粉川哲夫の本    anarchyサイト
主体の転換/未来社/1978年

あとがき

??再構成者の弁

   本書は、一九七四年から一九七七年にかけて新聞や雑誌に発表した長短雑多な文章を現在のわたしの問題意識で再構成し、編集したものからなっている。
   この再構成の作業は、いまでは〃読者〃の位置にいるわたしに対して、自分が書いたものをどう読みなおすかという試練を課し、必然的に、現在のわたしの問題意識を再検討させる機会を与えたが、再構成者としてのわたしが本書の文章の全体を通じて、そしてそれを越えて読もうとしたことは、芸術作品の複製と大量生産の技術が昂進した時代において読者、観客、生活主体が現実の作品に対してどのような姿勢をとらされ、どのようた文化を形成させられているか、そしてそのような姿勢と文化にはいまだどのような新たな選択が残されているかという問題であった。
   複製と大量生産の技術が高度化するにつれて、芸術作品の意味付与過程は、特権的な作者の完結した〃創造〃過程から、可能的な無数の〃受け手〃による無限の継続的意味付与作業のなかにおきかえられる。だが、作品の意味が作者の原初的な〃創造〃過程のなかでは決して完結しないということは、一面で、、〃受け手〃に意味付与の最終的な決定権をゆだね、〃受け手〃を意味付与の「主体」の位置に復権させるが、他面でそれは、作品の意味が作者の「原初的モチーフ」とも〃受け手〃の欲求とも無関係に決定されうる可能性を生み出しもする。
   というのも、作者の〃創造〃過程と〃受け手〃の〃受容〃過程とのあいだを媒介する大量生産のプロセスは、原理的に、作者の〃創造〃過程を忠実に反復・複製することもできるが、それを改変することもできるし、また、あらかじめ演出された〃受容〃過程を仕掛けることもできるからである。
   実際、今日の支配的文化のなかでは、芸術作品を大量生産するプロセスの「主体」は、作者や読者の具体的主体ではなく、資本という抽象的〃主体〃であり、作者の原初的な〃創造〃過程は資本の論理による〃モンタージュを受け、また、読者の〃受容〃過程は、すでにその日常的生活過程に資本の論理が浸透しているかぎりで、っねにすでに資本の論理のコントロールを受けている。
   しかしながら、複製と大量生産の技術がもたらした逆説は、作品にあらかじめいかなる操作が加えられているにせよ、その意味を最終的に決定する者はそうした抽象的〃主体〃ではなく、やはり、〃受け手〃の具体的主体だということである。そのため、資本の論理としては、当然、こうした且一体的主体をトータルなレベルでいかにしてあらかじめ組織し、管理するかということに奔走することになるが、にもかかわらず、作品は最後には必ず〃受け手〃の具体的主体の手中に落ち、具体的に読み、観られ、使用されねばならないかぎりにおいて、そのようなたくらみが完全に成功することは??主体をロボット化しないかぎり??不可能である。
   とはいえ、近年の文化状況は、そのような不可能をかなりの程度可能にし、あらゆる文化を消費と管理の文化装置と化し、大量消費文化を着々と構築しつつあるかにみえる。それゆえわたしは、そのような、市民社会がますます国家によってぬりつぶされてゆき、民衆的なものがもはや歴史のなかにしか存在できなくなるかのような今日の文化状況に対して徹底的な読者主義、観客主義、生活主体主義をもって応えようと思ったのである。

                           1976年8月7日

                                                                                                            粉川哲夫