国際化のゆらぎのなかで 10

《空虚な広場》

 銀座三丁目、中央通りと松屋との角。歩道は、会社帰りの人たちでごったがえしている。横断歩道の信号が赤になり、歩道に人垣が出来る。車道をいっせいに車が走り、人々はそれをおとなしくやりすごす。車はすぐに途絶え、横断歩道は人垣のなかの〈空虚な広場〉となる。誰かの登場を待っているのか? いや、信号が青に変わるのを待っているのだ。  わたしは、何も起こらないこの〈空虚な広場〉を見つめているのに耐えられなくなり、この〈広場〉を横切り、向こう側の歩道に行こうとする。要するに赤信号を無視して、横断歩道を渡ったわけだ。ところが――あるいは案の定――向こう側の歩道に立つ人は、微動だにせず、うさんくさい顔でわたしをながめ、わたしは車道を迂回して向こう側の歩道にわたらなければならない。やはりそれは、〈広場〉なのであり、そこに踏み入る者は、そこで何かの芸をしなければならないのである。そこを横切るなどということは、幕の開いた舞台を観客が横切るような不作法なのである。  このような〈空虚な広場〉は、東京だけでなく、日本の都市のいたるところで目にすることが出来る。わたしは、かねがね、信号のある横断歩道に出現するこの〈空虚な広場〉に感心をおぼえ、それが果たして全国的なものなのか、それとも地域的なものなのかを調べようとしてきた。日本の外では、車が途絶えた狭い横断歩道でじっと人々が信号の変わるのを待っているなどということは、かなりめずらしいことであり、この現象は、きっと日本の文化や社会制度と深い関係があるに違いないと思ったからである。  日本の街をくまなく調査したわけではないが、大阪では信号を無視して道を横切る人の姿を幾度か見た。東京でも、上野や浅草では〈空虚な広場〉が出現する率が若干低いように見える。また、一人が赤信号の歩道を横切ると、それにつられて幾人かの人がぞろぞろと道を横切ってしまうということは、どの都市でも発見できる。「赤信号みんなでわたればこわくない」というわけである。しかし、全体としては、モラリッシュなまでに信号を墨守する人の数の方が多く、そして、銀座や丸ノ内では、車の途絶えた赤信号の横断歩道を気軽に渡るのは、主として「外人」なのである。これは、どういうことを意味するのだろうか? 前回にもちらりと触れたが、これは、どこかで「自粛」や「リクルート」に見られる〈おつきあい主義〉とつながっているのではないだろうか?  かつて戸井田道三は、『幕なしの思考』(筑摩書房)所収の「みんな」という文章のなかで、万博にだれもかれもがつめかける現象をとりあげ、それを「昔のムラ的なみんな意識」から説明したことがある。戸井田道三によれば、「東京のような都市の市民でも、なかみは村落共同体的な意識がきわめて濃厚だった。それでなければ隣組が戦争中にあれほど強い自己規制の役割をはたすはずもないし、祭礼などを継続させる主体とはとはなりえなかったはずである。祭礼には町内で寄附をつのる習慣があり、町内の人の一般の見方があのうちはいくらいくら寄附するのが当然だという一種の格づけがあった。そういうばあい寄附者にむかってみんなの要望を『お願い』というかたちで出した。要望される方はそれにこたえて『おつきあいさせてもらいます』と、いやいやでも寄附を承認せねばならなかった」。  ここで戸井田は、都市がムラから脱すべしといった単なる社会進化論を説いているわけではない。彼は、近世の村自体がすでに統合されたものであり、村が一方の性格としてもつコミューナルな共同性を希薄にし、拘束的な〈おつきあい〉に支配された場になっている点を前提したうえで、都市のムラ的要素を問題にしている。  いかなる時代にも、いかなる社会にも、共同体的な意識は存在するし、それを統合して人々を拘束する傾向も存在する。明治以降の日本は、その「近代化」路線にもかかわらず「村」的な要素を残存させたのではなく、村の共同体的意識を国家の統合原理として用いるためにそれを前時代よりもはるかに強力なやり方で再統合し、全般化した。  「村」は、それ自体としては、「班」のあるものであり、むしろそれぞれが異なっているからこそ「村」なのである。どの村でも〈おつきあい〉はさかんであるとしても、そのやり方はみな異なっているし、その作法の差異のなかに村文化が見出せるのである。ところが、強力に統合された村(すなわち「ムラ」)においては、そのような差異よりも、その同一性が強調される。どのように〈おつきあい〉がなされるのかではなくて、〈おつきあい〉がなされるというその儀式性だけが重視され、その内容的差異はどうでもよくなる。  都市の横断歩道でつかのま出現する〈空虚な広場〉を囲む人々がムラを形成しているのは、彼や彼女らが、〈みんな〉を気にしていやいや〈おつきあい〉をしているからである。それは、「共同体意識」をつかのま演じる儀式であって、誰も、内心では、車の通らない赤信号の横断歩道でじっと信号の変わるのを待っていたいとは思ってはいない。しかし、にもかかわらず、誰も掟を破らず、その〈広場〉を横切る者は、冷ややかなまなざしで射貫かれ、〈村八分〉に遭う。  こうした傾向は、「国際化」が声高に叫ばれる今日でも、消え失せる気配はないし、気のせいか、最近の都会では逆に〈空虚な広場〉の出現する率が高まっているように見えるが、これを「日本人の性格」とか「日本人の特殊性」に還元して説明するのは単純すぎるだろう。車が通っていなくても赤信号の横断歩道で立ちつくさなければならなくさせるのは、「日本人」の特種な「良心」ではなくて、「象徴」(信号もその一つ)が日本人に日頃要求している暗黙の拘束力であり、それを左右するのは、むしろ「象徴」をあやつる制度や支配システムの側である。  それゆえ、「象徴」の拘束力が変わってくれば、われわれは「象徴」に対してもっとしなやかな対応をするはずであり、現に、たとえば天皇・皇后の肖像写真はもはや戦前の「御真影」のような拘束力をもっていない。  「象徴」をあやつる制度として最も影響力があるのはマス・メディアであるが、戦前のそのやり方は、たえず変動する。戦前・戦中のマス・メディアが「御真影」を特権化したのに対して、戦後のマス・メディアは、それをやめたが、昭和天皇が危篤に陥ると、「象徴」に対する姿勢を急に改めてしまったように、「象徴」をあやつる制度の機能仕方は、決して算術級数的には動くわけではない。  ところで、この十年ほどのマス・メディアの歴史のなかで、交通信号の「象徴」機能がいわば大衆的規模で人々の関心をよびさましたのは、ツービートによる「赤信号、みんなでわたればこわくない」というギャグである。これは、一九八〇年六月にKKベストセラーズから出版されベストセラーになった『ツービートのわッ毒ガスだ』で広まった。  このギャグは、今日では、ほとんどその「毒」を失ってしまっているが、もともとはもっと社会批判的な含意をもっていた。このギャグが記されている本の冒頭部分を読んでみよう。   『注意一秒 ケガ一生』   『手をあげて 横断歩道をわたりましょう』   やめろ! やめろ!! だれだ、こんなシまらねぇ標語をつくったのは!    だいたい、金をかけて、こんな標語をつくって効果があると思ってるのかねえ。   せいぜい、警察の交通安全協会のお人好しと、PTAのオバハンだけだよ。そう  思ってるのは。   これから世の中を生きぬくためには、こんな甘ったれた標語じゃ、ダーメ!! オレたちが、ナウい標語を教えてやるから、しっかり覚えておけよ。  有名になった「赤信号、みんなでわたればこわくない」は、このあとに登場するのだが、それは、さらに「赤信号、ゆっくりわたれば青になる」、「赤信号、バアさん盾にわたりましょう」というギャグによって反常識的な意味を補強されている。明らかに、ここでは、違反を「みんな」でしか出来ない日本人がからかわれ、そうした既存のムラ的な〈おつきあい〉への決別が挑発されている。  しかし、このギャグは、実際には、そうした方向では受けとめられず、文字通りの意味で定着していった。すなわち、秩序を破るなら〈みんな〉でやろうというわけである。そこでは、秩序を破ることは提唱されているものの、依然として、〈みんな〉意識は細分化された形で存続したのであり、秩序の権威性は少しも壊されなかった。  これは、「多品種少量生産」や「小衆」をターゲットにしたマーケッティングに見合ったものであり、そういう形でマス・メディアはツービートの「毒」を抜き、利用したのであった。  ツービートの出現は、決して「象徴」機能のラディカルな変更をもたらしはしなかったが、単一の大「象徴」が影響力をもつのではなく、さまざまな小「象徴」が象徴効果をになうという傾向に道をつけた。周知のように、その後、ツービートは解消され、ビートたけしが独立するが、彼が次第にかつての「自己中心主義的」毒を失い、「メジャー」な世界に帰属していくのは当然であった。  ツービート時代にビートたけしが体現した毒のある「自己中心主義」は、やがてブランドものの商品やグルメ料理に対するいわば「おいしんぼ」的な〈小ウルサさ〉に転化して社会に浸透するのであり、たかだか消費や趣味のレベルで個人が「やりたいことをやる」おだやかな「自己中心主義」として制度化されるのである。  これは、はたして時代の要求であったのだろうか?   単純に考えれば、ビートたけしの毒は、たくみに制度のなかに飲み込まれ、制度は安泰を享受することが出来たように見える。しかし、「ニューメディア」、「規制緩和」、「自民党圧勝」といった、どれをとっても内部に人口的な「ゆらぎ」を必要とする事態が浮上しはじめた八十年代初頭の時代に支配システムが本来必要としたものは、むしろ「赤信号、ひとりでわたれば青になる」とでもい ったある種造反的な「自己中心主義」であったように思われる。  中曽根前首相の諮問機関である臨時教育審議会の第一部会が、一九八五年二月、今後の教育の新たな路線として「画一主義から個性主義への移行」という方針を打ち出したのは偶然ではない。しかし、臨教審が最終答申を提出してから一年以上もたつ今日、どこを見回しても「個性主義」を尊重する様子は見られない。逆に、現状は、日の丸だ、喪服だといった「画一性、閉鎖性、非国際性」というような(まさに臨教審が克服の対象として規定した)方向が逆に強まっているのである。 一見「個性主義的」な要素が見出せるかに見える趣味やレジャーの部分でも、依然、〈みんな〉に従う傾向は強い。まあ、そのために、内需拡大が保証されている向きもあるわけだが、これではとても「文明史的な転換期」(これも臨教審の言葉)を首尾よくのりこえることは難しいだろう。  最近、コンピュータのソフトウェアー開発の世界で、日本ではなぜしたたかなハッカーが育たないかということが話題になっている。八八年九月になって日本のコンピュータ・ネットワークにもコンピュータ・ウイルスが出現し、日本のコンピュータ世界もようやく「一人前」になったと言われる。しかし、軍事機密のファイルにダメージを与えるようなハッカーが出現する可能性は当面なく、政府や防衛庁は外国から侵入するハッカーのザッピングに気をつけさえすればよい。  これは、一面では歓迎されるべきことであるが、他面では大変困ったことであるらしい。というのも、この世界では「危機」こそが進歩の必要条件であるからだ。最近、この問題をとりあげた『ニューヨーク・タイムズ』には、日本のソフト開発会社の幹部の発言として次のような言葉が引用されていた。「コンピュータ・ウイルスは、創造的な精神の産物です――日本が通常生み出すタイプの創造性とは異なりますが。いまわたしどもが必要としているのは、この種の才能なのです」。  皮肉なことは、本来なら支配体制が極力排除しなければならない〈違反〉や〈造反〉の要素を体制自体がある程度挑発し、育成していかなければならなくなっている点であるが、それは、情報資本主義化にともなう必然的過程である。しかし、問題は、天皇制国家である日本がそのような〈ゆらぎ管理〉をやりおおせるかどうかである。  赤信号の横断歩道の例にかえれば、信号とはまさに横断する人々の「統合の象徴」である。それは、日本だけにかぎらない。信号は、赤青橙の色を提示することによって、集団を「立ち止り」、「横断」、「注意」という三種類の「統合」に導く。が、問題は、この「統合」が、自主的なものであるか、それとも強制的なものであるかである。  天皇制国家においては、天皇が「国民統合の象徴」であることによって、「国民」自身が自発的に「統合」(連帯)することを省略・排除してしまっている。つまりこの場合、「統合」はつねに外部から「統合」のモデルをあてがわれるため、その方向は一義化している。  このことを信号と横断歩道の例にあてはめると、信号が表示する赤や青や橙は、それを見る人々の意識とは関係なくその象徴的意味を規定されており、象徴というより強制的な指示記号となっている。言い換えれば、元来、信号を使う人々の集団的な暗黙のとりきめや習慣によって象徴作用が成立しているはずなのに、象徴作用自体が個々人に強制されるということになる。  象徴の一事例でしかない交通信号を「国家の象徴」に結びつけるのは牽強付会であると思われるかもしれない。しかし、最近の出来事を見れば、少なくともマス・メディアにおいて天皇が巨大な「象徴」とみなされていることは否定出来ない。従って、これが、日本人のあらゆる象徴作用に影響を与えていることは確実であり、逆に言えば、この象徴機能に変化が起こらなければ、「個性主義」も「国際化」も決して前進しないだろうと思うのである。  わたし自身は、あらゆる意味での象徴操作を越えるアナーキーな方途に興味をもつ者であるが、大「象徴」をふりかざした権威主義的な象徴操作を改めることは、天皇制が存在している現在においても可能だと思う。それは、まず、マス・メディアが身につけている〈大象徴主義〉を〈小象徴主義〉に変換することであり、天皇を初めとして、スター、タレント、有名人、時の人、裸体、性器等々に対する権威主義的な姿勢(つまり不分明なものをそのままにしてその操作されたイメージを信奉すること)をやめることだ。  それは、単なる「心構え」の問題ではなくて、構造の問題である。大きな象徴しか受け入れることが出来ないシステム、異質な象徴作用を許容することが出来ない〈無バイパス〉のシステムにとどまるかぎり、〈大象徴主義〉は続き、〈空虚な広場〉は増殖し続けるだろう。



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