国際化のゆらぎのなかで

東京ジェントリフィケイション

 八〇年代に入って、街の雰囲気が「変わったな」と思うのは、週末の夜を街で過ごす人が多くなったことだ。もともと街の賑わいは土日がピークで、商店も飲食店も土日がかきいれどきだった。が、金曜日や土曜日の夕方以降に街路をぞろぞろ歩いている人が目立つのは、このごろの傾向である。  それは、ボードレールの時代のパリに出現した「フラヌール」を思わせる。フラヌールとは、ぶらぶら歩きをする遊歩者であり、街路を散策しながらショッピングをする都会人のはしりであるが、そのような遊歩者の出現は、都市が消費の場になり始めたことと、夜の街路が水銀燈などの完備によって遊歩が可能なほど明るくなったことによって可能になった。つまり、都市の機能と環境の変化が新しい都会人を生みだしたのであ。  東京の繁華街は、もう大分以前から明るくなっていたが、近年、その明るさが一段とエスカレートした。ネオンサインの色彩も以前よりもはるかにカラフルになり、そのデザインも洗練されてきた。明るくなったのは、単なる光の高度や色度だけではなくて、街路に連なる建物のファサードやウインドウもきらびやかになった。建物を照らす照明が華麗に輝き、ガラスとメタルをぜいたくに使ったウインドウが深夜まで、まるでエレクトロニック・インスタレーションのような光のショウをくりひろげている。空間的なスペースという点では、東京の街路は確かに〈ギャラリー化〉しつつあると言えなくもない。  東京の「フラヌール」としての新しい遊歩者は、高度経済成長が生みだした「消費者」とも違っている。六〇年代から七〇年代の都市を闊歩した「消費者」は物品の購買者であるのに対して、この遊歩者たちは情報の消費者――というよりも情報の〈プロセッサー〉(処理者)である。彼や彼女らは、物品を買ったり、レストランで大金を使ったりするだけでなく、そうしながら情報を〈処理〉し、回転させるのである。  こうした変化は、銀座でも渋谷でも六本木でも見られるし、その他の街でも小規模ながら似たような変化が見出せるわけだが、わたしには、これをもって「東京がいま世界中で一番おもしろい」などと言うことはどうしてもできない。というのは、こうした変化が、決して東京だけのものではなく、すでにニューヨークでは七〇年代の後半に起こっていた変化だからである。わたしには、むしろいまの東京が、地上げ屋の跋扈も含めてほとんどニューヨークの「ジェントリフィケーション」(拙著『ニューヨーク情報環境論』、一九八五年、晶文社参照)と同じパターンを踏んでいるように思える。  おもしろさというものは相対的なものであって、モデルやオリジナルを知らなければ、コピーやまがいものでもけっこう楽しめるものである。また、現在のお「もしろさ」が所詮はどこかの既存のパターンの繰り返しだとしても、その繰り返しのなか微妙な新しいおもしさがあるということは言える。わたしは、いまの東京がおもしろくないとか、東京はまだニューヨークにはかなわないなどということを言おうとしてるわけではない。むしろ、最近の東京の活気を認めたうえで、それが決して東京だけのものではないし、また東京自身が作ったものでもないということを強調したいのである。  近年東京では、「東京テレポート構想」を初めとしてさまざまな都市改造プロジェクトが進められている。東京はドラスティックにかわりつつあり、その極端さを心理的に補うために「廃墟」や都市の壊滅が夢想されたりもする。かつて、東京オリンピックを機に東京が自動車都市に変貌しようとしていたとき、小松左京の『日本沈没』がベストセラーになった。今日、荒俣 宏の『帝都物語』がそれと似たような役割を果たしている。結局日本は「沈没」しなかったように、今度も「廃墟」とはならないだろう。破滅への夢想は、変貌の露骨さのバランスをとっているにすぎない。  こうした過剰な変貌の過程で、二一世紀の「地球の中心」は東京だといった論調が現われる。そもそも、世界の動向を「中心」で推し量るという発想自体とるにたりないものだが、わたしには、ここに新種のナショナリズムの萌芽が感じられてならないのである。いま東京には、国際的な企業の支店やオフィスが集中し、金融マーケットとしても重要な場所になりつつある。当面、東京の都市の賑わいが衰えることはないだろう。東京に賭ておいても損はない。しかし、賭を煽る者ばかりが目立ち、賭のまえやあとのことを語る者がほとんどいないのはどうしたことか。  ニューヨークの「ジェントリフィケーション」は、レーガン体制の初期のうかれた雰囲気のなかで一時的に都市を活性化したに見えたが、結局は、それまでに蓄積された都市文化を根こそぎにしてまった。このまま行けば、東京も同じ、あるいはもっと悲惨なパターンを踏むに違いない。それは、たぶん、賭を仕掛ける者は知っており、賭に巻き込まれる者だけが知らないのだろう。  わたしは、ここで「ジェントリフィケーション」の歴史的プロセスを参照しながら最近の東京論・東京改造構想の批判をやるつもりはない。批判を通じてその手助けをすることになるのはもうごめんである。それよりも、いま進行しつつある〈東京ジェントリフィケーション〉の裏側ないしは片隅で起こっているより射程の長い――つまり歴史の基本的な動向に根ざした――変化と活気を探してみたい。  東京がやがて「地球の中心」になるという野心的な予想のなかには、いま東京が「国際化」の度合いを加速させているという思い込みが存在する。むろん、ある意味ではたしかに東京は「国際化」してはいる。そして、国際化という点では、どんなに国際化してもしすぎることのない日本としては、この傾向は歓迎すべきものではある。しかし、それが、もし東京の都市生活の全面にわたる国際化だというのならば、ちょっと待ってほしいと言いたい。そんな国際化はまだミクロな部分でしか起きてはいないからである。  「国際化」という言葉は、中曽根前首相によって二〇世紀末から二一世紀にかけての日本の政治的日程に加えられた。しかし、その「国際化」が実にうわべだけのものであることは、彼の「人種差別発言」事件で明らかだ。また、彼は、日本学研究所設立に際して、「日本の経済力向上の背景を日本文化の伝統を踏まえて説明する場面などで諸外国首脳と渡り合うのに『日本学』(ジャパノロジー)の確立が必要だ」などと述べている。日本学は、日本文化を世界に共有させるためのものではなくて、たかだかパーティー・スピーチに色を添えるためのものなのだ。  国際化(インターナショナリゼーション)には、〈(領土などを)国際管理に置く〉という意味もあるように、何らかのスペースなり情報なりを共有することが含まれている。日本では、シンポジウムを開くとき、たった一人でも外国からの参加者がいるととたんに「国際シンポジウム」と銘打つのが習わしだが、これは、外からの参加者にもスペースを共有させるという意味では中曽根流の「国際化」よりはマシである。  いま言われている「国際化」は、日本企業の海外進出とセットになったものであって、日本の物理的・身体的・情報的スペースを外に向かって開放することではない。外から見ると、日本ほど定住しにくい国はないだろう。正当な法的手続きを踏んで市民になることが外の者には極度に制限されている。もし国際化を本気で唱えるつもりなら、そうした枠組を少しでもはずしてみたらよいだろう。そうすれば、別に海外旅行を煽らなくても、日本人は急速に本当の意味で国際化するだろう。  閉鎖的であることにかけては悪名高き日本にも、近年は、外国から来て〈住み着いている〉人々(普通の言い方では「外人」)の姿が目立つ。これはよいことだ。しかし、彼や彼女らを「日本人」と呼ぶようになるのはいつのことだろうか? 「日本人」が先天的な人種概念であるあいだは、日本の国際化はニセものである。  「アングロサクソン」であることと「イギリス人」であることとは同じではなく、「インド・アーリア」系の「イギリス人」もいるわけだが、「日本人」という概念においては、エスニシティーと国籍とが癒着している。「日本」という概念は、もともと統合概念として生まれたのであり、日本にもさまざまなエスニックのルーツが存在するのだから、「日本」という名称を国家統合以前のエスニシティーのレベルに適用するのは語の濫用である。  「日本人」が、日本人〈である〉ところの存在ではなくて、日本人〈になる〉ところの存在にならないかぎり、「外人」はいつまでもよそものであり、「日本人」はいつまでも「単一民族」であり続けるだろう。それは、しかし、擬制である。エスニシティーと国籍とが癒着した「日本人」という概念のために、日本のエスニシティの多様性も見えなくなっている。  八〇年代の後半から、東京では「エスニック料理」がブームになった。むろん、これも初めはタウン誌が引き金を引き、テレビが取り上げて広まったブームである。わたしは、この言葉がマス・メディアに現われ始めたとき、やれやれまたニューヨークのマネかと思った。ニューヨークでも、一九七〇年代になってエスニック料理ブームが起こり、それがやがて全米に拡がっていった。  ちなみに、ニューヨークにはさまざまな民族が住んでいるからもともとエスニック料理が一般化していたと考えるのは早計である。たしかに一九世紀にもエスニック・ピープルは多数いたが、七〇年代まではエスニック料理のレストランは実にマイナーな存在だった。 アメリカ合衆国は、一九二〇年代以降、ずっと民族統合の政策をとってきたのである。学校ではあらゆる民族に英語を教え、エスニックの文化を統合することが(それには成功しなかったとはいえ)一貫したポリシーだった。そういう状況のなかでは、エスニック料理は内輪の存在にならざるをえない。だから、エスニックのコミュニティーの内部ではむろんエスニック料理が食されていたが、それをみなが好んで食べるということはなかったのである。エスニック料理は珍しいものに属していた。  これが、一般化したのは、六〇年代の「民族解放」運動の昂揚と「ルーツ・ブーム」からである。ここには、下側からの動きがあったわけだが、エスニック・カルチャーが活気づいてくると、マス・メディアや食品・レジャー産業がこの動きに便乗し、「エスニック商品」をマーケットに並べ始めた。いまでは、とくにニューヨークでは、エスニック料理やエスニック・カルチャーは、それらの由来とはほとんど無関係の、単なる「多様な文化」の一部になっている。  ニューヨークのようにまだハイブリッドな社会・文化的条件を残している場所ですら「エスニック」の切り下げと人工化が進んでいるのだから、日本のようにアメリカ合衆国の何百倍もの効率で民族の統合をやり遂げてきた国で「エスニック」などという言葉が使われるときには、いくら注意してもしすぎることはないだろう。  案の定、日本の「エスニック料理ブーム」は、マス・メディアのレベルでは東南アジアの料理の流行で終わってしまった。「エスニック料理」の名のもとで紹介されたのは、主としてタイ、カンボジャ、台湾といった国々の料理であり、イタリア料理やロシア料理は「エスニック料理」には入らないのだった。  これは、日本におけるエスニック度の低さを表していると同時に、エスニック文化というものが単なる情報の流通によって定着するものではなく、生身の人間が持ち運んでくるものであるということを示唆している。「エスニック料理ブーム」は、単にマス・メディアによって仕掛けられただけのものではなく、近年東アジアから日本にやって来て定住する人々が増えた結果生じたものでもあるからである。だから、マス・メディアが以前ほど熱心に「エスニック・レストラン」を取り上げなくなっても、その種の店は、確実に増えつづけるはずである。  外来者に対する日本政府の政策は依然として極度に閉鎖的ではあるが、多角化する資本の論理はそれを許さないところに来ている。ポストサービス社会に突入し、〈肉体労働〉のコストがますます上昇していくにつれて、安い〈肉体労働〉が要求されてくる。資本主義システムの関数と見なされた「第三世界」の経済には、こうした「第一世界」での要求に応えて〈肉体労働者〉が出稼ぎをすることがあらかじめ見込まれている。日本がポストサービス化すればするほど海外から安い〈肉体労働〉が移入するだろう。その意味では、日本の国際化は時間の問題である。  だがはたして、これまで「単一民族」幻想でやってきた日本は、こうした資本の論理に耐えうるであろうか? ひょっとして、どこかで「壌夷」や「逆コース」が復活すろようなことはないだろうか? また、こうした大きな転換の時機に臨んで資本が要請するパターンとは違った何か新しい進路はないのだろうか?  具体的なコンテキストに沿ってこうした問いの現実と可能性とを追ってみよう。



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