もしインターネットが世界を変えるとしたら



身体のヴァーチャリズム

サニー・ヴェイル、カルフォルニア。わたしは、知人のロフトにいた。床の上にシリコン・グラフィックス社のワークステーションIndigo2とIndyがある。そこから細いケーブルがわたしのところまで伸びている。頭には数日前サンノゼのVRWORLD'95の展示会場でデモされていたヘッドマウンテッド・ディスプレー(HMD)"i-glasses!" がのっている。
やがて視界に、こちらに両足を広げて寝そべっている半裸の女の姿が映った。彼女は、こちらにウィンクをし、下着を取り外した。白い腹の下方に拡がったブロンドの薄いヘアーの下に大きな割れ目が見えた。一瞬、そのなかに吸い込まれるような気がして、頭を動かすと、視界に青い煙のようなものが映り、盛り上がった性器の映像とだぶって奇妙なゆらぎが生じた。その煙は、ロフトの片隅に置かれた瀬戸物の皿の上で燃えている香から出ているもので、青く見えたのは、壁に垂らされている布地の色だった。女は、低くうめきながら自分を慰めはじめた。指で開かれた肉の裂け目の口唇部分が濡れて光っている。わたしは、自分の下腹部に快感を感じはじめたが、不思議なことに、それは、決して局所的な興奮には高まらず、次第にその快感が腰から背中を這って頚部の方に上昇して行った。

ヴァーチャル・リアリティ、VR。通常「仮想現実」と訳されているが、この訳語はVRの「現実」も「可能性」も閉ざしている。常識的な定義を反復すれば、以下のような言い方ができるだろう。
コンピュータによって構築された三次元の映像・音・触感のインタラクティヴな人工環境。高性能コンピュータ、映像・音を感知させるヘッド・マウンテッド・ディスプレイ(HMD)、さまざまなセンサー、被験者の動きや選択をコンピュータに伝えるトラッキング・システムなどからなる。
VRは、一九八〇年代にNASA(米航空宇宙局)が開発したシステムによって一般に知られるようになったが、すでに六〇年代に「VRの父」といまでは呼ばれるアイヴァン・サザーランドによってその原形が作られている。七〇年代には、マイロン・W・クルーガーが「人工現実」と名づける実質上のさまざまなVR実験を行なっている。また、飛行機操縦の技術訓練で用いられるフライト・シュミレーションも、VRの原形の一つとみなすこともできる。
コンピュータ技術の飛躍的な発展とコストダウンが進むなかで、VRシステムが生み出す「現実」は、もはや「仮想」とは言えないほどの現実性を持つようになりつつある。特に、軍事(ペンタゴンは、VRシステムで湾岸戦争の実戦を体験済で戦争に臨んだ)、医療(人体を用いずに手術や「人体」実験を行なえるVRシステムがある)、教育(歴史上のある時代・場所を体験させるVRシステムがすでに作られている)、娯楽(ゲームやセックス)などの分野では、すでにVRの技術が積極的に取り入れられており、「仮想現実」と「真の現実」との差はますますあいまいになりつつある。
VRが今後、われわれの習慣や文化を、写真やレコードが出現したとき以上に大幅に変えることは間違いない。ここには、体感や直感にもとづいて判断できた「現実」やフェイス・トゥ・フェイスの対人関係を軽視する傾向が強まる危険がある一方で、単に生々しい映像や音を受動的に知覚するのではなくて、VR技術によって現実を被験者自身が変え、自ら表現していく能動的な側面があることを見逃してはならない。

ヴァーチャル・セックス。毎年サンノゼで開かれるVRWORLDの昨年のプログラムには、ヴァーチャル・セックスについての発表が二、三含まれていた。が、そこで発表されたものは、ヴァーチャル・セックスとは、生身のセックスを電子的な装置によって疑似体験することと解されているにすぎなかった。まさに、FUTURE SEXの第2号の表紙の写真のように、眼前には実存しない性の相手の肉を生々しく知覚させる装置と、生身の性器を実感させる人工性器とによって、あたかも生身の肉体とセックスをしているかのような意識にさせることである。
しかし、性的知覚には、視覚よりも触覚や嗅覚が優位を占め、視覚はそれらに従属的な位置に置かれるのであり、セックスで興奮が高まると人々が目をつむりがちになるのは偶然ではない。そのため、ヴァーチャル・セックスで重要なのは、HMDのような視覚装置であるよりも、むしろ聴覚や触覚の装置なのである。実際に、わたしの例が示したように、精度の高いHMDを用意しても、つまりHMDを通して見る映像が「現実」と類似しているという意味で「リアル」であればあるほど、その体験は、「実体験」とズレを起こすのである。
これは、表現の次元から考えるとすばらしいことであるはずなのだが、VRテクノロジーの現状は、むしろそれを「未熟」な状態とみなし、より「リアル」な再現へ向かって突き進もうとしている。言い換えれば、VRテクノロジーは、素朴リアリズムの段階にとどまっているのである。そのため、一般にVRテクノロジーの具体例として公開されているものの大半が、ウォークスルーのスタイルに依存することになる。これならば、生身の身体が取る複雑で不確定な動きを再現するのにくらべて、ある位置からの視覚を次々に変化させていくような比較的簡単なプログラムと解像度の装置で再現効果を上げることができるからである。

ウォークスルー。建築デザインで使われてきたCADをコンピュータで動画アニメーションにするところから発達したこの技法は、建物の内部や路地などを連続的に移動撮影していくシーンでなじみのものであるが、その映像は、乗り物から見た映像すべてに当てはまるように見えるが、実際には、フロントガラスのはまった車の登場によって制度化されたものである。馬に乗って前方を見つめていれば、風景は移動する。が、そこにはフロントガラスのようなフレームは存在しないから、知覚される世界は身体への内属度を深める。前方を向いて走る馬上の人は、必ずしもを前方だけしか「見え」ないのではなくて、後方も上方も「見え」ている。これは、フロントガラスのフレームやバックミラーの区切られた視覚からのみ世界を知覚するドライバーとは異なるのである。
しかし、テクノロジーと身体との関係は外挿的な関係ではないから、新しいテクノロジーが次第に浸透してくると、それは、文字通り身体そのものに浸透し、身体の知覚様式を規定しはじめる。つまり、自動車浸透後の時代に馬に乗る者は、フロントガラスのない馬上で、見えないフレームをはめながら世界を見ていることがありえるということである。まさにレンズの浸透以降、世界を遠近法で知覚することが身体の無意識に書き込まれ、制度化されたように、自動車もまた、世界の知覚仕方を決定しているのである。
そんなわけで、ウォークスルーは、いま、非常にポピュラーな世界知覚のスタイルになっているのであり、VRのシステムがなくても、その真似事ならば、タクシーの窓から8mmヴィデオをかまえて街を撮るだけでも実現できるだろう。むろん、既存のウォークスルーVRのシステムのなかには、シンシナティ大学のベンジャミン・ブリトンらが構築した『ラスコーの洞窟のVRツアー』のように、通常では入れないラスコーの洞窟内を動きまわりながら洞窟内の壁画を見て「歩ける」ヴァーチャルな美術館を作りあげた例もあり、ウォークスルーの技術がわれわれの知覚の拡大を手助けする。
だが、VRの可能性は、このようなポスト遠近法的な技法にとどまるものではない。むしろ、知覚の中心点や焦点を消去し、感覚を身体全体から知覚場全体に偏在化させることこそが、VRテクノロジーの本領であろう。従って、冒頭で記述した「ヴァーチャル・セックス」の場合も、現在は、いわばポルノ映画の視覚で作られた映像をインタラクティヴで動かせるにすぎないが、もしVRの特性を活かそうとするならば、そのようなやり方はやめなければならないだろう。

HMDの系譜。アイヴァン・サザーランドがHMDのプロトタイプを製作したとき、それはブラウン管が二本突き出たしろもので、重量も相当あり、被験者が頭に装填すると動けないので、実験室の天井から補助紐で吊して使用したという。ただし、そのHMDは、ひところヴァーチャル・リアリティというと、判で押したようにその写真が掲載されたNASAやVPLの製品のように、顔面に小型のテレビモニターを張りつけたような(従って外部は見えない)形態のものではなく、透過型のものだった。これが、密閉型になるのは八〇年代中頃からであるが、おもしろいことに、一九八二年に公開されたデイヴィッド・クロネンバーグの『ヴィデオドローム』には、頭からすっぽりかぶる密閉型の事実上のHMDが登場する。
わたしが使用したHMDには、シャドウマスクのようなものがついていて、それを使用するとわたしの視覚は、完全に映像の世界のなかだけに限定される。逆にそれを取りはずすと、丁度メガネをかけたような状態で外部が、映像と重なった状態で見えるのである。そのため、室内でそのHMDをつけて映像を見ると、その映像が室内に浮かんでいるような感じで動く。もし、室内にヴィデオモニターがあり、そこに映像が映っているならば、HMDから直接わたしの目に飛び込んでくる映像とその外部映像とがダブって、奇妙な映像空間を形成する。そして、その外部モニターが、ナムジュンパイクのインスタレーショのように、十台二〇台に増やされるとき、わたしは、完全に多中心・脱中心のヴァーチャルな映像空間のなかを浮遊することになるだろう。

ケイヴ、CAVE。外界を閉ざし、モニターの映像世界のなかだけに被験者を閉じ込める従来型のシステムは、ゲームやエンターテインメントの領域で使われているが、それは、ゲームやエンターテインメントというものが、日常的「現実」とは別のものだという認識がまだ存在するからだろう。
が、創造的な「現実」は、「ありのままの現実」、「いまここの現実」を変革することのなかにあるのであって、それが「虚構的」なものであるか、「実存的」なものであるか、あるいは電子的なものであるか、身体的なものであるかどうかは問題ではない。とにかく変革しなければならないのであって、しかもその変革は、メカニズムを――その最終的機能を予期しながら――あるスキーマにしたがって変容させるのとは違い、まさにDNAの「組み替え」で言う《リコンビナント》な変革なのである。すなわち、その準備過程は精密で論理的だが、その最終過程は突然変異のように予測を越えている。 そうだとすれば、知覚のインターフェースは、HMDのように「内界」と「外界」とを仕切るものよりも、それらの仕切りがかぎりなく動的なものの方がよいということになる。
イリノイ大学のエレクトロニック・ヴィジュアリゼーション・ラボラトリーが制作したCAVEというVRシステムは、被験者にさまざまな世界を視覚と聴覚から体験させる教育プログラムであるが、被験者にHMDを装備させないことを基本方針にしている。HMDには被験者を抽象世界のなかに閉ざす傾向があるとして、VR映像のコントロールは、HMDのヘッドトラッカーではなくて、テレビのリモコンの変形のようなスティックで行なう。
走っている電車と並行して走る電車が、その速度によって止まっているように見えたり、逆進しているように見えたりすることを経験することがあるように、このCAVEのなかにいてコントローラーを操作していると、自分はたかだた数メートルのエリアを動き回っているにすぎないにもかかわらず、洞窟(ケイブ)のように囲む周囲の壁に映る映像によって、自分がその空間を動き回っているような知覚を経験する。そして、この「ように」の知覚は、やがて全く新たな「である」の知覚に溶解し、周囲世界と自分の身体は、既存の境界線を失って、消滅する。

データ・フレッシュ。アーサー・クローカーとマイケル・A・ワインシュティンは、電子テクノロジーによって変貌した環境下の身体を「データ・フレッシュ」(データの肉)と呼ぶ(『データ・トラッシュ―― ヴァーチャル階級の理論』、一九九四年)。遺伝子工学にとって身体は情報として操作可能な「データ」であるが、その操作によって構築されたものは、システマティックな操作の枠を越えている。ミュータントを生み出すことはできるが、その「生」を規制することは不可能である。かくして暴力が要請されるわけだが、いずれにしても、今日のコンピュータが相手にする「データ」は、活字資料の集積としてのかつてのデータではない。
そして「肉」。いうまでもなく、この「肉」は、モーリス・メルロ=ポンティが遺稿『見えるものと見えないもの』のなかで名づけていた「肉」(シェール)と密接な関係をもつ。メルロ=ポンティは、ヴァーチャル・リアリティの技術に接することはなかったが、電子テクノロジーによって変容されるであろう身体のあり様は、身体の存在地平そのものを記述しつくしたことによって、すでにその記述のなかに書き込まれている。どこでもよい。この偉大な思考のウェッブ(web)のいたるところに、VRについての考察としてとらえ返すことのできる記述がある。

モーリス・メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』。 「諸器官の連合作用が一つ一つの有機体の中で可能だとすれば、どうしてそれが違った有機体の間にも存在しないわけがあろう。」
「われわれの語っている肉は、物質ではない。それは、見えるものの見る身体への、触れられるものの触れる身体への巻きつきなのである」。
「私が物に私の身体を貸し与え、そして物が私の身体におのれの似姿を刻み込み私にその似姿を与えるという、物と私との間のこの契約、この折れ重なり、私の視覚という見えるものの中心にあるこの空洞、見るものと見えるもの、触れるものと触れられるものとが互いに鏡のように映し合うこの二系列」。
「われわれが肉と呼んでいるもの、内側から加工されたこの塊(マス)は、いかなる哲学でも名前を与えられてはいない。」
「触れられている私の右手と触れている私の左手との間の、聞かれている私の声と発音されている私の声との間の、また私の触覚的生の或る瞬間と次の瞬間とに間のこの間隙は、存在論的空虚、つまり非存在なのではない。」(以上、滝浦・木田訳、みすず書房)。

表象=再現から感応へ。電子的な映像技術とコンピュータによるやヴィデオ処理技術が飛躍的に進み、あるレベルでは人間の神経システムが「仲間」と認めることを許すほどの人工的身体環境が生み出されつつある。しかしながら、その「触覚」として存在するものは、あくまでもスクリーンやウィンドウであり、「窓」から世界をのぞいている点では、ルネッサンスの絵画から何も変わってはいないのである。が、VRは、方向としては、単にヴィデオやコンピュータのスクリーンを湾曲させたり、球状にしたりするというよりも、もっと本質的な点で「窓」の思想と現実を終らせる端緒となるべきものである。そのためには、「五感」を前提としたうえでそれぞれの知覚器官に三次元の知覚情報をインプットするような幼稚な五感分業体制を完全に終わらせなければならない。
旧テクノロジーのドラッグですら、「五感」などという境界はあっさりと取り払ってしまうのだから。
 いわば、K・W・ジーターの『悪魔の機械』(邦訳、早川書房)に登場するアンドロイド「パガニニコン」と主人公ダウアーとの関係のように、人間の脳が発する波動に「構造的にカップリング」(フランシスコ・ヴァレーラ、ウンベルト・マトゥラーナ)することを電子的に自由に操作出来る《感応》装置が作られなければならないだろう。この《感応》にとっては、「窓」は不十分である。メルロ=ポンティが「身体・肉体」(CORPS)に対して区別した「肉」(CHAIR)という概念、《感応》の場は、まさにこの「肉」である。[古い記述のリコンビナント]

バイオミューズ、バイオエレクトリック・シグナル・コントローラー。男の頭には、少し厚手のヘッドバンドが巻かれ、シャツをたくし上げた両腕には振動センサーのバンドが巻かれていた。細いケーブルがコンピュータにつながっているが、そのコンピュータは、大衆的なGATEWAY社のパソコンであって、高価なワークステーションではない。が、男が左手を上方に向け、右手でヴィオリンの弓を引く身ぶりをすると、コンピュータのスピーカーからヴィオリンの音が聞えた。男は、そのままギュンギュン弾きつづける。が、彼がやっているのは、両手を虚空で動かすだけである。「今度は、ピアノね」と、男は言い、コンピュータのマウスを動かして、セッティングを変え、両手で指をピアノの鍵盤の上で動かす仕草をした。切れのいいピアノの音が響いた。
VRWORLDのデモ会場で毎年このパフォーマンスをやるのは、この装置の開発者であるアンソニー・ロイド自身である。彼は、極めて微弱な脳波と身体の動きを読み取る高性能のセンサーを開発することに成功し、それでこのシステムを作った。 このシステムは、現在、VR装置のコントロール・システムとして多くの分野で使われており、とりわけ重度の身障者がこの装置によってヴァーチャルな身体を持ち、マシーンを媒介にして会話や行動を行なうのにも使われている。

アナモルフォーシスの場。脳波レベルの知覚とは、視覚や聴覚といった五感分業体制を越えたアナモルフォーシス的な知覚であり、「肉」自身が行なう、「肉」自身による知覚である。そこでは、「世界」に向かって「像」を「投射」する「精神」の代理=再現=表象としてのメディアではなく、世界と身体とがたがいに感応しあう場としてのメディアが起動しているのであり、喜び、快楽、苦痛、重圧、虚脱といった身体感覚が連続的に流れ込み、流れ出している。従って世界は、絶えず歪み、ズレとねじれを起こし、変形を続けるが、その変化に対して「中心」や「基準点」を設けることはできないから、そうした変化はヴァーチャルなものとしてしか認識されない。
メルロ=ポンティは、フッサールを読み換えながら、手と身体の不可思議について語る。すなわち、手とは、触るものであり、同時に触られるものである。右手で左手を握り、それから左手で右手を握りかえすとき、両者のあいだで機能が瞬時に変化する。だから、手は触るものでも触られるものでもなく、両者は連続的に変化しながら共在しているのである。
また、まなざしを同時に見るまなざしはありえず、自分の身体を一望のもとに見出す「絶対的な視点」もありえない。自分=身体を知覚するには他者が必要になるのだが、その関係は外挿的なものではなく、身体の闇・空虚な場が他者なのであり、他者の存在のために身体が予約し確保するさまざまなレベルの空隙というものがあるのだ。メルロ=ポンティは、「世界は身体と同じ生地で織られている」という美しい言葉を残したが、これは、テクノロジーによって汚染された世界に、生身の身体世界をとりもどそうといったハッピーな思想を援護するものでは全くない。
「世界は身体と同じ生地で織られている」とは、世界が、たえずさまざまに変化する身体、ヴァーチャルな身体によって編まれ、ウィーブされ、リンクされ、そういう形で無数の、人間からアンドロイドにいたる他者を分泌し続けるという「現実」を肯定している。しかし、このことは、こうしたテクノロジー世界を全面肯定するものではなく、むしろ、世界をエレクトロニクスの手段でリンクし、ウィーブしようとする現在のインターネットやVRの試みは、そうした身体のヴァーチャリズムの一環にすぎないのであり、それらは、新たなアナモルフォーシスの場によって媒介され、他者性を分泌させられるのでなければ、世界と身体との感応は硬直し、休止してしまうということである。