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スウィート・ムービー

 政治的な映画にとって重要なのは、政治的な事件ではなくて、政治を根底から動かすような新しい感性であり、思想である。
 それらは、しばしば「革命的」な事件のなかで顕在化するので、「政治的」な映像作家は、「革命」を好んでとりあげることになる。が、問題は、「革命」を待望し、賛美することではなくて、「革命」と呼ばれる出来事のなかであらわになるものに「革命」とは別の——つまり「革命」よりもふさわしい——形を与えることなのだ。
 ドゥシャン・マカヴェイエフの『スウィート・ムービー』は、一九七〇年代後半にヨーロッパの都市で起こった「アウトノミア」運動やスクウォッタリング(空き家占拠)運動を暗黙の前提にしている。女神のようなアンナ・プラネットを乗せて運河をすべっていく「サバイバル号」は、水の上のスクウォッタリング・ハウスである。
 当時、ヨーロッパの多くの都市では、空き家に勝手に住み込むスペース奪還の新しい運動が展開し、とりわけベルリン、アムステルダム、ローマなどでは、そうしたスクウォッターたちによる解放区が出来上がった。そこには、学生、放浪者、パンクス、工場労働者、政治活動家などがたむろし、ときにはそこが、政治闘争の拠点やライブパフォーマンスのスポットになることもあった。イタリアで七〇年代後半に活発になった自由ラジオ運動は、大抵、局をスクウォッターした建物のなかに作った。
 しかし、「サバイバル号」には拡声器はあっても、ラジオ局はない。「サバイバル号」が、七〇年代後半のフリー・スペースよりも、六〇年代後半のコミューンへの近さを感じさせるのはこのためだろう。そしてこのことが、この映画の方向をやや消極的なものにしている。
 マカヴェイエフにとって、欲望の解放は一貫した主題であり、ウィリアム・ライヒへの彼の執着もここから来る。しかし、ライヒ的な欲望論は、結局、アナーキーな欲望の暴発がもたらす「人民寺院」的な破滅のディレンマを解決することが出来ない。
 事実、『スウィート・ムービー』は、アナーキーなセックスと、期せずして生ずる集団殺戮とが表裏一体のものとして映像化されている。そしてその根底には、欲望の解放=祝祭への執拗な願望とおさえがたい懐疑がある。
 七〇年代後半から展開し始めた新しい「革命」運動は、欲望の解放をもはや「祝祭」のなかに求めない。欲望の解放は、フェリクス・ガタリが「欲望機械」と名づけた欲望の無意識層でのネットワーク化のなかで起こる。
 ただし、殺され、ビニール袋に入れられた子供たちが生き返る最終シーンは、マカヴェイエフの関心が、「機械状無意識」としての子供の変化のなかに最も根源的な変化を見ていることを示唆しており、これ以後の作品への期待をかきたてるのである。
監督・脚本=ドゥシャン・マカヴェイエフ/出演=キャロル・ロール、アンナ・プリュックナル他/74年仏・カナダ・西独◎89/ 2/ 8『月刊イメージフォーラム』




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