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グランド・ゼロ

『グランド・ゼロ』は、実際に起こった事件を題材にしている。一九五〇年代にオーストラリアで行なわれたイギリスの核実験によって多くのアボリジニ(原住民)と研究員が被曝し、死亡者を出したことは、一九八〇年代まで英豪両政府によって周到に隠されてきた。映画は、これが、逃れようのない国家犯罪であったことをリアルにあばいていく。
 しかし、この映画は、そうした実際の事件の重みによりかかってリアリティを作り出しているわけではない。それよりも、この映画のなかでCFカメラマンの主人公ハーヴィ・デントン(コリン・フィールズ)が、ふとしたことから彼の行方不明になった父親(ドキュメンタリー・フィルムのカメラマン)が核実験の現場を撮影していたことを知り、その所在を探し始め、最後に……するプロセスがスリリングでリアルなのである。
 だから、この映画は、「反核映画」とか「体制批判的」な映画とかいう形容よりも、「ポリティカル・ミステリー」と呼んだ方がよいだろう(ミステリーだから、筋書きや結末はあえて書かない)。
 デントンは、カメラマンだから、フィルムのことには熟知している。映写機や編集機が並んでいる彼のロフトでは、テレビを見るように16ミリフィルムを映写している。だから、この映画がフィルムをめぐって展開するのは当然であり、たとえばデントンがフィルムライブラリーに忍び込んで問題のフィルムを探そうとするシーンなど説得力がある。
 従って、また、デントンの闘いは、単に「正義」や「人道主義」のための闘いではなく、フィルムをめぐる(フィルムを隠蔽しようとするイギリス政府やオーストラリア安全保障情報局ASIOに対する)闘いであると考えた方がおもしろい。
 映像をめぐる隠蔽と暴露−発見という観点からこの映画を見ると、その最初のシーンからしてなかなか暗示的である。
 光物体のようなものが画面の左の方に見えたかと思うと、やがてそれが大きくなり、画面を横切って行く。ヘリコプターだ。大きなクレーンが何かをつりあげている。一瞬それは宇宙船のように見えるが、すぐにそれは、砂漠から掘り出された飛行機であることがわかる。ガイガーカウンターをもち、白い防塵服に身を固めた男たち。次の瞬間、毒々しい色のホットドックを模した縫いぐるみの女たちが街の広場でノーテンキな歌をバックに踊っている。カメラも見える。CMの撮影である。「カット!」演出はうまく行かず、カメラマン(デントン)は、あきれてカメラをヤジウマに向け、ノゾキを楽しむ。画面は替わり、夕暮れのハイウェイを彼が車を走らせている。「バカバカしいCMだけど、ギャラはいつもベスト……」先程のCMソングにあわせて鼻歌を歌う。
 やがて展開するドラマの核心となる一九五三年の核実験の隠された秘密、そんなことを無視しつづけてきたノーテンキなマスコミ、それから主人公となる人物のバックグラウンド−−これらを凝縮したこの数分間の諸カットは、誰の目で構成されているのだろうか? むろん、デントンの目と意識とからである。ここには、実際の記録フィルムからのものも含まれているわけだが、その出所は問題ではない。それらがデントンの視点から再構成されることによって生じる方向と力が、この映画の性格を決定し、その政治性を基礎づけているのである。
 オーストラリアの映画は、一体に、『クロコダイル・ダンディー』のような映画ですら、現状をサメた目で見る批判性とある種の政治性をもっている。それは、ここ二十年間のオーストラリア社会の変化と関係があるが、同時に、その間に蓄積された映像文化の成果でもある。あえて記さない最後のシーンを見るためだけにでも、映画館でこの映画を一見する価値がある、とわたしは思う。
監督=マイケル・パティンソン、ブルース・マイルス/脚本=マック・グッジョン、ジャン・サイデル/出演=コリン・フリールズ、ジャック・トンプソン他/88年豪・米◎90/ 5/11『STUDIO VOICE』




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