ニューヨーク街路劇場
[未校正版――誤植あり]
目次
消費と犯罪の街?
”トレフィック”と”テリブル”のあいだ
クレイジー・ニューヨーク
ニューヨーク風俗・ナウ
マンハッタン貧乏暮らし
芸人をつくる街
”キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?”
”潔癖文化”をこえて。
マクドナルドとマックダーナルドの差
制度としての"ファッキング"
ポスト・インダストリアル・メディア
都市の身ぶり――映画のなかのニューヨーク
ダウンタウンの”街路劇”
初版あとがき
文庫版あとがき
消費と犯罪の街?
ニューヨークの冬はきびしい。路上の犬の糞も石のようにカチカチにこおる.カラ
リと晴れわたっているからといってあたたかいとはかぎらないので、始末がわるい。
外出するまえには、窓をあけてみるか、数分おきに気温と天気を報じているラジオの
ニュースを聴くかしなげれぱ着るものが決まらない。
マイアミあたりの別荘に逃げ出す金持たちは別にして、人々はこのクレイジーな寒
さに耐えながら街を早足に歩き、用をたす。ふだんでも早足なニューヨークの人々の
足のペースが、冬になると一段と早くなるのは、彼や彼女らがせっかちだからという
だげでなく、やはりこの寒さのためである。メイシーやギンベル、コルヴェットとい
ったデパートの入口で、しばしの暖をとっている老人たちもいる。
クリスマスをひかえてカード・ショップや広々のカード・コーナーはにぎわい、ク
リスマス・ツリーの樅の木を満載したトラックもみかけるようになったが、クリスマ
スにかこっけてはでな飾りっけをし、ジングルベルのレコードをかきならす日本の商
店やデパートからみると、店のデモソストレーシヨソは驚くほど控え目で、わけもわ
からず街でも家でもクリスマスのムードを強制されることになる日本とは大ちがいで
ある。ここでは、強制と権威主義が最も嫌われ、誰しもがはぱからず強烈に自己主張
をする話さもなければこの街では生きてゆけないのだ。
比較的あたたかい日には、路上でポータブル・ラジオをもち歩く若者に出会うが、
ニューヨークに来るまで、ポータブル・ラジオは戸外で歩きながらきくものだという
ことをすっかり忘れていた。考えてみれば、ポータブルなのだから、家で使う手はた
い。彼や彼女らを観察して気づいたことは、彼や彼女らにとってラジオ・セットは、
放送やテープをきく道具ではなく、むしろ一種の自己顕示のシンボルであるというこ
とだ従って”ウォークマン〃みたいなおとなしいのは、ここでははやらない。と
くにフェルト・リコ出身や黒人の若者にはポータブル・ラジオをもち歩く者が多く、
彼や彼女らは、機体には日本の有名ブランドのマークがみえるのだがあまり日本では
お目にかからない巨大なラシ・カゼを肩からつり、地をゆるがせるような大音響をあ
たりにブチまけながらのし歩く。個人と集団とのちがいを別にすれば、日本の右翼の
宣伝カーの社会的身ぶりに一脈通ずるものがあるが、かかっている音楽が毎回同じ軍
歌ではなく、出まわったぼかりのディスコやロックの新曲だったりする点がせめても
の救いである。
もっとも、歩行老が大なり小なりみな自己顕示しあっているこの街では、こういう
電子機械にたよらなけれぼ自己顕示ができないというのは、一番芸のないことかもし
れない。少なくとも、酒をくらってわめきながら歩いている浮浪者や、わけのわから
ぬひとりごとをっぶやきたがら大きな紙袋をぶら下げて歩いているショッピングバッ
グ・レディは、そんなものにたよらたくてもはるかに芸術的な身ぶりを披露している。
ニューヨーカーたちが、もう何十年もまえから、交通信号をまもらず、警官も歩行
者の信号無視に無頓着なのは、彼や彼女らが機械による強制を嫌うからなのだという
もっともらしい説明をきいたことがあるが、たしかにこの街では、まずはぼをきかせ
るのは生身の人問であって、車などは馬以下の存在とみなされているふしがあり、歩
行老が信号を無視していても、車は警告のクラクションをならしこそすれ、歩行者を
威嚇するようなことはない。
先進的な機械とオートマティックなシステムが日常生活に浸透している点では、東
京の方がニューヨークよりもはるかに進んでいるだろう。バスはここでもワソ・マゾ
だが、日本のようなコマーシャル付で行先を知らせるテープ装置や電子回路にセット
された下車ボタンのようなものはなく、下車する客はひもをたぐってベルをならし、
合図をおくる。デパートには自動ドアーはあるが、個人商店で自動ドアーをそなえて
いる店はほとんどない。日本では何百万台も普及し、日夜多額の金をかせいでいる自
動販売機もここではうっかりすると見おとすほど数が少ない。タバコ、コーラの自動
販売機がわずかにホテルやレストランにそなえられているにすぎない。比較的よくあ
る切手の販売機にしたところで、コインを入れてから力まかせにレバーを押さたげれ
ぼたらぬたぐいのもので、オートマティックということからはほどとおい。
最新のエレクトロニクスを駆使した交通信号、コンドームからスイカまでコインを
入れさえすれば自動的に出てくる販売機、幼い三、四歳の子供をも熱中させるゲー
ム.マシンが巷にあふれている東京ーニューヨークからみると東京のこうした姿は
まるでトリュフォーの映画『華氏四五一』の世界である。日常生活へのこうしたオー
トマティズムの侵入は、文明の進歩であるどころか、むしろ文明の進歩の名をかりて
巨大な商業資本が大人から幼児までを最新式の機械装置で強制的に一定の日常生活に
従わせる管理的な支配と操作にほかならない。
その意味では、オートマティズムが日本ほど浸透していないニューヨークは、まだ
管理的支配の網の目からまぬがれている部分が多いと言えるかもしれない。そしてそ
のことがまた、この街を日本の街よりもより”演劇的”にしているのかもしれない。
ニューヨークは狭義の意味でも演劇の街だ。タイムズ・スクウェア周辺のブロード
ウェイ(商業的)劇場では、秋から冬にかけてのシーズンになると、何年もロングラ
ンを続けている芝居のほかに、毎シーズン新しい芝居が舞台にのぼり、連旦二十本以
上の芝居が上演されている。このほか、オフ・ブロードウェイ(商業的だが規模がや
や小さい)、オフ・オフ・ブロードウェイ(非商業的プロダクション)の一群の芝居が
ざっと五、六十はあり、毎日劇場通いをしても見きれないほどの舞台にめぐまれると
いうわげである。
もっとも、大学劇場や郊外劇場が近年着実な演劇活動を展開しているアメリカでは、
もはやブロードウェイ、オフ、オフ・オフがアメリカであるいはニューヨークで最上
の舞台を提供する場所とはいえず、また、ブロードウェイはどんなに良質の舞台を提
供するとしても所詮は商業主義であり、オフ・オフはそれがどんなに非商業主義的で
あっても所詮はアマチュア的実験の域を出ない、といった一面もあり、マンハッタン
の冬を活気づげるおびただしい数の芝居のラッシュが必ずしも演劇的な豊かさを意味
するとはかぎらない。しかし、ニューヨーカーたちがアメリカの、あるいは世界のい
かなる都市の人々よりも芝居を見るチャンスにめぐまれていることだけはたしかであ
って、演劇がテレビとちがうのはその内容や規模ではなくて観客の姿勢のちがい
観客が劇場へ自ら出向くという能動性のなかにあるのだとすれば、事実これらの芝居
をそれなりに消化するニューヨーカーたちは、世界のいかなる都市の住人よりも演劇
にコミットしていると言えるかもしれない。
表面的にみれば、ブロードウェイの芝居の入場料は平均二~三千円といったところ
なので、その観客はおのずから非庶民にかぎられるのではないか、そこでどんなにシ
リアスな芝居をやってもそれは所詮”ブルジョワジー〃のおあそびにすぎない、とい
う考えもたりたっだろう。いうまでもなくブロードウェイは芝居を観客に消費させよ
うとする立派な文化産業であり、一つの舞台の人気は文化産業に内蔵されているジャ
ーナリズムや宣伝媒体によって担造される面が多分にある。実際、ロングランを続け
ている芝居のなかにはニューヨーク・タイムズで大々的にとりあげられたためにヒッ
トしたものもあるし、逆に、シェイクスピアの『十二夜』にもとづく才気に富む、ミュ
ージカル・コメディー『ミュージック・イズ』(一九七七年)のように、ひじょうに良
質の舞台であったにもかかわらず、新聞で酷評されたためにシーズン中に閉幕の憂き
目に会ったものもある。それゆえ、ブロードウェイの芝居を見るということは、とり
もたおさず巨大な文化資本の片棒をかっぐことになるのだ、と表面的にはこう考えら
れなくもない。しかし、ここにも”理性の詭計”というものがあるのであって、商売
本位でつくられた芝居が、結果的に観客から金をまきあげるというより、むしろそれ
以上のものを観客に与えてしまうというパラドックスが起きることもある。
が、こうした”詑計”は、そういう逆説を内部にはらんだ商業演劇が出現すること
によって自動的に起きるのではなく、”やはり”理性〃の担い手たち、すなわち庶民の
”実践”によって生じる。金持階級はいざ知らず、ニューヨークの庶民たちがブロー
ドウェイの入場券を買う場合、彼や彼女らは必ずしも演劇産業の意にそったやり方で
それを入手するわけではない。ものを安く買うことにかげては目のない彼や彼女らは
芝居の券も安く買う手を知っている。もう以前からタイムズ・スクウェアの近くに
”ディスカウント・チケット・ブース”があって、ここで当日の売れ残ったチケツト
を半額ぐらいで売り出すのである。こういう売り方自体は、演劇産業の商業主義的性
格とその危機をあらわしているともいえるが、それ以上に興味ぶかいのは、時間が金
に換算されるこのニューヨークで、マイナス一〇度はざらの日の街頭に一時間以上も
立ちんぽして安い切符を手に入れようとするニューヨーカ-たちの心意気である。と
りわけ水曜のマチネーの切符は普段より安いので、水曜の昼まえのブースには、人の
列がデュフィの銅像をはさんでゼムピソのようになるほど多数の人がつめかける。お
よそ千人はいようか、老人から子供にいたる人々が芝居の批評をしたり、世間話をし
たり、足ぶみしたりしながら、寒さをまぎらせてブースの開くのを待つのである。
われわれはとかく、アメリカ人を消費主義者の典型とみなしがちたのだが、高度成
長政策の消費主義にうんざりさせられながらも馴らされてきもしたわれわれの目から
すると、一見、吝薔にすぎるのではたいかと思われるほど金の使いかたには細心かっ
慎重なのが平均的なニューヨーカーたちの姿だといってよい。
むろん、ニューヨーカーをもってアメリカ人を代表させることはできないし、ニュ
ーヨークといってもここでは、マンハッタンの34ストリートより南のダウンタウンを
主に想定しているのだが、一九二〇年代以来、悪辣な商業主義にさんざんもてあそば
れた結果、おのずから身につけたニューヨーカーたちのいわば対抗H商業主義的姿勢
は、最もニューヨーク的な庶民性のひとっといえるだろう。彼や彼女らにとっては、
安く買う(”安いものならよい”ではない)ということが一つの価値であって、ものを
いかに安く買うかということにかげては、それ自身があたかも彼や彼女らの倫理規定
であるかのように、誰しもが一家言をもっているのである。
”消費の街”以上にしばしばニューヨークにはられるレッテルは、”犯罪都市”とい
うレッテルだ。これは、何も日本でだけ目立っレッテルではなく、現にわたしがロン
ドンに石一一だときとこヵら来たヵとだサ水らわたのて二ューヨークから」と答え
ると、そのレストランの主人は、これの方は大丈夫かと言って両手をピストルのよう
にしてみせた。ニューヨークが実際にどの程度危険な街であるかを断定するのはむず
かしいが、ニューヨークの人々がこの街を危険だと思っていることだげは、はっきり
断定できる。建物や部屋の出入口には何重ものカギをつけ、テレビカメラや防犯ベル
をセットし、人のいない部屋は電気をっげっぱなしにしておく。人々は、ドアー・マ
ゾのいるアパートメントに住みたいと思い、非常階段に面した窓には頑丈な鉄柵をつ
けさせ、安全をはかる。街を行く女性たちはハンドバッグをしっかりとささえ、ショ
ルダーバッグは、ディスコ・バッグでなくても体の前側にかけ、横あいからかっさら
われるのを防ぐ。子供に注意をはらうことはいうまでもなく、十歳未満の子供を一人
で学校に通わせることは例外に近く、登校・下校時間の小学校まえには、おくりむか
えの親たちの人だかりができる。
以前、ソホーに住む五歳の男児が行方不明になる事件が起こった。自宅から数ブロ
ック先のスクールバスの発着所に行くほんの数分のあいだに、この子は忽然と姿を消
してしまった。しかも、バスの発着所へあと十数メートルのところまで歩いてゆく姿
を窓から母親が見とどけているのである。が、この事件の不可思議さもさることなが
ら、この事件に対する人々の反応が全くもってニューヨーク的だった。人々はこの子
の両親に同情するどころか、彼らの不注意を非難した。「五歳の子供を一人で表に出
すなんて!」、「バカな親たちだよ!」
こんな調子であるから、マンハッタンの深夜の街を大人が一人で歩いていて殺され
たとしても、誰からも同情されはしないだろう。そんなことが起きても不思議ではな
いというのである。たしかに、とっぴょうしもないことが起こる確率は他の街よりも
高いかもしれない。シェリダン・スクウェアで、突然、「死ね!死ね!」というわ
めき声がきこえたのでみると、目を血ばしらせた若い男がベンチにすわっていた老人
になぐりかかり、無抵抗の彼を歩道に投げ倒した。ヤクが切れた男が発作的に乱暴を
はたらいたらしかった。イースト・ヴィレッジの白昼の大通りで、中年の女性が映画
『ウォリァーズ』に出てくるような少年愚連隊にハンドバッグをひったくられるのを
みたこともある。ワシントン・スクウェァでアジ演説をやっていた男にいきなり二人
の男がっめより、一人の男が手にしていたビールビソで演説の男の額を割り、その男
が地面に昏倒する現場にもいあわせた。夜のバワリーを歩いていると、頭上から故意
に投げられたらしいビールビソが足元近くで粉々にくだけるということもあったが、
この程度はこの街ではジョークのたぐいであるかもしれたい。
おそらく、この街で意外性の度合が強い原因の一つは、狭い空間のなかにさまざま
な人間が住んでいることだろう。全体が単一文化で均質的な社会なら、起こりうるこ
との意外性の幅はさほど大きくはならない。が、マンハッタンの場合、旅行老や移民
も含めて、さまざまな社会的・文化的背景をもった人々がいるため、誰一人意図しな
くてもささいなことでディスコミュニケーションや誤解が生じる可能性は少なからず
ある。その意味では経済においても政治においても文化においても、満場一致で事が
はこぶよりも競合と相剋のなかで事が進むのが、ニューヨーク・ウェイであると言え
よう。
このような社会は、一見、政治的にも経済的にも非常に末世的た状況に陥っている
ようにみえるかもしれない。たしかに、社会の緊張、経済の不況をシステムそのもの
の危機とみなす従来の考え方からすれば、矛盾が矛盾のまま存在しているニューヨー
クは、支配と管理からはずれた危機的な社会だということになるだろう。しかし、今
日のアメリカの社会・経済システムは、とりわけ六〇年代以降、大きな再編成をとげ、
現存する文化や社会を枯渇させずにそのまま長生きさせるためには、社会や文化のシ
ステムを一次元的に均等化してしまうよりも、多様性や矛盾を適当に温存した方がよ
いということをシステムの構造自身が習得するに至った。それゆえ、日常的レベルで
起こる集団的な相剋や暴動は、極端に言えば、社会そのものに対する人々のストレス
を一次的に忘却させる機能をはたし、また、忘れた頃に起きる子供の失践事件や凶悪
犯罪は、他人に対する不信感を人々のなかによみがえらせ、人々が反社会的に連帯す
るのをコントロールし、支配に好都合な適度の孤立をつくり出すのに役立ちもする。
それにしても、民族性も文化的差異も政治的相剋も犯罪も、すべての多様性が管理
と支配に役立ってしまう社会とは、まさにリヴァイアサン以外の何物でもたいだろう
し、そのような特質をそなえた街は、しばし見物するにはおもしろいとしても、なが
く生活するにはひどくシソドィかもしれない。少なくとも、ニューヨークを”おもし
ろい”と思っていられる者は、決してこの街の底辺で暮していないことだげはたしか
である。
むろん、わたし自身、ニューヨークの底辺で暮したなどという自信はなく、むしろ
こうした意外性や矛盾をながめてそこに”おもしろさ”を感じることの方が多いのだ
が、ニューヨークの底辺の一端は、別に特殊なスラムやゲットーに行かなくても、繁
華街のまんなかのホテルでもかいまみることができる。
グリニッチ・ヴィレッジの場合、以前はいくつかあったホテルが年々店じまいをし
アパートメント・ビルに改築されたりして、いまでは、ワシントン・スクウェァに面
した安ホテル”アール”ぐらいしか、ぶりの客に対応できるホテルはなくたってしま
った。しかし、このホテルに、われわれが通常〃ホテル”とい2言葉でイメージする
ものを求めるならば、失望かショックを余儀なくされるだろう。たしかに料金は安い。
バス・ルーム共用の部屋なら、普通のホテルの一泊分ぐらいの料金で一週間泊まれる。
が、その建物は老朽化しているうえに手入れがゆきとどいておらず、内部のすさまじ
さはこれでも客商売かと言いたくなるほどで、換気のわるい狭い廊下には炊事の残臭
と汗くさい体臭のいりまじった空気がただよい、あきらかに大部屋を仕切って作った
その部屋の天井の壁は、プラスターがはげてしみだらけになっている。っくりっげの
洋服タソスの戸はゆがんで閉まらず、ひき出しのなかにはゴミクズやゴキブリの死骸
がいくっもころがっている。窓のロックはすでにこわれて久しく、隣の部屋から壁づ
たいにしのびこもうと思えば造作はない。
このようなすさまじさは、このホテルにかぎったわけではなく、ニューヨークの安
ホテルはみな全部泊ってみたわげではないがこんな状態にあるようだ。そも
そも、ニューヨークの安ホテルというのは、旅行者用の宿泊所であるよりも、むしろ
失業者や被生活保護者や収入の不安定な者たちの住まいになっている。以前、〃アー
ル〃で、もう八年もそこに住んでいるという黒人の女に出会ったが、彼女は、まだ二
十代なのにアル中の”更正〃者で、市から毎月二五〇ドルばかりの生活保護を受けて
いた。働けるとわかれば保護は打ち切りになるし、働こうと思っても職はありそうに
なく、結局一番安易なこの生活を続けているのだと言っていた。このホテルには、こ
のような被生活保護者のほか、男娼、娼婦、見世物師、プロの乞食なども住んでいる。
決して明るいとは言えないにせよ、場所がらか、まだまだ救いのあるこのホテルの
雰囲気にくらべて、イースト23ストリートの安ホテル”ケソモァ〃ともなると、そこ
には絶望と死のにおいがふんぷんとしている。陰気な廊下、ゴキブリのはいずりまわ
る流れのわるい流し、カギのこわれた窓、一週間に一度しかとりかえないシーツ、こ
れらは”アール〃とさほどのちがいはないが、”ケンモア”のロビーやエレベーター
で出会う老人たちのうちひしがれた姿は、”アール’などではほとんどみられないも
のだった。ここには、老人の居住者が実に多く、しかも彼や彼女らは、みるからにみ
な病んでいる。簡単なたべものを買ってきたのだろう、松葉づえをにぎった不自由な
手で紙袋をささえたがらやっとエレベーターにのりこむ老人、目やにのたまった目で
ロビーでうっろに外をながめている顔色の悪い老婆、アウシュヴィッツのガス室のよ
うだ共同のバス・ルームで下痢をしながらうめいている老人……。気のせいか、洋服
タソスのなかに散乱している毛髪は、みな老人たちのもののように見えた。
このホテルに泊っていた夏のある日、ロビーからシートにくるまれた担架がはこび
出されるのに出会った。警官の姿もあるので、フロントの男に、どうしたのかとたず
ねると、彼は無表情で;胃「サムワソ・イズ・デッド」と答えた。それは、ここにな
がく住んでいた病弱の老婆が死んでいるのを発見されたのだったが、ひと知れず孤独
とくめいかに死んでいった彼女の存在は、ここでは、どうでもよい”サムワソ”として匿名化さ
れてしまうのだった。
ところで一九七八年の秋、”ケンモア”を23ストリートぞいに六ブロックほど西に
行ったところにある”チェルシー’ホテルで、イギリスのバンク・ロック・グルーブ
”セックス・ピストルズ”の前メンバー、シト・ヴィシャスが愛人のナンシー・スバ
ソゲソをナイフで刺し殺す事件が起きた。”チェルシー〃ホテルといえば、四〇年代
にエドガー・リー・マスターズがここに住んで以来、作家や芸術家がよりあっまるホ
テルとなり、五〇年代には、ここに住みついたディラン・トマスやメアリー・マッカ
ーシーの名とともに、ニューヨークのちょっとした名所にたっていた。が、今日では
ここは、わたしも一度泊ってみて驚いたのだが、わずかの部屋をのぞき、ゴキブリの
はいずりまわるうさんくさい部屋が連々とつらなる準スラムとなり、文学史の記述に
夢をいだいてはるばる外国からやってくる客たちを失望させるのみたらず、ここに投
寝する者たちの心を日に日に暗く閉ざしてゆくゲットー空間と化している趣がある。
ヴィシャスは、自分には全く殺意はなく、気がつくとナンシーが朱に染っていたと言
ったが、ひょっとして、彼がナイフで切りはらおうとしたものは、この街にただよう
”匿名化”の魔力であったかもしれない。
”トレフィック”と”テリブル”のあいだ
一年ぶりにニューヨークにもどり、以前に開いた銀行口座の通帳を使って入金しよ
うとしたら、窓口係の女性は、オフィサーのチェックをうけてくれと言った。別に、
アメリカの銀行には一年も口座を使わないでおくと無効になるという規則があるわけ
ではない。その通帳が、盗むか拾うかして得られたものである可能性をテラーがおそ
れたのである。残金は、口座を維持できる最低額の五ドルとそのわずかな利息しか入
っていないのだから、ビクビクするなよと言うのはこちらの理屈で、疑わしきはチェ
ックせよというのが金銭をあつかう老の原則なのであろう。
オフィサー、つまり”上役”は、別の一角に大きな机をかまえてすわっている。彼
や彼女らの机の横にはイスがしっらえてあり、そこに客たちを呼びつけて話をきくわ
けだ。オフィサーは、大きな銀行でも四、五人しかいないから、客たちが列をなして
順番を待たなけれぱならないこともある。そこには、融資の相談に来た客や、口座を
開設してもらったり解約したりする客もいっしょにまじっているので列がなかなか進
まないこともある。といって、日本の銀行のようにソファや週刊誌が用意されている
わけではない。立ったまま静かに待たなげれぼならないのである。
その日は、客を受付けているのは一人のオフィサーだけで、そこに十人ぐらいの列
ができている。「トゥー・ファッキング・スロー」うしろの老人が小声でつぶやくの
がきこえる。「もたもたしやがって」という言い方をもっと口ぎたなく言おうとする
慣用語法だ。が、こんなことを言う人はむしろ少ない。たいていの人は平然と立って
いる。列をつくって待つというのは、ニューヨークでは、芝居の切符の安売窓口でも、
スーパー・マーケットのレジでも、肉屋やデリカテッセンのカウンターでも、日常茶
飯だから、銀行で待たされたからといっても、別に驚きではたく、たとえ人がいらだ
ちをおぼえてもそれが独白を越えることはまずありえない。
実際、その点ではニューヨークの人たちは忍耐づよい。ブリーカー・ストリート二
七八番地にあるピッツァ屋”ジョーンズ〃は、ウッディ・アレンのひいきの店で、彼
の映画『マンハッタン』にも出てくるが、夕方この店のまえに行くと必ず人の列が出
来ている。別にその人たちはウッディ・アレンにサインしてもらうために列をなして
いるのではなく、満席なのでそうやって席のあくのを待っているのである。この店で
は、有名人や常連だからといって特権が与えられるわけではなく(ただし時間ぎめの
電話予約はできる)、列のなかに演劇や美術関係の”有名人〃を発見しても全然驚きで
はない。そのかわり、一旦席が手に入ってしまうと、客たちは、外に何十メートル席
待ちの列ができていようとそんたことにはおかまいなく悠然と自分たちの獲得した
”権利”をエンジョイする。
さて、トラベラーズ・チェックをつくってもらっていたフランス語なまりの英語を
話す老婦人が立ちあがって、やっと番がまわってきた。二十分は待ったが、「どうも
大変お待たせしまして」たどという言葉や恐縮そうな儀礼的身ぶりをオフィサーがあ
らわすはずもない。笑顔でむかえられれぱ最大級の待遇である。だいたい、ニューヨ
ークでは、大企業や銀行のように公的な性格が強まるところほど職員の態度は大きく
なるような気がする。以前、タイムズ・スクウェアの西の総合バス発着所、ポート・
オーソリティにあるグレイハウンドの案内窓口で、そうしたアメリカ的官僚主義の権
化みたいな態度の案内係どことなくキッシンジャーの顔に似ていたに出会っ
たことがある。その傲然たる態度たるや、日本の昔の官庁の役人だってこんな大きな
顔をしてはいなかっただろうと思われるくらいの横柄さに加えて、こちらの質問には、
考えられうる最低限度の答しかしてくれない。その横柄さ、不親切さは、英語のへた
な外国人に対してだけではなく、すぐ前にいたおとなしそうな老人もその被害にあっ
てオロオロしてしまい、全く気の毒だった。
さいわい、「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」と笑顔でわたしをむかえたオフィサー
は実にスウィートな紳士だった。彼は、身分証明書を見せてほしいと言い、窓口で返
された払戻伝票の片すみに身分証明書の番号を記入し、サインをして一件落着。その
問五分とかからなかったが、この伝票をもってまた窓口に行かなければならない。窓
口には新たに長い列ができている。
このような煩雑さは、ニューヨークでは決してめずらしいことではない。ふだんで
も、引出し金額が少し大きくなると(二〇〇ドルぐらいでも)、テラーはオフィサーの
チエックを受けてくれと言うことが多い。両親の名前をきいて、テラーが自分でひか
えのカ-ドと照合するだけの場合もある。が、いずれにせよこれは、わたしの風体が
わるいからではなく、記帳から現金の出し入れまで全部テラーが一人でやるシステム
なので、まちがいが起きて自分に責任がかかってこないためのごくあたりまえの手続
きなのだ。むろん、日本の場合はこんなことはない。印章さえあっていれぼ誰が金を
下ろしに行っても疑われはしまいし、三万円を下ろそうとして身分証明書を見せろな
どと言われることは全くないだろう。日本の銀行の窓口というのは、もう、コソピュ
ーターが普及する以前からいわぼ一つの自動預金支払装置だったのだ。窓口係の背後
には統制のとれた機能別の役割分担があり、窓口で投入された指令は、すみやかにそ
の分業回路に伝達され、システムが一丸となって事務処理を行なうわけである。そこ
には人間対人問のにらみあいが入り込む余地はなく、客はコンピューターを操作して
いるような錯覚におちいりかねない。そういえば、日本の銀行のテラーの笑顔と「い
らっしゃいませ」はまるで機械仕掛のようだ。だから客の方は、もしそのオートマテ
ィックなあいさっに接することができなければ、腹が立っニューヨークのテラー
の態度はそのときに応じて、チャーミングであったり、横柄であったり、とても予測
はつかない。これは、日本の銀行が短期間にシステムをコンピューター化してしまう
ことができたのと無関係ではないだろう。
それかあらぬか、ニューヨークのような大都市でも自動預金支払機はまだ東京ほど
普及してはいない。五、六年まえからシティ・バンクが精力的にコンピューター化を
はかり、いまではマンハッタンの多くの場所で、真夜中でもカード一枚で金を下ろす
ことができるようになったが、一日中故障したままにたっているところがあったり、
二十四時間営業という宣伝文句とはうらはらに、土曜の午後にははやくも”現金切
れ”のサィソが出てしまって使えなかったりすることもある。こういうことは、何も
銀行にかぎったことではなく、郵便局の自動切手販売機もよく故障している。その際、
金を入れて切手が出てこないとしても、誰も責任をとってはくれないだろう。第一、
誰が機械の責任者であるかがわからないうえに、金を入れたという証拠を示すのがむ
ずかしい。もっとも、係員のいないランドロマート(コィソランドリー)でコィソを
入れたが洗濯乾燥機が全然作動しないことがあり、壁の掲示に、「トラブルがあれば
下記に電話せよ」と書いであったので電話してみると、数日後、一五セントの切手を
はった封筒に三五セントを入れて送ってきたことがあった。
機械でも人問でも、判で押したようなぐあいにはゆかないのがニューヨークであり、
そのために人は、大なり小なり”演劇的〃にふるまわざるをえなくなる。ニューヨー
カーは、一方でこの街に魅力を見出して”トレフィック”(terrific-最高だ)と言
い、他方でこの街を呪って”テリブル”(terrible-ひどい)とそしる。が、この街
の”劇”は、”トレフィック”と”テリブル”とのあいだでおこる。
クレイジー・ニューヨーク
『フー・ニーズ・ドーナッツ?』(ドーナッツなんかいらないよ)を読んで以来少なか
らず関心をよせてきたマーク・アラン・スタマティに電話でインタビューを申しこん
だとき、いきなり、「ネコを飼ってますかP」と聞かれて一瞬とまどった。彼が言う
には、自分のアパートは手狭でちらかっているのでわたしのアバートヘ出向きたいが
ネコがいるとまずいというのである。彼はネコ・アレルギーで、ネコに近づくと、い
や、ネコが近づくと喘息の発作を起すのだという。
それは全く意外なことだった。というのも、彼の絵本には『フー・二-ズ・ドーナ
ッツ』にも七六年刊行の『ミ二一・マロニーとマカロニ』にもしばしばネコが姿をあ
らわし、パイプでリボンを煙のようにくゆらせているネコは、彼のイラストのトレー
ドマークのようにもみえたからである。
意外といえば、彼の絵本はその物語もイラストも意外性にみちあふれている。たと
えば、『ドーナッツ』は、ドーナッツを集めることが何より好きなサム少年の物語で
ある。彼はある日、ドーナッツを集めるために三輪車にのってマンハッタンに出かけ
る。そして、街角で知りあったドーナッツ集めのおじさんの手伝いをして思う存分ド
ーナッツを集める。が、ある日、コーヒー店に狂った黒牛があぼれこみ、コーヒー・
タンクを檸猛な角で突き破ってしまったので、地下室に住んでいる乞食の老婆が流れ
こんだコーヒーに溺れそうになる。そこでサムは、それまでためこんだドーナッツを
地下室に投げこみ、コーヒーを吸いとり、老婆を助ける。「大切なドーナッツを?」
と老婆が言う。が、サムは「ドーナッツなんかより愛の方が大切だってことがわかっ
たんだよ」と言い、ふたたび三輪車にのって自分の町ニュージャージーのエルベ
ロソがモデルだというに帰ってゆく。
以前、マンハッタンの大通りを黒人少年がグレイハウンドの超大型バスを猛スピー
ドでのりまわして大騒ぎになった事件があったが、一見他愛もない、あるいは現実に
はありえぬ寓話にすぎないかのようなサム少年の話もニューヨークという、並はずれ
たグロテスクのなかに意外な健康さが、抑えがたい狂気のなかにしたたかな理性が、
救いがたい悲惨さのなかに明るいオプティミズムが混在するアソビヴァレソトなコン
テキストのなかにおかれると不思議なリアリティを獲得する。たしかに、ニューヨー
クの街には、麻薬をのんでラリっている者もいれば、バスの座席で両耳をしっかりお
さえてふるえているような精神異常者もいる。が、ニューヨークの〃クレイジーさ”
は、必ずしもこうした病的異常性にっきるわけではなく、むしろ、人によっては、
”演劇的”とより適切に言う、ある種のユーモアをもった意外性を意味している。実
際、ニューヨークの街はこうした演劇的な意外性にみちあふれているのであって、た
とえば、サーカスの芸人かどうかは知らぬが、自動車のブソブソ走り回る大通りを一
輪車で走りぬけたり、フットボールの選手風の若者が雑踏のなかをたくみにボールを
あやっりながらスキップしていったり、いまでは惰性の同義語となっているはずの日
常性のなかに、ここでは新鮮な、しかもユーモアに富んだドラマがある。まさに、ワ
ールド・トレイド・センターの超高層ビルをザイルで登った男がいたように、こうい
うことがあってこそニューヨークであって、予測のつく出来事だけのノッベリした日
常性なぞ全然ニューヨークらしくたい。
では、いったいたぜこの街はこのような意外性を許容できるのか?それはあらゆ
る管理体制が他の街より緩やかだからだろうか?それもあるだろう。オフ・オフの
劇場には、およそ日本の消防法では許可にならないと思われるほど”危険”な建物が
あるし、歩行者の信号無視を警官がとがめるのを目にするのは、至難に近い。ウッデ
イ・アレンの『アニー・ホール』に、恋人を追ってロスに行ったアレンが無免許で車
を運転して交通事故を起こすと、すぐさま警官のオートバイが来て彼を訊間し逮捕す
るシーンがあったが、ここでは、恋人をニューヨークに連れもどそうとして乗せぬ主
人公の心のモダモダがスラップスティック調で描かれているだけでなく、ロサンゼル
ス市のオルガナイスされた管理体制がニューヨーカーの目で郡楡されてもいる。
数年前口ソドソに行ったとき、たまたまピカデリー・サーカスの地下鉄駅で捕物が
あったのに出っくわしたのだが、パトカーの来るのが早いこと!しかも数分のあい
だに駅前の交通がマヒしてしまうほどあとからあとからバトヵーがやってきた。その
パトカーから私服や制服の警官が歩道の柵を軽業師のように飛び越えて駅の階段に吸
いこまれてゆく様は、それは単に雰囲気の類似性にすぎぬが、ブレヒトの『三文オペ
ラ』で警官がヒ首メッキーを追いかげてゆくシーンをほうふっさせた。東京の警察な
どもロソドソにおとらずオルガナィズされているのだろうが、ロソドソや東京のよう
な管理のゆきとどいた街では、演劇的な意外性の起こる余地はあまりたかろう。意外
な出来事があるとしてもそれは、非人間的な悲惨な事件であって(むろんニューヨー
クにもそれはあるが)、ユーモアのある人間劇の生じる余地は少ない。
スタマティによれば、この本のイラストを通じて「ニューヨークを変革できないに
しても、この街の狼雑さと悲惨さ、そしてそれにもかかわらずそれらのなかに残って
いる希望と夢を直視させようとした」と言う。それにしても、このような絵本が児童
書として出版され、しかも児童絵本の賞をも獲得したことは、やはりニューヨークの
ユニークさと言わねばなるまい。『ミ二一・マロニー』や『ぼくのカバはどこへ行っ
た?』(一九七七年)では、グロテスクなタッチやイメージは姿を消しているが、それ
は物語の舞台をニューヨークではなく、彼が幼年時代をすごしたニュージャージーの
町をえらんでいるからであり、”クレイジーな人々への関心”や、ボルヘスの「日常
性は永遠である」という言葉を愛するという彼の信条は、ここでも一貫して失われて
いない。
一九七六年だったか、まだクレイジーな寒さの続くある日、わたしのアバートヘや
ってきた彼はオーバーとマフラーをとり、セーターを二枚ないでから彼の最近の仕事
を大きなヵバソのなかから次々ととり出してみせてくれたが、そこにはイラストレー
ター、物語作家としての才能とともに、風刺作家としての鏡い才能をも見出すことが
できた。ギリシア系の父、スタンリー・スタマティ、ユダヤ系の母、クレア・ギー・
カストナーがともにマンガ家で、早くからめぐまれた芸術的環境に育ったが、そのな
かで彼が最も強烈な影響をうけた画家はゲオルク・グロッスだったという。
彼は、マクデューガル・ストリートの小さなアパートメントに住んでいる。”完全
主義者”の彼は、創案を軌道にのせるまでに多大の時間をかけ、大いに悩む。ヴィレ
ッジ・ボイスに毎週コミックスをかいていた頃も、シメキリまえの深夜には決まって、
同じ建物に住む女友達のジャッキーのところにやってきて、”かけたい、かけない!”
を連発したという。日本でジャッキーから受けとった手紙には、「マークが狂ってし
まいました。信じられる?あのマークがこのごろは夜に寝て朝起きるのよ」という
一文があったが、同じころマークから届いた便りには、「少しニューヨークを逃げ出
したい。ぽくはいま、自然が恋しくてしようがない」と書かれていた。
彼には、一面で、そうした自然への憧僚があり、『ドーナッツ』のような狼雑な街
のイメージよりも、動物たちが自然とたわむれる世界のイメージを描く方が好きで、
『ドーナッツ』の調子で描いてくれという注文はかりくるのにはうんざりすると空言
っていた。が、彼の絵は、彼がどんなに都会を離脱しようとしても、必ずどこかに都
会の要素を含んでおり、そしてその要素のために鋭さを保持しているのである。とり
わけ、彼の本領は、マンハッタンの街頭に題材をとるとき、最もブリリアントに発揮
される。次べージに転載した”クレイジー・ドロウイソグ〃は、日本の雑誌『グラフ
ィケーション』(80年12月号)のために描かれたものだが、彼がこれまで色々なところ
で発表した街の”絵”のうちでも最もニューヨークの特質を描き出しているように思う。
このクレイジー.ドロウイソグにみえるカツラ屋は、スタマティ自身の注記による
と、14ストリートの一角にある店だが、この絵では具体的な場所はあまり重要ではな
い。それは、シックス・アヴェニューの34ストリート付近にあるカツラ屋でも一向に
かまわない。それゆえ、このカツラ屋のイメージは、この街における顔(パーソナリ
ティ)の多様性と交換可能性のようなことを示唆している、とみてもよいだろう。
街頭のおびただしい顔は、どれ一つとして同じものはないが、胴体との必然的なっ
たがりを示しているものはごくわずかで、どの顔をどの胴体にすげかえても通用する。
顔のなかには、透明で他の顔や胴体とかさなりあっているものもある。かさなりあう
ことによってやっと顔の体裁を保っているものすらある。他のものといりまじってい
る顔。決して単独では存在しえない顔。パーソナリティとはもともとそういうもので
あり、”わたし〃は男であり女であり、ホモでありヘテロであり、黒人であり白人で
あり、大人であり子供であり、物であり動物である……のだとしても、ニューヨーク
の街ほどこれらのことを劇的にそして危機的にあらわにしてくれるところはないだろ
う。すべての人格が融けあい、ぶっかりあう街、ここでは”わたし〃は”わたし〃で
はない。
ニューヨーク風俗・ナウ
雪が降る日はニューヨークとしてはあたたかく、すごしやすいのだが、積った雪が
とけると、とくにダウンタウンの場合、歩道と車道のさかい目に水たまりができるの
はかなわない。この水たまりに、ファースト・フードの食べかすやゴミくずがまじり
あい、そこがたちまちドブのようになるので、雪どけの日には、東京ではあまりはか
なくなったゴム長が必要になる。もっとも、数年前から犬の糞を路上に放置すると最
高一〇〇ドルの罰金を課せられる法律が実施されたので、以前のように靴にまとわり
っく粘着性の異物を気にしながら雪どけ道を歩く度合はややうすらいだそのかわ
り、犬をつれて歩く人は、新聞紙やビニール袋をもって犬の尻を追いかけなげれぱな
らなくなった。
このように、一方では”優美〃さが回復いまのところ全体からみればまだわず
かだがされても、他方では上からの力の強まるといった管理社会に特有の傾向が
ニューヨークでも出てきており、その意味ではニューヨークは、これまでよきにっけ、
あしきにっけ”クレイジー〃だった性格を失いはじめたと言える。悪名だかき地下鉄
のたかにも落書の自粛をうながすステッヵーがはられ、駅にも、道徳的な注意書をプ
リントした看板がとりっけられた。管理体制が強化されたのは市の施設においてだげ
ではなく、たとえば、校舎と街がいりくんでいてカジュアルな雰囲気をもつ私立のニ
ューヨーク大学の施設のなかにも、喫煙、飲食、ちらかしを禁ずる大学当局の注意書
きが目だつこの頃である。
たしかに、この街のきたなさは、住人たちの自己中心主義的な無責任さと無関心さ
にも一因があろう。ファースト・フードのたべかすやソーダのあきかんを無造作に捨
てる歩行者と、ゴミがとれようがとれまいが、ロード・クリーナーを一定時間ころが
してペイをもらいさえすれぼよいと考えている清掃人夫とがたまたま組みあわされば、
路上はおのずからきたなくもなろう。それに、ある意味で自分を自分でまもってゆか
なげればならないこのアメリカ社会では、他人のことを考えるということは、有閑階
級の”優雅”な趣味か、ソーシャル・ワーカーの”専門的”な仕事としてしか行なわ
れる余地がないといった一面もある。しかし、こうした自己中心主義を他者との連帯
へ方向転換し、下から街を変えてゆこうとするコミュニティ運動などとはちがって、
役所が法律をふりかざしてそれにはずれる部分はオートマティックに排除し、大企業
が”リノベイション”と称して、合法的にスラムをとりこわし、街を一新させるやり
方は、明らかに、もう一っ規模の大きい自己中心主義であって、いささかも問題を解
決したことにはならない。街は、たしかにマディソン・アヴェニュー流に”優美〃に
なりはするだろうが、その”優美〃さは、ユークリッド幾何学と無菌状態を理想とす
る閉ざされたエリート的優美さにすぎないのだ。
ニューヨークではいま、”ジェソトリフィケイション”(紳士階級化?)という言葉
が流行で、かって社会科学老たちが十年後のマンハッタンは貧しい少数民族のスラム
になると予測したのとはうらはらに、街のいたるところで、様々なレベル・アップと
”高級化”が進められている。ビルが無表情にたちならんでいただげの通りに、しゃ
れたブティックやレストラン、画廊、銀行などが進出して雰囲気が一新され、アパー
トメントの”高級化〃も急速に進んだので、かって”クレイジー〃なニューヨークを
きらって郊外へのがれていった金持階級たちがふたたびマンハッタンにもどってきた。
このことは、一昨年に、”高級〃デパートの売上げが倍増し、ブロードウェイの劇場
が二億ドルを上まわる史上最大の収益をあげ、そうした傾向がその後も続いているこ
とにも反映している。が、これは逆に言えば、マンハッタンは徐々に、”中流”以下
の者にはきわめて住みにくいエリアになりっっあるということで、それはすでにはっき
りと、安いアパートメントをみっけにくくなったという現象のなかにもあらわれている。
この結果、上流階級がマンハッタンに戻ってくるのとは逆に、売れない芸術家や貧
しい人々がどんどんこの街から出てゆかざるをえなくなり、”ジェソトリフィケイシ
ョン〃は、実質的に貧民をマンハッタンから外へ追い出す差別的機能をはたしている。
これは、文化的にみた場合、文化の上層部分(普通われわれが”文化”と呼んでいるも
の)にたえず活力を供給する文化の基底部分(”生活文化”や”サブ・カルチャー”的側
面)をますます痩せ細らせ、マンハッタン全体を、ブロードウェイの商業劇場のよう
な、単なる”文化市場〃にしてしまうことに通じる。はたしてニューヨークは、もう
一つのロソドソになってゆくのであろうか?それとも、もうひとまわり大きな”ク
レイジー〃さに向かって転身をとげるのであろうか?
ニューヨーク市のレストランの料理の星もこのごろでは少なくなる一方であり、安
い費用で飽食するということはむずかしくなってきた。レストランの料理だけではな
く、ポピュラリティの点で日本のラーメンに匹敵するピッツァの厚みもやや薄くなっ
てきたようにみえる。また、ヴィレッジではピッツァに次いで人気のあるスブラキ
(ある種のバンのなかに野菜、ローストしたビーフとマトンの薄切りを入れたギリシア風の
サンドウィッチ)は、以前には手にもっと大量にっめこまれた肉の重みでズシリとき
たのが、このごろは、大分軽い感じがする。きっと、一昨年ぐらいまでは値段を幾分
あげるだげで何とか物価・人件費の上昇に対応できたのが、最近は分量をへらしてう
めあわせをっけるという最後の手段に出ざるをえなくなったのだろう。
現に、数日前、一年ぶりにヴィレッジのジェファーソン・マーケットのそばのレス
トランに”スペッシャル・ブレイクファスト”をたべに行ったら、値段だけは一ドル
ニOセントでそれほどあがっていなかったが、以前は、生のオレンジ・ジュース、好
みのスタイル(目玉焼きやスクランブル)に調理した二つの玉子、べーコソまたはソー
セージ、あげたりいためたりしたポテト、バター・トースト、コーヒーまたは紅茶の
組みあわせだったのが、べーコソもソーセージもっかなくなっていた。店によっては
いまだに一ドルで”スペッシャル・ブレイクファスト”を出している店もあるが、べ
ーコソやソーセージはむろんのこと、オレンジ・ジュースやポテトを省いて中身を薄
くする工夫をこらしているようだ。
もっとも、こうした傾向は、アメリカ人にとって必ずしもわるいことではない。も
のが豊富なアメリカでは、人々は大人も子供も実によくたべる。たべものの容量も日
本やヨーロッバにくらべて大きく、水がわりに飲まれるコーラからして、四〇セント
程度で買える普通サイズ缶が三五五mlで、これをヨチョチ歩きの幼児までがストロー
をつっこんで飲んでいる。六五セントのアイスクリームでも、大人のこぶし以上の大
きさがあり、健康食と銘うったヨーグルトの最小サイズにしてからが、その容量は二
五〇グラムもある。レストランの食事の一人前の量はおして知るべしだ。
こんな調子でものをたべていれぱ、栄養のバランスがくずれない方がおかしく、た
えず神経質に健康にこころがけていなけれぱたちまち肥満してしまうであろう。ニュ
ーヨーカーが小まめにテニスや水泳やランニングをするのは、身体をきたえるためと
いうよりも、むしろ摂取しすぎたエネルギーを消費するためなのである。むろんニュ
ーヨーカーとてそんなことは百も承知であり、だからこそ、コーラも砂糖を使わぬダ
イエット・タイプの方に切りかえたり、植物食や低カロリーが売物の日本料理に関心
を向けたりするわけだが、なにせ、大量生産品と肉、ポテト、油、砂糖などの悪魔的
な食品が安い(ステーキ用の牛肉が一〇〇グラムで七〇セント内外)ため、普通のアメリ
カ人は、たえず栄養のアンバランスと運動不足への強迫観念になやまされながら、皮
肉にも、必要以上のエネルギーを摂取せざるをえないのである。
しかしながら、こうした傾向は、ニューヨークの物質生活がきびしくなったために
行きづまってきたことも事実だ。ニューヨーカーは大なり小なり、物質的過剰と浪費、
飽食と肥満の悪循環をくりかえしてきたこれまでのアメリカ的生活様式を根底から改
めざるをえないところにきているともいえる。事実、アメリカ的生活様式への訣別は
すでにいたるところではじまっており、暖房をガソガソたいて、真冬でも室内ではT
シャツ一枚ているとか、高い天井とゆったりしたスペースをそたえたアパートをもっ
といったことは、ニューヨークではもはや特権階級のゼイタクになってきた。新しく
建っビルのアパートメントはみな天井が低く、壁も薄く、間どりも狭くるしい。それ
ゆえ、人々の生活はおのずから他人を以前よりはるかに気づかうものとたる。
住居が狭くなったためであろうか、二、三年まえまでは少なかったヨーロッバ・ス
タイルの喫茶店がいくつも出来、コーヒー一杯でながながとおしゃべりをする客でに
ぎわっている。そこで出るコーヒーは、アメリカン・スタイルの味のうすいその
かわり何杯でものめるーコーヒーではなく、エスプレッソやカフェ・オレ、ウイソ
ナー、カプチーノたどで、その意味ではニューヨーカーの嗜好もはるかに繊細になっ
てきたと言える。ビールなども、このごろは、大味のアメリカン・ビールの人気が頭
うちで、オランダのハイネッヶソやドイツのベック、日本のキリンなどを好む者がふ
えているようだ。
が、その点で最も顕著なのは、近年急速に進んだワインの普及ぶりだ。このごろ、
ニューヨークのどこの酒屋に行ってもウインドウには多種多様な各国のワインがなら
んでいるのを目にする。クーパー・ユニオンの近くの”アストァ”という酒屋などは、
一昨年、店を拡大し、一〇〇坪以上もある巨大なフロアーの中央を全部ワインのセク
ションにした。むろん需要があるからそうしたわげで、店内はいつも、ショッピン
グ・カ-トにワィソの壕を山積した客でにぎわっている。
バリー・ターシスの『”平均的アメリカ人”の本』(一九七九年)によると、ワイン
の消費率は、この十年問で二倍半以上に急上昇したという。それかあらぬか、ボブ・
フォッシーの映画『オール・サット・ジャズ』をみたら、ボブ自身をモデルにしたア
ル中気味のタソスの振付師(ロイ・シェィダー)は、ウイスキーではなく、白ワイン
をがぶのみしていた。このようなシーンは、ひと昔まえであれぼ、ワインでなく、ウ
ィスキーやバーボンをぐいぐいあおるというシーンになったはずである。現に、時代
を六〇年代に設定した『ローズ』では、アル中の歌手(ベット・ミトラー)は、アル
ボーグというウォッカ級の強い酒をがぶのみしていた。いずれにせよ、ニューヨーカ
ーが強い酒よりもワインを好んでのむようになってきていることはたしかであり、か
の有名な”マンハッタン”カクテルも、当地ではあまり人気がない。
この変化はまた、ニューヨークないしはアメリカの都市における”マチョ”(家父
長的男性)文化の終焉とフェミニズムの台頭という傾向と無関係ではないように思わ
れる。現に、いつもは骨っぽいロイ・シェイダーも、この映画ではスウィートな一人
のフェミニストを演じようとしていた。いうまでもなく、マチコ文化の終焉は、伝統
的な家族の終焉でもある。そのためかあらぬか、近年ニューヨークでは、”ストゥデ
ィオ〃という小さなワソ・ルームのアパートメントが大変流行している。改築や新築
されたアパートメント・ビルの間どりをみても、あきらかに、ベッド・ルーム付のア
パートメントよりも”ストゥディオ〃形式のアパートメントの方に比重がおかれてい
るのがわかる。これは、ますます高くなる建築費や冷暖房費をうかせるために、寝室
と居間の仕切りをとりはらい、限られたスペースを合理的に使うためということもあ
ろうが、理由は決してそれだけではない。そもそも”ストゥディオ〃に住むのは、主
として一人者か、いっもいっしょにいるのがまだ苦痛でないカップルかであって、子
供のいる夫婦が”ストゥディオ〃に住むのはまれである。ということは、”ストゥデ
ィオ・アパートメント〃の増加の背景には、結婚しない女や男、子供をもたない夫婦、
子供をもてないカップル、つまりホモやレズビアンのカップル、の増加ということが
一つあるように思われる。
”ストゥディオ”は、また、結婚をやめた女や男、つまり離婚や別居をした夫婦の一
方が一時的であれ恒久的であれ住む空間として利用される率も少なくないだろう。実
際、離婚する人の数は相当なもので、いずれ再婚するにせよ、母一人、子一人で暮し
ている親子もかなりいる。ヴィレッジの公立小学校の三年に在学する子供をもつ友人
が、あるときこんな話をした。「うちの子が、”ぽくのうちにはどうしておとうさんと
おかあさんが一緒に住んでるの?”って言うんですよ。どうお思いになる?」三十何
人かいるその子のクラスで、実の両親と暮している子供の数は六分の一であり、あと
は母親の再婚先に住んで週末を実の父親の所ですごす子供、母親か父親と二人で生活
している子供、祖父母の家庭にあずげられている子供だという。そのため、母親の再
婚先に住んでいても、子供は実の父親の姓を名のっていて、母親と姓がちがうという
やっかいたことも日常茶飯である。そして、そういう子供のバースデイ・パーティに
は、実の両親と、義理の父親ないしは母親とが顔をあわせて、和気あいあいとやって
いるというのだから驚く。こうした傾向は、一面では、血縁のような古い人問関係に
左右されずに、もっと理性的な新しい人間関係をつくり出す可能性をもっているよう
にみえる一方、幼い子供にはきわめてヘビーなフラストレーションを課していること
も事実である。
こうしたフラストレーションがゲイ、つまりホモ・セクシュアルやレズビアンの原
因であるとする説もあるが、ニューヨークやカリフォルニアでは、一面で、ゲイはも
はや例外でも異常でもなく、さまざまなライフ・スタイルのなかの一つの選択の問題
のようにみなされはじめている。すでに多くのゲイ・コミュニティがあるが、マンハ
ッタンではウェスト・ヴィレッジのクリストファー・ストリートが、その名を冠した
ゲイ専門紙が出ているくらい、その方面の風俗センターをなしている。この通りの周
辺のアパートの住人や商店の主人、店員たちにはゲイが多く、集まる人たちもおのず
からゲイで、あたりには独特の雰囲気がただよっている。この通りとセフソス・アヴ
ェニューとが交叉するシェリダン・スクウェァでは、ゲイに対する差別に抗議し、ゲ
イ権を求める集会が開かれる。
しかし、愛と性を男性と女性とのあいだにだけ閉ざしてしまう偏見や性差別がくず
れるのはよいとしても、他面では、同性のあいだの関係をすべてゲイ的な観点からし
かみない通俗的なゲィイズムが助長される傾向もある。現に、ジャバソ・ハウスで高
倉健の主要な映画を何十本も連続上映したとき、このシリーズでヤクザ映画をみたあ
る”進んだ”ニューヨーカーは、こともなげにこう言った。
「ヤクザっていうのはゲイなんでしょ」
まあ、哲学的に考えれはそういえなくもないし、そこにゲイの日本的な集中表現、
ゲイの特殊形態がみられて、おもしろいヤクザ論ができるかもしれないが、いまのと
ころはゲイという概念はまだそれほど包括的な意味をもっていない。それはいまだ性
差別的概念であって、性差別や性関係をこえた人間関係をカバーするにはいたってい
ない。しかも、ゲイの性関係は、多くの場合、男と女の月並な性関係を、そのまま同
性のあいだにあてはめているにすぎず、性的関係としてみても何ら新味がない。ゲイ
の上手なセックスニフィフを教えるというガイド・ブックなどはその最たるもので、
こんなものをゲイたちが買って読み、日夜その実践にはげんでいるとしたら、ニュー
ヨークのゲイ・パワーも大したものではあるまい。
その証拠に、ゲイは、クリストファー・ストリートのウインドウにみるまでもたく、
いまや立派な文化商品であって、たとえば、ロックにかわってポピュラー音楽シーン
を席巻したディスコ・ミュージックにみられるように、はじめはゲイのごく内輪で自
然発生的に流行した好みであったものが、いまでは、ゲイの世界をこえた一般性H商
品性を獲得し、一つの文化風俗を形成している。これは、むろん、ゲイ・パワーの浸
透ではなくて、システムがゲイ的なものをとりこんだ結果である。が、いずれにして
も、今後、一般文化がゲイ文化をとりこみ、とり入れる傾向がますます強くたってく
ることだげはたしかなようだ。
マンハッタン貧乏暮し
マンハッタンで生活する場合、近年一番やっかいなことは、アパートメントさがしに手間どることだろう。むろん金に糸目をつけなければ問題はないが、安くて住みよいアパートメントをみつけるのがひどくむずかしくなってきた。以前だと、新聞の三行広告をくまなく読むだけで希望のアパートメントを手に入れる道筋がついたものだ
が、近年はそう簡単にはいかたくなってきた。依然、ニューヨーク・タイムズやヴィレッジ・ボイスの三行広告欄には、ヴィレッジ、チェルシー、マリー・ヒル、ウェスト・エンド・アヴェニュー、セントラル・バーク・ウェストといった人気のある地域の格安物件が多数載っている。しかしその大半は、周旋業者が客よせに出す架空の物件であって、それをのぞくと実のあるものは百分の一もなく、それらを手に入れるのは宝くじをあてる以上にむずかしい。
たとえば、火曜の夜十時頃シェリダン・スクウェァの新聞スタンドで売り出されるヴィレッジ・ボイスか、毎夜タイムズ・スクウェアで手に入る翌日付のニューヨーク.タイムズを早々と買ってきて、周旋業者が載せているおびただしい架空物件を全部オミットし、個人か管理会社が直接出している物件をいくつかマークしたとする。会社なら始業時間に、個人だったら何時でもためらうことなくただちに所定のダイヤルをまわす。が、驚くなかれ、その物件は大半がすでに先約済のはずだ。さもなければ、本当に幸運と言うべきだが、もし午後に電話して先約のない物件があったとしたら、それはどこかに欠陥のある物件と思ってまちがいない。
このごろマンハッタンでは、アパートメント・ビルの改築や新築がさかんだが、その結果は、月最低七〇〇ドルはするデラックスなアパートメントがふえるぱかりで、庶民には手がとどかない。その一方、かっての安くてよいアパートメントが無責任な貸手と借手に手荒く使われて急速にスラム化する傾向もさかんで、中間がなくて両極
端のみが肥大化するニューヨークらしい分裂状態のなかで、安くて住みよい中問的なアパートメントの数は減少の一途をたどっている。簡単に手に入るのは、ぜいたくなアパートメントか廃墟のようなあばら屋であり、その意味ではニューヨークは、大金持と貧民だけの街になりたがっているかのようだ。高級なアパートメントのぜいたくさが天国なら安いアパートメントのひどさはまさに地獄であって、トイレなどは、腰を下ろしたら尻が腐ってしまうのではないかと思われるほどの強烈さだ。
こういう現状を考えれば、そもそもいまのマンハッタンにうまい物件などそうざらにあるわけではなく、周旋業者が新聞に出す甘い広告がインチキなものであることがすぐにわかるはずだが、そういう業者が年々ふえているところをみるとひっかかる者もあとをたたないのだろう。こちらの周旋業のシステムは、大きくわげて二つある。一つは、最初に手数料を四〇~一〇〇ドルとり、一ケ月間毎日新しい物件情報を与えるというシステム。もう一つは、はじめに手数料はとらず、随時情報を与え、客が物件を気にいって契約するときに家賃の一年分の一〇~一五パーセントを礼金としてとるというやや日本に似たシステムである。が、日本とちがう点は、ここで言う周旋業者は単なる情報提供者であって、契約に責任をもたないばかりか契約には一切タッチせず、契約は客が自分で家主や管理会社のところに出向いて直接やらなけれぼならないことだろう。そのため、先のシステムでは、ろくな物件が出ないうちに一ヵ月がすぎ、手数料をタダどりされることもある。また、後のシステムでは、気にいった物件がみつかり、周旋屋に”礼金”を支払い、半分決まったようなつもりで管理会社へ契
約をしに行ったら、別の情報ルートから来た先客にその物件を流したあとで話がこじれることも少なくない。
そういうわけで最近では、とくに時間と体力に余裕のある若者のあいだでは、周旋業者の出す広告は一切相手にせず、アパートメントのあるビルを一軒一軒たずねて歩くとか、行きずりの人や日向ぼっこをしている老人、レストラン、雑貨屋、新聞スタンドなどのおやじやおぼさんをつかまえて情報を得るとかいう直接的な方法が流行しつつある。マンハッタンのなかでも一番アパートメントをみつけにくいヴィレッジが若者の街でもあるのは、こんだ事情とも無関係ではなかろう。とても中・老年になっては、うまくいって一ケ月はかかるアパートメントさがしの苦業をつづける暇も体力もないからである。
若者は、また、体力にものをいわせてみっけたアパートメントを”シェアー”(一種の間貸し)し、家賃をセーブする――日本でこんなことをしたら即刻家主に追い出されるだろう。新聞の三行広告欄をみると、こうした”シェアー”の広告がたくさん出ている。「二十九歳の女性。円熟した男性との”シエァー”を求む・・・」などという思わせぶりなものもあれぼ、「当方左翼。バス、キッチン、用具一式共用可。革新思想の交換歓迎。ただし、性差別をする人、喫煙者お断り・・・」などといううるさい注文もある。シェアー代はもうまちまちで、安いのになると月五〇ドルぐらいからある。
シェアーといえば、日本から来た映画監督のMは、ニューヨーク大学の掲示板で女流画家がロフトをシェアーしたいという広告をみつけ、胸の高なるのをおさえながらそのロフトに行ってみると、ブーツをはいたその金髪の白人女性は、誰もがやるように、ひととおり台所やバス・ルームをみせたあと、「ここがあなたのベッドよ」と言って二段ベッドの上段を指差した。むろん下段は彼女のベッドである。が、もうこの手の女性にはうんざりしている彼は、それでも大いに迷った末、「やっぱり骨までしゃぶられちゃう感じがしてやめた」という。
ここで大急ぎで断っておいた方がよいと思うが、英語で言う"アパートメント"と日本語の"アパート"とは決して同義ではない。日本語で"アパート"というと、「彼は彼女と同じアパートに住んでいる」というふうに使われ、貸間のある建物全体を指すのが普通だが、原語の"アパートメント"は、建物ではなくて、そのなかのひとまとまりの部屋を指す。まあ、こんなことは、普段はどうでもよいことだ。が、これがときにはなかなか深刻な問題を起こすことがある。
たとえば、家賃を払ったのに、管理会社から家賃の督促状がまいこんだりして、あわてて会社に電話をするとする。「ええ、ブリーカー・ストリート88番地の・・・ですが、ちゃんと小切手を送ったのに今日・・・」が、相手は最後までこっちの話をきかすに、「どのアパートメント?」とぶっきらぽうにたたみかけてくる。そんたとき、意味よりも語感に神経質な日本人は、日本的な感覚で言えば "どっちが客だかわからない" 相手の口調にすっかり動転してしまって「いや、だからブリーカー・ストリートの88番地だって言ってるじゃないか!」たどと言ってしまいかねない。むろん相手がきいているのは部屋の番号なのだから、相手もいらだって、「だからね、どのアパートメントかって言ってるんだよ!」と声が大きくなる。日本語の"アパート"が建物のことを指すなど相手が知るよしもない。翻訳語のニュアンスが生む笑えぬ悲喜劇で
ある。
そのアパートメントは、大きく分けて"ファーニッシド"と"アンファーニッシド"の二つに分かれる。が、この"ファーニッシド"がまたくせもので、これを単に"家具付" という風に受けとると誤解をまねきかねない。というのは、日本語で "家具"というと、タンスやベッドやソファーのような主として居と住のための家財道具を指すが、"ファーニッシド・アパートメント"には、ベッドやソファーだけでなく、テレビ、ステレオ、さらには皿やナイフ、フォークなどの食器までふくまれるからだ。むろんそこには、物件によって段階があって、きわめて大ざっぱな"ファーニッシド"もあるが、"コンプリート・ファーニッシド"となると、壁の絵はむろんのこと、シーツやバスタオルまで完備している場合もある。こうなるとホテルとのちがいもたくなるが、値段もホテルなみ、あるいはそれ以上となる。
"ファーニッシド・アパートメント"で比較的格安なのは、貸手が旅行などでアパートメントを一定期問あげるので、それを他人に又貸しする"サブレット"だろう。これは、短いもので一カ月、長いもので一年以上のものもあるので、貸手と借手の条件が合いさえすれば、実に合理的なシステムのようにみえる。が、折しもマンハッタンは住宅難である。サブレットの競争率たるや、もはやスゴイなどというものではない。ところが、以前、二日も経った新聞にうまい条件のサブレットをみつけたので半ば期待を捨てて電話すると、まだ空いているという返事。早速出かけていってみたら、その美しい貸手嬢は開口一番「あなたはネコお好き?」ときた。このサブレットはネコ付だったのである。似たような例で、安いサブレットをみつけたが、観葉植物の世話が条件についていて、それを甘くみたため枯らしてしまい、損害賠償をとられてさんざんな目にあったという話もある。
ニューヨークで安く暮すには、結局、"アンファーニッシド・アパートメント"をみつけて、自分で家財道具をそろえるしかなくなるわけだが、問題はそのそろえ方だ。電話一本で何でもそろえてくれる家具、いや家財道具のレンタル業もあるが、最高に安い所をさがし、ベッド、ソファー、スタンド、食卓セット、それにジュータンといった最少限度の家具を借りるだけでも一年契約で月七〇ドルはとられる。全額では八四〇ドルというわけである。これは、論外だ。ただし"アンファーニッシド"といっても、普通、冷蔵庫とガス台(レンジとオーブン)はそなえ付で、湯と水、暖房は無料で供給されるはずだから、寝袋とキャンプ用の調理セットでもあれば、一応の生活はできる。実際に、アパートメントに手ぶらで入居してきて、だんだんに家財道具をそろえる着実派も少なくない。
彼や彼女らが家具類を安くそろえるやり方は、むろん一概には言えないが、いかにもニューヨークらしいやり方としては、屋内調達と屋外調達との二つがある。前者は、同じアパートメント・ビル内で、転居する人などから不用になった家具類をゆずりうけることであり、後者は、大量消費社会のおこぼれとして路上に捨てられたゴミのなかから必要なものを調達することである。前者は、比較的大きなビルで、入居、転居の人の出入りが多くないとそのチャンスも少ないが、後者は、探す手間と運ぶ手間さえいとわなけれぼ、この大量消費社会では大いなるチャンスにめぐまれている。毎日どこかのゴミ"市場"には必ず掘出し物が出るが、それらはあっという問に姿を消す。むろん、それらを運び去るのは清掃人夫ではない。
わたし自身に関して言えば、ホテル、シェアー、ルーミング・ハウス(一種の西洋風下宿屋)と遍歴をくりかえした末、最後には安い"アンファーニッシド・アパートメント"に落着いたのだったが、半年ほど住んだチェルシーのルーミング・ハウスは、ちょっと特異な居住空間だった。ヴィレッジ・ボイスの三行広告でみっけたそのルーミング.ハウスには、住人が共同で使う居間(テレビや新聞がある)、台所(冷蔵庫、食器、ガス台、オーブン、その他の炊事道具付)、バス・ルーム(兼トイレ)のほかに、毎日食バンと生卵が台所においてあって、誰でも自由に利用できるのだった。むろん冬は暖房が入り、電気、湯、水は部屋代に入っている。しかもそのレソトが月だったの一二〇ドル。
何となく"施療院"を思わせるこのルーミング・ハウスは、あとでわかったのだが、もとは一種の療養所であった。ランド・レディ(家主)のリビー・ライアンは、第二次大戦中従軍看護婦として活躍したたくましい大柄の白人女性で、大戦後、ユーゴスラヴィアのアル中の権威ウラジミール・フドリン博士の思想に心酔し、ウエスト20ストリート、三四八番地の自分のアパー-トメソト・ビルをビーア・ハウス・アネックスと名づけ、アル中から"更生"中の金のない知識人などにもうけなしの家賃で開放したのだった。わたしが入った頃にはもうそうしたアル中の"施療院"としての表看板は歴史のなかに消えつつあったが、その筋にはちゃんと情報が流れているのか、そんなことは全然知らずに入居したわたしを含めて八人いた間借人のうち、六人がアル中の"前科"をもっていたのだった。
このルーミング・ハウスで、わたしは色々なハップニソグに出遭ったが、そのうち最も"劇的"だったのは、火事事件であった。その日、午前四時ごろ床につくまえ、水道管を相当量の水が流れ続ける音をきいた。大方、だれかがシャワーをあびているか、浴槽に湯をためているのだろうと思ったが、それにしてもながすぎるという気はしていた。論理的に考えれば、その音は水道管の音であって、温水管の音ではないのだから(まだ水ぶろに入るには寒すぎる)どこかで相当量の冷水が使われていることがわかるはずだが、そこまでは頭がまわらなかった。まして、その多くはペンキで塗りこめられているスプリンクラーの一つが開き、水が流れていたとは。
が、床について小一時間もしないうち、「火事だ!」と誰かがドアをたたく音をきいたとき、まっ先に思ったことは、ああ、ジムがヘマをやったなということだった。四階にかけあがってみると、はたして火事は彼の部屋からで、ドアーから白い煙がものすごい勢いで吹き出している。彼はまだ部屋のたかにいるらしいのだが、煙の奥はまっ暗であり、近くにいるだけで息がっまりそうになり、話もなかには入れたい。隣室のビルが、中にむかって「ジム!ジム!出てくるんだ!」と金切声をあげるが何の応答もない。ジムはもうだめなのだろうと誰もが思った。(が、彼自身は、煙にノドをやられただけで、奇跡的に助かった-その日も睡眠剤をのみすぎて、火事のあいだ中スプリンクラーの"シャワー"をあびながら夢の世界に遊んでいたのがかえってよかったのかもしれない。)
ジムことジェイムズ・スカイラーが、W・H・オーデンにも激賞されたニューヨーク派の詩人であることは、この事件の少しまえに彼から二冊の詩集『クリスタル.リチウム』(一九七〇年)と『人生への賛歌』(一九七二年)を贈られるまで知らなかった。彼が詩を書くことは知っていたが、顔を会わせて話しかけても呂律がまわらなかったり、夜中に廊下を素裸で歩いたり、口のまわりにアイス・クリームをベタベタにっけたまま外を歩いていたりする白痴ぶりの方が目につき、彼の仕事にまでは関心が向かわなかった。彼がむかし何であったかはいざしらず、すでに人生の舞台からは下りているという感じがした。
しかし、ときとして明晰な意識の彼と顔を会わせる回数を重ねるにつれて、彼の痴態は鎮静剤や睡眠剤によるものであり、いわばラリっているのであることがわかった。第二次世界大戦のヨーロッバ戦線ですっかり神経をやられて帰還したジム.スカイラ一は、その後の半生を強度の不安神経症に悩まされながら生きなげれぼならなかったのである。
最近の彼が、はた目でそれとわかるほど多量の薬物をのみ、火の始末の点でもひじょうに危険な状態にあることは、アパートの住人の誰もが知っていたし、家主はくりかえし本人に病院へ入ることをすすめていた。彼が共同の台所のガスの火をっげっぱなしにしたり階段に灰皿の灰をばらまいたことは一度や二度ではない。だから、彼が早晩寝タバコで火事を起こすのではないかということは誰しもの心底にあることだった。一体なぜ誰かが勇断に出なかったのか、と言われるかもしれない。が、どんな痴呆ぶりを発揮するにせよ、身のまわりのことを一人でやっている一個の人格に対して何かを強制する権利が誰にあろう? そして彼にはかかりっけのプライベート・ドクターもいたのである。
とはいえ、火がすべて消え、あちこちからの水のしたたりもおさまったころ、急をきいて出先からとび帰ってきた家主リビーに向かって、長年収集したポスターをぬらされてしまったビルは、「あんたは社会奉仕をやってるわけじゃないんでしょう?! だったら、もっと早くジムに出てもらうとか何とかすべきだったんだ!」とくってかかった。ビルの見幕は訴訟も辞さないほどの怒り様だったが、訴訟ということになればその責任は、適正な判断を迅速に下さなかったプライベート・ドクターにあるということになるようである。
それにしても不思議でならないのは、出火に気づいてから消防車がくるまでにはかなりの時間があったのに、女性たちはもちろんのこと、屈強た男性たちですら誰一人として(ビルが安物のテレビとラジオをかかえて出たのは別にして)現金ぐらいしか外にもって出なかったことである。出火した部屋の真下に住むブルースは、天井から水が落ちてきて目がさめたのだったが、彼にしてからが、「ああ、原稿も本も水びたしだなあ」と言いながら腕組みして外に立っていたのだった。
芸人をつくる街
まだ道路に氷がはるまえのあたたかなある日、ワシントン・スクウェァ・ヴィレッ
ジのアパートメント・ビルのまえを通りかかると、小学三、四年生の男の子がダンボ
ール箱のうえにどれもみな使いふるしの本やおもちゃ、文具などをならべて売ってい
るのに出会った。一見したところ、商売繁盛という感じはなかったが、その子の話で
は、何日かかげて全部売りつくすという。彼や彼女らはなかなかねばり強く、仲間と
交替で長時間"店"をはり、"客"をっかむらしい。
ウェスト・サードとトンプソン・ストリートの角で、学生風の若い男が、ジャケッ
トのすり切れたレコードを三枚だけ手にもって立っている。むろんそれらを売るため
である。が、レコード自体はどこにでもころがっていそうなポピュラー・ソングの盤
で、誰も購買欲をそそられそうにない。だが、二十分後にふたたびそこを通りかかる
と、彼の手からは一枚のレコードが消えていた。
レキシントン・アヴェニュー・ラィンの地下鉄のなかで、風態いやしからぬ黒人の
男が、いきなり、古物のコーモリガサをふりあげて「フィフティ・セソッ!フィフ
ティ・セソツ!」と叫びはじめた。一瞬、またアル中かヤク中がフラストレーション
を解消するためにわめいているのかと思ったが、男の表情や身ぶりにはヤク中やアル
中の雰囲気はない。大声を出しているのも、地下鉄の騒音がものすごいからであって、
別に情動にまかせてわめいているのではなさそうだ。が、意外なことになれているは
ずのニューヨーカーも、このときぼかりはみなあっけにとられた様子で、誰一人とし
て反応を示そうとはせず、くだんの黒人紳士はコーモリガサを手にしたままむなしく
次の車靹に移っていった。
ブロードウェイの劇場街、45ストリートのゴールデン・シアターで、リリァソ・ヘ
ルマンの『ウォッチ・オン・ザニフイソ』をみて、幕間に外の空気を吸いに劇場の歩
道に出ると、尾羽打ち枯してはいるが、ブリティッシ・エァウェーズの広告に出てく
るような"英国紳士"のフィーリングをただよわせた長身の男が、まるめた新聞紙を
ふりながら演説をはじめたところだった。ロソドソなまりを強調してしゃべるその演
説の調子はなかなか熱烈で、たちまち彼をとりまく人垣ができたが、その内容たるや、
大英帝国の凋落を単に過去形で憂える、ひどく大時代的なおそまっなしろものだ。そ
れかあらぬか、男が「大英帝国万歳!」をとなえ、おもむろに新聞紙を半開きにして
手扇のようにし、喜捨を乞いはじめたとき、人々のあいだから潮実的な笑い声がおこ
った。その潮笑は、アメリカで英国礼賛をとなえることに対する反感から発したとい
うよりも、むしろ、"真筆"なアジ演説と思っていたものが単なるみせものだったこ
とに対する失望と、大道芸にしてはおそまっすぎるという批判を同時にあらわしてい
るように感じられた。とはいえ、新聞紙を胸元にっき出されて、しぶしぶ一〇セント、
二五セント硬貨を差出す人もおり、五分たらずの"興行"でその"英国紳士"はビー
ル一杯分ぐらいのヵソバにありっけた。
ニューヨークにはこのように、まだまだ街の"芸人"たちが芸を競う余地があり、
天気のよい日曜日ともなると街の広場や公園にはちょっとした祭の雰囲気がただよう。
日曜のワシントン・スクウェアには、もっと本格的な芸人-一輪車乗り、手品、綱
わたりをみせるハーポ・マルクス的風貌のサーカス芸人とか、芸はうまくないがかけ
あい万歳的なやりとりがおもしろい二人組のジャグラー、トランペット吹き、素人の
ジャズ・バンド、ポータブル・アンプをもちこんだロック歌手等々、多数の大道芸人
たちが集まり、その芸を披露する。それは何も広い公園にはかぎらない。無関係な音
楽のたっているポータブル・ラジオを胸にいだきながらアリアを本格的に歌う老ソフ
ラノ歌手とか、何度注意してみてもその仕掛がわからない不思議な手製の楽器を伴奏
にサビのある声をきかせるソウル歌手などはヴィレッジの街頭の名物的存在だ。この
ほかにも多種多様の個性ある街の芸人たちがいるが、これに、ゲオルグ・グロッスが
「歌う物乞い」で描いているような"芸人"たちまで含めたら枚挙にいとまがないだ
ろう。おまけに、こうした街の芸術家たちのぺ-ジェソトに通行人が飛入りして大変
な芸を披露することもあるのだから大道芸の規模には際限がないかのようだ。
ニューヨークの大道芸は、六〇年代末期から急速にはやり出し、今日では、天気さ
えよければヴィレッジやタイムズ・スクウエァ、ロックフェラー・センターやワール
ド・トレイド・センターのビジネス地区、はてはソホーのウェスト・ブロードウェイ
のあたりまで、人の集まるところにはほとんど必ず大道芸人がいるといって空言いす
ぎではない。数だけでなく芸の種類も多様で、手品、ジャグル、腹話術、マリオネッ
ト、ジャズ、ウェスタン、民族音楽、バロック、現代音楽等あらゆるタイプの音楽演
奏、タップ・タソス、パントマイム、仮面劇、犬を何頭も使ったサーカスなみの曲芸
(これを繁華街の一角でやる!)といったぐあいで、マンハッタンの大道芸をひととお
りみるにはひと月ぐらいはかかりそうだ。それらの芸の質は、伝統的な大道芸のもつ
スコ味や洗練さはなく、むしろ素人芸に近い(事実、音楽演奏やジャグルの芸人には、
大学生が多い)が、逆にそれだからこそ、こうした素人芸を媒介にしてっかの問、ひ
じょうになごやかな庶民的解放空間が出現しもするのである。その意味で、ニューヨ
ークの大道芸は、芸を売るのではなく、むしろ芸のみせ方、ものの与え方を売るので
あり、芸自体は、使いふるしのおもちゃやレコード、古びたコーモリガサやあやしげ
な演説のように廃物同然のものでも一向にさしっかえないのである。が、こうしてみ
ると、ニューヨークの街では、子供から大人までみた"大道芸人"の潜在的素質をも
っているようにも思えてくる。
こうした素質は、ニューヨークの街の管理制度とも無関係ではない。というのも、
ニューヨークでは、路上で見世物をひらいても罰金やショバ代を払わされることはな
いからである。ときどき、ストリート・ミュージッシャンが警官に注意されて立去る
こともあるが、そんなときには観客がさわいで大変だ。警官はひどい悪者にされてし
まう。が、これは、ふだんは警官がお目こぽししているというわけではなくて、自分
のアパートメントの真下で音楽を演奏されてたまらなくなった住人が警官を呼んだよ
うな場合だ。
路上で芸を披露することは、それが住民の権利を犯さないかぎり違法にはならない。
しかし、これがアクセッサリーや小間物の販売となると事情がちがってくる。この方
は許可がいる。とすると、街の芸人が客から金をうけとるのはどういうことになるの
だろう?
芸人の一人にこのことをたずねてみると意外な答えがかえってきた。路上で芸をす
るのは、市民が路上で遊んだり立話しをしたりするのと同じ、公共的な場に対する市
民の権利に属しており、また、金をうげとるのは、相手がくれるからであって、見世
物料として徴収しているわげではないというのである。なるほど、そういえば、芸人
たちの"賓銭箱"には"ドーネイシヨソズ"や"コントリビューシヨソズ"つまり
"おぼしめし"とあり、決して"見物料……ドル"とは書かれていない。ということ
はすなわち、ニューヨークの大道芸は、芸人たちがみずから楽しむためにそこで芸を
し、見物人たちが自分でそうしたいから"ほどこし"を与えるという表むきのロジッ
クによってなりたっているのである。いわば、これは一種の"なれあい"であり、自
然発生的な"街路劇"である。
街路劇といえば、この一、二年、ひじょうに目につく街の風俗に"スリー.カー
ド・モンテ"という街頭バクチがある。これは、明らかにヤクザ風の黒人ディーラー
が、一枚だけ絵札になった三枚のトランプ・カードをありあわせのダンボール箱のう
えにならべ、一度表を見せてから、「ウォッチ・ザ・キング」、「ウェア・ザ・レッド」
といったかけ声とともにすぱやく三枚のカードの位置を何度がおきかえ、最後に、ど
れが絵札かを当てさせるゲームである。ルールがひじょうに単純なので、カードさえ
よくみていれぱ絶対に勝てそうに思えるが、そう簡単にはゆかない。
その実直そうなスペイン系の客が二〇ドル紙幣を右端のカードのうえにおいたとき、
客たちのあいだから舌うちがきこえた。誰の目にもそれが絵札でないことはわかって
いたからである。ディーラーは"おれならそんなドジなことはしないぞ"と思ってい
る人々の反応をただちに読みとり、残りの二枚のうちどちらが絵札であるかを当てれ
ば二〇ドル出そうと言う。すると、観衆の思いを代表するかのような自信を満面にう
かべた毛皮コートの身なりのよい白人の中年女性が歩み出て、二〇ドル紙幣をつかん
だ平手をホソと一枚のカードのうえにいきおいよくおく。なるほど彼女のねらいはみ
ごとあたって、二〇ドルをせしめ、上機嫌で雑踏に姿を消す。客たちは徐々に興奮し
てき、先程から一部始終を熱心にながめていた学生風の男がためらいながら二〇ドル
紙幣を差し出す。一回目は簡単に二〇ドルをもうける。が、二度目に五〇ドルを賭け
て挑戦すると、ほとんど誰の目にもまん中にハートのキングがあるとみえたものがま
んまとはずれ、カードの表はクラブのカス札だ。男は青ざめて「インチキだ!」とデ
ィーラーにくってかかるが、とりあってはくれない。
こんなゲームが十五、六分もっづいた頃、突然、誰かが「ポリース!」とどなる。
するとカードをあやつっていたディーラーはカードもダンボール箱も残したまま、驚
くべき素早さで横に二、三歩跳びのき、今度は素知らぬ顔でゆっくりと人ごみにまぎ
れ込んでしまう。あとには、何が起ったかわけのわからぬ審と、うち捨てられた"道
具一式"が残っているだけである。
ニューヨークの街頭で警察の目をぬすんで行なわれている"軽犯罪"のうちで、
"スリー・カード・モンテ"は、マリワナの販売や売春などよりもはるかに元手をか
けない点でも逃げ足の早さの点でも群を抜いている。といって、それはすぐにわ
かったのだが"オペレーター"の単なる技量の問題ではない。あのディーラーが
姿を消したデラソシー・ストリートの東側に三ブロックほど歩いていったとき、靴屋
のウインドウのまえでその男の姿をみつけた。彼は、何と、あのドジなっもられ男、
毛皮コートのあの中年女、まだ十八、九にしかみえない短髪のスペイン系黒人青年、
それと白い背広を着たヤクザ風の黒人といっしょに談笑し、ドル紙幣をやりとりして
いるではたいか。何のことはない。やはりあれは、集団的に仕組まれ、演出された
"街路劇"だったのである。
このイカサマ・バクチが"スリー・カード・モンテ"と呼ばれ、百年以上の歴史が
あることはあとで知ったのだが、いまニューヨークではやっているものは、一人のデ
ィーラー、二人のサクラ、一人ないし二人の見張役で構成されているらしい。お定ま
りの筋書きは、一人のサクラがドジをやり、客たちにゲームの安易さを暗示したあと
で、もう一人のサクラがそれを確証してみせ、地方から出張でやってきたビジネス・
マゾなどをカモにして荒カセギをする。開拓時代の西部では、このバクチは重罪にな
っていたようだが、今日のニューヨークでは、一〇〇ドル以内の罰金を課されるにす
ぎない。が、ディーラーたちにとって、見張役は、捕まらなげれぼそれにこしたこと
がないというからだけでなく、警官の存在を否定的媒介にしてこのバクチの"違犯"
性をかきたて、ゲームに緊迫感を与えるためにも重要である。そこで見張役は、この
ゲームの人だかりから少しはなれたところになに気なく立ち、警官の姿に目を凝らす
というわけである。
しかし、警官の姿を見て逃げ出した賭博師が、数ブロック先の路上でもうげの分配
をやっているというのは、いかにもニューヨークらしい。ニューヨークでは、パトロ
ール・カーにもたれてのんびりコーヒーを飲んでいる警官の数メートル先で、マリワ
ナやコカインの売人が商売しているというのは日常茶飯事だが、警官のかのセル
ピコを激怒させた"無責任"な態度は、"違反の領域"を体制内化している社会
ではむしろ"必要"な要素であって、こうしたルーズさのおかげで"芸人"たちはこ
の街で生きのびることがでぎるのである。
この街に浮浪者や乞食が多いのもそのためだろうか?とくに、ダウンタウンのバ
ワリー周辺は、もう今世紀のはじめごろから浮浪者や乞食たちのたまりとして有名で、
昼間からドヤのまえにたむろして酒やバクチにふけっている老、酒屋のまえで通行人
に小銭をせがむアル中、交叉点に待機していて、一時停止する車にかけよってボロで
フロント・ガラスをふき、"報酬"をもらおうとする者などがあとをたたず、深夜に
このあたりを歩くと、まだそう寒くない季節には、ビルの入口や路地のゴミの山のな
かで浮浪者たちが寝ている姿をいたるところで目にする。バワリーにかぎらず、グラ
ンド・セントラル駅やポート・オーソリティ・バスターミナルのあたり、というより
マンハッタンの繁華街のいたるところに浮浪者や乞食がおり、一般人とはちがう"ラ
イフ・スタイル"を実践している。
英語で"バム"、"ヴェイグラント"とか、最近復活した語で"ドリフター"と呼ば
れるこうした一群の人々のライフ・スタイルは、大ざっぽに言って、孤独た浮浪に徹
するタイプと、もの乞いに専念するタイプがいるようだ。前者には、ボロ着をまとっ
て地下鉄駅の構内や人通りの少ない路地にねころんでいる"ヴェイグラント"や、身
のまわりの品を一切合財ショッピング・バッグ(ときには乳母車やショッピング.カー
ト)にっめこんで放浪してあるく"ショッピング・バッグ・レディ"も含まれるが、
彼や彼女らのライフ・スタイルはきわめて隠者的であり、極度の個別行動をとるので
そのくわしい生態はわかりにくい。なかには、相当の財産をもちたがら、一見経済的
には貧しくみえるその種の放浪生活に身をまかせている者もいるらしい。
これに対して、もの乞いに専念しているタイプの"バム"たちは、その職業柄、不
可避的に一般人に近づかなげればならないので、そのライフ・スタイルの一端は、わ
れわれにも開かれている。その社会的身ぶりは実に多様で、鈴をならすとか空ヵソを
たたくとか、毎日さまった身ぶり、きまった場所でもの乞いをする謹厳実直型、地下
鉄のなかで乗客の一人一人にもっともらしい趣意書(自分が働かずに人から金をもらう
ことの正当性が書いてある)をみせて、ヵソパをつのる論理派、わざと幼い子供をっれ
たり、大きなトランク(中身は軽そう)をもったりして通行人の同情を買おうとする
メロドラマ派、このごろではスプレー式のクレンザーまで用意して車のフロント・ガ
ラスをふき(実際はふくまねをするだげ)金を要求するバワリー名物型、人をみるや片
っぱしから声をかけるオートメーションスタイル(なぜか若くて身なりのよいのが多
い)、電話代やバス代がないのでといった口実をつけて小銭をせびる(そのくせ、いっ
も同じ場所で"仕事"をしている)小ペテン師タイプ等々、枚挙にいとまがない。
が、こうした一見多様な社会的身ぶりにもかかわらず、彼や彼女らは、アルコール
中毒という共通したライフ・スタイルを背負っていることが多い。そのため、毎日実
直にこの"仕事"をやっていれば、この街で何とか生きてゆけるだげの収入にありっ
げそうにみえながら、一ドルたらずの金が集まるとすぐ酒屋にとびこみ、安いポー
ト・ワイン(なぜかこれが多い)を買ってガブガブ胃に流しこみ、そのまま路上でし
ばし郁鄭の夢をむさぼり、やがてモルグノに運ばれる日まで、このプロセスを毎日無限
にくりかえす絶望的な乞食も少なくない。いずれにしても、程度の差はあれ、乞食た
ちがアルコールにかける費用は"所得"の大部分を占め、また、拾った古着や靴を売
るとかして臨時収入を得ても、路上のビソゴばくちにうっっをぬかして金をすってし
まい、たとえどんなに収入があっても極貧の生活をせざるをえないということになる
ようだ。
こうして結果的にいつも金がない彼や彼女らに手をさしのべる市や民間(教会関係
が多い)の救済施設もあって、その利用者は相当の数にのぼる。イースト・ハウスト
ンのある施設では、日がわりのメニューで簡単な食事を無料提供しているが、毎日、
時間になるとその施設のまえにはどこからともなく集まってくる、ちょっと一般人と
は風態のちがう人々の列ができ、あたりにはブレヒトの『三文オペラ』の一シーンの
ような雰囲気がただよう。しかし、こういう施設は、彼や彼女らの三度の食事を提供
できるほどの余裕はないので、彼や彼女らの日常生活は、極度にきびしい生存競争と
ならざるをえない。ニューヨークの浮浪者や乞食のなかには、真夏でも上着やオーバ
ーを四重、五重にかさね着しているのがよくいるが、ひょっとすると、これは自分の
"財産"を仲間から奪いとられない最上の方法なのかもしれたい。酒をくらってねて
いる乞食が、"同業者"に衣類をはぎとられている光景は、それほどめずらしいもの
ではないからである。
バワリーをはじめとするこうした"貧民街"は、"ニューヨークの暗い部分"を描
こうとする記事や映像では、必ずといってよいくらいひきあいに出されるが、バワリ
ーの浮浪者は決して、よく言われるようなアメリカ経済の破綻の結果でも、ニューヨ
ーク市の福祉政策の失敗の結果でもない。浮浪者がバワリーに集まるのは、むしろ、
バワリーには市や民間の救済施設があるうえに、そこが繁華街に近く、交通の便もよ
いため、乞食"商売"には好都合の場所だからである。また、バワリーは、十九世紀
以来"貧民街"としてとおっており、そうした都市の記憶が浮浪者たちにある種の
"自由"と"特権"を許容していることも見のがせない。
その意味では、バワリーは貧民街というよりも、乞食プロフェッショナルの街であ
り、悲惨の街というよりも、"悲惨"という劇の街なのだ。以前、バワリーの写真を
とりたいという人をつれて、ブリーカー・ストリートからバワリーに入り、ロック・
クラブ"CBGB"のまえを通ってハウストン・ストリートの方へ歩いてゆくと、た
き火をしていた浮浪者の一人が近づいてきて、「ダソナら、新聞杜の人でしょう?
めぐんでくれりゃあ、おのぞみのポーズをとりやすよ」というようなことを言って、
汚れた手を差し出した。
"キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?"
スーパー・マーケットのレジの所で、小学生ぐらいの子供をっれた東洋人の客にレ
ジの係が話しかけた。どうやら、レジを打ち間違えたのでレシートの金額と請求金額
とがあわないが了解してくれと言っているらしかった。が、この東洋人の女性は英語
を解せぬらしく、困った様子で立ちすくんでいる。するとレジ嬢は、かたわらの子供
に向って早口の英語をくりかえし、「ママに通訳しなさい」と言った。が、驚いたこ
とに、その子は即座に母親に何事かをささやき、母親の顔に笑みがうかんだ。
ニューヨークには、全く英語を解せぬ人々がたくさん住んでいるが、その子供たち
は親とは無関係に英語を流暢にあやっることがごくあたりまえらしいのである。この
ことは、"先天的に外国語に弱い"といわれている日本人の場合も例外ではなく、家
族でやってきて一、二年もすれば、親の方は全然だめたとしても、子供の方は容易に
日常語を解せるようになる。これは、"先天的に外国語に弱い"というよりも、ほと
んど"先天的"に外国語ないしは外国人コンプレックスをもっている日本人にとって、
一見、未来が開かれたかのごとき、よいことずくめのように思われるかもしれない。
が、当事者にとってはちょっと事情がちがうようだ。
あるとき日本人の家庭で、親子が英語でぼかりしゃべっているのをみて怪諾に思っ
たことがある。その家族は五年ほどまえにニューヨークにやってきた。親たちの英語
はそれほどなめらかなものではない。にもかかわらず、この親たちはいっしょうけん
めい英語で子供に対応している。ずいぶん教育熱心なことだな…そんなにまでして
アメリカ人になりきりたいのだろうか……それとも、上流階級を気どって家庭の言語
をフランス語にしている日本人一家がいたそうだが、これもその日なのか?と
ころが、だんだんわかったのだが、ここには聞くも涙の物語がかくされていた。
その親たちは、はじめ、小学一年生と幼稚園児の子供たちが日毎に英語をおぽえて
ゆくのをみて痛快であった。親の知らない言いまわしや巷の言葉を外から家庭にもち
帰る子供たちの吸収力に驚きながらも、大いに満足して、いっしょになって日常会話
を英語でやったりしていた。ところが、そんなことが二年ほど続いたある日、彼らは、
自分の子供たちが二人でしゃべるときには、全く日本語を使わず、英語でばかりしゃ
べっていることに気づいて樗然とした。が、すべてはあとの祭で、この頃から子供た
ちの日本語力は急速におとろえ、親たちの日本語を耳では解せるが、書くことはむろ
んのこと、しゃべる力の方も失われていった。そして遂に、親が日本語で話しかける
と、子供たちからは英語の答がかえってくるという奇妙塗言語関係が親子のあいだに
出来あがってしまった。これは、考えてみると、実におそろしいことではなかろう
か?
「まあ、わたしらのようにアメリカで生活することを選んでしまった者の場合、いつ
までも子供たちに日本語をおしっげるわげにはゆきませんからね。どこかで日本語を
袖にしなけりゃならないところが出てくるわけです。しかし、それがこういう有無を
言わせぬ形でくるとは想像しなかったですね」とその父親は語り、盃のゲッケイヵソ
を一気にのみほした。
一説によると、日本人は外国語を習得するのに大変時間がかかるが、日本語を忘れ
るのは世界一はやい民族だという。しかし、アメリカに住みついた外国人の次の世代
が母語をあっさり失ってしまうのは、何も日本人にかぎられたわげではたく、ヨー
ロッバ人でも東洋人でも、大差がたいように思われる。このことは、自分たちの文化
的伝統を保持する点で卓越した能力と忍耐力をもつ東ヨーロッパ系のユダヤ人移民の
場合でも例外ではなく、彼らの言語であるイーディッシ語は、移民の三世にとっては
もはや外国語と化している。まさしく言語は、ハイデッガーが言ったように「存在の
家」であって、一旦その「家」に入ってしまうとタダでは出てこれ、ないものなのだ。
それゆえ、子供たちの方は、失われゆく"伝統"を気づかう親たちとは別に、「存
在の家」にとびこみ、そこに住みっいてしまう。しかしながら、日本にくらべれば
"遊び学校"みたいなこちらの小学校に通わせているだけでは日本に帰ってからとて
もあの"進学戦争"に勝ち残れないという短期滞在の親の心配を一身に背負って、日
本語教室や学習塾通いをさせられている子供たちも少なくない。彼らにとって言語は、
「存在の家」ではなく、単なる"語学"(言語的知識)の箱にすぎないかのように。
*
ヴィレッジのブレンターノ書店の店先で足をとめ、ウインドウにならべられた新刊
書に目をやっていると、いきなり横あいから声をかけられた。
「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」
みると、そこに、緊張した面持の日本人風の青年が立っている。瞬間、わたしは答
にっまり、"イエス"と言うべきか、"ハイ"と言うべきかを大急ぎで熟考した末、
「ええ、まあ」と答える。が、そのとたん、この東洋人はパッと目を輝かし、「ああ、
よかった!」と相好をくずした。
「全然英語が通じなくて困っちゃって……」
「いついらしたんですか」
「ゆうべケネディ空港に着いたんです。今日はじめてホテルから出たんですよ。ヴィ
レッジとソーホーへ行こうと思って……」
「どこにお泊りですか」
「プラザ・ホテルです」
「へえ!高いでしょう、あそこは。一泊一〇〇ドルぐらいするんじゃないです
か~」
「いえ、もうちょっと……」
「すごいですね、何かお仕事で・…:」
「デザィンの方をやってまして、服装デザィソなんですげどね。このごろは、流行は
みんなニューヨークが本場なんですよ。ヘヤー・スタイルだってバリじゃなくてニュ
ーヨークなんですねえ。こちらにはながいんですか」
「五年まえから出たり入ったりしてます。今回はもう二年ぐらいになりますか……」
「じゃあ、日本でいまニューヨーク・ブームたのは知らたいでしょう。すごいですよ。
若者の雑誌なんかたいていニューヨークの写真をのっけてます」
「そうらしいですね。そういうニュースはわりあい伝わってきてね、このあいだも日
本からわざわざ『ポパイ』って雑誌をもってきてくれた人がいました。驚きましたよ。
ヴィレッジとソホーのしゃれた店をのきなみカラーでのせてるじゃないですか。それ
でね、実物を見た感想はどうですかってその人にきいたら、来るまえに『ポバィ』の
グラビアでひととおり見てきちゃったから新鮮味がありませんねえって。そんなもん
ですかね?あっ、こんなところで立話もなんだから、歩きながらしゃべりません
か」
「あのう、申しわけないんですけど、そのまえに……、ちょっと……、どこか食べる
ところないでしょうか?まだゆうべから何も食べてなくて……」
「え?!プラザの近所にはずいぶんレストランもあるでしょう」
「それが……今朝、入るには入ったんですが、ウェイトレスは走りまわっているだけ
で全然注文をとりにこないんです」
「プラザのレストランでですか」
「いえ、わりあい近くの…、コーヒー・ショップって書いてある……」
「ああ、そうか。スベッシャル・ブレイクファストの時間だったんですよ。朝のコー
ヒー・ショップはすごく混みますからね。勤めに行く人が朝メシを食いに行くんです。
一、ニドルでかなりの量のものを食べられますから便利ですげどね。……じゃあ、と
にかくどこかで何か食べないと……。何がいいですか」
「どこか日本料理の店はないでしょうか?ソーホーはこの近くですか?・ロバタっ
て所がいいってきいたんですが、知ってますか」
「高いですよ、あそこは」
「いやあ、少しぜいたくしないと神経がまいっちゃうから」
かくてわれわれは、ワシントン・スクウェァをっきぬけ、ラガーディア・プレイス、
ウエスト・ブロードウェイをスプリング・ストリートまで下り、ウースター・ストリ
ートの角の目ざす日本料理店に入った。デザイナー氏は、テンプラのフル・コースを
とり、メシを二杯おかわりした。
「おたくはお茶だけでいいんですか?何でも好きなもの取って下さい。今日はぽく
がおごりますから」
ゆうめし
「いや、あいにく食べたばかりで。ご心配なく。いずれ夕飯でもいっしょに食べまし
ょう。ソホーは、どこか特にいらっしゃりたいところでもあるんですか」
「はっきり言いますと、ぼくがニューヨークヘ来た目的は、ネタを仕入れるためなん
です。まあ、仕入れるというより盗むって言った方がいいかもしれませんが……。ピ
ンとくるものがあったら予算のゆるすかぎり現物で買いこんで、あとは写真をとった
り、スケッチしたりするつもりです」
「デザィソの盗用とかでひっかかりはしないんですか」
「そこんところはねえ、ハハハ、こっちもプロですから」
「そういうもんですか……。ええと、そろそろ出ましょうか」
「あのお、五〇〇ドル紙幣でとってくれるでしょうか」
「ええ引会計を五〇〇ドルで引そりゃ無理ですよ。それしか現金はないんです
か」
「実はゆうべ空港からタクシーにのったら五〇ドルかかっちゃって……。あんまり小
銭を用意してこなかったもんで……。さっきも実はマクドナルドにも行ってみたんで
すが、五〇〇ドルじゃとれないって言われて・…:」
「そりゃそうですよ。ぽくなんか五〇〇ドル紙幣なんてものを手にしたことがないも
の。ちょっと見せてくれませんか、記念に」
「それが……、腹巻のなかに……」
「オォ・マイ・グットネス!それにしてもJFKから五〇ドルとはひどいですねえ。
メーターはみなかったんですか?!メーターは倒さないで行くからそのかわり普通よ
り安くするなんて言ってべらぽうな額を請求するクモ助タクシーがよくいるんですよ、
あそこには」
「乗ったら何とか言ってましたが、よくわからなくって、降りるとき、"ハウ・マッ
チ"ってきいたら、"フィフティ"って言ったんです」
「フィフティーンのまちがいじゃないんですか?!しっかりしてくださいよ。とにか
く、ここはぽくがたてかえときます。銀行に行って両替するんですね。すぐ近くにあ
りますから、案内しますよ」
日本料理は、ニューヨークでは、中国料理やイタリア料理にくらべてかなり割高で
ある。デザイナー氏の"朝食"は、ディップ(チップ)を入れて二〇ドル近くかかっ
た。昨夜ディナーをたべなかったとしても少しかけすぎではないか?一種のトラン
キライザー代わりというわげか。が、昨日JFKからはじめてマンハッタンにやって
きたにしては、彼の身なりの感覚がいやにニューヨーク的ではないか?そうか、彼
は服装デザイナーだったた……。ところで彼は何をしているのか・トイレに行くと
言っていたから、きっと腹巻から五〇〇ドル紙幣を出しているのだろう。しかし、そ
れにしても遅い。
かわりに金を払い、しばらくレジの所で待っていたが彼の姿があらわれないので、
心配になってトイレに行ってみる。しかし、彼の姿はそこにもない。外に出てしまっ
たのだろうか?が、外にも、Tシャツにジーンズ、小指に指輪をはめたあの男の姿
はみえなかった。南の方角には、ウースター・ストリートにそってはるかかなたにカ
ナル・ストリートの車の流れがみえる。人通りはなく、数ブロック先の倉庫の前で労
働者が荷物の積みおろしをやっている。スプリング・ストリートにそって歩いている
人影のなかにはあの東洋人の姿はない。そのときになってわたしはすべてを悟った。
"潔癖文化"をこえて
ウッディ・アレンの映画『マンハッタン』は、アレンの抱負によると、「マンハッ
タンにおける現代人の生活にっいてのわたし自身のフィーリング」を映像化しようと
したというのだが、ロードショウの初日にかけっけてみて、大いに失望した。最大の
不満は、そこからマンハッタンのイキでよごれた雰囲気がいささかも伝わってこず、
あえて白黒フィルムを使っているにもかかわらず、すべての風物は観光絵ハガキのな
かのマンハッタンのように小ぎれいすぎたからである。が、考えてみるとこの映画は、
マンハッタンといってもアップダウンの高級住宅地区に住むミドル・クラス・インテ
リの目からながめられたかぎりでのマンハッタンとその住人たちの日常を『アニー・
ホール』の二番煎じ的なタッチで物語っているにすぎないのであって、そこにダゥソ
タウソの庶民的な獲雑さを求めることは、それ自体無理なのである。
しかし、アップダウンが狼雑でないといっても、それはあくまで程度の差であって、
マンハッタンの一般的特徴は、やはりある種のよごれにあるように思われる。建物の
歴史的なよごれもさることながら、ちょっと見には"公衆道徳"の欠如とみえるかも
しれぬ人々の無頓着きが生みだす街のよごれは、アップダウンの場合、ときにダウン
タウンのある地区にみられるような文字通りの不潔さにまでエスカレートすることは
ないにしても、それが殺菌された清潔さにまで清められることは決してないのである。
よごれに対するニューヨーカーのこうした"無頓着"さは、おそらく、さまざまな
文化的・社会的背景をもつ住人でごったがえしているこの街の多元性や流動性と無関
係ではないはずだが、その際、そうした住人の幾パーセントかを占めている日本人に
とって、この"無頓着"さがかなり異質なものであることはたしかなようだ。東京か
らはじめてニューヨークに足をふみ入れた日本人は、建物の歴史的なよごれには魅力
を感じても、ゴミや空ヵソがちらぱった路上には驚かされる。また、食料品店でも、
店の人が札やコインをつかんだ手で菓子やサンドウィッチをつかむことに抵抗を感じ
るかもしれない。地下鉄やバスのつり皮をつかみ、いわば乱交的に何人かの手をにぎ
ったあとで昼めしを食いにレストランに入り、そのままサンドウィッチをつかむとき、
おしぼりがほしくなる日本人もいるだろう。しかし、ニューヨークには、日本料理店
にでも行かぬかぎりそんなものはないし、よほど手がよごれているのでもなげれば、
レストランでものを食べるまえに手を洗う人はいない。たしかに、この点では、日本
人はあまりに潔癖である。
おもしろいことに、ニューヨークに住んでいる日本人は、ほとんど例外なく外はき
と内ばきを区別し、室内ではスリッパをはいている。むかし小学校で、「外国では歩
道がきれいに掃除されているので部屋のなかへも靴のままで上がるのです」というも
っともらしい説明をきいたことがあるが、この"きれいに掃除されている"とはいえ
たいニューヨークの歩道を歩くニューヨーカーたちの大多数が靴のまま室内に入るの
をみると、そんな合理的な説明はあやしくなる。たしかに、ニューヨーカーも室内ば
きをはかないわけではたい。しかし、彼や彼女らが室内ばきをはくのは、外を歩いて
きた靴をきたながってそうするのではなくて、むしろ足をしめつける靴の束縛からの
がれるためであるようにみえる。
ひょっとすると、世界の社会・文化圏のなかでも日本人の"きれい好き"というの
は大変特殊なものなのかもしれない。少なくともそれは、日本の社会や文化の性格を
他と区別する文化的特徴になっていることはたしかで、たとえば"内と外""身内と.
余所者"、"ホンネとタテマエ""義理と人情"といった近代日本の社会や文化に特有
の論理も、身体に対する日本人のこうした特異な"清潔"さと無関係ではないように
思われる。物に対する潔癖さという点では、むしろ非日本人の方が過激であって、現
に、きちんと整頓された室内、ピカピヵにみがきあげられたバス・ルームや台所とい
ったものは、アッパー・ミドル・クラスのアメリカ人のごくあたりまえの生活空間で
あり、彼や彼女らにとっては"適度にちらかった"空間というものはむしろ異質であ
る。だが、自分の身体に対して極度の潔癖さというよりも極度の自己同一性
を要求する姿勢、これは日本の社会や文化のなかでとくに目立っ性格ではなかろう
か?そこでは、身体は精神の単なる延長になってしまうので、自分の身体が物や他
者にかかわっているあいだは一つまり"けがれ"ているあいだは落着かず、そうし
たものから切りはなされて自分にだけナルシシズム的に対置されるときにはじめて安
堵感をおぼえる、というぐあいになる。これは、身体をきわめて閉鎖的・自己中心的
にとりあっかっていることになる。
このことは、日本から長旅してニューヨークについた日本人客の第一希望が、ほと
んど例外なく入浴であることとも関係があるかもしれない。たしかに日本人は風呂に
入るのが好きだ。が、これは単に自分の身体に対する極度の潔癖さという点からだげ
では説明できない。もしそういうことだげなら、飛行機の長旅をしてニューヨークに
ついた日本人は、汗になった身体をシャワーで洗い流せば事だりるはずだが、彼や彼
女らの切望は決してそんな単純なものではなく、たっぷり湯をためた浴槽にゆったり
とつかりたいというぜいたくなものである。もっとも、ホソコソでヘロインの不法所
持の罪に問われ、三年近く牢に入れられていたイギリスの女性が、無実が判明して出
獄したときに新聞記者に言った言葉として、「いま最初にやりたいことは、フロに入
り、髪を洗い、おかあさんに会うことです」というのがティリー・ニューズに大きく
のっていたから、刑務所にしても飛行機にしても閉鎖空間からの解放を自分に納得さ
せる最上の儀式は、入浴なのかもしれない。しかしたがら、西洋式の一般的な風呂は、
浴槽は浅いうえに小さく、身体を洗うのには適していても、たっぷり湯をためてゆっ
たり身体をつけるには向いていない。たとえ浴槽が大きくても、浅いことにはかわり
がないから、湯にゆったりっかるには、あおむけに寝るしかないが、湯が多いと、足
でもっっぱっていないかぎり、腰のあたりが浮きあがってしまって落着かたい。また、
空気が乾燥しているといっても、ニューヨークの平均的たアパートの場合、バス・ル
ームにはたいてい窓がないので、浴槽にゆっくりっかっているのは急ぐるしい。
アメリカ社会で行なわれている入浴様式が日本のそれとくらべてはるかにプラグマ
ティックで、湯に身体をゆったりっける儀式的な目的よりも、身体を洗い流す便利さ
の方に重きをおいていることは、安アパートや安ホテルにゆくとシャワーだけで浴槽
付のバス・ルームが全くない場合がよくあることでもわかる。それは、湯を節約する
ためということもあろうが、それ以上に、入浴に対する意識の根本的なちがいによる
方が大きいと思われる。映画にもよく出てくるように、アメリカ人とて浴槽のなかで
くっろぎを味わわないわげではないが、それはどちらかというと週末のレジャーの部
類に属し、ウィーク・ディはシャワーだげですませる人たちが実に多いようだ。それ
が単に経済的な理由ではない証拠に、一般的に言って、賃貸アパートのお揚代は家賃
に含まれており、事実上使い放題できるのである。
もっとも、湯を使い放題できるのは、アメリカ的入浴法がきわめて簡易なものだか
らかもしれない。もしアメリカ人がみな日本式入浴法を実行しだしたら家主たちはき
っと悲鳴をあげるだろう。現に、イギリスやドィツで、風呂の湯を使いすぎるという
ので家主から文句を言われる日本人の話は数多くある。ヨーロッバでは、アパートだ
けでなくホテルでも日本人の客には警戒しているようで、ヨーロッバを旅行して安ホ
テルに泊まるときは必ず浴槽のゴムセソをもってゆくという用意周到な日本人の男を
知っている。なぜそんたことをはじめたかというと、彼がロソドソで"民宿"にとま
り、毎日浴槽にたっぷり湯をためてあたたまり、身体を洗った湯をとりかえてまた入
りなおすという日本式入浴法を実行に及んでいた所、ある日風呂のゴムセソが忽然と
姿を消した。それはヨーロッパ式の風呂で、シャワーはなく、浴槽しかない。センが
なくては、浴槽にしゃがんでこごえたがら、身体を洗い流すぐらいのことしかできな
い。むろんこれは、宿のおかみさんが、湯の浪費をきらってセンをかくしてしまった
のである。そこで彼は、くやしいから、金物屋でセンを買ってきて翌日からまた日本
式入浴法を再開したという。
ところで、こうした日本式入浴法が、西洋およびアメリカ庶民社会のコンテキスト
のなかで何とも自分勝手なものにみえるのはなぜだろうかpたっぷり湯の入った深
い浴槽にゆったりとっかるという日本式入浴法は、温泉や銭湯などの集団浴場では、
他者との連帯を強め、集団の親和性を高めるうえで、歴史的には、貴重な、ユニーク
な社会・文化装置だった。が、時代の変化とともに、個々の家族が自宅に風呂場を完
備するようになるにっれて、日本式入浴法の機能も大きな変化をとげざるをえなかっ
た。大衆浴場では、浴槽にたっぷりっまった湯は、本来、他者と自分を媒介する社会
的・文化的きずなであり、その湯にゆったりっかることは、連帯の至福感でもあった
わけだが、他者とのつながりを切りはなして、たっぷりした湯と湯のたかのゆったり
さだけを継承した個人・家族風呂では、その湯は入浴している自己のナルシシズム的
延長ないしは家族エゴのマイホーム的延長でしかなく、その湯につかる快感は、全く
自分勝手で自慰的な子供っぽい快感でしかなくなってしまう。こうした傾向は、各家
庭に風呂が普及するとともにますます昂進し、そうした個人・家族風呂の自己中心的
な性格が逆に温泉や銭湯の集団的入浴の様式をも規定するようになってくる。すなわ
ち、せっかく集団で入浴しながら、その集団的入浴は、ライプニッツのモナドのよう
に窓のたい孤立的な個人が勝手にナルシシズムをむさぼる場を作るだけでしかなくな
るわけである。もっとも、これは何も集団浴場についてだけでなく、今日の日本のあ
らゆる集団的な場について空言えることだろう。
一般にニューヨークというと、映画や小説の影響もあってか、マンハッタンのビル
の谷間に人々が窓のないモナドのようにバラバラに孤独な生活をおくっているかのよ
うなイメージが強いようだが、少なくとも近年は大分事情がちがってきている。マン
ハッタンで二戸建ての家というのは少ないから、人々は中高層のビルを細かく仕切っ
たアパートに住むことにたるが、このアパートは映画や小説で強調されるほど人々を
互いに隔絶しているモナド的世界ではなく、むしろ住人たちはしばしばアパート単位
のパーティーを催し、持続的な隣づきあいを大切にし、また、台所や浴室を共用して
いるアパートでは、アパートの住人全体がある種の家族的な集団を形成していること
すらある。セントラル・バークの周辺の一晩一〇〇ドルもとられるホテルは別にして、
短期問の滞在者も含まれているはずのホテルですら、何か共同生活的雰囲気が濃厚で、
エレベーターのなかでのりあわせた投宿者同士が世間話に興じる風景はそれほどめず
らしいものではない。ごく短期の滞在者に対してですら集団の空気はあたたかく、何
年かまえ、ひと月ほどいたミッドタウソのホテルを出るときエレベーターでのりあわ
せた老婆に「よい週末旅行を」と言われて、「ん?!」と思ったことがある。
モナドの窓が開かれているのはアパートや安ホテルのなかだげではなく、マンハッ
タンを碁盤の目のように走る道路に区切られたブロックのなかの住人同士の、ひとま
わり規模の大きい交遊と連帯も近年ますますさかんになりっっある。ブロック単位の
この種の組織は"ブロック・アソジェイション"と呼ばれるが、その直後の起源は第
二次大戦の帰還兵を迎えるために行なわれたブロックごとのパーティーにあるといわ
れている。が、ブロック・アソジェイションが急激にふえ、その活動がアクティブに
なったのは、やはり、社会意識が高揚してきた六〇年代後半からで、その数は今日、
ニューヨーク市全体で一万以上にも達し、一九七六年にはこれらを統括する組織(フ
ェテレィション・オブ・シティワイド・ブロック・アソジェィショソズ)がダウンタウン
に形成され、活動を開始した。
ブロック・アソジェイションの仕事は、街の緑化と美化、大型トラックの侵入の規
制、ポルノ・ショップの追放、ブロックの空気を一変させかねない、たとえばマック
ダーナルト(マクドナルド)のような店の進出を阻止すること、ブロック全体で独自
の警備組織をつくって住民の生活の安定をはかることといった環境改善や、住民運動
的なものから、ブロックの住民と商店とのあいだにメンバーシップ・カード・システ
ムをつくって日用品を安く手に入れる一方、このメンバー・クラブをバックに商店と
連帯して卸問屋や企業の値上げ攻勢に対抗するといった消費者運動的な一面をも見出
すことができる。
ブロック・アソジェイションのパーティーは単に親睦をはかるためだけのものでは
なく、ブロックのあらゆる問題の討議の場でもある。チェルシーに住んでいたとき、
そんなブロック・アソジェイションのひとつである"ウェスト・400・ブロック・
アソジェイション"のパーティーに顔を出したことがあるが、役員の一人は、ナイソ
ス・アヴェニューをわが物顔でっっ走る巨大トレーラーを規制させるために、雑談し
ている人々から署名をせっせと集めていた。
一体にニューヨークにはいわゆるブルジョワ個人主義だけがはびこっていて、"社
会主義的"な要素が容認される余地は、ごく一部の知識人や学生、狂信的な小グルー
プのあいだだけだといった考えがあるが、実際にはむしろ、民族的背景や言語、職業、
貧富、年齢のちがいをこえて、共通の目的や理念にむかって連帯する技術や能力はは
るかに一般化しており、まず一杯のんでからでないと連帯の手続きすらはじまらない
(そのくせそれは概念的理解には達していないことが多い)日本の皮膚感覚的ななれ
あいとは異なる連帯の可能性は、はるかに豊かであるようにみえる。おそらく、六〇
年代にはそうした可能性の一部が湧出したからこそニュー・レフト運動があれだげの
もりあがりをみせたのだろう。むろんアメリカは最も進んだ操作的社会であり、ブラ
ック・パワー、スチューデント・パワー、ニュー・レフトのような反体制勢力が存在
しえたこと自体、この巨大なキャピタリズムの社会のしたたかさにほかたらないので
あり、このシステムは、反体制勢力さえもいわぱひとっのバイパスとして生かしてお
き、結果においてはそれを骨ぬきにしてしまう一面がある。が、重要なことは、この
ような高度の管理社会が、たとえ操作のためであれ、相対的な"自由"空間を放任し
なければならないという逆説だ。むろん、この逆説がどこまで続くかは別問題だとし
ても。
マクドナルドとマックダーナルドの差
ユニオン・スクウェァのそぼのどうということもないカウンター式のたべもの屋で
クラブ・サンドウィッチとコーヒーをとったときだった。コーヒーをおかわりしたあ
と、会計してもらい、三ドル八○セントだというのでコック兼ウエイター氏に五ドル
紙幣を手わたした。が、レジスターのところからもどってきた彼は、一ドル札一枚と
タイム(一〇セント硬貨)二枚のおつりを差し出すと思いきや、カウンターのうえに
まずダィムを二枚置き、「スリー・ダラーズ」と言った。それからクォーター(二五
セント硬貨)二枚を別のところに置いて「ワソタラー」、またクォーターを二枚少しは
なれたところに置いて「ワソタラー」、最後にこれら三つのコインのグループを順々
に指差して、「スリー・ダラーズ、フォー・ダラーズ、ファイブ・ダラーズ」と言い、
念をおすような表情をした。
これにはちょっとめんくらわないわけにはゆかたかった。何かインチキ手品をみて
いるようではないか?そこで、そもそもっり銭はいくらあるのかと思い、手をのば
してコィソの三つのグループをまぜようとすると、おぽっかないこちらの態度を読み
とったそのコック兼ウェイター氏は、せっかくちゃんとならべたものをだいたしにさ
れては大変といわんばかりの顔でノー、ノー、ノー"とさえぎり、もう一回先程の
"手品"をくりかえしてみせた。だが一体どうして二〇セントが三ドルなのか?そ
してまた、どうして五〇セントが一ドルなのか?
その謎は、ふと壁のメニューをみて、サンドウィッチがニトル八○セント、コーヒ
ーが一杯五〇セントだということを思い出したとき、すぐに解けた。何のことはない、
彼はアメリカ式のおっりの出し方を、伝票がないのでちょっと念入りにやってみせた
だげだったのだ。すなわち、サンドウィッチがニトル八○セントだから、これに二〇
セントを加えて三ドル、コーヒーが五〇セントだから五〇セントを加えて一ドル、コ
ーヒーをもう一杯とったからその五〇セントに五〇セントを加えて一ドル、総計して
五トルこれで、こちらから受けとった五トルと同額になるというわけである。
アメリカでは、おっりの額がレジスターの文字盤に出てくる場合でも、たとえば三
ドル八○セントの買物をして五ドル紙幣をわたしたとすると、キャシヤーは、まず
"スリー・エィティ"とチャージする額を言い、次に二〇セントを返して"フォー"、
それから一ドル紙幣を返して"ファイブ"と言ってっり銭の返却を完了するのが普通
だ。このやり方は、つり銭をまとめて受けとる習慣になれている日本人には、何かペ
テンにかかっているような気がするかもしれない。そもそも、おっりを返すのに、お
っりの額を全祭言わないのが気にくわない。なぜおっりの額を直接問題にしたいのか、
なぜひき算をだし算に還元してしまうのか……。
先日、WBHIという放送局の日本語放送をきいていたら、日本人の出演者の一人
がニューヨークの話をしていて、「アメリカ人てのはバカでしょう。暗算ができない
んですからね」と言って溜飲を下げていた。たしかにアメリカ人は、一見、暗算に弱
いようにもみえる。簡単に暗算できることをいちいち紙に書いて計算する。おつりを
出すのにひき算をせずにたし算でやる。日本では、たとえば三八O円の支払い額に対
して五〇〇円を受けとったキャシヤーは、瞬時に頭のなかで530-380=120の計算
をしてしまい、一ニ〇円をさっと出すが、アメリカでは、キャジャーはまず三八○円
を頭におもいうかべて、小銭と札を実際にひろいながら、それが五〇〇円になるまで
たし算をしてゆく。
だが、アメリカ人がこういうやり方をするのは、彼や彼女らが暗算に弱く、「バカ」
だからであろうか?日本人にはまわりくどくみえるが、このやり方は、おっりを出
すのにひき算のような"高等"な技術を必要とせず、即物的なたし算だけで済み、ま
た、おつりの額を実際上問題にしないでよいという点で、誰がやっても失敗する率が
少ないのである。しかも、このやり方でゆくと、おつりを返すときに客のまえで同じ
たし算のプロセスをくりかえし、客の手のひらのうえにっり銭をのせてゆくことがで
きるので、客は売り手の計算のプロセスを暗算によって自分の心のたかで思いはから
なくても、その計算を自分の手のひらのうえで即物的に知ることができるのである。
もともと、アメリカ人が暗算に強いか弱いかという設問はあまり意味がない。彼や
彼女らがレストランで伝票をちらりとみただげで、通常一五パーセントが習慣のディ
ップの額をすぼやくわり出すのをみると、決して暗算に弱いようにはみえない。にも
かからわず、暗算を好まないとすれば、それは、金銭のトラブルを手ぬかりなく回避
するために暗算のような観念的な方法はとらず、最も即物的で確実な方法を採用する
ためであろう。これは、断じて能力だとの問題ではなくて、文化や習俗のちがいの問
題なのである。
この点でおもしろいのは、最近日本で急速に浸透しはじめたコィソニフソドリーと、
その元祖であるアメリカの"ランドロマート"とのちがいだ。まず、ランドロマート
は、日本のコイン・ランドリーにくらべれば、はるかに数が少ない。これは、ニュー
ヨークのようにアパートの多い街では、その建物の地下がランドロマートになってい
て、アパートの住人はそこで洗濯をするので、街のランドロマートを利用するのは、
ランドロマートの設備のない安アパートやルーミング・ハウスに住んでいるような
人々だけだからかもしれない。貧民街には、比較的ランドロマートが多いのもこのた
めだろう。
数年まえ、チェルシーのルーミング・ハウスに住んでいたとき、近くにランドロマ
ートがあり、毎週そこで洗濯をした。その店の主人はルーさんという中国人で、"オ
ー"というバンクチュエイションがやたらと入る英語をしゃべった。このルーさんが
店にいるのは、客の世話をやくためではなく、洗濯の依託もやっているので、それを
片づけるためだ。実によく働く。山ほどある洗濯ものを片はしからマシーンにかけて
洗い、乾燥機で乾かす。乾いたものを奥さんが折たたむ。忙しいときには親戚の人が
手伝いに来ることもあった。
おもしろいと思ったのは、彼は、業務用に使うマシーンを特に決めてはおらず、空
いているマシーンを、いちいちコインを入れながら使うことだった。おそらく日本だ
ったら、専用の機械を決めておくとか、特殊スウィッチか何かをとりつけてコィソを
入れずに働くように仕掛けをするのだろうが、ルーさんは一日何十回となく、客と同
じやり方で機械を使うわげだ。そのため、大きなポヶツトのついたエプロンをしめ、
そこにコインをザクザクいれている。もっとも、これは、小銭を切らした客には、両
替してもらえるので都合がよい。ニューヨークには、自動両替機などというものはな
いので、店の人がいないランドロマートで小銭を切らしたらお手上げだ。むろん、洗
剤販売機などというものもない。みな、スーパーマーケットで買って箱ごとかかえて
もってくる。そして、箱からそのまま洗濯機のたかにふりかけるので、洗濯機のフタ
のまわりはいっも洗剤だらけになっている。ルーさんも、そんな掃除は一切しない。
それは、機械がこわれたときなどに修理屋がやるのかもしれない。
日本のコイン・ランドリーには、新刊のマンガ雑誌や週刊誌がそなえてあり、イン
ベーダー・ゲーム・マシーンまで置いてあるところがある。ニューヨークのランドロ
マートにはそんなサービスはない。洗濯に関係ないものといえぼ、公衆電話があるく
らいだろう。が、その空間は日本のコイン・ランドリーのそれよりもはるかに広いの
で、子供たちには、とくに冬には、格好の遊び場となる。冬場は寒くて外では遊べな
いといって家は狭くて友人といっしょに遊ぶことができない、といった環境の子
供たちが、ランドロマートヘ集団でのりこんでくる。彼や彼女らは洗濯をするわけで
はなく、店のイスにすわりこんでおしゃべりをしたり、公衆電話をいたずらしたり、
みんなでじゃれあったりしている。ルーさんは、むろん、いい顔はしない。ときどき、
「ゴー・アウトサイド、ブリーズ!」と言ったりするが、子供たちはおとなしいルー
さんをなめきっていて、全整言うことに耳をかさない。
ある日、いつもの少年団がどやどやとルーさんの店に入ってきた。今日はめずらし
く洗濯ものをもっている。もうどこかで洗いだけすませてきたのか、それはぬれてい
る。案の定、彼らはそれを乾かしにやってきたのだった。が、みていると、彼らは洗
濯ものを乾燥機にぶちこんでから、一向にコインを入れる気配がたい。そして、しば
らく間をおいてから、リーダー格の少年がっかっかとルーさんのところにゆき、「回
らないよ」と言う。ルーさんはキマジメな顔をして乾燥機のところにゆき、コインの
スリットの部分をこぶしでバソバソたたく。が、機械は一向に回りはしない。それも
道理である。金を入れていないのだから。しかし、少年たちは何くわぬ顔でルーさん
の奮闘をながめている。「本当にお金入れたのかい」ルーさんはいぶかし気にたずね
るが、リーダーの少年は当然ダロといった顔で「ヤー!」と答える。結局、ルーさん
は、エプロンのポヶツトからコインを出して機械に入れるのだった。
冬のランドロマートは、子供にとって遊び場なら、大人にとっては一つの社交場だ。
わたしもここで色々な人と知りあった。タニザキの英訳を全部読んでいるというホモセクシュアルの尾羽打ち枯らした老人が最初にきり出した話は、『源氏物語』のタニ
ザキ訳とアーサー・ウェリーの英訳とはアプローチの点でどうちがうかという質問だ
った。むろんそんなことはわたしにはわからない。いずれにせよ、洗濯機がゴーゴー
いっているかたわらで、コーヒー一杯のむでもなしにおしゃべりに花をさかせるとい
うのは、ニューヨークの街のランドロマートの日常である。
こうしてみると、まさしく、輸入されたのは、コィソニフソドリーの機械であって
"ランドロマート"という文化ではなかったのである。例をあげればキリがないが、
アメリカが元祖のハンバーガー・ショップにしても、アメリカ製の同じ機械を使い、
ハンバーガーの味やパッケージ、店のインテリアなどもほとんど同じであるにもかか
わらず、東京のマクドナルドとニューヨークのマックダーナルト(同じ綴りをアメリ
カではこう発音する)とのあいだには、ずいぶんちがいがある。まず、ニューヨーク
のマックダーナルトの客層は幼年から老年、中産階級から浮浪者にいたり、実に多種
多様だが、東京のマクドナルドの客は圧倒的に十代の女性で占められており、昼どき
や夕方のその店先は、ちょっと異様た雰囲気をただよわせる。また、ニューヨークで
はマックダーナルトは、テイク・アウトした客が歩道に捨てるそのパッケージやカッ
プのために、街を汚す元凶の一つとみなされているが、東京ではあまりそのような声
をきかない。マックダーナルトとマクドナルドは、それゆえ、全く別の現象としてみ
なげれぼならないわげであり、導入された社会の文化構造のちがいによって、同じも
のが全然別の現われ方をするのである。
その反対に、由来は全然別なのに、全く同じ現象が現われることがある。たとえば、
くず屋でない普通の通行人が駅のホームのゴミ箱をかきまわして新聞や雑誌をひろっ
てゆく最近の東京の風俗は、ニューヨークでもよく見られるが、これは別に、誰かが
ニューヨークからもちかえってはやらせた身ぶりではあるまい。これは、大量消費社
会が必然的に生み出す身ぶりであって、社会や文化の構造が大量消費という共通の方
向で機能してゆけば、ニューヨークであろうと東京であろうとベイルートであろうと、
どこにでも横断的に同じ現象が現われるのである。新宿駅の地下道で出会う浮浪者の
表情や歩き方は、グランドセントラル駅構内にいる浮浪者たちのそれと何とよく似て
いることだろう。明らかに人種も生いたちも異なるにもかかわらず、両者のあいだに
は、物理的な相違のへだたりを横断する驚くべき共通性がみられるのである。
制度としての"ファッキング"
ニューヨーク大学の社会学部でいっしょのH教授から、大学院の"国家論"のゼミ
に顔を出さないかというさそいがかかった。「おもしろい人がきますよ」と言われて
行ってみると、たしかに普通のゼミとは少し雰囲気がちがっていた。大きな楕円形の
テーブルを五人ほどの中年男女がかこんでいるのだが、それぞれのかっこうが実にリ
ラックスしている。衣装はむろんのことだとしても、彼や彼女らの姿勢が実にカジュ
アルだ。とりわけ、チャーリー・パーカーの後援者だったパノニカ夫人みたいな顔を
した髪のながい三十ぐらいの白人女性は、はじめ靴をぬいでイスにあぐらをかいてい
たが、そのうち、ジーパンをはいた足をテーブルのうえになげだしたので、「最近、
アメリカでは、さまざまだレベルで国家の介入がめだち……」とやっているH教授の
面前に裸足がたちふさがるかっこうにたった。が、教授は全く意にとめもしない。人
前に足をなげ出しても別に"失礼"にはならないらしいということは一映画や芝居、
実生活を通じて まえまえから感じていたが、これほど露骨なのははじめてだった。
先程、自転車の車輪をかかえて(盗まれないように、路上にパークするときは、本体を
鎖で信号柱などに結びつけ、さらに念のため前輪をはずして使えないようにする)部屋に入
ってきた若きアレン・ギンズバーグ(今日のギンズバーグは、すっかりおとなしい風貌に
なってしまった)風の男は、"ズムズム"のサンドウィッチをとり出し、ムジャムジャ
やっていたが、いま残りのコーヒーをのみおわったところだ。タバコに火をつけて、
そろそろ本格的な発言をはじめようというかまえである。
テーブルのうえに足をあげていた"バノニカ夫人"が、今度は立膝をしてケイソズ
の国家論批判をやりはじめたとき、メガネをかけた比較的髪のみじかい、今日の出席
者のうちでは一番"教師"くさい風貌の男が、プイと席を立って外に出ていった。そ
れは、あたかも、"そんな話、ぎいちゃいられねえよ"という感じであったが、それ
はこちらの思いすごしで、彼はただトイレに立っただげであることがやがてわかった。
むろん、これが、ニューヨークの大学の一般的な教室風景では決してない。ここに
集まった連中は、もう長年いっしょに議論をしてきた仲なので、とくにリラックスし
ているのかもしれない。が、後日、"パノニカ夫人"の話を何人かの女性にし、意見
をきいてみると、彼女のようなことをやる傾向はこのごろたしかにふえているげれど、
その場合は、かなり意識的にそうしているのだとのことだった。つまり、一般的に言
って、足を机のうえになげだすのは、男性の場合はこれまでも何の抵抗もなく行なわ
れてきたが、女性の場合は、七〇年代に女性解放運動が一種の流行思想になってから
やり出す人がふえ、"進歩的"な女性は、かしこまった席でわざとこれみよがしに足
をなげ出して、自己の"反権威主義的"姿勢を誇示するのだという。"バノニカ夫人"
の場合は、もっと自然ににじみ出たもののようにみうけたが、そういえば、最近、思
想の"ファッション・プロデューサー"として売れているスーザン・ソソタークは、
自著の広告に付された写真のなかで、これが"ナウ"たのよと言わんばかりに、ブー
ツをはいた彼女の足をなげ出すポーズをとっていた。
ところで、アメリカでは、身体を一定のスタイルで緊張させておく"行儀"の習慣
は、運動部や軍隊、一部の宗教・政治グループのあいだなどをのぞき、概ね一九六〇
年代以降、映画『アニマル・ハウス』でさんざんからかわれているように、人気がな
くなり、いわばローレンス・ハーヴェイ型のりりしい身ぶりにかわってジョン・ベル
ーシ型のくだけ(すぎ)た身ぶりがリアリティをもつようになった。それは、今日の
流行衣装や日常的身ぶり、言語のなかにもはっきりあらわれており、とりわけ"ファ
ック"や"ファッキング"という言葉の流行に集約されている。例をあげればきりが
ないが、ニューヨークの街で、"ファック"や、"ファッキング"という言葉を耳にし
ない日は一日とてない。
スーパーマーケットでレジに人がつらなっている。気のきかない男がショッピング
カートを通路に置きっぱなしにして品物を選んでいるので列が途切れて複雑になって
いる。一人の老人がきこえるとはなしにっぶやく。「ファッキング・アス!」
地下鉄のD列車がブロードウェイ・ラフィェット駅を出たかと思うとすぐにとまっ
てしまう。何のアナウンスもなく、しばらく停車したのち、何ともたよりない早さで
動きはじめたとき、大柄な黒人のおぼさんが早口にわめいた。「ゴーイング.トゥ
ー・ファッキング・スロー!」
チャイナ・タウソには毎日世界中の観光客がバスでっめかげる。中国人がめずらし
いのか、野菜や魚類をっみあげた店先に興味をひかれるのか、観光客はしきりにカメ
ラのシャッターを切る。その日も例によって中西部あたりから出て来たらしい初老の
紳士がニコンをかまえて近距離から八百屋の若者を撮っていた。すると、その中国人
の若者がいきなりその紳士に向かって中国語で何やらわめき、最後に「ファック.ユ
ー!」と叫んだ。
ウィーク・デイの昼の大衆レストラン。ウェイトレスたちがめまぐるしくたちはた
らいでいる。すばやく料理をくぱり、食器を片づける。片づけるといっても、火皿の
うえにコーヒー・カップやナイフ、フォークをっみあげて運び、カウンターの下に放
りなげる。よほど丈夫な瀬戸物とみえる。が、案の定、一人のウェイレトスが火皿の
うえのコーヒー・ヵツプを一っ床に落っことし、さすがのヵヅプも割れてしまう。そ
の瞬間、彼女が「ファック!」といい、まわりの人々が笑い出した。
"ファック"や"ファヅキング"は、もともと、ひじょうに生々しい呪誼の言葉で、
いまでも全国ネットのテレビやラジオではおおっぴらには使えないが、ヘンリー;・
ラーやレニー・ブルースがこの語を多用したために検閲の憂目にあった時代とはちが
って、今日では、文学や演劇、映画の世界ではこの語を使っても狼嚢罪には問われる
ことはないなにせ、大統領も会議中にこれらの言葉を使い、その秘密テープが一
般公開される時代である。あきらかにここにおいてもまた、六〇年代からあらわにな
ってきた、現実に対する人々の姿勢の変化が、アメリカ語そのものの言語的身ぶりの
変化として確認されるのである。
こうした変化の余波は、アメリカの消費文化の依然圧倒的な影響下にある日本にも
現われた。ソル・エーリックの『ザ・ウォリアズ』(邦訳『夜の戦士たち』)の改訳版
(一九七五年)のあとがきのなかで、訳者岡本浜江氏は次のような感想をのべている。
「原書を読み直してみて驚いたことは、最初の訳出のときに苦労した"ふつうの辞書
にないような語彙"その他が、いまでは当然のこととしてふっうの辞書にとり上げら
れていることです。なかには、カタカナで、そのまま日本語としてはばをきかせてい
るもの"ファック"、"ファンキー"、"バンクス"など一さえあるのです。自ら
ビート作家をもって任じた著者ソル・ユーリックが、当時、言語社会の先端を行く新
鮮なバンチのきいた表現のつもりで使ったものが、いまでは英語圏ではもとより日本
でまで、大衆の所産となったわけです。」
だが一ここで岡本氏にからむっもりはないが一日本の場合この語が「大衆の所
産となった」というのは事実に反する。というのは、日本語化した"ファック"は、
たとえば"ファック・シーン"というように、もっぱら性行為を意味する名詞として
使われているのに対して、原語は、もっとはるかに幅の広い意味と機能をもっている
からである。むろん、"ファック"が日本語的に使われる例はいくらでもある。たと
えば、マーティン・スコセッシの『タクシー・ドライバー』で、ロバート・デ・二一
口がハーベイ・カイテル漬じるヨソ・マゾ(商売女の仲介人)に金をわたそうとして、
「ユー・ファック・ミー?」とからかわれるシーンがあったが、これはまさしく、「お
めえ、おれとオマソコやろうってのかい?」の意味である。しかし、次の例はどうだ
ろうか?マーチン・リットの映画『ザ・フロント』の終りの方に、赤狩りの非米活
動委員会のばかげた尋問にうんざりしたウッディ・アレンが、「ファック.ユーセル
フ!」と言って、委員たちの唖然とした顔を尻目にゆうゆうと部屋を出てゆくシーン
がある。この場合の「ファック・ユーセルフ!」は、直訳的には、「てめえでやりや
がれ!」、翻訳論的には「セソズリしやがれ!」というふうに受けとることもできな
くはないが、この言葉の意味の実際的なウェイトは、セックスにではなく、「勝手に
しやがれ!」ということを口ぎたなく言うことの方に置かれている。
"ファック"から性交のイメージがほとんど消え失せてしまう格好の例はポール.マ
ザースキーの『結婚しない女』に出てくる。それは、夫が若い女を追って家を出てい
ったショックからまだいえきらぬ女主人公(ジル・クレイバーグ)が、フィフス.ア
ヴェニューとエイズ・ストリートの角のバーで女友達に会ったあと、先に帰ろうとし
て出口のところで見知らぬ男から声をかけられ、反射的に「ファック・ユー!」と言
うシーンだ。そもそも、「ファック・ユー」が文法的に「アイ・ファック.ユー」な
のか、それとも命令形なのかわからないが、これを翻訳論的に「てめえを強奪しちゃ
うぞ」とか「どっかへ行ってやってきやがれ」とかいうふうに解釈するのはもはや正
しくなく、ここではせいぜい、「とっとと行きやがれ」といった意味で使われている
にすぎない。むろん、このシーンの用法を一般化して、今日のアメリカの女性が誰で
も「ファック・ユー」を使うと思ったら大まちがいだが、「ファック・ユー」の実際
的な意味は、今日、ますますセックスぼなれし、拒絶や侮辱を露骨に表わすためのひ
じょうに広範塗言葉にたってきていることはたしかである。
"ファック"という語のセックスばなれは、また、「ファック・ユー!」のジェスチ
ャーとして知られている中指を突き立ててこれみよがしにする"、・・ドル・フ
ィンガー・ジェスチャー"が、「ファック・ユー!」と言うのを強めるとき、今日で
は女性でも使うジエスチャーになっていることによっても明らかだ。つまりこの中指
は、もはや直接に男性性器を象徴するよりも、むしろ拒絶や侮辱の抽象的観念を指示
するようになってきているわけである。
こうした傾向は自分で何か失敗したときにっぶやく「ファック!」(「くそ!」「ちき
しょう!」)においてもそうだが、これが"ファッキング"("ファック"の分詞形)に
なるとさらに徹底的となる。名詞にも形容詞にも副詞にも接続するこの語は、「ファ
ッキング・アス!」(「ぼんやりしやがって!」)、「トゥー、ファッキング・スロー!」
(「もたもたしやがって!」)というふうに、痛罵の意味あいを強める機能をするだけで、
そこには性交のイメージは全く存在しない。それどころか、今日では、この語の主要
な機能は、さらに、罵倒の意味を強調するような有意味的な機能から、たとえば「イ
ッツ・ファッキング・コールド!」(「さむくってしょうがねえや!」)というふうに、
単に語勢を強め、表現に世俗的たダイナミズムを与えることの方へ移行していると言
っても過言ではない。
おそらく、今日のアメリカの芝居や映画が、"ファッキング"という語に対して示
す関心の底には、この語のそのような機能についての暗々嚢の了解があるにちがいな
い。使いようによってはこの語は、言語表現の硬直化を世俗化の方向で再活性化する
役目をはたすわげで、現にこの語を駆使して斬新塗言語空間をつくり出すことに成功
した例として、一九七七年にヴィレッジのサークル・レパートリー・シアターで初演
され、そのあとブロードウェイのリトル・シアターに移されてロングニワソを続けて
いるアルベルト・イナウラト作の舞台『ジェミニ』や、一九七六年に初演され、翌年
ブロードウェイのエセル・バリモア劇場でケネス・マクミラン、ジョン・サヴェジ、
ロバートニアユヴァルといった人気俳優をあつめて再演された『アメリカン・バッフ
ァロー』(デイヴィッド・マメット脚色、ウル・グロスバード演出)がある。
これらの舞台では、(ニューヨーク・タイムズの演劇批評家ワルター・ケールなどは、そ
の効果の"安易さ"と"趣味の悪さ"にきわめて批判的であったが)劇中で用いられるあ
けすげな語りローとりわけ"ファック"と"ファッキング"の連発が、満員の客席
にたえまない大爆笑をまきおこしていた。どちらの舞台でも"ファッキング"は三分
問に一回ぐらいの割合で連発され、これらの舞台をどちらか一回見るだけで"ファッ
キング"の用法をマスターできるほどであった。たとえば、『アメリカン・バッファ
ロー』では、廃品回収業者とその仲買業者という設定の登場人物たちは、「二〇セン
トだよ」という程度のことを言うのに、
「トゥユソティ・ファッキング・セソツ」と言い、
「その本をよこしな」を、
「ギブ・ミー・サット・ファッキング・ブック」、
「そんなこと知るわげねえだろう」を、
「ハウ・ザ・ファヅキング・ドゥ・アイ・ノウ?」、
「何時だい」を、
「ウォット・ファッキング・タイム・イズ・イットP」、
「ちきしょう、よく降りやがるなあ」を、
「ディス・ファッキング・レイン」、
所詮は、「行っておめえの車をもってきな」といった程度のことを言うのに、
「ゴー・ケット・エア・ファッキンク・カー」というぐあいに、何にでも"ファ
ッキング"をくっっけてしまう。むろん、こういう荒っぽい語法は、すでにみたよう
に、労働老や学生のあいだに存在するし、ニューヨークの街を歩けば必ずどこかで耳
にすることができよう。が、こうした語法で問題なのは、廃品回収業の人たちが実際
にこういうふうにしゃべっているかどうかではなくて、こういう語法が舞台言語とし
て積極的に導入され、それをニューヨークの観客その大半は、少なくとも十年ま
えにはこの語を公然と口にするのをははかったミドル・クラス以上の人々がおも
しろがっている今日の状況変化である。あきらかにここでは、"ファッキング"は、
きわめて意図的に濫用されることによって、それがかってヘンリー・ミラーやヒュー
バート・セルビー・hの小説のなかでもっていたようなどぎっい効果ともちがう、一
種の句読法にすぎなくたっている。そのため観客は、それを嫌悪するどころか、
むしろそこに従来とはひと味ちがった言語リズムを発見し、その演劇性を享受するの
である。
が、このことはまた、ニューヨークの舞台言語が一見"卑狼"さと"くだけた"感
じを増してきたようにみえながら、実は、そうした"卑狼"さや"くだけた"感じの
なかにもちゃんとした文法と演出があるということでもある。実際、"ファッキング"
の語法にしても、あの"バノニカ夫人"のように足をテーブルのうえにのせる身ぶり
にしても、"素人"がやれぱ露骨な意味しか出てこない。いわば仕事着のジーンズが
おしゃれ着になったように、この街では、カジュアルなことが一つの"行儀"であり
"制度"なのである。
ポスト・インダストリアル・メディア
東京からFさんが送ってくれた『文塾』(79年12月号)の一文によると、このごろの
本屋には必要な本がおいてなく、「世の中の森羅万象同様、みかけの繁栄のたかでか
えって貧困になっている。選択の自由もなくなっている。なんだか社会主義社会みた
いな感じだ」(小田実)そうだが、最近のニューヨークの新本屋の傾向がまさにそう
であり、おそらくその傾向は東京よりはるかにひどいのではなかろうかP
たしかに、ベストセラーならばスーパー・マーケットやドラッグ・ストアーでも手
に入るが、少し"専門的"な本の新刊を手に入れようとなると大きな本屋でもむずか
しい。日本のように、少なくとも新聞広告にのった本はかなり"専門的"な本でも都
心の比較的大きな書店に行けぼちゃんと本棚にならんでいるなどということはニュー
ヨークではまずありえない。ニューヨークでは、タイムズの日曜版付録のブック・レ
ヴューや隔週刊のニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックスたどに広告ののる"専門
書"の新刊が本屋の店頭にならぶまでには相当の日数がかかるし、とうとう店頭に出
ないでしまう場合も少なくない。また、"専門書"の新刊の全部が全部広告されるわ
けではないから、もし書評でも出なければ、一年後に出版年鑑にのるまでほとんど闇
にほうむられたままになる本が相当数出ることになる。いずれにしてもアメリカでは、
本が読者のもとに届くルートは、"一般書"と"専門書"とでは全然異なっているの
ではたいかとさえ思える。
これは、"専門書"においては自分で苦労して捜さなければならないという
一読者の能動性が尊重されているからではむろんなく、本屋の側からみると、日本
とちがって返本がきかないため、売れる確実性のわからない本まで店頭にならべるよ
うな優雅なことはしていられなくなったからである。しかも、こうした優雅なことを
本屋の仕事だと思ってきたのは小資本の書店であり、逆に大資本の書店はこうした優
雅さを極度にふりはらって、売れそうな本、元手のかからない本しか店におかないと
いう徹底した合理化を行なってきたため、大資本の書店がどんどん巨大化してゆくか
わりに、小資本の書店はますます経営が苦しくなり、つぶれる店もふえてきた。
ヴィレッジで"専門書"を比較的よくそろえている店だったウィレソツのエイズ・
ストリート・ブック・ショップもその一つで、一九四七年にエリ・ウィレソツとチッ
ド・ウィレソツの兄弟によって開かれて以来、五〇年代にはビート派の詩人たちに、
六〇年代にはニュー・レフトやカウンター・カルチャーの理論家たちに、そしてヴィ
レッジの有名無名の読書人や世界から訪れる旅行者たちに書物との出会いを仲介して
きたこの店が、七九年の九月で営業を停止した。七六年三月に起った不審火で全焼し、
改築されてから、在庫の質も落ち、最上階にあったレフト文献の部屋もなくなってし
まったが、それでもニューヨークではこの店は、世界の文化・思想状況に敏感な得が
たい本屋だった。
この店の凋落は、近くにブレンターノ、マルボロ、ストランドをはじめとして十軒
以上も本屋があり、きびしい競争を余儀なくされたうえにバーンズ・アンド.ノーブ
ルの新手の商法に完全に客をくわれたためだという。バーンズ・アンド・ノーブルの
商法というのは実にアメリカ的な商法で、ものを質よりも量で売るというスーパー.
マーケットの商法を書籍販売の全域に拡大したものである。現にその本店18スト
リートの西と東に二軒に別れているのバーゲン部門(西店)にはショッピング・
カートがそなえっけられており、客たちは肉や野菜でも買うようにカートに本をボソ
ボソ投げ込みながら大量に買いこむというわけだ。この店では、利潤の大きいベスト
セラーを資本の力にものを言わせて大量に安く仕入れ、小さな店ではまねのできない
二〇パーセントから三〇パーセントのディスカウントで客をつり、出版杜のオーバ
ー・ストックや、経営不振の出版社から出されるゾッキ本、さらには雑多な古本をい
わば目方で仕入れ、五割引きから二五セントにいたる破格の値段で売りさぱいている。
その"発展"ぶりは近年めざましく、数年前にブック・マスターを接収し、さらに七
九年には、オーバー・ストックとゾッキの専門店としてこれまでニューヨークで最大
のチェーンを誇っていたマルボロを接収した。
バーンズ・アンド・ノーブルの雑多な安売本のなかには、他の書店では定価で売ら
れている本もあり、選び方によっては掘出し物もないわけではない。しかし、新刊に
関しては、売れそうなもの、有名作家のもの、大手出版社のものしか店頭にならぼず
(本店の東広はもう少しましたが、昔のウィレソツにははるかに劣る)、地味た出版物は、
何年かたってオーバー・ストックかゾッキになってここに入ってくるのでもなけれぼ、
絶対にこの店の棚にならぶことはあるまい。
こうした傾向は、少なくともマンハッタンの文化的趨勢からすると、時代に逆行す
る。というのも、マンハッタンはもともとひじょうに地域性の強い街であり、近年ま
たその傾向がとみに強まっているからである。マーク・アラン・スタマティがヴィレ
ッジをユーモラスに描いた細密画的クレイジー・ドロウイソグのなかに、ひげをはや
した三人の男がマクデューガル・ストリートらしきところを歩きながら、「おれは14
ストリートより上に五年も行ってないよ」、「ぼくは十二年行ってないぜ」、「わしは十
九年、14ストリートより上に行っとらん」としゃべっているシーンがあるが、なかで
もヴィレッジは地域でまとまる性格がマンハッタンのなかでも一番強いかもしれたい。
日常の用事がすべてその狭い地域内でたせるだげでなく、劇場、学校、図書館、本屋、
画廊等の文化施設、公園、レストラン、クラブ、バア、スポーツ・クラブ等のレジャ
ー施設も数多くあり、もし職場が地域内にあるなら、ヴィレッジの外に十九年出ない
こともそうむずかしくはないだろう。
マンハッタンが地域単位でまとまる傾向は、おびただしい数のコミュニティ新聞や
ブロック・アソジェィションの存在によっても知ることができる。空からみれば一つ
たがりの同質的な街並が続いているにすぎないマンハッタンは、その実、数多くの異
質な独立した単位によって構成されているわげで、それらの単位の差異がニューヨー
クの"多様性"を形づくっている、と一応は言えるだろう。"一応は"と言うのは、
こういう見方は、ニューヨークを語る場合には、まだ抽象的すぎるからであり、ニュ
ーヨークにはこうした空間的な差異のほかに、時間的な差異が数多く存在するからで
ある。
マス・メディアは、その本性上、空間的な差異をとりはらう。ニューヨークの二大
新聞ニューヨーク・タイムズとデイリー・ニューズにとって、ヴィレッジとチェルシ
ーの差異は問題ではない。すべて全国紙的性格をもつ日本の大新聞にくらべれぼはる
かに地方的で、市の外側では別の新聞が勢力をもっているにしても、少なくともマン
ハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタテン・アイランドの五区の
なかでは、全体を文化的に同質化する機能をはたしているのがこの二大紙である。し
かし、両紙のちがいは極端で、タイムズが何らかイソテレクチュァルな欲求を適度に
くすぐることをめざしているとすれぱ、ニューズの方は、エロ・グロまではいかない
にしても、世俗的なことなら何でも見てやろうといった趣があり、一方の読者は他方
を読まない傾向がある。ニューヨークには、もう一っニューヨーク・ポストがあるが、
これはニューズの夕刊版みたいなものなので、タイムズとニューズは、ニューヨーカ
ーの文化意識を二極分解し、その意味で異質化する機能をはたしているわげだ。
が、文化を広範に統合・同質化しながら同時にそれを異質化する点では、ニューヨ
ークのラジオ放送は新聞よりもはるかに成果をあげている。現在、ニューヨークには、
公認されている放送局がAMとFMとで九十局以上あるが、その放送内容と機能はそ
れぞれ異なっている。少数民族の文化に力を入れているWVEDやWHBI、ジャズ
に主力を置くWKCRやWBGO、クラシック専門のWQXR、ディスコしかやらな
いWKTU、ニュースを二十四時間放送するWCBSやWINS、その他ロック専門
の局、スペィソ語放送局等々、多様なプログラムがあり、さまざまな人々がさまざま
な場所で聞いている。
これらの放送局は、大資本の所有下にあるもののほか、小資本で小出力の非営利局
もあり、また、コロンビア大学に属するWKCRやニューヨーク大学のWNYU、シ
ティ・カレッジのWCCR(無免許)のように、学生の管理下にある局もある。それ
ゆえ、ニューヨークのラジオの文化的・政治的利害は決して一様ではたく、ひじょう
に保守的な立場のものもあれぱ、反体制的立場の局もある。後者を代表するWBAI
局のある月のプログラムをのぞいてみるとこんなものが目につく"ラディカル映
画批評"、"レズビアン・ショー"、"組合を語る"、"ニュー・ジャズ"、"グッド.シテ
ィ・アンダーグラウンド・ロック・ショー"、"ラテン・アメリカ報告"、"ゲイ雑話"、
"アフリカと世界"、"マルクス主義思想家を訪ねて"、"カリブ海通信"、"世界をまだ
震憾させている日-十月革命とそのインパクトの考察"……
テレビは番組の制作コストがラジオよりはるかに高く、ローカル番組よりも全国ネ
ットの番組に比重がおかれやすいが、最近は、有線テレビが急激に発達してきて、テ
レビも文化を同質化するだけではなく、異質化し、地域化する機能をもつようになっ
てきた。しかし、現状ではまだ、テレビの影響は圧倒的に文化を同質化し、一次元化
する点に顕著にあらわれているようにみえる。
ニューヨークには芝居や映画が豊富にあり、テレビなどバカバカしくてみていられ
ないように思えるが、それは金銭的に余裕のあるミドル・クラス以上の人々の話で、
テレビだけが唯一の文化的娯楽である人々の数は予想以上に多い。そういう人々にと
ってテレビは、もはや室内装飾のような一つの環境にたっていて、テレビが"オン"
にたっていることこそ彼や彼女の平穏な日常を保証する。
一説によれば、アメリカの学生の教室内での"行儀"はテレビの普及によって急速
に"悪化"したという。生まれたときから環境としてテレビがあり、テレビのまわり
で育った現代の学生たちは、教室にいるときも居間でテレビをみているときの行動バ
ターンを踏襲してしまうというわけだ。たしかに、今日のアメリカの大学生は、テレ
ビをみながらものをたべ、おしゃべりをし、用事があれば勝手に席を立つように、授
業中に、スナックをバクつき、平気でおしゃべりをし、いきなりトイレに立ったりす
る。テレビが浸透する以前に生まれた世代の大学生は、二時間程の授業時間中、精神
を集中させておくことが困難ではなかったが、いまの大学生は、テレビ番組によくあ
る三〇分とか一時間の典型的た持続時間を越えると身をもてあましてしまいやすく、
学年が下るほどその傾向は強いという。こうした"テレビ化"は、学生が"観客"に
なり、教師が"役者"や"タレント"になるつまり教室が一つの演劇空間と化す
ということでは全くない。深刻なのは、学生がテレビの"視聴者"になる分たけ、教
師の方はブラウン管のなかの映像になってしまうということである。
ジャージー・コジソスキーは、小学校で教師をしていたとき、おもしろい実験をや
った。彼は、教室にテレビ・カメラとモニターを装置し、小学生が彼の姿をテレビを
通しても見られるようにしておいた。そしてあらかじめ打ちあわせておいた仲間がい
きなり教室にとびこんできて彼にげんかをふっかけるように仕組んだ。そのときの小
学生たちの反応を別のカメラでとらえ録画したものを調べてみると、驚いたことに、
子供たちは、誰一人としてその出来事を直接見てはおらず、みなテレビに映るその光
景に見入っていたという。そして、あとから子供たちになぜそうしたのかとたずねる
と、彼や彼女たちは、「だってテレビの方がリアルにみえたもの」と答えたという。
このときの経験に触発されてコジソスキーは、後年、『ビーイング・ゼァ』(邦訳
『預言者』)という小説を書いたが、それは七九年にハル・アシュビiによって映画化
(邦題『チャンス』)され、ニューヨークではなかたかの評判になった。とりわけ、主
人公を演じたピーター・セラースの演技は、彼に主人公を演らせるという条件付きで
コジソスキーが映画化を許可したというだげあって、七九年にニューヨークで封切ら
れたアメリカの商業映画のうちでは最高の部類に入るように思う。コジソスキーによ
れば、ピーター・セラースは、幼稚とはちがう天性の子供っぽいしゃべり方ができ、
しかも彼の身ぶりには、テレビをみすぎた子供のもつ、"運動的制約"があり、この
作品の主人公にぴったりだというのである。というのも、この主人公チャンス(のち
にチヤンシー・ガードナー)は、テレビを通じてしか世間を知らたい人物ということに
なっており、彼は、毎日庭の草木の手入れをするほかはたえずテレビをみてすごす。
それは、同じ家に住んでいるがほとんど顔をあわせることのない後見人から教えられ
た幼い頃(当時はテレビではなくラジオだった)からの変わらぬ習慣で、そのため生身
の人問とは、食事をはこんでくれる黒人の召使いとおざなりのあいさっをかわす以外
は、ごくときたま後見人と顔をあわすだげだという風変りた生活を続けてきた。
物語の核心は、すでに初老に達したチャンスが後見人に死なれ、長く住みなれた家
を出てゆくところからはじまる。後見人からもらった年代ものの衣装を身につけたチ
ャンスがはじめて踏み出した外界、映画はそれを最高度に鮮明なテレビの画像のよう
なタッチで効果的に描く。街路、建物、廃撞、車、さんざめく子供たち……彼は、テ
レビの実況放送に見入るように都市、いや都市の映像のなかにすいこまれてゆく。彼
は映像のなかを歩いてゆく。が、その界隈は、彼の仰々しいかっこうには似つかわし
くない貧民街で、彼はたちまち少年ギャングにとりかこまれ、ナイフでおどかされて
しまう。彼はとまどう。どうしたことだ?きっといやな番組にチャンネルをまわし
てしまったにちがいない。そこで彼は、ポヶツトから一大切にもってきた-テレ
ビのリモコン装置をとり出し、少年たちに向けてスウィッチを"オフ"にする。
原作にはないこの映画のシーンは、チャンスという人物を瞬時に特徴づげるうえで
大変効果的だ。彼にとってこの世界は、都合がわるいときにはいっでもスウィッチを
切ったり切り換えたりできるのである。ここでは、人問関係も集団性も、電流が流れ
ているあいだだけ持続する暫定的なものでしかなくなる。が、世間をテレビを通じて
しか知らない彼にとっては、人間は、受像機とカメラとヴィデオコーダーをそなえた
一組のテレビ装置となるため、逆に人間と物、自然の距離は消滅してしまう。従って、
彼は、現代のテレビ人間と同じように、思考せず、創造せず、経験せず、イメージと
イメージとを"春意的"に"記号"として組みあわせるだげなのだが、現代のテレビ
人問のように自然への中途半端なコンプレックス、人間と物との区別へのコンプレッ
クスをもっていないため、世界を大白然の目で、また大自然や物を生きものとしても
見ることができるのである。
ポスト・インダストリアル
ある意味で、マス・メディアが浸透した今日の脱工業社会の諸問題は、マ
ス・メディアが極限まで浸透しっくさないところに生じていると言えるかもしれない。
この映画はまさに、今日の世界のそうした不徹底さを超テレビ人問の目から異化して
いると空言えよう。チャンスには"裏"はたいから、彼はっねにありのままの"事
実"を語る。が、マス・メディアが不徹底に浸透しているこの世界にはありのままの
事実などというものはない。それは"事実"ではなく、そのときどきの勝手な利害
-自然喪失へのコソプレックスーによって意味づけられ、関係づけられる"記
号"でしかない。それゆえ、彼の語る"事実"と彼の存在それ自身は、"記号"とし
てまさに記号論的なズレのなかをすべってゆく。少年ギャングの手をのがれてから、
チャンスは、今度は、億万長老の夫人の乗る車に接触し、ケガをしてしまう。が、記
号の帝国の住人たちの目には、実際に浮浪人であるチャンスが決して浮浪人にはみえ
ない。偶然につぐ偶然。彼は、億万長者とその夫人に気にいられ、またたく間に(彼
はっねにそこにいるだげなのに)政財界の重要人物になってしまう。
彼は字を読めない。だから、彼は、「わたしは一切新聞を読みません。テレビはみ
ます」と答える。しかし、記号の世界に住む報道関係者は決してそれをありのままに
は解さない。「とおっしゃると、テレビの方が新聞より客観的だとお考えなのですね」
と、一つの新聞批判として受けとるのである。彼は字を書けたい。だから、彼は、出
版社から本を書いてくれと言われて、「わたしは書けません」と答える。しかし、編
集者は、これを勝手に解釈して言う。「ごもっともです、みた時間がありませんから
ね」だいたい"チヤンシー・ガードナー"という彼の名前にしても、彼はもともと
"チャンス"というファースト・ネームしかなかったのだが、名前をきかれたとき、
彼が「庭師のチャンスです」(チャンス、ガードナー)と言ったことから、相手は、
「ああ、チャンス・ガードナー、チヤンシー・ガードナーね」というぐあいに記号論
的偶然性によって決まってしまったのであった。
かってソル・エーリックは、科学技術が高度に発達したにもかかわらず、今日われ
われは、その可能性の百分の一以下しか利用できないでいることを指摘した(『日本
読書新聞』、79年6月4日号)。が、そうだとすれば、今日われわれが直面しているマ
ス・メディアの"過剰"さは、マス・メディア自身がもっている可能性の百分の一以
下にすぎないことになる。そしてその"過剰"さは、マス・メディア自身のもつ可能
性がどこかでゆがめられた結果としての"過剰"さであって、決して本当の過剰さで
はないことになるだろう。
とすれば、今日マス・メディアの貧しい"過剰"さを少しばかり極端化したところ
で表象された超テレビ人問、チヤンシー・ガードナーは、所詮、マス・メディアの過
剰な可能性が極限まで発揮されたところに生まれる超テレビ人問では決してないわけ
である。言いかえれば、未来のテレビ人間は、必ずしもチヤンシーのように、つねに
受動的で、決して怒らず、所有欲や偏見をもたず、誰とでもすぐ親しくたり、腹蔵た
く、そして性的に不能であるとはかぎらないのだ。が、現状では、今日のテレビ人間
から表象される極限的イメージは、チヤンシーのそれなのであり、その意味ではまた、
ニューヨーカーが示す"やさしさ"や"連帯性"、彼や彼女らがっくりあげる"祝祭
性"は、テレビ・セットをまえにしたっまりフラウソ管に電流が通じているあい
だだけ成立するような人問関係によってささえられているのかもしれない。
都市の身ぶり 映画のなかのニューヨーク
"ニューヨークはアメリカではない"という言葉があるが、ニューヨーク、とりわけ
マンハッタンからアメリカ全体をイメージすることは不可能である。サンフランシス
コやロサンジェルス、シカゴには多少共通するものがあるとはいえ、ニューヨークは
アメリカの特殊地帯であり、アメリカの大部分は、ピーター・ボグダノヴィッチの
『ラスト・ショー』に出てくるような実に殺風景な街とリチャード・サラフィァソの
『バニシング・ポィソト』でみられるような広大な原野によってできている。その意
味で、アメリカには、本当の都市はニューヨークしかない、とさえ言えるかもしれな
い。が、そのかわりニューヨークには、まさに、都会的なもののすべてがあり、しか
も東京で言えば、千代田、新宿、渋谷の三区を合計したぐらいの面積しかない地域に、
その都会的なものがギッシリとよりあっまっているのである。それはいわぱ、横に倒
れたバベルの塔であり、ここでは、一挙にすべてを所有するなどという欲望は、はじ
めから捨ててかからねぱたらない。映画に関して言えば、毎週新しいフィルムが封切
られ、そのあいだに外国フィルムや実験フィルム、過去の問題作などが上映され、毎
日ねむらずに映画館をかげまわったとしても、この街で上映されるフィルムを全部み
ることは不可能である。
この街を映画や小説で描くとしても、"これこそニューヨークだ"と言えるような
総括的なやり方でニューヨークをとらえることはおよそ不可能であり、もしそのよう
な印象を与える映画や小説があるとすれば、それらは、一般にニューヨークの外の人
がそう思いこんでいる"ニューヨーク"、従って現実には存在しない"ニューヨーク"
を担造しているにすぎないのである。もっとも、ウッディ・アレンは『マンハッタ
ン』において、ニューヨークをあたかもアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集の
なかに出てくるバリのようなイメージで映像化し、その映像のなかに現実のニューヨ
ークとの微妙なズレをこっそりしのびこませるという高等技術を披露した。これは、
ニューヨークの、ミドル・クラスのユダヤ系知識人が月並でないことを月並な語法で表
現するウィットのテクニックを映画で応用したものだが、アメリカ人にとってさえこ
れは決して一般的なものではないため、現実にはこの映画は、ニューヨークの単なる
"美しいドキュメンタリー"として享受された一面がなくもない。
日本では一般に、『タクシー・ドライバー』は、ニューヨークの"リアル"な雰囲
気を"ドキュメンタリー"のタッチでとらえた映画だとみなされているようだが、実
際には、これほどニューヨークを"極私的"な目で描いている映画はない。が、この
映画の主人公トラヴィス・ビックル(ロバート・デ・二一口)が不眠症でアル中の気も
あり、いつも午後おそくなって起き出す男であることを指摘した映画評は、わたしの
知るかぎり、全くなかった。彼は、夜型だからこそタクシー・ドライバーにたったの
であり、彼が真昼問に大統領候補を暗殺しようとしたり、ヤクザと銃でわたりあった
りするのは、決して"リアル"ではないのである。つまり、あの映画では、真昼問の
シーンは、彼の意識の内部で起こる夢想や空想なのである。
賢明にも、この映画がヴィレッジの"名画歴"で再公開されたとき、これは、ブラ
ィァン・デ・ハルマの『オフセッション』(邦題『愛のメモリー』)とだきあわせで上
映されたが、まさしくこの映画は、ニューヨークに不慣れな、あるいはこの街に1なじ
めない若者が、この街にオブセッシヨソ(妄想)をいだき、それを孤独な意識のなか
でもてあそび、エスカレートさせてゆく物語なのだ。いわくありげな盛り場や貧民街
のシーンにしても、その視覚は、いわば"ニューヨークはこわいぞ"とおどかされて
やってきた観光客がはじめて、こわごわとタイムズ・スクウェァあたりを歩いてみた
ときのこわばった意識のそれであり、銃でヤクザを皆殺しにするシーンは、"こんな
ことをやってみたらスカッとするだろうな"といったフラストレイションの意識にあ
らわれるしかもそういう意識のなかで、自分のみたギャソク映画のカッコいいシ
ーンを"引用"している夢想にすぎないのである。
それは、デ・二一口が密売人からピストルを買うシーンでも、少女の娼婦アイリス
(ジォディ・フォスター)とコーヒー・ショップで朝食をたべるシーンでもかわりがな
い。二人がたべていた"スペッシャル・ブレイクファスト"は、ロバート・バトラー
の『ジャグラー・ニューヨーク25時』の冒頭にも出てくるが、これは、特に注文する
のでなければ、午前十一時までしかサーブされない。そのかわり実に割安で、タマゴ、
べーコソ、ポテト、トースト、オレンジ・ジュース、ジャム、コーヒーないし紅茶の
組みあわせでたったの一ドル二五セントぐらいである。
このシーンで、アイリスは、トーストにマーマレードをたっぷりのせたうえ、それ
に砂糖をこれまた盛大に一ふりかげる。『タクシー・ドライバー』が封切られ
たあと、日本では若者のあいだでこの食べ方がはやったそうだが、ニューヨークでみ
るとこのシーンは別の意味をもつ。というのも、ニューヨークでは大部分の女性が、
ダイエットと称し、太るのをおそれて極度に糖分を敬遠することがはやっているので、
このシーンは、そのような流行へのさりげない-が、かなり強烈な あてこすり
にもうっるからである。そういえば、『ジャグラー・ニューヨーク25時』にも、誘拐
された娘(アビー・ブルーストーン)がフェルト・リコ人の誘拐者(タリフ・ゴーマン)
に食べものを出されて、太るから食べないと断ると、ゴーマンから、女は太っている
方がよいのだと説教されるシーンがあった。だが、このようた直接的な表現は意味が
一様になり、受けとり方もはじめから決められてしまう。一体にこの映画は、ニュー
ヨークの上流階級の身勝手さ、警察への不信、異民族問の壁、庶民の連帯感といった
ものをストレートに描き、ニューヨークの一面をよく伝えてはいるが、『タクシー・
ドライバー』にくらべると、表現がやや一本調子で、受けとり方が多様になる余地が
ないのである。
それに対し、スコセッシは、いわばルイス・ブニュエルの目でニューヨークを描く。
ブニュエルの映画には、性的に飢えた男にとって行きかう女が全裸で歩いているよう
にみえるシーンがあったが、『タクシー・ドライバー』でも、主人公トラヴィスが、
"あの野郎をフチ殻してみたいた"という潜在的欲望をいだくと、その欲望はただち
に しかも、ブニュエルよりももっと"自然"たなりゆきで誰かを殺す具体的
なイメージとして提示されるのである。それは、ひとつの"妄想"であるから、それ
がどんなに"リアル"にみえても、"現実"とは微妙なところでズレている。そのズ
レには、ニューヨークの街のひじょうに世俗的な世界や底辺の人々の生活を肌で感じ
たことのない老にはわからぬような微妙さがあるのだが、逆にそれだからこそ、観客
の方もこの映画を、ニューヨークを深く知れば知るほど多様にみることができるのだ。
『結婚しない女』も、ニューヨークの街をよくとらえた映画として定評がある。わた
しは、ロードショーを見すごして、しばらくしてからニューヨーク大学の大講堂で上
映されたのをみたのだが、ジル・クレイバーグとアラン・ベイツが、ソホーから(た
ぶん、ハウストン・ストリートとブリーカー・ストリートを越え、ニューヨーク大学の教員
アパートのビルをぬけて)ワシントン・スクウェアに面したレンガ色の大学図書館の横
に出てくるシーンになると、観客のあいだから拍手がおこった。たしかに画面には、
見なれた風景がごく"自然"のタッチでうっっており、この街の雰囲気がなかなか
"リアル"にとらえられている。
しかし、この映画にも、現実とのズレはいくらでもある。たとえば、クレイバーグ
とベイツがワシントン・スクウエアに入ってきて、イタリアン・アイス(一種のシャ
ーベット)を買い、公園内を歩いてゆくと、メガネをかけ、髪をポマードでたでっげ
た黒人がアルミの皿やナベで作った楽器を仲間と演奏しているシーンがちらりと出て
くる。この老人は、ワシントン・スクウェアでは名物的存在で、週末にはよく顔をみ
せるが、映画に出てくる"仲間"は別のグループで、この連中どこの老人が組むこと
は絶対になかった。というのも、彼は、それまで仲間だったべーシスト(といっても
その楽器は金だらいで出来ている)と喧嘩わかれをしてしまい、メンバーを新しくした
が、『結婚しない女』が作られた一九七七-七八年頃には、数年来変わらぬメンバー
で地域の住人に親しまれていたからである。ちなみに、喧嘩わかれの原因は、この老
人があまりに金にうるさすぎたためらしい。彼は、演奏のあいだ中、アル中気味の血
走った目で観客の方をうかがい、無断で写真をとる者がいるとどたりっげる。そのか
わり、まえもって"布施"をはずんでおくと、演奏しながらちゃんとシャッターの回
数を勘定していて、「あと二枚いいぞ」とか「お前はそれまで」などと厳密な指示を
与えるのである。
ところで、犬の糞はニューヨークの街を色どる風物の一つだが、ポール・マザース
キーは、さすがそれをみのがさなかった。それどころか彼はこの映画で、犬の糞を使
って二人の登場人物の性格をあざやかに対比してみせる。犬の糞が二度出てくるのだ
が、はじめは、ジル・クレイバーグとマィケル・マーフィがリバー・サイドの何ぞい
の小道でジョギングしていて、マーフィが犬の糞をふんでしまうシーン。もう一つは、
マーフィと別居したクレイバーグが、アラン・ベイツとソホーのウースター・ストリ
ートのあたりを歩いていて、ベイツが犬の糞をふむシーンである。その際、マーフィ
の方はカツとなって犬の糞のついたムスニーヵ-を河に投げこんでしまい、また、ベイ
ツの方は、犬の糞にひっかけて芸術論を一席ぶっ。このあたり、二人の人物のちがい
が出ておもしろいが、それ以上に、男なんて偉そうな顔していても、所詮は犬の糞ぐ
らいのことで大さわぎするのネ、という男性批判が感じられなくもない。ただし、こ
の映画が封切られた一九七九年には、路上に犬の糞を放置すると一〇〇ドル以下の罰
金をとられる法律が施行され、以後次第にニューヨークの街から犬の糞が少なくなっ
てきたので、犬の糞のシーンは、今日のニューヨークとは多少のズレが出来たかもし
れたい。
ニューヨークにとって、地下鉄も重要な顔の一つだ。が、わたしのみるかぎり、ニ
ューヨークの地下鉄の庶民的な雰囲気や乗客の生々しい生活感覚が映像化されたよう
なものはそれほど多くないような気がする。ジョゼフ・サージェントの『サブウェ
イ・バニック』は、ディテールが正確で、なかなかよかったが、わたしは、地下鉄内
で起こるもっと日常的なドラマをみてみたいのである。というのも、ニューヨークの
地下鉄は、もっと日常的なレベルで毎日スリリングなドラマを展開しているからであ
る。
わたしは、ある時、ブルックリンに用事があってブロードウェイニフフィェット駅
からDトレィソにのった。が、電車は次のグランド・ストリート駅にはとまらず、マ
ソハッタソ橋のたもとまでつっ走る。そして、しばらく橋のうえで停車していたか
と思うと、今度はもと来た方向に逆もどりしはじめた。駅のあかりがみえてきたが、
とまる気配はない。窓から目をこらすと、どうやら、Dトレィソの通るはずのたいF
線のエセックス・ストリート駅らしい。一体この地下鉄はどこへ行こうというのか?
乗客もさわぎ出した。また駅のあかりがみえたが、ものすごいいきおいで通りすぎ
たのでどこかわからない。五分ほど走りっづけてとまった駅はJ・W線のチェンバー
スだった。しかし、ここでもドアーは開かない。どうなっているのだ引運転手がヤ
クでもやって狂ってしまったのかっ-・『サブウェイ・バニック』のように先頭車靹が
誰かに占拠されているのか?が、電車はまた走りはじめた。車掌をさがしに別の車
靹に走っていった婦人が、「ドアーが開きゃしないよ!」と憤慨しながらもどってき
た。とかくするうち、電車は本来ならクラソド・ストリートの次の駅である
ブルックリンのデ・ガルブ駅についた。ドアーがはじめて開く。その間二十分。誰か
がっぶやく。「D線の線路にトラブルがあったんで別のトラックを使ったんだねえ。」
ニューヨークの地下鉄のこうした日常的なドラマ性からすると、ウォルター・ヒル
の『ウォリァーズ』はあれだけ地下鉄を映しながら、ほとんどそのおもしろさをとら
えることができなかった(この点については、『日本読書新聞』、79年5月21日号に現地報
告を書いたことがある)。その点、ニューヨークの街に詳しいウィリアム・フリードキ
ソは、地下鉄の使い方もうまい。『エクソシスト』では、カラス神父(ジェイスソ;・
ラー)がマンハッタンの安アパートに住む老母に会いにくるシーンで、地下鉄のショ
ットをちょっと出すだけで瞬時にマンハッタソヘの場所の移動を印象づけていた。
『フレンチ・コネクション』の地下鉄にっいてはいまさらくりかえすまでもないかも
しれたい。ヘロインの密売ルートの元締(フェルナンド・レイ)が、ニューヨーク市
警察麻薬捜査官(ジーン・パックマン)に追われて地下鉄駅に逃げこみ、折よくやっ
て来た電車にとびのる。パックマンはそれを追って別のドアーから電車へ。が、レイ
はそれに気づいて外へ。パックマンはあわてて、ふたたび外に出る。が、レイは、次
の瞬間、手にしていたコーモリガサを電車のドアーにあて、反射的に開いたドアーに
すべりこみ、パックマンの追跡をふり切ってしまう。
あまりに有名なこのシーンは、一見ニューヨークの地下鉄をリアルに描いているよ
うにみえるが、実際には起こりえないことだ、と言ったら人は信ずるだろうか?こ
れは、わたし自身、ニューヨークで何度もためしてみたのだが、たとえE,F線の新
型車輌でも、コーモリガサをちょっとドアーにあてたぐらいでは、決してドアーは開
きはしない。ニューヨークでは、ドアーが明りかけたときに人がホームにかけこんで
くると、そばにいる人がドアーをおさえておいてやることがよくあるが、もし地下鉄
のドアーがエレベーターのドアーのように、ちょっと触れただけで反射的にもどるよ
うになっていたら、あるいは、車掌がそんなに繊細な神経を使っていたら、あとから
あとからドアーをおさえてのってくる人がいて、電車はたかなか発車でぎたくなるに
ちがいない。そこで、現実には、コーモリガサぐらいだったらはさんだまま発車する
し、足や手をはさんでも危険がなけれぼというより、誰かが騒ぎださたけれぼ
そのまま次の駅まで行くことだってあるのである。
以上のように、ニューヨーク映画の映像的現実と、ニューヨークの日常的現実との
あいだには、さまざまなズレがあるわけだが、そのズレのたかには、まさにそのズレ
によってニューヨークの街と生活のダイナミズムを生き生きととらえているものもあ
れば、またその逆に、ニューヨークの日常的現実のディテールをはじめから無視し、
ニューヨークを単なる書割に利用しているものもあるということである。『ウォリァ
ーズ』以外にも、たとえば『ゴッドファーザー勺>勾→自』のはじめの方に、まだ幼
いヴィトー・コルレオーネが、シシリーから船でニューヨークにやってくるシーンが
あるが、窓外にうつる自由の女神とニューヨークとの位置関係に注意してみると、こ
の船はニューヨークヘ近づいているのではなくて、ニューヨークをはなれているのが
わかる。つまりコッポラは、そういうディテールを完全に無視してこの映画を作って
いるわけである。ということはつまり、この映画がダメな映画だということであるよ
りも、この映画にディテールの微妙さのようなものを求めても無理であり、もっと抽
象的なもの、つまりイデオロギーとか思想とかを表現ないしは宣伝することがこの映
画の本領なのだということである。むろん、それが悪かろうはずもないし、コッポラ
はそういうやり方で汎アメリカ主義的なハリウッド映画の伝統をひきっいでいるので
ある。
しかしながら、ニューヨークを舞台にする映画は、そういうやり方とはちがった方
向をめざすのではないかぎり、せっかくこの街で口ヶを行なってもそれを生かすこと
ができないだろう。すなわち、『地獄の黙示録』は、フィリッピソで口ヶを行ない、
それをベトナムとしてみせることができたが、ニューヨーク映画は、ニューヨークの
かわりにシカゴで口ヶすることが決してできないような微妙なレベルのことを問題に
するわけだ。そしてそのとき、映画は、思想やメッセージの単なる媒体ではなく、都
市のひとっながりの網の目のなかにおりこまれた都市の身ぶりとなり、映像が都市を
ではなく、都市がみずからを語りはじめるのである。
その意味で、最近ニューヨークの街を最も雄弁に物語らせることに成功した映画は、
オフ・ハリウッドのフィルムメイカー、ジョン・カサヴェテスの『グロリア』だ。ジ
ェイムズ・モナコは、『アメリカン・フィルム・ナウ』のなかで、カサヴェテスの演
出法をチェィホフの作劇法になぞらえ、彼は役者の才能と技術を全面的に生かす"役
者中心主義"の監督だと評しているが、この方向は、彼を一躍有名にした『アメリカ
の影』(60年)から最近の『オープニング・ナイト』(77年)にいたるまで一貫してお
り、『グロリア』もその例外ではない。
実際、マフィアに一家を惨殺された六歳のフェルト・リコ人フィルを演じるジョ
ン・アダムスの演技は、教え、指導された演技というよりも、むしろ彼自身のなかか
ら湧出したものであり、この映画は、彼の個性や才能にあわせてっくられたと言って
も過言ではない。このことは、役者として豊富な経験をっんでいるジーナ・ローラン
スの場合でも同様で、彼女は、"ピープル"誌が言うような"全盛期のハンフリー・
ボガートを思わせるようたタフな女"を見事に演じたのではなく、今日のアメリカの
とりわげニューヨークの一人の女として、個人としての自分を表現しつくす
ことによってあのリアルなパーソナリティをつくり出したのである。それは、決して
マフィアの親分の元情婦という特殊なパーソナリティにっきるものではなく、アメリ
カの働く独身女性の誰しもがふだんは無意識のなかにとじこめているようなひじょう
に広汎なバーソナリティなのである。
が、『グロリア』のユニークさは、カサヴェテスが役者の個性と才能を生かすやり
方が街を描く際にもそっくりそのまま踏襲されており、そのために、役者と街とがみ
ずから自己を表現し、ニューヨークの生きた社会的ダイナミズムをヴィヴイッドに描
き出している点だ。この映画には、ニューヨーク市のブロンクス、マンハッタン、ク
イーンズ、ニュージャージー州のニューワークの街々が登場するが、カサヴェテスは、
これらの街をドラマの単なる書割としてではなく、ドラマの構成に参加する"役者"
としてあっかっている。言うなればカサヴェテスは、あらかじめ決められた効果や雰
囲気をつくり出すために街を使うのではなく、街に自己を語らせるために街を撮影す
るのである。
すでに冒頭のシーンがそれを暗示している。カメラは、ブルックリン・ブリッジの
かかるイースト・リバーの夜景、自由の女神、クイーンズボロ・ブリッジ、朝方のヤ
ンキー・スタジアム・…:をロング・ショットで撮影してゆくが、一見、マンハッタン
島の周囲のひとっながりの情景を移動撮影しているようにみえながら、情景自身は、
夜から昼間へとカメラの時間とは全く別の時間を生きているのである。つまりこの映
画では街は、カメラによってとらえられるのではなく、いわば、カメラに向かって語
りかげてくるのであり、その意味で、ここでは街の"表情"や"身ぶり"が、登場人
物たちの表情や身ぶりにまさるともおとらぬくらい多くのことを物語っているわけで
ある。
惨劇が起きるアパートメント・ビルは、サウス・ブロンクスのヤンキー・スタジア
ムのすぐ近くにある。サウス・ブロンクスと言うと、いまでは、もう少し北方の-
ちょうど『ジャグラー.ニューヨーク25時』に出てくるービルの廃撞がっらなる一
帯を思いうかべがちだが、マンハッタンからハーレム・リバーを越えて数ブロック行
っただげのこのあたりは、ブロンクスといっても、雰囲気はマンハッタンに似ている。
もっとも、マンハッタンは、物理的には碁盤の目のように区画されていて、空からみ
るとどこも同じようにみえながら、実際には通りが一本ちがっただけで環境が別世界
のように変わるから、もっと正確空言い方をしなげれぼたるまい。『グロリア』のお
もしろさの一つは、マンハッタンのそうした多様性をみせてくれる点だ。
ヤクザの組織を完全に敵にまわしてしまったことをさとったグロリアが、銀行であ
り金を下ろし、バスでブロードウェイを110ストリートのあたりまで下って、今度はタ
クシーにのりかえてイースト86ストリート、2番地のアパートメント・ハウスヘ行く。
ここは、フィフス・アヴェニューをはさんでセントラル・バークを問近にひかえ、美
術館や高級アパートメント・ピルがたちならぶ。フェルト・リコ人の子供を連れた、
とてもカタギにはみえない女にすぐ部屋をかすようなホテルもアパートメント・ハウ
スも、このあたりにはない。グロリアとフィルは、フロントに「ウィ・ハブ・ノー・
スペイス」と二べもなく断わられる。が、そのときグロリアのせりふがよかった。
「あたしらは、スペースじゃなくて部屋をさがしてるんだよ!」
もっと庶民的な所に行こうと言ってグロリアは、バスでマンハッタンを南下し、グ
ランドセントラル駅からIRTの地下鉄に乗ってクイーンズのウッドサイドに足をの
ばす。そして駅前のフラット・ハウスで二人は一夜をすごすのだが、その宿泊代がニ
ドル五〇セントである。フィルが窓から外をのぞくと、駅前の路上をハデな服を着た
女が客を求めて走ってゆく。このフラット・ハウスは、売春婦が客をくわえこんだり、
流れ者が一夜の宿をかりるドヤで、マンハッタンにもバワリーやスパニッシュ・ハー
レムなどの貧民街に行くと必ず何軒かあるが、部屋代はもう少し高い。
ところで、グロリアとフィルはこうしたドヤにばかり泊まるわけではない。34スト
リートのペソ・ステイションのホテルにも泊まるし、ニューワークのホテルにも泊ま
る。わたしは、ドヤやホテルを転々と泊まり歩く二人の姿をみて、ギャングに追われ
て逃げまわる女と子供というイメージよりも、ニューヨークにいる典型的な親子のイ
メージを思いうかべた。というのも、ニューヨークてわたしが見慣れた親子というの
は、たいてい片親と一人っ子の組み合わせで、そういうカップルが、幾組も、ごく普
通に、もともと親子というものはそういうものであったかのように暮していたからで
ある。あきらかに、両親そろった家庭というものは崩壊しつつあり、両親がそろった
家庭があっても、その両親は再婚したカップルで、子供は片方の親としか血縁関係を
もっていない場合が多いのである。
その意味では、この映画は、犯罪映画やアクション映画であるよりも、むろん個人
と個人(この映画で、女と子供があくまでも"個人"として描かれているのは特筆に値す
る)の連帯をあつかった映画であり、一見ニューヨークを書割にして血なまぐさい殺
人やサスペンスを描いているようにみえながら、これは、むしろ『クレイマー、クレ
イマ⊥の連続線上にあり、しかも『クレイマー、クレイマー』よりもはるかに鋭く
ニューヨークの社会性をとらえているのである。家庭が部屋とそこに住んでいた人々
もろともにショットガンで破壊されてしまうはじめの方のシーンは、家庭の破壊とい
うことをストレートに印象づけているし、また、そうした家庭の父親をミロスラフ・
フォアマンの『ババ/ずれてるウ!』のバック・ヘンリーが演じているというのもな
にやら暗示的だが、生まれたときから暮してきた家族からある日突然もぎはなされる
子供(フィル)、家事や育児などまっぴらごめんだと思っている独身女性(グロリア)、
"母性愛"とか"血縁"とか"人種的絆"とか"男女愛"とかいった伝統的な人間関
係が全然通用しない状況で個人と個人はいかに連帯しあえるかという問題 これら
は、伝統的た人問関係が崩壊し、"性"、"結婚"、"家庭"といった観念そのものがラ
ディカルに変わろうとしているニューヨークを最も特徴づけている要素であり、ニュ
ーヨーカーにとっては決して避けて通ることのできない諸テーマである。
ダウンタウンの"街路劇"
1
かって"パリ"という固有名詞が、何かロマンティックな夢や期待をかきたてる象
徴記号としての魔力をもっていた一時期があったが、今日それは、"ニューヨーク"
によってとってかわられようとしている。本屋にならんでいる週刊誌やグラビア雑誌
をとれか無差別にとりあげてページをひらいてみれぱ、必ずどこかにニューヨークに
ついての記事を見出すことができるだろう。たとえ記事が見つからないとしても、広
告ページには必ず"ニューヨーク"という固有名詞やニューヨークの写真を護符のよ
うに使った広告が見つかるはずである。活字メディアだけではない。ラジオはニュー
ヨークではやっているというレコードをかけ、テレビはニューヨークの風俗を口ヶし
て放送する。ニューヨークを撮った写真の展覧会も人気を呼び、ニューヨークからわ
ざわざとりよせたアクセッサリーや衣料品の頒布会まであるようだ。モードの中心も
ニューヨークに移ったとかで、衣料品の会社は、ネタや情報を仕入れるために、専属
のデザイナーたちを年に何度もニューヨークに派遣するという。むろん、旅行合杜や
航空合杜の目玉商品がニューヨーク・ツアーであることはいうまでもない。
日本でこうしたニューヨーク・ブームが急速に過熱しはじめたのはせいぜい一、二
年まえのことである。ブゾムというものは、っねにっくられるものなのだから、この
ブームそれ自体は何ら驚くにあたらないにしても、問題は、あたかもこの一、二年で
ニューヨーク自身が大変貌をとげたかのような印象をこのブームがふりまいている点
である。
たしかに、ニューヨークは変わりつつある。マンハッタンでもブルックリンでも以
前よりもはるかに多くの改築工事が行なわれており、ペンキをぬりかえたり、レンガ
を洗いなおしたりした建物も目立つ。スラムがとりこわされ、"高級マンション"が
たち、貧民が96ストリートより南側にはだんだん住みにくくなり、マンハッタンが比
較的高収入の住人で占められる傾向も強まっている。グリニッチ・ヴィレッジやソホ
ーは、かっては貧乏芸術家の街であったが、いまでは弁護士、医者、エリート・ビジ
ネスマン、建築家、TVディレクター、コピーライター、写真家、画商といったいわ
ゆる"プロフェッショナル・アッバー・クラス"の街になりつつある。
こうした変化は、ニューヨークがロソドソやバリ、ローマのように、生産よりもむ
しろ消費に重点をおく街に変ってきたこととも関係がある。ニューヨーク市の最大の
収入源は、依然、衣料品製造であるが、近年は、観光とサービス業からの収益がそれ
を追いあげている。一九七九年にはニューヨークに二億人の旅行老が訪れ、二〇億ド
ルの金を市におとLた。"アイ・ラブ・ニューヨーク"キャンペーンが観光客の増加
にどの程度影響を与えたかは別として、ドルが弱くたって外国の観光客がアメリカに
殺到するようになったことがニューヨークの観光産業の発展を促進したことは事実で
あり、政策的に市もそういう方向に力を入れていることもたしかである。また、宣伝、
コミュニケーション、出版だとの文化産業の本店がニューヨークに集中する傾向もま
すます強まり、外国銀行の支店の数も年々ふえている。こうした変化に対応して、い
ままで生産部門にたずさわっていたブルー・カラーの労働者や移民労働者が職を得に
くくたり、フロリダやテキサスだとのサゾ・ベルト地帯に流出してゆき、その反対に、
知識集約型の産業で働く専門家がニューヨーク市、とりわけマンハッタンに集ま
ってくるという傾向が出てきた。このような"新勢力"は、十五、六世紀のイギリス
の"ジェントリー"になぞらえて"ニュー・ジェントリー"と呼ばれ、都市がこの
"ニュー・ジェントリー"を中心とした街に変化することは"ジェソトリフィケイシ
ョン"と呼ばれるため、ニューヨークでは目下"ジェソトリフィケイション"が進行
中であると言われる。
しかし、いま、もっと大きな歴史的視野に立ってみると、こうした変化は、ニュー
ヨークがこれまでくりかえしてきた重心移動の一つであって、少なくとも、十九世紀
のニューヨークここではマンハッタソーで起こった変化にくらべれば、ほんの
些細な変化にすぎないのである。
たとえば、わたしが一九七八年から八○年まで住んでいたブリーカー・ストリート
は、ダゥンタウンでは最もにぎやかな場所の一つで、週末には真夜中まで人通りがた
えない。が、六、七年まえにはこんな活気はなかった。そこにはめまぐるしい変化が
あったのであって、六〇年代には、ヴィレッジ・ゲイトをはじめとするティト・クラ
ブに人があつまり、フォーク・ソングやジャズの中心地として活気を呈していたが、
七〇年代初頭に、安ホテル"ミルズ"(現在は、高級アパート"アトリウム"として改築
されている)が犯罪人のたまり場となり、やがてその住人の一人が近所の靴屋の主人
を殺害するという事件が起きると、この一帯への客足はばったりとだえてしまった。
その再生は七〇年代の後半になってやっとはじまるのであり、ニューヨークの街はたえずこうした変化をくりかえしているのである。
たしかに、ハーレムのレノックス・アヴェニューが誰でも行くことのできた歓楽の
街からスラムの多い街に、グリニッチ・ヴィレッジが文なしの芸術家の街から裕福な
"プロフェッショナル"の街に、ソホーが倉庫や工場の街からロフトと画廊の街に、
といった変化を枚挙すればキリがないが、格子状の街路と高層の建物に特徴づけられ
るこの街の構造そのものは、十九世紀の前半期に創造されたのであり、それ以後、構
造自体(バーナード・ルドフスキーは、これを「街路しかない荒野」と呼ぶ)は、今日に
いたるまでそれほど変わってはいないのである。それゆえ、ルドフスキーが、ニュー
ヨークの街路は、「都市の部屋であり、豊かな土壌であり、また養育の場でもある」
街路に値しないとみなし、この都市の構造自体を批判するとき、彼はニューヨークを
全面否定しているわけである。
「ニューヨークの発展は、街路はどこにも行き着かず、これといった中心地もないま
まの絶え間ない拡大と土地の飽和状態という、アメリカ式都市の進歩の典型的な例で
ある。ハイウェイと考えるにはあまりに実際的でなく、街路と呼ぶにはあまりに陰気
な交通網が、都市のみすぼらしさの基本的な原因である。どの世代のプランナーも救
済老を自称しているにもかかわらず、町は年々ますます魅力のないものになってい
る」(平良・岡野訳『人問のための街路』)。
だが、こうした上空飛翔的な視点からのニューヨーク批判は、ニューヨiクという
都市とそこに住む人間との屈折した関係を照し出してはくれないように思う。この街
に住む人々は、「街路しかない荒野」、「合衆国で最もむさくるしい環境」、「うんざり
する画一性」にもかかわらず、そのなかで彼や彼女らの生活と文化を形成させてきた
のである。少なくとも、その生活と文化との関連でこの街を見ようとするのならば、
もっとディテールに気をくばる必要があるだろう。
マンハッタンは、たしかに、それを空から見下せば格子状の街路が交叉する"画一
的"な街にすぎないが、この街路のひとつひとつを歩いてみるならぼ、そこにはそれ
ぞれ異なる無数のディテールがあり、そしてこの街は、まさにそうしたディテールに
よって生きているのである。この街は、建築構造的には近代数学的な合理主義の追求
を極限までおしすすめた結果だとしても、現実には、そうした合理性が人問の生活世
界からすれぼいかに人工的で抽象的なものであるか、生活や文化はまさにそうした合
理性を違犯するところに生まれるということ、を例証しているわげである。
そのよい例が信号機だ。世界中でこの街ほど街路のいたるところに信号機が完備さ
れているところはあるまい。しかしまた、この街ほど人が信号をまもらない都市も少
ないだろう。ニューヨークの交通法規には、"ニューヨーク州の公道においては、歩
行老がつねに優先権をもつ"という一項があるそうだが、それかあらぬか、警官も赤
信号の道路を平気で横断する。もともと人間が利用するために開発された近代数学的
合理性が逆に人問を支配するようになってしまったことを合理性の逆説と呼ぶならぼ、
ニューヨーカーの信号無視は、合理性の逆説の逆説である。
2
ニューヨークのディテールを見ようとするならぼ、わたしは単なる観光客であるこ
とはできない。すなわち、たまたま自分が感じた魅力を一般化して街を礼賛するか、
たまたま不幸にも味わわされた退屈さや俗悪さで街全体をけなすというのでは街のデ
ィテールはうかびあがってはこないし、わたしはいまだ、街に住みこんではいないの
である。ただし、ここで言う"住みこむ"は決して滞在の長さのことではたく、街へ
向けられる視角や姿勢のことだ。
たとえば、一九五九年か六〇年頃のニューヨークを"探訪"してその印象を『O0
7号/世界を行く』(井上一夫訳)にまとめたイアソ・フレミングは、「ニューヨーク
でわたしはいちぼん楽しめなかった」と語る。彼にとってこの街は、年々「情味を失
ってゆく」のであるが、それは、ブラウン・ストーンの街なみが鋼鉄とコンクリート、
アルミと銅の外装に変わってゆくからだげではなく、「ニューヨークッ子の冷たさと
邪樫さ」、「勝手を知らないよそ老に対するニューヨークッ子の軽蔑のせいでもある」
という
たが、これは、端的に、個人的な楽しみだげを街に求める単たる旅行者に典型的な
反応ではないか?フレミングは、この本の"まえがき"で、「わたしは一生を通じ
て冒険に関心をもってきたし、海外に出ては、明るい大通りをはずれた路地裏に、そ
の都市のかくされた本当の鼓動をさぐりに行くというスリルを楽しんできたのだっ
た」と書いているが、それにしては、この本の"ニューヨーク"の章は、ステレオタ
イプな記述が多すぎる。これでは、とてもニューヨークの街の「かくされた本当の鼓
動」などいささかも伝わってはこまい。
実際、フレミングがニューヨークを舞台に使った作品『死ぬのは奴らだ』(一九五
九年)を読んでみればわかるように、彼は、同じサスペンス作家でもたとえぼ『四十
二丁目の埋葬』のウィル・ペリーや『バソドラの筐』のトマス・チャスティン、『公
園』のドン・ゴールドなんかにくらべると、ニューヨークの都市のリズムと構造をご
く月並にしかとらえていないのである。もっとも、ボンド小説は、ステレオタイプ化
された世界の主要都市の雰囲気をたくみにストーリーのなかにちりぼめ、世界の主要
都市への読者の先入見をくすぐることでベストセラーになった一面もあるのだから、
そこにフレミング自身の都市観を求めるのは無理というものかもしれたい。
が、いずれにせよ、もしフレミングが本当に「明るい大通りをはずれた路地裏に、
その都市のかくされた本当の鼓動をさぐる」ことを試みたならば、ニューヨークは決
して彼を裏切らなかったはずだ。というのも、フレミングと同じ頃、ほんの「数週間
滞在するつもりで」ニューヨークを訪れ、とうとう一九五八年から六一年までの三年
近くものあいだニューヨークに住みついてしまった桂ユキ子の『女ひとり原始部落に
入る』からは、まさにフレミングの言う"鼓動"が伝わってくるからである。桂は、
フレミングとちがって、快適なホテルや料理のうまいレストランに関心を示すかわり
に、ニューヨークの「文明の雑踏というジャングル」のなかにわけいり、はては即成
の指圧治療師になってさまざまなニューヨーカーとっきあうのである。
この本のなかで桂は、「とりすました高級レストランの裏口などを、のぞき見する
とき、意外にとり乱れた汚いものが見えたりすると、幻滅と同時に、人問らしい親し
みも感じる。マンハッタンのごみためらしいその光景に対して、私はそんた感じを持
った」と書いているが、一般的に言って、ニューヨークの特徴は、どんなに"とりす
ました"ような場所にも、必ず人間くさい親しみのあるドラマの息づかいがある点で
はたかろうか?それは、街路があまりに"機械的"であるために、そこに住む人々
は、逆に、普通以上に"人間的"にふるまわなげれぱならないというところから来る
のかもしれない。その意味では、人間に関心を示すのでないかぎり、ニューヨークは
っまらぬ所だと空言える。むろん、ニューヨークにはさまざまな舞台芸術や美術があ
る。しかし、そういうものならぱヨーロッパにもあるし、ニューヨークの人々から切
り離して論ずることのできるニューヨークの芸術や美術などというものは、それらが
たまたまニューヨークに展示されてあるというだげのことであって、ニューヨークと
いう街それ自身とはほとんど無関係なのである。そうした"文化商品"としての"ニ
ューヨーク"にだったら、いまではむしろ東京での方がよりひんぱんに、そしてより
容易に接触できるのである。
だが、近代的合理主義のもとであえぎ、そこでときにはっかの間の解放をあ
じわい、そして結局はこの合理性のために死ぬ人問一それは、現代都市に住むわれ
われすべてに共通のものだがという観点からすれば、ニューヨークほどそのよう
な近代的合理性の貫徹と逆説とがおりたすドラマにみちあふれた都市はないだろう。
3
マンハッタンには、いたるところに、似たような外観のアパートメント・ビルがあ
る。とりわけ狭い通りでは、アパートメントのないピルをさがすのに苦労するくらい
アパートメント・ビルが多い。それゆえ、単純に考えると、マンハッタンのような狭
い場所にアパートメント・ビルがひしめいているというのは、何とも悲劇的で末世的
なことのようにみえる。当然、このような空間条件では、自分の庭をもつことなど論
外とたる。第一、庭など全然たいかもしれない。よしんば、小さな庭や屋上庭園があ
ったとしても、それらは 建物を自分で所有できるような金持でもないかぎり1
他人と共同で使わなければならない。
だが、他面では、住宅不足がウィーンの街にたくさんの快適なカフェを出現させた
のと同じような逆説的な意味で、住宅の密集がマンハッタンの街路を"庭"や"広
場"に転じ、また、公園をマンハッタンの人々の生活にとって欠かすことのできない
ものにした点も見のがせないだろう。ワルター・ベンヤミンは、"世界最大の賃貸ア
パート都市"ベルリンを批判したヴィルナー・へーゲマソに反対して次のように書い
たことがある。
「賃貸アパートは、住居としてはそれがどれほど恐るべきものであるとはいえ、やは
り町並をつくったのであり、その窓のなかには、ただ悲哀と犯罪のみではなく、他の
どこにも見られないような悲しい大きさで、朝とクベの太陽が映ったのであった。そ
して、階段室やアスファルト道路から、都会生れの少年は、農村の子どもが家畜小屋
や畑から受けるのと同様に、決して失われることのない実像を、いっもっくりあげて
きたのである。このことをへーゲマソは知らない」(小寺昭次郎訳「今日のジャコバン
党員」)。
このような観点からすれば、街路は、単なる交通路ではなく、人々の生活と文化が
アパートのなかから外部へ流れ出て合流する場一すなわち"劇場"となるのであっ
て、そこでは四六時中多様なドラマが演じられているのがみえるだろう。そして、街
路自体はどれも似たようなたたずまいをしていても、そこで演じられるドラマは、通
りが一本ちがえぼ演じられる"劇"の内容から形式までガラリと変わるくらい多様な
のだ。実際、ニューヨークの"街路劇"の数と多様さは、ブロードウェイ、オフ・ブ
ロードウェイ、オフ・オフ・ブロードウェイの劇場内で演じられる劇の数と多様さの
比ではない。ニューヨークが依然芝居のメッカであるのは、ひょっとすると、ニュー
ヨークの街路がすでに"劇場"であるからかもしれない。また、そのわりに今日の二
ユーヨークの芝居が以前ほどおもしろくなくなり、マンハッタンの住人は全観客のた
った一四パーセントしかブロードウェイの芝居をみにゆかない(『ニューヨーク・タイ
ムズ』、80年3月16日号)というのも、日々路上でナマの"劇"に親しんでいるマンハ
ッタンの住人には、型にはまったブロードウェイ劇などみる気にならないからかもし
れたい。あるいはまた、今日のニューヨークの芝居がすでに最盛期をすぎたというこ
とが本当なら、それは、街路の"劇"が最盛期をすぎたということでもあるかもしれ
ない。
芝居の衰退が同時に街路の衰退であり、芝居がっまらなくなっただけ街路もっまら
たくなったということは、少なくとも、ロワー・イースト・サイドの芝居と街路との
盛衰を語るとき、否定しがたい事実である。おそらく、一八二八年以来のマンハッタ
ンの歴史のなかで、演劇の点からみても街路の点からみてもロワー・イースト・サイ
ドほどおもしろい場所はなかっただろう。言うまでもなくロワー・イースト・サイド
とは、マンハッタン島の東南端の部分であり、十九世紀から二十世紀のはじめにかけ
て東ヨーロッパからやってきたユダヤ人移民の居住区として有名になった所である。
そこは、有体に言えば、貧困と汚濁、無秩序と汚辱の支配するゲットーであったが、
そこは同時に、今世紀初頭には早くもマンハッタンのなかで-否、アメリカ合衆国
のなかで最も刺激的な文化が息づいている特殊地帯であった。まさにロワー・イ
ースト・サイドは、二十世紀前半のニューヨーク文化の隠れた原点といっても過言で
なく、ここには一九二〇ー三〇年代に開花するニューヨーク文化のすべてがひそかに
成育していた。一九〇四年の秋にニューヨークを訪れ、合衆国の各地を旅したマック
ス・ウェーバーは、ロワー・イースト・サイドに最も強い印象をおぼえ、母親にあて
て次のように記す。
「彼らはおよそ考えられるかぎりのものをここに持っています。図書室、浴場、屋内
体操場、音楽やデッサンの教室、料理や洋裁、手芸や学術の講座、タソスのレッスン、
小さな子供たちが趣味を高めるためにお芝居をする小さな舞台まで。子供たちやクラ
フの完全な自治これには彼らは何人も容曝させず、部外者にはまた全然中を窺わ
せようともしませんがはしかし一番重要なアメリカ化の方法なのです。青年たち
の生存競争場裡での権威無視がここでは実を結んでいます」(大久保和郎訳、マリァソ
ネ・ウェーバー『マックス・ウェーバー1』参照)。
ウェーバーは、ロワー・イースト・サイドのユダヤ人の演劇をも見、その俳優たち
を「アメリカで最も優れた俳優たち」と絶讃しているが、実際、ロワー・イースト・
サイドは、演劇の分野でも、めざましい進展をとげていた。ブロードウェイでは、デ
イヴィッド・ベラスコの『マリーランドの心』(一八九五年)などのようなメロドラマ
が人気を博していた時代に、ロワー・イースト・サイドでは、ユダヤ系の多様な作品
とともに、すでにゲーテ、ヘッベル、シェイクスピア、トルストイ、ゴーリキ、イプ
セン、ストリソドベルイ、ショー、グリルパルツァー、オストロフスキーなどの本格
的な近代劇をイーディッシ語で上演していた。二十世紀初頭のロワー・イースト・サ
イドの文化状況を生き生きと活写したハッチンス・ホップグッドの記念碑的な作品
『ゲットーの精神ーニューヨークのユダヤ人居住地区の研究』(一九〇二年、復刊一
九六五年)によれば、イーディッシ劇場には、町工場の労働者や縫製工場の女工、ロ
シアの官憲をのがれて来たばかりのアナーキストや社会主義者、ラバイ(ユダヤ教会
師)、詩人、学者、新聞記者などのあらゆる階級のユダヤ人があつまり、そこでは彼
や彼女らの欲求をみたす多様な出しものが上演された。
「赤ん坊をっれた労働者の男女でその劇場はいっぱいだった。ひじょうな熱気がみな
ぎり、舞台のうえの迫真の演技に観客の心からの笑いと涙が呼応する。ソーダー水、
キャンディ、色々な種類の風変りたみやげ品の売り子が、幕間に観客のあいだを自由
にぬって歩く。芝居の最中にしゃべると"シー!"と制止されるが、幕が下りるのを
合図に仲間たちはいっしょになり、その芝居やその週の出来事にっいておしゃべりを
する」。
"イーディッシ演劇の最初の黄金期"と呼ばれるこの時代のイーディッシ劇は、"ア
ート・シアター"運動のはじまる一九一〇年代後半のものにくらべれば、洗練さの点
で見劣りがすると言えようが、にもかかわらず、そこには演劇のあらゆる可能性が未
分化のまま混在していたようだ。ホップグッドは次のように書いている。
「バワリーで上演されるほとんどいかなる舞台のなかにもあらゆる要素が表現されて
いる。概して、ヴォートヴィル、史劇、リアリズム、コミック・オペラがまじりあっ
ている。ゴールディン(イーディッシ劇の社会派作家)の戯曲のなかにすら、作品を成
功させるために意識的に加えた道化的でオペラ的な指示がある。他方、コミック.オ
ペラやメロドラマなどの形式のはっきりしない戯曲のたかにも、気のきいた対話、よ
く知られたゲットー人の典型をたくみな筆致で性格描写した部分、民衆の生活に忠実
なむさくるしい場面といった、リアリズムをよしとする大衆的な気分を驚くほど
例証している部分がある」。
一方、ロワー・イースト・サイドの街路もまた、当時のイーディッシ演劇におとら
ずあらゆるものの混合したアマルガムであったようだ。その情景は、今日、アロン・
シェーナー編『アメリカヘの門ロワー・イースト・サイド一八七〇ー一九二
五』(一九六七年)の写真やユダヤ系作家の文学作品の記述などから垣間見ることがで
きるが、すでにマィヶル・ゴールドは、『金なきユダヤ人』(一九三〇年)のなかで、
彼の少年時代-従って今世紀の初頭1の頃のロワー・イースト・サイドの一街路、
クリスティ・ストリートの情景をヴィヴイッドに活写していた。
「それは悪名高いバワリーから一ブロック離れたところで、安アパートの軒と軒との
谷間には、非常梯子や、寝具や、たくさんの顔がぶらさがっている。
こうした顔は、いつでも安アパートの窓にある。この街には、いつでも、そんな顔
が出ていないことはない。ただもう激しい興奮の街、ひと晩も眠ったことのない街だ。
荒海のように怒号し、花火のように炸裂している。
人びとは、街の真ん中を押し合いへし合いして、喧嘩口論の絶え問がなかった。声
高に呼ぶ手押車の物売りたちが、群をなして、女たちは金切り声で喚く。犬は吠えた
り交尾したり、赤ん坊はぎゃあぎゃあ泣いている。
オウムも、悪態をつく。ボロボロの装をした子供たちは荷馬車の馬の胸もとで遊び
戯れ、祀った女房たちは、戸口から戸ロペと喧嘩まわりをしている。かとおもうと、
乞食が鼻唄を歌ったりしている。
貸し馬車屋では、駅名たちがベンチにだらしなくもたれかかって、ぼか笑いをした
り、ビール瓶からラッパ飲みしたりしている。
ポソ引きや、ぼくち打ちや、赤っ鼻の飲んだくれや、ろくでなしの政治屋ともや、
セーターを着たプロ・ボクサーや、与太者やあんちゃん連中、仕事着の背が高い波止
場人足。イースト・サイド生活の目まぐるしいばかりのページェントが、ひっきりな
しにジェーク・ウルフ酒場のよしず張りの目隠し扉を出入りする。
酒場で飼っている山羊は、歩道に寝そべり、うっとりとして『ポリス・ガゼット』
を喰っている。
イースト・サイドのお母たちが、見事な乳房をあらわにして、乳母車を押しては、
喋舌り合っている。馬車がガラガラと通り過ぎる。鋳掛屋が真鎗をかんかん叩いてい
る。屋台のベルがジャランジャランと鳴る。
挟と新聞紙の渦巻き。売春婦が金切り声で笑いこげている。易者が通り過ぎる。か
とおもうと、白いあごひげのユダヤ人の古着屋が通る。餓鬼たちは手廻しオルガンを
かこんで、踊りおどっている。二人の酔っぱらいが突きあたった。
興奮と挟と喧嘩と混乱の渦!わたしの街の騒音はまるで大きなカーニバルか、ま
たはなにか災害が爆発したように憂いた」(高橋徹訳)。
ここには、スラム街に特有の無秩序と不潔さがあるにはちがいないが、他面、現代
の都市の街路が失いつつある"街路劇"のすべてが集約的に躍動しているようにみえ
る。イーディッシ演劇は、まさに、街路のこうした獲雑さからその素材と活力を、そ
してそのごった煮的な形式さえも摂取したのであり、街路の狼雑さなくしては、イー
ディッシ演劇があのヴァィタリティとダイナミズムを生み出すことはできなかったの
である。
おもしろいことに、永井荷風は、一九〇五年にニューヨークを訪れた際、このロワ
ー・イースト・サイドをぶらつき、イーディッシ劇をもみていた。『あめりか物語』
ゆだやまちゆだやじん
所収の短篇「夜半の酒場」は、荷風が「猶太町に在る猶太人の芝居を見物した帰りぶ
らぶら」ロワー・イースト・サイドを歩いていてふと入ったとある「酒場」での出来
事を描写したものだが、その導入部分には、バワリー周辺の的確なスヶツチがある。
いただショールかぶほΣば
「……女は帽子も戴かず、汚れた肩掛を頭から被り、口一杯に物を頬張りながら歩く。
男は雨曝しの帽子に襟もなく、破げた下襯衣から胸毛も見せ、ズボンのポヶツトには
ウイスキーこびんつツこきいろかみたばこサイドヲークおもて
焼酎の小壕を突込んで、処嫌ばず黄い噛煙草の唾を吐き捨てて行く。で、歩道の面
は此等の人々の疾唾でぬるくして居る上に、得体の知れ窪し気な紙零ら、霧
片やら、時としては破げた女の靴足袋が腐った蛇の死骸見たやうにだらりと横はって
居る事さへある。車道は何処も石を敷いてあるが重い荷車の車輪で散々に曳き崩され、
乾く間差い荷馬の小便は其の凹みくに潤一て蒼黒く濁り淀んで居る。
街の両側に物売る店の種々あるが中に、西洋にも此様ものがあるかと驚かれるのは
電気仕掛にて痛みたく文身仕り侯と硝子戸に看板を掛けた文身師の店である。真
処此処と殆んど門並目に付くのは如何わしい宝石屋と古衣屋とで、其の薄暗い帳場の
陰から背の屈った猶太人の爺が、キョロキョロ眼で世間を眺めて居るかと思へば、路
傍の食物店に伊太利亜の婆が青蝿のぶんく云ふ中を慾得無さきに居眠りして居る。
此様工合に何処を眺めても、引続く家屋から人の衣服から、目に入るものは一斎に
暗鐙な色彩ばかり。空気は露店で煮る肉の匂、人の汗、其の他云はれぬ汚物の臭気を
帯びて、重く濁って、人の胸を圧迫する。」
狼雑さのなかにも何か祝祭的な響きの感じられるゴールドの記述にくらべて、荷風
のスヶツチは、重苦しい陰気な雰囲気をただよわせているが、丁度この時代にニュー
ヨークに住んでいたジョー・ヒルの生涯を描いた映画、ボー・ウィデルベルイ監督
『愛とさすらいの青春/ジョー・ヒル』(一九七一年)のはじめの方には、バワリー周
辺の貧民街をジョーが歩いてゆくシーンがあり、その時代考証のゆきとどいた映像は、
やがて戦闘的な反体制フォーク・シンガーになるジョーの生活環境を印象づけるため
もあってか、荷風が描いたような陰惨な雰囲気にみちていた。
今日でも、ロワー・イースト・サイドには、このような陰惨さと、一見それと矛盾
する何かこっけいな要素とが混在する奇妙な雰囲気が残っている。が、それにひきか
え、イーディッシ劇場の方は今日ではすっかり消滅してしまった。すでに一九一〇年
代に、イーディッシ劇場の中心は、少し北東のセカンド・アヴェニューに移り、そこ
が次第に"ユダヤ人のブロードウェイ"と呼ばれるほどになったが、そのセカンド・
アヴエニューのイーディッシ劇場も、一九四〇年代には、イーディッシ劇の上演だけ
ではもはや経営がなりたたなくなっていった。今日では、かってのイーディッシ劇場
のうちごくわずかのものが、映画館や貸劇場だとえば"オルヒューム劇場"
として昔日の姿をとどめているだけである。
4
一九七五年にはじめて自分の目でバワリーを見たとき、わたしには、目のまえにあ
るバワリー街が、ライオネル・ロコーシソ監督のセミ・ドキュメンタリー『バワリー
25時』(一九五四年)やウィデルベルイの前述の映画などで目にしたイメージとも、ま
た、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『アメリカその日その日』のなかで描いている
バワリーの記述などとも、あまりちがってはいないことを発見して驚いた。ボーヴォ
ワールがニューヨークに行ったのは一九四七年一月だから、三十年近くたっており、
また、ウィデルベルィが"再現"するところのバワリーは今世紀初頭のバワリーとい
うことになっているはずだから、これは不思議なことだった。ボーヴォワールが行っ
た頃には、まだバワリーには高架電車が道路の真中を走り、路面電車も通っていた。
とりわけ、通りにのしかかるような高架線は、陰気な雰囲気をいやましにしていたよ
うだが、いまではすっかりなくなっている。また、照明器具を売る店のたちたらぶ一
画では、そのショーウィンドウに飾られたスタンドやスポットの輝きが年々きらびや
かなものになっており、街の雰囲気は明るさをましている。だが、それにもかかわら
ず、ボーヴォワールが次のように描くバワリーの雰囲気は、全体的に今日でもあまり
変わっていないような気がするのだ。
「バワリーの通りのいたるところに、"女を連れない男"用のホテルが建っている。
ひびのはいった正面、挨っぽいガラス窓が胸をしめっ、ける。それは数セントで一枚の
藁蒲団か、または単に南京虫のうようよする床の一隅を借りることのできる宿泊所な
のだ。もっと貧乏た人びと、ニューヨークの浮浪者たちは、簡易宿泊所へ行って、ベ
ンチに腰かけ、一本の綱に腕をもたせ、その折りまげた腕に頭をのせて眠る。彼らは
金で買った休息の時間が切れるまで眠る。時間がくると綱がひっぱられ、上体がくず
れ、そのショックで目が覚めるのである。さらにもっと貧乏な連中は路上に残る。病
人、老人、落伍者、敗残者、アメリカ生活のあらゆる屠がこの歩道を俳個している。
雨氷や雨の中を彼らはアスファルトの上に寝る。地下室に通じる小さな階段にうずく
まる。さもなげれぱっっ立って壁によりかかり、立ったまま眠ろうとする。彼らはこ
の地上においてただひとっの目的しか持たたい。それは酒を飲むことだ。バワリーの
暗く寒い窮乏の中で、ネオン広告の華麗さが、バーの一軒一軒に天国があることを告
げている。しかし泥酔にも金がいる。彼らは通行人や仲間どうしに最後の一枚のシャ
ツ、穴のあいた靴、刃のこぼれた庖丁を売りつけようとする。朝、ごみバケツから拾
ってきた一枚のぼろをめぐって、バリ公立競売所や株式取引所なみのあらゆる執念が
渦をまく。たいてい彼らは何ひとつ売る物がない。そこで乞食をする」(二宮フサ訳)。
バワリーがなぜ変わっていないように感じられるのかは、二年ほどまえ、ハウスト
ン・ストリートよりのバワリーからニブロックほどのところのブリーカー・ストリー
トにアパートをみつけ、そこに住んであたりをうろっくうちにわかってきた。それは、
考えてみれば簡単なことで、バワリーが今日でも浮浪者や乞食を許容している街であ
るからだった。彼や彼女らの生活態度は、三十年たっても、八十年たってもさほど変
わりはしない。バワリーの安酒場にゆげば、まさにゲイ・タリーズが、ニューヨーク
の風変りなエピソードばかりを集めたルポ『ニューヨーク』(一九六一年)のなかで、
「夏の夜だと、たいてい、手にはビールびん、唇には泡という姿で、サミ一のバワリ
ー・フォリーズで、ボゾがワァワァさわいでいます。彼は、いちどきにシャツを四枚
も五枚も着こみ、労働服の下には水着を着、ショールター・バッグにはレインコート
をまるめこんでいます。たいていのシャツには番号がっげてあります」(稲澤秀雄訳)
一と書いている"先輩"たちと同じ身ぶりのアル中男たちがカウンターで酒を飲ん
でいる。路地に入れば、建物のくぼみにうずくまって死んだようにねむりこけている
男や老婆がいる。むろんこれは、比較的気温の低くない時期の話である。バワリーと
ハウストン・ストリートが交叉するあたりでは、自動車が信号で停車するたびごとに、
バワリー・スタイルの男たち(女はあまり見かけない)がそれぞれに車にかげより、フ
ロンド・グラスをボロでふいては金をせびる。これは、自動車が発達するまでは存在
しなかった"芸"であろうが、物を乞うという身ぶり自体は何も変わってはいたい。
"バワリー人"の生活と"芸"にはさまざまなタイプがあるが、『バワリー人』(一九
六一年)の著者エルマー・ベソディナーは、彼や彼女らの生活とその秘密を知ろうと
思うなら、バワリーの物理的環境をながめてもだめで、バワリーの人々を見なければ
ならないと述べ、ボーヴォワールもちょっとふれていたバワリー名物の"セリ市"で
示される彼らの身ぶりを次のように描いている。
「ある晴れた午後、救世軍の簡易宿泊所のまえの広い歩道は、ときには歩道のはじか
らはみ出すくらい人でごったがえす。みなそわそわしているが、一体に口数は少ない。
二枚のボロボロの上着をかさね着した一人の男が安全カミソリをもって群集をおしわ
ける。
彼はそれを無言で差し出す。売り声は発せず、日光を受けたカミソリがキラキラ光
っているだけだ。別の男がやってきて二言…冒わけのわからぬことを言いながら、ポ
ヶツト用のくしを高くかざす。上着をもっている者もいるし、ツメ切りをもっている
者もいる。また、軍のベルトをもっているのもいるし、子供のオーバーを手にしてい
るのもいるみな、それらをもっている男たちの大きな赤らんだ手とは不つりあい
なしろものぱかりである。」
このような身ぶりとそのヴァリェイションは、今日のバワリーでも、またイース
ト・ヴィレッジの東方のアヴェニューAやBのあたりでもときどき目撃することがで
きるが、こうした"身ぶり劇"が演じられる舞台の雰囲気は、身ぶりが共通であれば
あるほど、時と場所に関係なくますます同じものに感じられてくる。まさに、街路の
雰囲気を決定するものは、街路に生きる人々の身ぶりなのだ。それゆえ、ときには、
ニューヨークのロワー・イースト・サイドと東京の浅草とが横断的に通底しあうこと
だってあるし、マイケル・ゴールドの少年時代のロワー・イースト・サイドで起った
"街路劇"の身ぶりが今日ふたたびスパニッシ・ハーレムの一画でくりかえされるな
らぼ、両者の街の雰囲気は、一瞬にして八十年の時間をとびこえて一つになるのであ
る。
とはいえ、身ぶりは、他面で、街路や建物の物理的な条件の制約を大いに受ける。
ワルター・ベンヤミンは、未完に終ったバリの路地論の草稿「ボードレールにおける
第二帝政期のバリ」のなかで、バリの街路を遣遥していた"遊歩者"が次第に消費者
と化し、その身ぶりを画一化してゆく様をベンヤミン一流の文体でこう書いている。
「妨僅の途上で群集のひとは、夜遅く、まだ客がたてこんでいる百貨店に立ち寄る。
かれは勝手知ったひとのようにそのなかを歩きまわる。ポーの時代には数階もある百
貨店はあったろうか?それはともかく、ポーはこのじっとしていない男を"約一時
間半"その百貨店のなかで過きせる。"かれは売場から売場へ、何を買うでもなく語
すでもなく行きめぐり、放心のていで商品を凝視していた。"街路は遊歩者にとって
の室内だが、その古典的形態がパサージュたとすれば、その頽廃形態が百貨店である。
百貨店が遊歩者の最後の地域だ。かっては街路がかれの室内となったのだが、いまや
この室内がかれの街路とたっていて、かれはこの商品の迷宮のたかを、以前都市の迷
宮のたかを妨僅したように、さまよい歩く」(野村修訳)。
十九世紀にはじまったこのような身ぶりの変化は、今日ますます昂進の一途をたど
っている。それはパリのみならずニューヨークでもそして東京でも同じであり、現代
の都市の街路は、歩行者をことごとく消費者にし、街路を歩く際に購買の身ぶりを演
じないということをそもそも不可能にする。強烈な自己顕示をするけぼげぼしいディ
スプレイと看板は、歩行老の身ぶりを完全に萎縮させ、誰でも似たりよったりの購買
者的身ぶりの型のたかにはめこんでしまうのだ。
ニューヨークの場合、フィフス・アヴェニューやマディスソ・アヴェニューがこの
ような身ぶりの典型を提供しているが、ロワー・イースト.サイドのオーチャード.
ストリートやアーレソ・ストリートも、いまでは完全に消費者の通りとなってしまっ
た。かっては、そこに住む人々のためだけに市場が開かれ、路上では住人たちの狼雑
で祝祭的な"劇"が展開された街路が、今日では、街の外部から車や地下鉄に乗って
買い出しに来る通過者でごったがえすアメ横的な場所"市場"の雰囲気を人工的
につくり出そうとする一種の百貨店一になってしまった。
人々は、もはやこの街路で、この街路特有の"劇"を演ずるのではなく、シャソゼ
リセでもフィフス・アヴェニューでも銀座でもどこでも、街とは無関係にウイン
ドウのなかの商品との関係だけで演じられる"コスモポリタン"的な購買老の身
ぶりに身をまかせるのである。
だが、現代の都市のなかで、すべての人々がその身ぶりを消費にゆずりわたしてし
まったのではなかった。"バワリー人"にみられるように、浮浪者や乞食は、消費の
身ぶりに対して依然距離をとっている。彼や彼女らは、生産し消費するかわりに、サ
ボタージュし、ものを拾う。たとえその"反逆"が結局はアル中という最高度の消費
に屈するにせよ、彼や彼女らは、ベンヤミンの言う"遊歩者"の生きのこりであり、
彼や彼女らのみが、ベンヤミンが、「街路が遊歩者の住居となる。遊歩者は、市民が
自宅の四方の壁のなかに住むように、家々の正面と正面のあいだに住む。かれにとっ
ては、商店のきらきらと光る看板が、市民にとっての客間の油絵と同じもの、それ以
上のもの、壁の装飾なのであり、家の壁が書斎の机であって、かれはかれのメモ帳を
そこに押しあてる。新聞売りの屋台がかれの書庫、喫茶店のテラスがかれの出窓だ」
と書くフラヌールの特質を今日でもわずかに保持しているのである。
5
"遊歩老"の生きのこりである"バワリー人"にとって、アルコールのほかに彼や彼
女らの身ぶりを拘束するものがあるとすれぼ、それは天候と季節という自然の条件だ
けかもしれない。マンハッタンでは、季節や天候は"バワリー人"だげでなくあらゆ
る階級の人々の生活とその身ぶりを規定する不可抗力であり、マンハッタンはその
"合理主義的"な体裁にもかかわらず一否、それゆえに一自然の条件を他の都市
よりもはるかに苛烈にこうむるところなのだ。
ジェイムズ・ボールドウィンが、「そして夏がきた。どこにもその比を見ないニュ
ーヨークの夏が。暑熱と喧騒が、神経にも正気にも私生活にも情事にも、その破壊的
な力をふるい始めた」と書く酷暑と、ジェイムズ・L・ハーリヒイが、「こんな
寒い冬の夜、タイムズ・スクウェァの路上を歩きまわっていると、顔面はこごえて、
血の気がうせ、しゃっきりした頭でものを考えることも、落ちついて行動することも
できなくなる」と書く極寒は、日本の夏や冬のように一定期間同じように猛威をふる
うのではなく、そのあぱれ方が病人の気まぐれな発作のようにたえず変化する。もの
すごく暑かったかと思うと急に涼しくなり、春の到来を期待させるような暖い一日の
翌日には水銀柱がマイナス十五度にも下がったりする。晴れた空が一瞬かき曇り、ス
コールのような雨が降ってくるウッディ・アレンの映画『マンハッタン』の一シーン
も、決してアレンのジョークではない。
そんなわけで、ニューヨークの天候と季節は、"バワリー人"と、いまや消費人と
化したわれわれ一般人とを同じ"街路劇"に参加させるほとんど唯一の"通底器"で
ある。人々は、いやおうたしに、この暑熱と厳寒が強制的にしっらえる"舞台"のう
えで、自分たちの"劇"を披露せざるをえない。そのような強制をきらって郊外や州
外の避難所に逃げ出す者もいるが、ニューヨークにいるかぎり人々は、アッバー・イ
ースト・サイドの金持も、ロワー・イースト・サイドの貧者も、街路で何かを"演
じ"たげれぱたらないからである。
夏の午後、パイプ・レンチで消火栓のバルブをゆるめ、子供たちが水あびをして遊
ぶのは、ニューヨークを描く映画にもよく出てくるシーンだが、これは依然、ニュー
ヨークの街頭で演じられる夏の"民衆劇"のうち最もスタンダードな出しものである。
冷房がなく通風もわるい安アパートのまえの歩道では、人々が涼をとり、ゲームやお
しゃべりにふげっている。街路にはり出した非常階段の踊り場では、半裸で寝そべっ
て体を焼いている女がいる。ふらりとやってきた男が、歩道の石だたみのうえにペン
キで絵を書きはじめる。もっとも、夏の"街路劇"は、このような祝祭的たものぱか
りではなく、むしろもっと深刻なものも少なくないだろう。その点で、ソール・ベロ
一の『犠牲者』は、暑熱の夏が人々の神経をいかに高ぶらせ、混乱させ、あとでは自
分でも信じられないような狂った行動に走らせるかをたくみに描いている。
ニューヨークの夏の熱気が、愚かれたような"演技"に人をかりたてるとすれぼ、
冬の厳しい寒気は、街頭の人々をスラップスティックの身ぶりにかりたてる。ふだん
なら何ら"劇的"ではない日常的な身ぶりが、厳寒のさなかにはすっかり悲喜劇的な
ものに変えられてしまう。そこでは、ロイ・ボソガーツが描いているように、"歩く"
というきわめて日常的な身ぶりさえも、およそスラップスティック的なものになって
しまうのだ。
「ベニーはフローの腕をとり、来た道をもどりはじめた。今度は背後からの風に押し
まくられ、右に左に身体をよろめかせる突風にしっかりと抱きあいながら、コートの
衿を頭の後ろにはためかせて二人は飛ぶように坂道を上がり、あっという問に頂上へ
達していた。下り坂にかかるといよいよ追い風がきっくなり、二人はとうとう駆げだ
した。二人の靴音が高く鳴りわたり、.ベニーのこめかみと目の奥で血管が脈打ち、凍
でつく空気を肺に吸いこみ吐き出すたびに喉はせいぜい音をたて、わき腹に痛みが差
しこむ一本の街灯の前を駆け抜け、次の、また次の街灯をヵツソ、カツソと足音
高く後に残し、ついにマンハヅタソまでたどり着いた。へとへとになった二人はゆる
い駆け足で橋の出ロペ向かい、膝をがくがくさせながらカナル・ストリートに通じる
階段を降りると、最初に目についたレストラン、"バワリー"へ足を向けた」(山本光
伸訳『ニューヨーク物語』)。
ただし、この二人の男女は、真冬にマンハッタン・ブリッジを歩いて渡ったのだか
ら、例として極端かもしれない。しかし、ボーヴォワールが「ニューヨークは、風、
空、寒さ、太陽、疲労など山歩きのあらゆる喜びを私に与える」と書いているように、
冬のニューヨークの街路を歩くということは、それが"喜びを与える"にせよ、そう
でないにせよ、相当にシソドィことであり、快適に空調されたデパートのなかをきら
びやかに飾られた商品にいざたわれて"遊歩"するのとは全く異なる身ぶりをともな
うだろう。
それゆえ、冬になると街路の人通りはめっぎり少なくなる。それでも、バワリーあ
たりにゆくと、安ホテルのまえには、冬だというのにショート・バソツに原色のロン
グ.ストッキングをはいたフェルト・リコ出身の女たちが客をひいていたり、白い蒸
気がふき出している排水溝のところで体をあたためている浮浪者がいたりするが、
人々の多くは、ただ通過するためだけのように早足で歩いている。その身ぶりは買物
と用だしの身ぶりであって、"劇"の身ぶりではない。もしそこに何か"劇"がある
とすれば、そういう"合理主義"の身ぶりが寒さのためにこわぼり、一つのスラップ
スティック"劇"に転じている点だけだろう。
が、そうだとすれば、厳寒の街路で、その最も風変りなスラップスティック"劇"
を演じているのは、自分が"純粋観客"だと思いこみながら歩いているわたしではな
かったか?わたしはこの六年間幾度か中断はあったがルーミング・ハウス
や安アパートに住み、ダウンタウンの街路をうろっいては、そこで演じられる"劇"
をながめてきた。ときには、わたし自身、"役者"としてふるまっているかのような
気になることもあったが、たいていは自分を"観客"だとみなしてきた。だが、所詮
は異邦の人にすぎたいわたしが、とりわけ貧民街をうろっきまわるとき、その住人に
とってわたしはどのような者として映っただろうか?それは、おそらく、風変りな
"登場人物"として映ったにちがいない。といってわたしは、ここで"バワリー人"
からみれば一見安楽に暮しているようにみえるわたしの"一般人"コンプレックスを
語ろうとしているのではない。そうではなくてわたしは、率直に、自分がこの街の本
当の"観客"としては中途半端な存在だと言いたいだげである。
この街には.飽くことなく、ひねもす街路をながめてくらす老人がいる。公園や歩
道のベンチだけでなく、街路にそってたちならぶアパート・ビルの窓辺には必ず外を
四六時中ながめつづげている老人の姿がある。思うに、"街路劇"の"観客"のすべ
ての特権は、まさにこのような人々にこそ帰せられてしかるべきだろう。すでにマイ
ケル・ゴールドは、「安アパートの軒と軒との谷間にぶらさがっているたくさんの顔」
と書いていたが、ロイ・ボソガーツは、「窓枠に据えられた水落とし口の怪獣よろし
く、まじろぎもせずに変わりぱえせぬ光景をただじいっと見つめている窓辺の老人」、
「クロ・マグノン通りの終身監視人」とい三言い方で、"街路劇"の真正の"観客"を
表現している。まさに、ニューヨークの街路の出来事は、このような"終身監視人"
の存在によって"劇"となることができるのであり、それゆえまた、わたしの方も、
彼や彼女らの、いわば写真術以前的なまなざしで街路の出来事をながめるのでなけれ
ぱ、それを"劇"としてみることはできなかったのである。
初版あとがき
いまからちょうど六年まえの一九七五年二月にはじめてニューヨークに行ったとき、
空港についた時点でのわたしは、ニューヨークの街にっいてそれほど興味をもっては
いなかった。そもそも、シソチューグソを通じてアメリカというものに触れ、映画や
書物で一九五〇年代流の大味な"アメリカ"をさんざん植えっけられてきたわたしは、
その後、六〇年代になって、フリー・ジャズやニュー・シネマ、ニュー・レフトに少
なからず心情的なコミットメントをしはじめたにもかかわらず、それらはもともと反
アメリカ的であるがゆえに意味があったので、アメリカの街や人々の生活にはあまり
関心をもたなかったのである。
考えてみると、そうした偏見と無関心をうちやぶる端初はわたしのイーディッシ演
劇研究のなかにあったようだ。七〇年代のはじめの頃からわたしは、管理の昂進する
社会のなかで"民衆文化"や"伝統"をどうあっかうかという問題との関連で、イー
ディッシ演劇のことを調べていたのだが、乏しい資料を通じて徐々にわかったことは、
十九世紀に東ヨーロッバで生まれ、カフカにも多大な影響を与えたこのユダヤ人の民
衆演劇が、ヨーロッバでよりもむしろアメリカで華麗な展開をみせ、そのなごりがニ
ューヨークにはいまでも残っているらしいということだった。そこでわたしは、次第
に、アメリカにおけるイーディッシ演劇の文献をあさりはじめたわけだが、そのたか
に、どうしても入手できない一冊の書物があった。デイヴィッド・S・リフサソの
『アメリカのイーディッシ演劇』(一九六五年)である。
一九七三年の十一月、わたしは思いきって出版社気付でこの著者に手紙を書き、こ
の本を手に入れる方法はないものだろうかとたずねた。二週問後、予想したよりはる
かに早く、アェログラムにびっしりとタイプをうった手紙がとどいたが、それによる
と、問題の本はニュージャージーのマルボロ書店でゾッキ本として五ドルで売られて
いるので、送料を含めた金額をわたしに直接知らせるようにマルボロに手紙を出して
くれたとのことだった。そしてまた、いまニューヨークではイーディッシ演劇はちょ
っとした"ルネッサンス"をむかえており、最低四つの舞台が上演されているという
のである。
これらのニュースはわたしを狂喜させずにはおかなかったし、ニューヨークのある
一面が急速にわたしのなかでクロゥス・アップされるにいたった。のみならず、自分
の著書をゾッキ本で買わせようというデイヴィッドいまではこう呼ぶ方がわたし
には自然だのカジュアルなスタイルがニューヨークそのものといっしょになって、
ニューヨークに対するわたしの関心を新たにしていった。
こういう人がいるのならぱニューヨークもまんざらっまらないところではなさそう
だと思いはじめたわたしは、ひきつづき起った"マルボロ事件"によってニューヨー
クに一層近づけられることになる。マルボロがやっと金額を知らせてきたので、わた
しは早速代金を銀行から送った。だが、四ヵ月たってもマルボロからは本はとどかず、
再三の問いあわせに対してもナシのっぶてで、わたしはっいにマルボロからその本を
手に入れるのをあきらめた。が、すでにひんぽんた文通をはじめていたデイヴィッド
にこの話をすると、彼から早速、ドラマ・ブック・ショップでたまたま例の本がマル
ボロより安く売られていたので、リザーブしておいたから、そちらに注文しなおして
はどうか、そしてマルボロの金は自分がとりかえすから安心せよという手紙が来
た。
『アメリカのイーディッシ演劇』は、結局、ドラマ・ブック・ショップから首尾よく
手に入れることができたのだが、マルボロの一件は、その後、予想以上に大げさなも
のとなった。というのは、電話や手紙で再三再四、わたしの金を返すようにマルボロ
をせっついていたデイヴィッドが、一向にその誠意をみせないマルボロに業をにやし、
とうとうこの一件を一たった五ドルの本の一件をーニューヨーク市の民事法廷に
もちこみ、訴訟手続をとったのである。その結果は、書店側が泣きをいれ、示談にも
ちこんだので、それ以上話がもたっくこともなく、わたしの金はじきにかえってきた。
それにしても、我を通すというのか、市民権の主張の強烈さというのか、こういう人
物のいるニューヨークというところは一体どういうところなのだろうPわたしは、
デイヴィッド=ニューヨークにますます関心をいだかないではいられなかった。
とはいえ、このデイヴィッドーーニューヨークがわたしのなかでニューヨークそのも
のに対する関心として形をなすのは、"イーディッシ演劇のルネッサンス"をどうし
てもこの目でみたくなり、超ディスカウントのティケットを買ってニューヨークに行
ってから一厳密には、マンハッタンの街路に足を踏み入れてから のことだった。
エアポート・バスがクイーンズ・ミッドタウソ・トンネルをくぐってマンハッタン
に入り、グランドセントラル駅前の路上にとまったとき、そこでみた風物と人々は、
した
想像していたよりもはるかに庶民的であり、いわば、わたしが育った時代の東京の下
街の雰囲気をもっており、"アメリカ的生活様式"とは縁遠い慎しみ深さと気安さの
ようたものをもっているようにみえた。
この最初の滞在のなかで、わたしは念願のイーディッシ演劇もみることができたし、
また、デイヴィッド・リフサソをはじめとするイーディッシ文化の学者たちの話もき
くことができた(リフサソとのインタビューは、『日本読書新聞』、75年5月26日、6月2
日号に掲載されている)が、正直のところ、そういうものよりも、毎日足が痛くなる
ほど歩きまわったマンハッタンの街とそこで出会った人々の方がはるかにわたしをイ
ソスバイァーしたのだった。デイヴィッドにしてからが、イーディッシ演劇について
話すときよりも、わたしをダウンタウンに案内し、唾をペッペッとはきながら赤信号
の道路をスィスィ横切り、あたかも自分の家の隣室のドアーをあげるような気やすさ
で小劇場や店のなかに入ってゆくときの方が、はるかに"劇"を感じさせたし、とに
かく、そのような人物がいたるところにいるこの街が、わたしには何とも印象深かっ
たのである。が、同時にこの経験は、演劇的なものと都市の出来事との密接な関係を
考えなおさなければならないことを洞察させもした。
それから六年間、わたしはこのときからはじまったニューヨーク放浪と"ニューヨ
ーク・パラノイア"のなかでものを書き、思考をすすめ、この"バラノィア"をのり
こえようとしてきたと言えなくもない。イーディッシ演劇に対する関心は、その間、
ニューヨークの文化全般に、そしてニューヨークの街で演じられる"人間割"全般に
まで拡大されてゆき、そうした具体的モデルを通じて現代の社会と文化の動向を考え
ようとするわたしの社会哲学的な思考の方も、必然的に、"民衆文化"やエスニック
的"伝統"の可能性の探求から、文化の管理や操作の批判の方へ重心が移動してゆく
ことになった。それが理論的にどのようた形をとり、どのような意味をもつかは、
『主体の転換』(一九七八年)と、『批判の回路』(一九八一年)のなかにあらわされてい
ると思うが、それらの思考の日常的現場をあっかっている本書は、そこでの思考の由
来をもっと具体的、包括的に説明するかもしれない。
いずれにしても、ニューヨークヘのわたしの関心は、デイヴィッド・S・リフサソ
によってイニシエイトされたのであり、彼は、単にニューヨークのイーディッシ演劇
やブロードウェイ演劇をわたしに近づけただげではたく、むしろそれ以上に、この街
の生動性や世俗性への近道を教えてくれた。本書が彼に献じられるのはまさにこのた
めである。
最後に、本書のもとになった諸々の文章を書く機会を与えてくれた『グラフィケー
ション』の田中和男氏、および『月刊イメージフォーラム』の服部滋、『キネマ旬報』
の植草信和、元『日本読書新聞』の山本光久の各氏、そして早くから本書を計画
し、その"モンタージュ"的作製作業に忍耐強くつきあってくれた北斗出版の長尾順
一郎氏に・ここで心からお礼を申し上げたい。
一九八一年二月二十三日
粉川哲夫
文庫版あとがき
ニューヨークという都市にずっと魅きづけられてきたが、この本の時代背景とたっ
ている一九七〇年代後半のようだ時代に出会うことは二度とないだろう。それは、わ
たしがニューヨークに慣れてしまったからではなく、一九七〇年代がニューヨークに
とって非常にユニークな時期だったからである。
一九七〇年代のニューヨークでは、むろん、六〇年代に生まれたアングラもニュー
ジャズも実験的たアートも、もはやかつての活気を保ってはいなかったが、まだその
痕跡はいたるところに残っていた。また、四〇年代に定着したアメリカ的生活様式も、
六〇年代の変革の波をかぶって息だえだえになりながらも、生きのびていた。要する
に、三〇年ぐらいの歴史を生活環境のなかでまるごとたどりなおせる要素が、七〇年
代のニューヨークには存在したのである。
外観が何百年も変わらない都市はいくらでもある。しかし、そのような歴史的記念
碑から引き出せる歴史は、死んだ時間の集積にすぎない。たしかに、研究老の想像力
を発揮すれば、歴史的記念碑も生きた歴史を語り出してくれる。しかし、そんなこと
をしなくても、ただその場に身を置くだけで、その日常環境と人々の身ぶりを通じて
一世代ぐらいの歴史的スバンを体験できるとすれば、それにまさるものはない。ニュ
ーヨークの一九七〇年代は、まさにそのような経験を可能にする貴重な時代だった。
それだけでなく、この時代は、次の変化に向かってニューヨークが大きく動き出す
時代でもあった。工業化が終り、情報やサービスを志向する社会が本格化しはじめた
この時代のニューヨークが変化に富んでいないはずがないが、旧時代の終りと多くの
問題をはらんだ新時代のはじまりとがことごとく鮮明に見えるのだった。
実際、この本の文章を書いたときには、単なる興味に引かれて記述していたことが、
いまになってみると、大きな社会変化をミクロ部分で表現していたことに気づくので
ある。だから、この本のなかには、わたしがその後になって、メディア論や都市論と
いう形で進めるようになる諸テーマの多くが潜在しているわげであり、批評家として
のわたしの方向は、七〇年代のニューヨークでフォーマットされてしまったと言って
も過言ではないかもしれない。
さしたる目的がないときでも、機会があれば、ニューヨークヘ出かげていくのは、
たぶん、この稀なる時代経験をもう一度という願いに突き動かされてのことだろう。
むろん、そのようなことは起こらないだろうし、起こるとすれぼ、ニューヨークとは
別の都市で起こるのだろう。いや、情報テクノロジーが昂進する時代には、それまで
都市が果たしてきたことを別のものが引き受けることになるのかもしれない。たとえ
ばサイバースペースのようなものが……。
その辺の問題については、『ニューヨーク情報環境論』(晶文杜)という本のなかで
検討したが、都市の機能がどのように変化しようとも、都市が存在しっづけるかぎり
は、わたしはニューヨークを最も愛する。だから、ニューヨークを離れると、いっま
たニューヨークにもどれるかということばかりを考える。実際には、年々、そんなこ
とを困難にするしがらみが増え、ニューヨークどころではなくなっているのだが、そ
うなるとますますニューヨークヘの思いが深くなる。
最近の日本の風潮では、こういうのを「西洋崇拝乞食」と言うらしいが、「乞食」
はニューヨークの主役であり、クリストフ・ヴォデイチコが言ったように、ホームレ
スは二〇世紀人の未来を先取りしている。だから、もし誰かがわたしを「ニューヨー
ク崇拝乞食」と呼んでくれるならば、これにまさる賛辞はない。
一九九三年七月
粉川哲夫