもしている。彼は朝のクズ捨いである——が、この朝は革命の日の朝なのだ。」(「知識人の政治化」)と言っているが、まさしく、この時代の綜合的な思考は、廃品回収的思考なのである。