もしインターネットが世界を変えるとしたら



電子個人主義の先へ



この一年、メディアの世界でめざましい動きを示したのはインターネットだった。インターネットは、日本でも大分前から一部の大学や企業で利用されていたが、パソコン通信のように個人が自由に利用するわけにはいかなかった。
それが、急激に変わったのは、コンピュータの画面上で抽象的なコマンドを打ち込まなくても、マウスによるクリック操作で文字・画像・音の情報を引き出せる「ウェブ・ブラウザ」(現在では、「ネットスケープ」Netscape Navigator が有名)が登場したからである。これによって、インターネットは、地球的規模で電子メールをやりとりできるだけでなく、文字・画像・音からなる「ホームページ」を発信・受信できるマルチメディアに発展したわけである。
しかし、インターネットにおけるこうした技術的な変化だけが、今日のインターネット・ブームを押し上げてきたのではなく、ここには、ベルリンの壁崩壊から日本の連立政権成立にまで通底するグローバルな歴史的変化が介在していることを忘れてはならない。特に日本の場合、インターネットが、かつてのニューメディアとは異なり、単なる一過性ではない形で浸透しはじめ、確実に組織や人間関係を変えつつあることは、決して電子機器の浸透からだけでは説明できないだろう。




インターネット・ブームの影響で、インターネットへの加入は躊躇するが、電子メールぐらいは使ってみたいという人々が、「ニフティサーブ」Niftyserveなどのパソコンネットに加入する動きも加速している。パソコンネットの方も、この間にインターネットと接続し、メールのやりとりだけであれば、事実上インターネットとしての役割を果たせるようになっている。また、独自のブラウザをインストールすれば、インターネット上のホームページを見ることもでき、パソコン通信とインターネットとの実質的な違いはなくなりつつある。だから、インターネット・ブームが示している変化は、狭義のインターネットにおいてだけでなく、広義のコンピュータ通信全般で起こっていると考えなければならない。
日本では、こうしたコンピュータ通信の普及は、八〇年代からはじまったワープロの普及によって、人々がキーボードに慣れるということがなければ不可能であったわけだが、それだけでなく、モニターと対話するという「孤独」な作業を好むある種「個人主義的」なオタク文化によって補強されなければ決して進行しなかったであろう。 ウォークマンが一九七九年に登場したとき、メーカはそれがどのように普及するのかを予想できなかった。が、それは爆発的なブームになり、「ウォークマン文化」を生み出した。この場合も、もしこの時点で孤独に音楽を楽しむことをはばかるような社会風潮が濃厚であったなら、この装置は決して爆発的な人気を得ることはできなかったはずである。
同様に、急速に普及した携帯電話やPHSも、「自分は自分」といった個人主義的な傾向がある段階に達していない場合には、これほど普及することはできないだろう。現に、いまでも電車のなかなどで、携帯電話のベルが鳴ると眉をしかめる人はいるし、周囲を気にせず携帯電話でしゃべっている人を「自分勝手なヤツ」だと感じる者も少なくないと思う。が、これが一〇年まえだったら、いまよりはるかに周囲のひんしゅくを買い、とても平気で電話しつづけることはできなかったと思うのである。
インターネットの場合も、流行に遅れじと導入した会社で、社員が電子メールを使いはじめたことにより、それまでのタテ型にカタい組織が揺らぎ出し、インターネットの利用に制限を加えなければならなくなったという例もある。これは、テクノロジーはそれが利用される社会の慣習や生活文化と相関しながら機能するということを示している。だから、逆に、インターネットを導入することによって、いままで以上に組織の横断的な関係が強まり、その人間関係が柔軟になり、組織としても活気が増したという例もある。




日本社会は、これまで一般に、集団志向が強いとされてきた。実際、集団のなかで自己主張するよりも、まわりと馴れ合う方がよしとされ、それがすぐれたチームワークを生み、また同時に滅私奉公的な環境を作りもした。そうした傾向は、いまでも続いているが、微妙なレベルに注意すると、八〇年代の後半ごろから若干様子が変わってきた。 ウォ-クマンは、単にもの珍しいとか便利であるとかいう理由だけでは、決してこれほど浸透しなかったであろうし、オタクは、単にビデオやコンピュータの普及によって生み出されたパーソナリティではない。むしろ、核家族からさらには単親家族へ大きく揺れる家族構造の変化、一人っ子の増加、物質的条件の向上から来る建築様式の変化と個室の完備といった社会的な諸条件と電子テクノロジーとが結びつくことによって生じたをといった方が正しいかもしれない。
電子テクノロジーは、非常に個人志向の強いテクノロジーである。これは、あなたがファミコンで遊ぶ場合と、電車に乗る場合とを比較してみればすぐわかるだろう。モータや歯車の技術にもとづいている鉄道のテクノロジーは、人を集合させ、統合する特質をもっている。そのため、このテクノロジーのもとでは人は他人と協調することが求められ、わがままは許されない。これに対して、電子テクノロジーは、どこかで脳神経や身体の微妙な反応とシンクロしようとする性向があり(だから、人工知能のあくなき研究が進められる)、そこでは、個人が強烈に自己主張しないと、その本来の機能が発揮されないといった特性がある。
新しいテクノロジーが導入される時点では、その特質はあまり理解されず、それ以前のテクノロジーの基準で新しいテクノロジーの特質が判断される。映画は「動く写真」であったし、テレビは、「電子映画」、ウォークマンは「携帯プレイヤー」、コンピュータは「電子計算機」という具合である。しかし、少し時間がたつと、やがて新しいテクノロジーの本来の特質が露出してくる。その意味で、九〇年代は、電子テクノロジーが機械[マシーン(ルビ)]テクノロジーの古い枠を本格的に脱しはじめた時代だということができる。
テクノロジーと社会との出会いは、決して一律ではない。日本においては、集団志向が弱まる社会条件と電子テクノロジーが出会うことによってある種の個人主義が強まりつつある。わたしは、そこで、そうした個人主義を「電子個人主義」と名づける。これは、一九八四年に「電子個人主義を越えて」(Beyond Electronic Individualism, Canadian Journal of Political and Social Theory/Revue Canadienne de Thetorie Politique et Sociale. vol. 8, No. 3, Fall/Automne, 1984)を書いているときに思いついた概念だが、今日の日本で次第に強まりつつある人間関係や価値観を性格を定義する上で依然として有効な概念ではないかと思う。
アメリカのように久しく個人主義的傾向が強い社会では、電子テクノロジーが、逆にある種の集団主義を強化する場合もある。が、この集団主義は、かつての、個人が自己を犠牲にして組織や集団の一個の機械のようにさせられる集団主義ではなくて、個人が個人としての特質を保持したまま連帯しあうしなやかな集団主義である。




七〇年代になってアメリカで「ネットワーク」や「ネットワーキング」という言葉が流行するようになったとき、コンピュータ・ネットワークはまだ一般的ではなかった。放送網や通信網といったハード的な意味とは区別されたネットワークないしはネットワーキングという発想が具体化するのは、六〇年代の社会的変化の結果なのである。そして、こうしたある種の連帯の発想が社会的に広まっている条件に、やがてコンピュータによるネットワークが加わるのである。だから、このテクノロジーは、人々をより新しい形で連帯させる方向に進むわけであり、日本の場合とは異なる方向性をもつことになるのである。
日本では、コンピュータ・テクノロジーは、まだ、個性の発揮や集団からの個人の離脱といった側面を浮き彫りにする技術である。インターネットも、個人が地球規模の「放送局」が持てるとか、個人で世界中の情報を手に入れることが出来るといった側面が強調される傾向がある。これに対して、ウェブ・ブラウザを使ったマルチメディア的なインターネット通信は、別名「ワールド・ワイド・ウェブ」(WWW)と呼ばれるように、〈ウィ-ヴ〉weaveする、つまり編み合わせるという連帯的なウェブ機能が強調されている。
すでに、メキシコ在住の「活動する思想家」、イヴァン・イリイチは、一九七〇年に発表された『脱学校の社会』(邦訳、東京創元社)のなかで、ハード的な意味あいの強い「ネットワーク」に対して「ウェブ」webという言葉の積極性を提唱していた。学校は、相互的なコミュニケーションの「機会[オポチュニティ(ルビ)]のウェブ」にならなければならないというのである。この発想がコンピュータの可能性とともに理解され、実際に具体化されるようになるためには、それから二〇年もの歳月が必要だったわけであるが、いまやコンピュータは、計算機からようやくメディアとしての機能を全面的に発揮できるところまで来たのである。




近代ヨーロッパで生まれた個人主義は、機械テクノロジーと拮抗しながら生きながらえてきた。機械テクノロジーが人を官僚的な組織や制度のなかに閉じ込めるのに抵抗し、個人としての尊厳や自由を保持する役目を果たしたわけである。個人主義は、決して利己主義とは同じではなく、機械テクノロジーとの対抗関係においては「利己的」ではあっても、個々人のあいだでは、それなりの連帯や協力の場を生み出した。「パブリック」なものがそれであり、広場や喫茶店、パブや劇場といったパブリックなスペースでは、個人は、相手の個人性を尊重しながらともに個人でいるということをタテマエにした。個人主義、公共性、そして機械テクノロジーの三者はたがいにセットをなしていたのである。
だから、機械テクノロジーの黄昏と個人主義の解体、公共性の崩壊は入り組みあって起こることになる。アメリカやヨーロッパの先進産業社会では、かつて日本が「脱亜入欧」の鑑としたような西欧個人主義は衰弱し、「後進国」が憧れたパブリックなサービスや施設は、荒廃の一途をたどっている。旧ユーゴーや旧ソ連で起きている悲劇的な事態や混乱は、「民族紛争」というような古い観点で見るよりも、こうした問題との関連で見た方がよいだろう。そして、その際、こうしたさまざまな終末的な悲劇が起こる一方で、現在、インターネットのように、電子テクノロジーとからみあった新しい人間関係やコミュニケーションが現われ、そこから、個人主義でも集団主義でもない新たなものが生まれる気配があることを忘れてはならない。
電子個人主義というのは、その意味で、電子テクノロジーがもっている潜在力を一〇〇パーセント発揮したところに生まれたものではなく、個人主義や集団主義を脱するための過渡的な現象にすぎないとも言える。電子テクノロジーは、人を孤立させたり、個人の能力を際立たせたりするよりも、むしろ、個々人の新しい連帯関係や単なる「個人」や「集団」の枠を越えたインタラクティヴ でトランスローカルな関係や活動を生むのに向いている。
だから、社会関係に対するテクノロジーの影響の強さという点では、電子メディアよりも自動車の方が、いま日本で伸張しつつある「個人主義」にとって強力なインパクトを与えてきたということも言えるのである。かつて、五〇年代のアメリカでは、青年に車を与えることが、自立の精神を養わせる上で有効であるという考えがあった。子供に早くから個室を持たせるのと似たような発想である。 日本でこのような発想をもって子供に車を買ってやる親がどの程度いるのかは知らないが、マイカーを所有した個人が、移動の自由を実感し、道路上で日々他の車との共存と敵対を経験するなかである種の市民意識を身につけたことは否めない(「身体とテクノロジー」、『ニューメディアの逆説』、晶文社参照)。日本では、マイカーと市民意識は切っても切れない関係にある。
こう考えると、電子個人主義は、個人主義の一つの形態であるだけでなく、近代ヨーロッパ的な個人主義の向こう側にあるものを示唆しているのではないかという気もしてくる。つまり、これは、いまインターネットなどとともにほの見えつつある新しい人間関係を指す言葉としても有効であるかもしれないということだ。阪神大震災の際に全国からボランティアを志願する人々が集まったように、自閉したオタクや利己的な個人主義だけがいまの風潮なのではない。集団からの離脱や集団への反撥と同時に、村的な「おせっかい」とは異質なボランティアの精神も拡がりつつあるのであり、日本が単に遅れた形で脱近代の傾向を追いかけているわけではないのである。
オオム真理教は、他人に対する関心の薄いオタクをオルグすることによって成長したと言われている。実際に、この教団の「新しさ」は、少なくとも教義の上では、信者に対して集団への帰属を強制しない点であった。信者は、集団で修業をする際にも自己を鍛えることが目的であり、集団と一体となって行動することは求められないはずであった。従って、この教団の無残な敗退は、オタクという個人の敗退であるよりも、オタクを集団として組織しようとしてしまった失敗、電子個人主義を結局は旧来の集団主義でくくらざるをえなかった後退であった。このことは、逆に言えば、オタクが結局のところ既存の、極めて権威主義的なタテ構造の組織とは馴染むことのない個性であったことをはからずもあばき出したと言える。




オオムは、電子テクノロジーを駆使しようとしたかに見えるが、事実は、サリン、薬物、銃といったものへの執着から露呈しているように、テクノロジーの選択としてはマシン・テクノロジー、さらには化学テクノロジーといった旧テクノロジーにとどまったのであり、決して電子テクノロジーの潜在力を駆使することはなかった。ここからは、新しい人間関係が生まれるはずはなく、テクノロジーは、単なる手段や道具としての機能を果たしたにすぎなかった。
信者たちが、教祖浅原彰晃の脳波のあるパターンと信者のそれとがシンクロするように作られたという「ヘッドギア」をつけていたことからも明らかなように、ここでは、電子テクノロジーは、個々人の異なる特性をより際立たせ、創造性を発揮させるためにではなく、逆にそれを平均化し、統合するために用いられている。ここにも、この教団のテクノロジーに対する後退した姿勢が露呈しているのである。




日常的レベルで電子テクノロジーが、すでに均質化や統合化を越える機能を示しはじめている今日、テクノロジーが現状を打破するか、それとも閉塞状況に追いやるかを決めるのは、テクノロジーそのものではなくて、テクノロジーをめぐる政治つまりはテクノポリティクスである。その意味で、日本の場合、電子メディアに対する規制をとことんなくすことが、このテクノロジーの創造的・解放的な側面を展開させることになるであろうし、世界の新しい動向に正しく対応することになるだろう。
世界の動向が情報資本主義へ移行し、国家の力が相対化し、それまでの国家規制がはずされるなかで、日本が依然として国家の枠に閉じこもろうとし、規制をはずそうとしないのは、なぜだろうか? このままでいくと、二一世紀には、日本は、アジア諸国のなかでも最も保守的な国になるだろう。
ここで言う情報資本主義とは、すでに一九八二年の「企業はなぜ”文化”をつくらなければならないか?」(『メディアの牢獄』、晶文社所収)で定義したように、これまでの「金為替本位制」に代わって、電子情報を貨幣とする交換システムであり、従ってそこではモノではなく、情報の論理がすべてを支配することになる。モノには物理的な境界があるが、情報にはない。情報はモノを無限に複製し、オリジナルなモノを無意味にする。情報資本主義とともにモノの特権的な位置は崩れざるをえない。また、モノにはその物性から来る限界速度があるが、情報の限界速度は光速である。電子テクノロジーは、このような光速の移動を実現することを期待されているわけであり、その最先端に「オプトエレクトロニクス」(光電子工学)が位置しているのは偶然ではない。これらのことは、単に技術的な分野にとどまらず、今後はますますが社会制度や文化の性格をも規定することになるだろう。
インターネットは、一面で、国家の障壁を取り払い、個人を〈ウェブ〉のなかで出会わせるわけであるが、このようなウェブは、単にスウィッチを切ればすぐに消えてしまうような一時的な場ではなく、個々人のわが身に食い込んだ持続的な場としてのみ意味がある。が、そのためには、すでにわれわれの身近にそのウェブがあるのでなければならない。インターネットや電子メディアに出来るのは、それらが個々の場やローカルな場をこえてたがいにリンクしあい、まさに〈トランスローカル〉な場を形成するのを助けることである。
数年前から話題になりながら、マルチメディアがいま一つ盛り上がりに欠けるのは、実はこのことと関係がある。アメリカでマルチメディアが浮上したのは、単に新しいマーケットとしてだけではない。それを必要とする具体的な場、つまり多言語・多文化を本質とするマルチな社会があったからであり、それを基盤とせざるをえない資本主義システムの多角化という動向があったからである。
多言語社会では、単一のメディアにとらわれない(しかもそれでいて表現を単純化しない)コミュニケーションが求められる。目先の利潤獲得に先立って、あらゆる情報メディアが社会と文化のマルチ化(多元化・多様化・多角化)のために動員されるのである。要するにマルチメディアとマルチ社会・文化は切り離すことの出来ない関係にあるのであり、日本の政治がそうしたマルチ社会や文化を活気づけることに意をそそがないかぎり、マルチメディアは不要であり、従って普及することもないということなのである。ここでも、必要なのは、単なる技術の選択ではなく、情報資本主義の動向を見据えた抜本的な政策と政治なのである。