メディア牢獄
「ディテールに政治を読む−1一九八一年七月〜十二月

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フランソワ・ミッテランによるフランスの新政権の登場が示唆することは、マクロ・レベルにおい てもミクロ・レベルにおいても、支配の様式が大きく変わろうとしていることである。ミッテラン政権の出現は、資本主義的支配の弱体化のために、社会主義的支配が自已を増殖させ、資本主義的支配を圧倒しつつあるのではなく、むしろ、資本主義的支配が自己活性化のために社会主義的支配を幾分 モデルにした非資本主義的支配の要素を自己の内部にセットしようとしていると考えた方がよいだろ う。注目すべきことは、こうした傾向が社会主義的支配の内部においても起っていることで、ポーラ ンド問題は、単に一社会主義国の自主権の問題としてよりも、硬直化したソ連型社会主義的支配がそ のなかに非ソ連型社会主義的支配様式をセットし、自己を再活性化できるか否かの問題としてみる方 が、資本の回路(たとえば、ソ連の天然ガスやアメリカの穀物の脱イデオロギー的流通)においても 文化の回路(たとえば、アメリカの"ブルージーンズ・カルチャー"の東側での流行)においても東 西両勢力が相互浸透し、"資本主義圏"と"社会主義圏"とを公式通りには分けられない今日の世界 状況のダイナミズムがはっきりみえてくるだろう。
 ミッテラン政権の成立を今日における支配様式の変化の観点から考えるうえでは、木村尚三郎「欠 伸と気はらしのフランス」(『VOICE』七月号)は、近年のフランスの日常的レベルでの変化を著者の 最近の滞仏経験に則しながら報告していて示唆に営む。木村によれば、「地方の文化的・社会的な個 性、独自性を重視する地方主義」がタテマエ上は重視されてきた一方で、現実には「第二次大戦後、 フランスの子供たちは史上はじめて、どの地方でもきれいな標準語を話すようになった」そうで、戦 後のフランスで社会と文化の統合・均貨化が進んだことを推測させる。
 フェリックス・ガタリは、ジスカールデスタンの時代にそうした統合・均質化がいかに組織的に加 速されたかを語っていた(「メディアヘの異議申し立て」月刊イメージフォーラム』八月号)が、そのゆきつくと ころは個々人の"内面"にまで支配のネットワークを浸透させてしまう支配(これをわたしは網状組 織的支配と名づける)の貫徹である。だが、このようなネットワークが浸透しつくすと、個々人は完 全に、クリストファー・ラーシの言う「ナルシシズム的人格」と化し、支配に対する極度の従順さを 増強する反面、自発性の退化をまねき、労働意欲は減退してゆく。かくして網状組織的支配は、必然 的に、そのあまりに"合理化"しすぎたシステムを白已活性化するために、ある種の"武装解除"を 行なわなければならなくなる。すなわち、網状組織の内部にオータナティブや相対的な造反勢力をセ ットしたある種の自由空間を許容する支配(これをわたしはカーニヴァル空間的支配と名づける)を 必要とするのである。それゆえ、巨視的にみた場合、ミッテラン政権の成立は、資本主義的支配シス テムの内部にある型のカーニヴァル空間的支配がセットされたとみることができる。そしてまた、ポ ーラソド問題の核心は、ソ連型社会主義支配のシステムが自己の内部にカーニヴァル空間的支配を内 蔵できるか否かにかかっている、と言うことができるだろう。
 だが、網状組繊の内部に"カーニヴァル空間"を内蔵する支配様式は、もしその"カーニヴァル空 間"が成熟しすぎて自律運動をしはじめると、当の網状組繊を破壊し、別の新たなシステムを生み出 しかねない"危険性"をもっている。レーガン体制のアメリカの"苦境"はまきにここにある。アメ リカの場合、一九三〇年代以降急速に増殖した資本と支配文化の網状組織は、一九六〇年代から七〇 年代にかけて再編成され、ある程度の"カーニヴァル空間"を内蔵しはじめたが、それは歯どめがかなくなるまで発展する以前に第一次"石油ショック"の合法的な利用によって抑止された。というのも、カーニヴァル空間的な支配が一且セットされたシステムというものは、イタリアのような権力による露骨な弾圧を用いるのでもないかぎり、景気後退や低成長を利用したいわば基礎体力削減的支配によってシステム全体を不活性化するしかないからである。
資本主義的支配体制のなかではまだこうしたディレンマに陥っていない日本の場合、それに対応し てその支配様式の主流は、依然、網状組織的支配の拡張と貫徹である。むろんそれと平行して、地方主 義、コミュニティ開発、祝祭都市、メディアの多様化といった初期カーニヴァル空間的支配の諸様式が模索されてもいるが、学内環境の右傾化(『インパクト』12)や教科書検閲の実態(『朝日ジャーナル』七月 一〇日号)にみられるように、主流は依然として、地方から都市、職場から家庭、集団から個人の無意 識にいたるあらゆるレベルに資本と支配文化の回路を網状にセットしようとする支配様式である。政 府が進めている「放送大学」構想は、網状組織的支配の最終的制度化を象徴するものであり、支配体 側の当面の目標が那辺にあるかをはっきりと示している。
 しかし、他方では、網状組織的支配の限界がみえてきていることも事実で、 「マスメディア万能時 代の終焉」、「巨大広告代理店は何をめざすか」、「"文化"づくりにいそしむ企業群」(『創』七月号)と いった記事を読むと、一見現状批判とみえるそれらの論調のなかに、中央集権化から多極化への転換 をはからなければどうにも動きがとれなくなることを知っている支配体制の"革新的"な部分の危機 感とあせりのようなものが伝わってくる。
 また、コンピューター・システムの導入によって最も過激に網状組織的支配の道をつき進んでい る大企業におけるオフィスとマネージメントが、現在とのような変貌をとげつつあるかについては、 『中央公論・経営問題』(夏季号)が参考になる。日本のミドル・クラスのライフ・スタイルと文化に与 えるオフィスの影響には、はかり知れないものがあることを思えば、今後の一〇年間にオフィスのそ うした変化つまりOA=オフィス・オートメイションが日本の平均的なライフ・スタイルと文化を大 きく変えるであろうことは疑間の余地がない。その際、加藤秀俊が同誌所収の「オフィスの核分裂」 で言っているように、エレクトロニクスの導入によってオフィスの仕事が"大部屋主義"的なものか ら"個室化"された孤独な作業に変わってゆく以上、かの日本的"集団主義"がある種の個人主義へ 転換されるであろうことは想像に難くない。問題は、楽天的な加藤の見解とは反対に、そうした作業 を通じて個人の"内面"がますます網状組織的・遠隔操作的に管理され、外から与えられた刺激と信 号に対して最もよく反応する他律的・反労働的人格(ナルシシズム的人格)が形成されることである。  それは、一見、労務管理にとっては好都合にみえても、このような他律と反労働は、所詮、外から強 制されたものであるかぎりにおいて、抑圧のうっ積をともなわざるをえず、しかもその強制が具体的 に誰によってなされたのかがみえにくいという最も進んだ網状組織的支配のなかでは、その抑圧は最 近の"通り魔殺人事件"にみられるような"無差別的"な暴カへ短絡する可能性が高まってゆく。か くして、こうした状況に対する支配のハードな処置としては保安処分が、ソフトな処置としては精神 分析の制度化が登場し、個人の無意識レベルの"健全"な管理を遂行するわけだが、それらも所詮、 網状組織的支配の一形態であるかぎりにおいて、すべては堂々めぐりにならぎるをえないのである。


 七月一七目付の『リベラシオン』によると、フランスの新政権は、目下フランス全土に波及しつつ ある自由放送運動(ラディオ・リーブル)を事実上公認する方向にむかう模様である。
ラデイオ.リーブルというのは、一九七〇年代にイタリアではじまった新しい自主メデイア運動で ある。当初は、普通のFM受信機と一、ニワットの小型送信機で放送を楽しむ趣味の域を出なかった ものが、やがて政治的・社会的連帯の手段としての機能をもつようになり、国家によって独占されて いる電波を個々人が奪還することを通じて国家の存在そのものの矛盾を摘発するところまで進んだ。
その最もラディカルな部分は国家権力の野蛮な弾圧によっておしつぶされたが、それは国境を越えて フランスに波及していった。今日フランスでは、大小さまざまのラディオ・リーブル局が数百もあり 自主管理されたコミュニケーション回路としてもはやおさえようのない勢力を得るにいたっている。
 もともと非合法的活動として発展してきたラディオ・リーブルが公認されるということは、支配休 制が多様な新しいコミュニケーション回路を白已のなかにとりいれ、白已の再活性化をはかることに 関心をもっていることを意味する。実際、今日の支配体側の最も進んだ部分ではシステムを軟構造化 することに対する関心と要求がみられ、たとえばアメリカではそれはケーブル・テレビの普及といろ 形で現われている(七月五日付『二ーヨーク・タイムズ』の特集「ケ−ブルTV革命」参照)。ただし、アメリカの場合、ケーブル・テレビは、支配体制(これは単に支配的な政府だけではなく、もっと"無意識"的なレベル全体を含む)が既存の造反的新勢力をとりこむという形でつくられたのではなく、大企業が 先取的に地域的・多様的・個別的な小メディアを構想し、それを大衆に供給するという形でつくられ ている点に、アメリカにおける支配・管理様式の意識的・操作的な性格が現われている。
 こうした傾向は、日本の均質的・国家介人的なメディアからするとひじょうに自由な印象を与えるが、それが支配・管理の技法であることにはかわりがない。ただし、これまで個々人の創造性や個別性や造反性を一定のわくにはめることにのみ腐心してきた支配体制が、逆にそういうものを保護し、 育成しなければならなくなったという点も留意されるべきである。言いかえれば、今日、支配体制は 物的資源だけでなく人的資源——つまり支配に役立つ文化的生産力——の将来に対しても深刻な危機感をいだいているということである。
 物的費源に関しては、石油危機以来"基礎体力削減型支配"が普遍化し、生産力信仰にかわって省 力化信仰がゆきわたったが、人的資源の枯渇は、レスター・C・サローの唱える"ゼロ・サム・ゲー ム"では解決できないのであり、またボードリヤールのように生産が幻想だと言ってみたところで何 も解決しないのである。というのも、今日の支配は依然、物的・人的な生産力に依存しており、この 傾向は、生産を拒否したり観念化することによっては決して批判も転倒もされることがないからであ る。
 日本の支配様式は、一般的に、資源——をそれが物的であれ人的であれ——外部から供給する構造 をもっており、その支配技法は資源を自主開発せずに、既成の人的・物的費源を最も効率よく運用す ることに集中する。今日、世界の先進産業国は大なり小なり物的・人的資源の自己開発に関心を示し ているが、そのなかにあって日本の支配体制が、人的資源の開発へのおざなりな態度をとり、原子力 というオールド・エネルギーへの怠惰な執着をみせながら、その一方でマイクロエレクトロニクスと バイオテクノロジーに異常なほどの関心と期待をよせているのは、これらによって新しい資源を自己 開発しようとするためであるよりも、むしろそれらが既存の社会・経済システムの(文化的・物的) 生産効率を高めるだろうという暗黙の期待があるからなのである。こうしたからくりについて『クラ イシス』同人の吉岡斉はそのブリリアントな一文「ニュー・テクノロジーの時代」(『新日本文学」八月号) のなかで鋭い指摘を行なっている。
「マイクロエレクトロニクスは、それ自体として代替資源・代替エネルギーを生産するようなテクノ ロジーではないが、既成のあらゆる種類の機器や工程に組込まれることによって、効率向上をもたら す。これは省資源・省エネルギーのテクノロジーである。いっぽうバイオテクノロジーのほうは、既 成の資源・エネルギー浪費型の生産体系を、より節約型の新しい生産体系で置き換える、という意味 で脱資源・脱エネルギーのテクノロジーと呼ぶこともできる。」  古岡によれば、今日、バイオテクノロジーが農業や工業における生産性の飛躍的向上をもたらすだ ろうといった議論がしばしばなされているが、そうした潜在力は否定できないとしても「バイオテク ノロジーが生産力増大のテクノロジーとして、近い将来にも革命的な役割を果たすとは考えにくい」 という。かくしてバイオテクノロジーは、マイクロエレクトロニクスとともに、「人間操作のテクノ ロジー」として、当面、最も効果的に機能することになるのであり、その意味では、バイオテクノロ ジーが微生物工業の躍進のために役立てられるよりも人間の遺伝子操作に利用される危険の方がはる かに高いのである。
 ところで、人的資源は家族のなかから供給されるが、日本の支配様式は資源を外部から取り入れ、 それを効率よく運用するという構造をもっているので、この人的資源の供給源である家族と支配体制 との関係は、アンドレ・G・フランクが世界資本主義とラテン・アメリカについて言ったような"中 枢困"と"衛星国"との関係になり、家族はつねに「政策的な低開発」の状態にひきとめられる。そ こでは、男性は「中枢国」と結託した「ルンぺン・ブルジョワジー」として、女性は人的資源の生産 つまりは育児や家事を行なう「下層労働者」と質的に同じ機能を負わされ、「中枢国」に「従属的」 に奉仕することになる。
 日本の家族、という上りも、もっと正確には日本の男女関係が、いかに『政策的な低開発』の状態におかれているかは、今日、一方で家族解体や単身者が増殖する条件が進みつつあるなかで、依然と して支配体制は性差別を固定化し、とりわけ女性に"母性的"なるものの機能と特質を強制しつづけ る諸々の"政策"をとっていることからも容易にわかるだろう。そのような"政策"は、教育、テレ ビ・ドラマ、毎月本屋の店頭を色どる女性雑誌等に典型的にあらわれているが、そうした"政策"の 推進者の一人である小此木啓吾は、「つき詰めていくと、いまの社会で石油問題やエネルギー問題と 同じくらい重要なのは、母子関係、つまりグッド・イナフな母子関係をどうやって社会が守っていく かという課題なのです」(シゾイド人間』)と言っている。小此木は、続いて、「しかし、だからフェミニ ズム運動はいけないとか、女性の社会的進出はまずいということに飛躍しない方がいい。そういうな かでも最低限、母子関係を守りながら女性が社会的に男性と同等になっていく道は十分あります」な どと言っているが、これは、女性の解放ということが単に「女性が社会的に男性と同等になっていく」 ことだと単純化している点だけでも、女性の被差別的状況はむろんのこと、一九六〇年代以降に展開 してきたフェミニズム運動や女性学を完全に無視するとぼけた論法である。
 このような低劣かつ悪質な女性観やフェミニズム観は、きわめて"政策的"に構築されているかぎ りにおいて、それは、たとえば水田宗子「女性学は存在し得るか」(『思想の科学』七月号)のような、女 性解放運動と女性学の理念について説得力ある叙述を行なっている論文をも空無化されてしまう。
「その差別は外的な力によって作られたものではなく、性の違い、その機能の違いによって不可避な ものだという、女性原理説は、差別者の論理にすぎない。性別を構造論理とした社会・文明が在在す る限り、女性は一つのアイデンティティと社会的機能を持つ枠組みになり、それなりの特質・行動・ 思考形態・想像力・文化を作ってゆくだろう。」  しかし、女性差別のための操作とその現実がいかにすさまじいものであれ水田のこの意見が正当で あることにはかわりはない。女性解放運動や女性学の目的、単に女性を社会的・肉体的に男性と対等 にすることなどではなく、男性、女性という文化的性差別を利用した支配そのものをも超克しようと することであり、ここには支配と管理が網状的に貫徹しようとしている今日の社会状況のなかで、そ うした管理と支配をうちやぶる有力な突破口と潜勢力がひそんでいるのである。


 アラン・ウォルフは、今年のはじめに『ザ・ネイション』誌に寄稿した一文のなかで、アメリカの "反革命"はすでにレーガン政権成立の数年まえからはじまっていたと指摘し、そうした"反革命" の形態を歴史の書きかえという傾向のなかにみている。
「反動文化の決定的な特徴は、歴史の書きかえという集団作業である。かつてマッカーシー主義者た ちは、おどろくべき数のリベラル・デモクラットたちの協力のもとに、ニューディールの歴史を書き かえた。ローズベルト内閣が、アメリカ資本主義た救おうとする保守的な試みであるという説は用済 みにされた。ニューディールを、共産主義のエリートたちが国家権力を支配する上層部分を占有する ようになった時期だとみなし、ラディカリズムの勝利に力点をおいた解釈が退歩しはじめたのであ る。」  ここでウォルフをもち出したのは、今日のアメリカの「ソフト・コア反革命」について論じるため ではなく、日本でもやはり、反革命と歴史の書きかえの作業とは確実に手をとりあって進んでいるこ  とを指摘したいためである。
 たとえば、吉田茂の"再評価"がその一つである。すでにジョン・ダワー『吉田茂とその時代』が TBSブリタニカから出版され、またそれとタイ・アップした形で、テレビセミナー「戦後の検証. 吉田茂とその時代」がテレビマンユニオンの制作、サントリーの提供でTBS系の全国ネットから四 日間にわたって放映された。かなり組織的に進められているこの吉田茂の"再評価"キャンペーンは、 他方で進められている日本経済と日本国家の保守的現状肯定、日本的経営なるものの賛美、戦後民主 主義(というよりも"戦後"における民主的潜勢力)の否定といった「ソフト・コア反革命」とシソ クロナイズしていることは言うまでもない。
 江藤淳は、近年、占領軍による検閲の実態を史料を通じて明らかにする作莱を行なっているが、こ れも、歴史の書きかえを通じて保守化を促進しようとする動向と顕在的・暗黙的に連動しあっている。
 江藤は、わざわざアメリカのメリーランド大学まででかけてゆき、そこに収蔵されている史料、に検討 したという。「『氏神と氏子』の原型——占領軍の検閲と柳田国男——」(『新潮』一月号)は、そこで発 見した、CCD(GHQの民間検閲部局)によって削除を命じられた柳田国男の『氏神と氏子』の校 正刷と『定木柳田国男集』とを対照研究したものだが、ここで江藤は、もともと「『氏神と氏子』は占 領軍の宗教政策に対する本質的な抗議であった」とし、それに対して「CCDがそのテクストの削除 を命じたとき、CCDは正確に柳田とその話を聞いた若い人々が、あの『霊』(「永久にこの国土う ちに留って、さう遠くへは行ってしまはない」無数の「霊」——引用者注)の存在を感得する感受性を 共有することを禁じたのである。それはいうまでもなく、民族の記憶を圧殺することを〔的とした禁 圧であった」と言う。
 ここで注意しなければならないのは、江藤のこの文章の機能が、柳田国男の"抗議"を評価するこ とではなく、むしろ、言論、宗教、思想の自由を謳ったポツダム宣言第一〇項、検閲を禁ずる憲法二 一条第二項の存在にもかかわらず「現実には、ポツダム宣言の条項は少しも尊重されず、占領期間中 憲法は一種の擬制にすぎず事実上停止されていた。そのことを直視するリアリズムさえ、われわれは ごく最近まで失いつづけていたのである」(傍点引用者)ということを強調することにある点だ。この一 見"正義漢"をよそおったディスクールにもかかわらず、問題にアプローチする方法そのものから露見することは、江藤にとって、柳田の評価はおろか、CCDの検閲を批判することも実はそれほど重 要ではないということである。むしろ、江藤にとっては、「ごく最近までの」戦後史の全責任を何か 先験的・超越論的なもの——従って現存する支配システムにとっては観念的でしかないもの——に一 点集約的に転嫁することこそがねらいなのであり、そうすることによって江藤は、戦前からもちこさ れた支配システムと占領期および戦後に発展した支配システム、そして戦前戦後を貫いている——フ ェルナン・ブロデル的な意味での——一つの「ながい持続」としての支配原理からたくみに人の目を そらせてしまうのである。
おもしろいことは、江藤によるこの「ソフト・コア反革命」の方法が、その後継者によって着実に 整備され、発展させられていることである。すなわち、柄谷行人は、「検閲と近代・日本・文学」 (『中央公論』九月号)のなかで、江藤の方法の弱点を補い、それをテクノクラシー的な全面的管理の現状 により適合するものにしようとしている。江藤の「『氏神と氏子』の原型」は、発表後すぐ川村二郎に よって、CCDの検閲は江藤の指摘するほど周到で明敏なものではないという批判を受け(『文芸』二月 号)、江藤もこれに反論している(『文学界』四月号)が、どちらの論拠もそれほど確固たるものではない。 "諸悪の根源"を検閲という一点に集約させる先験的・超越諭的なやり方では(しかもそれが徹底し て行なわれていないかぎりにおいて)、必然的にCCDは人格的な(顔のある)"主体"と化し、誰が どのような意図で検閲を行なったかということが問題にならざるをえない。その際、検閲官が検閲の "主体"とみなされ、そのインテリジェンス(知性=諜報能力)が問題になるが、これを川村のよう に「無知と愚鈍」としてあなどるか、それとも江藤のように、「この作戦に従事したCCDの検閲官 たちは、当時少佐の合衆国軍人であり、いずれも短期問に"邪悪"な異文化を改造しようという情熱 と使命感に燃えていた。しかも彼らの下にあって、最初のチェックと翻訳に当たっていたのは、『読 み取るだけの力もな』い米国人ではなくて、CCDに雇用されていたれっきとした日本人であった」 ——として買いかぶるかどうかは、実証的レベルでは決着のつく問題ではない。
柄谷行人は、まさにこうした"超越論的主体"のディレンマとでも言うべきものの"救済者"とし て登場する。柄谷は、「検閲が一切ないとみえるような検閲、あるいは検閲されているという事実そ のものを知らしめないような検閲、それが『検閲』の本質というべきなのだ」として、次のように言 う。
「『氏神と氏子』に対する検閲にみられる独得の"隠微"さは、当の検閲官が自らのやっていること の意味を知らないというところにあり、この『無知』は『知的能力』とは関係がない。いいかえれば. 占領軍に規側された戦後日本が『閉ざされた空間』たとすれば、当の占領軍(アメリカ)及び個々の 検閲官たちはけっして『外部』に立っていたのではなく、彼らもまた、あまりにも自明かつ自然である ような『言語空間』の内部に閉ざされていたのであり、おそらく現在もそうであるといってもよい。」  要するに柄谷は、検閲を江藤のように単にその顕在的な("露骨"な)レベルからのみ問題にする のではなく、逆にその暗黙的・述語以前的な("隠微"な)レベルからとらえかえすことによって、 江藤が抽出した"先験的・超越論的主体"(CCDの検閲官)につきまとっていた人格性をぬぐい去り、それを匿名的ないしは無意識的な過程——すなわちテクノクラシー的システムの"弁証法"——のなかにおくりこむ。かくして検閲は、特定の人物や集団、組織によってなされる支配と管理の機能 としてではなく、「制度」と柄谷が呼ぶところのものの一機能としてとらえられるにいたる。「そこで は、占領軍の如き明瞭な『誰か』(主体)を見出すことはできない。だからこそ、それは"隠微"な のであり、この"隠微"さは、政府権力者の"露骨"な手口とちがって、彼らだけでなく『反権力者』 も意識しなかったような性質のものなのである」(傍点引用者)と柄谷は言っている。
 こうした柄谷の論法は、一見"現象学"的であり、すでにマルクーゼが「操作」や「白已検閲」、 フーコーが「治療」の概念によって指摘しているのと類似の問題領域のうえを動いているかのように みえるが、実際にはそれが、江藤の"正義漢"をよそおったディスクールと同様に、一つのポーズに すぎないと言わざるをえないのは、柄谷が、検閲の暗黙的・述語以前的・無意識的レベルを問題にし ながら、その実、そうしたレベルを問題にすることを自分以外にはあらかじめ禁じているから、言い かえれば、そうしたレベルを問題にさせないために問題にしているにすぎないからである。それゆえ、 占領軍の検閲を可能にしたものも、また、柳田国男の「民俗学」とその近代国家批判との基礎をなす ものも、「"自由"にみえる戦後の言語表現」も、すべて「ほぼ明治二十年代において多様に交叉しあ う"転倒"によって形成された制度」に内属していると指摘するだけで、その制度を"意識"的にさ さえてきた人物や集団や組織(こうした"主体"は「見い出すことができない」のではなくて歴史的 にそうきせられてきたにすぎない)を批判することは"運命的"に不可能なことにさせられてしま う。
 結局、柄谷行人は、ハイデッガーやデリダがやったように、自分以外を閉じ込め身動きできなくす るための"制度。——つまりは最も巧妙な支配装置——の作成と整備にやっきになっているのである、 このことは、たとえば最近翻訳の出た『近代世界システムⅠ』(岩波講店)の著者エマニュニル・ウォー ラーステインのように、歴史を解明し解放するために「制度」ないしは「無意識的歴史」をあつかう やり方とは全く対極の関係にある。


「時評」は、慣習的に、その月に出た定期刊行物に即して論評を行なうことになっている。ここには、 歴史を"事件"の累積とみなす歴史観が前提されてはいまいか? これに対して、近年脚光をあびつつある"アナル"学派のフェルナン・ブロデルは、「かっての言 語学は、すべてを語からひき出せると信じていた。歴史学は、すべてを事件からひき出せるという幻 想に陥っていた」とし、新しい言語学が語の下層に横たわる「下部音素的諸構造、言語のあらゆる基 底的な無意識的現実」に注目したように、新しい歴史学は、「緩慢に動く歴史」、「長持続の運動」、 「無意識的歴史」、「ながい持続」を問題にすべきことを主張する。プロデルによると、「マルクスの天 才、彼の長期にわたる影響力は、歴史的なながい持続にもとづいて、真の社会モデルを構築しようと した最初の人だったという事実に存する」が、この「ながい持続こそ、社会諸科学問での対決から生 じる共通言語の唯一の可能性である」(雇史論』フラマリオン社)という。
 しかし、「ながい持続」とは、「あらゆる可能的な歴史の全体、昨日、今日そして明目からの任務と 観点の集合体」であるから、未来への何らかの無意識的・意識的展望なしには歴史を語ることはでき ないし、すべての歴史は、どのみち何らかの無意識的・意識的展望を前提にして論じられているので ある。それゆえ、たとえばわたしが、日本では一九七〇年代に顕著になった文化状況を"文化装置"
という言葉で呼ぶとき、それは単なる「宣言」ではなく、そのような傾向が確実に昂進してきている という過去・現在的認識と、現在の諸条件が継続されるならばこの傾向は全面化するであろうという 批判的予測とを含んでいる。田川建三は、拙著『批判の回路』の書評(『日本読書新聞10月5日号)のなか で、「なにも『装置』という語をつけてわぎわざ傍点をふらなくても、文化というものはもともとそ ういう本質を持っている」と言っているが、わたしの関心は、文化のそんな超歴史的な「本質」にあ るのではなく、文化のもっと俗な歴史状況にあり、今日のそれは、情報の網状組織的な増殖の過激さ において「戦前戦中」とは決定的に異るのである。
文化を"文化装置"化している現在の諸条件がますます継続されるであろうことは、支配のレベル において、情報回路の一方的増殖が自明の理とみなされていることからも予測に難くない。たとえば、 これまで「高度情報通信システム(インフォメーション・ネットワーク・システム)」の形成を提唱 してきた日本電信電話公社副総裁、北原安定は、「花開く高度情報通信システム」(『VOICE』10月号) という論文のなかで、「電気通信とコンピューターは今後ますます密接に融合し、より一層の利便と 経済化を図りつつ躍進するであろう。この情報革新を円滑に成功裡に実現していくためには、電気通 信そのものが大きく変容していかなければならない。それは電話を中心とした電気通信の一〇〇年の 歴史からみると、革命ともいうべき飛躍である」と言っている。
 こうした傾向は、国家や企業の活動を効率化するだけでなく、一見、「個人生活の面では、教養を  高める情報、娯楽情報、家庭生活の合理化に必要な情報などについて、希望する情報を主体的に入手 することが可能となる」かにみえる。しかし、ここには今日の電気通信技術のきわめて意図的な方向 付があるのであって、それは、ホームファクシミリやデーター通信などのどんなに「多種多彩な電気 通信サービス」が個々人に与えられるとしても、利用者は所詮与えられたもののなかから選択するだ けで、自分で自由に電波を出すとかいうように電気通信技術を"主体的"に活用することは許されな い現状に如実に現われている。
今日、電気通信技術の高度化については"誰でも知っていること"であるが、個々人の表現の自由 の基本的権利に立脚した電気通信技術の白由化については、ほとんど触れられることがないか、ある いは、あえて伏せられている。その意味では、たとえば北原が、この論文のなかで、フランスではジ スカールデスタンが「テレマティーク」すなわち「電気通信とコンピューターの融合によって生ずる 高度情報化」を「国家長期計画の最優先事項に取り上げてその推進を図ってき」、そして「、ミッテラ ン新大統領もこの路線を踏襲する旨表明している」と書いているが、この指摘は、やはり、一つの言論操作である。というのは、ミッテランは、そのような政策を継承しながら、他面で"自由放送" (ラディオ・リーブル)を認可し(そこにはまた別の問題があるとしても)情報回路の一方的な独占 に"批判の回路"を挿入する余地を残そうとしているからである。
 ところで、情報回路の中央集権化は、一つの国家主義である。竹内啓「『必要悪』としての国家——架空の友人との間答——」(『世界』10月号)は、日本で目下「新しい形の『国家主義』」が台頭しつつあ ることを論じていて示唆に富む。このなかで竹内は、「『民主主義』の代りに『民主主義国家』を、『自 由』の代りに『自由主義体制』を、『人権』の代りに『国の権利』を、そうして『平和』の代りに『安 全保障』をというような、一見目立たない形で、しだいに戦後の民主主義の理念を骨抜きにしてしま うような形で」この「国家第一主義」が昂進しつつあり、その際「日木では……『国』と『国家』と、 そうして『民族』の生活範囲と『文化圏』とがすべて同一になってしまっているために、これらがす べて本来は別個のものだということ、中でも『国家』というものが人為的な制度にすぎないというこ とが、非常にわかりにくくなっていること」を指摘し、国家を相対化すること、「国家は悪である」 ということめ認識を深めることを提案している。
 こうした"国家主義"あるいは、あらゆる局面への国家の介入は、軍事費や福祉支出の増大、シス テム白身の機能低下、資源の欠乏に直面して、システムの再組織を主導するためのものだが、高度資 本主義国においてこの再組織は、知識集約型のシステムヘの転換という形をとる。北原安定は、高度 情報通信システムの発達の結果、「人、物、金などあらゆる資源について流通の効率化および配分の 最適化に貢献することになろうし、ひいては生産性の向上、省エネルギー化、高付加価値化につなが り、産業桃造の知識集約化への変革を支援することになろう」(前掲論文)と言っているが、国家は、こ うした情報=資本の回路を超越論的に独占するのである。
 国家はもとより維済システムを統括してきたが、今日の"国家主義"的国家の主導理念は情報=資 本回路の一次元的綱状組織化であり、そのためにはいかなる暴力の行使も辞さない。従って、そのよ うな回路が一旦方向付られてしまうと、その回路の整備と増殖は"民間"にまかされるのである。近 年、新しい"国家主義"の一方で、"企業文化主義"のようなものが台頭しつつあるのも、まさに同 じ動向の二つの現われ方にほかならないのであり、国家と企業はこのような形で連動しあいながら、 文化装置をいよいよ全体化してゆく。むろん、そのような全体化からまぬがれている部分はないわけ ではない——われわれは少なくとも批判の主体としてそのような部分に属しているのだから。しかし ながら、そうした全体化の動向がいよいよ昂進し、それが支配の「ながい持続」として居すわる気配 をみせている状況下では、あらゆるミクロ・レベルに文化装置化の徴候を発見してゆく作業が必要な のである。その際このような方法は、別にわたしの思いっきではなく、たとえば"国家"についての 特集を組んだ『現代思想』(9月号)中の一論文、浅田彰「コードなき時代の国家ドゥルーズ=ガタリ のテーマによるラフ・スケッチの試み」が、「グラムシのヘゲモニー論を承けたアルチュセールが、 公的領域に局在する国家の抑圧装置と並んで、私的領域の隅々にまで浸透する国家のイデオロギー装 置を見出して以来、国家装置を社会の全域と外延を共にするものとしてとらえる道が開かれていたの である。ドゥルーズ=ガタリやフーコーの展開しつつある権力の微視的分析は、この道をさらに遠く まで開いていくものと言えるだろう」と一言っているように、すでに支配に対抗するもう一つの「なが い持続」になりつつあることを留意すべきである。


 ボードリヤールとハバマスがあいついで来日した。前者は、一種ファン・クラブ的な臨時組織によ って招かれ、西武百貨店のStudio200で講演・シンポジウムを行ない、また後者は、学会組織によ って招聘され、"専門家"の狭い世界の外に出る機会をほとんどもたなかった、というちがいはある が、風聞によると、両者とも予想したほど"ラディカル"でなかったというのである種の失望を与え たらしい。とりわけボードリヤールは、"ボードリヤール・フォーラム東京'81"実行委員の一人であ った今村仁司が悲痛な述懐をしている(『日本読者新聞』十一月二日号)ように、ことのほか失望感を与えた らしい。
しかし、「トランスポリティック——政治の光景」と題された初日の講演をきいたかぎりでは、ボ ードリヤールの姿勢は、一九七〇年の『消費の社会』(邦訳『消費社会の神話と構造』)以来、根本的には今 も変ってはいないように思われた。少なくとも初日の講演の要旨は、来日以前に彼がくりかえし述べ ていたことであり、『リベラシオン』の九月三〇日号にのった「社会主義のエクスターゼ」という一 文で書いていたことを敷衍したにすぎなかった。
 それによれば、「新しい権力は文化的、知的であろうとする。それは臆面のない歴史的な力てあろ うとはせず、諸価値の化身であろうとする」。フランスの社会主義はまさにこうした「諸価値の化身」 の一つであり、「オーダナティブというシミュラクル(模擬物)でしかなく——それはまさに、出来事 ではなくて、満了したイデオロギーが死後に具体化したものなのである」という。その際、この「シ ュミュレーション化(模擬化)された秩序は、われわれから否認のあらゆる力をうばいとるのであり、 シュミュレイション化された社会主義は、われわれから参加のあらゆる力をうばいとる。」 ボードリヤールは、こうした現実を「肥大性現実」と呼ぶが、この「肥大性現実」は今後も「これ っぽちも変わらないだろうし、ある意味でこれは、大分以前からわれわれの身近な風景なのである。」 かくしてボードリヤールは、「トランスポリティック」つまりは待機的批判の戦略へ向かうわけだが、  これはすでに、『消費の社会』の以下の最終部分で示唆されていたものである。
「われわれは、粗暴な闖入と突然の風解を待つことにしよう。それらは、一九六八年の五月のときと 同じように、予知しがたいが、しかし確実なやり方でこの白ミサをぷちこわすだろう」(傍点引用者)。
すでにジャック・ドンゼロは、『エスプリ』の一九七二年十二月号所収の「反社会学」という一文 のなかで、ガタリとドゥルーズを「肥大作マルクス主義」と呼ぶとすれば、ボードリヤールは「肥大 性フロイト主義」つまりはラカン主義の一形態であろうと言い、ガタリとドゥルーズにおいては、資 本主義システムは抑圧を内蔵し、そのために自己増殖的であると同時に自己否定的であるのに対して、 ボードリヤールにおいては、システムは、真の客観的現実としての権力を外部にもち、抑圧や死が外 部からしかやってくることのできない閉鎖約なシステムであることを指摘していた。そこでは、われ われにできることは、このシステムの虚構性、幻想性、第二次性などを示唆し異化するだけであって、 それを変革することは決してできないことになる。
 しかしながら、こうした消極的なトランスポリティックが有効性をもちえるのは、それがつねにす でにポリティックスを凌駕して(トランス)いるときであって、もしそれが俗なる(ムンダーンな) ポリティックスのために世俗化される事態がおこると、このトランスポリティックスは、ある現実の ポリティックスに栄誉を与えるメタ=トランス・ポリティックスと化す。
 イタリアのアウトノミアの活動家ビフォーは、獄中から発表した論文のなかで、アントニオ・ネグ リをはじめとする三千人以上の活動家・知識人が逮捕された状況を「シミュレイションにもとづくキ ャンぺーン」と呼んだが、シミュレイションは今日、支配を異化する批判概念であるよりも、支配が 実際に行使している技法概念である。それゆえ、こうした状況下で、現実がシミュレイション化され た「肥大作現実」であると言ってみても、それだけでは——つまり、あわせてその具体的なあらわれ 方や動態を分析するのでなければ、まさに岸田秀の「幻想」概念と同様に、支配の技法と化したシミ ュレイション過程の一翼をになうことになってしまう。
 しかも、ボードリヤールのシミュレイションという概念は、サイバネティックスの専門用語から借 用されたものであり、その時点でこの概念は、核戦争の擬似モデルをコンピューター上でイメージし てみるといったようなしかたで、すでに支配概念以外の何ものでもなかったのだから、それをトラン スポリティックの概念に"上昇"させることは無理なのである。
 同様に、岸田の「幻想」概念も、フロイトの時代、あるいは「不条理性」を唱えたカミュの時代に は、トランスポリティックの概念としての有効性をもちえたかもしれないが「幻想」や「不条理性」 が支配の技法にくみこまれて全般化し、人格がいつでも交換可能の"仮面"に、日常性が"心理劇" になるといった事態が昂進する状況下では、それは逆にこうした趨勢を恒常化させる機能のみをはた すことになる。
 そうして、すべてを「シミュラクル」や「幻想」とみなす準備がととのうとき、以前だったら"暴 力的な抑圧的支配"と映じたはずのことが単にパロディ的な出来事としてしか受けとられない状況が 普遍化する。
 ところでハバマスは、一九七三年に発表された『晩期資本主義における正統化の諸問題』(細谷典貞訳、 岩波書店)において、後期資本主義の文化装置が支配システムに対する大衆の忠誠を維持することがで きなくなる危機——すなわち「正統化の危機」——を鋭く分析し、支配理論や国家論に大きな影響を 与えたが、西島建男「日本における支配の正統性の問題」(『季刊クライシス』第9号)は、ハバマス的な問 題意識を暗黙の前提にしながら、戦後象徴天皇制の支配原理が、「幻想による支配」であることを指 摘しており、一読に値する。
だが、西島が、「現代の国家権力の精神支配の形態は、必ずや被支配層の深層心理と感応するよう にとりおこなわれるだろう。もちろんそれが高度な精神操作といった意図的なやり方でおこなわれる のではなく、弱きもの、しいたげられたものの解放と裏腹になって感応するような"無方法の方法" をとる」と言い、それゆえ「象徴天皇制を廃絶するためには、百年単位の日本人の『文化大革命』が 必要である。単なる国家権力の頂点として廃止することは出来ない。自己の内なる変革の一環として、 考えていかなければならないと私は思っている」と結ぶとき、もしわれわれがこの主張をなつかしく もいささか白けた気持で受けとらざるをえないとすれば、それは西島の責任ではなく、今日のフュー チャー・ショック的な支配的状況の責任だと考えるべきである。
 状況は、あきらかに後退しているのであり、歴史のなかでこれまで試みられた脱支配と解放のさま ざまな試みをおおい隠し、それらが超克しようとした諸問題が、あたかも全く新しい問題ででもある かのようにとりあげられ、支配的状況に都合よく再定義される傾向が昂進している。
 たとえば、かねてから支配的なものの評価に敏感な評論家柄谷行人が最近主張している「ゲーデル 問題」などはその格好の例である。すでに十年前に佐々木力は、現象学と物象化論の能動的側面を観 点とする「近代科学の認識構造」(『思想』七〇年十二月号)と題する数学基礎論史的考察のなかで、「ゲー デルは、自然言語に比して、形式化された言語の限界性の構造を示すと同時に、形式的言語の形成過 程の可能性を、いわば、内から"ネガティヴに摘発"したのである」と言っているが、柄谷はこの指 摘を全く生かさずにこれとは全く逆の立場をとる。
 すなわち、柄谷は、ゲーデルの「不完全性定理」は、数学が"基礎"をもたないこと、従ってそう した"基礎"を与えていると思ってきた"形而上学"(哲学)が無効にさせられることを意味すると し、ここか」ら"基礎"なき数学をパラダイムとする徹底した形式主義の有効性を導き出す(『流動』10月 号および『現代思想』9月号参照)。結局柄谷は、"基礎。を忘却した近代数学、"基礎付"を機能としてきた近代哲学(形而上学)を ——「生活世界」の物象化として——フッサールのように共に批判し、両者をのりこえた新たな知を めざすのではなく、「『形式化』の徹底こそが……その白已破綻を露呈しうる」として、近代数学と反 形而上学的(つまり論理実証主義的)哲学とを共に肯定するわけである。
奇妙なことに、ここには、シミュレイション的支配を導く待機的なトランスポリティックと、コンピューターとサイバネティックスの文化とを擁護する横断的な"連帯"が発見されるのである。


 かってアルフレド・ゾーン=レーテルは、依然今日でも重要性を失っていない『精神労働と肉体労 働』(1970年/邦訳・合同出版、1975年)のなかで、今日の資本主義が「より進展した発展段階へ、つ まり自らを越えた過渡的段階へ」、「自覚的な社会制御」の段階に入りはじめ、そこでは「商品形態と 思考形態とのひそかな同一性」がひじょうに屈折した形で主要な問題になり、従って支配と解放の力 学はこの同一性をめぐって展開されることを論述した。
今日の先進的な資本主義システムが、その「思考形態」的側面、つまりはその"意識"的な部分を 公然と強化・制度化しなければならなくなったことは、フランスでの社会主義政権の成立についても、 アメリカにおける新右翼の台頭、また日本において目下進行しつつある情報資本主義への転換などに よって例証することができる。資本主義システムは、本性上、その"意識"的部分を隠蔽し、閉塞し、 いわば隠れたまま機能する"意識"を自己規制装置とするが、資本の一次元的な論理がシステムに過 剰に浸透してゆくと、この"意識"は物象化され、システムは自己を規制できなくなるので、システ ムは自己保存上、何らかの形でそうした"意識"の部分を補完しなくてはならなくなる。
 フランスの場合、支配システムのこうした"意識"的部分は、伝統的に支配システム外の、あるい はその周辺部の反対勢力つまりは広義の左翼がひそかに補完してきたが、ミッテラン政権は、ある意 味で、そうした伝統の最終的な制度化であると言える。これに対して、アメリカの場合、六〇年代に ニュー・レフトやリベラリストが支配システムの"意識"的部分をになっていたにもかかわらず、レ ーガン政権では、右翼がシステムの"意識"として機能するにいたる。この不可解なプロセスについ ては、最近めざましい活躍をみせているアラン・ウォルフの「社会学、リベラリズム、ラディカル・ ライト」(『ニューレフト・レヴュー』128号)が重要なヒントを与えてくれる。ウォルフによれば、アメ リカの右翼は、ニュー・ディール以来、「経済的、政治的モダニゼイション」の批判的要素として存 在してきた。対外的な拡張政策と国内的な福祉の拡大政策——つまりは独占資本主義の論理とは リベラル派のものであり、これに対して「アメリカの保守主義は、早くから反帝国主義的であり、減 税とレッセ・フェールの立場から、グローバリズムを現実化する公共政策の導入に反対してきた」。
それゆえ、リベラル派の論理が行きづまり、システムがその内部に制度化された批判的要素を導入し なければならなくなると、左翼が実質的な力を持っていないアメリカでは、右翼がシステムの制度的 な"意識"として姿を現わすのである。ウォルフによれば、アメリカの右翼の主要素は、「合成的自 然主義、民主的権威主義、グローバルな孤立主義、中央集権化された地方主義、順応主義的個人主義」 であるが、今日のアメリカの資本主義は、これらの制度的な"意識"をシステムの内部にセットする ことによって延命をはかろうとしているのである。
 国家=企業=社会=家庭という構造的なシンクロニゼイションによって発展してきた日本の資本主 義システムは、伝統的に国家がその"意識"であったが、今日、国際的な資本拡大のレベルにおいて も、国内的、心理的な資本浸透のレベルにおいても、国家がシステムの"意識"として十分な機能を はたさなくなりつつある。たとえば、友田錫は、「外務省よ、情報の先兵たれ」(『文芸春秋』12月号)で、 海外情報つまりは情報=資本の収集と統括において国家=外務省がシステムの"主体"をなしていな いことを批判している。また、馬場伸也は、「国家の??????」(『世界』12月号)で、「八○年代以降は、もし このまま放置すれば、再び『国家主義の時代』となること必定である」とし、国家から地方への重心 移動を提唱している。
 だが、日本の資本主義は、七〇年代までのその過剰な発展のなかで民衆的、地方的、前近代的、左 翼的等々の"他者性"をほとんど完壁なまでに同化してしまったので、システムの"意識"としての 国家の機能がどんなに老朽化したとしても、本当の意味でそれに代わりうるものは、当面見あたらな い。そのため、いまや国家は、国家白身が自己を変革しなければならないという事態に直面している わけであるが、実際にそうした変革はひじょうに錯綜した形ではじまっているようにみえる。
小中陽太郎の「はじまった企業内反乱」(『思想の科学』12月号)によると、今日、労働強化が進み、労 働力を人間ごと買いとっている生産原点で労働者白身による「反乱」が起こりつつある一方、そうし た「反乱」の一切の可能性を絶たれた労働者や管理職が、「個人的反乱」という、締局は精神異常や 犯罪という形で処理されてしまう「破滅の道」を選ばざるをえないようなところまで立たされるよう な事態が深まっている。また、『世界』(12月号)の特集「子供という問題」によれば、"家庭内暴力"、 "校内暴力"、"非行"といった今日の「子供の問題」は、いずれも高度化する管理社会化のなかで追 いつめられた者たちによる限界状況的な「反乱」である。
 が、こうした「反乱」は、一見すると、システムにとって不都合な要因でしかないようにみえるが、 システム内のこの異質な要素を国家が吸収するならば、国家はその分だけ自己を改造できるという点 に注目する必要がある。その際、こうした「反乱」はシステムの"意識"としてミクロ国家的機能を はたすのであり、まさに"校内暴力"、"家庭内暴力"、"非行"などが日本の社会・文化システムを支 配に都合よく規制する装置になる。その意味では、こうした状況下では、暴力や犯罪、そしてその他 の"反社会的"ないしは"反国家的"行為を単純に社会や制度の批判の指標にすることは、今日のし たたかな支配様式を見えなくしてしまうだけではなく、ひょっとするとシステムを国家から解放する 一要因になったかもしれないものをも無力化してしまうことになるのである。
 長谷川宏は、「戦後思想への視座」と題する座談会(『批評精神2)のなかで、終戦から2・1ストの あいだの一時期をややユートピア的に強調しながら、「……混乱をそれこそ生きる場にするような意 識革命的な面に強く魅かれる。混乱していること自体がね、人間のエネルギーを生かす場としてすぐ れた状況なんだと。とくに最近のように世の中全体が管理と規制にむかってすすんでいくのをみると、 この思いが強い。支配権力のねらいもそうだけれども、そういうものを民衆の側も良しとするような 見方がいろんな形で出てきているわけでしょう」と言っているが、"子供の問題"も、子供をまさに こうした"混乱"のなかに解放せずに、商品=情報=文化資本の網の目のなかにからめとるところに 生ずる。が、問題は、今日、そのような網の目はますます増殖しつづけ、"混乱"さえもそのなかに とりこみかねないことである。
 上野千鶴子は、「資本主義という思想環境」を特集した前掲の『思想の科学』所収の一文「戦後欲 望外史」のなかで、高度経済成長期に飛躍的に浸透したベッド、DK、LDK、 TV、マイカー、私 有の墓地という具体的商品を手がかりにして、人々の意識とライフ・スタイルがどのように変化した かを見事に論述しているが、こうした資本の過剰な浸透と増殖は、高度経済成長期以後も決して弱ま ることなく、むしろ形を変えて強まった点に留意する必要があろう。
 すなわち、高度経済成長期には商品という形で浸透・増殖していった資本は、いまや情報ないしは 文化という形で日常生活から更には人々の無意識のレベルにまで侵入しつつある。近年さかんになり つつある企業による文化事業は、一面ではこうした事態を"治療"する面もないではないが、その主 要な傾向は、やはり、文化=情報資本システムのすみずみにまで浸透させる機能のうえを動いている。
 ただし、その際、興味ぶかいことは、情報化されたシステムにおいては、その"思考形態"的側面と "商品形態"的側面とを厳密に区別することができなくなるので、システムのあらゆる部分に"意識" が分泌される可能性が生ずることである。すなわち、システムの"主体"が国家ではなく、すべての 々人でありうるような条件が生ずるのである。82年の闘争場は、ますます情報のレベルに集約さ れてゆくにちがいない。




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