もしインターネットが世界を変えるとしたら
日常のインターフェイス
インターネットの古さと新しさ
わたしの日課は、仕事場のテーブルでまず電子メールをチェックすることから始まる。インターネットに接続されているコンピュータにメールが溜まっているのを確かめるのである。郵便と違い、相手が出したたびごとに「配達」されるから、こちらが気をつけていさえすれば、相手が送信して数秒後には受け取ることもできる。まだ、若干の制約があるが、画像や音も、電子メールに添付することができる。しかも、これが、料金的にも距離の相違を問わないのだから、使いはじめるとやめられない。
インターネットは、たしかに、距離の障壁を取り払い、グローバルなコミュニケーションを具体化した。しかしながら、いま顕在化しつつあるインターネットのおもしろさは、必ずしも電子メディアそのものの可能性から生じたものではないということを知る必要がある。
電子メールは、手紙の形式とタイプライターの表示方法とが合体したメディアである。また、いま話題沸騰のインターネット上のホームページも、本、雑誌、新聞などの延長線上にあり、それらが本来やりたかったことを具体化したものである。いずれも電子的な技術を用いてはいるが、電子メディアそのものの可能性からすると、ある種、妥協の産物なのである。
インターネットがグローバルであるといっても、それは、英語を使うかぎりでであり、各人が自分の言語を勝手に用いて、それが国境を越えて通用するというわけにはいかない。ビジネス通信のような分野では、今後洗練されることが確実な自動翻訳システムを使い、ある面でグローバルなマルチ言語通信が可能になるだろう。しかし、言語の差異は最後まで残る。そうした差異こそが文化の多様性を保証するからである。
それゆえ、インターネットは、今後、既存メディアに対してある種の決断を迫られることになる。単にグローバルであることやリアルタイム性を追求しているだけでは済まないのであり、メディアの機能差とりわけ活字・印刷メディアの流れを汲むメディア形式と、電子メディアそのもののが内包する形式との違いを深く考えなければならないということだ。
最近、わたしは、大学のインターネット回線を使ってホームページを立ち上げた。インターネットによるメディア実験をする一方で、講義の要点や必要資料をそこに置き、学生がそれらをいつでもどこからでも参照できるようにしようというねらいがある。が、暇にあかせてそのホームページ作りをしていて痛感するのは、ホームページというものが、その名の通り、「ページ」であり、それを構築するためには、活字メディアにおける編集やレイアウトのノウハウが非常に重要であるということである。
メディアの実験者としては、わたしは、ホームページのこうした「ページ」性を一挙に越え、たとえばリアルタイムで操作できる3次元画像(VRML)と音が主のホームページを作ることに関心があるのだが、実用に供することのできるホームページは、印刷・活字メディアの蓄積を無視することができないし、世界のどこからでも覗けるこのメディアを用いて「いまここ」の狭い世界でのみ通用するページを作らざるをえないのである。
今後一〇年間のメディア界では、既存メディアの歴史的蓄積の一つの完成・総合ということが急速に進むはずであり、そのような作業をやりおおせた場所と地平の上でしか、いまのメディア様式をがらりと変えるような新しいメディアが稼働するこはないだろう。
おそらくそのとき、いまコンピュータの基本をなしているかに見えるモニター、キーボード、マウスというタイプライターの母斑を付けた方式が終わりを告げるに違いない。いまの方式は、コンピュータ・テクノロジーの可能性を一〇〇%発揮するために相応しいとはいえないからである。現に、映像と音を操作するのならば、ヴァーチャル・リアリティの技術を用いたキーボードなしのインターフェースの方がはるかに簡単にコンピュータを操作できる。
しかし、それにしても、鉛筆やペン以後、文字を記す道具として定着したタイプライティングという文字表記の方法に代わるものが何であるかということは明確ではない。むしろ、文字よりも画像や音を重視しようという動きの方が次第に強くなる気配がある。文字は新しいメディアとともに衰弱するのか? 二〇世紀のキーボード使いは、文字の最後の従者となるのか?
教室の携帯電話
大教室で講義をしていたら、受講生の誰かがもっている携帯電話がプルプルと鳴った。あわてて立ち上がり、外に出て行った人影を見て、事態を理解したが、一瞬、自分がまちがったところで講義をしているのではないかと思った。むろん、まちがいではない。れっきとした教室のなかの出来事だ。
電車のなかでは、このようなことはいまでは普通になり、それまで沈黙が支配していた空間が突如、会社の営業部のオフィスの空間に変貌したりすることもある。先日は、バスのなかで延々と携帯電話でおしゃべりをしている少女を見た。こうなると、そのバスの空間は、その女性のプライベートな空間に変貌してしまう。
空間がもはや一義的なものではなく、パブリックなスペースが突然プライベートなものになってしまったり、喫茶店のそれが事務所のそれに変化したりするのが、今日の空間の基本的な特徴だ。
こうした変化は、確実に都市から住居にいたるすべての身体空間へのわれわれの関係を変える。都市とは、それぞれにわがままな強制力をもっており、そこへ行ったらわれわれは自分を合わせるしかなく、また、だからこそ、都市を歩き、さまようおもしろさがある。が、そのような都市、身体的な都市は次第に姿を消すことになる。
住居も、ホームつまり「拠点」という意味は薄くなり、あらゆる場所が一時的な「拠点」になりうるが、その分だけ、われわれは、持続的な「拠点」や「根拠地」を失い、本質的な意味でのホームレスになる。が、ホームレスの時代は、ホームページの時代である。
インターネットで、いま、「ホームページ」を作るのがはやりだ。企業も官庁も個人も、自分のホームページを作ってネットに公開することにやっきになっている。アメリカでは、職探しのために自己宣伝のホームページを作る人が出てきている。ネットに載せれば、即、それが全世界で見・読むことができるグローバル・メディアになってしまうから、ここでは個人と大組織を媒介する中間システムはいらなくなる。
ホームページをネットサーフしていると、いま東京のサイトにいたと思うと、次の瞬間、ストックホルムやアムステルダムに飛び、さらに、画面上のポインターをクリックするだけで、そこからアトランタやニューヨークにも飛ぶ。つまり、ホームページの「ホーム」には「拠点」や「根拠地」という意味はほとんどない。
おそらく、今後、このローカルであり、かつグルーバルであるという――《トランスローカル》な傾向が、仕事から生活にいたるあらゆる場面に浸透していくだろう。そのとき、特定の目的に限定されたスペースは存続できなくなるかもしれない。
教室は、当面、授業の場である。が、携帯電話やコンピュータがもちこまれるようになると、教師の話を聞きながら、インターネットにアクセスしたり、学校とは関係のない仕事をやることもできる。現に、大教室でウォークマンを聞きながら、ノートを取る学生もいる。
会社も、会社に直接役立つ業務だけを社員にさせることが難しくなる。早い話、社員のテーブルの上にあるコンピュータをインターネットに接続しただけで、彼や彼女のテーブルは、ただちに《トランスローカル》なものになり、彼や彼女らは、会社の境界を突破してしまう。そこで、日本の会社は、社員の一人ひとりにインターネットを使わせることに躊躇する。たしかに、インターネットが使えるようになれば、その「私」用頻度は、私用電話の比ではなくなるのが常である。
しかし、こうした傾向は、必ずしもインターネットによって生じたものではないのである。インターネットはその傾向を加速させたかもしれないが、それ以前からすでにそうした傾向の下地が生まれていたのだ。頭脳労働にとって、どこまでが「仕事」でどこまでが「遊び」かは厳密には区別できないし、自分が所属している組織のためにだけ仕事をしようとしても、無理であろう。
これは、経営者にとっては頭の痛いことである。そこで、彼らは、ある種の忠誠や信仰にあこがれをいだくことにもなる。一見会社の仕事とは無関係なことをやっていても、最終的にそうした「ムダ」をプラスに転化して会社に還元してくれるだろうと思い、そうした保証を何らかの形で取りたいと思うようになる。
だが、それは無理というものである。これからの組織は、《トランスローカル》に機能するので、自分の会社のテーブルでなされている仕事が他の会社のためであるということもありえるし、その逆も起こりえる。結局のところ、一か所に人を集めて仕事や勉強をさせるという方式がもはや意味をなさなくなりつつあるのである。
デジタルの国粋と国際
電子メディアは、あらゆるものを巻き込み、融合する機能に富んでいるように見えるが、実際には、電子メディアは、分裂と断絶の状態にある。ちょっとCDと名のつくメディアを見渡してみればわかるように、同じ形態と仕掛けを使いながら、CD、CD-ROM、フォトCD、ヴィデオCDのあいだには互換的環境はほとんどないに等しいし、ちょっと古いワープロのフロッピーを異機種で読ませるのは簡単ではない。まして、異機種間で画像ファイルをやりとりするような場合は、まるで「鎖国」時代かと言いたくなるような状況である。
それは、たぶん、ユーザー自身のなかに、異質なものとの交流という意識が乏しいからではないか? 言い換えれば、問題は文化にある。われわれが日常生活のなかで無意識に蓄積する慣習やスタイルが、電子メディア以前なのだ。日本でマルチメディアが、メカの話で終わってしまいがちなのも、日本にはそもそも多言語的(マルチリンギュアル)・多文化的な環境が成熟していないからである。一本別の通りに入ると別の言葉が聞こえ、店の看板の文字と身ぶりががらりと変わるといった環境は、ニューヨークにはむろんのこと、トロントにもヴァンクーヴァーにもメルボルンにもシドニーにもあるが、東京にはないのだ。
しかし、考えなければならないのは、マルチンメディアのために多言語・多文化が必要なのではなくて、多言語・多文化の環境があるからマルチメディアが必要になってくるということである。アメリカで一九二〇年代にグラビア誌が発達したのは、英語をしゃべれない移民者に対してコミュニケーションの手段を与えるためだった。また、オーストラリアでさまざまな形態のコミュニティ・ラジオが発達したのも、一九七〇年代に急速に増加したさまざまな移民のあいだで起こる軋轢を緩和するためでもあった。
こうしてみると、日本でメディア、メディアと騒いでいるのは、メカを売らなければならない産業とメカマニアだけで、あとは、その扇動にのせられているのではないかという気がしてくる。とはいえ、このような状況を嘆いてばかりいても仕方がない。この状況を異文化コミュニケーンの経験に役立てることも不可能ではないとわたしは思う。
多種類のメディア機器が相互交流をもたないまま、過剰に氾濫しているということは、それだけでは廃墟の風景だが、もしそれらを相互にリンクすることができるとすれば、これほどチャレンジのしがいのある状況はないだろう。手始めに、異なるフォーマットのワープロやパソコンをもっていたら、コンヴァータを用意してどのマシンからでもファイルを交換できるようにする。複数のパソコンがあったら、それらをイーサネットでリンクする。あるいは、各機種に内蔵されている通信機能をすべて稼働できる状態にして、相互交流の最低条件をととのえる。最近は、どんなに簡易なワープロでもMS-DOS変換や通信の機能は内蔵されている。それらを、すべてONにすることだ。
逆に、こういう試みを実際にやってみると、メディア機器の現状が、いかに非コミュニケーションに陥っているかということもわかるだろう。そして、ここから、日本が依然として「国際化」からほど遠いところにいることにも思いをはせることができる。
先日、わたしは、古いRA9801を普段使っているUNIXのマシーンにつないでやろうとイーサネットのボードを1万円出して買った。が、このパソコンに自前のネット内で「一人前」にふるまえる資格を与えようとすると、最低三万円ぐらいのネットワークソフトを買わなければならないことを知った。コンピュータは、つねに「国際的」でなければならないというわたしの発想からすると、これは、高いお金を払わなければ「外国人」とつきあえないというのと同じで、ばかばかしいことこのうえない。
「フリーウェアなんかはないの?」と店の人に聞くと、「98の世界では、いいソフトをタダで配布する人なんていないですよ」と言われてしまった。98は骨の髄から「国粋主義」の「国民機」だったのだ。その際問題なのは、そのメーカではなくて、「国民」ユーザーの方であるのだが。
パッケージのうちそと
一九九九年一二月三〇日から新世紀へのカウントダウンまでの二日間のロサンゼルスを舞台にした近着のアメリカ映画『ストレンジ・デイズ』(一九九五年、キャスリン・ビグロー監督、日本ヘラルド配給)には、個人が体験した意識を記録し、再体験させることができる光ディスクが登場する。それは、いま市販されているMDプレーヤーのようなものと、オウム事件で話題になったヘッドギアーに似た装置とで構成されている。
装置を使っているユーザーの知覚をそのまま画面に拡大したスタイルの映像は、VR(ヴァーチャル・リアリティ)でおなじみのウォークスルー。最近のアメリカ映画では、このやり方が好まれているようだ。この映画では、それを駆使して効果を上げている。
日本では、一時VR(という言葉)の軽薄な流行があり、その後パタっと消えてしまったが、九六年はマスコミもVRのことをとりあげなければならないだろう。VRそのものは、この間に、研究の段階を越え、医療、教育、エンターテインメントの領域で商品化されはじめているし、モニターとキーボードからなるいまのコンピュータ・システムに代わる新しいインターフェースの基本技術として注目されている。それが、九六年には本格的な展開を示すと考えられるのである。
『ハートブルー』で名を上げた女性監督キャスリン・ビグローは、サンフランシスコの出身だが、西と東とではいまだにVRのとらえ方が違う。西側は、どちらかというと、VRを瞑想やドラッグの延長線上でとらえる。東は、道具と割り切るようなところがある。むろん、この映画は、前者の路線でVRを取り上げる。
この映画の舞台となる世紀末のロスのアブナい雰囲気については、色々書きたいことがあるが、ここでは、問題のVR装置について考えてみたい。わたしは、いつも映画の本筋よりも瑣末なところに関心をもちすぎる癖がある。
脳磁気や脳波を電子的に記録することによって、体験の一部を再生する装置は実際に存在するから、今後、この映画のように、ある体験全体を疑似的に再体験させるような装置が出現する可能性はないわけではない。が、いまわたしが問題にしたいのは、その可能性についてではなくて、人間の記憶をパッケージにするという欲望は、どこから発しているのかということである。
パッケージとしてのメディアは、本とともに始まった。そして、数百年がたち、埓を切ったように写真、レコード、映画、ビデオ、光ディスクが登場する。これらのメディアのなかには、出来事なり個人の意識なりを丸ごと梱包したいという欲求が色濃く現われている。その間に登場した無線、ラジオ、テレビのような、パッケージするよりも放散することを主な機能とするメディアと対照的な関係に立つ。
わたしが興味を持つのは、そうしたパッケージ・メディアが、いずれもハンディな形を目指していることである。メディアを人格化するのならば、人間の身体と同程度のサイズでもよいように思われるが、人間と同等の評価を受けるのは、手の平にのるサイズでなければならないようだ。
これは、ひょってして脳髄の大きさと関係があるのだろうか? 手は脳の延長だという考えがあるが、そうだとすると、両手で脳髄をかかえた状態とは、まさに反省や思考の具体形であり、手の平にのるというハンディ性は、知性的なものを目の前で所有するということの最も基礎的な条件なのかもしれない。
しかしながら、人間ないしは人間的なものを所有するということは、権力者の発想であり、抑圧や強制なしには現実化しえないことである。だから、パッケージ・メディアには、常に、人を観念やイデオロギーのなかに閉じ込める機能がつきまとっており、それを使用する側は、そうした機能を絶えずはずしていく努力をしなければならないのである。
が、その意味では、二〇世紀末になって、最初からパッケージ性を欠いているメディアが主導的な力を持ってきたのは興味深い。すなわち、リアルタイムで情報を放散する通信衛星やインターネットである。これらは、CD-ROMのような(どんなに大きな容量のデータをメモリーできるようになるとしても)所詮は閉ざされた回路を循環するだけのパッケージ・メディアよりも、はるかに脳や神経細胞に似た機能を所持している。
ただし、その代わり、このメディアは、開放状態に置かれるのでなければ、その本来の機能を失ってしまうため、誰かがそれを特権的に所有したり、配布したりすることが出来ないし、してはならないのである。というのもそれは、放送される番組を全部視聴することなど出来ないのがあたりまえであるからではなくて、そもそも、生きた人間の経験が、つねに開放状態にあり、パッケージ出来ないということにもとづいているからでる。
パソコン文体
最近のパソコン通信のなかには、インターネット上でメールをやりとりすることが出来るところも出てきたが、そうしたパソコン通信のネットワーカーたちは、自分らが「本格的な」インターネット・ユーザーでないことに引け目を感じているようで、インターネットへの転向組も増えている。
しかし、問題なのは、パソコン通信でけっこうおもしろい文章を書いていた人が、ひとたびインターネットに転向すると、急につまらない型にはまったコンピュータ屋(失礼!)的な文章をを書くようになる傾向がままあることだ。
それは、もともと、パソコン通信の世界でも見られたもので、要するにコンピュータ通信を始めた理系の人たちが編み出した用件主導の文体と形式である。これが、ある時期、パソコン通信の世界に「マシンに弱い」人々が参入するようになって弱まり、消滅したかに見えたが、最近、その「マシンに弱い」タイプの人たちまでが、インターネットでそのスタイルを復活させているのである。
たとえば、電子メールをもらって返事を書く場合、相手の文章を一々引用しながら対話的に書くスタイルがある。
>原稿のシメキリを延ばしていただけな
>いでしょうか?
連休が続くので不可能です。
> が頭についている行が相手の文章であるが、インターネットのサービスメニュには大抵このような、届いたメールの必要部分をドラッグしてコピーすると、自動的にこの鈎印を頭につけてくれる機能が入っている。
これは、日に何十通もビジネス・メールのやり取りをする人にとっては、相手が何の話をしているのかがすぐわかって便利かもしれないが、私的なメールの場合には、バカみたいな印象を与える。
その昔、わたしが初めて通信機能のついたワープロでパソコンネットにアクセスして、コンピュータのプロ(一〇年まえは、パソコンネットのユーザーの大半はその手の人たちだった)から返事をもらうと、しばしば、このようなスタイルで書かれていて、「差をつけられた」ような印象をもったことがある。むろん、同じスタイルを手動で書くことはできないことはない。しかし、プロ諸氏がアプリケーションの内蔵機能を使って、こちらのメールを瞬時に取り込みながら返事を書いていることを思うと、差をつけられたという気持ちになるのである。
しかしながら、わたしは、この手のメールを何通ももらっているうちに、自分の書いた文章をもう一度出くわすことにうんざりしてきた。また、相手によっては、その「便利な」引用機能を使ってこちらの文章を全文オウム返しに引用してくる人もいるので、通信時間をいつも倍要求されることになり、料金もかさむ。わたしは、だから、このようなスタイルはなるべくやらないようにした。
コンピュータ通信は、筆記や印刷のメディアとは別のことをやるべきだと思うのだが、現実には、手紙やパソコン通信で蓄積された表現の文化を越えるどころか、それらよりも後退したことをやっているのがインターネットのメールなのである。
もっとも、上記の反復スタイルの常習者によると、メールをもらったとき、> 印を付けながら読み、返事を書いていると、対話をしているような気になるという。しかし、この「対話」は、相手の言ったことをオオムがえしにしながら返事をするような、ちょっと奇妙な対話である。
ふと、それで思い出したが、ソフトハウスなどに電話をしたとき、こちらの用件をいちいち反復して聞き返す(いや、モノローグのように言うといった方が正しいだろう)人に出会うことがある。フェイス・トゥ・フェイスの関係でも、このスタイルでしゃべる人がいる。落語の世界では、この手のキャラクターを「与太郎」と呼んでからかったものだが、いまとなっては、それは「差別」になるのかもしれない。しかし、そのようなオオム氏は、「与太郎」とは程遠い、知的な人物であることが多い。ルーツとしては、これは、理系のコンピュータ文化に端を発するディスクールが、日常言語の世界に入り込んだのかもしれない。
そうだとすると、わたしのようにうんざりする者がいようと、いまいと、今後ますますこのスタイルが浸透していくことが考えられる。困ったことである。
電子メールの場
電子メールは便利だけれど、返事を書くのが大変だと言う人がいる。その手の人のなかには、日に何十通もメールをもらうので、メールのSubject のところをあらかじめ検索して、重要と思われるものだけを読むといった工夫をしている人もいるらしい。わたしは、こういう人とメールのやり取りをするのは御免こうむりたいが、そもそも、これでは、せっかくの電子メールの機能を十分に発揮させることができないのではないかと思う。
メールをやりとりしていれば、それなりに返事を書く時間はとられる。が、それで閉口するようなら、電子メールはいらなかったのであり、返事が書けないほどメールが来るとすれば、そのつき合いの形態自体に問題があるのである。それに、メールをもらったから、何はともあれお返しをしなければならないという脅迫観念をいだいたり、逆にメールを要件の通信にしか使わず、書き出しはいつもメモリーされた決まり文句を使うとかいうように、電子メールが普及したといっても、それを取り巻く環境は、これまでモノをやり取りしてきた物流のカルチャにとどまっている。
電子メールは、交換のための道具ではなくて、何かを共有するための場である。だから、場を開いたら、その場を持続的に機能させる努力が必要となる。というよりも、本来は、共有の欲求があって初めてそういう場が生まれるわけだから、メールが場として機能せず、単なる迅速性や便利さを満たすはずの(しかし、実際にはそのために振り回されている)道具としてしか機能していないのなら、別の方法でもよかったのである。
テクノロジーとは、単なる手段や道具ではない。一つのテクノロジーには、それ特有の文化やライフスタイルがセットになっている。だから、そうした文化やライフスタイルを受け入れる条件がととのっていないところに新しいテクノロジーが導入されても、それは、ただの一時的な流行で終わってしまう。
いまの日本に、インターネットのテクノロジーに固有の文化やライフスタイルを受け入れる条件は、どの程度ととのっているのだとうか? むろん、日本だけではない。インターネットの先進国のアメリカだって、インターネットとともに文化やライフスタイルががらりと変わってしまったわけではない。
一つ言えることは、アメリカの場合、インターネットを欲求するところからインターネットが発展してきた部分が依然として濃厚にあるために、ある所には、確実にインターネット・カルチャーと言うべきものがあり、そこでは、これまでとはかなり違った人間関係やライフスタイルが生じつつあるということだ。
いまわれわれが普通に使っているインターネットは、メールを送ったり、WWWのホームページをのぞいたりする際にそのつどログインをして、コンピュータと回線を接続するという方式をとっている。そのため、基本的には、手紙を書いてポストに投函したり、チャンネルを選んでテレビを見るのと変わりのないイメージでとらえられるがちだ。
しかし、今後のインターネットは、(すでに直接回線を引いているところではそうであるように)、常時自分のコンピュータと回線とがつながっており、インターネットに接続している全世界のユーザーたちといつも〈いっしょにいる〉というイメージでとらえられなければならない。まあ、〈いっしょにいる〉といっても、同じ部屋のなかに集団で雑居しているのではなく、別々の「部屋」にいるのだが、部屋と部屋とのあいだは隔離されてはおらず、入ろうと思えばいつでも入って行けるのである。
Xerox のパロアルト研究センター (PARC) では、卓上のコンピュータから別のどの部屋へもアクセスすることができるようになっており、コンピュータの画面には、相手の姿がリアルタイムの動画で映る。誰がいつアクセスしてくるかわからないから、当然の闖入を嫌う人は、カメラを別の映像に切り替えておくこともできる。
この種の装置は、集団的な相互監視の装置にもなりえるが、支配と従属の関係がない脱ヒエラルキーの世界では、逆に、近代社会を支えてきた「プライバシー」と「公共性」とがセットになったライルスタイルを越えたしなやかな人間関係を展開することもできる。が、それには、電子テクノロジーのもつボーダーレスの機能つまり境界を取り払う機能を最大限に発揮させなければならない。
PARCの場合、研究所内に張りめぐらされた光ファイバーケーブルと、各室に置かれたハイパワーなワークステーションというすぐれた技術条件のなかでこうした実験が行なわれているわけだが、何もこんな条件がなくても、似たことを通常のLANの環境で行なうことも可能なのである。LANの回線に結ばれた端末にテレビ会議やテレビ電話の機能を持たせることは決して難しいことではない。が、問題は、そうした環境に対する対応であり、そもそもそういう環境をいまの日本の会社なり組織なりが要求しているかどうかである。
カメラはメディア
値が高いのであきらめていた電子カメラが、六万程度の価格で売り出されるというニュースを読み、早速、新宿西口のヨドバシカメラに買いにいった。ここには、デジタルカメラのコーナーがあり、すぐに見本を手にすることはできた。思ったよりコンパクトで、しかも多機能である。ふつうのヴィデオモニターに接続して画像が見れるのもよい。これは買いだ、と思った。
ところが、現物はまだ発売されておらず、「入荷は三月です」と言われた。「それも、予約のお客さんだけですね」。デジタルカメラのコーナーの人は、あまり気のない応対だった。「ふん」と思ったが、何かこだわりを感じ、ふだんならそれでやめてしまう気まぐれなわたしが、「予約できるんですか?」と本腰になった。
それから数週間がたち、ヨドバシから入荷の電話が入った。早速受け取りに行き、テストしてみる。電球の光だと画像が黄ばむといった制約はあるが、一〇cmほどの距離からの接写もできるし、本のページも、はっきり読める状態で撮れる。フルで九六枚撮影でき、撮った画像はそのつどファインダー代わりにもなっている5インチの液晶ディスプレーで見ることができる。プレゼンには最適だし、コンピュータへの出力端子も出ているので、撮った画像をコンピュータに取り込んで使うこともできる、と思った。
しかし、QVー10 というこの電子カメラの機能は、むしろ別のところにあった。そのような道具としてもなかなか便利なのだが、これまでわたしが経験したことのない機能を、この小さなマシーンは、もっていたのである。
4月に入ってすぐ、わたしはニューヨークに飛んだ。その折り、このカメラをバッグのなかにしのばせていったのだが、もともとわたしは記録や記念写真のたぐいを撮るのに興味がなく、しばらくのあいだ使わずにいた。が、ある晴れた日、息ぬきにスタテン・アイランド・フェリーに乗った。わたしは、ニューヨークへ行くと必ずといっていいくらい、マンハッタンの南端とスタテン・アイランドを結ぶこの連絡フェリーに乗っている。この船の甲板からマンハッタンの南端が遠ざかっていく(帰りには近づいてくる)のをながめるのが好きなのだ。
その日、例によって後甲板からマンハッタが遠ざかるのをながめていると、ふと、QVー10のことを思いだして、バッグから取り出した。パワースイッチを入れると、小さな液晶モニターにマンハッタンの最南端が絵はがきのような構図で映っている。たまに「観光写真」を撮ってみるのも悪くない、と思い、シャッターをパチパチ切った。
ところで、このカメラ、「パチパチ」と書いたが、電子シャッターなので一切音がしない。また、内臓メモリーに記録するまで数秒の時間を要するから、「パチパチ」というよりも、「パ~~(中略)~~チ」という感じだ。
そんなことをくりかえしているうちに、かたわらでやはり景色を眺めていた人々の視線が一斉にこちらに向けられているのに気づいた。そして、そのなかの黒人の夫婦が、最初二人で「あれは、ヴィデオカメラかしら」「ちがうんじゃないか・・・」とささやきあっていたが、わたしと目が合うと、笑みを浮かべて話しかけてきた。
わたしはセールスマンをやったことはないが、メカの説明は下手ではない。「これは、ですね、ディジタル方式のスティル・ヴィデオ・キャメラでして・・・」とレクチャーしながら、実際に二人の姿を映して見せる。「グレイト!」そのおじさんは叫び、「どこで買えるのか」と聞いてきた。「いや、それが、これは、日本で出たばかりで、まだ日本でもリザヴーヴしないと買えないんですよ・・・」
「やっぱり日本製か」おじさんが、ちょっとがっかりしたような表情をしたとき、丁度出発まえに日米自動車交渉のトラブルで米政府が強硬な態度をとったニュースを聞いたばからいだったので、おじさんの態度がひどく気になった。が、彼が言わんとしたのは、「こういうものを発明するのは日本のメーカーらしいね」ということであるらしかった。
そんなことから、一〇数分のあいだ、ヴィデオやコンピュータの話をすることになったのだが、あとでプレイバックしてみたら、マンハッタンの南端の映像はたったの三枚で、あとは、この夫婦の顔と、「新聞の文字も写せるんですよ」といいながら、わたしが接写して見せたニューヨークタイムズの紙面の映像ばかりで、写真としては構図もいいかげんなのだった。
が、これは、メディアとしてはすばらしいことである。そもそも人と人とを結びつけない記録なんて無意味だが、われわれは、しばしば記録のための記録を積み上げてしまう。カメラというものはそのために使われ、カメラがその場で人との媒介になるなどということは決して多くはないからである。
秋葉原のテレビ電話
テレビ電話というものを初めて街の電気店で見たのは、七、八年前だったと思う。一九八四年に「電電改革三法」が成立し、翌年から電話線のなかに電話信号以外の信号を自由に流すことができるようになったことから、FAX、パソコン通信、そしてテレビ電話のような、ディジタル信号を使ったさまざまな電話メディアが、マーケットに登場するようになったのである。
しかし、テレビ電話機は、当初、非常に高価だった。FAX機も安くはなかったが、それより需要の少ないであろうテレビ電話機は、一台二〇万円以上したと記憶する。が、不思議なことに、一体誰が、何のために使うのを想定して作られたのかわからないこのテレビ電話機が、有名メーカーから続々売り出されるようになった。
わたしは、当時エレクトロニックスを使ったパフォーマンスをあれこれ試みていたので、是非このテレビ電話機が欲しいと思ったが、テレビ電話機は、一台だけではどうにもならない。とすると、最低でも数十万を投資しなければならない。わたしのパフォーマンスは、金をかけないことを本意とし、高価なエレクトロニクス機器でもその百分の一の費用で自作して使ってやろうじゃないか、という心意気でやっていたので、バカバカしくて買う気にもならなかった。
実際、高いと思ったのはわたしだけではなかったらしく、各社がこぞって発売したテレビ電話機は、ほとんど売れなかったようだ。広告では、近い将来、どの家でもテレビ電話を普通に使うようになるかのような雰囲気であったが、それは甘い観測であった。だから、数年後には街の電気店からその小型テレビのような形をした電話機は、姿を消してしまった。
ところが、それから一年ほどしたある日、わたしは秋葉原の電気街を歩いていて、ある店先に山積みされた箱入りのテレビ電話機に再会した。「セール」の札がついており、二台ワンセット、一九八〇〇円とある。その店は、中央通りに面しているのだが、わたしは普段はあまり入ったことがない。このセールに気を引かれてなかに入ってみると、店の一角にはテレビ電話のコーナがあり、各社の製品が並べられている。値段を尋ねると、みな五〇%以上の値引きになっている。わたしが見切りをつけていた間にも、初期の頃よりも安い製品が出されたらしいが、それでも売れなくて、ダンピングしているのである。店頭に積まれている製品などは、文字通りの投げ売りである。なんだ、こいつはおもちゃだったんだ、わたしは急にテレビ電話への興味を失ってしまった。
それでも、秋葉原に行き、この店の前を通るたびに、この値段なら、とにかく買っておこうかという気に何度もさせられたが、結局買わなかった。いつも同じ箱が積まれており、一向に売れている気配が感じられないのがブレーキになったのである。
これは、やがて後悔を生むことになる。というのは、次第にわたしは、このテレビ電話がなかなかのスグレもので、一つの箱のなかにカメラとモニター、モデム、それから最低四画面をストックするメモリーを内臓しており、わたしのパフォーマンスでは大いに使い道があることを発見したのだが、そのときには、店頭から姿を消してしまったからである。
なくなると、欲しくなるもので、今度は八方手をつくして探しはじめた。しかし、それがどこにもないのである。店の人に尋ねると、「全部売れてしまった」という。あんなに売れ残っていたのが、数ケ月の間に急に売れてしまうなんて、わたしは信じられなかった。
その真相が判明したのは、都市の風俗事情に詳しい知り合いから、テレクラの新スタイルの話を聞いたときであった。それによると、最近、テレビ電話を使った風俗サービスを始めたところがあるというのである。これで、秋葉原から安売りのテレビ電話機が消えてしまった理由がわかった。
それから五年ほど経過した今日、マルチメディアの掛け声とともに、また新しいテレビ電話が店頭に並び始めている。今度は、カラー画像が送受できて、形もコンパクトだ。しかし、またしても定価は数十万円。これでは、また落ち延びる先は家庭ではあるまい。なぜ、新しいテレビ電話は、たとえば、それだけでインターネットの通信もできるような機能を内蔵するような工夫をこらさないのか? そういう機能を加えても、本来テレビ電話自体が立派なパソコンなので、余分な費用はかからないはずである。
マルチメディアの要諦は、境界の撤廃である。マルチメディアとしての電話は、これまでの電話の境界を越えなければならない。そして、そうした脱境界の有力な実例としてすでにインターネットがあるとすれば、それを無視する手はない。
リモコンの未来
チャンネル・サーフィンというのは、チャンネルを次々に切り替えながらテレビを見ることであるが、わたしなんかは、リモコンが登場する以前からある種のチャンネル・サファーだった。リモコンの登場以前は、チャンネルを電子スイッチで切り替えるのではなく、物理的に接点を切り替えていたので、あまりカチャカチャ回しすぎると、接触不良を起こして画面の映りが悪くなるのだった。
それから、もう30年以上がたとうとしているが、一向にチャンネル・サーフィン
用のリモコンというものは発売されていないのはなぜだろう? なるほど、いまのリモコンには、音量調節はもとより、「音消」とか、「音声多重切り換え」とか、ビデオのコントロールとか、さまざまな機能がついているが、番組を次々と切り換えて見るのには役立たないものばかりである。
たとえば、それを押すと、設定した時間間隔でチャンネルを自動的に切り換えてくれるボタン。題して[オートクルージング]。見たい映像があったら[STOP]を押し、しばらく見る。そして、また[オートクルージング]にする。
また、[スナップショット]とかいって、それを押すと数秒の画面をメモリーしてくれるコマンドもほしい。数秒の動画でも、それをためておくメモリー素子というと、まだ高価だから、瞬間の静止画でもよい。
このごろのテレビは、色調整のボリュームを前面には出していない。色は標準設定で見ることになってい。しかし、マルチメディア時代のいま、画面の色を自由に変えられないなんて、随分遅れたつまらない装置ではないか。
先日、シリコンバレーのサンノゼで安いモーテルに泊まったら、壁に生えたようなかっこうで取り付けられているテレビの色がすごかった。カラーテレビなのだが、画面が緑色なのだ。見ると、旧式のタイプで、音量調整のボリュームのそばに色調整のボリュームが付いている。誰かがそれを回したにちがいない。が、その意外性が何ともクールな感じがしてよかった。
一時期、CMをカットして録画するためのインターフェースが出まわったことがある。それは、逆に使うとCMが映ったときだけVTRを作動させるようにもできるので、わたしも、CMを採集するために借りて使ったことがある。なぜか、じきに市場から姿を消した。時折、秋葉原で1台九千円ぐらいで売られているのを見かける。この機械の機能は、チャンネル・サーフィンのために是非取り入れたい。
CMになるとチャンネルを換える人が多いが、この機能をセットしておくと、CMになったとたんに自動的に別のチャンネルに飛び移る。最近は、局が変わってもCMの時間が同じで、ある局がCMになると、もはやCMが映っていない局を見つけるのが困難だといったことがよく起こるから、そういうときにこのボタンを押すと、CMのサーフィンができる。
ところで、チャンネルサーフィンは、テレビの末期症状である。というのは、あるシーンから他のシーンにどんどん飛び移るというのなら、テレビよりもコンピュータの方がはるかに有利だからである。実際に、MosaicやNetscapeのようなマルチメディアライクなブラウザを使ったインターネット通信では、画面上のポインターをクリックしながら、あちこちのサイトにサーフする「ネットサーフィン」があたりまえである。「ブラウザ」の動詞「ブラウズ」は、「拾い読みする」という意味だが、コンピュータ通信は、おそらく、今後ますますこの方向を深化拡大していくだろう。ちらりと見、ちょっと聴き、さっと読むことを基本スタイルとするメディアがコンピュータである。
こうしたファースト・フッドならぬファースト・メディアに対して、本や映画はじっくり型のスネイル・メディアとしてのみ生き残れる。手紙は、たとえば、電子メールに対して「スネイル・メール」(かたつむり=のろまのメディア)と呼ばれる。しかし、テレビは、スネイル・メディアにも、ファースト・メディアにもなれず、コンピュータの過渡形態として消滅の運命にあるかもしれない。
こう考えてくると、チャンネル・サーフィン用のインターフェースが商品化されないのは当然かもしれないという気がしてくる。もし、そのようなものが作られ、テレビの付属品になるようになると、テレビはほとんどコンピュータと同じものになってしまい、ますますテレビとしての存在理由を失ってしまうからである。
わたしの考えでは、テレビが生き残る方法の一つは、街の「風景」の一つになることではないかと思う。たとえば、街頭に置かれたカメラとモニター。そこに通行人が映っている。ある人はそのカメラの前でパフォーマンスをする。ときには、アジ演説をする人もいるかもしれない。その映像はケーブルなり電波なりで他の街々にリンクされている。壁画や落書にように、それは、確実に都市を活気づけるはずだ。
都市のインターフェース
インターフェースという言葉は、いまではコンピュータとの関係で使われることが多いが、この言葉にはもともと「接触面」や「境界領域」という意味がある。コンピュータの場合も、たとえば Macintosh で広く一般化した「グラフィカル・ユーザー・インターフェース」(GUI)は、コンピュータの機械そのものと人間との「接触面」にあって、両者を仲立ちするところからこう呼ばれている。
言葉は、数式と違い、最初からその内容がわかっているわけではない。時代と状況の空気を吸ってどんどんその内容を変えていくのが言葉であって、インターフェースも、最近では、「あの人には適当なインターフェースが必要だね」というような使われ方もされている。この場合のインターフェースは、問題の人物が気難しいとか無器用とかであり、その人と円滑なコミュニケーションをするには何らかの仲介者やクッションが要るという意味である。
このような「インターフェース」を自在に付け替えて円滑な会話をしたところで、これではコミュニケーションが一つのテクニックになってしまうではないかという批判もあるが、少なくともここにはプッツンではなくて相手とコミュニケーションしようという意志があることだけは確かだから、このインターフェースも歓迎すべきである。インターフェースには、コミュニケーションへの意志や願望が内包されているのであり、この連載の通しタイトルを「都市のインターフェース」と名づけてのも、インターフェースの持つそうした性格にこだわりたいと思ったからである。
ところで、都市がコミュニケーションの場であることはあたりまえであるが、いま、20世紀も余すところ5年になった先進産業地域の都市を見回して、都市が必ずしもコミュニケーションの場として最も活気のあるところだとは言えない現実がある。最近日本でも話題沸騰のインターネットのように、都市であるか郊外であるかの区別なく、電子的な通信手段の可能なところでは「いまここ」に世界を現出させてしまうような技術があるし、ヴァーチャル・リアリティのように、人気のない砂漠のど真ん中に、一見視覚的・聴覚的には「本物」と区別のつきにくい映像を作り出せるテクノロジーもある。
だから、都市の時代は終わろうとしている、と言うこともできるわけであるが、それは、都市がこれまで果たしてきた役割が別のものに移行し始めているからだとわたしは思う。そうだとすれば、いま一見都市とは似ても似つかないものをあえて都市と呼んでもかまわないし、また実際に、そういうものが将来「都市」と呼ばれるようになるかもしれないのである。
わたしの独断では、人間の遺伝子のなかに都市を紡ぎだしてしまうような根本的な都市要素があり、それが、これでまでさまざまな形態の都市を生み出してきたのではないかという気がする。とすれば、それが電子的な構築物として形をなしても不思議ではないわけであり、コンピュータのソフトウェアーの構造を「アーキテクチャー」というのは偶然ではないのだろう。
また、コンピュータ通信でしばしば都市をメタファーにして、シティホール、カフェ、郵便局、公園といったボードが作られることが少なくないのもこのことと関係がある。
わたしは、最近、インターネットのホームページを逍遥することが多いが、そこでは、都市空間があまり違和感なくコンピュータの空間に収まっているのを発見する。大学などがキャンパス案内として作っているサイトでは、まず、キャンパスの全景が映し出され、そこから、各建物、教室、研究室等々の部屋に入って行く。なかには、それがヴァーチャル・リアリティまがいのアーキテクチャーになっているものもあり、建物のなかをマウスの操作で自由に移動できる。
こうなると、夢うつつの状態で都市のなかを歩きまわっているのに似た雰囲気をコンピュータの画面上で体験できるわけで、これではますます従来型の都市の活気が失われるのは避けられないという気になる。
ひょっとすると、今後数十年のあいだに、生半可な都市は消滅し、都市らしい都市は、たえず変容しながらも都市としての活気を保ち続けてきたヨーロッパの古い都市ぐらいしか生き残らないのではないかという気にもなってくるのである。
そもそも、都市がインターフェースを必要とすること自体、都市の衰退を意味するが、逆に、こうしたインターフェースのおかげで活気づく都市もあるはずだ。それは、どのような都市だろうか?
デジタル・グラフィティ
インターネットのサイトを気の向くままに遊歩していたら、おもしろいサイトに入り込んだ。
ホームページを開くと、「アート・クライムズ――壁に書く」と題されたタイトルとスプレーを握ったキューピーのような人物が落書をしているカラフルな落書が目に入る。そして、「ウエルカム・トゥ・アート・クライムズ」という見出しの下にこんな説明がある。
「こちらは、さまざまな都市からのグラフィティ・アートのギャラリーです。それが、『アート・クライムズ』と呼ばれるのは、大抵の場所で、落書を描くことは、不法だと見なされているからです。ここにある多くの落書は、現実の世界にはもはや実在しません。」
落書は、描かれてもどんどん消滅する運命にあるから、それをディジタル映像としてコンピュータのライブラリーに保管するというのはいいアイデアであるが、このサイトは、集めた落書を都市別に分類しているので、単なるライブラリーやギャラリーではなく、それらの落書が描かれた都市に接近させるインターフェースとしても機能を果たす。
小さなアイコンを見出しにしてずらりと並べられた都市の名前を列記すると、プラハ、アトランタ、フレスノ(カリフォルニア)、ロサンジェルス、サンディエゴ、サンタクルズ、ヴァンクーヴァー、アムステルダム、ミュンヘン、ブリッジポート(コネチカット)、サンパウロ、トロント、ワシントン、ダンバリー(コネチカット)、シカゴ、ブリズベンの16都市がある。このほかに、電車や地下鉄のなかの落書を別枠で集めている。
わたしは、まず九四年の一二月一五日づけでインプットされたという「プラハ」のアイコンをクリックしてみる。しばらくして、「アート・クライムズ――プラハ1」というページが現われた。7、80年代のアメリカやオーストラリアで描かれたカラフルで量感のあるグラフィティの小さなカラー写真が10数枚出てきた。キャプションによると、これらの写真は、1994年にスーザン・ファーレルによって撮影されたのだという。この女性は、この「アート・クライムズ」の主催者であるから、自分でもあちこちの街を歩きまわり、落書の写真を撮っているのだろう。
写真は、大きいものでも40 mm x 20mm程度のアイコンだが、そのアイコンをクリックすると、大きなサイズの映像が飛び出してくるようになっている。それらはどれも、24ビットのフルカラー画像であるから、やろうと思えば全紙ぐらいに引き伸ばすことも可能だろう。
ベルリンの壁の崩壊以後プラハは、東ヨーロッパ、いやヨーロッパ全土で最もホットな街になった。フランク・ザッパが文化政策のアドヴァイザーに招かれたことからもわかるように、プラハは一挙に都市のサブカルチャーやオールタナティヴなメディアが躍動する街に復帰した。復帰したというのは、プラハは、たとえばカフカが生きていた一九一〇~二〇年代には、ヨーロッパで最もトレンディで活気のある街だったからである。
わたしは、一九八〇年代に落書を求めて欧米の街を歩き回ったことがあるが、おもしろい落書がたくさんある街には、必ずユニークな演劇やパフォーマンス、そしてまたイキのいい文化運動があり、アーティストやアクティヴィストたちが集まるカフェーや広場があった。おそらく、いまプラハは、再びそういう要素を取り戻したのだろう。
「アート・クライムズ」のようなサイトは、いまニューヨーク市やパリ市がインターネット上に開設している都市ガイドなどよりはるかにすぐれたガイドになる。それは、情報として都市を解説してはくれないが、確実にそこに行きたい気持ちにさせる。そして、また、このサイトは、それ自体が落書だらけの〈うさんくさい都市〉であり、実際の都市以上に都市的ですらある。というのも、これほど見事な落書が集まっている場所は、かつてのニューヨークの地下鉄ぐらいしか思い浮かばないからである。
インターネットを都市のインターフェースにする場合、「アート・クライムズ」のように、都市の〈うさんくさい〉部分をあつかう方がうまくいくのは偶然ではない。現状では、大抵の場合、インターネットにアクセスするコンピュータのモニタースクリーンのサイズは、小さな「覗き窓」にすぎないから、そこから見えるものとしては、「華麗」で「健康」なものは向かないのである。それらは、「覗く」よりも「仰ぎ見る」ためのものだ。が、「覗く」ということは、視覚のうちでも最も触覚的であり、撫でたり触ったりする感覚に近いところがある。つまり、より身体的なのだ。
エピローグ――この後、このサイトのキュレイターをしているスーザン・ファーレルさんにメールで感想を送ったのが縁で、わたしが一九八〇年代の初めにニューヨークで撮ったグラフィティの写真を「アート・クライムズ」の「ニューヨーク」セクション(http://www.graffiti.org/)に提供することになった。デジタルが人と人とを結びつけたわけである。