粉川哲夫の本    目次
1——もう一つの現象学



 現代は、近世の終焉と何らか新たなものとのあいだの激動する過渡期であるから、ここではもはや、いかなる諸事象も近世の二分法的諸概念のなかに安閑としていることはできない。近世的な知、近世的な諸概念は、それらが事象を分断し、抽象性のなかに追いこんでしまうかぎりにおいて、それ自体としては有効性をもたなくなってしまった。ニーチェにおける“善“と“悪“、ボードレールにおける“自然”と“人工”、マラルメにおける“言葉“と“物“、カフカにおける“読者”と“作者”、フロイトにおける“意識“と“無意識“、グラムシにおける“知識人”と“大衆”、毛沢束における“戦争”と“平和“等において端的にあらわれているように、すべての二分法的・近世的諸概念は、もはや、たがいに対立・抗争・矛盾しあうさなかでしか事象そのものの自己表現にはなりえない状態にある。
 しかし、こうした概念の大動乱的状況は、単に概念上の変化、つまり既存の概念や知に適当な修正をくわえれば切りぬけられる認識論的レベルの変化ではなく、事象それ白身にもとづく歴史的変化である。テオドア・W・アドルノは、「ファシズムの強制収容所において、生と死の境界線は抹消された。収容所は、生きている散骨と死にかかった者、向殺がうまくいかない犠牲者、死の廃止の希望に対するサタンの映笑、こういったひとつの中問状態を生み出した」(『プリズム』)と書いているが、近世の二分法的諸概念の失効は、単に知のレベルだけの出来事ではなく、生活のレベルの出来事でもある”というよりも、ここではもはや“知”と“生活“といった概念もたがいに不分明と化す。
 こうした状況は、科学・学問の“ジャンル“においても同様で、今日ではもはや、厳密に区分され、限定された学問領域というものは存在しえなくなっている。諸科学の“境界“は不分明となり、諸科学は他のあらゆる隣接領域と相互侵犯をくりかえしながら進行することになる。が、近年流行の“学際“つまり“インターディシプリン“や“クロスディシプリン“は、こうした状況を“平和的“に解決するためにモダニストたちが考えだした国際連合ならぬ学際連合的な一時しのぎにすぎないのであって、こういったやりかたで“知“の危機がのりこえられるのなら事は簡単だ。問題は、学そのもののありかたにあるのであって、状況は、学が従来型のものから一歩ふみこえられることをせまっているのである。
 そのな意味で、フッサールのーーとりわけその最晩年の現象学的思惟の最大の意義は、近代科学はそれ自体で存立しているのではなくて、デカルト以来の近世的思考が排除し、忘却しつづけてきた「生活世界」に根ざしているのだということを明らかにし、したがって、近代科学の超克は、後期市民社会が立脚しているその歪曲され、隠蔽された「生活世界」の解放の方向から行なわれないかぎり不可能であることを示唆したことにある。フッサールは、現象学を「最後の哲学」と呼んだことがあるが、この哲学はもはや、“科学“のなかに融合されて、“科学”と一体化することもできないし、“生活“のなかにひたりきって、“知恵“の一種と化すごともできない。現象学は、いまや徹底的に過渡期の思考として、“知“と“生活“とが錯綜しあっている「生活世界」の場、すなわち文化の領域でその質的変革に能動的に介入し、あらゆる“知”とあらゆる“生活“とを激しく抗争させることによって、両者の根底的な関係に新たな変化を生じさせようとするのである。